今帰仁と戦争(企画展)         2013.05.16     トップ(目次)へ

                                 展示企画 仲原 弘哲(当時職員)
                                       石野 裕子(当時職員)
                                       玉城 ナミジ(当時臨時)
                                       上地 美和(大阪大学院生)


企画展示の様子(一部)








 

 


・忠魂碑の建立、戦後慰霊塔の建立(慰霊塔のある字)
・仲原馬場での兵士の送迎会
・戦時債権
・千人
・外地での戦死者の村葬
・10.10空襲の前後

・戦争遺跡
  渡喜仁のハキジヌメー
  ワルミのテラ碑
  源為朝公上陸址碑の弾丸跡
  山北城跡碑の弾丸跡
  住民の避難壕跡(アブや壕)

・仲嶺盛治氏/諸喜田福康氏の戦中・戦後の記億(『なきじん研究』15号掲載)

・古宇利小記念誌
・今帰仁小記念誌
・天底小記念誌
・湧川誌
・古宇利誌
・渡喜仁
・仲宗根誌
・運天誌(原稿)
・謝名誌
・越地誌
・崎山誌
・仲尾次
・与那嶺誌
・諸志誌
・今泊誌

運天港(第27魚雷艇隊

 

・諸志の戦前、戦後の資料

・運天港と魚雷艇
・昭和18年の前しょう戦資料(陣地構築など)
・三中学徒の演習の写真(今帰仁グスク鳥居の前/今泊のミチバタガンサ)
・戦後の帰郷の様子
・戦後の村議会資料
・今帰仁村史
・字誌から
(古宇利・湧川・玉城・仲宗根・運天・謝名・越地・崎山・仲尾次・与那嶺・諸志・今泊)

・新城徳祐資料(大浦崎・伊江島徴収日記など
・仲宗根政善資料
・玉城幸五郎資料
・学童疎開
・満州移民
・外地引揚者(サイパンなど)

・運天の戦争調査(聞き取り)
・沖縄県史
・沖縄現代史への証言(上・下)新崎盛暉(沖縄タイムス)

・記念誌―今帰仁小創立90周年―(島袋善恒 学童疎開引率)
・今帰仁村史 


伊江島飛行場建設(新城徳佑氏ノート)

 昭和19年の伊江島飛行場建設に各地から動員された員数を記録したものである(仮称:新城徳佑メモとする)。メモの内容からすると「第502特設警備工兵隊」である。生存者名簿があり、聞き取り調査が可能である。
 ノートのメモは昭和19年5月23日から10月10日の十・十空襲までのメモ書きである。伊江島飛行場建設に動員されたのは久米島・国頭・名護・屋部・羽地・金武・恩納・伊平屋・国頭女子挺身隊・伊江島・伊是名・本部からである。メモには総員先・動員数・人夫・馬車・草取り・芝植え・測量隊・松根掘り取り・池土掘り・北場方向滑走路・東飛行場へ移動などがある。10月10日のメモは以下のように記してある。メモを整理してみることに(一覧表作製中)。
 10月10日、午前7時頃 敵空50機来ル。撃サル。北西ニ逃ゲ、十四、五回機銃ショウシャヲ受ケ、ヨウヤク安全地ニ付ク、一夜ヲ松林デ明シ11日十二時頃石川傳次郎、平敷ノ與那嶺林栄ト共ニ字内ニ帰ル。伊江島ニテ12日午後三時頃與那嶺蒲吉二人クリ舟ニテ家ヘ帰ル。
   北風波高シ、本部桃原ノ下浜ニ着ク頃五時頃。家着時七時頃

 
  ▲昭和19年7月15日、17日のメモ   ▲伊江島飛行場滑走路の図

 下の画像は昭和30年頃の伊江島の様子である(一部)。(メルビン・ハッキンス氏撮影:寄贈:歴史文化センター蔵)。

 

・米軍が水陸両用戦車で運天港に上陸

 戦後五十年の節目に各地で行われた催物が一段落し、世界のウチナーンチュ大会の熱気が冷めやまないこの頃である。明治・大正・昭和(戦前・戦後)に外国や他府県に今帰仁村から多くの方々を送り出した。世界のウチナーンチュ大会に参加し、今帰仁村歴史文化センターまで足を運んだ方々は歴史文化センターの展示をくいいるように見ていかれた。そこに自分たちの存在、そして歩んだ歴史をしっかりと確認していく姿があった。悲惨な戦争をきっかけに外国に移民した方々も多い。

