北山監守と今帰仁阿応理屋恵

  工事中


1.はじめに

 北山監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵は16世紀初頭から17世紀前半までの「北山の歴史」を動かした人物達である。それらの人物が遺していった、あるいは遺した墓や遺品などから、歴史の一端を綴ってみることにする。ここでの北山監守は尚韶威(一世)から従憲(七世)までの今帰仁按司である。今帰仁阿応理屋恵については、具体的な代や氏名については不明な部分が多いが『具志川家家譜』や残されたオーレーウドゥン跡や阿応理屋恵の遺品、第二監守の時代の辞令書、集落移動との関わりでみていくことができる。第一監守時代(1416〜1469年)の監守に尚忠と具志頭王子の時代があるが、ここでは第二監守時代の北山監守の歴史をとどることにする。

今帰仁グスクに監守が住んでいた時代は、1500年頃から1665年の一世の尚韶威から七世の従憲までである。一世の尚韶威は尚真王の三子で首里から派遣されているので首里産れで、亡くなると玉陵(西の室)に葬られている。七世の従憲は今帰仁産れで、首里に引き上げ、首里で亡くなるが今帰仁の運天の大北墓に葬られている。大北墓は1733年に今帰仁グスクの麓のウチリタマイ(玉御墓)から運天に移葬したようなので、七世は当初はウツリタマイに葬られていたことになる。

それから一世から七世まで、北山監守を勤めた一族がどのような痕跡を残していったのであろうか。その痕跡から歴史をひも解いていくことを目的とする。

 もう一方、北山監守の一族とみていい今帰仁阿応理屋恵、三十三君の一人なので首里王府の重要な祭祀をつかさどった神人である。今帰仁阿応理屋恵の動きから、集落移動や阿応理屋恵の祭祀と今帰仁ノロの祭祀が重なっている部分とそうでない部分も読み取ることができどうである。 

2.北山監守(今帰仁按司)

 北山監守とは今帰仁グスクで監守を勤めた按司のことで、第二監守時代の尚韶威から七世の従憲までの按司をさしている。北山監守を勤めた按司達がどのような痕跡を残しているのか。それらの資料を確認してみる。 

一世の尚韶威は尚真王の第三子である。韶威については『具志川家家譜』に記され、今帰仁王子と称し、真武体金(童名)、朝典(名乗)、宗仁(号)で、母の名や生れは伝わっていない。韶威は嘉靖年間(1522〜66年)に亡くなり西の玉御殿に葬られている。玉陵の碑に「みやきせんあんしまもたいかね」(今帰仁按司真武体金)とあり、玉陵に葬られている石棺がある。

 
   ▲

二世の今帰仁按司(王子)介昭は隆慶年間(1567〜72年)に亡くなっている。『具志川家家譜』に思二郎金(童名)、朝殊(名乗)、宗義(号)である。嘉靖年間に尚韶威を継いで今帰仁間切惣地頭職になっている。四男の和禮が今帰る仁間切平敷村平敷親雲上の娘思加那を娶り、介紹の娘が宇志掛按司(童名:松比樽)の神職となり孟氏名今帰仁親方宗春の妻となる。今帰仁に残した痕跡は、大北墓の「宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金」は二世と見られるが「思二郎金」をそう判読したのかもしれない。住居は今帰仁グスク内である。 

三世は和賢である。『具志川家家譜』に眞武躰(童名)、朝敦(名乗)、宗眞(号)とある。嘉靖36年(1577)に産まれ万暦19年(1591)に亡くなっている。三世は運天の大北墓ではなく今泊の津江口墓に葬られている。その理由は津屋口墓の「墳墓記」の碑文に読み取ることができそうである。

当初から津屋口墓に葬られている。津屋口墓は今帰仁村今泊にあるが、北山監守(三世和賢)の墓である。運天の大北墓に入れず、親泊の津屋口原に墓をつくり葬っている。墓の庭に「墳墓記」(1678年)が建立されている。その墓を扱うのは今帰仁グスクに住んでいた北山監守(今帰仁按司)一族と麓に移った集落、それと監守一族が移りすんだ集落内の二つのウドゥン(御殿)跡との関係を知る手掛かりとなりそうである。
 まだ、十分把握しているわけではないが、系図座への家譜の提出の際、先祖の履歴を整理していると、先祖の墓が粗末にされていたり崩壊したりしており、家譜の編集と墓の修復と無縁ではなさそうである。
 三世和賢は万暦19年(1591)に亡くなっているので、その頃に墓は造られたであろう。「墳墓記」(碑文)から、以下のようなことが読み取れる。
 ・墓は修築された
 ・監守の引上げ(碑文では康煕丙午(1666年)
 ・尚真王第四(三か)王子宗仁は尚韶威のこと
 ・高祖今帰仁按司宗真は三世和賢のこと
 ・殿閣近くに墓を築く
 ・津屋口に葬るのは便利である
 ・三世和賢は万暦辛卯年(1591)に亡くなる
 ・葬った墓の地は津屋口である
 ・「墳墓記」の建立は康煕17年(1678)である
などである。
 現在墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫? 仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。

 
 ▲碑の拓本 ▲三世和賢が葬られた津口墓 ▲「墳墓記」(1678年建立)

 四世は今帰仁按司克順である。『具志川家家譜』によると眞満刈(童名)、朝効●(名乗)、宗心(号)である。父は和賢で母は眞牛金である。万暦8年(1580)に産れ同24年(1596)に十七歳で亡くなっている。万暦19年(1591)に父和賢を継いで今帰仁間切惣地頭職を継いでいる。在任は数年である。若くしてなくなったため子供もはいなかった。

四世克順の時の「今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書」(1592年)がある。

 しよりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   よなみねのさとぬしところ
 一六かりやたに四十九ま
   しよきたばる又もくろちかたばるともに
 一百四十ぬきちはたけ七おほそ
   やたうばる 又ひらのねばる 又はなばる
  又さきばる 又なかさこばる 又おえばるともに
  又よなみねの四十五ぬき
  かないの大おきてともに
 一人たまくすくの大屋こに
   たまわり申候
  しよりよりたまくすくの大やこの方へまゐる
 万暦二十年十月三日

