133回シマ研究会               もくじ

山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀を通してー 

                                                               日時:20041129                                                                   午後4時20分~6時                                                               場所:南島文化研究所
                              (肩書は当時)

                                                                  

○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 133回のシマ研究会を始めたいと思います。本日の講師は仲原弘哲先生です。テーマは「山原のムラ・シマ-神アサギ・祭祀を通して-」というテーマで御報告いただきます。仲原先生は、今帰仁村歴史文化センターの館長をしておりまして、準備室の時代から含めますと、もう十何年間ですね、18年ですね。博物館の仕事をしております。その間、今帰仁村を中心に山原の集落、ムラ・シマの調査をずっと継続してされています。今回はこれまでの調査を踏まえたお話をしていただくことになります。50分ほど仲原先生に御報告いただきまして、その報告を受けまして、稲福みき子先生から10分程度のコメントをしていただきます。その後、30分ほどディスカッションといいますか、自由に質問をしていただいて、議論していただくということになります。よろしくお願いします。仲原先生、お願いいたします。

 じめに
1.具体的な事例
2.神アサギとは?
3.複数の神アサギを持つムラ
4.御嶽(ウタキ)の中の集落(国頭村比地
5.移動集落と神アサギ
6.移動村の事例
7.明治43年以降の神殿と拝殿(神アサギ)
8.新設村と神アサギと御嶽と祭祀
9.グスク内にある神アサギ
10.御嶽や拝所の香炉
11.集落の展開
12.古宇利島の祭祀と神アサギと御嶽
おわりに

はじめに

 皆さん、こんにちは。紹介にあずかりました仲原と申します。今日は皆さんにパワーポイントという最新の機器を使っての報告になります。器械音痴なので、うまくいくかどうか、私は今日初めて使います。レジュメも準備しましたが、画像に合わせながら話していこうと思います。

 今日のタイトルのように「山原(ヤンバル)のムラ・シマ」という言葉をよく使います。このムラ・シマという言葉には様々な意味を含めています。今帰仁村での調査に取りかかった当初(平成元年)、ムラの方々がよくムラ・シマという言葉を使っていました。「どこのムラか」「どこのシマか」「シマンチュなのか」などとよく聞かされた言葉でした。当時、何だろうと思いながら聞いていました。すると非常に面白いことに気づきました。

具体的にいろんなキーワードでムラ・シマについて調査をするわけですが、最終的にはこの「ムラ・シマが何なのか」ということを、いろんな学問を通して見究めていけばいいのだということになりました。平成元年に今帰仁村に行った一年目でした。「今帰仁のムラ・シマ」(『なきじん研究1』にまとめたことが思い出されます。そういうこともあって、今日はムラ・シマを描くためのキーワードとして、先週は琉大で御獄(ウタキ)を手がかりにしてムラ・シマを見ました。ここでは、神アサギと祭祀を手がかりに、ムラ・シマの何が見えてくるのか。これまで、特に祭祀関係で神がニライカナイからきた、あるいは竜宮から、天から降りてくるのかという議論がなされたことがありました。今回はムラ・シマの人たちと神アサギや御獄(ウタキ)と関わる祭祀からどう関わっているのかを見ていきます。

 沖縄の歴史や民俗、あるいは他のいろんな調査やっている中で、最近は三つの柱があるという言い方をしています。その一つは沖縄の人たちが本来持っているもの。もう一つはグスクの時代になると、今帰仁グスクの本丸から出土している遺物の八割が中国製です。十二、三世紀から十五世紀初頭にかけての約200年から300年の間、出土する遺物や制度の導入などをみると中国一辺倒という感じがします。中国一辺倒でありながら、琉球人は中国人になっていません。そとに影響されにくいもの。そのことは御嶽(ウタキ)と関わる祭祀と無縁ではないのではないか。沖縄の人たちは制度や物の移入が中国一辺倒でありながら、そのまま移入したからと言って中国人になっているわけではありません。三つ目ですが、大和的のものや中国的のものを入れながら琉球的ものを損なうことなく継承つづけています。他の文化を受け入れても根底にながれている琉球的なものは消え去ることなく祭祀に引き継がれているような気がします。そこに琉球の歴史や文化を担った琉球人の主体性を見いだせるのではないかと考えています。

特に御獄(ウタキ)と関わる祭祀を見ていくと、そこに琉球(沖縄)の人たちの根っこに流れているものがあるのではないか。1713年に編集された『琉球国由来記』があります。その中に、ざっと数えて山原の神アサギ(アシアゲと記されている)が105あります。あれから300年たった今、どれだけあるかと言うと118数えることができます。その中にはアサギとしての建物はないが、戦前まであった、あるいは戦前、戦後他の拝所にまとめてしまったとか、それらをひっくるめて118です。『琉球国由来記』(1713年)から300年も建物の構造は変貌しつつも残っていることに興味があります。

神アサギは祭祀に利用する施設一つです。300年という歳月が経っても変わることがない。1700年代から現代までの変化は、恐ろしいほどの変化だと思います。大きな変化した時代の流れにありながら300年も残っているということは、『琉球国由来記』(1713年)から逆に300年古い方にひっくり返してみたらどうか。その思いがいつも頭をよぎります。歴史の立場で見ると、そんなこと言えるか、ときどき自問しているのですが、ひっくり返して300年までとは言わないが200年は溯ることができるのではないか。十分可能だと考えています。少なくとも1500年代まで溯ることができると考えています。そういうことも念頭に入れて、神アサギや祭祀を手がかりにムラ・シマを見ていこうと思います。

 1.具体的な事例

今日ここにスライドを準備しました。その中で、これは歴史文化センターに今でも展示してある部分です。神アサギの分布、これは『琉球国由来記』をベースに作成した分布図です。それを見ると今の恩納村の塩屋あたりから北の方に神アサギが分布しています。これが先ほど申し上げた105という数です。恩納村より南の方には殿(トゥン)というのが300近い数あります。正確な数は数えていませんが、その中に12カ所神アサギが出てきます。圧倒的に殿(トゥン)の分布する地域に12カ所の神アサギがあるのは何を意味しているのか。そのことが気になります。どう説明できるのかと。神アサギは沖縄本島北部から伊是名島や伊平屋島、奄美大島の加計呂麻島にも実際に残っています。

