今帰仁と戦争 1  戦争体験記録 2

  (工事中)

●今帰仁村仲宗根の仲嶺家の戦争体験


1、『85歳のお祝いに向けての思い出』

(天願和子)(旧姓仲嶺:今帰仁村仲宗根)


 私は昭和18年4月に今帰仁村国民学校に1年生として入学しました。

 翌年には、父に召集令状がきて兵隊に出征しました。父が散髪屋を営んで生計をたてておりましたが、それも変わって従兄の盛憲(太郎)さんに仕事を引き受けてもらっている状況でした。しばらくして、風の便りに父が小禄の飛行場にて整備の仕事をしているとのこと、家族皆、母、兄の盛治、弟の貞夫、健二、私、また盛憲(太郎)さんと6人は、父に面会するため、那覇まで出かけました。一日宿屋に泊り、翌日父が勤務している小禄飛行場にたどり着き、父に会ったことは今でも覚えています。優しかった父を見たのはそれが最後でした。

 段々と戦争も激しくなって、従兄(いとこ)の盛憲(太郎)さんも兵隊へとられて行き、昭和19年10月10日にはアメリカの飛行機からの激しい空襲により焼け野原になりました。それからしばらくは静かな日が数日続き、妹のトシ子は自宅にて生まれました。 

 それ以後は防空壕に隠れたり、乙羽山やイシガチ山、トーヌカの壕など、山あいをさまよったり、また謝名メーバルのイサヤーという所で家を借りたりもしていました。玉城に住んでいる岸本の叔母さんお所に行きながら、家族で洗濯をしようと川に向っている最中、米兵が来て「車に乗込め」とのことで、羽地の古我地に連れられて、そこで馬小屋のような家を借り、しばらく生活をしているうちに終戦を迎えました。 

 ほんとうに永い悪夢のような戦争も終わって私生活に入りましたが、家は焼かれ食する物が少なく、敗戦は全住民を谷底へ突き落とした有様で、自分で這いあがっていくしかない時代でありました。それで母は五人の子をりっぱに育て上げる決心で商いを始め、毎朝早起きしては豆腐をつくり、それを売りに出かけました。兄盛治は山へ行って薪拾い、また私と貞夫はヒージャーガーの海へ下りて行き、豆腐のニガリを入れるための潮水を一斗缶に汲み、急な坂を二人で一生懸命運んだのを思い出します。また、運動会や村芝居の時には飴玉やお菓子等をミージョウキーに広げて商いをしておりました。

 


2.「母を想う」(仲嶺貞夫:仲宗根) 

 戦後も50年を過ぎた(平成10年)が、戦争のことは小さい時の記憶ながらも忘れることはできないことが多い。山を逃げまわっている時に、よく雨が降っていたがかくれる所がなく、ツワブキの大きな葉っぱで屋根をつくり、殆どぬれたまま夜を明かすことがあった。健二とトシ子はまだ小さく、お腹もすいたのか、よく泣いていた。隣にいる人たちからは敵が来るから子共は泣かすなと苦情があり、とても怖かった。健二とトシ子はまだ小さくおんぶされたりしていたが、私は4歳か5歳くらいであったため自分で歩いていた。両肩にいつも背のうを左右にさげていたが、一方が重かったのか首が曲がってしまっていた。

 ウシヌスドゥガマ(牛を盗んで隠した壕)というほら穴に隠れていた時のことである。ふと目が覚めるとアメリカ兵が二人立ったまま、鉄砲の先の着剣の先で胸元をつついて私を起こしていた。驚いて周りを見回したが誰も家族はいなかった。アメリカ兵達はそのあと何もしないで立ち去った。もし悪いアメリカ兵だったら殺されていたかもしれないと思うとゾッとした。この時のことはいつまでも忘れることができない鮮明な記憶である。

 そのあと捕虜になって家族も一緒に羽地村呉我の収容所に連れていかれた。そこでは一日にオニギリ一食の時もあり、いつもお腹をすかしていた。海岸に浮かぶ缶詰を拾ったりしたこともある。戦利品をとることを「戦果」と言っていた。戦争は家族を離散させ、多くの人の命を奪い人々を不幸にするものである。沖縄戦を教訓として、二度と戦争はせず、平和な国をつくらなければならないと痛切に思うものである。 