辞令書の発給の時期は四世克順の頃である。今帰仁間切の玉城の大屋子に宛てたものである。今帰仁按司や今帰仁御殿などの言葉は出てこない。大屋子という役人は、朱里王府から直接辞令を発給されていて、北山監守を経由するものではなかった。

 今帰仁に残る四世の痕跡は大北墓の「宗仁公四世今帰仁按司ママカル金」のみである。家譜にある四世の童名の「眞満刈」とあるが墓調査では「ママカル金」と読んでいる。確認が必要である。 

 五世は今帰仁按司克祉である。『具志川家家譜』による眞市金(童名)、朝容(名乗)、宗清(号)である。万暦10(1582)に産れ同37年(1609)に二八歳で亡くなっている。克順の弟で、兄の克順が十七歳で亡くなったので、その後を万暦24年(1596)に今帰仁間切総地頭職を継いでいる。次男の縄武は中宗根親雲上の娘で阿応理屋恵(今帰仁)である。

 五世克祉今帰仁按司童名真市金、名乗朝容、号宗清である。万暦10年(1609)3月28日に二八歳でなくなる(薩摩軍の今帰仁入りの時)。その長男縄祖の位牌が阿応理屋恵(オーレーウドゥン)にあるので、克祉の位牌の可能性もある。それまた、縄祖の次男同様克祉の次男縄武も中宗根親雲上の女(娘)の童名真比樽(阿応理屋恵按司)を娶っている。
 他の位牌が置かれる事例を合わせみながらみていく必要がありそうだ。ここでは触れないが、大北墓の五世、六世、それと四名のアオリヤエとの関係も言及できそう。

 「今帰仁間切辺名地の目差職叙任辞令書」(1604年)がある。五世和賢の時代である。和賢が今帰仁グスクに居住していた頃である。

 しよりの御ミ事
  みやきせんまぎりの
  へなちのめさしハ
  ミやきせんのあんじの御まへ
  一人うしのへばんのあくかへのさちに
  たまわり申候
 しよりよりうしのへはんのあくかへのさちの方へまいる

  (首里王府から、今帰仁間切の辺名地の目指を、今帰仁按司の部下である丑の日番の赤頭のサチに
   賜るよう申し上げる。首里(王府)から丑の日番の赤頭のサチに差し上げる)

    

 今帰仁間切は「ミやきせんまきり」と言われ、「へなち」は辺名地であるが、まだ村が使われていないことに注意すべきである。村は近世以降の行政単位だということがわかる。「みやきせんあんしの御まへ」(今帰仁按司の御前)ということは今帰仁グスクに住む按司の御前ということになる。「うしのへはんのあくかへ」(丑の日番の赤頭へ)であるが、今帰仁グスクへ勤める三番制度(三交替制)があり赤頭の役職があったことが伺える。

 大北墓の銘に五世が見られないが、「今帰仁按司御一人御名相不知」があり、五世の可能性がある。ただし、薩摩の琉球侵攻で今帰仁グスクが攻められた時の監守なので尚寧王が玉陵に入らなかった例もあるので、大北墓に葬られていない可能性もある。大北墓はグスクの麓のウツリタマイ(按司墓)から十世宣謨の時、運天に移葬しているので、そのことも念頭に入れておく必要がある。

 六世は今帰仁按司縄祖である。『具志川家家譜』によると鶴松金(童名)、朝経(名乗)、瑞峯(号)である。万暦29年(1601)に産れ順治15年(1658)に五八歳で亡くなる。父克祉の後の惣地頭職を継いだのは1609年で八歳の時である。縄祖の次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の娘を娶り阿応理屋恵按司(童名思武眞金)である。

 「今帰仁間切謝花掟職叙任辞令書」(1612年)がある。

 しよりの御ミ事
  ミやきせんまきりの
  ちやはなのおきての
  ミのへはんの□□
  くたされ候
 万暦四十年十二月□日

  (首里からの詔 今帰仁間切の謝花の掟である巳の番の誰それに差し上げなさい)

 この辞令書が発行された1612年は、薩摩軍の今帰仁城侵攻から三年後のことである。北山監守(六世の今帰仁按司)はまだグスク内に住んでいたのであろう。五世克祉の時代にあった三番制度が、まだ引き継がれている。謝花の掟が三番制度の巳の当番でグスクに出仕していた様子が伺える。

 六世縄祖(惣地頭職1609〜53年)の時の辞令書がもう一点ある。七世と惣地頭職を引き継いだのは順治13年の2月である。辞令書は同年正月20日なので六世縄祖の時の「今帰仁間切与那嶺の大屋子職叙任辞令書」(1643年)の辞令書である。

 六世縄祖今帰仁按司の童名は鶴松金、名乗は朝經、号は瑞峯である。万暦29年(1601)に生まれ順治15年(1658)6月29日に亡くなる。五八歳である。縄祖の父は克祉(五世:薩摩の琉球侵攻のとき死亡)、母は向氏の真鍋樽、室(妻)は向氏宇志掛按司。(庸や妥地、俸禄などがあるが略)婚嫁のところで次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の女阿応理屋恵按司(童名思武太金)を娶っている。

  首里の御ミこと
   今帰仁間切の
   よなみねの大屋こ
   一人今帰仁おどんの
   ももなみの大屋こに
   たまわり申[候か]
  崇禎十六年十月三日

 ここで注目するのは「今帰仁おどん」である。それからすると今帰仁グスクから城下に移り住み、そこが今帰仁御殿と見られる。いつ城下に移ったのかの年代は不明であるが、ここでいう「今帰仁おどん」(今帰仁御殿)は、今でいうオーレーウドゥンと見られる。

今泊の集落内に二つの御殿跡がある。一つは按司(監守)の御殿、もう一つは今帰仁阿応理屋恵の御殿である。今のオーレーウドゥン跡地が按司(監守)の殿内(今帰仁村地内)で、馬場の東側の角のウドゥン敷地跡(親泊村地内)が今帰仁阿応理屋恵の殿内と想定している。移動した後の阿応理屋恵按司火神は『琉球国由来記』(1713年)によると親泊村地内にある。それと「今帰仁里主所火神」が按司家の火神で今帰仁村地内にある。そこには六世縄祖の位牌がある。現在のオーレーウドゥン(阿応理屋恵御殿)は、もともと按司御殿で、後に親泊馬場の東側角のウドゥン跡がオーレウドゥンで、阿応理屋恵が按司御殿内に嫁いだので、そこに統合されたのではないか。   