昨年(平成15年)、奄美の笠利(現在奄美大島市)あたりを踏査をしているとアサギという地名があり、アサギという言葉が辛うじて聞くことができました。それからすると神アサギの分布は奄美大島まで含めることが可能です。前に触れた沖縄本島の中・南部の神アサギの分布は何意味しているのだろうか。そこに二つの仮説を立てることができそうです。中・南部に神アシアゲが12カ所あることに注目すると、神アサギの分布は単なる分布ではなくて、一つの文化圏を形成しているのではないかと。それは今帰仁グスクを拠点とした北山文化圏という言い方をしていますが、それとほぼ重なってきます。各地の集落やグスクの展開からすると、三山鼎立していた時代と重なってきます。神アサギをキーワードにしたときに、中・南部と違う文化があるのではないか山原は。

ヤンバラー(山原人)という言葉があるように、それはさげすみや蔑視の意味合いを含んでいた時代がありました。時々、神アサギ文化圏、あるいは北山文化圏という仮説でありますが、そんな言い方をするのは、山原は中南部とは異なっているとの認識がいまだにあるからです。何がどう異なるかを拾ってみることも必要であろう。三山鼎立時代に培われたもの。言葉なのか、神アサギ(中南部では殿)の呼び方なのか、集落を区分するバーリ(中南部ではダカリ)などもそうです。その視点で見ていこうと思います。沖縄本島での境界は恩納村の谷茶あたりが中山と北山との境界となっています。

2.神アサギとは?

 これは神アサギって何だろうか。一週間前も本土から来た人が神アサギって何だろうかと質問を受けました。山原のムラ・シマの神アサギを当たり前に見ていると、質問に窮することがあります。外見上は、基本的には屋根の低い壁のない建物で、茅葺きの建物がほとんどでした。ところが現在の神アサギは赤瓦屋根やコンクリートとなっています。神アサギの呼び方は今帰仁村の崎山では神ハサギと呼んでいます。崎山から東側では神アサギです。建物の中にタモトギという木(棒)が置かれています。神様が座るという観念があります。その中には香炉が置かれる場合が見られるが、それらは本来なかったようです。祭祀のときに線香を立てるので香炉が置かれるようになったようです。結構使いますので。こういう形で線香を置くと。神アサギの周辺には、これは集落との関係で広場があります。そこで豊年祭を行っています。これは後で古宇利のところで話いたしますが、そういう意味では、神アサギというのは、一つは御獄と違って、集落の中に建てられ、祭祀空間として使われています。

 これは具志堅の神アサーギ。具志堅では神ハサーギという呼び方をします。具志堅は昭和17年に三つの村の神アサギを一つにしています。部間と上間と具志堅の三つの村の神アサーギです。神アサギを一つに統合していますが、三ヶ所に神ハサーギの痕跡を残しています。山原の他の村の統合を見ても、行政的に村を統合しても祭祀はなかなか統合することはありません。特にノロ管轄が異なっている場合は。

具志堅の神ハサーギの西側の森が間部の拝み御嶽(ウタキ)になります。具志堅の神ハサーギのある杜が御嶽(ウタキ)でグスクとも呼びます。山原には茅葺き屋根の神アサギが五つぐらい残っています。恩納村恩納の神アサギも茅葺き屋根です。神アサギの中で比較的大きい方です。よくウタの中で神アサギを大きく作り、それを誇っています。神アサギの大きさというのは、このムラの勢いと、活力のある村(ムラ)と誇っています。茅葺屋根の神アサギですが。

 

 
▲具志堅の茅葺屋根の神ハサーギ(本部町)              ▲今帰仁村崎山の神ハサーギ

 

 
▲国頭村安田の茅葺根の神アサギ                      ▲恩納村恩納の茅葺き屋根の神アサギ

 
 ▲伊是名島の勢理客の神アサギ                    ▲伊平屋島の我喜屋の神アサギ

3.複数の神アサギを持つムラ

 ここでは二つの神アサギと書いていますけれども、諸志、これは今帰仁村ですけれども、これは時々私も神アサギの調査のときに、最初に強烈に印象に残っているのは、これは明治36年に諸喜田というムラと、志慶真ムラが合併して、諸喜田の「諸」と、志慶真の「志」をとって、合併したムラになります。一時期、神アサギを一つにしたけれども、また二つに分けています。どうしても具合悪いですね。だから明治36年から100年たっても神アサギは、こういうふうに行政はムラに一つになっても、祭祀は一体化しないということ、そこが非常に大きな後々の話になってくるので、まあそこを管轄するのが中城ノロで、勾玉が今でも残って、そこの家には戦前まで、古琉球の辞令書と近世を含めて、ノロ関係の辞令書は二枚、全部で十一枚の辞令書を残したノロ家です。二枚がノロ関係です。ほかは男の方の、まあ言ってみればノロ家というのは、女性がノロを勤めるが、男子方は大体間切役人をしている。ノロ家の男衆にも気配りが必要です。ノロ家の男子は役人だということ。

今帰仁村諸志ですが、行政は一つになっているが、もともとノロが違うのですね。志慶真ムラは今帰仁ノロ、諸喜田村は中城ノロの管轄です。今は二つ並んだ両ムラの神アサギでの祭祀を一緒に善意で祈っています。そこはノロがやるべきでないが、と時々漏らしています。 

 これも今帰仁村の今泊ですが、行政が一つになっても祭祀は一体化しないということを証明しています。山原のムラ、ムラに入っていくと、まず神アサギ探します。そこに立って御獄(ウタキ)はどの杜なのかを推測します。まあ、言ってみれば神アサギとムラというのは先ほどの『琉球国由来記』(1713年)に出てきます。そういう意味では、仲松先生風に言えば、古層のムラということになります。

ここも明治36年にこっちの左の方が親泊ムラ、これは今帰仁ムラ、合併して今帰仁の「今」と親泊の「泊」を取って「今泊」としています。明治39年に分かれて、昭和48年に、復帰の年に一つになって、現在に至っています。それでも神アサギは一つにしないで現在でも二つあります。これはたまたま仲がいいというのか、両ムラとも今帰仁ノロの管轄です。今帰仁ノロ家には勾玉とかんざしが、現在でも残っています。

