久米島のムラ・シマ トップヘ
旧具志川村
これまで久米島(久米島町)は何度か訪れている。久米島のグスク、遠見所、あるいは集落(あるいは村移動)などで。久米島のムラ・シマは山原のムラ・シマとは異なっている部分が多々みられる。それは何故なのか。そのことを解き明かしていくのが目的である。
具志川(間切:村(ソン)から。
@嘉手刈
A兼城
B大田
C仲泊
D鳥島
E大原
F北原
H西銘
I上江洲
J仲地
2005.02.03(木)メモ
【今帰仁阿応理屋恵の祭祀の復元】
今帰仁阿応理屋恵の継承についていくつか研究があるが、その継承もまだ不明の部分が多い。ましてや今帰仁阿応理屋恵の祭祀については皆目わからない。残念なことに今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期に編集された『琉球国由来記』(1713年)に阿応理屋恵の祭祀の記録がほとんどない。
辛うじてあるのが『琉球国由来記』(1713年)における阿応理屋恵按司火神(親泊村)の記録である。
阿応理屋恵按司火神 親泊村
麦稲四祭之時、仙香、肴一器、蕃署神酒一完(百姓)
大折目・柴指・芋ナイ折目之時、仙香、花米五合完、五水二合完、肴一器(百姓)供之。
同巫・居神、馳走也
とあるが、同巫は今帰仁阿応理屋恵の可能性もあるが、流れから見ると同巫は今帰仁巫の可能性である。他の今帰仁グスク内での祭祀は今帰仁巫の祭祀となっている。
今帰仁グスク内の今帰仁里主所火神、グスクの近くにあるコバウノ御嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀ではなかったかと考えている。今帰仁阿応理屋恵の祭祀は消えてしまっているので久米島の君南風の祭祀からいくらか復元が可能ではないか。そんな期待を持っている。まだ、見通しはまったくナシ
『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)や『久米のきみはゑ五〇〇年』(久米島自然文化センター)で「久米島の君南風」の二枚の辞令書が紹介されている(鎌倉芳太郎ノート)。今帰仁阿応理屋恵にも辞令(印判)の発給がなされているが、その現物や辞令の写しなどは確認されていない。久米島の君南風と同様な内容に違いない。
ここで注目しているのは「くしかわまきり」や「にしめ」など近世の「間切」や「にしめ」(西銘)などが平仮名で出てくるウことである。
@君南風の大阿母知行安堵辞令書(1566年)
しよりの御ミ事
くめのくしかわまきりの
にしめのうちま人ちもとハ
あまかちの内より
一かりや三おつかたに六十九まし
ひらちしやはる又□□□はるともニ
又七十ぬき〔ちはた〕け□〔おほ〕そ
はゑはる又はなうはる?
〔又〕おち□□〔はる〕〔又〕□□はるともニ
このちのわくそ□この大あむかめはたまてハ
御ゆるしめされ候
一人きミはいの大あむに
たまわり申〔候〕
しよりよりきミはいの大あむか方へまいる
嘉靖四十五年十月八日
A君南風の大阿母知行安堵辞令書(1595年)
しよりの御ミ事
くめのくしかわまきりの
あらかきちもとのきミはいの
大あむかのろち
一 せちよくたに十四ましこミなとはる
又 十にきちたけ□〔おほそ〕
きし□□□
このちの□□かり(しまくにの人の?)〔て〕ま
つかいハ御きんせい(にて)候
一人きミはいの大あむに
あまわり申〔候〕
しよりのきミはいの大あむか方へまいる
万暦二十三年正月十二日
今帰仁按司(監守:阿応理屋恵)が首里に引き揚げる1665年まで
今帰仁間切(今の本部町含む)の番所は今帰仁グスク内にあった?!
今帰仁間切から伊野波(本部)間切が分割されると今帰仁間切は運天に、本部間切は渡久地に番所が置かれた。
(工事中)
K具志川
2005.02.01(火)メモ
(久米島ノート)
久米島の主なグスクに具志川グスク・宇江グスク・伊敷索グスク・登武那覇グスクなどがある。16世紀初頭尚真王の一軍に討伐されるまで、島内にグスクが割拠していた様子が伺える。グスクを築くことは、久米島内での按司同士が競い合わなければならない状況にあったのであろう。その様子は沖縄本島で北山・中山・南山の鼎立があるが、さらに中規模あるいは小規模のグスク間で争いがあったことが想定できる。
【久米島宇江グスク】
久米島の宇江グスクは中グスクや仲里グスクともいう。標高309.5mの宇江岳にあるグスク。そのグスクと関わる集落は中城・城・堂・仲里。城・堂・仲里の三つの集落が一つになって宇江城村になったという(『久米仲里旧記』)。
・大城城にグスクを築こうとしていた
・中城御嶽のある岳は水の便がある
・要害であり、グスクに適している
・中城御嶽の神は比嘉岳へ遷す
・石工のムクチ樽ガネに普請させ築かせる
【宇江グスクと集落】
宇江グスクは仲里村(現在久米島町)の宇江城にある。グスクの麓にあった城・堂・仲里の三つの集落との関わりはどうだろうか。もう少し史料の整理が必要。ここでも具志川グスク同様、グスク築城の過程が見えてくる。
当初から別の場所(大城)にグスクを形成しようとした。ところが、水の便や要塞とするに適した場所として選んでいる。具志川グスクもそうであったが、その場所が御嶽であったということグスクを考える視点として重要なことである。それは集落の形成が先か、グスクができて集落が形成されるかの議論につながるからである。ときどき、山原のグスクを議論するとき、「城壁の石垣を取り払ったら何が残るか。御嶽ではないのか」と問う場合がある。

▲宇江岳に築かれた宇江グスク遠景 ▲宇江グスクの城壁
L仲村渠
2005.02.02(水)
久米島のグスクは伊敷索グスク→具志川グスクあるは宇江グスクの順に回った方が理解しやすいかも。麓に兼城泊や唐船グムイがある。
【伊敷索グスク】のメモ書き
具志川村(現在久米島町)嘉手苅にあるグスクである。嘉手苅村は乾隆11年(1746)に仲里間切から具志川間切へ編入された村である(方切)。伊敷索グスク内の御嶽は『琉球国由来記』(1713年)では儀間村の拝所で儀間ノロの管轄である。
伊敷索グスクの崖下を白瀬川が流れている。グスクの形は長方形(正面は直線で白瀬川沿いは崖)をなし、他のグスクとは異なった感がある。正面の直線的になった石積みは地形によるものか?興味深い。意識して直線にしたのなら、なお個性あるグスクである。久米島の具志川グスクや宇江グスクもそうであるが伊敷索グスクも尚真王の征伐で滅ぼされたという。
この伊敷索グスクについて、
『具志川間切旧記』(1703年)は
長男は中城(仲里城)按司
次男は具志川按司
長女は兼城大屋子の妻
次女は照真の妻
腹違いの三男笠末若茶良の母は粟国島出身
とあり、また『琉球国由来記』(1713年)では、
伊敷索按司には四人の子があり、それぞれが兼城村の屋敷、宇江城、
具志川城・登武那覇城を拠点として各地を統治していたが、尚真王によ
る久米島征伐で滅ぼされた。
とある。二つの記録は、史実として解するには府に落ちないところが大である。別資料で見ていく必要がありそうだ(要調査)。

▲伊敷索グスクから白瀬川を望む ▲グスク内で行なわれた祭祀の跡