久米島(具志川・仲里間切)                    トップヘ



平成22年4月24日(土)

 近々久米島に渡るので、引き出しの一つを開けることに。カビだらけで、ものにならないかもしれない。カビを払って久米島の具志川城から。

【久米島具志川グスクは具志川村地ではなく仲村渠村地にあるのは?】

 具志川グスクは久米島町仲村渠(具志川間切仲村渠村)にある。具志川間切具志川村ではなく、同間切仲村渠村の場所にあることから、歴史をひも解いてみないと。多くのグスクがその村名や地名と同一である例が多くみられる。そうでないのは何故だろうかとの疑問。その答えを引き出す方法の一つに歴史をひも解いていく方法がある。何故だろうかが面白い。

 久米具志川グスクが近世の具志川村の場所ではなく、仲村渠村である。にそこから、具志川グスクの歴史をひも解く面白さがある。具志川グスクは動かすことがでいないので、グスク近くにあった集落が移動していったとの仮説が立てられる。

 古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。仲村渠村のクシメ原にあるのは何故だろうか。具志川グスクが造られてた頃、仲村渠村があり、その地にグスクを築いたのであれば仲村渠グスクと名づけられたはずである。少し、文献資料の整理をしてみる。

 『絵図郷村帳』(1646年)と『琉球国高究帳』(17世紀中頃)、それと1713年の『琉球国由来記』でもに仲村渠村は登場してこない。仲村渠村の創設は乾隆11年(1746)だという。そこから見えてくる結論は、具志川グスクは築かれた頃から、具志川村(ムラ)地内であったこと。1746年に創設された仲村渠村は具志川村を分割した。分割し仲村渠村とした場所に具志川グスクが位置し、それが今まで続いているとみていい(そのような例に羽地間切の羽地番所が親川番所と呼ばれるのと同じ)。

 具志川グスクが具志川村にあったことを示しているのが、『琉球国由来記』(1713年)の「具志川城内御イベ  具志川村」である。つまり、具志川グスク内のイベは具志川村にあったことを示している。まだ、仲村渠村が創設される前のことである。そこから具志川村を分割し、仲村渠村を創設し、仲村渠村域に具志川グスクが位置することになったことを示している。

 仲村渠は具志川村(行政村)の一部ではなかったか。具志川グスクの周辺に前兼久と後兼久があったと言われ、その地名が今でも伝えられている。具志川村の中に前兼久・後兼久・仲村渠・上村(上村渠か。仲村渠村の古村?)など複数のマキ、マキヨ規模の集落があり、それが具志川村となり、さらに分割して仲村渠村の創設となったとみてよさそうである。

 ・具志川グスクは元はウタキ(具志川嶽)(『琉球国由来記』による)
 ・グスクは青名崎に造りかける( 〃 書)。
 ・築城者は他からきた者( 〃 書)。
 ・按司の入った棺に「正徳元年丙寅」(1506年)とあり。
 ・1506年に具志川グスクは落城したという(首里王府尚真王に攻められる。世那節大比屋の裏切り?)。
 ・落城跡具志川村は田尻へ移転?(仲村渠村と隣接) 
 ・城内に転がっている切石に「天正八年」(1580年?)とある。
 ・1644年に異国船や唐船の往来を監視する遠見番所が具志川村に置かれる(方位石)。
 ・1691年 久米具志川間切諸地頭作得帳によると按司懸(惣地頭)、里主所(脇地頭)を配置
 ・1746年(乾隆11)に仲村渠村が創設される。
 ・1746年(乾隆11)に久米島検地により具志川間切の村々の編成
 ・1750年(乾隆15)具志川村は仲村渠村と接近していて、首里王府の認可を得て「まつ口原」へ移
  動させられる。
 ・1800年頃、疫病のため旧地に移動。
 ・今帰仁按司十世宣謨は乾隆22年(1757)に久米具志川間切総地頭職を賜る。
 ・1750年に具志川集落は「松の口」(現在の字具志川地内)に移動する。
 ・1893年(明治26)に具志川村は「松の口原」(現在地)に移転する。

   

  ▲久米島具志川グスクの様子(2009.1) 昭和30年代の具志川グスク(新城徳祐資料)


  ▲久米島具志川グスクの拝所(2009.1)      ▲久米具志川グスク(整備された石積み)




平成22年4月30日(木)

 4月29日久米島にゆく。早朝5時に家をでる。空港へ6時半到着。一便(7時45分)は空席があるようなので。夕方の7時前の便に空席があったのでその場で予約。曇り空で、少し風あり。久米島を今帰仁でやってきた「ムラ・シマ講座」のスタイルでの踏査である。仲里と具志川の二つの間切(村:ソン)を一日で踏査するのは無理(島を反時計まわりに回る。時間切れで仲地〜鳥島まで未踏査)。忘れない内にメモでも。@〜Qは回った字(アザ)の順序(睡眠不足のためか体調不良。車中、仮眠をして何度か体調を整える)。

