山北王の時代                             沖縄の地域調査(もくじ)

                              仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター元館長)

 

沖縄本島北部を山原(やんばる)と呼ばれている。山原と呼ばれるようになるのは近世になってからである。その地域は山北(北山)と記される。山北(北山)・中山・山南(南山)が鼎立していた時代を三山鼎立の時代と呼んでいる。北山の領域が山原である。

北山の時代は十一、二世紀から十五世紀初頭にかけてを言う。その北山の時代は、各地のグスク(城の字をあてグスクやグシクと呼ぶ)に按司が居住し、小規模のグスクが山原では五つにまとまり、さらに五つが今帰仁グスクに統一される。『明実録』に山北王が登場する頃には今帰仁グスク(北山城址・今帰仁城)に山北(北山)王が居住し、山原全域(奄美域の一部含む)を統括しクニとしての体裁を持った時代である。

山北というクニはどのような支配形態を持っていたのか。後に五つの行政区(間切)へまとまっていく。その過程とその時代に築かれた文化、支配形態については『明実録』を通してみることにする。 

一、山原の五つのグスクの頂点

 まず、現在想定している山原の歴史の流れを素描してみる。沖縄本島北部に後に五つの間切へとつながる根謝銘(ウイ)グスク(現在の大宜味村謝名城)、親川グスク(別名羽地グスク、旧羽地村で現在名護市)、金武グスク(金武町)、今帰仁グスク(今帰仁村)がある。その他に四十近い小規模のグスクがある。グスクと呼ばれていないが、御嶽(ウタキ)というのが、村(ムラ、今の字)クラスにある。御嶽(ウタキ)は集落(マキ・マキヨ)の発生と密接にかかわる信仰の対象となる重要な聖地である。グスクはある規模の権力を持った有力者と関わる場所だと考えている。

 十一、二世紀頃から各地の御嶽(ウタキ)を腰当(クサティ)とした集落の発達と、それらベースにした支配者のグスクが地域をまとめていく(支配)していく流れが被さっている。そして山原の各地の小規模のグスクが五つの中規模のグスクへとまとまっていく。そのまとまりが前にあげた一つのグスクである。さらに、五つのグスクを統括したのが今帰仁グスクである。山原の五つのグスクに住む按司達は、それぞれのグスクに居住しつつも今帰仁グスクに君臨する北山王のもとに統治された。今帰仁グスクを拠点に君臨した山北王が北山というクニをつくりあげた、そのような姿が想定できる。 

二、怕尼芝は羽地按司?

 怕尼芝・珉・攀安知の三人の山北王の出現を『明実録』や『中山世鑑』や『中山世譜』にみることができる。山北王が今帰仁グスクを含め五つのグスクの上に君臨した時代は、翼廊と基壇のある正殿の建物など今帰仁グスクの本格的な築城と重なる時代である。今帰仁グスクから大量にこの時期の中国製の陶磁器が出土している。沖縄本島では北山・中山・南山の三山が鼎立した時代で、南山ではまだいくつかのグスクが相争っている姿が『明実録』に見え隠れする。

 北山は怕尼芝・珉・攀安知の山王と続くが、怕尼芝はハニジやパニジと発音されることから、それは羽地グスクから出現した羽地按司ではないかともいう。ハニジとハンアンヂはハニ按司とハン按司ではないか。ミンは珉按司の按司部分が脱落しているとも考えられる。ハンアンヂはハニジ同様ハニ按司とも読み取れる。そのように見ると、北山王は今帰仁の地から生まれた按司ではなく他の地からきて今帰仁グスクを築いたとも考えられる。怕尼芝・珉・攀安知以前の北山の王統は、これまで歴史で扱っている資料では皆目不明というしかない。

 それ以前の北山の王統は「野史」と言われている資料の検証しながら扱うしかない。

 攀安知の時代(一四〇五~一四一六年)、中山の巴志と山原の国頭・羽根地・名護などの連合軍で攀安知(今帰仁)を滅ぼした。攀安知が滅ぼされた時、国頭・羽地・名護などの山原の按司は中山に寝返った様子などから、北山は必ずしも安泰であったわけではない。攀安知王の滅亡(一四一六、よっては一四二二年)で北山王を頂点としたクニとしての体裁は崩れてしまった。

