沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   今帰仁村歴史文化センター

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2021年6月10日(

本部間切の番所と同(主)村(首里城より渡久地村番所迄18716才)

 伊野波(本部)間切は1666年に今帰仁間切から分割して伊野波間切を創設し、1667年に伊野波間切を改称して本部間切となる。分割以前の今帰仁間切の番所は今帰仁グスク内(あるいは隣接)にあったのではないか。その可能性がある。分割した当初は伊野波間切の番所は伊野波村にあったと見られる。1667年に間切の名称を本部間切とするが番所は、まだ伊野波村にあったと見られる。1731年の『琉球国旧記』の「本部駅(本部番所)」の本部邑(村)は本部間切の同村の伊野波村を指しているとみられる。少し後の「薩摩藩調製図」(173750年)では、本部間切番所は渡久地村に移っている。

 間切番所は伊野波村から渡久地村に移るが、本部按司や惣地頭はそのまま伊野波村の祭祀と関わっている。番所が伊野波村から渡久地村に移っているが、そこでも同村での祭祀の移動はなかった。伊野波村のカナヒヤ森での麦穂祭や稲穂祭の時、惣地頭が関わっている。つまり首里に住んでいる本部按司や本部惣地頭は本部間切の番所のある伊野波村の祭祀に供え物を提供し、番所が移った渡久地村での祭祀とは関係していない。その痕跡として伊野波神社(お宮)はウルン(御殿)と呼ばれている。伊野波村での祭祀に間切中のノロやサバクリ、オエカ人、脇地頭が集まってウガンをすることがある。

本部按司 家禄百五十石 物成四十九石余
           領地 本部間切作得三十七石余
      伊野波親雲上 家禄 四十石 物成二十四石余
           領地 本部間切作得二十八石余

 本部町伊野波は伊野波・並里(満名)を頭に入れてみる必要がある。1666年以前は並里と満名は伊野波村に含まれていたようである。そのため伊野波村の『琉球国由来記』(1713年)の御嶽は伊野波なのか、それとも並里なのか。もちろん複数のウタキがあっていい。ノロ殿内が伊野波村と記されているが並里村にあった可能性もある。そういう意味で、どの場所(村)にある拝所なのか、その確認と特定が必要である。伊野波と並里(満名)を含め、拝所の特定と祭祀(シニグイ)の調査をしてみた(別報告予定)。

【間切と主村と祭祀(按司・惣地頭)本部間切伊野波村(並里村含む)の事例

 『琉球国由来記』(1713年)から間切と同村、そして同村の祭祀と按司や惣地頭との関わりについてみてきた。按司や惣地頭と祭祀との関わりは、按司や惣地頭、あるいは両惣地頭として出てくるが、それはほんの僅かで、その内容については全く記されていない。按司や惣地頭が祭祀に関わるのは何故なのか。

 そこで別資料から、ここでは本部按司と本部惣地頭と伊野波(本部)間切との関わりを記すことに。ただし、『琉球国由来記』(1713年)には本部間切伊野波村のカナヒヤ森での祭祀に惣地頭のみで按司は登場しない。並里の御嶽の香炉に「奉寄進 咸豊九年 本部按司 渡久地仁屋」とあるのは、並里村が主村伊野波村内だったことに起因しているのか。

  祭祀が国を統治する巧みな仕組みだと位置づけている。そのことを「本部間切内法」から見てみる。伊野波(本部)間切伊野波村(主村)と本部間切内法から首里王府(両惣地頭)との関わりでみることに。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃)のノロクモイ員数は伊野波村二人(根神一人、嶌ノ大屋子一人)、満名村一人(根神一人)、並里村一人(ノロクモイ一人)とある。また三ケ村の拝所は七ヶ所(伊野波ノロ殿内、タンタ御嶽、赤崎御嶽、満名村根神火神、嶌ノノロ殿内小、同所御嶽、同村御嶽)である(『琉球国由来記』(1713年)には並里村と満名村が登場していないので、拝所の特定・確認が必要。ノロも伊野波村から並里村に移ったのか?)。  
 以下に間切内法や各村内法の条文を掲げるのは、『琉球国由来記』(1713年)の按司や惣地頭が関わる祭祀を揚げているが、間切と按司や惣地頭との関わりは、間切の統治と関わっていて祭祀はその一部であることをいつも念頭に入れておく必要があるからである。そのような勤めに対して領地や作得(給料?)を得ているということ。旧慣制度の役人の昇級などに惣地頭が関わっているのをみると、惣地頭が祭祀ばかりでなく、山原にやってきたときに最大にもてなす理由は、そこにあるような・・・。
 
  本部按司とある香炉(咸豊9年)(並里)     並里の御嶽にある香炉

 
後方手前の森が並里の御嶽                 並里の神アサギ

【沖縄県旧慣制度】
 ・地頭代ハ物奉行、仝吟味役ノ指揮監督ヲ受ケ諸令達ヲ執行シ部内ノ行政事務ヲ総理ス惣耕
  作当惣山当以下ノ進退賞罰ハ両惣地頭ニ又ハ耕作ニ関スル吏員ニ在リテハ田地奉行等ヲ
  順次経由シテ物奉行ヘ具上ス
 ・両惣地頭は間切役人のほとんどの選任・資格・昇級順序に関わる。
 ・事例(地頭代・仮地頭代・惣耕作当・惣川頭当・勘定主取・津口横目・夫地頭・首里大
  屋子・掟など)
  地頭代ハ仮地頭代、惣耕作当ノ内人物勲功等下知役、検者ニ於テ取調両惣地頭ノ検閲ヲ
   受ケ田地奉行、物奉行ヲ経テ三司官ニ具上・・・
 ・掟ハ両惣地頭奉公人並文子ヨリ人柄勤功等下知役、検者、地頭代ニ於テ取調両惣地頭
  検閲ヲ受ケ物奉行ヲ経テ三司官ニ具上シ藩王之ヲ命ス資格ハ両惣地頭公人並文子ニ限
  ル昇級ハ西掟又ハ夫地頭ニ進ム

