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第二監守時代(1500年頃~1665年)


一、はじめに

 北山監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵は16世紀初頭から17世紀前半までの「北山の歴史」に登場する人物達である。それらの人物が遺していった、あるいは遺した墓や遺品などから、歴史を綴ってみることにする。ここでの北山監守は尚韶威(一世)から従憲(七世)までの今帰仁按司である。今帰仁阿応理屋恵は、具体的な代(年号)や氏名について不明な部分が多いが『具志川家家譜』と『女官御双紙』(1706~13年)』や残されたオーレーウドゥン跡や阿応理屋恵の遺品、監守の時代の辞令書、集落移動などとの関わりでみていく。

第二監守時代(1470~1665年)今帰仁グスクに監守が住んでいた時代は、1500年頃から1665年の一世の尚韶威から七世の従憲までである。一世の尚韶威は尚真王の三子で首里から派遣されたので首里生れで、亡くなると玉陵(西の室)に葬られている。七世の従憲は今帰仁産れで、首里に引き上げ、首里で亡くなるが今帰仁の運天の大北墓に葬られている。大北墓は1733年に今帰仁グスクの麓のウチリタマイ(玉御墓)から運天に移葬しているので、七世は当初はウツリタマイに葬られていたことになる。一世から七世まで、北山監守を勤めた一族がどのような痕跡を残していったのであろうか。

もう一方、北山監守の一族とみていい今帰仁阿応理屋恵、三十三君の一人なので首里王府の重要な祭祀をつかさどった神人の一人である。今帰仁阿応理屋恵の動きから、阿応理屋恵の祭祀と今帰仁ノロの祭祀の重なりを読み取ることは、今帰仁阿応理屋恵が果たした役割を知ることでもあり、それは監守が首里に引き上げることと連動していることわかる。それらのことや遺された痕跡から歴史をひも解いていくことを目的とする。 

二、北山監守(今帰仁按司)

 北山監守とは今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司のことで、第二監守時代の尚韶威から七世の従憲までの今帰仁按司をさしている。北山監守を勤めた按司達がどのような痕跡を残しているのか。それらの資料を確認してみる。

一世の尚韶威は尚真王の第三子である。韶威については『具志川家家譜』に記され、今帰仁王子と称し、真武体金(童名)、朝典(名乗)、宗仁(号)で、母の名や生れは伝わっていない。尚韶威は嘉靖年間(1522~66年)に亡くなり西の玉御殿(首里)に葬られている。玉陵の碑に「みやきせんあんしまもたいかね」(今帰仁按司真武体金)は尚韶威のことで、亡くなると玉陵に葬られ石棺がある。

 因みに、尚韶威の次男介明(名乗朝白)は南風は按司とよび、その娘は阿応理屋恵按司だという(『沖縄県国頭郡志』)。南風按司が今帰仁と親泊に村芝居を授けたといい、後に安次嶺の地頭となり、今帰仁を去るに及んで安次嶺アシヤゲという。『琉球国由来記』(1713年)にも安次嶺アシアゲとあるのはそれに由来するという。

二世の今帰仁按司(王子)介昭の産まれは不明で隆慶年間(1567~72年)に亡くなっている。『具志川家家譜』に思二郎金(童名)、朝殊(名乗)、宗義(号)である。嘉靖年間に尚韶威を継いで今帰仁間切惣地頭職になっている。四男の和禮が今帰仁間切平敷村平敷親雲上の娘思加那を娶り、介紹の娘が宇志掛按司(童名:松比樽)の神職となり孟氏名今帰仁親方宗春の妻となる。今帰仁に残した痕跡は、大北墓の「宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金」(『沖縄県国頭郡志』)である。それは二世と見られるが「思二郎金」をそう判読したのかもしれない。住居は今帰仁グスク内である。

三世は和賢である。『具志川家家譜』に眞武躰(童名)、朝敦(名乗)、宗眞(号)とある。嘉靖三六年(一五五七)に産れ万暦一九年(1591)に亡くなっている。三世は運天の大北墓ではなく今泊の津江口墓に葬られている。その理由は津屋口墓の「墳墓記」の碑文に読み取ることができる。

