今帰仁村古宇利                          トップヘ

 ・今帰仁村古宇利島の御嶽(ウタキ) ・スルルガマと戦争  ・古宇利島の印部石 
 ・大阪毎日新聞の古宇利島の記事(昭和9年7月20日) ・古宇利の海神祭


2003年6月21日(土)

 午後の便で古宇利島へ。字誌の編集会議である。今日は、以下の三編である。門中(一門)と屋号は特に配慮を必要とする。第三者には編集することができないところがある。それだけ慎重さと気配りが必要だということ。島に渡るたびに、そこは間違っている、そこは直して欲しいと編集した私は言われかねない。そうならないための編集会議である。次第に足が地についた編集会議になってきた。

 前回配布した「溜池と井戸」と「回想」も丁寧な校正がはいている。それは有り難いことである。そのために、土台となる原稿を島の方々に校正していただいているのである。

    ・古宇利の小字(原名)
    ・古宇利の門中(一門)
    ・集落と屋号

 前回の溜池や井戸にも原稿に入っいなかった話がつけ加えられ、伝承や民話の編にはいる話題がいくつもでてきた。有り難いものだ。編集者冥利に尽きます。小字(こあざ)のところでは、「雨底原」(アマミジャフ)について話題が展開した。古宇利島の頂上部(上原集落一帯)である。島の方々の生活体験からすると、「高いところにある凹」に落ち着いた。もちろん「天底」地名にも及んだ。小地名(ショウチメイ)については、次の話題なのであるが海岸の地名やキータティファーイやアサギマガイなど。原石なども・・・。

 島の方々の話を聞いていると、屋号や小地名がふんだんにでてくる。それは人や場所を特定するところから話がはじまる。そんな印象を持っている。場所(地名)や人物がわからないと話はチンプンカンプン状態である。三割程度理解できたかな?である。それが方言での会話だと、それはそれはムサっとお手上げです。

 活字で見ていた古宇利島が、島の方々の生の声を通して知る事のおもしろさ。ことばで表現できないほど有り難いものがある。外から見ればアホだと思うかもしれないが。いつも贅沢な仕事だと内心・・・・。ハハハ

 編集会議が終わり、楽しみの港まで島散歩である。サブセンターから港までいくのに古い墓をみ、海岸沿いに新しい道が工事中、旧道沿いの福木やアコウの木などが、変貌していく古宇利島の過去の風景を彷彿させてくれるのであろう。漁港から港あたり一帯の風景を記憶にとどめる手がかりになりそうだ。

 集落にちょっとはいていくと石積みの屋敷囲い、何をしていた家だろうか?今日の編集会議で話題になったスントーヤー(村頭屋)だろうかと思いはせながらの帰途であった。


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    ▲2003.6.21の古宇利島         ▲漁港から港にかけての道路工事

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    ▲新道が左側の下方で工事中、旧道?沿いの福木とアコウの老木

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    ▲港からみた旧桟橋・ウンナヤー・中森の御嶽、島の南斜面のナハバイの集落

【今帰仁村古宇利島の御嶽(ウタキ)】(2004年7月24日)

 古宇利島は今帰仁村村にある離島である。この島に七森七嶽(ナナムイナナタキがある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる古宇利(郡)島の御嶽は次の三つである。

  ・中 嶽       神名:ナカモリノ御イベ   (現在のナカムイヌ御嶽)
  ・サウ嶽御イベ  (神名不伝)           (現在のソウヌ御嶽)
  ・カマニシ嶽御イベ(神名不伝)         (現在のハマンシヌ御嶽)

 『琉球国由来記』に記載のないのがマーハグチヌ・プトゥキヌメーヌ・ハマンシヌ・マチヂヌの四御嶽である(郡巫の崇所の所に誤記があるのでそこは注意)。御嶽の議論をするとき、どの御嶽かを特定して論を展開する必要がありそう。


              
▲古宇利島の七森七嶽の位置

 島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)がある。一島であると同時に一村である。そこに七つの御嶽がある。島の集落の発生と御嶽(ウタキ)との関係がどう位置づけられるのか。本島側の御嶽からするとマクやマキヨの小規模の集落と結びつけて考えられないか。さらに御嶽を担当する神人(神人をだす一門)との関わりでみていくとどうだろうか。かつてはタキヌウガン(旧4月と10月)のとき、島中の人たちが参加したという。

