本部町具志堅
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(仲原)
2014年度2回目(6月21日)の「山原のムラ・シマ講座」は本部町具志堅です。これまで具志堅について触れたのを集合させます。
本部町具志堅調査
(2003年)
本部町具志堅
(2009年9月11日(金):メモ)
具志堅の祭祀の流れは、今帰仁グスクができる前の祭祀の形を保っている可能性がある。ウタキと集落、集落移動と祭祀場、それと周辺の村々(集落)とグスク(ウタキ・イベ)との関係。具志堅の祭祀と集落の関係は古琉球のムラの形態を彷彿させるもので、それを引き継いでいると見られる。ここで「古琉球のムラ」の形が残っているとするのは「嘉靖四十二年七月十七日」(1563年)の上間家にあった古琉球の辞令書の原名を手掛かりに、古琉球ののムラの概念は近世のムラとは異なるものだととらえるべきだと考えるべきだと。
それと山原における祭祀はウタキから集落、そして海への流れでなされている。シマの悪疫を海の方へ流す、追い払う、それを神の手を借りて流す。「海神祭」と観念とニライカナイなどの神観念があるが、海神の祭ではなく、神の手を借りて悪疫を海の彼方へ流す意味合いが強い。
明治17年頃の具志堅村の拝所を掲げる。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃?)の頃の嘉津宇村は具志堅村に統合される前である(統合は明治36年)。明治6年資料に真部村が登場し、上間村は見られない。それからすると、上間村の具志堅村への統合は明治6年以前で、真部村の統合は、その後とみられる。しかし、神アサギは上間・真部、それと上アサギ(具志堅)はまだ独立した形で残っている。三つの村は具志堅ノロの管割なので祭祀は合同で行われていたと見られる。
・具志堅村(六ヶ所)
○ノロ殿内火神ノ所一ヶ所 ○具志堅村御嶽一ヶ所 ○上アサギ一ヶ所 ○城之鼻一ヶ所
△真部アサギ一ヶ所 □上間アサギ一ヶ所
・嘉津宇村(三ヶ所) ・神アサギ一ヶ所(嘉津宇) ・嘉津宇御嶽一ヶ所 ・ノロ殿内火神ノ所一ヶ所
(これはユレヤーを指しているか?
(※嘉津宇村は明治36年に具志堅村に統合されるが戦後に字嘉津宇となり現在に至っている。
ノロ管轄は天底ノロで1719年か21年に伊豆味の古嘉津宇から桃原へ。さらに現在地へ移
動。ここでは嘉津宇について触れない)。
【具志堅のトントトトン】
(旧暦7月23日)
具志堅のトントトトンは鼓を打つトントトトンからきた名称のようである。鼓のトントトトンに呼応するようにフイという。鼓はお宮(拝殿)からクラモーへの道筋、クラモーからフプガーの途中の交差点(アジマー)、フプガーに近づくと鼓が打たれた。かつては新築の家を回ったという。これは古宇利島のサーザーウェーの新築家の回りの所作と同様かと思われる。今泊でもトントトトンが行われていたことがある。悪疫を追い払う色彩が強い。トントトトンの最後の場面は、ウプガーで悪疫を流す所作がある。かつては海岸の「流れ庭」(ナガレミャー)で行っていたという。今はフプガーの流れで流す観念がある。祈りで「悪いものはみんな流れていけ。いいのは残して・・・」と唱えられる。トントトトンは男性のみのウガンであるとの認識がある。
午後一番、フプガーでのウガンが終わると水を抜き清掃にかかる。同時に柴山に三本の木と蔓を切取に。水を抜き、掃除が終わりに近づいた頃、湧口の9本の柴木のうち三本は新しいのと交換する。それは具志堅村と上間村と真部村とが統合した証との観念があると見られる。今では具志堅は大島・新島・サガヤの三つの集落に分れているので、その観念に変わりつつある。フプガーの清掃が終わり、一段落した頃、お宮へ。
@お宮(拝殿) Aお宮からクラモーまでの道筋(鼓を打つ。かつては子供達が参加) Bクラモーでのウガン Cクラモーから途中のアジマーへ(鼓を打つ)(かつては新築の家を回っていた) Dアジマーからフプガーへ(鼓を打つ) Eフプガーで悪疫を流す(流し庭)
▲フプガーの水を抜き清掃をする ▲湧口の9本の柴木の内3本を新しいのに!
▲拝殿の中でのウガン(根神と区長が中心となる) ▲鼓を打ちながらクラモーへ
▲クラモーでのウガン(東か今帰仁グスクへ) ▲鼓を打ちながらアジマーへ
▲アジマーで鼓を打つ ▲フプガーで悪疫を流すウガン(流れ庭)
【本部町具志堅のお宮】
(グスクにお宮(神社)を建設した例)(平成24年6月26日)
本部町具志堅は具志堅・上間・部真の三つの村(ムラ)が統合されている。その時期についてははっきりしないが明治直前頃のようである。村の統合はあったが、祭祀と関わる神ハサーギは昭和16年まで三か所に具志堅神ハサーギ、上間神ハサーギ、部真神ハサーギが別々にあった。昭和16年頃の神社化した時に三つの神ハサーギを一つにし、三カ所の火神をお宮(神社)の御神体と位置付けている。
お宮(神社)は御嶽(ウタキ)に創設してある。拝殿と神殿を設置、神殿はウタキのイベにあたる。具志堅の祭祀のほとんどが、ウタキのイベへの祈りからスタートし麓へと降りていく流れである。昭和16年頃御嶽のイベに神殿を建設してあるが、火災にあい建物の跡は遺しているものの再建されていない。具志堅は神社(お宮)を御嶽(ウタキ)に建設し、神ハサーギを一つにし、三つのムラの火神を合祀する形をとっている。しかし、これまでの祭祀も根強く踏襲し、御神体もイベとしている。(参考文献:具志堅誌)
▲本部町具志堅のお宮 ▲お宮(拝殿内の香炉:右の香炉は真部ウガンへの遥拝)
▲お宮の拝殿 ▲焼けた神殿(イベ)の跡 ▲焼ける前の神殿