3.「伯母さんのお祝いに寄せて」(仲嶺盛仁:仲宗根) 

 私たちが最初に直接米軍から攻撃、すなわち空襲の洗礼を受けたのは十・十空襲であった。その前日は、私たちは本部のマンナ山への陣地掘りにかりだされていたが、上空には敵機が飛行雲をひいて無気味な飛行を続けていた。偵察であり、写真撮影をしていたのである。日本の守備軍の第三二軍はその意味を理解しておらず、その晩那覇の沖縄ホテルで兵団長ら軍幹部が大宴会を開催し、心の無防備まま早朝グラマン機の編隊による第一波の攻撃を受けたが、演習だと最初は思っていた人が多かった。

 渡久地港あたり方向で急降下爆弾をする風景を友達に呼ばれてみたが、演習ではないと思っていた。那覇もその日で焼け野が原になり、今帰仁にも空から波状攻撃を受けた。敵機からの機銃弾や薬きょうを、近くのサンタキ当りの民家が通りごと焼けたのを見て、いよいよ戦場にいる実感がわいた。

 一キロほど離れた所に製糖工場があり、その中に運天港を基地としていた海軍の魚雷が多数保管されていたが、集中攻撃を受けその周辺に五百キロ爆弾が十数発落され爆発した。命中したのではなく、もし命中していたら部落ごと吹き飛んでいただろうと大人達の話を聞いてぞっとした。サイレン毛からのけたたましい空襲警報のサイレンを聞くと防空壕へ逃げ込んだ。

 そして空襲中は目が落ちないように耳は鼓膜が破れないようにと両手の指でしっかり押さえ、頭は防頭巾をかぶり、みんな身を寄せ合ってかがむように座って爆撃を受けた。上空から降下してきたは機銃を掃射し爆弾を投下した。うなる不気味な金属音、耳元で竹を割ったような機銃掃射、至近距離での爆弾の爆発は防空壕をゆるがし、大音響とともに爆風が壕内をかけぬけ破片が壕内へ飛んでくることがあった。

 叔母さんのところの川辺にいた酒屋のお手伝いさんが機銃弾を胸に受けて即死、その遺体は叔母さん達の庭に掘ってあった防空壕に安置されたが、空襲前にそこから火の玉が真夜中に飛んでいくのを目撃した人がいて、心配して易者のところに行ったこともあり、そとで「あっ、それだったのか」とみんなはつぶやいていた。

 ヤンバル各地には、首里那覇あたりからの避難民が殺到しえ民家そして山里にも小屋がたてられ入居していて、あちこちでヤンバルの言葉でない声が聞えていた。戦雲いよいよ急で五年生の中ば頃からは学校教育はなく、山へ行って薪とりや堆肥増産のための草刈りをしていた。学校をサボルことを「山学校へ行く」と言っていたが、国家によるそんな事態の展開はのちに教員になって一時間の空白も許されない現場にあって、思い出しては悲劇を感じた。

 空襲の日が次第に多くなり、それから連日となっていよいよ沖縄戦への突入となったのは、卒業式の日からであった。今日は卒業式の日で登校となっている朝、予行演習もないのにどうしてやるんだろうかと考えている時に、空襲警報が鳴った。これまで避難していた隣組の防空壕より、より人里離れた岸本ソーリガーの所に、三つ星商会の永山の兄さん達が掘った防空壕があり、そこは移って行った。

 慶良間島への艦砲射撃の音だという爆音がドンと間断なく聞えてきた。いよいよ上陸だという。やがれ、こっちになると予感した時に、自分は12才の命になると観念して防空壕の外に出て肉眼で太陽を見てはいけないと教えられてきたのに「もういい」と。しばらく太陽を見つめて座っていた。そんな言葉は知らなかったが、太陽への今生の別れの思いだったのである。

 たつみやへ焼夷弾が落され燃えていったが、決死でみんなで消し止め、たつみやの叔母さんは、みんなにお礼を言っていたが、翌日1945(昭和20)年3月27日は仲宗根部落は焼夷弾攻撃により一面焼け野原になった。耳をつんざく激しい空襲のあと静かになった里に炎が燃え上がった。壕内にも「今、仲嶺家の家が燃えている」との情報が入り、母は泣いたが見ることはできなかった。仲原家も一緒だった。