 北山滅亡後、中山から派遣された按司が統治する監守制度が敷かれた。一四二二年巴志の弟の尚忠が北山に派遣される。一四二九年に南山も巴志に滅ぼされ琉球は統一国家となる。一四三九年に尚忠が国王になると、北山監守は尚忠の弟の具志頭王子に引き継がれる。

 一四六九年に第一尚氏は滅び、第二尚氏王統になると、北山監守はしばらく大臣が交替で監守を勤めていたようである。一五〇〇年頃になると尚真王の三番目の尚韶威を北山に派遣し、七代まで北山監守を務める。

 北山が滅ぼされた後、監守を派遣した理由、それが第二尚氏になっても監守を派遣しなければならなかった理由が、南山あるいは中山とは異なる文化を持っていた地域という観念が読み取れる。それがどういうものなのか。 

三、近世・現在の行政区分へ

 歴史の大きな流れで、山原の五つのグスクの領域は、一五〇〇年代になると国頭、羽地、名護、今帰仁、金武の五つの間切となる。それは首里王府を中心とした行政区分である。一五〇〇年代の古琉球の「辞令書」に具体的に反映している。「みやきせんまきり」(今帰仁間切)や「くにかみまきり」(国頭間切)、「きんまきり」(金武間切)がそれである。その時期にはグスクに居住していた按司達は、もう首里に集められていた時期である。

 近世になると今帰仁間切を分割して伊野波(後に本部)間切(一六六六年)、国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(大宜味)間切(一六七三年)、名護間切と金武間切を分割して久志間切(一六七三年)、恩納間切と読谷山間切を分割して恩納間切(一六七三年)が創設される。近世に分割された間切区分は近年まで継承せれてきた。

 このように見てくると、現在の行政区分は山原の小規模のグスクが五つのグスク(根謝銘・親川・今帰仁・名護・金武)と、その領域にまとまっていく過程と間切区分が重なってくる。今帰仁グスクに統括されると、山北王が山原全域、さらには奄美地域(少なくとも沖永良部島・与論島)を支配、その時期に築かれたものが文化(その圏域を北山文化圏という)として継承されているに違いない。

 

四、北山の支配形態

 今帰仁グスクの支配形態を、特に『明実録』や『中山世譜』や『球陽』を通してみていくことにする。まず『明実録』に山北王が登場するのは一三八三年十二月の記事が最初である。交易の回数などについては次回に述べるが、ここでは交易品や貢物から山北(北山)の支配形態について触れてことにする。 

イ、印・衣冠で地位強化

 琉球国側からの貢物として馬と硫黄、そして方物がある。一方隆吾九から賜った品々は衣類・文綺・紗錠などである。

 まず、最初に注目したいのは駱駝鍍金銀印である。駱駝の形をした鍍金(メッキ)を施された銀印である。それには「山北王之印」と彫られていたとみられる。中国皇帝から印を賜ったということは、山北はクニとしての体裁を整え、自らの地位を確固たるものにしていこうとする意図によるものであり、小規模にしてもクニとしての成り立っていたことを示すものであろう。山北王を頂点としてクニの存在を示すものである。山北王が「山北王之印」と彫られた印の押された文書を作成し、達(たっし)を伝達する体制が整えられていたか、あるいは整えつつあったことがしれる。文書をもっての仕組みがあったことを意味する。

 駱駝鍍金の銀印は山北王だけでなく中山王、山南王も賜っている。そのことは沖縄本島で三山が鼎立しながら三王がクニとしての体裁をなしていた。今帰仁城跡の発掘で山北王の駱駝鍍金銀印の出土が期待されるのは、『明実録』の記事の信ぴょう性だけでなく、山北王を頂点としたクニがあり、中国から賜った銀印で山北(山原)地域を統治して形態の裏付けともなるからである。

 次に衣冠や衣服類であるが、『球陽』武寧八(一四〇三)年の条に「山北王、衣冠を賜らんことを乞う。山北王攀安知、善佳姑那を派遣し、表文を奉して方物を貢ぎ、冠帯・衣服を賜り、以って国俗を変えることを乞う」とあり、中国国王に文書を出して国俗を変えることを願い出て許されている。国俗を変えるとはクニの制度を変えることであり、また衣冠を請い願うことは、身分を明確にし、位階制度を整えることである。中国の皇帝から賜った衣類をまとい儀式に参加することで、王としての身分が確立され顕示したとみられる。

 このような状況から、山北王を頂点としたクニの制度が比較的整っていたとみてよさそうである。ただし、山北王が山原の他のグスクの按司、世の主などをどう支配していたのかについては、さらに研究を深めていく必要がある。 

ロ、硫黄はどこから?