【農務帳】
 村耕作 惣耕作之下知 不請付候はヾ 両惣地頭に付て 高奉行へ可申出事
  (村耕作当が惣耕作当の命に従わない場合、地頭代は両惣地頭に報告し、両惣地頭は高
   奉行に申し出なければならない事)


【本部間切内法】

〔第31条〕
 年中諸祭祀日撰言上写見合月々其日三日前村々へ触可差通若間違ノ義有之候ハヽ吟味ノ上其取扱可致候
〔第33条〕

 職賦ノ義毎年十二月中限リ賦リ付地頭代入調部頭御役衆御案内ノ上日限通取納座両惣地頭
 へ可差出候若彼是日限及相違候ハヽ番毎捌吏へ科銭拾貫文可申付候
〔第83条〕
 耕作当鍛冶細工船刳細工船築御位オカヅ差出候様御問合相届候ハヽ勤功並ニ札歳能々取調寄書相認メ地頭代入調頭御役衆御印申請両惣地頭御印添可差出候自然日限及相違候ハヽ科銭拾貫文ツヽ可申付事
〔第88条〕
 山師山当仮山当山工人御位オカヅノ義各勤年数宛札止木等能々見合毎年九月朔日限リ取調
 寄書相調地頭代入調山奉行御印申請両惣地頭御印押可差出候自然日限及相違候ハヽ科銭
 拾貫文可申付事

【本部各村内法】
【第1条】
 夫地頭掟ハ平常曖村ヘ出張第一身分ヲ慎ミ万反正道ニ相勤メ百姓中ノ規鑑ニ相成候様左候テ
 農業山工等引励シ年貢諸上納者無滞所中習俗等引改メ・・・・・・糾方之上頭御役両惣地頭御差図ヲ以テ重キ御取扱可被仰付事

【第92条】

 旧両惣地頭地割模方法ハ従前ヨリ面々ヘ・・・ 

【本部町渡久地】
 1666年今帰仁間切を二分して伊野波(本部)間切を創設する。その時、伊野波間切は伊野波村に番所を置いた。その時、向弘信(本部王子)と毛泰永(伊野波親方盛起)が惣地頭になっている。それら惣地頭と間切との関係は、地頭地というのがあり、そこから収益する三分の一が惣地頭・脇地頭(耕すのは百姓)へ。三分の一が王府へ。残りの三分の一が百姓という割合である。首里に住んでいる惣地頭や脇地頭と間切や村との関係は、首里王府が間切や村を統治する視点から見ると密接な結びつきがある。

 本部町渡久地は『琉球国由来記』(1713年)で渡久地村として登場する。渡久地村にヨケノ嶽とアカラ森の二つの御嶽が記されるが、年中祭祀は何ら記されていない。後に村名が消えてしまう具志川村、渡久地村の御嶽は具志川ノロの管轄である。『琉球国旧記』(1731年)の本部郡(間切)の駅(番所)は渡具知邑(渡久地村)である。

 番所は伊野波村から渡久地村に移設するが、惣地頭は伊野波村のカナヒヤ森での祭祀と関わり、間切番所移動後もそのままである。本部間切中のノロはじめ、サバクリ・オエカ人・地頭が集まる祭祀があり、伊野波村のカナヒヤ森である。


  本部町の役場(番所跡地?)          渡久地の神アサギ(後方に神殿)

  
 本部町の役場(番所跡地?)            渡久地の神アサギ(後方に神殿)


2021年6月9日(

 先日本部間切の番所跡地を訪れてみた。それは、1666年に伊野波間切が創設された時の番所が置かれた伊野波(並里含む)村と後に番所が渡久地村(具志川村から独立)へ。そこから今帰仁間切番所(運天村)へのルート(宿道:スクミチ)を行く。しばらく訪れないと、新しいことに気づくこともあるが、それらの痕跡は消えかかってしまう。(今月6日一部報告)

2013年2月28日(木)メモから

  『球陽』(読み下し編:角川書店)の尚真48条(1524年)に、以下の記事がある。
  諸按司、首里に聚居す。
 窃かに按ずるに、旧制は、毎郡按司一員を設置し、按司は各一城を建て、常に其の城に居りて教化を承敷し、郡民を?治す。猶中華に諸候有るが若し。或いは見朝の期に当れば、則ち啓行して京に赴き、或いは公事の時有れば、則ち暫く首里に駐し、公務全く竣(オワ)りて既に各城に帰り、仍郡民を治む。此の時、権りに兵戦を重ぬれば、群郡雄を争ひ干戈未だ息まざらん。直尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遥かに其の地を領せしめ、代りて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せしむ、(俗に按司掟と呼ぶ)。而して按司の功勲有る者は、錦浮織冠を恩賜し、高く王子位に陞す。

