伊是名村                                  トップへ


 ・伊是名島の「火立所」と「雨乞い場所」 ・伊是名島番所跡 ・伊是名グスクと伊是名玉御殿


【伊是名島の「火立所」と「雨乞い場所」】
(2007年1月31日)

 伊是名島の「雨乞い」と「火立所」のあるアーガ山に登る。その場所まで行くのは十数年振りである。行った記憶はある。島に何度か渡っているが、以来その場所に足を運んでいなかった。

 伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で「異国船遠見番所」、『薩摩藩調製図』で「火立所」とである。伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で●記号で記されている。伊是名島から国頭間切の辺戸村で受け、辺戸村から今帰仁間切の古宇利島、さらに大嶺原、伊江島の火番所で受け、瀬底島、読谷山間切火番所、弁が嶽で受け継ぐ連絡網である。

 アーガ山の嶺に「火立所」とは別に諸見・伊是名・仲田の雨乞いを行う場所がある。



 ▲「火立所」の方角は伊平屋島       ▲伊是名の「火立所」跡


      ▲諸見の雨乞いの場所            ▲伊是名の雨乞いの場所

【伊是名島番所跡】(2007年1月30日)

 伊是名島の伊是名まで足を運ぶ。伊是名島の番所があった村であり、伊是名島の同村である。伊是名グスクは元島原にあり、伊是名村(ムラ)があった場所である。伊是名は元島(原)から上島(原)へ。そこから現在地に移動した(『伊是名村史』下巻)という。伊是名のムラ名は伊是名グスクに因んだ呼称なのかもしれない。

 『球陽』(巻20)に「伊平屋島の駅籍の移転」(1811年)の記事がある。
  伊平屋島駅籍を村後の北方伊世名原に改移るを准す。
  伊平屋島の駅は、客歳回禄に遇ふて焦土となる。当に改造あるべし。而して今かの駅籍は
  伊是名村内にあって、其隣り茅屋多く常に大憂あって安し難し。駅籍を村後の北方伊世名
  原に改移するを准さんことを乞ふの等由、酋長の呈文に検者、総地頭及び大美御殿大親、
  高奉行等、印を加具して詳明するに、随即に准焉す。

 伊平屋(伊是名)の駅(番所)は伊是名村(ムラ)の集落内にあったが、回禄(火災)で焼けてしまった。今の場所は集落内にあり隣には茅葺が多く常に心配である。それで集落後方北側に移し変えることを願いでて許された。駅(番所)の移転や改築に検者・総地頭・大美御殿大親・高奉行などの印を押して願いでている。伊是名島を含む伊平屋島は大美御殿の領地で、総地頭は伊是名だったという(『南島風土記』)。昭和14年に伊平屋と伊是名が分村する。

 「伊平屋島番所跡」碑に「昭和六年まで伊平屋村役場この地にあり」と記されている。集落内から移転後の番所(役場)があった場所である。





【伊是名グスクと伊是名玉御殿】
(2007年1月29日)

 伊是名島をゆく。伊是名グスクと同村(伊是名ムラ)、伊平屋島番所が置かれた伊是名へ。それと「尚円王の叔父銘刈親雲上は、首里にに出仕して真和志間切銘刈村の地頭職となり、後に帰島し、子孫は里主職を勤めた」ている。それが銘刈家(伊是名村伊是名)である。銘刈家は首里に引き揚げることなく伊是名島伊是名に家を構え住むことになる。

 各地の按司が首里に集められたのに対して、今帰仁間切は首里から監守(今帰仁按司)が派遣され1665年に首里に引き揚げた。伊是名島は今帰仁と異なり、銘刈親雲上が派遣(帰島)され、首里に引き揚げることなく島に住むことになる。それは、尚円が伊是名島が生誕地ということもあるが、伊是名島は首里王府の直轄地としての形態をなしていた。(祭祀も今帰仁阿応理屋恵は引き揚げる(一時期廃止され、再度今帰仁へ戻る)が、伊平屋あんがなしは、そのまま伊是名に留まる)。

 伊是名玉御殿に向かって左側に伊是名グスクへの登り口がある。そこがグスクへの正門があった場所だろうか。登って行く途中にいくつもテラスが確認できる。また拝所がある。一帯の斜面に建物があったと見られる。それが伊是名の集落だったのだろうか。斜面にあった集落が麓に下り(そこが伊是名元島)、さらに現在地に移動した。そのような経過を辿ったのであろうか。


    ▲伊是名グスクへの登り口             ▲伊是名グスク内にあるイシジャー


  ▲伊是名グスクの麓にある伊是名玉御殿       ▲グスクからみた伊是名元島跡


       ▲銘刈家(字伊是名)             ▲伊平屋島番所跡(字伊是名)