大宜味村の津波も津波村と平南村が合併した字です。一つの屋根の建物ですが、向かって左側が津波、右側が平南の神アサギです。合併がいつなされたがはっきりしないが、今でも二つの村が合併したことは明確に伝えています。明治14年津波村を訪れた上杉県令日誌に「村中二箇ノ大空屋アリ、アサゲト云、ノロクモイ、祭典ヲナス所ト云フ」と記してある。当時、二つの村は統合されていたが、神アサギは一つにすることなく二つあったことがわかります。

 これは三つのアサギということで、四枚入れてありますが(スライド略)、これは玉城、これも明治36年に玉城、岸本、寒水、三つのムラが合併して玉城村(ムラ)になります。玉城のアサギですね。これ岸本、寒水ということで。昭和30年代の写真ですが、茅葺き屋根でした。これが玉城のアサギ。そこはこの岸本と寒水は岸本ノロの管轄、そして玉城は玉城ノロの管轄です。それと行政としては一つになりますが、今でも字(アザ)の中で御願費という予算が計上できないです。ノロが違うものですから、行政が一つになっても中では一緒に予算を立てることのできない事情があります。これは持っている財産のアンアンバランスやノロ祭祀の違いもあって。この岸本と寒水、特に寒水ですけれども、ここは土地持ちだったわけです。この財産が統合された字のものとなるわけですから。祭祀もそうですが持っていた財産の不公平が生じるため行政は一つになっても祭祀や財産についてはこれまで通りということになります。 

 
今帰仁村諸志の二つの神アサギ(左が志慶真、右が諸喜田) ▲大宜味村津波の神アサギ(左側が津波、右側が平南) 

 
今帰仁村今泊のフプハサギ(親泊村)              ▲今帰仁村今泊のハサギンクヮー(今帰仁村

4.御嶽(ウタキ)の中の集落(国頭村比地

 これもアサギの建物です。国頭村比地ですが、御獄とか、神アサギを見るときに、私は遠くから、この森が御獄かどうかということは、まず想定していきます。杜の中に入ってみるとイビヌメーがあり、イビがあり、比地のように神アサギが中にあると。人工的なものが杜にあれば、これは拝みだとか、御願だとか、グスクとか呼び方がされているわけです。これまではその外見を見ずして、よくイビがあるか、あるいはお墓であるかという議論がされます。もう一つ、集落との関係です。もともと、その杜全体が集落域だったのではなかったか。神アサギが杜の中にあったりします。そういう杜がもともと集落域だったのかと。比地ですが、こういう茅葺きの建物が昭和30年代ありました。その後、こういう瓦葺き、セメント瓦につくり変えて、これは平成15年、二年前に再び茅葺屋根のアサギになっています。ただ管理が大変だと実感させられています。四、五年で葺きかえしないといけませんので。

その中で一番大事なことは、300年経ても現代文明の中に私たちいますが、ヤンバルで神アサギを捨ててしまう、御獄を捨ててしまったら、山原は潰れてしまったそう思います。先ほど触れましたが琉球人の精神的な部分の柱というか、根っこの部分は御獄や神アサギなどに関わる祭祀の部分とつながってきます。これヤンバルでは瓦葺きの建物にかえてはいますが、神アサギを残していこうという姿勢はかわりません。だから私も「茅葺きにしてください」とは言えなませんが、神アサギの建物は残してほしいとお願いしているわけです。そういう意味では、どんどん変わりつつありますが、御嶽や神アサギで行っている祭祀は、琉球の人たちの心底に流れている信仰だと言えます。その姿を御嶽や神アサギなどの場や祭祀に映し出されているように見えます。 

 
頭村比地の神アサギ                   ▲比地の黄金杜(御嶽))にある一門のイベ

 5.移動集落と神アサギ

 これは集落移動でちょっと話します。これは仲尾旧羽地間切の仲尾村です。神アサギから見た右側が親川(羽地)グスクです。その左側がヒチグスクといって、仲尾村の御獄になります。御獄のこの丘陵地、旧集落跡に神アサギが残っています。仲尾村は集落移動です。同村内で集落部分が移動しています。ムラ移動と集落移動は区別して考えています。集落移動というのは、同じ行政村の中で、集落、人が住んでいる場所だけ同村内で移ること。村(ムラ)移動というのは他の村(ムラ)を飛び越えていく場合を指しています。それが村(ムラ)移動です。区別して考えないと、御嶽(ウタキ)(御嶽)(御嶽)の新設や祭祀やノロ管轄について理解しがたい問題があるからです。仲尾は集落移動、ヒチグスクの麓から、同村の海岸沿いに移ります。集落移動は道光15年(1835)です。古地から海岸沿いの現集落まで、距離にして七、八百メートルです。神アサギやネガミドゥンチ(根神殿内)、ノロ殿内(ヌンドゥルチ)はそのまま残して、集落だけ海岸沿いに移動しています。現在の仲尾ノロ殿内は集落の西側に位置し最後に移動したのではないか。もし積極的に移動していたのであれば、ノロ殿内は集落の中心部に近い場所に配置されたであろう。どうも最後まで故地に残っていた感じです。だから多くの家々が移動しても、田畑(ヌル地)が近くにあることから、ウエーキ(富農家)でもあるので、人を使ったりしていることから、移らなくてもいい状況にあったと考えられます。とうとう移らざる得なくなり移ったために集落の中心部ではなく外れ移動したことになります。その例は今帰仁ノロもそうです。そういう意味では、集落移動の順序も見えてきます。

名護市屋部も集落移動があった村です。現在の大島にヌルドゥンチがあります。近くに旧ムラヤーや神アサギなどがあり、屋部ヌンドゥンチは集落の中心部に位置しています。ノロ家が積極的に集落移動に関っている様子がうかがえます
 
