2016年12月28日(水)
国頭村浜村の位置確認
資料1:大宜味間切田嘉里村全図
資料2:大宜味村字田嘉里全図
資料3:宮城樹田氏写真提供
『国頭村史』
【琉球国由来記】(1713年)
浜村(国頭間切)
1673年に国頭間切から田港(大宜味)間切を分割した時に、国頭間切浜村に国頭番所が置かれた。
上杉県令巡回日誌に「屋嘉比川の板橋を過ぎ、屋嘉比港に出ズ、穂林立」とある。
浜ははじめ屋嘉比村にちかい森の下に発祥し、のち加名良原に移った。加名良原には立初めの泉と称する穴川(井)があって拝所となっている。そこから現在位置に移動した。加名良原に1872年(明治5年)まで数件居住していたが、山津波で埋没して犠牲者をだしついに無人家の地になった。(旧琉球藩評定所書類第800号)
以下の画像は国頭村の宮城樹正氏提供
2016年12月27日(火)
年末、大掃除でも。積み残しの整理でもするか。
2016年12月23日(金)
大宜味村田嘉里(明治36年親田・屋嘉比・美里に合併)にスクミチ(宿道)と呼ばれる道がある。隣は国頭村浜である。浜にあった国頭番所は1732年頃頃奥間村へ移転。スクミチは番所と番所をつなぐ道筋である。その大宜味間切の番所(田港→大宜味→塩屋)から国頭間切への道筋は田嘉里へは屋嘉比川を横切る必要があり、横切るルートは田嘉里のスクミチを通り中流、あるいは上流部からである。そこから川をくだり浜の番所への道筋だったとみることができる(明治36年の大宜味間切田嘉里村全図参照)。
国頭間切浜番所跡は現在集落の狭い場所にある。浜番所は1731年頃奥間村へ移動する。番所が移動後に屋嘉比(田嘉里)川沿いにあった浜集落は山崩れでほとんど崩壊してしまい、浜番所があった周辺に集落を形成したとみられる。浜村の故地にはカーやウタキなどがある。故地は国頭村の宮城樹正氏(国頭村文化財審議委員長)の案内いただいた(穴川:カーやウタキ(祠)提供があった。手元にないので後に掲載します)。
カナラガー(湧泉)は浜のニージマ(新島)集落の故地にあり、そこは大宜味村田嘉里の嘉名良に位置する。故地のカーは正月九日に神人によって拝まれていたという。
▲田嘉里のスクミチ ▲右手の斜面が浜村の跡地
▲浜集落内に番所の火神の祠
浜のニージマは嘉名良(田嘉里地番か)からの移動。明治5年死者5名を出す土砂崩れがあり、集落の大半がのまれたようだ(「球陽」)。移動地が番所のあった付近に移動。番所火神が集落の狭い通りにあるのは、番所が奥間村に移動したのは1731年ころ。明治5年におきた土砂崩れで番所跡地付近に移動したとみられる。(手元に資料がないので後に参考文献で正確を記す)