(旧具志川村)
   @大田/A兼城/B嘉手刈/P仲村渠/Q具志川/(以下未踏査・仲地/山里/
    上江洲/西銘/仲泊/鳥島)


(旧仲里村)
   C儀間/D島尻/E銭田/F真我里/G比嘉/H謝名堂/I真泊/J宇根/」   
   K真謝/L下阿嘉/M比屋定/N宇江城/O奥武島(以下未踏査・山城・上阿嘉・泊)


 久米島の五ヶ所のグスク(城跡)と集落との関わりが見たくて(今回足を運んだのは以下の五ヶグスク)。
  @伊敷索グスク(嘉手刈)
  A登武那覇グスク(宇根)
  B黒石グスク(阿嘉)
  C具志川グスク(仲村渠)
  D宇江城グスク(宇江城)



 ▲丘が具志川間切蔵元跡(兼城)     ▲兼城御嶽の拝所         ▲御嶽内のイベ?


▲伊敷索グスクの石積(サンゴ石灰岩が目立つ) ▲グスク内にある拝石(イベか) ▲城壁外にある祭祀場


▲伊敷索グスクから見た嘉手刈と儀間の集落 ▲アーラ岳林道からみた二つの集落


【伊敷索グスクと三つの村】

 伊敷索グスクと関わる三つの村としたのは、まず兼城港が伊敷索グスクの重要な津(港)だということ。グスクの西側を流れる白瀬川は兼城湾に注ぐ。そこには唐船グムイの場所がある。嘉手刈と儀間は儀間ノロの管轄の祭祀が伊敷索グスクで行われる。伊敷索グスクを軸に三つの村が関わっている。

【兼城港と蔵元跡】

 ・兼城港は兼城港、あるいは大港
 ・伊敷索グスクの要津、白瀬川沿いに唐船小堀がある。
 ・兼城港は久米島の親港
 ・兼城港は唐旅に赴く中継地
 ・首里王府の宮古・八重山への中継地
 ・兼城港(湾)は風向きに関わらず船の出入りができた。
 ・大型船が数隻繋留できる湾であった。
 ・首里王府へ上納物の積み出し港であった。
 ・具志川間切の蔵元は兼城村に置かれた。
    蔵元は兼城集落の東側→大中の拝所に隣接する丘へ(1691年)→乾隆34年(1769)に大田村へ。

【久米島のグスクから】

 久米島のグスクを整理している(まだ二つ)と、グスクが形成される変遷(過程)が見えてくる。伊敷索(イシキナワ)グスクではどうだろうか。それだけでなく、別の視点が見えてきそうである。

  ・久米島のグスクは御嶽であった。そこにグスクを造っている。
  ・グスクを造った人物は他からきた人物である。
  ・ウタキはムラ・シマの人々が造ったものである。
  ・ウタキを巡る祭祀はムラ・シマの人々の拠り所である。
  ・グスクが形成されると港が重要なキーワードとなってくる。
  ・集落移動、あるいは村移動や合併があったかどうか。
  ・規模の大きいグスクは後の間切(同村)へとつながっている。



【伊敷索グスクと集落】

 今でいう伊敷索グスクは『琉球国由来記』(1713年)で「イシキナワハ御嶽」とあり、そして久米仲里間切儀間村とあり、その時期にグスクではなく御嶽と記されていることに注目すべきである。そしてイシキナハ御嶽が仲里間切儀間村に位置していることも。また、伊敷索グスクは具志川村嘉手刈(小字西新田)にあり、祭祀は儀間ノロの管轄で行われている。嘉手刈の神人も関わる。祭祀の流れは基本的に踏襲されるので、間切境界や村境界の組み換えがなされている。

 仮説を立てると、伊敷索御嶽を拠点とした大きな集団があり、それが後に儀間・嘉手刈・兼城の三つの村(ムラ)となる。さらに間切の線引きがなされるが、不都合があり村の境界線の変更がなされている。

 『琉球国由来記』(1713年)にイシキナハ御嶽について以下のように記されている。


   久米仲里間切
    イシキナハ御嶽    儀間村
  一御前、神名、久米ノ世ノ主御イベ
  一御前、神名、アフライサスカカサ御イベ、
  一御前 神名、トヨムスノキミ御イベ

   由来。古、イシキナハ按司と云う人の亡霊を、崇敬仕たるとなり。彼イシキナハ按司、先祖は
   不伝。子息四人あり。
   嫡子は兼城大屋子とて、兼城村、今の御蔵屋敷に居住す。次男は中城按司、今の仲里城
   開基の主。三男は具志川按司、具志川城の(主?)。四男はカサス若チャラとて、(トン?)
   ナハに居住す。イシキナハ按司、終命の儀、当島御征伐の時、被封殺。亡霊は、旧跡、イシ
   キナハの御イベに、成たるよし、申伝成。

 『琉球国由来記』(1713年)や『久米島旧記』のグスクと関わる記事をあげるのは、それが事実かどうという史料批判も大切だが、その当時の書き手がどのような「歴史認識」を持って記述したのか。そこに関心がある。