 『明実録』や『中山世譜』や『球陽』による琉球側からの貢物に硫黄と馬と方物である。その中の硫黄であるが、山原に硫黄を産出する場所はない。当時から硫黄の採掘地は硫黄鳥島である。旧那覇港付近に硫黄城(イオウグスク)があり、名の示す通り硫黄の集積場所である。

 薩摩が琉球に侵攻した一六〇九年以降、硫黄鳥島は薩摩に入れず(与論以北を薩摩へ)いびつな形で琉球と薩摩の境界線が引かれた。それは硫黄が琉球国から中国への重要な貢物の一つあり、その産地の硫黄鳥島は重要な島であった。そのため、いびつな線引きは琉球と中国との貿易が多大な利益を得ていた薩摩の計らいによるものである。現在でも硫黄鳥島は久米島町(合併以前は久米島具志川村)である。

 硫黄は山北王からの貢物の重要な一品である。硫黄を産出しない山北は、硫黄鳥島からどのような経路で硫黄を手にし、中国への貢物にしていたのだろうか。山原の、特に運天港や今帰仁グスクの麓の親泊に硫黄と関わる遺跡や地名など、その確認ができない。もし、山原に硫黄と関わる遺跡の確認ができれば、山北は独立した形で明国と交易していたことになる。その遺跡が確認できない段階で、硫黄の北山への移送をどうとらえればいいのか。

 『明実録』から、山北の明国への朝貢は、硫黄鳥島から那覇港の硫黄城へ、北山もそこで積み込み明国へ貢いだ可能性が高い。というのは、山北王の明国との交易が十八回あるが、その内独自に行ったのは五回である。他はどうも中山と一緒のようである。中国側の記録の仕方に起因する面もあるが、硫黄の蓄積場の硫黄グスクや久米系、それと留学生を送っているなら独立した形での交易の姿が見えるのだが。

ハ、物流は今帰仁経由?

 山原の五つのグスクからは中国製の陶磁器が出土する。今帰仁グスクの山北王は『明実録』に登場し、直接中国と貿易があったことが知れる。ところが他のグスクについての交易記録は皆無である。グスクはいずれも港を抱えているので、直接貿易していた可能性はある。しかし今帰仁グスクのような大量の出土ではない。すると、山原の各グスクへの陶磁器類の入り込みは、今帰仁グスク経由が主だと考えられる。

 まだ、仮設の域は出ないが、山北王の山原のグスク支配と交易品の中国製の品々の物流が今帰仁グスク経由であるなら、中国への馬や硫黄、そして方物と記される品々を拠出する山原の各グスク(按司)と今帰仁グスク(山北王)の支配関係や統治の様子が見えてくる。 

五、『明実録』に見る山北王

山北王怕尼芝が進貢を開始した洪武十六年(一三八三)から攀安知王の最後の進貢永楽十三年(一四一五)までの三二年間までの三山の交易の回数を『明実録』によると、中山が五二回、山南が二六回、そして山北は十七回である(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』)。山北十七回のうち怕尼芝王が五回、珉王が一回、攀安知王が十一回である。北山だけで渡航した進貢は五回である。山北の多くは中山と同じ年に渡航している。進貢が同時期なのは明国の国情によるのであろうが、山北は十二月から四月にかけてである。当時の状況を『明史』に「北山は最も弱く、これ故朝貢もまた最も稀」だと記してある。北京に遷都したのは永楽十九年(一三九〇)なので、それまでの目的地は南京である。

冊封関係を持つ山北王は怕尼芝・珉・攀安知と続くが、怕尼芝についての出自と珉との関係は全くわからない。『中山世譜』と『球陽』(洪武二九年条)に「山北王珉薨じ、其の子攀安知嗣辰し、封を朝に受け、以て遣使入貢に便す」とあり、珉と攀安知とは親子関係にある。

