北山の時代と沖永良部島

トップヘ                                      (於:和泊町  2016年11月5日)



 2016年11月5日(土)沖永良部島での講演内容である。前日からパソコンの不具合があり、レジメ一枚のみの配布となりご迷惑をおかけしました。当日プロジェクターで紹介しました部分を、改めて紹介します。




・北山の時代と沖永良部島

   ・四つの北山の時代

    ・前北山時代(先北山、または大昔北山ともいう)(12世紀末~14世紀初頭)
    ・中北山時代(中昔北山、または昔今帰仁ともいう)と沖永良部島(14世紀~14世紀末)
    ・後北山時代(後今帰仁ともいう)(北山三王時代)と沖永良部島の世之主)(14世紀末~15世紀初頭)
    ・監守時代(第一・第二監守時代ともいう(1416年~1665年)
 ・発掘調査から見た「中北山の時代」
 ・今帰仁城の築城とオモロ
 ・オモロと沖永良部島―世の主・ノロ・交易・シニグ・築城・有力な豪族・城(グスク)のつく村々
 ・オモロと後蘭城跡と後蘭孫八
 ・中北山之由来記と世之主由緒
 ・北山の落城と沖永良部島(宝刀)(北山王の千代金丸と世之主王の宝剣)北谷菜切と(喜)美留菜津美)
 ・沖永良部島にのこっていたシニグと今帰仁ムラのシニグ
    ・オモロで謡われている沖永良部島のノロと遺品とシニグに関わる百(ヒャー)
      (知名町の下城の世之主神社にまつわる伝承とシニグ)
 おわりに


【主な参考文献】
 『中山世鑑』
 『琉球国由来記』(1713年)
 『中山伝信録』(1721年)
 『球陽』
 「真境名安興全集三巻」(33頁)
 『南島風土記』(東恩納寛惇著)(389頁)
 『琉球百話』島袋源一郎著(昭和16年)(100頁)
 「伝説を探る」新聞記事(新聞名?)

 『沖縄県国頭郡志』 島袋源一郎著(大正8年)
 『なきじん研究―北山の歴史―』


  

  

・中北時代(1200年~1300年頃)

  野史によれば源為朝の子舜天王の二代目舜馬順煕王の二男が世の主となって今帰仁城主に封じられた。ところが、その二世は嗣子がなく、英祖王の子、湧川王子を養子として跡をつがせたが、その後今帰仁世の主の代になって、臣下、本部大主に攻められて城を奪われるその直前、城主はすでにこの世を去っていたが、生まれたばかりの嗣子は北谷間切砂辺村へ落ちのび、下人に身をやつして仇射ちの機会を待った。十八年後、あちこちに散らばって旧臣が大宜味へ行ってそこが精兵数数千を率いて今帰仁城を攻め、本部大主を討って城を取り返した。

 この嗣子がいわゆる「北山由来記」に出てくる丘春幼名千代松金君である。


 その後、一族はハニジに滅ぼされる。ここに中北山は滅ぶ。初代の今帰仁世の主より六代目のことである。

 ・志慶真乙樽や霜成の九年母などの話は「中北山時代」の伝承

 ・今帰仁の住民はほとんどが中北山の系統。英祖王の子孫だという。護佐丸も同祖だというので七年目毎に中城や伊祖城から拝みに行
  く一族が多い。

 


(読谷山ガー)

    ①山原のムラ・シマと五地方
②北山(山原)の主なグスク
③北山の主な出来事(年表)
④五つのグスクの構成要素
⑤今帰仁グスクの成り立ち
⑥今帰仁グスク主郭の変遷

    ⑦文献『明実録』にみる山北王の時代
⑧北山の滅亡の場と千代金丸(金装宝剣拵)


 


  









