名護市許田・幸喜・喜瀬                    トップヘ



2005.02.26(土)メモ

 雨の日が続いています。春休みになったのか「わ」ナンバーの車での来館者が目立ちます。中には荷物を担いでバスを利用しての方々もいます。バスでは、訪れたい場所の半分も行けないでしょう。

 このHPをご覧になって、近いところにあるとか、すぐ見つかると思っている方がおられます。村(ムラ)や御嶽や神アサギやハーなど、さらに画像にできるポイント探しは、さりげなく訪ねています。意識せずにやっていますが、それは経験と地理感を必要とするようです。

 訪ねる村や場所は、前もって決めています。というより、ノートなどで下調べをします。その確認のために現場を訪ねるのが常です。ノートづくりをしたあとは、寝ていても頭の中でそのことが駆け巡っています。ですから、目が覚めると「ソレー行け」となります。思いつきなので一人で行くのがほとんど。


【名護湾岸のムラ―許田・幸喜・喜瀬】

 名護湾岸の村々の川沿いに関心が向いている。川沿いの湿地帯は仕明地として開拓されていたのではないか。近世の地割から外れた土地として、同村の人民でなくても開拓ができた土地があった。許田・幸喜・喜瀬の直接の史料ではないが、以下のような仕明請地帳(二例)がある(『名護六百年史』所収)。

 一枚目は、名護間切数久田村の平良親雲上が、隣村の許田村にある「ふしにや原」の竿はずれ地を仕明請地とする。もう一例は同じく数久田村の平良親雲上が宮里村の「すみや原」の竿はずれ(迚?)を仕明請地とする内容である。数久田村の平良親雲上は許田村と宮里村に仕明請地を持っていたことがわかる。村超えをして仕明できたということである。

 ここで許田・幸喜・喜瀬の川沿いをあげたのは屋部や宇茂佐あたりのウェーキが、屋部川沿いにも持っていたが、名護湾を舟で横切って許田あたりに仕明地を持っていたことを聞いている(史料確認必要)。

 地割対象外の土地(仕明地など)を他の村に持つことができた。それは川沿いや内海沿いなどの湿地帯に多くみられる。羽地大川沿いなどは、村移動までして開拓させているところもある。


         (表紙)
    高 九 升 仕 明 請 地 状
          名護間切数久田村
                  平良親雲上

         (文面)
      名護間切 許田村
          ふしにや原竿はずれより成る
              仕明人  うし津波
      一、下田 壱畝拾五歩  九升   
    右遂披露候之処為仕明請地永々被下之旨被仰出候定納者百姓地並尤絵図仕付
    置候御模可相守者也
      道光拾五年乙未十二月

        高 所 
首里
            之印
       国頭里之子親雲上
                       喜舎場里之子親雲上
                       池原里之子親雲上
                       高嶺里之子親雲上
              名護間切数久田村
                       平良親雲上 

         (表紙)
     首里
      之印 
 高四升 仕 明 請 地 帳
               名護間切 数久田村
                         平良親雲上

         (文面)
      名護間切 宮里村
          すみや原野竿迚より成る
              仕明人  多戸 宮城
      一、下田 拾五歩  四升   
    右御手形被下置候処癸卯十一月白蟻は跡方無之由仰出候付帳面引合相成由
    仕明請地永々被下之旨被仰出候定納者百姓地尤絵図仕付置候御模可相守者也
       道光二十三年癸卯十二月
        高 所           東風平親雲上
                       大宜見親雲上
                       池原親雲上
                       高嶺親方
              名護間切数久田村
                       平良親雲上 


▲上流部は内海になっている。内海口あたり        ▲許田の内海一帯


        ▲幸喜の集落            ▲幸喜川沿い
     

2005.02.27(

 昨日の「仕明請地帳」に出てくる許田村の「ふしにや原」(道光15年:1835)は小字から確認できなかったが、宮里村の「しみや原」(道光23年:1843)は現在の宮里の「志味屋原」(シミヤー)一帯と見られる。どんな場所か立ち寄ってみた。屋部川(ヤブガーラ)の中流に位置する。白銀橋を境にして、その下流域右岸一帯が志味屋原である。仕明地のほとんどが川沿いの湿地帯の開拓とみている。予想通りの場所であった。

 現在はアパートや住宅や畑などになっている。ところどころに葦など湿地帯の植物が見らる。一帯は、かつて深田(ユピタ)だったにちがいない。そんな面影が今でものこっている。

 数久田村の平良親雲上は小舟で屋部川をさかのぼって「すみや原」まで来たのだろうか。昭和12年屋部川下流に水門が設置される。それまで「すみや原」付近まで小舟で往き来できたという。平良親雲上は数久田村のウェーキで宮里村や屋部村あたりの人に小作させていたのかもしれない(今朝みたら、水門は撤去されていた)。


          ▲現在の屋部川(ヤブガーラ)流域の志味屋原(シミヤー)
  【メ モ】
   沖縄本島北部の170、伊是名(5)・伊平屋(5)、そして伊江島(8)、
    計188の字(アザ)を踏査し、これまでのメモを再度整理する予定。
     (これまで角川地名辞典や平凡社の地名辞典やこのHPや「なきじん研究
     などで7割は触れていると思う。まだ正確に数えていませんが)