もちろん山北王は、他の二山同様中国皇帝による王の地位を認めてもらう冊封と貢物を献上し忠誠を示し、それに対して冠帯や衣服、紗・文綺・襲衣などを賜ることを最大の目的としている。それと同時に、各地のグスクから出土している中国製の陶磁器類を輸入する貿易関係の確立でもあった。今帰仁グスクの麓にトーシンダー(唐船田)やトーシングムイ(唐船小堀)などの地名がり、明国と交易した名残なのだろうか。

冊封体制の確立は、明国との主従関係もあるが、山北内部での支配関係を明確にするものである。山北王の冊封は山北のクニ的儀礼であり、貢物の硫黄や馬や方物を準備するのに各地の按司(世の主)を統括する必要がある。山北王は冊封や朝貢の名で国頭・羽地・名護・金武などの按司を支配関係に置き、山原全域を統治していく役割を果たしたとみてよい。

具体的な貢物に馬と硫黄鳥島で採掘した硫黄がある。その他に方物がある。その中身について具体的に記されていないが夏布(芭蕉布?)もその一つである。貢物とは別に貿易品の調達もあり、その取引で移入されたのが各グスクから出土する陶磁器類であろう。

今帰仁グスクの基壇と翼廊のある正殿の建物で、山北王が明国から賜った冠服をまとい衣冠制度による身分を示す衣服をまとった各地のグスクの按司達が儀式に参列している風景は、まさにクニの体裁が整い、身分制度による支配形態が髣髴する。

怕尼芝から開始した冊封も、永楽十三年(一四一六)攀安知王で終わりを告げた。『明実録』で三名の王の出現があり、三名の中では冊封の回数が多いのが攀安知王である。しかし中山や南山と比較すると少ない。そのことが国頭・羽地・名護などの按司が中山に組みした理由の一つであろう。北山王を中心としてクニの形をなしているものの、内部では内紛の兆しがあった。 

六、根強く残る北山王の時代の伝承

さて、山原の五つのグスク関係について『明実録』で全く触れられていないし、それと琉球側の『中山世譜』や『球陽』などの文献でもそうである。そのため、グスクの立地や発掘あるいは表採されたグスク系土器や中国製の陶磁器などの遺物や堀切、現在見えるグスク内の祭祀と関わる御嶽やカー、神アサギなどを手がかりにみていく方法しかない。

伝承の域をでることはないが、例えば根謝銘グスクは北山系の人々が根謝銘グスクを頼りに逃げ延びていった。親川グスクは、羽地地域を統括した按司の居城であったが、築城途中でやめて今帰仁グスクへ移った。名護グスクは中北山の時代、今帰仁世の主の次男が派遣され築城。名護按司を名乗るようになり、代々名護按司の居城だと伝えられる。

北山滅亡後に山原各地のグスクが機能を失ったわけではない。今帰仁グスクは首里から派遣された今帰仁按司が代々監守をつとめ一六六五年まで続く。ところが尚真王が各地の按司を首里に集居させたため按司地頭や火神を残すのみとなった。その名残が『琉球国由来記』(一七一三年)のグスクでの祭祀に按司や惣地頭が首里から来て祭祀へ参加する姿である。

 山原の各グスク間の関わりは、文献史料をはじめ発掘された遺構や遺物などの成果を持っても、いい伝えら伝承の域をでていない。グスクとグスクとの関係についての研究を深めていく必要がある。

七、沖永良部島・与論島の歴史

八、国頭(大宜味)の歴史 

『明実録』の山北王の記事に目を通してみることに。歴代宝案編集参考資料5に『明実録』の琉球史料(一)として、原文篇、訳文篇、注釈篇が公にされている(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室)ので、大変有り難いことである。感謝するものである。この訳文と注釈を通して、山北三王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代を、一歩、二歩、踏み込んでいける。まずは、山北王の記事の全てを拾い上げる。

【参考資料編】

 『明実録』に山北王が記されるのは洪武十六年(一三八三)からである。洪武十六年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。

 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。

 山北王怕尼芝は洪武十六年(一三八五)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。
 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。

 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割は、になっていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数に於いても。

 『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度三六年(一三八五)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。

 攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。


【山北王怕尼芝】(七)

①洪武十六年(一三八三)正月丁未(三日)
 