▲集落を移動した仲尾の現在の集落                         ▲旧集落地にある仲尾の神アサギ
 

 これは名護市羽地間切、屋我地島の手前、最初の集落ですが、ここも1800年代に集落移動しています。もともとの場所はこの森のさらに後ろにあります。そこに屋我グスクがあります。屋我グスクの発掘調査に関わったことがあります。30年前になります。祭祀場の跡が残っていて、そのときは神アサギに断定することはできなかったのですが、一帯にあった集落が墨屋原、現在の場所に移っています。アサギも元の集落から集落ともに移動しています。アサギは集落とともに移動する傾向がみられます。そして神アサギでの祈る方向は御獄(屋我グスク)に向かっています。現在神アサギの側にお宮を作り、その左側にネガミドゥンチ(根神殿地)が置かれています。そのようなタイブの集落移動の村があります。 

 
名護市屋我の神殿と神アサギ(旧羽地間切)                 ▲屋我は故地からの移動集落 

6.移動村の事例

 移動村の一つに呉我があります。1736年に現在の今帰仁村呉我山から村ごと移動しています。その時に移動したのが振慶名・我部・松田・呉我・(桃原)です。いずれも現在名護市(旧羽地間切)への移動です。一帯は今帰仁と羽地の間切の境界線の変更があった地域でもあります。呉我ですが、今は名護市(旧羽地間切)ですが、もともと今帰仁間切の内。1690年頃羽地間切へ。1736年に村を羽地間切の内部へ移動させ、その地(現在の今帰仁村湧川)は今帰仁間切へ属させます。蔡温が1736年に村(ムラ)を移動させた事例です。それがまさに集落移動と区別している村移動の例です。

その村移動の事例が、神アサギや祭祀やノロ管轄をひも解く手掛かりとなります。村移動をしたときに、祭祀や御嶽や神アサギやノロ管轄がどうなったのか。ここでのテーマである「山原のムラ・シマ―神アサギ・御嶽・祭祀を通して―」につながってきます。その一つである神アサギが山原のムラ・シマを見ていく手掛かりとなっているわけです。上空からみた画像でお見せしていますが、もともとの場所はもう少し右側です。今帰仁寄りです。そこから蔡温の時代に、指示している場所に村(ムラ)が移動させられます。村移動もよく資料に出できます。移動の理由としてフンシー(風見)が登場してきます。フンシーミーに見せて、首里王府に文書は出すことで村や集落移動が許可されます。実のところ、蔡温が羽地大川の改修をしたのが1735年です。その翌年に羽地大川の下流域に呉我と振慶名村を移しています。我部と松田の両村は屋我地島へ移しています。フンシーが悪いからというのは、これは首里王府に向けての移動するための理由であって、実のところこれは湿地帯の開拓だと思います。蔡温は羽地大川を改修して、翌年には今帰仁寄り(当時は羽地間切内)から村(ムラ)を移し、集落の後方は羽地大川ですから、つまみ食い的になっている湿地帯の開拓が村移動の大きな理由だと考えています。地割制度の中で羽地大川の下流域の湿地帯、つまみ食い的に利用されている川沿いを開拓し、米の生産高をあげていくための村移動だと思います。だから今でも明治の地籍図を見ると羽地大川の流域は我部祖河、振慶名、呉我あたりの人々が混在する土地所有となっているはずです。1719年に本部間切から今帰仁間切の大井川沿いに移動させた天底村も湿地帯の開拓(仕明)だと言えます。 

7.明治43年以降の神殿と拝殿(神アサギ)

旧羽地村や本部町あたりでは手前に拝殿(神アサギ)、後に何カ所かの拝所をまとめた火神(ヒヌカン)を祭った神殿があります。御嶽(ウタキ)のイビの神名(カミナー)は『琉球国由来記』からとってつけてあります。呉我のイビにはイタオエクチワカ御イベと神名を刻んであります。

 これも振慶名も先ほどの呉我と同じ時期に、今の湧川地内から振慶名、羽地の中央部分に移しています。振慶名の場合は、移動村とノロ管轄と祭祀の関係を知る上で示唆を与えてくれる。振慶名は羽地間切の中央部にあたる田井等村のすぐ隣に移しています。振慶名の公民館の後方部の森全体が御嶽(ウタキ)です。頂上部に祠をつくり、そこがイビになっています。故仲松弥秀先生に連れられて、そこに行ったことがあります。そしたら仲松先生は古い土地、古い場所、故地に非常にこだわる方でした。それで私も最初に調査やったのは、振慶名あたりからでしたので90度ぐらいのズレはどうということないかと思っていました。最初は15度ぐらいのズレは民俗方位で許せるのだがと。いつも疑問に思いながら見ていました。後に私なりの答えを出ています。村(ムラ)が移動した時に、何故で御獄をつくらないといけないのか。そして祭祀を行わなければならないのかということです。村移動は他の村の土地に入り込むわけだから、合流してしまえばいいのに考えます。すでにその村には御獄があるわけだから。あるいは御獄はなくても、また祭祀もなくていいのはと思いますが、村(ムラ)が移動すると御嶽を設け祭祀を行わなければならない理由は何かということになります。その答えを出していると思います。

振慶名の場所を地図で確認していますが、一帯が羽地地域の中央部、羽地小学校はこれです。振慶名にあります。この手前が親川番所に近い田井等村、1750年頃田井等村から分かれたのが親川村です。振慶名村は羽地間切の中央部に移動させた村です。他の村を飛び越えて移動しています。ノロ管轄を仲尾ノロあるいは伊差川ノロの管轄にしてもいいのではなかったか。呉我村も。しかし、そうはいかないです。呉我・振慶名・松田・我部は我部ノロの管轄です。我部村は屋我地島に移動しています。それでもノロ管轄の変更はなされていません。海を越えてでもです。そこに村が移動してもノロ管轄や御嶽や祭祀を取りやめることなく、あるいはノロ管轄が許されない事情が見えてきます。
 
▲振慶名の新築の神アサギ(現名護市)           ▲御嶽(ウタキ)から見た振慶名の集落(現護市)

 