 北山の歴史で「中北山の時代」を描くのに四苦八苦されている。正史では巴志以前時代について史料の少なさもあるが、天孫氏王統、舜天王統、英祖王統、察度王統、尚思紹王統とし、歴史を描いてある。北山はその王統から外れてくるので「正史」の枠からはずれ「野史」として扱われてきた。三山鼎立(北山・中山・南山)時代の北山は怕尼芝・珉・攀安知の時代以前は「野史」を手がかりにするしか、今のところなさそうである。野史や伝承でみた北山の歴史は、
    ・前北山時代(先北山、または大昔北山ともいう)
    ・中北山時代(中昔北山、または昔今帰仁ともいう)
    ・後北山時代(後今帰仁ともいう)(北山三王時代ともいう)
    ・監守(第一・第二監守)時代ともいう。

 さて、中北山時代を「野史」ではどう描かれているのか。まずはその土俵に立ってみることに。

      (仲北山の攻防)

 沖永良部島との関係は以下のように述べている。以下のことが根強く伝承されている。

 「仲北山は二、三代の後その臣本部大主(大腹とは違う人物)の謀反にあって一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取り返したが(
北山由来記には、この若按司を丘春としてある)悪運未だに尽きず、一、二代の後再び一族は怕尼芝のために打ち滅ぼされしまった。(シナ音でニジと発音するというから、あるいは羽地按司であったのではあるまいか)怕尼芝は弘和三年(1383年)より初めて明国へ入貢し、与論・沖永良部の諸島まで制服し北山王国の基礎を固めた人である。(沖永良部島には今帰仁王の次男真松千代王子の城址あり、内城には子孫がいて、世之主御由緒という記録を保存している)とある。」(補遺伝説沖縄歴史島袋源一郎著)

 

 
            ▲後蘭孫八城跡(後蘭)


「世乃主由緒」

沖永良部島先主、世之主かなし幼名真松千代(まちじょ)王子
  右御由緒私先祖より申伝之趣左上之通り。
一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三山為被成御在城由、北山王の儀は今帰仁城主にて
   琉球国の中より国頭九ヶ間切その外、伊江島、伊平屋島、与論島、沖永良部島、徳之島、大
  島、喜界島まで御領分にて御座候由、北山の御二男右真松千代王子の儀は沖永良部為御
  領分被下御度海の上玉城村金の塔(ふばどう)え御館を構え被成候由、左候処、大城村川
  内の百と申すもの御召列毎々魚猟に古里村の下、与和海え御差越海上より右川内の百当分
  の古城地を指し、彼地の儀は大城村の地面にて御座候につき、世乃主かなしの御居城為御
  築可被遊段申し上候段申し上候処忝被思召旨の御返答にて、即ち其比後蘭村え居宅を構へ
  罷居候後蘭孫八と申すものへ城被仰付三年目に城致成就夫より御居城と相成候


一、世乃主かなし恩奥方の儀は、中山王の姫にて御名前真照間兼之前と申唱候由


一、本琉球の儀三山御威勢を争ひ度々合戦為之有然処北山今帰仁城之儀は中山(北山か)之
   大将本部太原と申すものより被攻亡され南山落城終には中山一統に相成為由、右に就て
   世の主かなし事頼むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄中山より和睦の使船数艘渡
   海有之候由、末実否御聞届も不被成此方事北山之二男にて候得ば中山より軍船に相違無
   之候、左候へば小島を以て大国へ難敵と直と奥方を始め御嫡子其の外無残御差違へ御自
   害の由。

一、右騒動の砌、男子三歳若主一人、女子五歳之者一人乳母之真升兼(ますかね)と申すもの右御
  両子列上、西原村あがれ百所に逃越候折西原村の下へ徳之島船着船いたし居り候を頼入徳之島
  へ罷渡り己後中山領島相成島中無異相治り候に付島役共より王子迎として渡海いたし候に付き、御
  帰島被成候得共幼少両子にて本城の住居難被成、古城より北に相当り小高き処へ御館を構へ御直
  り被候に付き今に直城(なおしぐすく)と申唱申し候。