 この条文は16世紀初頭の状況を的確に示している。

  ・これまでは郡に按司を一人置く
  ・按司は各一城に建て
  ・按司は一城にいて教化をし、郡民を治める。
  ・見朝の時期になると啓行して京(首里城)に赴き駐留する
  ・公務が終ると各城に帰り、郡民を治める
  ・郡雄を争い武器を持ち休息に至っていない
  ・尚真王は制度を改め、諸按司を首里に聚居させ、領地を治めさせる
  ・按司に代わって座敷官(按司掟)を派遣し、その郡(間切)を監督させた
  ・按司の功勲のある者は、錦浮織冠を賜わり王子の位まで陞る

 尚真王の時代より以前は、各郡(間切)に按司を一人置き、按司はグスクを建て、そのグスクに住み教化をし、郡(間切)民を治めた。時期になると首里王府へ赴き駐留し公務を勤める。終るとグスクに帰り郡(間切)民を治めた。

 ところが、郡(間切)は雄を争い、武器をもち安泰に至っていない。それで、尚真王は制度を改め、各地の按司を首里に集居させ、領地を治めさせた。領地には按司に代わって按司掟を派遣し、間切を監督させた。按司が功績をあげると、位をたまわり、王子の位までのぼることができる。

 今帰仁グスク(間切)を合わせみると、北山の滅亡後第一尚氏王統から今帰仁グスクには監守(尚忠と具頭王子)の派遣がある。他のグスクでも按司を置いてある。首里からの按司の派遣かどうか? 尚真王の制度の改革で諸按司を首里に集めるが、今帰仁グスクの按司(監守)は、首里に移り住むことなく、そのまま今帰仁グスクに監守として居住する(1665年首里に引揚げ)。そのとき、今帰仁間切を分割し、伊野波(本部)間切りを創設。

 尚真王の中央集権国家の制度で例外をなしたのが今帰仁グスク(間切・按司)であった。首里に移り住むことなく、今帰仁グスクに住む(1665年首里に引揚げ)。そのことが北山の歴史、あるいは三山統一以前、その後の歴史や文化に興味深い痕跡を残していると言えそうである。


2021年6月8日(

 6日(日)に二回目のワクチン摂取で肩の筋肉痛で1日休み。

2011年8月15日(月)過去記録

 源河ウェーキの建物と門入口の石垣がのこっている。また、源河ウェーキ近くに源河ノロ殿内跡がある。源河ウェーキについては別で報告するが、源河ノロ殿について。

 『琉球国由来記』(1713年)に登場する羽地間切の巫(ノロ)は①真喜屋巫 ②中尾巫 ③我部巫 ④屋部巫 ⑤トモノカネノロ ⑥伊指川巫 ⑦源河巫がいる。「年中祭祀」で中尾巫火神と「池城神アシアゲ」での「海神祭」のとき、羽地間切の全てのノロが参加している。

 「明治16年以降 ノロクモイ書類綴 羽地番所」(琉球大学図書館蔵:源七文庫)に①仲尾ノロ(仲尾村) ②屋我ノロ(鐃辺名村) ③我部ノロ(我部村) ④真喜屋ノロ(真喜屋村)の四名のノロ(ノロクモイ)についての資料がある。何故か伊差川ノロと源河ノロの「社禄受取」や「受領」の資料がない。それはノロはいたであろうが、「社禄」を請求したり「受領」する資格を失っていたのかもしれない。

 『沖縄県国頭郡志』(大正8年)の国頭郡内のノロクモイ(ノロ)を見ても、真喜屋のろ(親川タマ)・仲尾ノロ(金城マツ)・我部ノロ(島袋ウシ)・我部ノロ(玉城タマ:鐃辺名村在)は登場するが源河ノロと伊差川ノロは記されていない。両村は明治の頃からノロが継承されていないのであろうか。ただし、「沖縄島諸祭祝女類別表」(明治17年頃か)には源河と伊差川の両村に「ノロクモイ火神」があるので、その時のノロの存在は確認できないが、ノロがいたことは間違いない。

 源河ノロ火神は昭和3年に「火神合祀所」(クーグシクの側)に統合されている。社禄や国債の受領資格は失うがノロとしての役割を担う神人は存在している。


2021年6月7日(

【羽地(親川)グスクと集落】

 『羽地大川修補日記』(1735年)の8月27日に次のような記事がある(「羽地大川修補日記」名護市史資料編5 文献史料より)。ここに『羽地大川修補日記』の記事をだしてきたのは、羽地間切(田井等村、後に分れて創設された親川村)に両惣地頭の屋敷(家?)があったことである。つまり按司地頭や親方地頭は首里に住んでいたが領地の間切の同(主)村に両惣地頭家があった、あるいは屋敷があったことに注目したい。それは按司や親方が領地からの家禄や物成、あるいは作得など、密接な関わりがあったこと。それだけでなく関わる間切役人や御殿や殿内への奉公人との関係をもう少し実態あるものとして捉えることができるのではないか。

 また、羽地間切の親川村であった地にウドゥンシリガー(御殿後方の井)や池城親方が関わったという魚小堀(イユーグムイ)などがあり、、そこは魚小堀原の小字となっている。近くに羽地間切番所跡地などもあり、ウドゥンシリガーの前方あたりに御殿屋敷があったのであろう。親川グスク周辺の様子が髣髴してくる(御殿敷地は未確認.学校発祥地あたりか)。