 我部も1736年に現在の湧川の下我部というところから、これは屋我地島に村移動しています。その時も、画面のこれ森全体が我部の御獄です。先ほどの故仲松先生は元の場所に非常にこだわる方だと申しましたが、故地にこだわることがどういう意味があるのか気になっていたテーマでした。我部の御嶽(ウタキ)のイビに向かう方向は、故地とは全く逆の方向になっています。それを見た時に、どうも琉球の人たちは集落を形成したら高い所に向かって御獄のイビを作っていく観念を持っているのではないかと。そういう習性を持った集団ではないか。そんな気がしています。もちろん、元の場所にこだわらないわけではないですが、こだわるときは、故地に向けてウトゥーシ(遥拝場所)をつくっています。神人たちの祈りを見ていると、イビに向かって祈っているが、向きを変えて故地にもウガンをする姿があります。基本的には村(ムラ)移動した時、高い所のイビやガマの内部のイビから神がやってくる、そのような神観念を持っているのではないかと。

我部と松田と二つの村(ムラ)が合併します。時期ははっきりしませんが、しかし並んで神アサギあります。向かって左側が我部の神アサギ、右側が松田の神アサギです。今でも並んであります。村が合併しても神アサギは一つにしない法則を示しています。そういう意味では、ムラ移動とか、集落移動というのは、その当時の人たちが神観念をどう持っていたのかを知る手がかりになります。村が移動しても祭祀は、そのまま引き継いで行われていく。それは何を意味しているのかということです。 

8.新設村と神アサギと御嶽と祭祀

 これは湧川ムラ、先ほどの今まで紹介したムラ、呉我、振慶名、松田、桃原、そういうムラが移ります。1736年に移された二年後に湧川地内に湧川ムラを設立します。六割以上が寄留民って、まあ士族の人たちが多いのですね。士族の人たちもやっぱり御獄つくっているのですね。これはヌンドゥンチの跡です。湧川ノロの住居の跡です。今はちょっとした公園風にしていますけれども、この後ろが湧川の御獄になります。松の下がイビになります。もう大分地形が変わりましたが、そこから入っていって、イビヌメーがあってイビがあります。そのふもとに集落が展開する形です。

 これは神アサギです。非常に屋根が低いです。これは10年前のウフユミ、ウフユミとワラビミチが一緒になって行われています。神アサギの中に神人たちが座っています。頭部が見えない位、屋根が低いです。お年寄りはかがめないものですから、神アサギの柱を高くしていく傾向にあります。湧川は1738年に創設されたこともあってか六割が寄留人で閉められています。豊年祭で行う路次楽(ロジガク)は寄留士族によって導入された芸能です。そこでは村が新設されると御嶽(ウタキ)を設置し、ノロを置き祭祀を行っています。村(ムラ)が成立するには、御嶽(ウタキ)を設け、祭祀を行う必要性はどこにあるかです。祭祀は神遊びと呼ばれるように人々の休息日であり、それがなされないと休日がないということになります。ですから祭祀を行ったということになります。

 
1738年に創設された湧川(今帰仁村)の御嶽(ウタキ)  ▲御嶽(ウタキ)の頂上部のイビへの道(イビヌメーから) 

 
今帰仁村湧川の神アサギ                      ▲湧川の御嶽(ウタキ)の頂上部のイベ 

9.グスク内にある神アサギ

 これはグスクの中の神アサギです。神アサギの議論は、マクやマキヨレベルの集落の形成と結びつくものではないかと考えています。ただ集落が形成されると御獄つくり、祭祀を行う集団ではないか。どうもそのような傾向が見えてきます。根謝銘グスクの中に神アサギがあります。先ほどと同じ場所の写真を入れてあります。ウフグスク(大グスク)とナカグスク(中グスク)です。左側の方にウフグスク、右手の方にナカグスクがあります。ウフグスクとナカグスクのある森全体がウイグスクで、別名根謝銘グスクです。ウフグスクとナカグスクは二つのイビだと考えています。ウイグスク(根謝銘グスク:御嶽)内に二つのイビがあるということです。現在、謝名城と呼んでいますが、根謝銘と一名代と城の三つの村(ムラ)が合併しています。城ノロの管轄する村(ムラ)がナカグスク(イベ)を拝んでいます。

田嘉里は親田と屋嘉比と見里の三つが合併した村(ムラ)で、屋嘉比ノロが管轄する村です。屋嘉比ノロが管轄する村はウフグスク(イビ)で祭祀を行っています。根謝銘グスクでの祭祀を見ていると勢いのいい城ノロの行う祭祀が目につきます。

根謝銘グスクにいた按司一族が1500年代、首里に引き揚げたとき、グスクとしての機能は失われ祭祀場として火の神や神アサギつくった可能性があります。これは後に今帰仁グスクで紹介します。

先ほどの集落の中はときどき神アサギの性格で、神様を招き入れる場所でもあるけれども、もう一つは、穀物の集積場所という話もよく聞かれます。そういう意味では二つの機能を果たしています。ただ、こういう高いところの方はどうも祭祀空間としての施設じゃないのかなと。というのは、私も一週間前歩いてそこまで行きました。下から穀物担いで、これ上っていくのは大変だなと。そういう意味では、祭祀の場という見方。集落の中はもちろん祭祀空間でもあるけれども、もう一つは、物の集積場所としての機能も果たしていた可能性があります。

 これはこの同じグスクに上り、遠くから見たらこういう山ですね。これはウイグスクとも言うし、根謝銘グスクとも呼んでいます。その途中に神アサギ、神アサギは頂上部に近いところにありますが、その上り口に、イビにあたるところ、グスクの中のイビにあたるところがあります。これはナカグスクとか、ウイグスクと言っているが、そこは非常に小さい空間がありイビと見られます。そこの上り口にあります。これもあまり気づかなかったですが、トゥンチニーズ(殿地根所)とウドゥンニーズ(御殿根所)の火の神ですね。ウドゥンというのは首里に住んでいて、按司地頭、あるいは親方地頭(総地頭)と呼び方をしますけれども、どうもそれに向けての火の神。だから由来記の中で、按司とか、総地頭がよく出てきます。これはその祭祀にかかわって、毎回そこまできたかどうかわからないですけれども、『琉球国由来記』に出てくる按司、地頭、地頭は脇地頭のことです。どのムラを拝みに行き、そのムラから家禄、作得をもらい、それとは別に間切やムラからの贈り物があります。按司は間切から湧地頭はムラから給料をもらっているわけだから、年に何回か間切や村へ行くことになります。 

 
▲根謝銘グスク内の神アサギ                     ▲グスク内にある中グスク(イビ)