三世は当初から津屋口墓に葬られている。津屋口墓は今帰仁村今泊にあるが、北山監守(三世和賢)の墓である。運天の大北墓に入れず、親泊の津屋口原に墓をつくり葬っている。墓の庭に「墳墓記」(一六七八年)が建立されている。その墳墓記をひも解くことは、今帰仁グスク内に住んでいた北山監守(今帰仁按司)とその一族、そして麓に移った集落、監守一族が移り住んだ集落内の二つのウドゥン(御殿)との関係を知る手掛かりとなりそうである。

 まだ、十分把握していないが、系図座への家譜の提出の際、先祖の業績を整理している過程で、先祖の墓が粗末にされ崩壊したりしており、『家譜』の編集と墓の修復と無縁ではなさそうである。
 三世和賢は万暦十九年(1591)に亡くなっているので、その頃に墓は造られたであろう。「墳墓記」(碑文)から、以下のようなことが読み取れる。
 ・墓は修築された。
 ・監守の引上げ(碑文では康煕丙午(1666年)
 ・尚真王第四(三か)王子宗仁は尚韶威のこと。
 ・高祖今帰仁按司宗真は三世和賢のこと。
 ・殿閣近くに墓を築く。
 ・津屋口に葬るのが便利である。
 ・三世和賢は万暦辛卯(1591年)に亡くなる。
 ・葬った墓の地は津屋口である。
 ・「墳墓記」の建立は康煕十七年(1673)である。
などである。現在、墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫?仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。  

四世は今帰仁按司克順である。『具志川家家譜』によると眞満刈(童名)、朝効效(名乗)、宗心(号)である。父は和賢で母は眞牛金である。万暦八年(1580)に産れ同二四年(1596)に十七歳で亡くなっている。万暦十九年(1591)に父和賢を継いで今帰仁間切惣地頭職を継いでいる。在任は数年である。若くしてなくなったため子供もはいなかった。

四世克順の時の「今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書」(1592年)がある。
  しよりの御ミ事
    みやきせんまきりの
    よなみねのさとぬしところ
   一六かりやたに四十九まし
    しよきたばる又もくろちかたばるともに
   一百四十ぬきちはたけ七おほそ
    やたうばる 又ひらのねばる 又はなばる
    又さきばる 又なかさこばる 又おえばるともに
   又よなみねの四十五ぬき
    かないの大おきてともに
  一人たまくすくの大屋こに
    たまわり申候
 しよりよりたまくすくの大やこの方へまゐる
 万暦二十年十月三日

「辞令書」の発給は四世克順の時である。今帰仁間切の玉城の大屋子に宛てたものである。そこに今帰仁按司や今帰仁御殿などの言葉は出てこない。大屋子という役人は、首里王府から直接辞令が発給されていて、北山監守(今帰仁按司)を経由するものではなかった。

 今帰仁に残る四世の痕跡は大北墓の「宗仁公四世今帰仁按司ママカル金」のみである。家譜にある四世の童名の「眞満刈」とあるが墓調査では「ママカル金」と読んでいるようで、確認が必要である。

 五世は今帰仁按司克祉である。『具志川家家譜』によると眞市金(童名)、朝容(名乗)、宗清(号)である。万暦十年(一五八二)に生れ同三七年(1609)に二八歳で亡くなった。四世を継いだ克順が十七歳で亡くなったので、弟の克祉が五世として万暦二四年(1596)に今帰仁間切総地頭職を継いでいる。次男の縄武の室は中根親雲上の娘を娶るが阿応理屋恵(今帰仁)である。

 「今帰仁間切辺名地の目差職叙任辞令書」(1604年)がある。1604年は五世克祉の時で今帰仁グスクに住んでいた時期である。

 しよりの御ミ事
  みやきせんまぎりの
  へなちのめさしハ
  ミやきせんのあんじの御まへ
 一人うしのへばんのあくかへのさちに
  たまわり申候
 しよりよりうしのへはんのあくかへのさちの方へまいる    