【廿七日癸巳 晴天】(1735年)
  一 今日為御帰城、四ツ時分爰元被遊御打立候。右付、御仕事召留候事。
   一 川捌ニ付、差越候人数、銘々宿申渡置候得共、御仕事中長々ノ滞在ニテ所ノ費モ多可有之候故、
    番所并ニ両惣地頭ノ家弐ツ、都合三ケ所ニ賦付、宿申渡候。尤、宿一ニ用訊文子一人、水夫弐人
     ツゝ相付候事。
     但、高所筆者ノ儀、右両惣地頭家ノ後ニ仮屋一ツ作調召置、是又文子・水夫右同前ニ申付候也。

   一 今日は(国王様が)御帰城のため、四ツ時分(午前10時頃)こちらを御出発された。そのため(その
     時間の)御仕事(改修工事)は差し止めとなった。
   一 河川工事のため出張して来た人々には、それぞれへ宿を指定していたが、御仕事(改修工事)中は、
     長期滞在となるので所(地元)の出費も多大となるため、番所ならびに両惣地頭の屋敷を二軒、合計
     三ケ所に割振って(それぞれの)宿泊施設とした。なお、宿一軒につき、用聞文子を一人、水夫二人
     ずつをつけた。
      但し、高所筆者については、右両惣地頭屋敷の後方に仮屋を一軒作り、(用聞)文子・水夫を右(本
       文)と同様に配置した。 

 『琉球国由来記』(1713年)の羽地間切の田井等村に以下の拝所が記されている。その時代は、親川村がまだ創設されていず、田井等村であった。池城神アシアゲでの祭祀に惣j地頭が参加する。海神祭の時は、中尾巫・トモノカネノロ・真喜屋巫・屋我巫・我部巫・伊指川巫・源河巫など羽地間切の全巫が出席している。
  ・オシキン嶽 神名:サゝラモリノ御イベ
  ・池城里主所神
  ・神アシアゲ
  ・池城神アシアゲ   

  

 ▲後方の杜は親川グスク、手前は魚小堀原       ▲グスクの麓にあるウドゥンシリガー


2021年6月6日(

 1666年今帰仁間切は今帰仁と伊野波間切(翌年本部間切)に分割される。分割後、番所が置かれたとみられる同村の伊野波(並里)へ。その後、渡久地村の番所移転地へ。番所は移転しても王府と関わる祭祀は、やはり同村である伊野波村で行われている(『琉球国由来記』(1713年)。

 「本部間切カナヒヤ森での麦穂祭、麦稲大祭の祭祀に惣地頭が関わっている。その時に間切番所は渡久地村に移転しているが、伊野波巫(ノロ)の祭祀は移動なし。渡久地村は具志川巫管轄村。同村(主)村に番所が置かれ、後に番所が移転しても祭祀(巫)管轄の移動はなし。

 そのこともあって、伊野波(並里)村、渡久地村まで。
  
▲伊野波(並里)の造船所跡    ▲伊野波の消防格納庫  ▲伊野波番所跡地?

 
 


2021年6月5日(土)

 近々、スクミチ沿いの案内の予定。そのルートの話題を見つけ出すことに。本部側は田園空間事業で本部町具志堅から新里・北里・謝花・浦崎あたりまで踏査。ムラ・シマ講座でも。具志堅は学生達の学芸員実習や展示会もやったことが思い出される。10年前のことなので現場どうなっているのか。風景は生き物である。当時の話では嘘つきになりそう。それで、ちょっと、確認でもしておくことに。
   (下の画像やメモは現場確認と話題を思い出すための手がかりにする)

 「今帰仁グスクを抱えた村」として学芸員実習とムラ・シマ講座、田空事業と関わった地域である。その過程で古琉球の「間切とムラの形」を描くヒントを得た場所である。宮城真治ノートの上間家の古琉球の辞令書(1562年)の「東の掟宛辞令書」のハル(たけのみはる・まえたはる・とみちやはる・きのけなはる・あらはなはる・たこせなはる・あふうちはる・ふなさとはる・まふはる・あまみはる)の追跡をしたことがある。具志堅ムラの範囲が今の具志堅だけでなく北里・謝花あたりまで広がっていたことに気づかされた。

 下の画像はメルビン・ハッキンス氏、クロイド氏、新城徳祐氏、仲宗根政善氏などの提供。今帰仁村歴史文化センター所蔵)


今帰仁と本部の街道筋(宿道:スクミチ)

 今帰仁間切番所が運天に置かれたのは1666年である。その前の今帰仁間切は現本部町を含む範囲である。その時の番所は今帰仁グスクと城下のウドゥン屋敷が番所の役割を果たしていたとみられる。「琉球国之内高都合並島色分目録」の絵図がある。目録の後尾に「元禄十五年 壬午八月 松平薩摩守」(1702年)とある。その内容は「鬼界島」「大島」「徳之島」『永良部島』「与論島」は「琉球国之内」とあり、1611年以前の内容である。例えば、伊野波(本部)間切や田港(大宜味)間切が、それに登場せず、それと恩納間切や久志間切なども登場せず、瀬底島やによは村(伊野波)、あめそこ村(天底)は「今帰仁間切之内」とある。「おんな村(恩納)や「こちや村」は金武間切之内とある。「川田村」「てぎな村」「おほら村」は「名護間切之内」とあり、その絵図の内容は1666年以前である。

 その絵図に道筋(大道とある)と一里が記されている。一里塚をつないでいる朱線は大道(宿道)(スクミチ)とみてよさそうである。今帰仁間切へのルートを追ってみると、名護間切から一里塚を追ってみる。そのころ街道筋に松並木があったかどうか。街道筋の松並木は蔡恩以降か(17世紀中)。

