【嘉味田家の墓】(那覇市大名)                     トップへ

 200011月に「嘉味田家」(尚真王の第四子の尚龍徳:越来王子を初代とする)の墓調査を行ったことがある。初代の尚龍徳は玉御殿(玉綾)の碑文にある「こゑくのあんしまさふろかね」(1501年)で玉御殿に入るべき人物の一人)。西室に判読できない石棺があるので・・・。那覇市大名の墓には二世向恭安(越来王子:15531612年)から昭和55年卒の方まで葬られている(23基)。嘉味田家の家譜の「墓誌」を見ると、墓は東風平間切冨盛村から安里村の東大堂松尾へ移動したようだ。大名へは大正時代に移したと聞く。

 嘉味田家の墓調査の報告は時期を見てするとして、石棺(厨子甕)の中にあった副葬品の柄鏡・鏡(2コ:直径11cm、8.1cm)・鋏・櫛・磁器・銭・キセルなどがある。二世の向恭安成名(越来王子:15531630年)と妻(15611612年)と三世成名(順治十年卒:1653)と室の思乙金がはいた石棺に納められていたので17世紀初期のものと思われる。ここでは画像でみていだくことに。

 ・二世の石棺にはいていた副葬品は丸銅鏡二(直径8.1cmと11.0cm)、ハサミ(種鋏)、和鋏、キセル毛抜き?、木製の櫛片)
  ・三世の石棺にはいていた副葬品は手鏡(柄鏡:直径12cm、把手9cm)、磁器の碗、キセル、円形の金具?がはいている。
  ・五世の陶棺にはいていた副葬品は鳩目銭。


 柄鏡には鶴と松葉の図柄があったような。記憶は曖昧なり。ノートにメモがあるかもしれません。鏡についての図柄は確認できなかったような。それらの遺品はそれぞれの石棺の中なり。

 
      柄鏡の裏と表               石棺の中にあった遺品」

 
        柄のない鏡(裏表)         あの世も銭が必要だが使っていませんネ

 「嘉味田家」の墓に注目しているのは、墓の移葬や修復と家譜の提出、さらには近世墓や位牌の成立と関わりである。「嘉味田家」は尚真王の第四子(龍徳:越来王子)である。「具志川家」尚真王の第三子(今帰仁王子:尚詔威)は越来王子(龍徳)の兄である。両家の初代は兄弟である。

 「嘉味田家」の向氏家譜序は康煕31年(1692)で五世向殿柱(喜屋武按司)の時である。墓は東風平間切冨盛村にあった時(康煕26年:1687)に修復し、翌27年(1688)に墓の画図(魚山也、長七十間横首九間中二十間尾四間)をもって申請し、翌28年に拝領墓となっている。

 七世向棟(喜屋武按司)の時、真和志間切安里村の東大堂(現在の大道か)に墓地を見つけ、その時、唐栄の地理師に風水を見てもらっている。乾隆辛未(1751年)安里村に墓を新しく造り、翌年の三月に移葬している。そのことを家譜に記し後胤にしっかりと伝えるとある。

 今帰仁村にある大北墓(按司墓)は今帰仁グスクの麓のウツリタマイから1722年頃に運天に移葬している。今帰仁按司(十世宣謨:王子)は「具志川家家譜」を申請した人物である。それと大北墓を王府に申請許可を願いでた人物である。

 他の墓の修復などの記事を突き合わせていないが、王府への家譜の申請と墓の修復や確認、そして位牌や近世墓、それと位牌とが密接に連動しているのではないか。