国頭村浜(Naka)
                    
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 ・国頭間切番所跡


【国頭村浜】(2007年1月4日メモ)(Naka)

 国頭村浜は国頭村の一番南側に位置し、大宜味村と接している。その浜に国頭間切番所があった時期がある。『琉球国旧記』(1731年)での国頭間切の駅(番所)は奥間邑(村)である。「国頭間切の番所は、1673年に浜村に移ったが、そこが間切の僻辺に存在し、行政命令の伝達や人民の往還に不均等であるとして、1732年に奥間村に移転した。浜村の番所跡は字浜の両側に最近までみることができた」(『国頭村史』)という。

 1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(後に大宜味)間切を創設した。大宜味間切が創設される前の国頭間切の番所はどこにあったのか。根謝銘グスク(上グスク)の根謝銘村、あるいは城村にあったのでは。他間切では同名村があるが、国頭間切に国頭村があったかどうか、確認することができない。ただ『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)に「国頭城」とあるので、城村が同村なのかもしれない。(城村は明治36年に根謝銘村と一代名村と城村が合併して謝名城となる) とすると、1673年以前の国頭間切の番所は城村にあった可能性がある。1673年に国頭・羽地間切を分割し田港(後に大宜味)間切が創設されたときに、国頭間切の番所は城村から浜村に、田港間切は田港村に新しく番所を設置したことになるか。
 
 国頭間切の番所は城村(1673年以前?)→浜村(1673年)→奥間村(1732年頃)→辺土名(大正3年)へと移動している。『琉球国由来記』(1713年)による国頭間切の年中祭祀で両惣地頭が関係する村は奥間村である。また、国頭間切と大宜味間切の境にあった親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切である。それらの三つの村は後に大宜味間切の管轄となり、明治36年には合併して田嘉里となる。間切分割の境界線が祭祀との関係で揺れ動いている。そのことが国頭間切の番所と祭祀にも影響を及ぼしている。(根謝銘グスクを国頭間切域に入れることができたら片付いたのでは?)


 
   ▲右手の森が根謝銘グスク跡        ▲浜の様子(番所跡は右手に入った所)

国頭村浜のガンヤー(2005年1月9日)(Naka)

 屋嘉比川の下流域左岸にムランジュ(村墓所)がある(大宜味村田嘉里)。近くに現在サバニやボートが数隻置かれた場所がある。そこから根謝銘グスクが見える場所である。舟置き場から100m足らずの場所に龕屋(ガンヤー)がある。龕は亡くなると遺体を柩にいれ、その柩を納めて家から墓まで運ぶ道具である。火葬になってからは、龕は使われなくなった。

 その龕が辛うじて原型をのこしたままある。貴重な現物資料である。この龕屋に関わる史料が「与論・国頭調査報告書」(1980年:沖縄国際大学南島文化研究所,135頁)で宮城栄昌教授(故)が報告してある(下に全文紹介)。

 国頭村浜と大宜味村田嘉里の両字で使っていた龕を分離した時の史料である。下の龕屋は大宜味村田嘉里にあり、「昭和十八年八月落成」とあり、新築した龕屋と龕と見られる。近くに村墓(浜・屋嘉比・親田・美里)があり、屋嘉比ノロはムラ墓(門中墓?)に葬られていると聞く。

 
  ▲大宜味村田嘉里にある龕屋と龕         ▲同龕屋内にある龕


   ▲龕屋の内部にある龕と道具        ▲「昭和十八年八月落成」とある


【龕史料】(国頭村字浜共同店沿革史より)
  昭和18年1月17日、龕修理ノ件ヲ協議シタルニ新建設ニシテ分離スルコトニ決シ、直ニ
  田嘉里部落ニ折渉シタルニ、現在ノ龕ニ大修理ヲカケ、尚ホ別ニ龕1個ヲ新造シ、両字ニ
  於テ確実値段ヲ定メ抽籤ニヨリ龕ヲ受取リテ分離スルコトトナレリ。