  名護村→為又か→三土手→並里?→渡久地→(新里)→與那嶺→山岳→湧川(クンジャドウ)→仲尾(羽地)→真喜屋→津波?→塩屋→大兼久→喜如嘉→(  )→佐手→宜名真→奥→安田→安波→川田→てきな

  ・名護村→伊差川→真喜屋

  今帰仁の一なぎ 並案津の美らさ
  赤染め芭蕉と乙女しふらさ

今帰仁グスクの末端

 今帰仁御殿が□□した為城内の古木を売ったりして風致を害し城内を□されたので当時の村長城間半蔵氏が□へ尚順男に相談して具志川マカトと今泊青年会と半々出して買った。

  凡そ七〇〇円   大正四、五年

   名義人  城間亀助
         仲本吉次郎 当時区長
         玉城精五郎    〃
         具志川朝宜
         崎山 朝清
       大城保元
   字今泊ハンタ原 一、四八〇ノ一 山林 一〇、七九三坪
                    (徳裕ノートより)

【本部町~今帰仁】

【本部側】


     
 展示用に金城龍生先生が情報を入れてくださった。

 

  

 ・旧具志堅の村屋(現在の喜屋武商店敷地)
 ・西謝花への道筋

  パシグチ(端口)→松部毛(マチゾーモー)を右手に→パマムリグチ→プルマーウイ(古馬場)→ナートゥの橋→マーウイ(馬場)→突き当りから左へ→ウミンビラ→板門墓横→謝花へ

  (両側は松並木、そこはスクミチと呼んでいた)

・具志堅村屋から東(今帰仁)への道筋
   東方の今帰仁・親泊への道筋

   村屋→アナンジョウー(穴間)→アナンジョウガー(橋なし)→旧家ウンサー→奉行毛(ブジョウモー)→ジャニーガー(橋のない川)今帰仁村との境界(松並木:スクミチと呼ぶ)

  具志堅の集落はミージマとサガヤーへ発達)

  ブジョモーからアナジョウを通り謝花へ行くのに不便で近道(クンチリ道)を作る。(スクミチの変更)(今帰仁側も集落沿いからプイヌモーへ)

 ・明治38年、日露戦争の直後、本部・今帰仁間切間を通る道路の拡幅が為される。

    (集落内はそのままで、サガヤに西側から東に向けて拡張)

  ・ウミンビラ(新里入口)を通らず、ワイトゥを通り、スクミチにつながった。

     (上間家のキーバカがあった。その時に、赤墓に移葬か)

  ・謝花のフプビラ、浦崎へ通ずるカスガービラも迂回。

【戦 後】

  旧道(宿道など)は飛行場内にとられたため、フナスクからキジキナの近くへ迂回。

  

 

 

  

  

 

 

2008年6月5日(木)過去メモ

【今帰仁グスクと周辺の集落】

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(田代安定:明治17年頃か)の「今帰仁間切各村神拝所」に今帰仁・親泊二ヶ村の神拝所として以下の十四ヶ所あげられている。特定するに、至っていないヶ所がいくつかある。他の資料も含めてみていく必要がある。そこに古宇利殿内(フイドゥンチ)火神が記されていないのが気になる。フイドゥンチ火神は今泊の祭祀の重要な祭祀場である。他にいくつか、記載されていい拝所もあるが、何故か出てこない。

 ヨクノカタは他の資料でユフヌハターやユクヌカタと出てくる。その場所は特定できないでいる。テラはエーガーからハンタ道を通り途中左側に入っていったところに小さな洞窟があり、そこをテラと呼んでいる。今では、そこでの祭祀は行われていない。

 このように、今帰仁グスクや周辺の祭祀と関わる拝所を特定していくことで今帰仁グスクと周辺のムラあるいは集落との関わりで見ていくことが可能である。まずは資料に出てくる場所の特定が必要であるが・・・。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる海神祭(大折目)の流れもみたが、明治や大正などの資料を丁寧に比較してみたい。そこから今帰仁グスクと取り巻く集落との関係が見えてきそうである。そこにはクニ(国)、間切、そしてムラレベルのことが混在していることに気づかされる。

 ①字公方ノ嶽 壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・クボウヌウタキ
 ②ヨクノカタ壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?(ユフヌハター・ユクヌカタ)
 ③シリグン子壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・シニグンニ
 ④テラ壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・テラ(ハンタ原の小さな洞窟)
 ⑤トモノ内子ノロクモイ火神壱ヶ所・・・・・・・・・トモノカネイノロ火神の祠
 ⑥祝部火神所壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今帰仁ノロ火神(親泊集落内)
 ⑦神アシヤケ一ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今帰仁か親泊のどちらか
 ⑧本ノロクモイ火神所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・グスクの前の阿応理屋恵火神か?
 ⑨旧惣地頭火ノ所壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・集落内のオーレウドゥンか(惣地頭の位牌あり)
 ⑩今帰仁古城内神アシヤゲ壱ヶ所・・・・・・・・城内の神アサギ跡
 ⑪天辻壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上の嶽のイベ
 ⑫雨辻壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下の嶽のイベか
 ⑬旧按司地頭火神所壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・城内の火神(監守来歴碑記の祠)
 ⑭カラ川壱ヶ所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カラウカー

 今帰仁グスクの場合、グスク周辺の集落は親泊・今帰仁・志慶真の三つの集落を想定しておく必要がある。親泊と今帰仁については比較的述べられている。しかし志慶真ムラの集落については論じられることは少ない。志慶真村域は現在今泊域に統合されていて、原域には痕跡を残していない。志慶真ムラの集落跡地は現在の今泊の大首原域に含まれている。『琉球国由来記』(1713年)には志慶真村は移動した後で旧家跡などの痕跡は残されていない。志慶真村の神人は戦後も今帰仁グスクでの祭祀に参加していた。また、志慶真川にハーウガミで拝む場所(凹石)は残っている。

