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勘定納港】 【親川(羽地)グスク】 ハニヂ(羽地の語義) 名護市汀間 
羽地域の歴史とムラ 1】 【羽地域の歴史とムラ 2【仲尾―羽地間切仲尾村の事例


【羽地・仲尾】(現名護市)

 名護市(旧羽地間切)の仲尾は『琉球国由来記』(1713年)の年中祭祀からみるに複雑である。羽地間切の祭祀は仲尾村(仲尾ノロ)を中心に行われている。1623年の辞令書で「大のろくもひ」とあり、また間切の同村(主邑:田井等・親川)で行われるのが普通であるが、仲尾ノロ火神・仲尾神アシアゲと池城神アシアゲで行われている。海神祭のとき、羽地間切の@中尾巫 A真喜屋巫 B屋我巫 C我部巫女 Dトモノカネ巫 E源河 F伊差川巫 は仲尾神アシアゲと池城神アシアゲに集まり祭祀を行っている。そこには羽地間切の惣地頭が参加している。羽地按司の記述がみられない。

 主邑であった田井等村、そこから分離した親川村、古くは池城村がみられる。祭祀の世界からムラの形が見えてくるかもしれない。行政は分離したり、合併したりするが祭祀は一体化しない法則から整理する必要がありそう(整理中)。


・集落移動の村と御嶽(ウタキ)―羽地間切仲尾村の事例―

 仲尾は羽地間切仲尾村で現在名護市の一字である。ここでの「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことである。同村地内で集落が移動したときに、御嶽(ウタキ)はどうしたのかがテーマである。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、同丘陵地の向って右側は親川グスクである。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていた。

 仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やノロドゥンチ跡やヌルカーなどが今でも遺っている。

 集落は移動したが御嶽は新しく設けることなく、元の場所(ヒチグスク)に置かれている。また旧家跡や神アサギは元の場所に置いて集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまい、ウタキや神アサギやノトドゥンチなどから、かつての集落跡を確認することができる。

 『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。

 今帰仁村平敷のウガン(御嶽)に立ち寄ってきた。『琉球国由来記』(1713年)にすべての御嶽を明記さているものではない。今帰仁村平敷の御嶽も記載されていない一つである。『琉球国由来記』に記載されていないが、重要な御嶽である。『琉球国由来記』に記載されていない御嶽に、御嶽の源初的な姿があるのかもしれない。

 ここでは、ウガン(御嶽)と集落との関係は、切り離すことのできない結びつきがあることに気づかされる。同時にそこで行われる祭祀がムラ人は勿論のこと、オエカ人(間切役人)の参加も欠かすことができない。そのことは祭祀が村を統治していく上で重要な役割を担っていたことがわかる。

 「山原の御嶽」を議論していくための土台を整理しておきたい。御嶽を国(琉球国)レベル、間切あるいはノロ管轄レベルの御嶽、村レベルの御嶽、グスクの御嶽など、いくつか区分してみていく必要がありそうだ。まずは今帰仁村間切内の御嶽から、村とグスクレベル御嶽について見ることができる。さらに18世紀初頭の人たちの御嶽とイベの観念が見えてきそうである。

   
▲ヒチグスク(ウタキ)への入口   ▲ヒチグスクのイベへの里道     ▲イベの祠        ▲祠内のイベ


勘定納港と仲尾村(平成21年9月12日)