 詔して琉球国中山王察度に鍍金銀印并びに織金文綺・帛・紗・羅凡そ七十二匹を賜う。山南王承察度 も亦た之の如し。亜蘭匏等は文綺・鈔・帛を賜うこと差有り。…時に琉球国、三王雄長を争いて相い攻撃す。使者帰りて其の故を言う。是に於て亜蘭匏等を遣(や)りて還国せしむるに、并びに遣使した中山王察度に勅した曰く「王、滄溟の中に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや。

 王能く天を体して民を育て、事大の礼を行う。朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わして朝貢す。朕、王の至誠を嘉し、尚佩監奉御路謙に命じて王の誠礼に報わしむ。何ぞ期せん、王復た遣使し来りて謝す。今内使監丞梁民をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)して王に渡金銀印一を賜わしむ。近ごろ使者帰りて言わく、琉球の三王互いに争いて農を廃し民を傷つく、と。

 朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。王其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん」。山南王承察度・山北王怕尼芝に論して曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。

 邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察度も亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近ごろ使者、海中より帰りて言わく、琉球の三王互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。
 朕之を聞き?憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体し、兵を息め民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん」。

②洪武十六年(一三八三)十二月甲申(十五日)
 琉球国山北王怕尼芝、其の臣模結習を遣わし方物を貢す。衣一襲を賜う。

③洪武十七年(一三八四)正月己亥(一日)
 琉球国中山王察度・山南王承察度・山北王怕尼芝・暹羅斛国王参烈宝毘牙偲哩□録及び雲南・四川・湖広の諸蛮夷の酋長、倶に遣使して表を進め方物を貢す。文綺・衣服を賜うこと差有り。

④洪武十八年(一三八五)正月丁卯(五日)
 琉球国の朝貢の使者に文綺・鈔錠を賜う。及び駱駝鍍金銀印二を以て山南王承察度・山北王怕尼芝に賜う。又中山王察度・山南王承察度に海舟各一を賜う。

⑤洪武二一年(一三八八)正月戊子(十三日) 
 琉球国山北王怕尼芝、其の臣を遣わして方物を貢す。

⑥洪武二十一年(一三八八)九月丁亥(十六日) 
 琉球国中山王察度・山北王尼怕芝、其の臣甚結致を遣わし、表を上りて天寿聖節を賀し馬を貢す。来使に鈔を賜うことを差有り。

⑦洪武二十三年(一三九〇)正月庚寅(二十六日) 
 琉球国中山王察度、亜蘭匏等を遣使し表を上りて正旦を賀し馬二十六匹・硫黄四千斤・胡椒五百斤・蘇木三百斤を進む。王子武寧、馬五匹、硫黄二千斤・胡椒二百斤・蘇木三百斤を貢す。
 山北王怕尼芝、李仲等を遣使して馬一十匹・硫黄二千斤を貢す。而して中山王遣わす所の通事屋之結なる者、附して胡椒三百斤・乳香十斤を致す。守門せる者験して之を得、以聞すらく、当に其の貨を没入すべし、と。詔して皆之に還す。仍お屋之結等六十人に錠各十錠を賜う。

【山北王珉】(一)
①洪武二十八年(一三九五)正月丙申(一日)
 是の日、朝鮮国李旦・琉球国山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・馬匹を進む。

【山北王攀安知】(十二)
①洪武二十九年(一三九五)正月己巳(十日)
 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に錠を賜う。

②洪武二十九年(一三九六)十一月戊寅(二十四日)
 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。
 是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

③洪武三十年(一三九七)二月丙戌(三日)
 琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。

④洪武三十年(一三九七)十二月癸巳(十五日)
 琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び硫黄を貢す。

⑤洪武三十一年(一三九八)正月(八日)
  琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

⑥永楽元年(一四〇三)三月丙戌(九日)
 琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯・衣服を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び倍臣に冠帯を賜う。

⑦永楽二年(一四〇四)三月己未(十八日)
 琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。

⑧永楽二年(一四〇四)四月壬午(十二日)
 詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
 上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。

⑨永楽三年(一四〇五)四月丙寅(一日)
 琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・綵幣表裏を以てす。

⑩永楽三年(一四〇五)十二月戊子(二十六日)
 琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。

⑪永楽十三年(一四一五)四月丙戌(十九日)
 琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。

⑫永楽十三年(一四一五)六月辛未(六日)
 琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。