 古宇利島が複数の小集落の統合があり、さらに村の合併の痕跡がある。ただし、近世には一村になっている。村の統合の痕跡は神アサギが二つあったこと。現在の神アサギ(ウイヌアサギ)とヒチャバアサギ(下のアサギ)があること。ウンジャミのときウイヌアサギとヒチャバアサギで同様な所作を行っている。そしてソウヌウタキ付近にアサギマガイの地名があることなど、少なくとも二つの村レベルの集落の合併があったとみられる。

 古宇利島のウタキ(御嶽)と集落、集落を一つにした村(ムラ)との関わりで見ると、どうも島のいくつかの小さな集落(マクやマキヨ規模)から成り立っていた。それが、次第に村としてまとまっていく(あるいは、まとめられた)。その痕跡として七森七嶽のウタキを担当する神人があてがわれているのではないか。集落は村(ムラ)として一つにまとまったのであるが、別々の集団を一つの村にしたとき、それぞれの一門から神人をだし、ウタキを担当する神人として伝えているのかもしれない。その姿は国頭村比地のアサギ森(ウタキ)の中にある数カ所のイベに、各一門が集まる姿とよく似ている。古宇利の七森七嶽は島内に数個の集落の発生があり、それが一門のよりどころとして御嶽をつくり、祭祀に関わる神人の出自と御嶽が結びついている。古宇利島の七森七嶽は、そういった集落の展開と祭祀、さらに神人との関係をしる手掛かりとなりそうである。

 古宇利島の七つの御嶽は杜をなし、その中にイベに相当する岩場がある。岩場の半洞窟や洞窟を利用している。マーハグチは半洞窟部分に石を積み上げ内部に頭蓋骨や人骨がある。形としては墓である。かつては頭蓋骨を拭いたというので墓ではないのかもしれない。ナカムイヌ御嶽だけはコンクリートで祠をつくってある。ソウヌ御嶽のイビは未確認である。 

御嶽(ウタキ)名と概要 現在の御嶽の様子
ナカムイヌ御嶽  古宇利の集落の中に位置し、中森御嶽の近くに神アサギやフンシヤー、そして南側に内神屋・ヌル屋・ヒジャ屋などの旧家がある。豊年祭や海神祭を行うアサギナーがある。年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンだけでなく他のウガンでも拝まれる御嶽である。御嶽と神アサギの間はミャー(庭)となっていて豊年祭やウンジャミが行われる。御嶽の中にイビがあり、そこに祀られている骨は人骨の認識がある。プーチウガンやナカムイヌ御嶽は古宇利子(フンシヤー)の扱いである。下の画像はナカムイヌ御嶽の中にある祠。イベにあたる

マチヂヌ御嶽  古宇利集落の後方に位置し、年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、現集落を背にして拝む形である。一帯は中原遺跡となっていて、集落があった痕跡がある。ヤトウバヤ(恩納ヤー)の担当の御嶽。(画像古宇利掟提供)

 下の画像はマヂヂヌ御嶽のイベにあたる部分。大きな岩の窪みに石がいくつも置かれている。



マ|ハグチヌ御嶽  最近マーハグチまでの道が開けられた。神人達はタキヌウガンのとき、そこまで来ないで道路でお通しをする。大きな岩の下に石積みがあり、頭蓋骨をみることができる。現在は年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンで拝まれるが、根神の一門で正月・四月・七月・十月の年四回拝んでいたよだ。花米や御五水(酒)を供え、白い布を酒でひたし二つの頭蓋骨を拭くこともやっていたという。担当は根神である(マーグスクヤー)。
トゥンガヌ御嶽  道路から御嶽の中に入り進んで行くと岩がある。その下に線香を立てる石が置かれている。年二回のタキヌウガン(旧4月と10月)の時は道路で線香をたてお通しをする。ノロなど七名の神人が担当するという。


                (画像古宇利掟提供)
ソ|ヌ御嶽  古宇利島の東側に位置し、御嶽の近くの浜はソーヌ浜と呼ばれる。杜全体が御嶽になっていてイビがあるというが未確認。ウンナヤーは一帯から集落内に移動したという伝承がある。そのためかウンナヤー担当の御嶽だという。タキヌウガン(旧4月と10月)のときは、上の道路からお通しをしている。宮城真治資料ではノロなど七名の神人の担当になっている。ウンナヤーのここからの移動伝承は、御嶽と御嶽担当の神役との関係を示している可能性がある。
プトゥキヌメ|ヌ御嶽  島の一周線から御嶽に入ると半洞窟の岩屋がある。そこは御嶽のイビがあり線香をたてる。鍾乳洞の石が仏に似ていることに由来するのだろうか。タキヌウガン(旧4月と10月)のとき、神人達はイビまで行ってウガンをする。ノロ担当の御嶽のようである。付近に集落があったかどうかの確認はまだできていない。
ハマンシヌ御嶽  一帯の地名がハマンシ(浜の石)で、島の西側の浜は石が多いことに由来するようだ。別名ビジュルメーヌ御嶽ともいう。御嶽に入るとイビの奥に小さな洞窟があり、人形の形をしたビジュル(小石:石筍)がいくつもある。ここも年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。二、三人の神人が洞窟内で石を持って吉凶を占う。内神の担当のようである。

