国頭をゆく
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国頭村をゆく(1)
国頭村をゆく(2)
国頭村をゆく(3)
国頭までゆく時間がなかったので、以前に神アサギ踏査をした記録がある。テーマは国頭のムラ・シマであるが、アサギ調査から宇良から安田の様子を思い浮かべる手がかりに。
宇良→伊地→与那→謝敷→佐手→辺野喜→宇嘉→(宜名真はスルー)→辺戸まで。宇良と伊地、辺野喜、宇嘉でウマチー(旧暦5月15日)が細々と行われていた。辺戸のヒチャラウタキへ。大き目の石灯籠の確認へ。その石灯籠は比地の中の宮の石灯籠、今回時間がなく行けなかった奥のウガミの石灯籠。国頭間切の国頭按司の関り、首里王府と国頭間切の関係を知る手がかりとなる重要なものである。辺戸のヒチャラウタキの石灯籠が粉々に破壊されていた。文化財の破壊行為である。
国頭村にある石灯籠と寄進されている香炉は、重要な歴史史料である。国頭村の石灯籠や香炉を手掛かりに各地の香炉や石灯籠の確認調査をしてきた。宮城栄昌先生の『国頭村史』から「国頭の歴史」に踏み込んでみようとしたところである。
与那は公民館(よんな館)と神アサギ、根神ヤーが新築されている。
途中、辺野喜でデジカメのバッテリー切れ(二台とも)。
辺野喜までの画像を追加します。
6月20日(月)再び、前日のパッテリー切れの辺野喜は前日)から安田まで訪れる。梅雨が明け、真夏。
10年前の画像と現在(平成28年)を並べてみると、原稿を改めることに。変貌していくもの、変わらないもの。普遍性とか過去に書かれたものも生き物だと実感している。
10 宇良の神アサギ
他と異なった雰囲気の建物。柱は4本。中に二基の香炉が配置されている。一つは宇良、もう一つはトンジャへ向って いる。宇良の一部はトンジャ(辺土名の上島付近)から移動してきたという。『琉球国由来記』(1713年)に宇良村に宇良村の神アシアゲとトヒチャ神アシアゲがあり、合併村の痕跡を残している。祭祀は辺土名ノロの管轄である。
今日は五月ウマチーだということで男性二人と女性一人(書記さん)が供え物を持参。「宇良の旧公民館の後ろから階段が作れていますよね」と尋ねると「作ったの私ですよ」とのこと。宇良と伊地は神行事は一緒に行うとのこと。
▲宇良の神アサギ(2005年) ▲宇良の神アサギ(ウマチーの日)(20⒗.6.19撮影)
▲宇良の旧公民館(20⒗.6.19撮影)
11 伊地の神アサギ
神アサギはヒンバームイの麓にある。広場より一段上部に位置する。近年建立されているようで、以前の神アサギはもう少し平坦地にお宮と並んであった(写真がある)。その時の建物はコンクリートの4本柱で赤瓦屋根の建物であったが、現在は右(写真)のような建物となっている。香炉は建物の外側にあり、タベラガー沿いにある祠に向いているようだ。ウタキ?祭祀は辺土名ノロの管轄である。
▲伊地の神アサギ(2005年) ▲神アサギ(20⒗.6.19撮影)
12 与那の神アサギ
与那の公民館の前にアサギマーがあり、アサギマーを挟んで神アサギがある。隣接してあるのが火神の祠である。アサギマーの籠と棒は海神祭(旧暦の盆あけの初亥の日)のときに使われる道具である。6本のコンクリートの柱とタモト木を模してコンクリートでつくってある。屋根は平らなコンクリートである。祭祀は与那ノロの管轄である。与那ノロは与那・謝敷・佐手・辺野喜を管轄する。
▲与那の神アサギ(2005年) ▲与那の火神の祠と神アサギ(2016.6.19)
▲与那のよんな~館(2016.6.19)
13 謝敷の神アサギ
神アサギはウンバーリの高いところにあり、集落が一望できる場所にある。神アサギはコンクリートでつくられ、香炉は後方のウガミ(ウタキ)の方に向いている。アサギの隣にウンバーリ(上原)と呼ばれる旧家がある。神アサギの前に広場があり、そこで豊年祭が行われている。舞台の柱を置く場所に礎石が配置されている。また、アサギマーに行く神道がしっかりと残されている。祭祀は与那ノロの管轄である。神アサギは立て替えられている。
▲謝敷の神アサギ(2005年) ▲神アサギ(20⒗.6.19撮影)
14 佐手の神アサギ
集落はサチヌウィー(佐手の上)と呼ばれ場所から移動してきたという。神アサギは現集落の内にあり、赤瓦屋根の建物。4本柱の建物だったと思われる。背面は壁になっていて、後方に旧家のメー(前)(屋号)がある。サチヌウィーにも拝所がある。
▲佐手の神アサギ(2005年) ▲神アサギ(20⒗.6.19撮影)
15 辺野喜の神アサギ
辺野喜の祭祀は下火になっているようだ。神アサギはコンクリートの祠になっていて神アサギの形を大分崩している。『琉球国由来記』(1713年)にヨリアゲ森の御嶽、神アシアゲもあり与那ノロの管轄である。現在は与那ノロ管轄の祭祀に参加していないという。平成12年のウンガミをみたが、神アサギでの御願は見られず、シバー(旧家)にある祠が重要視されていた。