 二日後の3月29日、父と仲原の英篤叔父さんが家族見舞いを許されて八重岳の宇土部隊の防衛隊より帰ってきたが、3月6日の入隊よりわずか23日間で顔が半分近くなったのではないかと思われるほどのやせこけた姿であった。一家の大黒柱である父達をひっき抜いておいて軍隊は父達に何をさせたのか。それは慰安姉達の家づくりだった。父は指を木材で痛めて大きい傷を残した。軍上層部に不満を持っていた兵士は軍刀を抜いて首をはねた事実も話した。父達にわたされた武器は竹やりであり、これで米軍と戦いでは、軍の頭は石器時代に戻っているようなものだ、あれもこれも国益の為と言えようか。

 仲宗根の自分達の家が焼けてからは玉城の岸本のアヤーの家にお世話になっていたが、そこから伊豆味の仲原家への移動の時は、確か日が暮れてからだったと思う。防空頭巾をかぶり、手作りのリュックをもっていたが、みんなが身支度をすませて家の前に出ていた時、家の前にあった溝は蓋がしてあった石の上に7才の貞夫が小さいリュックを持って座っていたが、子供の頃から賢く、自立心があり、あのかわいいく、りりしい小武士の感じの貞夫が気に入って近づいて声をかけた。元気がありこっちが励まされる思いだった。私が貞夫を発見したのはこの時だった。

 そんな頃、夕方になると運天港からエンジン音が聞こえてきた。特殊潜水挺で海軍の志願兵(自爆)による人間魚雷を積んだものだった。やがて海で戦う武器を失った海軍が上陸してきてもおかしくない状況となり、住民に不安と動揺が広がっていった。山へ逃げようということになり、私達一族は仲原家の親戚の伊豆味の仲原家へ泊めてもらい、昼は裏山の防空壕へ逃げ込んだ。伊豆味の仲原家からは皇居を守る近衛兵を出しており、格式のある家柄を感じさせた。

 しばらくして照明弾が打ち上げられようになり、周囲が明るく見渡せるようになった。艦砲射撃も始まった。海より発射された砲弾は不気味な音の尾をひいて頭上を飛んでいって八重岳方面で爆発した。そこには父と叔父の英篤がいる。 

 伊豆味の仲原家の壕内で外の情報は全く入らない朝、どうやら米兵が近づいてくる気配を感じ、みんな青ざめた。小銃の発射音が聞こえ「ピューン」と尾を引いている。どうやら敵がすぐ近くまできた感じであった。私には聞えなかったが、ガタガタする戦車の音が聞こえるという者もいた。みんな戦車だと信じていたので生きた心地ではなかった。ここにはもうおれないという気持ちにみんなもなり、急いで荷物をまとめて乙羽山への山道を知っているという中年の女の人がいて、その日伯父について伊豆味をたった。歩けない二、三人の老人を残していた。首里あたりの人で子供連れの若い人も私達の後をついてきたが、どうなったか、時々考えることがある。 

 我々の頭上を艦砲射撃の砲弾が絶えずうなるような音をひいて八重岳へ飛んでいった。リュックを背負い、食糧をもち、鍋を持って・・・・。壕の中を出る時の「ウリヒャー」という色めきたった危機感から総立ちになって準備した光景がありありと浮かんでくる。戦後、本家の父が編集した系図は母がトウトウメーと一緒に肌身離さず持っていたものである。 

 伊豆味を追われるように逃げて乙羽岳をめざしていたのは、私達だけでなく山道で大勢の人達が合流して一つの流れになっていた。乗用車なら一台通れる道に沿って大分あるいたが、どこをどう歩いたか見当がつかない。もう一度山へ登った。その時眼下に急に海が広がる光景にであった。なんと米軍の軍艦が海一面に浮かんでおり、大ショックを受けた。