  (首里王府から、今帰仁間切の辺名地の目指を、今帰仁按司の部下である丑の日番の赤頭のサチに賜るよう申し上げる。首里(王府)から丑の日番の赤頭のサチに差し上げる)    

 今帰仁間切は「ミやきせんまきり」と言われ、「へなち」は辺名地村であるが、まだ「…村」と使われていないことは注目すべきである。村は近世以降の行政単位だということがわかる。「みやきせんあんしの御まへ」(今帰仁按司の御前)ということは今帰仁グスクに住む按司の御前ということになる。「うしのへはんのあくかへ」(丑の日番の赤頭へ)とあるが、今帰仁グスクへ勤める三番制度(三交替制)があり、監守制度と関わる「赤頭」の役職があったことが伺える。

 大北墓の銘に五世が見られないが、その中に「今帰仁按司御一人御名相不知」とあり五世の可能性がある。薩摩軍の琉球侵攻で今帰仁グスクが攻められた時の監守(今帰仁按司)なので尚寧王が玉陵に入らなかった例もあり大北墓に葬られていない可能性もある。葬られたのであれば、グスク麓のウツリタマイ(按司墓)である。そこから十世宣謨の時(1722年)、運天に移葬しているので、そのことも念頭に入れておく必要がある。

 六世は今帰仁按司縄祖である。『具志川家家譜』によると鶴松金(童名)、朝経(名乗)、瑞峯(号)である。万暦二九年(1601)に産れ順治十五年(1658)に五八歳で亡くなる。父克祉の後の惣地頭職を継いだのは一六〇九年で八歳の時である。縄祖の次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の娘を娶り阿応理屋恵按司(童名思武眞金)である。

 六世の時の辞令書は四点ある。その一つが「今帰仁間切謝花掟職叙任辞令書」(1612)である。

  しよりの御ミ事
   ミやきせんまきりの
   ちやはなのおきての
   ミのへはんの□□
   くたされ候
  万暦四十年十二月□日

  (首里からの詔 今帰仁間切の謝花の掟である巳の番の誰それに差し上げなさい)

この「辞令書」が発行された1612年は、薩摩軍の今帰仁グスク侵攻から三年後のことである。北山監守(六世今帰仁按司)はまだグスク内に住んでいたのであろう。五世克祉の時代にあった三番制度が、まだ引き継がれている。謝花の掟が三番制度の巳の日の当番でグスクに出仕していたと見られる。因みに、五世克祉の次男縄武が中宗根親雲上の女阿応理屋恵按司(思乙金)を娶っている。

 六世縄祖(惣地頭職1609~53年)の時の「辞令書」四点の中の一点が、この「今帰仁間切与那嶺の大屋子職叙任辞令書」である。崇貞十六年(1643)十月三日の発給なので六世縄祖の時のものである。

  首里の御ミこと
   今帰仁間切の
   よなみねの大屋こは
   一人今帰仁おどんの
   ももなみの大屋こに
   たまわり申[候か]
  崇禎十六年十月三日

 ここで注目したいのは「今帰仁おどん」である。それからすると今帰仁グスクから城下に移り住み、そこが今帰仁御殿と見られる。いつ城下に移ったのかの年代は不明であるが、ここでいう「今帰仁おどん」(今帰仁御殿)は、今帰仁グスクではなく、今でいうオーレーウドゥンと見られる。

今泊の集落内に二つの御殿跡がある。一つは按司(監守)の御殿、もう一つは今帰仁阿応理屋恵の御殿である。今のオーレーウドゥン跡地が按司(監守)の殿内(今帰仁村地内)で、馬場の東側の角のウドゥン敷地跡(親泊村地内)が今帰仁阿応理屋恵の殿内と想定している。移動した後の阿応理屋恵按司火神は『琉球国由来記』(1713年)を見ると親泊村地内である。