【スルルガマと戦争】(2005年7月23日)

 
午前11時から諸喜田節子さん(古宇利島出身)親子(三名)と福保先生、歴文から私とうし丸が参加。ボートで島の西側のガマ(洞窟)をゆく。一度は行って見たいと思っていた場所である。島の西側は切り立った崖になっていて、崖の下にスルルガマやヤマトゥガマやパマイャーヤ(浜の岩屋)などの洞窟がある。他にサバアナやゼンシンヤーヌガマ(生け簀)などもある。サバアナはサバが入り込んだ穴、ゼンシンヤーのガマは海人(漁師)をしていたゼンシン氏が生け簀に使っていたガマに付いた呼称。ハマンシ(浜岩)は崖から崩れ落ちた石(岩)があちこちに転がっていることに因んだ地名なのであろう。

 戦争の時、西側のスルルガマに逃げ延びたと、何度か聞かされていた。古宇利島の方々だけでなく運天の人たちにも。案内いただいたのは、スルルガマで米軍の「出て来い、出て来い」に応え、両手を挙げて出て行き、羽地の田井等の収容所に連れて行かれ、助かった方々である。スルルガマからグサブ(古宇利港)に連れていかれ、そこから米軍の舟艇で羽地の田井等に収容され(昭和20年3月)、そこは満杯だったため羽地の呉我の民家に移され、昭和20年の10月頃帰島を許されたという。

 幸いなことに、古宇利島のスルルガマに隠れた人たちは助かり、死者は一人も出なかったという。今次大戦でスルルガマのような洞窟に多くの人たちが避難した。多くの犠牲者を出したガマもあるが、古宇利島のスルルガマでは全員が助かった。そこで生死を分けたのは何だったのか深く考えさせられる。

 ガマ調査の後、大潮なので潮の引きがよく潮干狩りをする。サザエなどの貝や海草がよく取れる。それは海人の諸喜田節子さん(80歳)のこと。素人の私たちはタコの子を二匹と貝を一個見つけただけ。帰りには、諸喜田さんから貝や魚などお土産にたくさんいた。ガマ調査にボートを出していただき、さらに潮干狩りをし、私たちにたくさんの海の幸のお土産まで。



   ▲運天港からボートが出た       ▲スルルガマは古宇利島の西側〈左)にある


 ▲まずは生け簀に使っていたガマへ       ▲崩れ落ち岩があちこちにある


   ▲ガマの入口から外をみる         ▲崖のあちこちにガマがある


  ▲スルルガマの前に大きな岩がある     ▲スルルガマの中にさらに穴がある


【古宇利島の印部石】(ハルイシ)(2006年9月27日)

 古宇利島の印部石(原石:ハルイシ)の確認と案内である。島にはこれまで確認されている原石は七基である(平成18年9月現在)。現地にあるのが「オ いれ原」と「ヲ いれ原」の二基、島の民家に二基、歴史文化センターに三基の計7基である。外に二基の原石について聞いているが現物は未確認である。何度も行っているが、「ヲ いれ原」の原石の場所がわからず小浜さんに案内してもらう。感謝。

 @ オ いれ原(現地)(現在の「立ち原」にある)
 A ヲ いれ原(現地)(現在の「立ち原」か。立ち原と喜屋原と根ガ底原の境にある)
 B ほ あらさき原(島の民家)(あらさき原の小字は現在の小字になし。ただし、荒崎の地名が残る)
 C ひ あかれ原(島の民家)(あかれ原は東原とみられ、現在の小字に東原あり)
 D レ いれ原(歴史文化センター)(いれ原は西原とみられ、現在の小字に西原あり)
 E に あかれ原(歴史文化センター)
 F 於 いれ原(歴史文化センター)