 儀間ノロが関わる祭祀(稲大祭)は儀間と嘉手刈の集落から伊敷索御嶽へいく。そして集落内へ戻るコースをとっている。現在伊敷索グスクと呼ばれているが、祭祀を見ると伊敷索グスクは御嶽としての認識が強い。公儀ノロは複数の村の祭祀を管轄するのが一般的である。今帰仁ノロが今帰仁・親泊・志慶真の三つの村の祭祀を取り仕切り、今帰仁グスクの神アサギ庭に三つの村の神人が集まり祭祀を行うのと同じである。ここで注目しているのは、嘉手刈は具志川間切の村、儀間は仲里間切の村であること。二つの村は間切の境界線で分断されたが、祭祀は分割されなかったこと。それと御嶽をグスクとも呼んでいること。グスク内(御嶽:イベ)で行われる祭祀はウタキと関わる集団(マキ・マキョ)と密接にかかる祭祀場であること。グスクはもちろん祭祀と関わる部分もあるが、地方の支配者の居住地としての機能が見られる。そこでも村と御嶽(ウタキ)、グスクは他の地域からきた人物が造ったもの。


 ▲白瀬川の右手上に伊敷索グスクあり ▲伊敷索グスク内(御嶽)で祭祀を行った跡

平成22年4月27日(火)

【宇江城グスクと集落】

 宇江城を見ていく前に、仲里間切(村:ソン)の変遷を辿る必要がありそうである。仲里間切は久米中城間切で、久米中城間切の主(同)村として宇江城(中城)であった可能性があるからである。久米中城間切から久米仲里間切になった経緯を辿ってみるが、羽地間切の中城村や今帰仁間切の中城村が仲尾次村と改称されるのと筋書きは同一と見られる。(「グスク(ウタキ)と集落移動」については、現場踏査と祭祀の流れをみる必要があるので改めて報告することに)

 久米島の宇江城グスクは宇江城の山田原にある。まずは現在の久米島町宇江城につい触れなければならない。宇江城は久米島の北部に位置し、宇江城はウィーグスクと呼ばれ、宇江城岳の頂上部は中城(仲里城・宇江城)を中心に城・堂・仲里などのマキ・マキヨ規模の集落からなっていたという。三つの集落を合併して宇江城村となった(久米仲里旧記)。

 『琉球国由来記』(1713年)に、「久米仲里間切仲里城御嶽 宇江城村」とあり、神名として六つのイベが記されている。由来について「往古城主は久米中城按司と云う人の、亡霊を崇敬の由也。右城の儀、最初は御嶽にて、堂の比屋下女、ヲトチコハラと云う者、走逃、隠居けるに、其の時分、儀間村イシキナワ按司の次男、按司と号し、大城山に、城構へ、石垣積掛ける最中、ヲトチコハラ、御嶽より出来り・・・・・・。康煕六年(1667)丁未、城名改め、仲里城と云う也」と。概略は以下の通りである。

  ・昔の城主久米中城按司の霊を祀ってある。
  ・この城は最初はウタキであった。
  ・儀間のチハナ按司の次男が大城山に城を造るために石垣を積んでいた。
  ・ウタキに隠居していたヲトチコハラが出て来て、中城御嶽は地形は石で、水もあって
   立派な城になるでしょうと奨めている。 
  ・立派な城になることを見究め、そこの神を他に移すことに。
  ・比嘉御嶽は同じ高さなので、そこに移すことになった。
      (略)
  ・康煕六年丁未(1667)城の名を中城と改められた。

 久米中城(仲里)間切は首里王府にとって重要な地位(世子領)に置かれていた。
 
  ・1476年尚円王が没し世子尚真は久米中城王子となり、世子領となる。
  ・尚真王の世子の尚清、孫の尚元王も久米中城王子を称している。
  ・尚豊王は万暦47年(1619)中城を領地とする。
  ・尚豊王の世子の尚賢王は禎年間(1628〜44年)まで久米・中城を領地とした。
  ・尚賢王の世子尚質は順治2年(1645)に中城を領地とした。
  ・尚質王の世子尚貞は順治7年(1650)に「中城」を領地とした。
    (以降の中城は中頭の中城間切とみられる)
  ・尚貞王の世子尚純は佐敷間切を領地とし佐敷王子と称したが、康煕8年(1669)に中城を
   領地とし中城王子となる。
  その時佐敷間切から久米中里間切への転封である。
 ・尚純の世子の尚益も康煕28年(1689)に久米中里へ転封される。
   (以降も世子は久米島の仲里間切を加封される場合が多かった)
   (久米中城間切から久米中里間切への改称は尚質王の以降のこと)
 ・康煕6年宇江城村の仲城(現在の宇江城グスク)を中里城に改称した。
   
    (概略を把握するのに精一杯なり)


      ▲久米宇江城(2005年)             ▲宇江城から麓の集落をみる(2005年)

 


                久米宇江城(1960年)