 それと「今帰仁里主所火神」が按司家の火神で今帰仁村地内にある。そこには六世縄祖の位牌があることから、現在のオーレーウドゥン(阿応理屋恵御殿)は、もともとは按司御殿で、首里から今帰仁按司は今帰仁に戻ることがなく、親泊馬場の東側角のウドゥン跡が処分され、今のオーレウドゥン(元の按司御殿内)に今帰仁阿応理屋恵(アットメー)住むようになりオーレーウドゥンと呼ばれるようになったと見られる。その屋敷にウドゥンガー(井戸)があるが、按司御殿に因んだ名称なのかもしれない。因みに、六世縄祖の次男従宣が孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)女阿応理屋恵按司(思武太金)を娶っている。

七世は今帰仁按司従憲である。『具志川家家譜』に思五良(童名)、朝幸(名乗)、北源(号)とある。天啓七年(一六二七)に産れ康煕二六年(1687)に六一歳で亡くなる。七世のとき、北山監守(今帰仁按司)は康煕四年(1665)に首里赤平村に移り住むことが許された。その翌年(1666)に今帰仁間切を二つ分割し、今帰仁間切と伊野波間切(翌年本部間切と改称)を創設する。今帰仁間切惣地頭職になったのは順治十一年(1653)である。その時の俸禄は五六石、間切分割の時か不明だが知行が減少し四十石となる。

従憲は康煕二六年(1687)に首里で亡くなるが、故郷の運天の大北墓に葬られている。ただし、従憲がなくなった頃の墓は運天の大北墓ではなく今帰仁グスク麓にあったウツリタマヒ(玉御墓)である。十世宣謨の時、雍正十一年(1733)に運天の大北墓に移葬したようである。大北墓に「宗仁公七世今帰仁按司」とある。

七世従憲が首里に引き上げたことで監守としての役目はなくなり、今帰仁按司は他の間切の按司と同様な扱いとなる。首里引き上げ後も今帰仁按司一族は十四世まで継承されていく。八世から後については触れないが、十四世の世忠(朝敕)まで今帰仁按司、十五世の朝昭の時具志川按司を名乗るようになる。これまでの今帰御殿が具志川御殿と名乗るようになったのはそのためである。 

三、今帰仁阿応理屋恵―継承と住居地―

今帰仁阿応理屋恵(按司)は三十三君の一人である。三十三君の一人であった今帰仁阿応理屋恵がどのような役割を果たしていたのか。そのことは北山監守を務めた今帰仁按司の役割を知ることでもある。1665年今帰仁間切(今帰仁グスク→今帰仁村)から首里に引き揚げた監守一族である。

今帰仁按司一族が今帰仁間切に居住していた頃、『具志川家家譜』に阿応理屋恵按司として登場するのは三例である。阿応理屋恵職は、今帰仁按司あるいは阿応理屋恵の娘や孫が継承するのではなく他家から嫁となって職を受け継いでいる。五世克祉の次男縄武の嫁、六世縄祖の次男従宣の嫁が今帰仁阿応理屋恵按司となっている。『具志川家家譜』に次のような祭祀に関わる記事がある。

弘治年間、一世尚韶威の頃、毎年元旦や十五日、冬至、大朝のとき首里に赴いていた。また山北(山原)節々神の出現があると尚韶威以来重要な儀式として家族で行っていた。王都から唄勢頭を三、四人遣わし、この礼式に阿応理屋恵按司、世寄君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志などの女官を遣わせた。崇禎年間(1628~43年)に兵警に逢って礼を廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今(?年)に至って尚存続し毎節礼を行う。

運天の大北墓に「アヲリヤエアンシタル金」と「アオリヤイアンシカナシ」と「アヲリヤイ按司」の三名の阿応理屋恵が出てくる。北山監守時代の今帰仁阿応理屋恵である。『具志川家家譜』に登場する阿応理屋恵と大北墓のアヲリヤエアンシと同一人物と見られる。明治四四年に調査されているが、銘書を読み込んでみると大方一致すると見られる。まだ、結論を出すのは早いが、尚真王の第四子の龍徳越来王子(尚韶威の弟)を初代とする嘉味田家の墓調査をしたことがある。その結果からすると『具志川家家譜』の人物と大北墓は大方一致すると見られる。