  同4月15日、金壱千百円也ニテ新旧龕ノ新修築ヲ名護町親泊完修氏ヘ請負契ヲナセリ。
  同7月30日、新旧・分離申合ノ為メ、字田嘉里字浜ノ2ケ字幹部会ヲ開催シ、左ノ通リ議決確
          定セリ。
   1.龕工親泊氏ヘ金五拾円也賞与ノコト
   2.新旧龕ノ評価決定
     金七百円也 但シ新龕価格
     金四百円也 但シ旧龕価格
    右ノ価格ニテ両字抽籤ノ結果、新龕ハ字田嘉里、旧龕ハ字浜ニ当リ、各分離スルコトト
     ナレリ。
  同8月1日
   1.新旧龕ノ新修築終了御願並ニ旧龕ノ33年期一切ノ御願ヲ終了シ、後龕ノ分離御願ヲ
     行ヘリ
     分離行列、御願終了後直ニ上原区長、仲原会計ヲ前棒、金城兼徳氏ヲ後棒、旗持ハ
     大嶺、宮城両村会議字有志等ニテ田嘉里旧龕屋ヨリ途中行列賑々シク浜ノ新龕屋ニ
     安置セリ。
   2.龕評価及龕屋新築費御願費其他一切経費報告(一切経費金七百拾六円壱銭也、共同店
     支出) 

    左ニ将来ノ参考ニ御願奉供物次第ヲ記ス。
       着手御願        中御願       落成御願

     扇  2本          同 上      豚頭皮共1頭分
      筆墨各2本           〃       足骨4ツ
      白紙20枚            〃       内臓各部ヨリ
      酒  3合            〃       エビ14
      線香j燐寸           〃       カミ14
      米ウンパナ9合        〃       白米1升
      豆腐5合            〃       扇子1本
      昆布種油            〃       筆墨2宛
      白モチ1組            〃       白紙20枚
      洗モチ1組            〃       肴ハチ2ツ
      醤油肉1斤           〃       丸魚2ツ(両方)
      ウチャヌク14(一方7ツ宛    〃       スクカラス14
      卵2個              〃       鶏2羽、卵2個其ママ酒2升
  龕ノ修理御願33年期御願一切終了済、龕屋ノ年期御願ハ未了ナリ。



20161228日(水)(Naka)

国頭村浜村の位置確認
資料1:大宜味間切田嘉里村全図
資料2:大宜味村字田嘉里全図
資料3:宮城樹田氏写真提供
  『国頭村史』

 【琉球国由来記】(1713年)

浜村(国頭間切) 

 1673年に国頭間切から田港(大宜味)間切を分割した時に、国頭間切浜村に国頭番所が置かれた。
上杉県令巡回日誌に「屋嘉比川の板橋を過ぎ、屋嘉比港に出ズ、穂林立」とある。

 浜ははじめ屋嘉比村にちかい森の下に発祥し、のち加名良原に移った。加名良原には立初めの泉と称する穴川(井)があって拝所となっている。そこから現在位置に移動した。加名良原に1872年(明治5年)まで数件居住していたが、山津波で埋没して犠牲者をだしついに無人家の地になった。(旧琉球藩評定所書類第800号)

以下の画像は国頭村の宮城樹正氏提供

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20161227日(火)

 年末、大掃除でも。積み残しの整理でもするか。


20161223日(金)

 大宜味村田嘉里(明治36年親田・屋嘉比・美里に合併)にスクミチ(宿道)と呼ばれる道がある。隣は国頭村浜である。浜にあった国頭番所は1732年頃頃奥間村へ移転。スクミチは番所と番所をつなぐ道筋である。その大宜味間切の番所(田港→大宜味→塩屋)から国頭間切への道筋は田嘉里へは屋嘉比川を横切る必要があり、横切るルートは田嘉里のスクミチを通り中流、あるいは上流部からである。そこから川をくだり浜の番所への道筋だったとみることができる(明治36年の大宜味間切田嘉里村全図参照)。

 国頭間切浜番所跡は現在集落の狭い場所にある。浜番所は1731年頃奥間村へ移動する。番所が移動後に屋嘉比(田嘉里)川沿いにあった浜集落は山崩れでほとんど崩壊してしまい、浜番所があった周辺に集落を形成したとみられる。浜村の故地にはカーやウタキなどがある。故地は国頭村の宮城樹正氏(国頭村文化財審議委員長)の案内いただいた(穴川:カーやウタキ(祠)提供があった。手元にないので後に掲載します)。

 カナラガー(湧泉)は浜のニージマ(新島)集落の故地にあり、そこは大宜味村田嘉里の嘉名良に位置する。故地のカーは正月九日に神人によって拝まれていたという。

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▲田嘉里のスクミチ             ▲右手の斜面が浜村の跡地

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    ▲浜集落内に番所の火神の祠 

 浜のニージマは嘉名良(田嘉里地番か)からの移動。明治5年死者5名を出す土砂崩れがあり、集落の大半がのまれたようだ(「球陽」)。移動地が番所のあった付近に移動。番所火神が集落の狭い通りにあるのは、番所が奥間村に移動したのは1731年ころ。明治5年におきた土砂崩れで番所跡地付近に移動したとみられる。(手元に資料がないので後に参考文献で正確を記す)