一、右王子の子孫成長の上中山王御取立にて、代々大屋役仰付相勤来り候由、依之当分私迄も
   島中 のもの共大屋子孫と唱申候。尤大屋役何代相勤申候哉不詳。
   右女子の儀王女之故妻嫁に可仕以合無之、古城之下え結庵之屋敷干今男子禁戒

一、黄(喜)美留菜津久美と申候宝刀之申伝
   世の主時代、黄(喜)美留村へ扇子丈と申もの罷居しが引差越候処刀一腰つり上げ、宝刀の訳は
   不相分ものにて魚を切候得はまな板迄切込、夫より秘蔵いたし置き候処、其子右刀を以て怪
   我仕り夫故相果申候につき立腹し余りに古場野と申野原の真石を切り申候処夜々海中にて光

   をあらはし候を城より御見届、使者を以て御取寄せ秘蔵相成候由。

一、其此世之主へ奉公仕居申候島尻村住居国吉里主と申者之為勝負馬二匹致所持候につき世乃
  主より 御所望被成候に付一疋は進上可仕と申上候ところ二疋共にと無理に所望被為成候処国吉
  里主より申上候は私事此馬の助を以て遠方より御城へ毎毎勤仕候儀御座候間一疋は御免し被下
  度段上候得共御聞入為之、御取揚相成候に付、国吉恨みを含み中山へ逃渡り、私主人には黄美
  留菜津久美と申候宝刀、名馬等相備へ中山大主へ謀判の企仕申候上候処、中山より使者差越、
  永良部世之主王には宝刀御所持之田御聞へ候間御見せ可被給段仰下候処、世之主御返答には、
  私事海外の小島に罷居宝刀の扶助にて島中部世之には宝刀御所持之由御聞候間御見せ可被給
  段被下候処、世之主御返答には、私事海外の小島に罷居宝刀の扶助にて島中相治罷居申事に
  て候得者、差上申儀相叶不申段被申断候由、然処中山之家臣共之内智有人陰々当局へ罷後奥
  方へ手入窃取帰国為仕由右仕合以後相知れ殊に北山王も落城、宝剣も被盗取傍々付気鬱被成
  居候折柄中山より数艘船海に付き、軍艦と御心得御自害の由申伝御座候。
  右の通り私先祖より代々申伝御座候




北山王国と沖永良部島の系譜」

今帰仁按司(なきじんあじ)ー怕尼芝(はにじ) ー攀安知(はんあち)( 1416年滅亡)

                    長男)

松千代(沖永良部島の世の主) 二男)

王舅(おうしゅん)(与論島の世の主)

(三男) ~与論島の伝説より~


 「正史」とされる首里王府の歴史と「野史」とされる地方の歴史がある。北山と関わる「野史」も数多くある。北山と関わる正史とみて良さそうな「野史」がある。沖永良部島の歴史と関わるのが以下のものである。

(中北山)              (三王時代)


今帰仁按司・・・・・・怕尼芝・・・・・・・・珉・・・・・・・・・攀安知

                     (長男)

                    真松千代

                     (二男)→沖永良部島へ(世の主)

                    王舅

                     (三男)→与論島へ(世の主) 
 

沖永良部島の「おもろ」にみる沖永良部島

    沖永良部島(12首)  与論島(12首)  徳之島(3首)  大島(15首)(喜世島のみはなし)

    沖永良部島の12首の分類

    ・まごはち 1首  ・赤金(船頭の名) 2首  ・世之主  3首  ・築城  1首  ・航海  4首(内容重複10首)  ・恋愛  1首

      