 北山監守が首里に引き上げてから、今帰仁阿応理屋恵はどうなったであろうか。『具志川家家譜』によると「崇禎年間(1628~43年)に兵警に逢って(今帰仁での)礼を廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今に至って尚存続し毎節礼を行う」とある。崇禎年間は北山監守がまだ今帰仁にいた頃なので阿応理屋恵も今帰仁にいた頃である。そこで「今に至って尚存続」の「今」はいつのことなのか。それは首里城が焼失した年の康煕己丑(1709年)と見られる。すると、北山監守が首里に引き揚げた時、今帰仁阿応理屋恵も首里に引っ越し、首里で尚節礼(祭祀)を行っていたことになる。祭祀によっては今帰仁までやってきたであろう。

今帰仁阿応理屋恵が首里に引き上げ、そこで存続していたことが『女官御双紙』(1706~13年)でもわかる。『女官双紙』(上巻)に出てくる六人の「今帰仁あふりやえあんじ」は首里で勤めた阿応理屋恵按司である。その中の一人は今帰仁間切親泊に住む伊野波筑登親雲上の室となっている。僅かながら今帰仁間切とつながり持っている。
 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 向氏南風按司朝旬女(孟氏今帰仁親方宗珉室)
 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 孟氏今帰仁親方宗珉女(向氏本部按司朝当室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 孟氏中宗根親雲上宗良(崎山按司朝恭室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 向氏崎山按司朝恭女
        (今帰仁間切親泊乃住伊野波筑登之親雲上室)
・今帰仁あふりやゑあんじ 本部間切居住伊野波爾也女(向氏与那嶺按司朝隣室)

以下の文面は向氏与那嶺按司朝隣の室が「今帰仁あふりやゑあんじ」となったときの引継ぎの様子を記したものである。

康煕四十年(1701)辛巳二月十九日今のあふりやゑあんじ言上有之同年八月朔日志よ里の大あむしられ取次日撰言上同三日御拝するようにと御返詞拝同三日御朱印志よりの大あむしられより掟のあむを以頂戴同四日巳時前に首里の大あむしられ列て御城上りすゑんみきふちゃにて首里天嘉那志御前へみはい御酒奉進上次に美御酌御賜次に於御同職真壁按司かなし御酒献上次に御菓子御茶給り昇按司御座敷へ記召首里の大あむしられ相伴ふて御料理御菓子御茶給焉御服給て退城附進上物左記之天嘉那志美御前へ御花一御玉貫一對同御茶之子一籠飯真壁按司加那志錫一對同御茶之子一籠飯 御城参昇之時とも備あむしられ一人あかた八人與のすりる主部二人興かき二人御花御籠飯持一人
  ・金劔一箇 玉珈玻羅一連 玉草履一足
    前々より有き
  ・地所高二十弐石二斗七升二合六勺八夕内
     田方 六石二斗一升三合三勺四才
     畠方 十六石五升九合三勺四才
  ・御■持方二■内 米一石 雑石一石 
     ■者 二人
  ・毎年麦の二祭稲の二祭■柴指の時のろくもいあふりやへ御殿へ出按司も出合はれ火神の前へ候
   て祭礼有のみ言やしと云儀規式有之也
   ・■与立御祝儀の時ハ首里へ上り御慶賀申上らるなり
   ・あふりやゑ御殿ハ根所の殿間切より作る。常の住所ハ自分乃作なり。

康煕四〇年(1701)に「あふりやゑあんじ」(向氏与那嶺按司朝隣室)の引継ぎの行事が行われている。国王(首里天加那志)の拝謁が許され、首里城へ参上し国王へ就任の挨拶をし国王から御酒を賜り、「御朱印」(辞令書)は首里殿内で首里大あむしられから授かっている。その儀式は四日間に及び、そこでいろいろな品々が出され、また提供を受けている。その中に御玉貫一對・玉珈玻羅一連・錫一對・御茶之子・籠飯・御服・金劔などがある。今帰仁阿応理屋恵の遺品のいくつかが残っている。残念ながら阿応理屋恵の「辞令書」は残っていない。『女官御双紙』(中巻)に、以下のように記してある。