 今帰仁村も戦争の被害を受けたが、運天港には設営隊の山根隊と蚊竜隊、それに第十七魚雷艦隊の三つの部隊がいた。魚雷艇を格納する壕堀りに古宇利島の女性たちも動員された。その壕の中から海の方へ魚雷艇を運ぶレールが敷かれていた。

 昭和19年10月10日の米軍機による大空襲によって、運天港も爆撃を受ける。昭和19年8月から9月にかけて運天港に進出してきた第二十七魚雷船体(白石大尉)の魚雷艇十八隻のうち、十三隻が空爆で失われたが、後十八隻まで戻した。

 白石隊は3月27日の晩に残波岬沖、29日には伊江島沖へ出撃。対する米軍は30日約200機余りの艦載機で運天港を爆撃した。その際、隠してあった魚雷艇は全滅した。第二十七魚雷艇は陸上戦に移行していった(『今帰仁村誌』『沖縄戦と住民』参照)。

 当時の様子を「魚ですね。湧川の内海、我部集ですね。家の長男が三中三年でしたから家に帰され、一週間に一回羽地の本部敵情報告するようになっていた。木の枝をかぶって羽地の帰りにカツオを持ってきてあったが、石油くさくて食べられなかったよ」(宮里政正氏、越地)、「海軍が十一名か戦死しました。十・十空襲の日に。あの時は、石油とか重油とか流れて、魚をとって来ても食べられなかった」(与那文子さん、天底)などと語っている(『沖縄県史』10沖縄戦記録2所収)。

 写真は海軍白部隊の魚雷艇基地のあった運天港に米軍が上陸した4月23日頃の場面である。水陸両用戦車数台が運天の海岸に接岸し一部は上陸している。戦車の上に姿を見せている米兵には余裕がある。材木が散乱しているが、それは日本軍が残していったものだろうか。

 左手に大きなコバテイシの木があり、葉を落とし白っぽい枝を見せている。このコバテイシは今でも船着き場の近くに枝を広げている。まさに米軍の猛攻撃、そして米軍の上陸を目の当たりにした木である。右手には瓦屋根の建物がみえるが、「戦前、その建物は日本軍が事務所に利用していたが、米軍が上陸した後は壁板や床板を取り除き米軍が利用していた」という。後方の丘は松が並木をなしている。右手には源為朝公上陸之跡碑がある運天森である。

 運天港の魚雷艇基地が米軍の爆撃で破壊された後、ゲリラ隊が組織され、嵐山や八重岳や多野岳などの山中を転々とした。白石部隊が旧羽地村(現在名護市)の古我地地区に投降したのは、8月15日もとっくに過ぎた9月3日のことであった。


一軍人の仲原馬場での村葬と墓 

  この写真は昭和13年11月7日、仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬の場面である。乙羽山の遠景がみえることから、祭壇のある場所は仲原馬場中央部の南側と見られる。石段の上にテント屋根の祭壇がつくられ、祭壇の中央部に写真がかざられ、下の段には果物が供えられている。祭壇の横には「村葬の式次第」が張られ、また両側には長い竹竿にノボリが20本余り数えることができる。 前方の看板には、兼次校・婦人会・字民・今帰仁校などとあり、村民あげて葬儀を行なったことがわかる。丸刈りの少年や大日本国防婦人会のたすき掛けの婦人の姿などがみえ、写真の左側には団体旗とみられる旗と、帽子に詰襟の制服姿がみられる。

戦時体制下の波が山原の隅々にまで行きわたり、一軍人の葬儀以上に全体を流れる軍事一色の不気味さが漂ってくる。大日本国防婦人会は昭和17年に愛国婦人会や大日本連合婦人会などとともに大日本婦人会沖縄支部に統合された。婦人たちも映画会や講演会を開いたり、戦没者の報告や出征軍人の送迎から慰問品などの発送などの活動をした。また、生産の増強や貯蓄を積極的にするなど挙国一致運動を進めたりした(『沖縄近代史辞典』)。大日本国防婦人会のメンバーが、仲原馬場での行なわれた一軍人の村葬へ列席したり遺族に物品を贈るなどの活動をしたのである。
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    ・昭和6年  満州事変を引き起こす。
    ・昭和12年  日華事変となる。
    ・昭和13年  国家総動員法を公布する。
    ・昭和15年  大政翼賛成会が発足する。
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  このような時代の流れの中で、昭和13年に仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬は単なる一軍人の葬儀ではなく、戦時下に組み込まれていった一時代を写しだしているのである。下の写真は、村葬を行なった一軍人である湧川高一の墓を造っている最中である。ピータイ(兵隊)墓とも呼ばれ、今帰仁村で外地で戦死した三人目が湧川高一であったという。その墓の前を通るときによく敬礼させられたという。その墓は今でも謝名のトーヌカ付近にある。