 
▲名護グスク内にある名護の神アサギ              ▲今帰仁グスクの神ハサギ跡でのウンジャミ 

 
▲羽地(親川)グスクの遠景                      ▲羽地グスクにある親川の神アサギ 

 先ほどの根謝銘グスク(大宜味村)の神アサギは沖縄で例外的な姿です。それで加計呂麻島(奄美大島)に行った時の画像です。映り悪いですが、こんな形です。その時に根謝銘グスクの神アサギは普通の建物、柱があって、屋根がつくだけの施設ですが、非常に違和感がありました。加計呂麻島いったときに、このような神アサギの姿が見えるので、あっと思いました。加計呂麻島の神アサギは四つのタイプがあります。その関係は、まだよくわかりません。ただこれは『加計呂麻の民俗』の方から借りした写真です。昭和30年、クライナー先生が紹介したころのものです。こんな形の神アサギ、これが現在こうなっている。すると、先ほどの根謝銘グスクは例外的な形かなと考えているけれども、奄美の加計呂麻島に非常に近いと思います。沖縄本島ではこの神アサギの側にアサギミャーを見つけるのですが、奄美に行ったら最近は土俵を探しています。大体土俵になっているので、それは薩摩以降にヤンバル的な、あるいは沖縄的な神アサギも残すと同時に、大和風のものが被さっています。沖縄ではここで豊年祭を行いますが、向こうでは土俵があり相撲場になっています。神山と土俵を探した方が集落の形態が見えてくるのではと思います。

 
▲加計呂麻島(奄美大島)実久の神アサギ               ▲加計呂麻島(奄美大島)瀬相の神アサギ 

 神アサギの議論がありますが、これは折口信夫先生あたりそうですね、宮城真治先生もそうです。これは広島県の宮島の方にこういう建物があり、沖縄の本来の神アサギも、汀間のように足を上げると話されます。私それなかなか納得できないです。というのは、これは現在、もともとこれはテーマですけれども、神アサギはここにあったヌンドゥルチの側です。元の場所にきちんとそこだということで、今、ウタと説明板が立っています。もともとのムラは反対側、この森に御獄があります。今集落が右側に移っていますけれども。これは一つのアサギというのは、水の中で足を上げているのであしあげという説明をしていますが、これ私は、先ほどの穀物の集積場所という言い方しましたけれども、物を集めてきて、そこで一時やって、それから船で運ぶための施設としての機能があるのではないのかなと。というのは、大浦とか、何カ所にはそういう場所があるけれども、ほとんどの神アサギというのはグスクの中であったり、集落の中であったりすると。例外的に数カ所、こういうところがあるけれども、こういう姿、これは恐らくニライカナイの海のかなたから神がやってくるという観念だと思います。それより私は穀物を集積、まあ便利、そこから船で積み出せばいいという、そういうことのとらえ方もしてみる必要があるかなということで出しています。 

 これは今帰仁村上運天の方、これはちょっと画像が見えにくいですが、この森全体が拝みと言っています。その中に神アサギがあり御獄のイビがあります。ここはイビですが、男性がそこに入ってはいけないです。そこで女性だけが祈りをするとことです。イビにあたります。これは神アサギです。この森の、これは戦前にこういうお宮をつくって、そこにいろんなものをまとめています。その近くにこの森の後ろ側にムラヤーの跡だとか、ウッチ火の神(ヒヌカン)とか、ネガミ火の神という拝所はそのまま残していると。もともとはこの森の中に神アサギがあり、御獄のイビがあり、あるいはムラヤーがありと、そういう意味では、この森全体がどうも集落を形成していると。これが次第にふもとに下りていくという。そこは集落移動ですから、距離が非常に近い場所なので、もともとの場所はそのまま残して、御願のときにそこに行くという姿だろうと考えています。

 
今帰仁村上運天の神アサギ                 ▲上運天の御嶽(ウタキ)(御嶽)(御嶽)のイベ 

 これは名護グスク(ナングスク)の神アサギです。名護グスクの神アサギがいつ頃まで遡っていくことができるか、少なくともナングスクに住んでいた按司が首里に引き揚げる頃まで遡ることができるのではないかと考えています。そこに祭祀空間として神アサギを設けたのは、グスクに住んでいた後か、それとも引き揚げる前からあったのか。多分、按司たちが住んでいるときには、今帰仁グスクもそうですけれども、引き上げた後に、こういう祭祀空間としての神アサギができたのではないか。神アサギが祭祀空間の機能のみなら問題ないのであるが、近世になってからは一時貢租を置いた役目も果たしていた痕跡も見られる。先ほども話ましたように、麓から穀物を運んで、そこまで持ってきて、そこから海岸まで下ろして舟で運ぶのは具合が悪いだろう。そういう意味で神アサギは、祭祀空間としてのみの施設だった可能性もあります。ナングスク、これはイビにあたります。左側、これは旧道、みんな車で行くのですぐ近くでおりますけれども、ナングスクの方まで歩いていくと、もとの道がこうやって上の方に上がっていきます。 

 これは親川グスクです。この森が、これちょっと写り悪いですが、これが親川グスクの近くから見ると、これになります。これ全体がグスクになります。そしてグスクのそばに神アサギらしからぬ、もうカギ置かれてくださいって区長さんに言う言い方しているので、もうちょっと勉強してほしかったなというのがあって、アサギ本来の姿を変えてしまっている例です。

 そしてこれは池城(イチグスク)、『琉球国由来記』には池城(イケグスク)ね、按司地頭の火の神、ちょっと今わからなくなっていますけれども、それできょうちょっと朝用事があったので、この辺通ったので、いつの間にか引きつけられて、アサギまで行きました。ちょっと見たら人が歩いた跡があったので、初めてこのずっと頂上まで行きました。そこにイビがあります。そして石垣もあまり気にしてなかったけれども、きょう行ったらきちっと石垣が残っています。ただ今帰仁グスクみたいな石ではなくて、川から、周辺から取れる石だと思います。そういう意味で、石垣がこっち側の断面の方にずっと上まで、そしてその後ろ側に掘り切りがあります。そういう意味では、ここの親川グスクの神アサギもグスクの近いところ、あるいは中にあるアサギとしてとらえてもいいのかなということです。 