 

 今帰仁村平敷に「てぃびガジュマル」がある。島袋源一郎著の『琉球百話』に「炬々よー」がある。「之は亦今ではなくなったが、余所では見られない便利な扶助方法であった。明治三十年頃迄今帰仁村に残っていたが、旅行者が行暮れて暗くなった時、村落の入口に立って「炬々よー」と声高に呼ぶと字内に応ずる声があり、直ちに松明に火を点じてき来て渡すのであった。そして半里もゆくと又例の通りに呼んで、松明をつぎたして貰うので、店も提灯もない時代のこととて非常に有難いものであった。しかもそれはすべて無償であって村で其の担当の家へ若干の費用を支出していたのである。

 

【終点の運天番所】


  ▲運天番所跡地 (大正5年移転)     ▲運天番所(明治39年)

   
    ▲運天番所跡地         ▲運天トンネル(運天隧道)(大正13年)

運天番所から羽地番所へ

 運天番所から上運天のギナマ道、→勢理客の松並木(団地内)→公民館裏(天底馬場跡)→アミスガー(シマチスジノリ)→クンジャドウの一里塚→湧川のスクミチ→湧川のマチ→マリー道(羽地内海)塩田跡地→


  ▲勢理客の松並木          ▲ギナマの石碑


   ▲マリーの塩田       ▲羽地大川の下流域(呉我集落)(1738年移動)

【勘定納港】

羽地番所


2021年6月4日(金)

 頭の中があれこれ立て込んでいる。


2018年12月27日(木)過去記録

 頭が空っぽになると、次のテーマに移る。「移民」や「戦争」のことになると「平良新助」や「幸地新政」のことがよぎってくる。幸地新政については2018年6月15日で少し触れているが氏の「わが足あと」の米国での日本新聞(羅府)の投稿スクラップ原稿に目を通すことに。移民の動機と戦後の沖縄の動きに欠かせない内容である(もくじと原稿の一部)(「1942年5月9日以降日米戦のため日系人太平洋沿岸総立ち退き以後」とある)

  

2018年6月15日(金)メモ

 幸地新政氏の「わが足跡」を見つける。そのもくじはまえがきから67までの項目が綴られている。以下の出来事は大正時代の移民と関わる事件である。少し紹介するが、六四は「移民哀話」(犠牲者の霊にささぐ)である。その中の「海外渡航の動機」部分を紹介しよう。

 大正初期といえば、沖縄では専制王奈良原知事の再来としての大味知事の暴政時代であった。中央では政治的には憲政擁護運動、思想的には新理想主義即ち「霊的合致」の運動が茅原崋山を主幹とした「第三帝国」によって天下の青年を風靡していた。

 海南の孤島、北山の一角に新理想主義にもえ、読書会を組織し、そして中央茅原崋山と呼応した十余名の青年グループがあった。

 「沖縄公論」主幹として一世の反逆児たる郷党の先輩宮里喜一をアドバイザーに、与那嶺善太郎、島袋源一郎、嘉手納善五郎、仲本吉正、上間常三郎、仲村源元、兼本嘉信、幸地新政の面々であった。

 「君たちが第三帝国」の読者であることは、其の筋でちゃんと調べてしっているんだ。注意人物として渡久地警察署の黒票にのっているんだ。注意したまえ」。

 巡回の序によく幸地の家に遊びにきた我謝巡査が好意の注意をした。
 幸地がそのことを次の読書会に報告すると、「これはわれわれ新人たるものの誇りである」と、益々読書に身をいれただけでなく、実際運動にまで進出するようになった。

 仲本が上京して葦原崋山に会って連絡をとったり、他のわれわれは選挙費をあつめて葦原の理想選挙を助けたり、朝日新聞社長当山嗣合をかついで解放打破運動に参加したりした。

 村では汚職の噂高い石嶺林野監守と無能の仲西校長排斥の火の手をあげた。

 これにたいする郡当局と警察の思いきった弾圧は、最初に読書会員の教職にあるものを捕らえて、各離れ島への追放左遷となって現れた。

 宮里は遠く宮古島に、岸本は伊平屋島に、嘉手納と兼村は津堅島に、山城は金武村にそれぞれ流された。過敏症な宮里は、烈火のように怒って辞令をたたきつけて言った。「断然外国渡航だ!海外雄飛!」と。

 結果的には幸地、宮里の海外移民は「海外追放、棄民政策」であった。その流れは平良新助、当山久三、謝花昇へ遡る時代の流れの渦中の出来事である。(詳細は今帰仁の移民と戦争編で扱うことに)

 先日、上間常三郎について訪ねてきた弁護士がいた。大正時代の農学校学校でのストライキとの関わった上間常三郎のことか。突っ込んだ質問はなかったので。名護に三中ができるのは昭和3年なので、その前の農学校でのこと。「ストライキと拙論」があり、いきさつについて書かれている。その時の校長が黒岩恒である。

※「新理想主義」の読書会に関わったメンバーが左遷された中で、島袋源一郎のみが左遷されず、教育会に残ること
  ができたのか。ずっと疑 問に思っていることである。幸地新政氏は大正6年9月2日に大義丸で那覇の桟橋を離れ
  ている。その頃源一郎は学校現場(訓導:校長)にい たので、それと沖縄県国頭郡志(大正8年発刊)の編集に関
  わっていたためだったのか。


http--yannaki.jp-2003nen12gatu.html
http--yannaki.jp-2003nen12gatu.html


2021年6月3日(木)