  墓を造っている中に右手後方の棒を持っているのが湧川喜正(故人)、諸喜田平吉(故人)兼次吉正(故人)、玉城徳助、大城善盛、湧川高信(故人)、幸地良徳(故人)、玉城権五郎(故人)、湧川喜福(故人)、大城文五郎(故人)などの顔ぶれが見られる。当時の墓づくりの道具の一端を写真にみることができる。バキに綱を通して二人で担ぐ、すでにセメントが出ている、スコップや三つ歯や一枚歯のクワなどがみられる。そのような道具で、当時としてはりっぱな墓を造っている。服装は個々まちまちで、年配の方々が着物、若者たちはズボンでほとんどが裸足である。モダンな帽子をかぶった方、ねじり八巻をした方、タオルをかぶった方など様々である。

  昭和13年頃の仲原馬場の松並木、この写真と比較してもわかるとおり、今では大木の松の数が少なくなってしまった。仲原馬場は、ある時代にあってはアブシバレーの会場であったり、そこで競馬をしたり、運動会をしたり様々な催物の会場になった所である。写真のように一軍人の葬儀の場としても利用された。イラン戦争が勃発している最中、仲原馬場の松はイヤな気持で世界の状況をながめているような気がする。

 

・仲宗根先生が収容される経路(喜屋武岬→豊見城村→那覇→野嵩収容所(宜野湾)
 →石川→古知屋(松田)→大浦崎 

・「語りつぐ戦争」 大浦崎小唄(作者不明となっている)新城徳佑氏か


・今泊消防団の結団式(今泊馬場跡)

 沖縄戦で米兵が戦利品として持ち帰り、戦後五十年経って返された品々が「返還された資料展」として北中城村で開かれた。アルバムや写真、寄せ書きされた日の丸・武運長久の千人針・お守り袋・位牌・印鑑・教科書などの品々がある。展示会には戦争を体験された方々が数多く訪れ、家族や友人などの写真がないだろうかと、熱心に見入っていた。会場のあちこちで写真と自分の体験を重ねる声が聞かれた。

 展示された資料の中に今泊の馬場跡(大道)で撮影された写真が含まれていた。昭和八、九年頃の「今泊消防団の結団式」の場面である。字今帰仁と字親泊の二ヶ字で「今帰仁消防団」が結成された。

 コバテイシの枝や福木の並木、石垣、竹を編んだチニブなどが見え、馬場跡付近の様子の一端が伺える。写真の中央部後方にかすかにみえるのは、消防機具を収める格納庫とサイレン塔である。その建物は昭和7年頃に建てられ、盛大に落成式が行われた(『今泊誌』)という。右手に消防団の団旗が見える。

 馬場跡いっぱいにむしろを敷き、最前列に平敷兼仙氏、玉城精喜氏、仲宗根新一郎氏の三人が座り、二列目に仲宗根加奈氏、玉城幸五郎氏、玉城精五郎氏、嘉手納善五郎氏、宮里喜一氏、仲本吉次郎氏、古波蔵源五郎氏などが並ぶ。後方には上間信夫氏や新城盛二氏など70名の姿が見られる。二列以降には「今泊消防組」の文字の入ったハッピを着た消防団員が並ぶ。

 三列目の山城宗雄氏は兼次校の校長、二列目の大山朝常氏は主席訓導で後のコザ市長。平敷兼仙氏は訓導で「御案内」を著わし兼次校の校歌を作詞、玉城精五郎氏は役場の収入役、玉城幸五郎氏は昭和12年に村長、宮里喜一氏は昭和17年に県議、最前列の玉城精喜氏は戦後校長を務めた方である。

 人物の中に昭和4年から同13年まで兼次校の校長を務めた山城宗雄氏の姿や昭和八年に台湾から帰郷した宮里喜一氏がおり、また昭和七年頃に建立された消防の格納庫が見えることから昭和8年から同13年までの間と見られる。最前列の中央部に座っている玉城精喜氏は昭和8、9年頃ではないかと記憶をたどる。