 これは名護市の嘉陽です。嘉陽は集落の中に神アサギがありません。ただ、この上の方にイビがあります。そこは嘉陽グスクになっています。そこに拝所があって、その向かい側に神アサギがあったようです。ところが台風でつぶれ、復興することができていません。先ほどの謝名グスク、あるいは名護グスクと同じように、グスク内に神アサギがあるタイプになります。先ほどの汀間のように神アサギが川沿いの低地にあり、アシヤゲは足をあげることに由来すると見解があるが、神アサギが水辺にあり、それが神アシアゲになったというのは、ちょっと難しいのではないでしょうか。もし、そうであれば穀物の集積場所、あるいは積み出し場所としての機能が認めることが可能であろう。嘉陽のようにグスクのある高所で神アサギがあるのは、集積場所になってくるには、作物を下の方から運ぶには、また租税としての穀物を運ぶには非常に不便です。その視点でみると、嘉陽のよう高所にある神アサギは祭祀空間としての役割が大です。

 これは辺土名です。辺土名の上島(ウイシマ)。辺土名はこっちから今の町の方に集落が発達します。もともとのマク規模の集落は、ウイシマという呼び方します。ウイシマのこの丘の方に神アサギがあります。そこからウイシマの集落を眺めたところ、この大きい赤瓦が辺土名ノロ家になります。人は住んでいませんが、結構大きな一門です。ヌンドゥルチをみんなで寄付をして大きな建物をつくってあります。人が十分住める面積のヌンドゥルチです。ウンガミの時に訪ねたら、丁度かんざしと勾玉を持ってきてありました。神アサギの後方にイビの祠があります。神アサギとイビのある森全体が御嶽(ウタキ)になります。 

 
国頭村辺土名の上島にある神アサギ                ▲神アサギの後方にあるイビの祠 

 神アサギがグスクの中、あるいは集落の中央部にあり、その中に何カ所か、これは瀬底のウフグスク、大城家の庭先に神アサギがあります。屋敷にある神アサギを何カ所か紹介します。屋敷の中にあります。話を聞いていたら、もともとここではなくて、近くから現在地に移動したと言います。ただ屋敷の中にありまうすが結構大きな祭祀が行われます。神アサギの中にタモトギがあります。タモトギは神人が座るとか、神様をまねいて座らせるという観念があります。

 同じように、奥間ノロの自宅の隅の方に小さな神アサギがあります。奥間ノロ家にある神アサギはもともと学校敷地にあったのを移してあります。この理由ははっきりしていて奥間小学校、学校敷地にしたため奥間ノロ屋敷の方に移しています。これは素性がわかっていますので、もともと屋敷にあったわけではなくて、理由があって移したています。これは10年前の写真です。比地の御獄(ウタキ)の中でノロが、勾玉を首からかけています。高齢となり祭祀に出ることができないので奥間ノロの住宅の庭先、アサギの側で拝みを行っているということです。

 国頭村宇嘉の神アサギは集落内のウフヤーの屋敷内にあります。神アサギの側にサシ石が置かれています。またウフヤーは根神を出す家のようで屋敷にムラの火の神を祀った拝所が置かれています。宇嘉も国頭村奥や安波と同様、他の地域から宇嘉に移ってきた最初の場所が御嶽(ウタキ)となっています。御嶽(ウタキ)と現在の集落地とから、集落の移動や展開が見えてきます。 

 
▲屋敷内にある奥間神アサギ(国頭村              ▲屋敷内にある瀬底の神アサギ(本部町 

 
         ▲屋敷内にある国頭村宇嘉の神アサギ(ウフヤー) 

10.御嶽や拝所の香炉

 これは今帰仁村の勢理客です。勢理客の神アサギを見たときに、先ほどもちょっと触れましたけれども、私、線香を置く場所をよく見ます。そうしたら、その方向に御獄があるということ。今帰仁には全く反対の場所もあります。そういう意味では、ノロがそこに座りますけれども、御獄の方から、まあ神人たちは御獄の中までいきます、これはイビになります。こっちヒジャイナーをめぐらしてですね、そこまで行って祈りをします。そして村人たちはそこの広場で待っているので、神人たちはある面での役割としては御獄の方から神様を集落の中まで連れていく役目という形ですね。その中のイビの中、御獄の中にはよく香炉があって、今さっき年号をずっと気にしながら行くと、これは大体按司たちが薩摩に行くときの年号とほぼ一致します。道光九年とか、同治とか、その中には本部の方では本部按司、寄進と。そういう意味では、御獄や拝所の香炉というのは、航海安全の祈願、薩摩に行くときにそれを寄進し、「無事に戻って来ますように」との祈り、帰ってきたら「無事帰ってきました」と香炉を寄進しお礼をしています。そういう意味での「奉寄進」の香炉だと思います。もちろん、いろんな神頼みをしていると思います。特に航海安全のために寄進の香炉だと思います。その視点で御嶽や拝所の奉寄進や年号の刻まれた香炉と『中山世譜』(附巻)の薩摩旅の記事や年号を合わせみると理解できます。

 
大宜味村大宜味の御嶽(ウタキ)の香炉                    ▲勢理客の神アサギ 

 
今帰仁村勢理客の御嶽のイベに香炉                ▲本部町並里の御嶽(ウタキ)にある香炉 

 これは宜野座の神アサギです。ここも今ちょうど発掘、一週間前に向こうで話す機会があったので、ちょっと立ち寄ったところです。この森全体がまさに御獄であり、グスクであった感じです。その中に神アサギがあり、近くにノロの住宅の跡があります。また、根神(ネガミ)の拝所などがあります。他にも何件か拝所があります。もともと森全体が集落、そこにマク・マキヨクラスの集落が形成されていたのが、次第に周辺に展開していく姿がみえます。もちろん下には湧泉(カー)があります。ヌルドゥンチの側にある拝所は御嶽(ウタキ)のイビだと思います。 

 
宜野座村宜野座の神アサギ            ▲神アサギの近くにある宜野座ノロ殿内跡 

 これは国頭の安波です。何年か前まではこんな形の神アサギでしたが、最近、二、三年ぐらい前にこう変わりました。ショックもありましたが、潰すことはしなかったことでよかったです。その梯子はノロ家の後ろにまだ置いてあります。建物はどんどん変化をしていきますが、祭祀空間としての役割は変わることなく継承されています。最近は車がすぐそばまで行けるようになっています。前方は前田原です。そこの集落は安波の斜面の集落から川の向こう側に展開していっています。安波の集落そのものは斜面です。

 安波の御嶽(ウタキ)は集落から安波川を越えたところにあります。御嶽(ウタキ)と集落の関係が、集落の後方に御嶽(ウタキ)があるわけではなく、川向こうにあります。その例は国頭村の奥もそうです。それは、他の地域から最初にきた場所(足を置いた場所)を御嶽(ウタキ)にしいる、そのような認識があるようである。

 
国頭村安波の御嶽(ウタキ)(川向こうの森)         ▲安波の御嶽(ウタキ)の祠の後方にあるイビ?

