宮古島ゆき
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 2015年10月28日から30日まで宮古島をゆく。天気に恵まれた。研修会の前日に宮古島入り。今回、大神島へ渡ることを目的としていた。今回踏査できたのは、大神島、池間島、島尻、狩俣、四島の主の墓、永良部島、サバウッガー、佐和田ユークイ、張水嶽、張水の石畳道、豊見親墓三基(仲宗根豊見親墓、知利真良親の墓:1750年、あとんま墓)、恩河里之子親雲上の墓碑、野原岳の霊石、西御嶽(いすうたき)、池田橋、上比屋山遺跡、金志河泉など。

     (工事中)
 


    



[大神島]
 大御神御嶽
  男女神、豊見大アルズ、豊見カメアルズと唱える。(大御神村の真中森の上にあり)、船路、且諸願に付、
  大御神村中、崇敬仕事。
  由来。往昔、右神、大御嶽に顕れ、島守の神と、ならせたまひたるよし、云伝有て、崇敬仕る也。


[島尻]


[狩俣]


[池間島]


[四島の主の墓]





[野原の霊石と西御嶽(いすうたき)]

  


[友利のあま井](現宮古島市城辺字砂川)
 
 友利あま井は、城辺町(現宮古島市)字砂川と字友利の境界にあって、友利元島遺跡の西側に隣接する自然洞窟の湧水で、二回の地殻変動で形成されたといわれる。降り口から渋滞水層露出面までの深さ20メートルで、自然洞窟の湧水としては規模が大きく、水量も豊かである。
 昭和40年に城辺町(現宮古島市)の上水道が全面的に普及する以前は、この湧水が飲料水をはじめ生活用水として貴重であった。水を運ぶのは婦女子の日課で、あま井に降りる石段の側壁の岩には、手で支え登ったために、摩滅してしまったところが数ヵ所あり、当時の苦労がしのばれる。
 あま井については、「雍正日記」(1727年)に「掘年数不明」と記されている。明和の大津波(1771年)以前は、友利、砂川、新里の各元島(旧集落)の住民が共同で利用し、現在地への移動した後も、人びとの生活に役立ってきた。地域住民の水利用のあり方と、その歴史的変遷を知る上で貴重である(昭和56年の説明版より)。


  

[上比屋山遺跡]