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東海岸の港2005.04.24 メモ)

 沖縄本島北部の東海岸の港や山原船の様子を整理してみた。『東村史』(第1巻通史編 73頁)にその様子が解説されている。現在の東村は大正12年に久志村から分村する。それ以前は久志村(間切)の字(あるいは村:ムラ)であった。ここでは現在の東村内の出来事を紹介する。

  有銘から北の地域を上方と呼び、天仁屋から南を下方と呼んで、人情も気風も異にしていた。
  行政区域として久志村となっていても、経済的には必ずしも一体ではなかった。農産物や林産
  物の出荷は、陸路を利用することはほとんどなく、たとい陸路を利用するとしても、それは塩屋
  湾を経て西海岸を羽地・名護と行くのが普通であった。中南部向けの産物は、ほとんど山原船
  によって泡瀬・西原・与那原方面、さらに糸満・那覇へと運ばれていたから、上方と下方の住民
  が物資の流通で直接に関わりを持つことはなかった。日常の生活用品も、山原船によって中南
  部から運ばれてきた。
   また、与論・沖永良部・徳之島・奄美大島などの道之島へ北上する物資の流れも、山原船に
  よる輸送であったから、経済的な意味では山原船を主要な仲介とする交流であった。

【港(津)と関わる地名】
 ・アラカードゥマイ(冬場の漁船の避難場所)
 ・メードゥマイザキ
 ・メードゥマイバマ(津堅島・伊計島の漁師が浜で宿をとったという)
 ・ウフドゥマイバマ
 ・ウフドゥマイトゥガイ
 ・ンナトゥグチ

・清国へ渡航jする船の帆柱などの資材を拠出していた。
・旧藩時代久志間切の年貢(租税)は、羽地間切の勘手納港へ納め、辺野古と久志の両村は
 名護(湖辺底)へ運んでいた。

【東村平良】
 道路網は未整備であり、中南部との物資の交流はもっぱら山原船にたよった。主な産物である
 林産物の出荷・販売と生産資材の購入・日常生活用品の調達は、山原船にたよる以外なかった。
 ・・・山原船の運航と商品の取り扱いが、ほとんど外来の商人に握られていた。・・・一般的に経
 済的に遅れた地域においては、外来の商人や士族たちは特権的な意識が強く、彼らは商品知
 識の乏しい農民に対して、はなはだ不等価格交換で暴利を得ていたであろう。外来の商人資本
 家はムラで町屋(商店)を経営し、農村の林産物の売却代金をそっくり町屋が吸収する仕組みと
 なっていた。・・・ムラの大半の人たちが町屋に従属して、入港する山原船に林産物を自由に売り
 さばくことができない状態にあった。

 外来の商人に対抗して生活防衛する方策として、部落単位の共同売店が登場する。

【東村慶佐次】
 
山稼ぎは戦前から盛んに行なわれており、戦後になっても昭和30年代のはじめまで続けられて
 いた。山稼ぎは主に燃料用の薪を伐採するもので、自給中心の農産物と違い中南部に搬出する。
 ・・・・林業は貴重な現金収入源であった。慶佐次に字で所有する山林(ムラヤマ)があり、日を決め
 て字の共同作業が行なわれた。納税には現金が必要であり、また字費もこの作業から捻出してい
 た。共同作業は仕事量に応じて等級がつけられ、字から給料が支払われていた。共同作業日は薪
 を中南部に運ぶヤンバル船の到着を見計らって設定されサジイが字民に山稼ぎを告げていた。給料
 は村民税と字費を差し引き当人に渡された。ヤンバル船で運んできた様々な日常雑貨品と交換した。


   (続)

【参考文献】
 『東村史』(第1巻通史編:昭和62年発刊)
 『東村史』(第3巻資料編2:昭和59年発刊)