「宮城真治研究ノート」(『羽地村誌資料』)(名護市教育委員会)に興味深い記事をみる。三山以前(羽地世の主)の頃の村数は四、古琉球は七ムラ、十七カ村。それは近世に至る村(ムラ)の展開を示しているのではないか。

 ムラの発祥を見ていると、七煙や四門中などが出てくる。それが宮城が羽地間切の村数、七村なのか。古琉球から近世の村となる変遷を見ているような気がする。羽地間切の場合を揚げている。

  三山以前の形式として、
    羽地世の主
      四ヶ村 ①真喜屋 ②田井等 ③屋我
      七ヶ村 ①源河 ②真喜屋 ③田井等 ④川上 ⑤伊差川⑥屋我 ⑦我部

   (近世十七村)
       ①源河村 ②(稲嶺村) ③真喜屋村 ④仲尾次村
       ⑤仲尾村 ⑥(親川村) ⑦田井等村 ⑧川上村 ⑨伊差川村 
       ⑩我部祖河村 ⑪古我知村 ⑫振慶名村⑬呉我村 ⑭我部村 
       ⑮饒平名村 ⑯済井出村 ⑰屋我村

   ( )村は近世に独立した村である。
    ⑫⑬⑭は羽地間切から方切と村移動、その地は今帰仁間切へ。

 近世の羽地間切の村とのろ管轄
   ・源河のろ  源河村 瀬洲村
   ・真喜屋のろ 真喜屋村(稲嶺) 仲尾次村
   ・仲尾のろ  仲尾村 田井等村(親川) 川上村
   ・伊差川のろ 伊差川村 我部祖河村 古我知村
   ・屋我のろ  屋我村 饒平名村 屋我村
   ・我部のろ  我部村 呉我村 振慶名村

近世の今帰仁間切の村とのろ管轄
  ・古宇利のろ     古宇利村
  ・今帰仁のろ     今帰仁村 親泊村 志慶真村
  ・中城(仲尾次)のろ 兼次村 諸喜田村 与那嶺村 崎山村 中城村
  ・玉城のろ      玉城村 謝名村 平敷村 仲宗根村
  ・岸本のろ      岸本村 寒水村
  ・勢理客(しませんこ)のろ 勢理客村 上運天村 運天村

    (湧川村は1736年創設なので『琉球国由来記』になし)
  (天底のろは1719年に本部間切から今帰仁間切へ)
   ・天底のろ         天底村 伊豆味村

近世の本部間切の村とのろ管轄  

・ 伊野波のろ 伊野波村 
 ・具志川のろ 具志川村 渡久地村
 ・天底のろ  伊豆味村 天底村 (嘉津宇村)
 ・嘉津宇のろ 嘉津宇村(天底村)
 ・具志堅のろ 具志堅村
 ・浦崎のろ  浦崎村 
 ・謝花のろ  謝花村 備瀬村
 ・瀬底のろ  瀬底村 辺名知村 
 ・本部のろ  崎本部村 健堅村
 ・石嘉波のろ 石嘉波村
 具志川のろ 具志川村 渡久地村 


2021年6月2日(水)

 帰りに「寡黙庵」に立ち寄る。土曜日に収穫しようと思っていたのに、木の下を見ると、熟れたレイシの実の皮が数個。コウモリが実を食べたあと。土曜日までは残らないと全部収穫する。10個くらいかと思ったら50個あまり。

 
  
▲先週のレイシの様子          ▲今日の色づいたレイシ

海神祭の歴史的位置づけの必要性

 塩屋湾岸で行われている「海神祭」(ウンガミ)の歴史的な位置づけが必要だと考えています。その起源については不明であるが、少なくとも『琉球国由来記』(1713年)には、各地で行われています。大宜味村では城ノロ管轄の村(謝名城・喜如嘉)と田港ノロ管轄のムラで行われています。両ノロ管轄の海神祭に1673年に大宜味間切の成立と関係しています。大宜味間切成立以前の『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』に「タミな村」「前田村」「屋こ」(後に屋古・前田村)が出てきます。間切を新設する場合、同(主)村名を付けます。すると田港村に番所が置かれ、その村名が間切名となります。例えば、久志間切は久志村、恩納間切は恩納村に番所が置かれます)

 すると、大宜味間切を領地とする大宜味按司は同村の祭祀と関わります。番所が移動しても祭祀との関わりは、そのまま田港・屋古・塩屋・渡野喜・根路銘(根路銘は近年に外れる)で行われています。田港間切創設時の番所は田港に置かれ、田港ノロが中心になって行っています。間切全体を領地(家禄・作得)とする按司地頭と惣地頭は同村の祭祀と関わります。

 『琉球国由来記』で田湊巫火神での稲穂祭、稲穂大祭、束取折目、海神折目(ウンガミ)の時の祭祀に参加しています。(大宜味間切からの家禄(物成)(作得)得た大宜見按司と大宜見親方の参加)

 大宜味間切の番所は田港村から大宜味村(ムラ)へ、そこから塩屋村に番所は移転します。明治44年に、かつての番所は役場となり大宜味に移動します。そこで、間切や番所の変遷をみるが祭祀は変化しない法則が見出すことができます。