オーベー(飛行機)が飛んできた。禿山だったが、急いで身を伏せた。小型偵察機でキンバイのようにうるさく、攻撃目標を見つけると軍艦に無線で連絡、旋回しながら艦砲射撃をさせていたから、もし見つかると私達が消えるまで砲撃をさせていたと思う。飛行機が去った後、胸をなでおろした。


従軍看護婦として井上隊に


 昭和19年11月頃だったでしょうか。今帰仁から日本軍は夜のうちに移動していなかったです。従軍看護婦として井上隊にいたのですが、軍隊は11月頃玉城村の方へ密かに移動したらしく、それから壕生活がはじまりました。いつまた空襲が来るかと緊張した中での壕生活。壕から壕へ。乳幼児を抱えて、また乳幼児を指導する立場でした。母親はかわいそうだし、お乳は飲むし、ずっと壕の生活、病人も結核患者もいました。次から次へと各壕を家庭訪問みたいにやっていました。昭和20年4月8日と覚えていますが、米軍が上陸して来たのです。

 湧川から来た女の方が「ああ、与那さん大変ですよ」というのです。「どうしたの」と聞くと「上陸してきたよ」と。どうでもいいから上の方へ、上の方へ。山の方へ逃げなさいよ。

 呉我山には首里からの避難者が来ていて、さらにマッチャクの方まで。ワキマタはみんな疎開者でした。県庁から医者がきて、わたしに「呉我山を訪問せよ」とありました。それでマッチャクに登りました。そこには首里の人などが相当避難していました。年寄りが多かったです。マッチャクの避難小屋は村がつくっていました。

 私は自分の家もあったのですが、今帰仁村の住民の健康も考えなければなりませんでした。もしケガ人がでたらと心配もありました。ちょうど救急品が、ここの前の防空壕があり、三ヶ所の壕や私の家にも疎開させてありました。

 米軍が上陸してからは、救急薬品を道にこぼしてあった話がありました。救急薬品はマーキュロ・ヨーチン・包帯・ガーゼ・胃腸薬(わかもと)・熱さましなどでした。マラリアの薬はアメリカーが持っていました。それは収容所に行ってからのことです。救急品は県から配給があり、あちこちの防空壕に置き、避難しながら壕をまわりました。一度だけ衛生課の医者がきて、こっちの衛生主任とわたしと避難小屋を廻り検診をしました。その先生はそれっきりきませんでした。首里の方は呉我山の民家の脇に避難させ、できるだけ年寄りと子供の検診をしました。マッチャクでもこっち見て、あっち見てと大変でした。

 乙羽山に伝染病患者(ハンセン氏病)がいて、今帰仁校にいた軍医がいたので相談すると「あぶない病気だから愛楽園にやりなさい」と言われました。奥さんがいつも一升ビンを三つ、二つはこうして、三つ組んで玉城のソーリガーに水汲みに行くのです。三つの一升ビンで水を汲んで、山の頂上まで行っていました。ちょっとした小屋に住んでいました。消毒液をたくさん持って行って、「住民に危険なことはありません」と言っているのですが、衛生主任は困ると言って、わたしも困ってしまいました。米軍が上陸し、おくさんが水汲みに行ってアメリカーに強姦されたという話を聞きました。その後、どうなったかわかりません。主人はハンセン氏病で奥さんは病気じゃなかったです。四、五回ほど訪問しました。いつも済まなさそうな顔をしていました。

 十・十空襲の時、海軍が11名戦死しました。海に石油や重油が流れ、魚は取ってきても食べられませんでした。家畜はみな放されていました。夜イモを掘ろうとしたら馬が10頭ばかり群れをなして、近くにやってきました。それは怖かったです。収容された後、呉我山に年寄りが二人残っていて山羊を飼うために。黒人兵がきてどうのこうのという話がありました。

 宜野湾の人達の疎開は謝名でした。昭和20年4月9日今帰仁の巡査部長大湾朝光さんが亡くなられました。呉我山で住民に食糧を配給するために制服をつけて指導していた時、その時にやられています。名護方面からきた米兵に。