 消防団員や村の有志の方々の他、校長や先生方々の結団式への参加は時代を反映しているかもしれない。

 元米兵の戦利品が戦後50年目にして返還された。この写真を手がかりに写真に登場する玉城精喜氏(89才)から昭和何年だったか、どこで、何の日だったかを伺ってみた。六十年前の出来事は、記憶のはるかかなたに消えかかっている。幸いに親川繁氏(今泊)が一人ひとりの名前の聞き取りをはじめている。

 写真に写っている70名の方々の何名が戦争をくぐりぬけることができただろうか。園方々は戦後村や字の中で大きな動きをして来た。戦後50年という節目の6月23日を前にして戦争をくぐり抜けてきた方々の一言一言に耳を傾けている昨今である。


【沖縄戦の時の古宇利小・島の様子】

 ・昭和19年4月 学校名は古宇利国民学校。瓦ぶき校舎、カヤふき校舎もあった。
 ・昭和19年8月日本軍守備隊が今帰仁に駐留する。陣地構築などで動員がかかる。
 ・昭和19年9月頃伊江島飛行場の設営で生徒が徴用される。
 ・昭和19年10月10日に沖縄全島で米軍の空襲が始まった。
 ・米軍の飛行機がひっきりなしに攻撃してきた。
 ・最初のころ、日本軍の演習だとおもって、命中するたびに西側の森でバンザイバンザイをしていた。

 ・アメリカの飛行機だとわかると、カネがガンガン、ガンガンうちならされた
 ・全校生徒は泣くもの、走るもの、家に帰るものなど、大混乱となった。
 ・学校の東側の防空壕にかくれたもの。回りのコウ(ガマ)や岩かげなどにかくれたもの。
 ・10・10空襲あとは、毎日のように空襲があり、動いているもの、馬や豚やヤギなどをめがけ
 て爆撃してきた。

 ・多くの家が家庭用の防空壕をもっていたようだ
 ・古宇利島の沖合に待機していた米軍の軍艦から発射された火球が愛楽園に落ちて行くのをみた。

 ・愛楽園と運天港の爆撃は激しかった。
 ・10・10空襲で那覇の町の90%が焼ける。五万人が焼きだされる。全県で死者800人、家屋15,000軒余が  全焼。

 ・古宇利島では校舎や拝所、民家などが被害をうける。
 ・10・10空襲後、天気がいいとB29偵察機がやってきた。
 ・昭和20年3月末になると空爆や艦砲射撃が激しくなる。岩陰や防空壕に避難しつづけた。

 ・昼間は壕にかくれ、夜になると壕からでて芋掘りややさいなど食べ物さがし。
  井戸からの水汲みは敵の焼夷弾の明かりを利用。
 ・壕の中の生活はモグラと同じ、ノミ・シラミ・ギンバエなどが異常発生。
 ・島の人達は、家庭の防空壕や岩場など、あちこちにかくれ、かくれしていた。

 ・昭和20年5月20日午後3時頃、艦砲射撃がトゥンジ浜に結集していた青年団に犠牲者がでた。

 ・どこも危ないということで、多くの住民がスルルガマに移動した(ガマの入口は大潮の
 干潮時にしかみえない)。

 ・スルルガマに隠れて数日すると、スルルガマの外で銃声が聞こえ「出てこい、出てこい」「命は
  たすけてやる」と呼びかけられた。

 ・スルルガマの中は騒然となり、東と西の口から逃げ出すのもいた。

 ・昭和20年5月19日、20日に米軍の掃討戦があり、島の人々は水陸両用戦車2台で羽地の
  田井等に収容される。

 ・戦争前は島から関西に出稼ぎや移民した人達(ペルー・ブラジル・アメリカなど)から送金が
  あり、またも模合などをして 資金をつくっていた。半農半漁であった。

 ・はだしでノーパン
 ・芋とミシンシル(味噌汁)
 ・かやぶき家で掘っ立てつくり、アダン葉のむしろ
 ・学校の弁当(昼食:芋三、四個)
 ・トイレのおしりふきはユナの葉

 ・草刈り・芋掘り・水汲み・家畜のえさやり・海に行ってイモ洗いなど  
 ・古宇利島の人達の避難は、屋我地の親戚や知人友人を頼って、物置や豚小屋などを利用さ
 せてもらった。

 ・屋敷の片隅や空き地にほったてこやをつくり、食料は古宇利島から運んで生きのびた。
 ・昼間は屋我地島の人になりすまし、荒地をたがやし、芋を植え、夜になると舟を漕いで島に渡る。
 ・芋や野菜をとり、隠しておいた穀物や塩、砂糖、味噌などを分けて持ちかえり飢えをしのいた。

