今帰仁村湧川)
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〔今帰仁村湧川をゆく〕(2003.5.22) トップヘ
湧川(ワクガワ)は今帰仁間切の他の村名とは趣のことなった響きがする。それは単なる湧川という音の響きではないような気がする。それは私の単なる錯覚なのかもしれないと思ったりもする。そのことを村の歴史の薄さであったり、人の生活の痕跡を残した遺跡の少なさ、あるいは寄留人の比率の高さであったりするのかもしれない。もう一つは、村名の語義を紐解いていくとき、地形であったり位置であったりする。ところが湧川はそうではないのである。1738年まで今帰仁間切に湧川の村が存在していなかったのである。
1750年代以前は今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子であった。1713年の『琉球国由来記』に今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子である。これまで確認できた資料からすると1750年頃以降の今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上となってくる。まだ仮説としているのだが、1738年に湧川村の創設のとき地頭代に使っていた湧川を新設村名にして、以後地頭代を古宇利親雲上としたのではないか。そのために地理的な語義に由来した地名ではないことが、他の村名と趣を異にしているのかもしれない。
今帰仁村の湧川は1738年に創設された村(ムラ)である。新しく創設された村のため、他の村とは異なった歴史を歩んでいる。現在の湧川の地一帯に我部・松田・桃原・振慶名があり、1736年に羽地間切域に移動させられた。羽地間切(現在名護市)の呉我は今帰仁村の呉我山にあった村である。
湧川に1738年に創設された村であるが御嶽や神アサギがある。御嶽のイベに登る手前にイビヌメーがあり、祠が建てられている。タキヌウガンがなされたとみえ、イビの方は掃除がされていた。石と香炉が置かれている。
御嶽の麓には湧川ヌルドゥンチの祠がある(写真B)。現在は人は住んでいないが、三組の火神が祭られている。タキヌウガンやワラビミチなどの時、ヌルドゥンチに神人達が集まりウガンをする。
ムラガーはムラ(集落)の共同井戸である。「湧川 村内之共同井戸 簡易給水装置
第一貯水槽」とある。昭和12年頃の整備かと思われるが未確認(写真C)。
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@イビヌメーから頂上部のイベへ A頂上部のイベの様子
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B湧川ヌルドゥンチの祠 C湧川のムラガー
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D湧川のスーガー(塩川) E石切り場の跡
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Fメーダウタキ Gガブガー(掘り込んだ井戸)
〔今帰仁村湧川をゆく〕(2003.5.21)
湧川ゆきは6月中旬に「平和学習」を小学生と湧川小学校の先生方をふくめてやることになっている。そのため、湧川にある戦争あるいは平和とかかわる場所や遺跡を確認したくて。小学生たちに「戦争と平和」を自分のものとして考える時間をつくりたい。湧川という地で、一人ひとりが戦争と向かいあってもらうために、いくつかのキーワードを探しに・・・・。
・湧川での戦争への流れ
・湧川からも伊江島・読谷飛行場建設
・運天港(特攻隊)の陣地構築
・防空壕堀り(ウタキの斜面や家の近くの森など)
・防空演習(竹やりや消火訓練など)
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・収容所へ(収容所での生活)
・収容所から帰村
・慰霊塔の建立(昭和31年)
・南海の塔の建立
などを通して、戦争と平和を自分のテーマとして一人ひとりが考える機会にできればと企画している。
今日は慰霊塔に刻銘されている233名の湧川の方々の名前、その後ウタキの斜面にある防空壕(数基)を確認してきた。気の重い重いテーマであるが、口癖のよう言っているテレビ画面の向こうの出来事ではなく、「自分が今そこに、何故人間として存在できているのか!」を戦争を通して考る機会にしたい。
昨年は仲宗根政善先生のひめゆりや先生の著書を通して「戦争と平和」を考えたが、日々の生活の中で自分の問題として捉えることができるようになっただろうか。その時だけでなく。北山高校の生徒達よ。
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▲湧川の慰霊塔(昭和31年建立) ▲233名の戦没者の名前が刻銘
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▲ウタキの斜面の防空壕の口 ▲防空壕の内部、隣の壕との連絡口
今帰仁村湧川の塩田跡(2013.04.08UP)
今帰仁村湧川の手々原(22筆)と屋我名原(5筆)に計27筆の塩田跡がある。現在はそのほとんどが原野である。手々原の塩田跡は他県の所有地である。屋我名原(島)は村内の方の所有である。
塩田の石垣の跡が今でものこっている。
▲手々原の塩田跡からみた屋我名島 ▲手々原の塩田跡の石垣
▲屋我名島の塩田跡のクミ ▲屋我名島の塩田跡の石垣
▲手々原の塩田跡地にのこるタンク ▲屋我名島の水門