 印部石(原石)と向かい合って20年近い歳月が過ぎている。これまで今帰仁村の原石については随時報告してきた。古宇利島の原石については『古宇利誌』(平成18年5月発刊)の中で紹介してきた。歴史文化センターが原石を扱う視点は『なきじん研究7号―今帰仁の地名―字名と小字―』で分析した「村内の原石と原域」と「今帰仁村内の小字の変遷―平敷村略図にみる―」の分析を踏まえて議論を進めている。原石にある原名と現在の小字(原名)との関係を明確にして小字や原名域の議論がなされる必要があると常に考えている。

 今回、古宇利島の荒崎(あらさき)まで足を運んでみた。現在民家にある「あらさき原」の原石が気になるからである。というのは「あらさき原」の小字は現在の小字にはない。「あらさき原」の原石が現地から民家に移動していることは「あらさき原」の場所が特定できなくなっている。そのために荒崎(「流し原」域にある)のあたりが、かつての「あらさき原」であったとみている。そこは古宇利島の北側に位置し、外洋の荒波が直接島に打ち当たる場所である。隠れ地にあたる場所である。そういう隠れ地まで原石を図根点として測量したのかと・・・。測量技術の綿密さに感心するが、それ以上に島の隅々まで測量をし税を課した首里王府(蔡温)にはなお感心してしまう。

 
  ▲「ひ あかれ原」の原石(民家)    ▲「オ いれ原」(現在の立ち原にある) 


 ▲「ヲ いれ原」(現在の立ち原にある)   ▲荒崎(一帯はかつて「あらさき原」?)


【戦前の古宇利島】(2006.07.09 メモ)

 7日古宇利島の字誌の編集委員の打ち上げ?があった。編集委員の参加が少なかったので字総会の打ち合わせ会となりました。せっかくだったので同席することに。古宇利島出身の玉城良次氏も参加。昭和9年7月20日付の「大阪毎日新聞」の記事を持参(玉城善次氏提供)。戦前の古宇利島を知るのに貴重な内容なので全文紹介しましょう。


【大阪毎日新聞の古宇利島の記事】(昭和9年7月20日)

 恋の島の守り神


   和製アダムとイヴ 琉球古宇利島風景

   強烈な泡盛の香と、涙をさそふ蛇皮線のトレモロに神秘な伝説と千古の夢をのせて、
  点々と南海を区切る琉球列島―古風な独木舟(まるきぶね)の定期船に便乗した記者は、
  その列島のなかに、かつて、和製のアダムとイヴが桃源の夢を結んだといふ「恋の島」を
  探ね為朝公漂流ゆかりの運天港(那覇市の北方廿二里)を船出した。
   スイスイと白雲が爽やかにながれさる大空の下、鰹の血で染めた、真っ赤な帆に順風を
  孕んで独木舟は紺碧の島(古宇利島)―海路七合五勺(一里足らず)である。


 程なく独木舟は島に着く、長い髪を束ねた女のような老爺や、手の甲に刺青した老婆たちが、この不意闖入者を異端者のように見守っている、島一面に密生した榕樹と芭蕉の間を彩って梯梧の花が咲いている、赤道近い真夏の太陽が、焼け付くように暑い、周囲一里七町、人口七百余という小さな島である、珍しげにキョロキョロ見廻している記者の眼に、軒下一尺ぐらい、赤瓦葺の異様な建物が・・・これが、琉球の元祖である和製アダムとイヴの創生の地であり、最初の生活苦を味わった遺跡である、火神といって、七個の石を祀り、島内でも最も神聖な地とされ、島の人々は、どんな怪物に襲はれてもここまで逃げて来れば忽ち神の霊威により、危難を逃れるとみんな固い信念を持っているのだ。
        
 ここで少し話を古代へかへそう
 何千年かの昔、大洋の真ん中にポツンと浮いたこの古宇利の島に、和製のアダムとイヴが住んでいた、全裸の彼等は、無邪気に岩礁の上を跳ね廻って、毎日天から降ってくる餅を食って暮らすうち、一日その餅を食い残して、翌日まで蔵っておいたら、どうしたものかそれからは、餅が降らなくなった。驚いた二人は、

   若しお月さま  お月さま
   大餅ふと餅   下さいな
   赤螺拾うて    あげませう

こんな唄を歌って、天に憐れみを乞うたが、その甲斐もなく、働かねばならなくなった二人が磯へ出て赤螺などをとっているとき雌雄の海馬が戯れる姿を見て、ふと真似てみた、と急に、今までのはだかが恥ずかしいくなり、二人は蒲葵の葉で腰のまわりを巻いた・・・それから後、子孫は次第に繁昌しやがては島に溢れた子孫たちが、だんだん他の島へ移住して、遂に琉球王国を形づくった
    