 一、今帰仁あふりやい代合の時、言上は御自分より御済めしょわちへ、御拝日撰は三日前に
   今帰仁あふりやいより御様子有之候得者、首里大あむしられより大勢頭部御取次にて、
   みおみのけ申、御拝の日は首里大あむしられ為御案内、赤田御門よりよしろて、按司下
   庫理に控居、大勢頭部御取次にてみおみのけ申、今帰仁ふりやいよりみはな一ツ御玉貫一対、
   作事あむしられ御取次にておしあげ申、按司御座敷御呼めしょわれば、よしろて美待拝申、
   天かなし美御前おすゑんみきょちゃにおがまれめしょわれば、御持参の御玉貫、真壁按司
   かなしよりおしあげしょわる。相飾済、みはい御仮乞、大勢頭御取次にてみおみのけて帰
   るなり。一、同時御印判はせど親雲上より、みはいの日早朝、首里殿内へ持来らる。首里大
   あむしられより今帰仁あふりやいへ上申。 

四、今帰仁阿応理屋恵の廃止と復活

 今帰仁阿応理屋恵の廃止は『球陽』に見ることができる。「始めて今帰仁郡の女官阿応理屋恵職を裁つ」とある。首里における今帰仁阿応理屋恵按司職の廃止は1731年のことである。
 今帰仁郡内に阿応理屋恵按司職を廃止する。歴年久遠にして、従って稽詳する無し。然り而して、尚韶威(今帰仁按司朝典)次男向介明(南風原按司朝句)の女に、阿応理屋恵按司職を授け、伝えて向介昭(今帰仁按司)の女宇志掛按司に至ること共計五員なり。今其の事職を按ずるに、五穀祭祀の日、但民の為に之を祈祷する事のみ。而して他郡の祭祀は、只祝女有りて、以て其の祈を為す。是れに由りて、議して其の職を栽つ。

 廃止された三七年後の1768年に復活する。『球陽』で「六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す」とある。

 今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の務無きに因り、故に、三十三君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。

今帰仁グスク付近にある今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン)の祠に扁額があった。平成五年頃まで祠にあったが、今では失われている。「乾隆歳次丁未□□春穀」と確認できた。「依□得福」と読める。乾隆歳次丁未は乾隆五二年(1787)にあたり、当時の今帰仁間切惣地頭職は十一世の弘猷(今帰仁王子、名乗:朝賞)(1756~1809年)である。オーレーウドゥンの祠にあった扁額と十一世弘猷が関わっているではないか。今のところ直接関わった資料に出会えたわけではないが、オーレウドゥンへの扁額の奉納と今帰仁王子弘猷の動きと無関係ではなかろう。

 乾隆五二年(1787)に太守(ここでは薩摩藩主)様の元服のときで、向氏今帰仁按司朝賞は使者として派遣される。七月十一日那覇港を出て十五日に山川港へ到着。鹿児島城での公敷きの儀礼を果たし、方物を献上し、また福昌寺や浄明明寺などを拝謁している。翌年二月十一日麑府(鹿児島市内)を出て、翌日山川に到着するが風が不順だったようで帰ってきたのは三月十一日である。同じく乾隆五二年に三平等許願いのとき、世子尚哲、世子妃などを薩州に使わしている。オーレーウドゥンの扁額はふたつの薩州への派遣と関わっての奉納だとみている。 

