羽地内海の勘手納港(平成7年記録)


 勘手納港は羽地地域の米の積み出し港

 勘手納港は名護市呉我から仲尾、そして仲尾次にかけての海岸線のことである。狭い意味での勘手納港は仲尾集落の前方の海岸のことである。仲尾のことを「かんてな」と呼ぶのは、近世から明治にかけて国頭・大宜味・羽地など間切の貢物を納める定物蔵があったことに由来するのであろう。「仲尾に公庫即ち定物蔵を設置し、羽地間切の貢米を勘定せしを此の名ありといふ」(沖縄県国頭郡志)。

勘手納港は羽地内海の奥まったところにある。まだエンジン付きのない船の時代、古宇利島の前方から屋我地島と運天との間の水路(ワルミ海峡)を通り、羽地内海へと進まなければならない。帆船の山原船の往来は風向きもあるが、潮の満潮や干潮を見計らっての出入りとなったであろう。

仲尾の集落は小字半田(パンタ)原にあったが、道光15年(1835)に仲尾原に移動している。その理由は集落地が狭いので勘手納と東兼久(現在の仲尾原)に移動した(羽地間切肝要日記)。故地の半田原に神アサギやノロドゥンチやウペーフヤー、ニガミヤーなどの拝所があり、集落が移動したことがうかがえる。 


 ▲仲尾の集落と勘手納港
 ▲仲尾のトンネル(大正8年開通


 勘手納港と仕上世米

勘手納港は羽地間切(旧羽地村)の仲尾村の前方の海岸一帯を指している。羽地間切番所は親川村にあったが、上納米などの搬出場所は仲尾村の勘手納港であった。仲尾村には定物蔵がいくつも設置され、羽地間切の上納米が蓄えられ、そこから薩摩へ運ばれた。また、勘手納港は運天港・湖辺底・那覇と並んで四津口と呼ばれていた。港名はカンティナやカンティナナートゥと言うが、上納米の勘定をしたことから、そう呼ばれている(『羽地村誌』)という。


北山攻略と勘手納港

勘手納港の後方に羽地地方(後の羽地間切、現在名護市)の拠点となった親川(羽地)グスクがある。親川グスクが機能していた時代、この港が使われていたに違いない。1416年(あるいは1422年)、中山の尚巴志の連合軍が北山を攻め滅ぼした大きな出来事があった。

『球陽』(尚思紹王11年:1416)に「王尚巴志を遣はし、山北王攀安知を滅ぼさせしむ」とある。その時の様子を「・・・王(尚巴志)、世子巴志に命じ、急ぎ軍馬を整へ、往きて山北を征せしむ。巴志旨を奉じ、便ち浦添按司・越来按司・読谷山按司・名護按司・羽地按司・国頭按司の六路の軍馬を将て、隊を分かちて先に往かしめ、随ひて後、官軍大いに発す。寒汀那港に前み至り、兵を擁して江を渡る。・・・」と記してある。中山の按司、それと北山の名護・羽地・国頭の按司も加わって北山の攀安知王を中心とした軍隊を攻め滅ぼした。勘手納港は北山を攻め入るのに集まった港であった。


▲親川(羽地)グスクの遠景
  
           ▲親川グスクに隣接してある神アサギと火神の祠


 勘手納港の風景

  今帰仁間切の運天番所へいく時、勘手納港からサバニに乗り、湖のような羽地内海を渡る場合がある。明治14年羽地間切番所を訪れた上杉県令は「勘手納港ニ出ツ、官庫瓦ヲ以テ葺ケリ、役所詰員、及ヒ村吏ノ奉送スル者、皆別ヲ告ス、舟子舟ヲ艤シテ待ツ」(『上杉県令巡回日誌』)と勘手納港から屋我地島に向かう様子や勘手納の倉庫が瓦葺きであったこと記録に留めている。また1719年に蔡温は勘手納港を訪れ漢詩を謡っている。 

  勘手納暁発    勘手納を暁に発す
   桂帆此地離    桂帆して此の地を離る
   烟水暁天馳    烟水暁天に馳す
  興深回首望    興深まりて首を回らせて望めば
 江山盡是詩    江山尽く是れ詩なり

 
   ▲仲尾次側からみた勘手納港         ▲中央部の丘は親川(羽地)番所があった場所


▲仲尾の集落(平成17年)と羽地内海

『親見世日記』(1785年)に「勘手納津口で米を積んで出航した記事があり、また『志那冊封使来琉諸記』(1866年)に冊封使が琉球にきている間は、島尻や中頭方の米の積み出しは浦添の牧湊へ陸路で運び、馬濫船で運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)に積み込んでだ。勘手納港は大和への仕上世米の積み出す重要な港であった。


貢物を搭載して那覇へ

 勘手納港は羽地間切仲尾、仲尾次の両村に亘るの湾口を称するものにして旧藩の頃にありては本港に於て国頭大宜味羽地の貢物を収納したりしと云う。本港は特に港名もありて或いは船舶の出入も頻繁なるが如しと雖ども現今只其名の存するのみ。僅かに貢租を搭載して那覇に航行するに過ぎず。然るに呉我、源河、稲嶺、真喜屋等は目下常に船舶の出入絶えざるものの如く随て焼酎の輸入も少からず。・・・・(「諸港津巡視」)(明治27年)

 


 バジル・ホールが見た仲尾集落(1816年)

 1816年琉球を訪れたバジル・ホールは「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後はだきかかえるような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の周囲に植えられた樹木は鬱蒼と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。・・・・高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設けられていた」(『朝鮮・琉球航海記』)と記している。

 そこに登場する広い道は馬場、高床式の穀物倉は公庫と記される蔵物蔵と見られる。

 
  ▲仲尾の馬場跡地                    ▲定物蔵があった場所


▲朝日が照らす勘手納港跡(仲尾次方面)


 勘手納港での荷物の積み下ろし

 仲尾トンネルを通るたびに、運天のトンネルを思い浮かべる。仲尾トンネルは大正8年に開通、運天は大正13年である。回りが丘陵になっていて、丘陵地に囲まれた地形は、海上交通を主とした時代、臓物倉として最適な場所であったのであろう。仲尾の人たちの耕作地はトンネルを越えた仲真原から門天原あたりにある。

 かつての港は桟橋がなく、船を接岸できる港ではなかった。勘手納港は、それを証明するかのようだ。山原船を海岸近くに碇泊させ、船から荷を小舟の伝馬船に積みかえて陸揚げした。明治の勘定納港で陸揚げされた品物は焼酎・瓦・石油・大豆・茶・素麺などである。また、米・薪木・松丸木・炭・藍などが船に積まれ輸出された。