 慰安所は陸軍と米軍は別々にありました。その人達は疎開してきた辻の人達でした。わたしらは採血して血液検査をしました。血液型を井上部隊が調べると言って、行ったら一人ひとりに何か渡すのです。「君たちももらうか」と言うから「はい」と言ってもらいました。「突撃」と書いてありました。 わたしが捕虜になったのは昭和20年6月。5月頃「家に帰って増産しなさい」と。家に帰って増産をしていたら、6月20日から収容が始まりました。「捕虜になったら殺される」と聞いていたので二日ばかり逃げ廻っていました。6月22日に目の前に米兵がきて山で避難していた人達も集められ、部落全体が捕虜となり田井等に連れていかれました。羽地の古我知でした。最初は仲尾次でしたが古我知に診療所があり、そこに連れて行かれました。私はできるだけ黙っていたのですが、誰かが「あの人看護婦ですよ」と言ったもんで。ジョウージという衛生兵でした。古我知で「儀保先生の側でナース班長をしなさい」と。比嘉良雄さんから住民のためにと頼まれました。

 今帰仁村などから疎開してきた人たちが田井等地区にいました。今度は戦争の爪痕、シラミと皮膚病、マラリア、栄養失調など、戦争より恐ろしかったです。毎日何人か死んでいきました。どんなに介抱しても栄養失調とマラリアで震える人、一日に14、15名が死んでいくこともありました。穴を掘って、その上に次の人を次々と埋めていきました。夜になるとクロンボーやアメリカーが住民地区にやってきてきました。女目当てです。

 伊江島の方たちが天底に10家族ぐらいが入ってきていました。中に妊婦がいて赤ちゃんが産まれました。ブンキチヤーにいる方でした。金城と言っていましたかね。生まれる段になって何もありません。看護婦なのに助産婦の免許は持っていませんでした。行ってみると生まれそうなので、お湯の中に裁縫糸を消毒して、包帯を切って処置をしました。男の子でした。着物は焼けつくしてないので、ジュバンなど柔らかなものでおしめを縫いました。しかしHBTと言って堅いものしかありませんでした。婦人会長の立津ノブさんに頼んで、自分の古い寝間着などをおしめにした。ようやく20枚、ノブさんのと合わせて30枚ばかりできました。その子は助かりましたよ。今帰仁に向ってオシッコをするなと言っているそうです。