     ▲六世縄祖(瑞峯)の位牌  ▲死去日が線彫      ▲古いタイプのガーナー位牌(無銘)

七世は今帰仁按司従憲である。『具志川家家譜』に思五良(童名)、朝幸(名乗)、北源(号)とある。天啓7年(1627)に産れ康煕26年(1687)に六一歳で亡くなる。七世のとき、北山監守(今帰仁按司)は康煕4年(1665)に首里赤平村に移り住むことが許された。その年は1665年である。その翌年(1666)に今帰仁間切を二つ分割し、今帰仁間切と伊野波間切(翌年本部間切と改称)。今帰仁間切惣地頭職になったのは順治11年(1653)である。その時の俸禄は五六石、間切分割の時か不明だが知行減少の時四十石となる。

従憲は康煕26年(1687)に首里で亡くなるが、故郷の運天の大北墓に葬られている。ただし、従憲がなくなった頃の墓は運天の大北墓ではなく今帰仁グスク麓にあったウツリタマヒ(玉御墓)である。十世宣謨の時、雍正11年(1733)に運天の大北墓に移葬したようである。大北墓に「宗仁公七世今帰仁按司」とある。 

七世従憲が首里に引き上げたことで監守としての役目はなくなり、今帰仁按司は他の按司と同様な扱いとなる。首里引き上げ後も今帰仁按司は十四世まで継承されていく。八世から後については触れないが、十四世の世忠(朝□)まで今帰仁按司、十五世の朝昭の時具志川按司を名乗り、琉球処分となる。明治五年の琉球処分の時は具志川按司である。これまでの今帰御殿は具志川御殿を名乗り現在に至る。

3.今帰仁阿応理屋恵について

今帰仁阿応理屋恵は三十三君の一人である。三十三君の一人であった今帰仁阿応理屋恵がどのような役割を果たしていたのか。そのことは北山監守を務めた今帰仁按司の役割を知ることでもある。一六六六五年今帰仁間切(今帰仁グスク・今帰仁村)から首里に引き揚げた監守一族である。今帰仁按司一族が今帰仁間切に居住していた頃、『具志川家家譜』に阿応理屋恵按司として登場するのは三例のみである。阿応理屋恵職は、今帰仁按司あるいは阿応理屋恵の娘や孫が継承するのではなく他家から嫁となって職を受け継いでいる。五世克祉の次男縄武の嫁、六世縄祖の次男従宣の嫁が阿応理屋恵となっている。

弘治年間、一世尚韶威の頃、毎年元旦や十五日、冬至、大朝のとき首里に赴いていた。また山北(山原)節々神の出現があると尚韶威以来重要な儀式として家族で行っていた。王都から唄勢頭を三、四人遣わし、この礼式に阿応理屋恵按司、世寄君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志などの女官を遣わせた。崇禎年間(1628〜43年)に兵警に逢って礼を廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今(?年)に至って尚存続し毎節礼を行う。

 尚韶威の次男介明(名乗朝白)は南風は按司とよび、その娘は阿応理屋恵按司だという(『沖縄県国頭郡志』)。南風按司が今帰仁と親泊に村芝居を授けたといい、後に安次嶺の地頭となり、今帰仁を去るに及んで安次嶺アシヤゲという。『琉球国由来記』(1713年)にも安次嶺アシアゲとあるのはそれに由来するか。 

 ・五世克祉の次男縄武が中宗根親雲上の女阿応理屋恵按司(思乙金)を娶っている。
・六世縄祖の次男従宣が孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)女阿応理屋恵按司(思武太金)を娶っている。

運天の大北墓にも「アヲリヤエアンシタル金」や「アオリヤイアンシカナシ」や「アヲリヤイ按司」と三名の阿応理屋恵が出てくる。北山監守時代の阿応理屋恵達である。『具志川家家譜』に登場する阿応理屋恵と大北墓のアヲリヤエアンシと同一人物もいると思われるが大北墓の調査をし、銘書を調べてみないと、結論はまだ出せないが、尚真王の第四子の龍徳越来王子(尚韶威の弟)を初代とする嘉味田家の墓調査の結果からするとほぼ一致すると見られる。 

 北山監守が首里に引き上げてから、今帰仁阿応理屋恵はどうなったであろうか。『具志川家家譜』に「崇禎年間(1628〜43年)に兵警に逢って礼を廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今に至って尚存続し毎節礼を行う」とある。崇禎年間は北山監守がまだ今帰仁にいた頃なので阿応理屋恵も今帰仁にいたのでしょう。そこで「今に至って尚存続」の今はいつのことなのか。それは首里城が焼失した年の康煕己丑(1709年)のことである。北山監守は首里に引き揚げたとき、今帰仁阿応理屋恵も首里に引っ越し、そこで尚節礼(祭祀)を行っていた。祭祀によっては今帰仁までやってきたであろう。

今帰仁阿応理屋恵が首里に引き上げ、そこで存続していたことが『女官御双紙』(1706〜13年)でもわかる。『女官双紙』(上巻)に出てくる六人の「今帰仁あふりやえあんじ」は首里で勤めた阿応理屋恵である。その中の一人は今帰仁間切親泊に住む伊野波筑登親雲上の室となる。僅かながら今帰仁間切とつながりを保っている。

 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 向氏南風按司朝旬女(孟氏今帰仁親方宗a室)
 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 孟氏今帰仁親方宗a女(向氏本部按司朝当室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 孟氏中宗根親雲上宗良(崎山按司朝恭室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 向氏崎山按司朝恭女
                (今帰仁間切親泊乃住伊野波筑登之親雲上室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 本部間切居住伊野波爾也女
               (向氏与那嶺按司朝隣室)