【世之主】


 ・ゑらぶたつ あすた   沖永良部に出発する長老達よ

  大ぐすく げらへて   大きな城を造って

  げらへ やり       あげなさい

  おもいくわの       愛する王子のために

又 はなれたつ あすた 

  大ぐすく

 ・ゑらぶ世の主の     沖永良部世の主が

  お船 橋 しよわちへ  船を使って橋のようにして

  ゑらぶ しまなちょる   永良部を領地にした

 又 はなれ世の主の   永良部世の主の

 ・ゑらぶ世の主の         永良部の世の主が

  ゑらでおちゃる みちゃぶれ  選びぬいた名馬達よ

  みちゃぶれや

  世の主ぢょ まちよる      世の主を待っている

又 はなれ世の主の

  金くら かけて           金のくらをかけて

  よわとまり おれて        与和泊に降りていこう

・ゑらぶ世の主の

 えらでおちゃる みちゃぶれ

 みちゃぶれや のさ

 あくか むむよみの

 まきんとて みやせ

又 はなれ世の主の

  ゑらでおちゃる 


 

ゑらぶ まこはちとおもろ

 沖永良部は永良部である。口永良部島と区別するために「沖」をつけたという。沖永良部と表記するのは、明治になってなのかもしれない。沖永良部の「沖」はどこから見ての沖なのか重要である。もし、古琉球の時代に沖永良部島と呼ばれていたのであれば、琉球側からみて与論島の後方にある島としての読み取れる。同じ永良部島が屋久島の北西の位置にある。永良部島が二つあり、区別するために「口」と「沖」をつけたという。時代的には新しく、薩摩からみた呼称である。

古琉球(1609年以前)の『おもろさうし』で、
 一 ゑらぶ、やむまたけ、
  おさんする、かみがみ
    あんまぶて、
    此と、わたしよわれ、
  又 はなれ、やむまたけ          (13-196)
  一 ゑらぶ、まこはつが、
   たまのきやく、たかべて
    ひといちよは、
    すかまうちに、はりやせ、
  又 はなれ、まこはつ、
   たまの             (13-115)
  「ゑらぶ」とあり、永良部は古琉球以前からの呼称である。また『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)には、沖永良部島のことを「恵羅武嶋」とあり、その頃から「えらぶ」である。また『正保国絵図』(1644年頃)では「永良部嶋」である。沖が付くようになったのは、その後である。宮古の伊良部島も「永良部嶋」とあり、同様な語義かと思われる。その沖永良部の語義は「えらぶ」である。その「えらぶ」が何かということになる。魚のエラブ(イラブ:ブタイ)チャーに因んだ地名だろうか。島の形が似ている、あるいはエラブがよく獲れる島であるとか。

『明実録』に見る山北王の時代

【山北王怕尼芝】(7)

①洪武16年(1383)正月丁未(3日) 
  詔して琉球国中山王察度に鍍金銀印并びに織金文綺・帛・紗・羅凡そ七十二匹を賜う。
  山南王承察度も亦た之の如し。亜蘭匏等は文綺・鈔・帛を賜うこと差有り。…時に琉球国、三王雄長を争いて相い攻撃す。使者帰りて其の故を言う。是に於て亜蘭匏等を遣(や)りて還国せしむるに、并びに遣使した中山王察度に勅した曰く「王、滄溟の中に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや。

  王能く天を体して民を育て、事大の礼を行う。朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わして朝貢す。朕、王の至誠を嘉し、尚佩監奉御路謙に命じて王の誠礼に報わしむ。何ぞ期せん、王復た遣使し来りて謝す。今内使監丞梁民をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)して王に渡金銀印一を賜わしむ。近ごろ使者帰りて言わく、琉球の三王互いに争いて農を廃し民を傷つく、と。
  朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。王其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん」。山南王承察度・山北王怕尼芝に論して曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。
  邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察度も亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近ごろ使者、海中より帰りて言わく、琉球の三王互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。
  
  朕之を聞き?憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体し、兵を息め民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん」。

【山北王珉】(1)

①洪武28年(1395)正月丙申(1日)
  是の日、朝鮮国李旦・琉球国山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・馬匹を進む。



三山統一後の祭祀と沖永良部島



沖永良部島畦布ノロ(森家)の遺品

 

 







おわりに