・古宇利島住民と戦争 


【古宇利島と戦争(略年譜)】 

・昭和19年4月 学校名は古宇利国民学校。瓦ぶき校舎、カヤふき校舎もあった。

・昭和19年8月日本軍守備隊が今帰仁に駐留する。陣地構築などで動員がかかる。

・昭和19年9月頃伊江島飛行場の設営で生徒が徴用される。

・昭和19年10月10日に沖縄全島で米軍の空襲が始まった。

・米軍の飛行機がひっきりなしに攻撃してきた。

・最初のころ、日本軍の演習だとおもって、命中するたびに西側の森でバンザイバンザイをしていた。

・アメリカの飛行機だとわかると、カネがガンガン、ガンガンうちならされた。

・全校生徒は泣くもの、走るもの、家に帰るものなど、大混乱となった。

・学校の東側の防空壕にかくれたもの。回りのコウ(ガマ)や岩かげなどにかくれたもの。

・10・10空襲あとは、毎日のように空襲があり、動いているもの、馬や豚やヤギなどをめがけて
 爆撃してきた。

・多くの家が家庭用の防空壕をもっていたようだ。

・古宇利島の沖合に待機していた米軍の軍艦から発射された火球が愛楽園に落ちて行くのをみた。

・愛楽園と運天港の爆撃は激しかった。

・10・10空襲で那覇の町の90%が焼ける。五万人が焼きだされる。全県で死者800人、家屋15,000
 軒余が全焼。

・古宇利島では校舎や拝所、民家などが被害をうける。

・10・10空襲後、天気がいいとB29偵察機がやってきた。

・昭和20年3月末になると空爆や艦砲射撃が激しくなる。岩陰や防空壕に避難しつづけた。

・昼間は壕にかくれ、夜になると壕からでて芋掘りややさいなど食べ物さがし。

・井戸からの水汲みは敵の焼夷弾の明かりを利用。

・壕の中の生活はモグラと同じ、ノミ・シラミ・ギンバエなどが異常発生。

・島の人達は、家庭の防空壕や岩場など、あちこちにかくれ、かくれしていた。

・昭和20年5月20日午後3時頃、艦砲射撃がトゥンジ浜に結集していた青年団に犠牲者がでた。

・どこも危ないということで、多くの住民がスルルガマに移動した(ガマの入口は大潮の干潮時に
 しかみえない)。

・スルルガマに隠れて数日すると、スルルガマの外で銃声が聞こえ「出てこい、出てこい」
 「命はたすけてやる」と呼びかけられた。

・スルルガマの中は騒然となり、東と西の口から逃げ出すのもいた。

・昭和20年5月19日、20日に米軍の掃討戦があり、島の人々は水陸両用戦車2台で羽地の田井等
 に収容される。

・戦争前は島から関西に出稼ぎや移民した人達(ペルー・ブラジル・アメリカなど)から送金が
 あり、またも模合などをして 資金をつくっていた。半農半漁であった。

・はだしでノーパン

・芋とミシンシル(味噌汁)

・かやぶき家で掘っ立てつくり、アダン葉のむしろ

・学校の弁当(昼食:芋三、四個)

・トイレのおしりふきはユナの葉

・草刈り・芋掘り・水汲み・家畜のえさやり・海に行ってイモ洗いなど  

・古宇利島の人達の避難は、屋我地の親戚や知人友人を頼って、物置や豚小屋などを利用さ
 せてもらった。

・屋敷の片隅や空き地にほったて小屋をつくり、食料は古宇利島から運んで生きのびた。

・昼間は屋我地島の人になりすまし、荒地をたがやし、芋を植え、夜になると舟を漕いで島に渡る。

・芋や野菜をとり、隠しておいた穀物や塩、砂糖、味噌などを分けて持ちかえり飢えを凌でいた。

・古宇利島への帰島は昭和20年11月半ばに許された。

・島への引き揚げると、島の人達は生き返ったように元気をとりもどし松やモクマオウを切りだし、
 茅や ススキを刈って家をつくった。

・米軍がひきあげた跡地に行って、テントや棒、板材や角材、ハンマーツルハシ、スコップ、
 毛布や布団、HPTの服や帽子、パンツや軍くつ、水筒、缶詰、タバコ、ダイナマイトなどを
 「戦利品」としてあげてきた。

・戦利品をもって与論島や沖永良部島に密航し、子牛や豚、ヤギ、鶏などの家畜を持ちかえり、
 家畜はどん どん増えていった。

・戦後の学校が開かれたのは昭和20年12月3日であった。

               (古宇利誌/古宇利小学校記念誌など)

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古宇利島での戦争状況

諸喜田福康 今帰仁村古宇利

 1945年10月10日沖縄全島に空襲がはじまった。古宇利島の西側の海に日本軍の船が座礁していた。それに沢山の米軍の飛行機がひっきりなしに攻撃していた。全校生徒は日本軍の演習と思い、攻撃が命中するごとに西側の森で万歳を叫んでいた。そこでサイパンで戦争体験のある玉城彦次郎氏が来て、校長先生に星印のある飛行機はアメリカの飛行機だと言って、非常用の鐘が乱打され、全校生徒は泣く者、走る者、家に帰る者、大混乱に陥り、学校の東側の防空壕に隠れた。泣きわめいている所へ長女姉の茂子と次女姉の藤子が来て、抱かれて震えていた。

 その後、度々空襲があり牛や馬、歩くもの全てに攻撃をし、本家の畜舎にも照明弾が投下され牛、豚、山羊は焼死し馬は全身火傷、見るに堪えなかった。その時、父は家裏の防空壕にいた。

軒下が燃えていたので必死に消化に努め火災からのがれた。家族は皆家の見える自家防空壕にいたので家は焼け、父も焼死したものと思い込みこみ泣いていた。日も暮れ空襲が止んだので恐る恐る家に帰ってみると、父は元気で火傷をし、血だらけの馬をボロ布で優しく拭いていた。 

運天港魚雷艇

 古宇利島の沖合いにいるアメリカの戦艦から火の玉が飛び頭の上を通過した。前の家に落ちたかと思ったら愛楽園に落ちていた。愛楽園は昼夜を問わず攻撃された。翌日、赤十字の旗を掲げたら攻撃しなくなった。