以下は向氏与那嶺按司朝隣の室が「今帰仁あふりやゑあんじ」となったときの引継ぎの様子を記したものである。

康煕四十年(1701)辛巳二月十九日今のあふりやゑあんじ言上有之同年八月朔日志よ里の大あむしられ取次日撰言上同三日御拝するようにと御返詞拝同三日御朱印志よりの大あむしられより掟のあむを以頂戴同四日巳時前に首里の大あむしられ列て御城上りすゑんみきふちゃにて首里天嘉那志御前へみはい御酒奉進上次に美御酌御賜次に於御同職真壁按司かなし御酒献上次に御菓子御茶給り昇按司御座敷へ記召首里の大あむしられ相伴ふて御料理御菓子御茶給焉御服給て退城附進上物左記之天嘉那志美御前へ御花一御玉貫一對同御茶之子一籠飯真壁按司加那志錫一對同御茶之子一籠飯 御城参昇之時とも備あむしられ一人あかた八人與のすりる主部二人興かき二人御花御籠飯持一人
  ・金劔一箇 玉珈玻羅一連 玉草履一足 前々より有き
  ・地所高二十弐石二斗七升二合六勺八夕内
     田方 六石二斗一升三合三勺四才
     畠方 十六石五升九合三勺四才
  ・御■持方二■内 米一石 雑石一石
      悴者 二人
  ・毎年麦の二祭稲の二祭■柴指の時のろくもいあふりやへ御殿へ出
   按司も出合はれ火神の前へ候て祭礼有のみ言やしと云儀規式有之也
  ・■与立御祝儀の時ハ首里へ上り御慶賀申上らるなり
  ・あふりやゑ御殿ハ根所の殿間切より作る。常の住所ハ自分乃作なり。

康煕四〇年(1701)に「あふりやゑあんじ」(向氏与那嶺按司朝隣室)の引継ぎの行事が行われている。国王(首里天加那志)の拝謁が許され、首里城へ参上し国王へ就任の挨拶をし国王から御酒を賜り、「御朱印」(辞令書)は首里殿内で首里大あむしられから授かっている。その儀式は四日間に及び、そこでいろいろな品々が出され、また提供を受けている。その中に御玉貫一對・玉珈玻羅一連・錫一對・御茶之子・籠飯・御服・金劔などがある。今帰仁阿応理屋恵の遺品のいくつかは残っている。残念ながら阿応理屋恵の「辞令書」は残っていない。『女官御双紙』(中巻)に、以下のようにある。

 一、今帰仁あふりやい代合の時、言上は御自分より御済

めしょわちへ、御拝日撰は三日前に今帰仁あふりやいより御様子有之候得者、首里大あむしられより大勢頭部御取次にて、みおみのけ申、御拝の日は首里大あむしられ為御案内、赤田御門よりよしろて、按司下庫理に控居、大勢頭部御取次にてみおみのけ申、今帰仁ふりやいよりみはな一ツ御玉貫一対、作事あむしられ御取次にておしあげ申、按司御座敷御呼めしょわれば、よしろて美待拝申、天かなし美御前おすゑんみきょちゃにおがまれめしょわれば、御持参の御玉貫、真壁按司かなしよりおしあげしょわる。相飾済、みはい御仮乞、大勢頭御取次にてみおみのけて帰るなり。一、同時御印判はせど親雲上より、みはいの日早朝、首里殿内へ持来らる。首里大あむしられより今帰仁あふりやいへ上申。

4.今帰仁阿応理屋恵の廃止と復活

 今帰仁阿応理屋恵の廃止は『球陽』に見ることができる。「始めて今帰仁郡の女官阿応理屋恵職を裁つ」とある。1731年のことである。
 今帰仁郡内に阿応理屋恵按司職を廃止する。歴年久遠にして、従って稽詳する無し。然り而して、尚韶威(今帰仁按司朝典)次男向介明(南風原按司朝句)の女に、阿応理屋恵按司職を授け、伝えて向介昭(今帰仁按司)の女宇志掛按司に至ること共計五員なり。今其の事職を按ずるに、五穀祭祀の日、但民の為に之を祈祷する事のみ。而して他郡の祭祀は、只祝女有りて、以て其の祈を為す。是れに由りて、議して其の職を栽つ。

・六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す。(1768年)(復活)
 今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の
 務無きに因り、故に、三十三君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、
 撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村
 兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所
 高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。 

今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン)の祠にあった扁額である。平成5年頃まで祠にあったが、今では失われている。昭和60年頃撮影と採拓したものである。右上に「乾隆歳次丁未□□春穀」と確認できた。「□依福得」と読める。乾隆歳次丁未は乾隆52年(1787)にあたり、当時の今帰仁間切惣地頭職は十一世の弘猷(今帰仁王子、名乗:朝賞)(1756〜1809年)である。オーレーウドゥンの祠にあった下の扁額と十一世弘猷がどう関わっているのか。今のところ直接関わった資料に出会えたわけではないが、オーレウドゥンへの扁額の奉納と今帰仁王子弘猷の動きと無関係ではなかろう。

 乾隆52年(1787)に太守様の元服のときで、向氏今帰仁按司朝賞は使者として派遣される。七月十一日那覇港を出て十五日に山川港へ到着。鹿児島城での公敷きの儀礼を果たし、方物を献上し、また福昌寺や浄明明寺などを拝謁している。翌年二月十一日麑府を出て、翌日山川に到着するが風が不順だったようで帰ってきたのは三月十一日である。同じく乾隆52年に三平等許願いのとき、世子尚哲、世子妃などを薩州へ使わされている。
 オーレーウドゥンの扁額はふたつの薩州への派遣と関わっての奉納だと思われるが、果たしてどうだろうか。 

   

 

5.阿応理屋恵不在のグスクの祭祀

 1665年北山監守が首里に引き上げると、一族の今帰仁阿応理屋恵も首里に引き上げる。阿応理屋恵の役職は首里で引き継がれていくが、今帰仁グスクでの祭祀は今帰仁ノロが引き継いでいる。『琉球国由来記』(1713年)に今帰仁グスクでの祭祀が記されている。ちょうど、今帰仁阿応理屋恵が首里でその職を勤めている時期である。首里に引き上げて50年ばかり経った頃である。今帰仁グスクなどの祭祀場に、
 ・城内上之嶽 ・城内下之嶽 ・コボウノ嶽
 ・今帰仁里主所火神 ・今帰仁城内神アシアゲ
 ・阿応理屋恵按司火神

