近世の山原の方切
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 そこで「方切」というのは近世の琉球における間切と間切の境界の変更のことです。間切の創設が主なものです。そのことが後の間切の歴史や文化を見ていくことに影響を及ぼしている、あるいはひきづっていることがあります。まずは、「方切」の具体例から。方切で間切が創設されると、新しく間切番所が設置されます。そのことで行政の中心が変わります。それと方切で祭祀に影響を及ぼすところがでてきます。また、変わらないこともあります。方切がどう影響を及ぼしているか、あるいは方切以前のことがどう継承されているか。

 ・1666年今帰仁間切を今帰仁間切と伊野波(後に本部)間切
 ・1673年に金武間切と読谷山間切から恩納間切を創設
 ・1673年に名護間切と金武間切から久志間切を創設
 ・1673年に国頭間切と羽地間切から田港(大宜味)間切を創設
 ・1690年頃に今帰仁間切と羽地間切との間で方切あり
 ・1695年国頭間切と大宜味間切と久志間切の間で方切あり
 ・1719年に国頭間切と大宜味間切との間で方切あり
    (屋嘉比・親田・美里が大宜味間切へ、平良・川田は久志間切へ)
 ・1736年に今帰仁間切と羽地間切との間で方切あり
    (我呉・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地間切内部、屋我地島へ。その地を今帰仁間切へ)




          
上の図は『名護市史―わがまち・わがむら』より


【本部町渡久地のマチ】(昭和27年頃)

 昭和27年頃の本部町渡久地のマチと渡久地港です。左手の写真の後方の山は真部山、右手の写真の山は健堅の山です。マチの市場、瓦葺きの元の警察署、郵便局などが確認できます。まだ茅葺き屋根の家が大半です。戦後数年後であるが、渡久地港にはエンジン付きの船が多くみられ、マチの復興は港からの印象があります。渡久地は戦前からカツオ漁で知られています。


 
▲本部町渡久地のマチ(昭和27年頃)               ▲本部町渡久地の港


 
    ▲本部小中学校の馬小屋教室           ▲当時の小中学校の生徒


【八重瀬町新城】