※(城ノロの祭祀に参加(城巫火神・喜如嘉神アサギ)している按司・惣地頭は、大宜味間切分割以前の国頭間切の主村との関わりの名残りが見られる。国頭間切を領地・家禄(作得・物成)を得た国頭按司と国頭親雲上)。大宜味間切分割以前の国頭間切の同(主)村は城(根謝銘)であったのであろう。すると、祭祀場は城ノロ管轄の村であったのが、行き場を失ってしまう。その名残りとして城ノロ管轄の祭祀に痕跡を残している)

 塩屋湾岸の「海神祭」を歴史的位置付ける理由になりうる。そのため、田港ウタキの祠の石香炉、田港ノロ殿内の祠の石香炉と田港に番所があった証となろう。1695年?の大宜味間切と大宜味村(ムラ)の成立がわかる。(大宜味村のウタキの祠に石香炉が10基ほどある)。番所は大宜味村に移るが祭祀は、田港でそのまま行われる)

 それで、今回田港ノロ殿内の祠の改修の時、香炉の銘の確認が必要。それと平成5年頃まで田港のウフェーに「地頭代火神」と記した祠がありました。田港番所は、田港のウフェーにあったのではないか。塩屋湾岸の「海神祭」(ウンガミ)を通して大宜味の歴史を読み取ることができます。

 そのようなことから「海神祭」(ウンガミ)などの祭祀は王府と地方を結びつける重要な統治手段だったことに気づかされます。それと海神祭が1713年から今まで継承されている祭祀から、歴史を紐解く手掛かりとなります。神行事の中心となった田港ノロは簪、酒杯、衣装など(村史で調査済み)なども、ノロ祭祀の遺品として項目に入れることを希望。

・国指定の無形文化財の調査記録。

・今回特に、神アサギの建て替えとノロドゥンチの建て、ノロが乗る駕籠の修復など記録替えがなされたので、その記録を掲載。香炉についても。戦前の海神祭の時のウムイ。


2021年6月1日(火)

 島袋源一郎は『南島論叢』(昭和十二年初版発行)(伊波普猷還暦記念論文集編纂委員会編)に「琉球列島に於ける民家の構造と其の配置」を寄稿されている。島袋源七氏も「今帰仁を中心とした地名の一考察」も寄稿されている。それから今帰仁の地名について参考にしたことがある。

 島袋源一郎の、この論文の以下の部分に目にとまった。

 「昭和九年五月渋沢男爵の後援により東北より九州に至る各官立大学の地質、動物学、宗教、農学、人類学其の他各科の権威者を以て組織せらるヽ教授の方々が薩南十島村を調査して帰らるヽ御一行と名瀬より同船し、鹿児島図書館の階上に於いて、十島村視察報告講演会が催されたので之は実に絶好のチャンスだと思い聴講に出かけたのである。・・・・(略)・・・此に於いて従来の大島調査の宿望は更に増大して十島村即ちトカラ群島迄延長しなければならぬという必要を痛感するに至った。

 幸い昭和十年六月東京より帰県の際鹿児島衛生課勤務の友人前沖縄県学校衛生技師呉泉氏の慫慂に依り六月十四日夜半鹿児島に於いて十島丸という百五十五噸の小型優秀船に同乗していよいよ前年来の懸案たる十島村調査に乗出すことになった。抑も十島村とは薩南に羅列する竹島・黒島・硫黄島・口之島・中之島・臥蛇島・平島・宝島・悪石島(あくせき)・諏訪瀬島の所謂十島を以て一村を形成せるもので、文字通り交通不便なるは勿論、昭和五年四月に初めて小学校令が実施せらたという一事を以て万事は推測すべきである。・・・以下略・・・」

 島袋源一郎のこの論文で、私の脳裏にあった疑問のいくつか溶ける。比嘉春潮氏に島袋源一郎が東京にやってきた(三、四回)、鹿児島、中国に行ったとか、聞かされていた。ほんと?の疑問が解消した。

 歴史で宝島のこと、トカラ海峡を境に琉球国統治。トカラ列島の島々と琉球との関わりについて念頭にありながら、踏査したことがなく、もうないだろう。島袋源一郎が竹島に足を踏み入れたことが、十島村に足を踏み入れたい気持ちになる。昭和九年の官立大学の研究者の組織の十島調査報告が渋沢男爵(渋沢栄一男爵)援助だったいうことも。

 トカラ列島の島々へ訪れることはないが、やはり胸がさわぎますね。このHPが回復できたようだ。十島村は十近い島々で十島村。霧島火山帯の上に小島のようだ。薩摩や江戸上り(立ち)などの船が近海を往来したのであろうと島々と琉球との関わりの痕跡を見つけ出したいものだ。考古では縄文時代の九州本土から、あるいは南の琉球からの土器が入り込んでいるようで、南北からの人の流れがあったようだ。宝島や口之島に近世の異国船遠見番所が置かれていたようだ。すると、与論島の異国船遠見番所の様子がわかりそう。

 明治には笹森義助一行が十島を巡回しているようで、それを意識して『南島探検』を読んでみたくなる。「沖縄県及島嶼町村制施行」(明治41年)により、七島と三島で大島郡十島村が発足し役場は中之島に置かれたようだ。昭和九年の薩南視察報告書もあるであろう。横当島には糸満の漁師が漁業操業し、その時に使った貯水槽があるようだ。

 ボゼ(神という神人)、テラ(協同墓地)無形文化財)
②十島の大字 宝島 人口一三一人
③口之島 人口一二九人 一九五二年に復帰。一九四六年二月二日に日本と分離。」