などがあるが、それらすべて今帰仁巫(ノロ)(トモノカネ巫)管轄の祭祀となっている。阿応理屋恵按司火神は当然ながら今帰仁阿応理屋恵が祭祀を行う。コボウノ嶽と今帰仁里主所火神も今帰仁ノロとなっている。本来、今帰仁阿応理屋恵が中心となって掌っていた祭祀であるが、首里に引き上げているので今帰仁ノロが肩代りしている時期の記録だとみている。特に、コバウノ嶽での祈願は、

首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデノ、御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デゝ

と唱えられ、歌の内容からするとクニレベルの祭祀であり、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場であったことが理解できる。それが首里に引き揚げたため今帰仁ノロが肩代りし、今帰仁阿応理屋恵が1786年に復活するが、今帰仁ノロがそのまま引き継いでいる(一緒に行っていた時期もあったのであろう)。

 6.今帰仁阿応理屋恵の遺品

 ・今帰仁阿応理屋恵の遺品(『沖縄県国頭郡志』(大正8年)では以下の品々があげられている。
  ・冠玉たれ一通 ・冠玉の緒一連 ・玉の胸当一連
  ・玉の御草履一組 ・玉かはら一連 
  ・玉かわら一大形 ・二十二小形 ・水晶の玉百十六
  ・今帰仁尾阿応理屋恵の遺品『鎌倉芳太郎ノート』
 ・曲玉一連(大曲玉一ケ ・小曲玉二一ケ ・水晶玉三一ケ ・水晶玉八〇ケ)
  ・玉がはら(かはら一大形・同二二小形
  ・水晶之玉百十六個)
  ・玉御草履 ・冠玉たれ一連、同玉之緒一連
  ・胸当一連

  
       ▲足袋の一部                 ▲色々な色のビーズ

  
 ▲最後の今帰仁阿応理屋恵(撮影大正末?)    ▲展示されている勾玉と写真
 

 首里から派遣され監守を勤めた今帰仁按司、その一族が勤めた今帰仁阿応理屋恵の動きは首里王府と連動している。首里に引き揚げた今帰仁按司は、再び今帰仁に戻ることなく明治の廃藩置県を迎える。一方の今帰仁阿応理屋恵は尚■と共に今帰仁へ、1665年に首里に引き上げてその職を引き継いでいく。1731年に首里にいた今帰仁阿応理屋恵職は廃止となる。三十三君の役目がほとんどなくなったこともあり削減廃止となる。ところが、今帰仁の場合はどうも存続しつづけていたようで一七五八年に正式に今帰仁間切今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸をして、按司職を継ぐことをゆるした。年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。それ以降の今帰仁阿応理屋恵は、最後のアットメーまで続く。しかし、引き上げ後、祭祀の多くを今帰仁ノロが勤めたため、

 明治三十年頃、阿応理恵御殿、火神を祭り境内百十六坪、神職はアヲリヤエ按司、社禄十三円六四銭、孫より継ぎ氏子は三一戸である。

7.集落内の二つの御殿跡

現在の今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)に二つの古い位牌(ガーナー)がある。その一つは六世縄祖の位牌である(表に「帰一瑞峯須祥大禅定門」、裏に「順治十五年戊戌六月二十九日去」と線彫されている)。瑞峯は六世縄祖の号で、年号は死去年と一致している。何故、今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)にその位牌あるの疑問を持っていた。銘のないもう一つのガーナー位牌は次男の従宣(阿応理屋恵按司(童名思武太金)の夫)のものなのか。あるいは、五世克祉の次男縄武も阿応理屋恵按司(童名思乙金)を妻にしているので縄武の位牌の可能性もある。しかし、文字が消えているので不明。

 そこに長男の縄祖の位牌があることからすると五世克祉の位牌があってもおかしくはない。次男の縄武も阿応理屋恵按司を娶っている。もっとあったガーナー位牌が二つのみ残ったのかもしれない。疑問に思っているのは、阿応理屋恵御殿(オーレーウドゥン)と呼ばれる場所に按司の伊に按司の位牌があるのかということ。

現在オーレーウドゥンと呼ばれる場所に最後のアットメー(阿応理屋恵)が住んでいたことは間違いない。そのアットメーは旧姓糸洲である。すると阿応理屋恵でありながら比嘉家(按司御殿内)に嫁にきている。それで最後の阿応理屋恵を継いでいるのでオーレーウドゥンと呼ばれているのではないか。その地は按司御殿跡であれば、説明がすく。馬場の東側の角が、もともとの今帰仁阿応理屋恵殿内である可能性が強い。『琉球国由来記』(1713年)の「阿応理屋恵按司火神」が親泊村にあったことも説明がつく。 

8.大北墓に葬られているアオリヤエ

 明治44年に調査された大北墓に三名のアオリヤヒと記されている。もちろん阿応理屋恵のみでなく今帰仁按司(監守)一族を葬った墓である。この一族は今帰仁按司、そしてその兄弟、そして阿応理屋恵を頂点とした神人を出している。大北墓に葬られているかは別にして、『具志川家家譜』に宇志掛按司、司雲上按司などの神人を出している。

前にも触れたが今帰仁グスクの麓にあったウツリタマイ(御玉墓)を雍正11年(1733)に移葬したものである。

 

9.今帰仁阿応理屋恵の遺品 

・『琉球宗教史の研究』鳥越憲三郎)
 「阿応理屋恵按司は国王の姉妹或は王族の出身である関係から、女神官職就任に際しては国王の拝謁が許された。これは大アムシラレも同様である。一般下級ノロに対しては国王の拝謁はない。阿応理屋恵按司は王城に参上し、国王に対して就任の御挨拶を言上すると、国王からは御酒を賜わり、辞令書は王府の宗教事務官が首里殿内に持参し、首里大アムシラレの手から授かることになっていた。」

 最後の今帰仁阿応理屋恵(アットメーともいう)であった比嘉ナベさん(旧姓名糸洲ウト)の戦前(大正末か)の写真を持ってこられた。勾玉と一緒に展示して欲しいということで。神衣装に勾玉や水晶玉を首からかけ、前に遺品の目録と遺品が置かれている。その写真を展示してある勾玉や水晶玉の側に置くと、展示に重みをもたらしてくれる。