▲辺野喜の現在の集落(2005年) ▲辺野喜の神アサギ(2005年)
▲辺野喜の村墓(共同墓)(20⒗.6.19撮影) ▲辺野喜にある宇嘉の村墓(共同墓)(2016.619)
(20⒗.6.19撮影) ▲辺野喜の神アサギ(2016.6.19)
16 宇嘉の神アサギ
ニーヤー(根屋)の前をアサギマー(庭)とし、アサギマーを挟んで神アサギがある。8本(内2本は木柱)の柱からなる赤瓦葺きの建物。香炉が二ヶ所に置かれ、一つはウイハー(上の川・故地)に向って拝む。アサギナーはエイサーやウシデークなどの踊りが行われる。かつて角力なども行っていたという。祭祀は与那ノロの管轄である。神アサギの側に力石(さし石)が置かれている。屋敷内に神アサギあり。
▲宇嘉の神アサギ(2005年)
▲力石と屋敷内にある神アサギ(2016.6.20)
▲宇嘉地区公民館(2016.6.20)
17 宜名真(神アサギなし)
▲宜名真地区公民館(20⒗.6.20撮影)
▲ウドゥン屋敷(宜名真神社)
(20⒗.6.20撮影)
18 辺戸の神アサギ
集落の上部に位置する。周辺にノロ殿内やシバという旧家がある。アサギマーもあり、そこで豊年祭が行われる。4本柱のコンクリートの瓦屋根。香炉が置かれいるが、その位置はウガミ(御嶽)を背にしている。『琉球国由来記』(1713年)にシチャラ嶽・アフリ嶽・宜野久瀬嶽・大川、それに神アシアゲがあり、首里王府から重要な地と見られている。辺戸ノロの管轄である。
▲辺戸の神アサギ(2005年)
▲辺戸の神アサギ
(2016.20)
▲辺戸地区公民館
(2016.20)
▲根神屋とノロドゥンチ(2016.20)
▲粉々にされた石灯籠(加治木石)
19 奥の神アサギ
「アサギはノロ殿内の拝所の後方に広がる広場があったが現在は奥公会堂が出来ているので、この公会堂の一隅に神篭りをすることになっている」(「国頭村奥の調査報告」1957年頃」。神アサギの移動があったことが知れる。現在の神アサギはトタン葺きで木の柱4本と簡易につくられている。『琉球国由来記』(1713年)にヤハ嶽とミアゲ嶽、そして奥ノロ火神と神アシアゲがある。祭祀は奥ノロの管轄である。海神祭とシノゴが一年越しに行われていたことがわかる。
▲奥の神アサギ(2005年)
▲奥の神アサギ(2016.6.20)
▲奥のウガンの石灯籠(2016.6.20)
▲奥集落センター(2016.6.20)
【奥のミアゲ森の祠の香炉】(宮城栄昌:国頭村史)
・カン豊九年己未十一月吉日 宮城仁屋
・(二基不明)新城仁屋・玉城仁屋
・石灯籠(銘不明)
20 楚洲の神アサギ
楚洲は『琉球国由来記』(1713年)に登場する村ではないので、近世後半に創設された村である(1753年には登場する)。今でもアサギマーの広場や地名があり、神アサギがあったことが知れる。また「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治15年頃)「楚洲村 神アシヤケ壱カ所」とあり、神アサギの存在が確認できる(現在の神アサギ?)。
▲広場がアサギマー(2005年) ▲ウジガミの祠(2016.6.20) ▲楚洲地区公民館(2016.6.20)
21 安田の神アサギ
国頭村で茅葺き屋根の神アサギが残っているのは安田だけ。そこで行われるシヌグは国指定重要民俗文化財となっている。茅葺き屋根で木の柱が10本あり。神アサギとアサギマーはシニグや海神祭の主会場となる。線香を置く場所は、柱と柱の間に設置されていて、ウガンバラ(御嶽?)の方に向いている。『琉球国由来記』(1713年)にヨリアゲ森と神アシアゲがあり、安波ノロの管轄村である。
ウガンバル?に「奉る寄進 □□九年巳未 十一月吉日 大田親雲上」銘の香炉確認。その年の国頭按司の江戸上り、あるい薩摩上りなどの動きを確認することに。
▲国頭村安田の神アサギ(2005年) ▲安田の神アサギ(2016.6.20)
▲安田地区公民館(2016.6.20) ▲□□九年巳未 安田親雲上の銘の香炉(2016.6.20)
22 安波の神アサギ
安波集落はウイバレーを中心に展開している。そのウイバレーの上部にウンフェー、その下方に神アサギやヌルドゥンチなどがある。集落から川を越えた所にヌーガミという御嶽があるが、神アサギの香炉はソウジヤマ(集落の後方の山)に向いているコンクリート屋根(平な屋根)でコンクリートの12本の柱がある。神アサギは一段高くなっていて、アサギに入るには数段ある一本木の梯子を利用する。祭祀は安波ノロの管轄。
▲安田の神アサギ(2001年撮影)
▲安波の神アサギ(2016.6.20)
▲安波の神アサギ(2016.6.20)
▲安波のヌーガミの祠と後方にイベ(2016.6.20)