五、阿応理屋恵と今帰仁グスクの祭祀

 1665年北山監守が首里に引き上げると、一族の今帰仁阿応理屋恵も首里に引き上げる。阿応理屋恵の役職は首里で引き継がれていくが、今帰仁グスクでの祭祀は今帰仁ノロが引き継いでいる。『琉球国由来記』(1713年)に今帰仁グスクでの祭祀が記されている。ちょうど、今帰仁阿応理屋恵が首里でその職を勤めている時期である。首里に引き上げて五十年ばかり経った頃である。今帰仁グスクなどの祭祀場に、城内上之嶽・城内下之嶽・コボウノ嶽・今帰仁里主所火神・今帰仁城内神アシアゲ・阿応理屋恵按司火神などがあるが、それらすべて今帰仁巫(ノロ)(トモノカネ巫)管轄の祭祀となっている。阿応理屋恵按司火神は当然ながら首里にいても今帰仁阿応理屋恵が祭祀を掌る。コボウノ嶽と今帰仁里主所火神も今帰仁ノロとなっているが、そこは本来、今帰仁阿応理屋恵が中心となって掌っていた祭祀であるが、首里に引き上げているので今帰仁ノロが肩代りしていた時期の記録である。

 特に、コバウノ嶽での祈願は、「首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデノ、御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デゝ」と唱えられ、歌の内容からすると首里王府クラスの祈りであり、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場であったことが理解できる。それが首里に引き揚げたため今帰仁ノロが肩代りし、今帰仁阿応理屋恵が1786年に復活するが、そのまま今帰仁ノロの祭祀として引き継いだとみられる(もちろん、今帰仁ノロや村民と一緒に行う部分もあったであろう)。

六、今帰仁阿応理屋恵の遺品
 

・今帰仁阿応理屋恵の遺品(『沖縄県国頭郡志』(大正八年)で、冠玉たれ一通/冠玉の緒一連/玉の胸当一連/玉の御草履一組/玉かはら一連/玉かわら一大形/二十二小形/水晶の玉百十六などの品目があげられている。

また、今帰仁阿応理屋恵の遺品『鎌倉芳太郎ノート』では、曲玉一連(大曲玉一ケ/小曲玉二一ケ/水晶玉三一ケ/水晶玉八〇ケ/玉がはら(かはら一大形・同二二小形/水晶之玉百十六個)/玉御草履/冠玉たれ一連、同玉之緒一連/胸当一連が上げられている。

それらの品目について、現存する遺品と照合する必要がある。勾玉については、分析がなされている。

引き上げ後、祭祀の多くを今帰仁ノロが勤めたため、引き上げる以前の三十三君の祭祀にまで戻ることはなかった。明治三十年頃の今帰仁阿応理屋恵(オーレウドゥン)の様子は、阿応理恵御殿、火神を祭り境内百十六坪、神職はアヲリヤエ按司、社禄十三円六四銭、孫より継ぎ氏子は三一戸である。 

結 び

 首里から派遣され監守を勤めた今帰仁按司、その一族が勤めた今帰仁阿応理屋恵の動きは首里王府と連動している。首里に引き揚げた今帰仁按司は、再び今帰仁に戻ることなく明治の廃藩置県を迎える。一方の今帰仁阿応理屋恵は尚韶威と共に今帰仁グスクへ、1665年に首里に引き上げその職を引き継いでいく。1731年に首里にいた今帰仁阿応理屋恵職は廃止となる。三十三君の役目がほとんどなくなったこともあり削減廃止となる。ところが、今帰仁の場合はどうも存続し続けていたようで1758年に今帰仁間切今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸をして、按司職を継ぐことがゆるされた。年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜わった。それ以降の今帰仁阿応理屋恵按司職は、最後のアットメーまで続く。

 【参考資料】
 ・『具志川家家譜』
 ・『琉球国由来記』
 ・『球陽』
 ・『女官御双紙』
 ・『沖縄県国頭郡志』
 ・『琉球宗教史の研究』鳥越憲三郎)
 ・『なきじん研究』3・15号

以下の写真入れる

  碑の拓本 三世和賢が葬られた津口墓  「墳墓記」(1678年建立)
  足袋の一部      色々な色のビーズ
  六世縄祖(瑞峯)の位牌  死去日が線彫されている