濱田博士絶讃
    本県最高の宝玉
      明日より郷土博物館に陳列

 首里城内沖縄郷土博物館では来る二十日挙行される本県唯一の秋祭り沖縄神社祭を好機に明十五日より十一月十四日まで一ヶ月の予定で今帰仁村今泊向姓糸洲氏阿応理屋恵按司(□涼傘をさす神職)所蔵の勾玉一聯(大形一、小形二十一、水晶玉一聯百十六個)の他左記数点を特別陳列することになっている。
 一、玉の□草履一組、冠玉、玉の旨当等一式
 二、今帰仁村今泊。今帰仁のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金の簪一個。
 三、名護屋部のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金のかみさし一個
 四、永良部阿応理屋恵按司佩用勾玉一連(勾玉大形二個、水晶白□個)
 五、地方のろくもい勾玉一連、今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵、勾玉は今から四百五十年以前尚真王時代のもので京都帝大濱田常□博士が同種勾玉として全国に類例なく本県最高の宝玉であると絶讃した逸品である。  

今帰仁阿応理屋恵と関わる一族(比嘉良信氏)が訪ねてこられた(寄贈者)。集落内のオーレーウドゥンで中学校時代まで過ごし高校から名護で生活したという。現在ある今泊集落内の拝所からウドゥンガー(井戸)までが、戦後の屋敷跡だったという。その隣の敷地も明治の頃までウドゥン敷地だったいうが、みな売り飛ばしてしまったと聞いているという。今残されているオーレーウドゥン跡の拝所(位牌など)の管理についても話を伺う。 

『沖縄島諸祭神祝女類別表』(田代安定:明治17年頃か)の「今帰仁間切各村神拝所」に今帰仁・親泊二ヶ村の神拝所として以下の十四ヶ所あげられている。特定するに、至っていないヶ所がいくつかある。他の資料も含めてみていく必要がある。そこに古宇利殿内(フイドゥンチ)火神が記されていないのが気になる。フイドゥンチ火神は今泊の祭祀の重要な祭祀場である。他にいくつか、記載されていい拝所もあるが、何故か出てこない。

 ヨクノカタは他の資料でユフヌハターやユクヌカタと出てくる。その場所は特定できないでいる。テラはエーガーからハンタ道を通り途中左側に入っていったところに小さな洞窟があり、そこをテラと呼んでいる。今では、そこでの祭祀は行われていない。
 このように、今帰仁グスクや周辺の祭祀と関わる拝所を特定していくことで今帰仁グスクと周辺のムラあるいは集落との関わりで見ていくことが可能である。まずは資料に出てくる場所の特定が必要であるが・・・。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる海神祭(大折目)の流れもみたが、明治や大正などの資料を丁寧に比較してみたい。そこから今帰仁グスクと取り巻く集落との関係が見えてきそうである。そこにはクニ(国)、間切、そしてムラレベルのことが混在していることに気づかされる。 

10.『琉球国由来記』の拝所の位置と村

『琉球国由来記』(1713年)から今帰仁村と親泊村との関係を整理してみる。どうも18世紀になって村の線引きの変更がなされたのではないか。そのことがあって史料を踏まえて整理してみることにする。まずは基礎となるのは『琉球国由来記』(1713年)である。そこに登場する村と火神や神ハサギなどの関係からみていく。今帰仁村と親泊村と志慶真村は今帰仁ノロの管轄村である。祭祀と関わる『琉球国由来記』(十八世紀初頭)と『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)に登場する場所がどの村なのかを確認しておく。

【琉球国由来記】(1713年)
 ・城内上之嶽・・・・・・・今帰仁村(親泊村側)
 ・城内下之嶽・・・・・・・今帰仁村(親泊村側)
 ・今帰仁城・・・・・・・・今帰仁村(親泊村側)
 ・コバウノ嶽・・・・・・・今帰仁村(今帰仁村側)
 ・今帰仁巫火神・・・・・・今帰仁村(親泊村側)
 ・今帰仁里主所火神・・・・・今帰仁村(現オーレウドゥン跡?)
 ・今帰仁城内神アシアゲ・・今帰仁村(親泊村側)
 ・安次嶺神アシアゲ・・・・今帰仁村(今帰仁村側)
 ・阿応理屋恵按司火神・・・・親泊村(親泊村側のウドゥン跡?)
 ・親泊村神アシアゲ・・・・親泊村(親泊村側)
 ・志慶真村神アシアゲ・・・志慶真村(志慶真村側)

 【沖縄島諸祭神祝女類別表】(明治17年頃)
   (今帰仁・親泊弐カ村 十四ヶ所)
  ・公方ノ嶽
  ・ヨクノカタ
  ・シニグン子
  ・テラ
  ・トモノカ子ノロクモイ火の神所・・・・親泊村側
  ・祝部火神ノ神所・・・・・・・親泊村側
  ・神アシアゲ
  ・本ノロクモイ火ノ神所・・・今帰仁村側
  ・旧惣地頭火ノ神所
  ・今帰仁城内神アシアゲ
  ・天継
  ・雨継
  ・旧按司地頭火ノ神所
  ・カラ川

 『琉球国由来記』についてはその場所の下に、後者は二カ村まとめてあるため、どの村に位置するかは特定できにいのが多い。「旧惣地頭火ノ神所」と「旧按司地頭火ノ神所」が、どこを指しているのか、そこでは場所の特定はしがたい。『御案内』(平敷兼仙)に「阿応理屋恵御殿より馬場を東に二百米の南部にウドン屋敷と俗にいう監守別宅の跡がある。・・・城内監守も遂に居宅を親泊馬場の東端南側に移して之に居り後更に王命により首里に引上げたと言う。今に其の址を御殿屋子敷と呼ぶ」とある。その場所が『琉球国由来記』でいう今帰仁阿応理屋恵の移転後の場所であれば、説明がつくのだが。少なくとも集落内に二カ所の「御殿屋敷」があったことを確認しておく。