 ▲アダムとイヴの遺跡の前に立つ神人たち


※神人二人の後方にある祠はクワッサヤー(現在のお宮)である。昭和12年に建立された
 お宮以前の姿である。クワッサヤーについて、海のものを村人がご馳走になる場所ではな
 いかと考えていた。その中の大きな石(七個)についても気になっていた。戦前の島人の認
 識にクワッサヤーは伝承の二人がお産した家、七個の石は島の七森七嶽などと結びつけ
 ているのではないか。

2005年8月.31日(水)

 今年のウンジャミ(海神祭)は学芸員実習を兼ねての参加である。ウンジャミを見るのが最初のメンバーがほとんど。本番を見る、あるいは参加するにあたってビデオで様子をみる。橋が架かって最初のウンジャミである。祭祀の流れをつかむことで、妨げにならないような調査と動きをしてもらうことに。古宇利小学校の参加があった。真剣な眼差しと、参加している姿は自然である。逆によそものの私たちが反省させられる面が多い。

 古宇利島の海神祭(ウンジャミ)。12時半頃から三々五々と神人達が神アサギに集まってきた。旧盆明けの最初の亥の日にあたる。古宇利子(フンシ神)を勤める古宇利春男氏の合図で祭祀が始まる。神アサギの中に神人全員が集まり、まずナカムイの御嶽に向って線香をたて祈りをする。神アサギでの祈りが終わると、神アサギから筵を外にだし、何名かの神人が座り、弓(ヌミ)を持つ神人(今年は6名)がロ形の周辺をコ字形に七回往復する。

  (コ形に7回往復するのは、島に七森七嶽があるので、そのことを認識しているのかもしれない)

   神アサギでは七回往復すると、ミャー(庭)の東側に神人が二列縦隊に座し、ナカムイの御嶽に
   向って祈る。その後、ヌミ(弓)に餅を結わえ落とす所作がある。その後、書記さんが神人に餅を
   配る場面がある。

 神アサギから古宇利子(フンシー)ヤーに移り、フンシヤーの庭にある小さな祠に二本のロープを結わえ、二本のロープで船をつくり、神人達がロープとヌミ(弓)を手に船を漕ぐ所作をする。祠にはブジュル(男根)が安置されている。(かつて、そこから男女が古宇利子宅にはいり、男女の交わりの仕草をしたという。今では行なわれていない)。

 古宇利子ヤーから神道を通りクヮサヤー(ヒチャバアサギともいう)へ。そこで神アサギ同様、座る神人とヌミを持つ神人に分かれ、神アサギミャーで行なわれる所作を七回行なう。

 弓を持った神人がシラサ(岬)へゆき、東方(塩屋)に向って神送りをする。(神人は塩屋は姉妹であるので、塩屋に向って合図、あるいは神送りをする認識を持っている)。台風の余波で風が強く、神人は岬のちょっと行ったところまで。三人の神人はいつもの岬の中あたりで東方に向って祈りをした。

 シラサで(岬)での祈りが終わるとクヮサヤー(ヒチャヌアサギ)で、弓を持つ神人全員で長い棒(帆柱?)を以って漕ぐ所作をする。長い棒を置き、頭に被っていたハーブイを置き、神衣装を脱いで一通りの祭祀を終える。弓を持つ神人は自分のカミヤーに行き、弓をおさめる。フンシー神はフンシヤーの祠に行き、フンシー神人と弓を持つ神人一人、玉城氏(海勢頭役?)の三名で小さな祠への祈願をする。古宇利子の祭祀は、ここで終わる。

 古宇利春男氏(古宇利子)と玉城氏(海勢頭役?)がお宮(海神宮か)にゆき祈願をする。そこでの祈願が終わると、ハーリー舟の漕ぎ手(東・中・西)達が集まり手をあわせる。三つのコースをくじ引きで決める。ハーリー舟はウプドゥマイのシラサ(岬)から漕ぎ出し、スタートの位置へ向う。スタートラインに着くとスタートの合図がなる。

 今年は前半が台風の余波の強い向い風、往路は追い風。ウガンバーリは島の漁師達がほとんどなので、強い風はなんのそのである。今年は西組が一位、東組が二位、三位は中組であった。強風、そして波のある中での競争だったので、見る側にとっては迫力のあるハーリーであった。