運天港には魚雷艇の基地があり、真夜中に出撃し朝方かえってきた。古宇利島の沖合いにいるアメリカの戦艦に魚雷を発射し攻撃するためである。ほとんどがレーダーにキャッチされ失敗に終った。最後は一隻で一戦艦を沈める戦法にでたがことごとく失敗に終った。一隻の魚雷艇が明るくなって帰ってきた。それがヘリコプターに見つかり、総攻撃を受けた。

それからひっきなしに艦砲射撃が続きピューピューと火の玉が頭のうえを通過身震いした。運天港でドスンと大きな音が響き、赤い炎が立ち込めていた。総攻撃がつづき島は壊滅状態となった。屋我地の上地氏の屋敷に魚雷艇の隠れる水路があった。隠れ場は人力でほり木の陰で待機していた。魚雷艇の隠し場所はワルミ海峡の岩の下などの数ヶ所設営されていた。魚雷艇も30隻位いたが最後は2隻だけが残り、一隻はスクラップに出し、もう一隻は埋めてあるという。 

艦砲射撃

自家壕を三つ持っていたが、古宇利大当原の崖下の自然壕に隠れていた時、屋我地の方から戦車が横に数拾台が並んで古宇利島に向かっていたので、そこは危険だからと、宇辺ノ花原の自家壕に全員逃げた。自分だけ遅れ崖の途中で艦砲射撃が始まった。岩陰に隠れていたおじいに呼び止められ隠れていた。すると二人の周辺に集中攻撃され、石のかけら、ソテツのかけら、土煙を被っていた。攻撃がやんだのでおじいが「トー、ナマヤッサ」と言ったので駆け出した。少し登ったところでまた攻撃がはじまった。まえより少なく四、五発だった。それでも土煙をいっぱい被っていた。恐る恐る頭を上げてみると戦車は遠く東の方へ行ったので、一目散に走りだした。防空壕にたどりつくと長女姉が泣いて飛びついてきた。母は優しく土ほこりを払って水と砂糖をくれた。次女姉はシラミをとってくれた。

父の姉の家に行ったが誰もいなかったので善信屋の壕に行った。そこは高い梯子で降りた。壕は海に通じ船で避難していた。左奥に隠れ場があった。そこにはドラム缶に水があり、炊事もできた。母は潮が満ちたので浴びせてくれた。ノミもシラミがいっぱいいたので頭を砂でこすり落とした。正面の壁に三発の砲弾が打ち込まれていた。そこは危険だということでスルルガマに移動した。

スルルがマに降りると階段がつくられ歩きやすかった。入ってみると中は広く大勢の人がいた。数日後、壕の外で4~5発の銃声が聞こえた。「出て来い、出て来い」「命は助けてやる」とたどたどしい日本語で呼びかけていた。中は騒然となり、西の出口から逃げるもの、東の出口から逃げるものがいた。自分たちは父を先頭についていった。出たら父が持っていたものを全部とりあげられた。腕を引っばられ、岩陰に連れていかれた。米兵は前後から銃を突きつけられ、フンドシ一本の丸裸にさせられ、殺されるかと思い家族は大泣きしていると、米兵が背中を押して大声で何か言っていた。振り向くとまた同じことを言っていた。

捕虜になった島民は水陸両用戦車に乗せられ湧川のマリーに連れて行かれ、そこから軍用トラックで羽地田井等のカンパンに連れていかれた。自分たちはカンパンに入れず民家の土間に泊められた。翌日からは豚小屋にワラを敷いて寝泊りした。食事は一日おにぎり一個、ひもじいので友だちと田圃に行き、カエルやバッタをとってきて焼いてたべた。 

民家をぬけだし屋我地島へ。干潮時をみはからって真喜屋から奥武島、奥武島から屋我地島へ。干潮時を見計らっていったが、次第に深くなり、つま足だったり、潮水をはきだしながら、泳いでやっとたどりつき屋我地島で避難生活を送った。二年生の途中まで屋我地島で学んだ。 


     ▲古宇利島のスルルガマで生きのびたシマの人々