 11.集落移動と旧家

 非常に込み入った説明になる。旧家の場合、そこから他地に移り住む、あるいは廃屋になると火神を祠に残していく習俗がある。例えば、1665年に首里に引き揚げた今帰仁按司(監守)一族は、今帰仁グスク内に「火神」の祠を残している。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる「今帰仁里主所火神」がある。それはグスクの麓の集落内にあるオーレーウドゥンと見られる。そこに監守の位1713年当時の惣地頭職は今帰仁按司九世鳳彩である。その後の乾隆8年(1743)の今帰仁城旧城図にも「火神」が記されている。

 同様に、今帰仁グスクの前方にあった集落が麓に移動している。かつて一帯にあった「今帰仁阿応理屋恵殿内」や「今帰仁ノロ殿内」、「トモノカネノロ殿内」も移動する。今帰仁グスクの按司一族が首里に引き上げると跡地に火神を祭ると同様、ノロなども跡地に「火神」の祠を建てたと見てよさそうである(そのような事例は各地にみられる)。『琉球国由来記』(1713年)の頃は、今帰仁村(ムラ)の集落はすでに現在地に移動している時期であるが、いくつか現在地と同じく集落移動後である『琉球国由来記』とでは、拝所のある村が矛盾している(整合性のある説明が今のところできないのがある)。
 その一つが「今帰仁巫火神」である。現在ある今帰仁ヌルドゥンチは親泊村側にある。ところが、『琉球国由来記』(1713年)には「今帰仁巫火神」は今帰仁村である。今帰仁ノロは1700年代には、まだ故地にあったのであれば問題はない。その可能性は十分にある。というのは、他の地域でのノロドゥンチの移動をみると、集落移動と共に移動していった場合は集落の中央部に配置されている。ところが、最後に移動していった場合は集落のはずれに位置している。その例なのかもしれない。そうであれば、現在は親泊、故地での村が今帰仁村(ムラ)であっても説明がつく。

 二つ目は「阿応理屋恵按司火神」である。『琉球国由来記』では親泊村にある。すると阿応理屋恵は、1700年代には親泊集落内に移動していることがわかる。ならば、親泊集落のどの場所なのかが不明であった。これまで、今帰仁村側にあるオーレウドンンがそうだと見ていた。そこに六世(今帰仁按司)の位牌ある。そこは今帰仁グスクから一時集落内に移り住み首里に引き揚げたトゥンではないか。ずっと後に今帰仁阿応理屋恵が、そこに移り住んだとみられる。そう見るとオーレーウドゥンに今帰仁按司(監守)の位牌があっても問題はない。移動した当所の今帰仁阿応理屋恵のトゥンはどこだったのかとなる。親泊馬場(マーウィ)の東側の角にウドゥン屋敷跡がある。大正の頃まで知られている。そこにオーレーウドゥン(親泊村内)が移動した場所であれば、矛盾なく説明がつくのだが。(果たしてどうだろうか!)


  ▲上空から見た今泊の集落    ▲赤が今帰仁側の集落、黄が親泊側の集落 

12.今帰仁と親泊の集落

 今泊は今帰仁と親泊の合併字である。明治36年に一度合併し、同39年に分離、昭和48年に再び合併し、今日に至っている。現在、今帰仁と親泊の集落は連続している。境界部分では両字の入り組があるが、東側が親泊、西側が今帰仁と区分される。合併以前の今帰仁村(ムラ)と親泊村(ムラ)は海岸から山手に至っている。二つの村の集落は山手(今帰仁グスク前方付近)から海岸に近い低地に移動している。

 今帰仁村の集落は1609年直後に移動したことが『具志川家家譜』に見ることができる。親泊村の集落もハタイ原の一部とハンタ原から海岸沿いに移動したのではないか。親泊集落の移動時期については不明である。17世紀前半の今帰仁村(ムラ)の集落移動よりは古い時期であることは間違いなかろう(もちろん、現在の集落地に家が散在していたとみていい)。

 親泊集落内を横切る親泊馬場(マーウイ)は、集落を形成するのに重要な要素になったのではないか。海岸線(シルバマ)に平行になり、東西の線とは、いくぶんずれており、線引きに風水があてられているのかもしれない。あるいは、海岸から屋敷の線引きした結果なのかもしれない。 

今帰仁グスクの道筋の一つハンタ道がある。昭和11年の『御案内』(平敷兼仙著)に「新旧の参道」について、誇張した表現であるが、様子がよくわかるので紹介しておこう。今帰仁グスクへの道筋は「今帰仁城跡付近の拝所・遺跡」(『なきじん研究』六号、一九九六年)として紹介したことがある。その一例であるが、以下のように記してある。

 旧道は此処(親川)から始まるのだ。平滑な大理石が無雑作に敷きつめられた旧坂は九十九折に数町続く。
 あおげば枝振り美しい松並木が自然の日覆となって盛夏の過客を喜ばしめる。先づ一息と適当な台石に腰を下すと密集部落の福木の彼方に荘大な水鏡を前にして伊平屋の島々が呼べば応ぜんばかりにゆったりと、かまえている。ありし日の北山隼人はこゝを猪の如くかけ下りたろうと思うのもこんな時だ。

 部落前の県道に直角に新道が四百米程のびて山のふもとを帯のように、ぬうて東漸する。何分すばらしい勾配であるから運動感覚の鈍い自動車はしらみの如く、ゆったりと、鋭いものは兎の如く、じゃんぷする。雨後等勇敢にかけのぼる偏平足の自動車が一ところで足踏するところ一寸面白い。しかし流石に御用自動車ときては、しっかりしたもので弱音など吐く余裕もあらばこそ! 鏡の上をすべる様に往来する。

 
   ▲上空からみたグスクと集落 ▲パナファーイから見たグスクへの道と集落

 
  ▲親泊馬場(マーウイ)(西側からみる)   ▲馬場の中央付近(ムラヤー)

大正13年12月20日付の「琉球新報」に以下のような記事がのっている。大正13年に開通した今帰仁グスクへの道沿いの画像がいくつもあるので何枚か紹介することに。昭和25年から同31年にかけて。「北山城址参詣道 九町」の碑がある。参詣道の開通から数年後に建立されたようである。この道の開通で車が今帰仁グスクまで行けるようになった。これ以前は親川(エーガー)の側を通るハンタ道が今帰仁グスクへの主要道路であったのである。