故地はグスク時代の遺物が出土する。
・15世紀の初頭、北山が中山の連合軍に滅ぼされたとき、中山や北山の一部が「かんてな港」に
 集結した。
・仲尾はヌホーやノホーやナカオと呼ばれる。別名「かんてな」ともいう。
・『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』で「なかう村」と記される。
・1622年の辞令書に「はねちまきり 大のろこもひ」とある。
・仲尾ノロは仲尾村・川上村・田井等村の祭祀を管轄する。海神祭の時は、羽地間切のノロ全員
 が仲尾村に揃う。
・『琉球国由来記』(1713年)で羽地間切の惣地頭は仲尾村の神アシアゲと池城神アシアゲ(田井
 等村、後に分離した親川グスクのある親川村か)の祭祀と関わる。
・1785(乾隆50)年に種子島の船頭が勘手納港から米を積んで出帆した(仕上世米か)。
・1816年バジル・ホールの一行が仲尾村や親川村や仲尾次村付近を訪れている。
・1835年に仲尾村の集落は故地(半田原)から兼久に移る。
・故地の半田原にヌルガー・ヌルドウンチ跡・根神ドゥンチ跡・神アサギ・ペーフドゥンチ跡・ニガミ
 ガーなどが残る。一帯は仲尾古島遺跡となっている。
・兼久地へ集落が移動するが、回りの丘陵地は集落の抱護となっている。
・仲尾の田畑は故地あたりに広がっている。
・仲尾の故地の近くに親川(羽地)グスクがあり、堀切を挟んで仲尾のヒチグスク(ウタキ)がある。
・近くに親川村があり、羽地番所があった。仲尾村の勘定納港は羽地間切の穀物(租税)の
 集積港として機能する。
・明治13年の仲尾村の世帯数59、人口(314人:男164、女150)である。
・明治14年上杉県令日誌に「官庫瓦ヲ以テ葺ケリ」とある。
・仲尾は小字(7つ)拝原・新高原・半田原・仲真原・阿根謝原・門天原・仲尾原からなる。
・明治41年羽地間切は羽地村(ソン)となり仲尾村(ムラ)は字仲尾となる。
・大正8年8月に仲尾トンネルが開通する。
・昭和41年12月に仲尾トンネルが改修される。
・昭和45年に名護市の字となる。


       ▲仲尾の現在の集落                ▲仲尾トンネル


   
▲故地にある仲尾ノロドゥンチ跡            ▲故地にあるウペーフドゥンチ跡


【クニレベルのウタキとムラレベルの御嶽】(2004年7月21日)

 国頭地域の御嶽を踏査していると、村レベルの御嶽と国や按司クラスの御嶽が混在していることに気づく。村(ムラ)の御嶽と国や按司クラスの御嶽と区別して考える必要がありそうである。按司や脇地頭と関わる御嶽は主に航海安全、そして首里に住んでいて役地の祭祀との関わりで御嶽を置いている例がある。それらを理解するために「国頭の歴史」を十分把握する必要がありそう。複雑にしているのは間切の分割や番所の移動や大宜味間切との村の組み換えなど。さらに間切分割で国頭地域のグスク(根謝銘グスク)が国頭間切ではなく大宜味間切の地(さらに村の合併)にあること。そのことがあって惣地頭や按司の領地の拠点が時代によって違っているため、1673年以前・以後なのか、番所はどこにあったのかなど、合わせ見て考える必要がある。

 一言でそうだという答えがないところがなかなか面白い。現場に立ったとき、御嶽の性格がよく見えてくる(ただし、御嶽は一言で何かという発想や視点ではどうだろうか)。中南部の御嶽やグスクを見ていくと、これまでの発想がもろとも崩れるかもしれない。それがまたもっと面白い。
 


【集落移動の村と御嶽(ウタキ)】―羽地間切仲尾村の事例―

 仲尾は羽地間切仲尾村で現在名護市の一字である。ここでの「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことである。同村地内で集落が移動したときに、御嶽(ウタキ)はどうしたのかがテーマである。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、同丘陵地の向って右側は親川グスクである。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていた。
 
 仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認めれた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やノロドゥンチ跡やカーなどが今でも遺っている。
 
 集落は移動したが御嶽(ヒチグスク)は新しく設けることなく、また旧家跡や神アサギは元の場所に置いて集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまい、ウタキや神アサギなどに、かつての集落跡を確認することしかできない。

 『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。そのことを示すように天啓二年(1622年)の辞令書があり、仲尾ノロは「大のろくもひ」と呼ばれている(『かんてな誌』43頁所収。仲尾ノロに関する明治の史料があるが省略)。
 

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▲羽地間切仲尾村のヒチグスク(現名護市)      ▲道光15年ここ勘手納に集落を移動

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 ▲集落のあった半田原に神アサギがある。     ▲故地にある仲尾ヌルドゥンチ跡

 首里乃御ミ事
 はねしまきりの
 大のろくもひ
 一人 もとののろのうまか
     ひやかなに
 たまわり申し候
 天啓二年十月一日