 ・古宇利島への帰島は昭和20年11月半ばに許された。
 ・島への引き揚げると、島の人達は生き返ったように元気をとりもどし松やモクマオウを切り
  だし、茅や ススキを刈って家をつくった。

 ・米軍がひきあげた跡地に行って、テントや棒、板材や角材、ハンマー、ツルハシ、スコップ
  毛布や布団、HPTの服や帽子、パンツや軍くつ、水筒、缶詰、タバコ、ダイナマイトなどを
  「戦利品」としてあげてきた。

 ・戦利品をもって与論島や沖永良部島に密航し、子牛や豚、ヤギ、鶏などの家畜を持ちかえり
  家畜はどん どん増えていった。
 ・戦後の学校が開かれたのは昭和20年12月3日であった。

 

(古宇利誌/古宇利小学校記念誌など) 

【今泊の慰霊塔】

 昭和24年今泊集落を見下ろせるパナファーイに青年団のよって建立された。慰霊塔の建立は京都在の玉城仙一氏、大阪の新城源三氏、地元の玉城幸五郎氏の間で話がもたれ、区民一同で建立することになった。 

 標柱の記録

表 慰霊塔  一一九柱(指名)
裏  支那事変   大東亜戦争   百拾九十九柱之霊
          西暦一九四九年六月一三日竣工
          今泊青年団

 

【兼次の慰霊塔】

平成1410月に戦没芳者名を改修。鳥居に「御郷之搭」とある。

  

 
【諸志の慰霊塔】昭和24年に青年団や消防団によって建立。 

  

  

【与那嶺の慰霊塔】1999(平成11)年に再建

 

【仲尾次の慰霊塔】昭和28年に建立 

 

  

【崎山の慰霊塔】昭和30年に建立、昭和53年に再建される。 

 

【平敷の慰霊塔】 

【謝名の慰霊塔】

 【越地の慰霊塔】 

【玉城の慰霊塔】 

【呉我山の慰霊塔】

【湧川の慰霊塔の建立】昭和31年に建立、毎年623日に慰霊祭(『湧川誌』)

 昭和2010月下旬になって、収容地から全員湧川に帰ることができた。今帰仁村では湧川区が一番早い帰郷であった。帰郷後は食料生産、区事務所造り、学校造り、それに配給所造りに一生懸命でした。 

 昭和26年から消防団で慰霊塔建立の話がでたが、建設費や労務の事情で三、四年がすぎて昭和30年の8月やっと工事が始まった。工事責任者は嘉陽宗平氏、消防団長で嘉陽宗三氏であった。

 慰霊塔の建設費は、字民や中・南部に出稼ぎしている字出身者から募金して充てた。金額は定かでないが、B円の三千円ほどだったと思う。日数は36日間で完成した。

 後日、今帰仁村の慰霊塔が建立されるとにあたり、湧川も合祀するよう村から連絡を受けたが、湧川の慰霊塔は、字内の戦没者の各家庭から香炉の灰を集めて上塗りしてあるので、その事情を申し上が合祀を取り止め、毎年、六月二三日の慰霊の日には区民独自で慰霊祭を行っている。慰霊塔に祭られている御霊は233柱である。

 

  

【南海の塔】

 第二次大戦の沖縄戦では、湧川地区でも多数の犠牲者が出た。地元関係の方々は、早速その関係者によってそれぞれ埋葬されたが、その他の軍人軍属あるいは身元不明の民間人はそのままの状態が二、三年続いた。

 昭和232月青年団(神谷春吉団長)は、湧川地内の犠牲者の遺骨を集骨した。当時、収骨したのは民間人女性を含めて10人であった。

 ・武下 一(海軍中尉)(大分県出身)(嵐山)
 ・和田常吉(上等機関兵曹)(嵐山)
 ・稲田正美(一等主計兵曹)(嵐山)
 ・和田   (上等兵)(川竿)
 ・藤本   (海軍軍属)(川竿)
 ・上原   (陸軍兵曹)首里出身(ガジマン堂
 ・熊谷   (陸軍兵曹)(印鑑熊谷あり)(長竿)
 ・名前不明  (陸軍兵曹)(荻堂山)
 ・名前不明  (陸軍兵曹 (我部井)
 ・民間人   (女性)(川竿) 

【ワルミのテラの碑(ウタ)】

 

【天底の慰霊塔】

 

【勢理客の霊塔】

 

【渡喜仁の慰霊塔】

【上運天の慰霊塔】

 【運天の慰霊塔】

【古宇利の慰霊塔】

 

※「今帰仁と戦争」