 ほぼ同じ場所であるが、戦後になって風景が年々変わっていっている。風景もそうであるが、歴史は生き物で変化していく。どこで切るのか、どんな視点で捉えるのか、立場によって答えはいくつもあることに気づかされる。
 一帯には水田があり、子供達はまだ裸足の生活。電気もなくランプ、洗濯は川へ。作物は旧暦のサイクルで栽培。山手は段々畑。戦後バスが走るようになり、祭祀が生活の中にまだ生きている時代である。
   春秋絶えぬ巡礼者の為に
   北山城 参詣道路成る
   明日 落成式
 今帰仁村字今泊にて古蹟北山城を永遠に保存し、かつ春秋絶えぬ巡礼者のためにあらたに参詣道路開さくの企画をなし、昨年と本年の二カ年にわたり農閑期を利用してこれを遂行せしが、此程竣工せしをもって明二一日午前九時より親泊馬場において落成式を挙行し、参道十町を児童有志者諸旗行列をなして字児童学芸会青年棒術二輪加芝居を行ふ由であるから当日は定めし賑盛きはむることであろう猶同字においては村当局と相はかり具志川御殿島袋源一郎外有志及県下に散在せる
  北山系度に拝殿並に石碑建設企画をなせりといふ因に工事の報告左の如し 
  参詣間数  千百六十間 自動車が通ず
  夫役総数  一万二千八百七十六人  両字人民労力奉仕
  諸雑費   千円
  村費補助  一千三十円  敷地買収及補助額
  換算諸経費 五千九百円 

 
▲大正13年に開通の今帰仁グスクへの道(昭和25年)▲今帰仁グスクへの道(昭和27年)

 
▲今帰仁グスクへのあがり口付近の交差点(左右の道は現国道505号線)(昭和30年頃)

 
 ▲今帰仁グスクへの交差点(現在)   ▲「北山城趾参詣道」の碑


@字公方ノ嶽 ・・・・・・・・・クボウヌウタキ
Aヨクノカタ・・・・・・・・・?(ユフヌハター・ユクヌカタ)
Bシニグン子・・・・・・・・・シニグンニ
Cテラ・・・・・・・・・・・・テラ(ハンタ原の小さな洞窟)
Dトモノカ子ノロクモイ火神・・トモノカネイノロ火神の祠
E祝部火神所・・・・・・・・・今帰仁ノロ火神(親泊集落内)
F神アシヤケ一ヶ所・・・・・・今帰仁か親泊のどちらか
G本ノロクモイ火神所・・・・・グスクの前の阿応理屋恵火神か?
H旧惣地頭火ノ所・・・・・・集落内のオーレウドゥンか(按司・惣地頭の位牌あり)
I今帰仁古城内神アシヤゲ・・・城内の神アサギ跡
J天 辻・・・・・・・・・・・上の嶽のイベ
K雨 辻・・・・・・・・・・・下の嶽のイベ
L旧按司地頭火神所・・・・・・城内の火神(監守来歴碑記の祠)
Mカラ川・・・・・・・・・・・カラウカー

 今帰仁グスクの場合、グスク周辺の集落は親泊・今帰仁・志慶真の三つの集落を想定しておく必要がある。親泊と今帰仁については比較的述べられている。しかし志慶真ムラの集落については論じられることは少ない。志慶真村域は現在今泊域に統合されていて、原域には痕跡を残していない。志慶真ムラの集落跡地は現在の今泊の大首原域に含まれている。『琉球国由来記』には志慶真村は移動した後で旧家跡などの痕跡は残されていない。志慶真村の神人は戦後も今帰仁グスクでの祭祀に参加していた。また、志慶真川にハーウガミで拝む場所(凹石)は残っている。 

今帰仁グスク内の火神の祠の前に四基の石灯篭がある。「奉寄進石燈爐」「今帰仁王子朝忠」「乾隆14年己已仲秋吉日」と摩耗してるが辛うじて読み取ることができる。乾隆14年は1749年で今帰仁王子朝忠は今帰仁按司十世の宣謨(1702〜1787年)で、王子になったのは乾隆12年(1743)である。その時、薩州(薩摩)へ使者として赴いている。詳細について触れないが、これら石燈爐の二年後の建立は薩州へ赴き無事帰ってきたことと無縁ではなかろう。それと下記の「覚」の「城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行う仕事がある」とも。



 『具志川家家譜』(那覇市史 家譜資料首里系)に、次のような「覚」書きがある。そこには、今帰仁グスクを関わる重要なことがいくつも記されている。
 ・此節御支配・・・元文検地のこと(今帰仁グスクは乾隆7年(1742)に行われる)
 ・尚巴志王の時落城
 ・国頭方は險阻で殊さら難しい所である。
 ・権威のある人物を派遣して守らせる。
 ・尚真王の時、今帰仁王子(一世の尚韶威)が鎮守する。
 ・今帰仁グスク内に住み六代まで相続し勤める。
 ・今帰仁村と志慶真村は城の近方にあったが場所がよくないので敷き替えをする。
 ・そのため村が遠くなったので城の住居は不自由となる。
 ・高祖父?の時代今帰仁村へ引っ越す。
 ・城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目
  折目の祭祀を行う仕事がある。
 ・宗仁以来十代までやってきたが、この節所中(間切)に渡したならば後年
  旧跡は廃れてしまう。
 ・それは黙止することはできない。
 ・そのようなことで、城囲内は子孫へ永代御願地にして下さるよう願いでて許される。

   覚
 今帰仁城之儀、此節御支配ニ付而間切江被下候旨承知仕候、然者今帰仁城之儀尚巴志王御代致落城候得共、国頭方險阻殊六ケ敷所ニ而 尚真様御代元祖今帰仁王子宗仁右為鎮守奉 命、今帰仁城内江被詰居、高祖父迄六代右之勤致相続候、然処今帰仁村志慶真村之儀、城近方ニ有之候処、場所能無之故、當村江致敷替候ニ付而、村遠相成城之住居不自由有之候之処、