宜野座村                               トップヘ

 ・宜野座・漢那


【宜野座・漢那】
(平成25年6月15日)   

 宜野座村の宜野座と漢那。宜野座村は戦後金武村(昭和55年に町)から松田・宜野座・漢那・祖慶で宜野座村(昭和21年)となる。

[宜野座]
   ・漢那の旧集落跡付近
    @神アサギ Aノロドゥンチ B獅子小屋 C神屋 D根神屋 E大川按司墓

[漢 那]
     @お宮(よりあげ森:ユアギモー) A漢那の神アサギ B漢那ノロドゥンチ 
     Cヌルガー Dもう一つのよりあげ森 E漢那ウフェーヌアタイ(タキ山)
     F風葬地(木造の墓)


[宜野座]

 宜野座(ムラ)は『絵図郷村帳』(17世紀前期)で金武間切「ぎのざ村(ムラ)」、『琉球国高究帳』(17世紀中頃)でも「金武間切「ぎのざ村」とある。『琉球国由来記』(1713年)から久志間切間切宜野座村と漢字表記されるようになる。ところが、現在に至っている。

 宜野座村には宜野座ノロが置かれ、宜野座村・古知屋村(戦後松田)の祭祀を掌っている。1673年に方切(間切境界の変更)があり、古知屋村は久志間切の村となるが、1719年に元の金武間切にもどる。ノロ管轄の変更はされなかった(行政区画(間切)があっても祭祀の管轄は継承)という法則が見えてくる。金武間切への復帰は、おそらくノロ管轄が大きく影響しているにちがいない。

 隣接の古知屋(松田)との境界を宜野座福地川がながれ、その右岸に大川グスクがある。グスクであるがウタキになっていて、その杜にノロドゥンチ、根神屋、獅子小屋、ウタキのイベ、神アサギ、大川按司の墓、旧家などがある。ウタキ(杜全体)に旧家や拝所などがあり、そこはグスクにもなっている。

  
▲ノロドゥンチの神体はイベ(コバヅカサワライヂャウノオイベ)     ▲宜野座の神アサギ


[漢那]

 『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』(17世紀)で金武間切「かんな村」とある。『琉球国由来記』(1713年)に漢那村内に二つの同名の「ヨリアゲ森」があげられている。その一つは現在の公民館の側にあるお宮である。現公民館の側のヨリアゲ森のウタキには「二御前」として二つのイベが置かれている。このウタキを中心とした大きな二つの集団があったことが伺える。

 もう一つのヨリアゲ森(ウタキ)は漢那集落の後方にあり、ダキヤマ(嶽山)と呼ばれるウタキである。集落の中心部に漢那ノロドゥンチがあり、祭祀や豊年祭の奉納踊や旗頭(道ジュネーのスタートか)のスタートとなる。漢那ノロは漢那村と惣慶村の祭祀を掌る。安富祖家が世襲しているようである。近くに祝女川(ヌルガー)、産川(ウブガー)がある。ヌルガーの側にタマチブ(玉壷)と呼ばれる小さな窪み石があり、説明版にあるがノロが髪を洗うための泥をこねた窪み石だという。

 ダキヤマ(嶽山)はウェーヌアタイとも呼ばれ、上方のアタイで漢那集落が現在地の低地に移動する前の場所だったにちがいない。ダキヤマ一帯は琉球石灰岩の丘陵地に発達した特有の原生林のようである。

  
  ▲公民館民舘側のお宮(ウタキ)       ▲漢那の神アサギ          ▲漢那のノロドンチ

  
 ▲ウェーヌアタイから眺めた集落     ▲ウェーヌアタイの一部       ▲ダキヤマ内にある風葬墓