 

11.集落の展開

 これは仲宗根です。マチの景観を見せていますが踏み込んでみると、マチに発展するまでの集落の発展の経過が見えてきます。御嶽(ウタキ)や神アサギなどを手掛かりにすると、その展開がよくわかります。マチだからわからないのではなく、私たちがムラの展開を見るキーワードを持っていないからではないかと。仲宗根の旧集落の後方の森は、現在お宮と呼んでいますがグスクとも呼んでいます。頂上部はグスクンチヂと呼んでいます。お宮の祠が御嶽(ウタキ)のイビに当たります。お宮にしてしまったので神殿になっています。本来御嶽のイビのあった場所にあたります。階段の途中に神アサギがあります。ちょっとマチになっているから見えないのではなく、他地域の例と引き合わせてみると、かつての姿が見えてきます。                 

 伊野波の、これも先ほど申し上げたように、この手前の森が御嶽(ウタキ)です。森に神アサギがあり、拝殿があります。伊野波神社になっていますが、これは先ほど申し上げたように、日本的なものを取り払うと本来の御嶽と神アサギ、そして集落の関係がわかります。昭和初期から昭和10年代にかけて、御嶽のイビと神アサギを結びつけて神社にしています。そこに年号が刻まれた香炉があります。これは本部按司が大和に行った時の年号と一致する香炉の例です。『琉球国由来記』(本部按司は祭祀の時、伊野波間切と同村である伊野波村の祭祀に参加しています。というのは今帰仁グスク、今帰仁は1660年、二つに分割するのですね、伊野波と今帰仁。そうすると本部按司は今帰仁グスクに行くわけにはいかないので、伊野波は伊野波間切の多分、しばらく番所のあった場所が主村になります。『琉球国由来記』(1713年)を見ると本部按司は伊野波村の祭祀と関わっています。番所が伊野波村から渡久地村に移っても

 
▲伊野波の神アサギ(本部町)                      ▲伊野波惣地頭火の神(ヒヌカン)の祠 

 これは辺名地の神アサギです。ここにも拝殿、改築記念ということで、神社化しています。そうでありながら、祭祀はこれまで通り行っています。神酒をつくり、神酒をつくる桶が置かれていますが、今ではポリ容器を使っています。そこにはタモト木がしっかりと置かれています。 

 
▲辺名地の神アサギ(本部町)                     ▲寄進された香炉 

12.古宇利島の祭祀と神アサギと御嶽

 古宇利の方のウンジャミの場面です。神アサギ、今年改築されました。その件でちょっと相談もあったので、少なくともこの形から茅葺きにすること無理でした。どうするかという話になって、少なくとも赤瓦にしてほしいとの希望を出しました。幾つか事例を提供しました。ウンジャミという祭祀を行われています。神アサギは神行事を行う祭祀空間です。祭祀を行う神人を時々公務員という言い方をします。

というのは、ノロなどの神人の制度はなくなってしまったので、神人をやる人がいません。かつてのノロをはじめ神人は、神役としてヌゥルジ(ノロ地)という土地を授かります。今帰仁村では神人をやると土地の配分を受けています。間切役人の役職や神人職をしている間は何坪かの田畑を預かるわけです。そのような例が資料に出てきます。ヌル地はよく聞きます。かつては神人をやるということは、祭祀も行うと同時に神役として、公務としての祈りをやっているわけです。祈りは基本的にムラの繁盛、五穀豊穣、航海安全などです。 

 
▲古宇利島の神アサギでの海神祭                   ▲ヒチャバアサギでの船漕ぎの儀礼

 これは勢理客ノロです。かんざしなかなか見ることがないので、これは「おもろさうし」に出てくるシマセンコノロ、アケシノノロと出てくるノロ、なぜかかんざしが二つ、二本あります。一本は竿がありませんけが、ちょっと病気がちなのでなかなかお会いすることできないので、古い写真使っています。これはワラビミチとウフユミが一緒にされています。その時に簪をヌンドゥルチ跡の方にノロが持参してきます。今ちょっと高齢で病気がちなので、娘が代理で持ってきます。

(スライド略)

 これは恩納村名嘉真です。もちろん神アサギもあるし、そこには地頭火の神があります。脇地頭です。そういう意味では、神行事のときに按司もやってきたのかな、脇地頭もやってきた。近くに脇地頭屋敷跡があります。多分脇地頭が首里にいても祭祀になるとやってくる。それは脇地頭地(ムラ)から給与をもらっている関係。祭祀の日にはムランチュたちもいっぱい集まり、集まるのは祭祀のねらいもあるが、間切役人にとっては別のねらいも見え隠れします。自分たちの税金で賄っているが雲の上の役人がやってきたと。ムラ人達は一生懸命もてなすわけです。ムラの役人たちは自分の子供たちを首里奉公させたいという、別のねらいもあるわけです。そのきっかけをつくる場面でもあるわけです。首里奉公するということは、戻ってくると即間切役人になれるコースなのです。エリートコースをつかむためのチャンスでもあったわけです。だから単なる絞り取られるというよりは、逆に自分たちの按司様が来たということで、一生懸命もてなす、そういう関係だとみていいと思います。 

 
恩納村名嘉真の神アサギ                       ▲脇地頭火の神の祠 

 これは辺戸です。辺戸のこれはアスムイですけれども、これは私、国レベルの御獄という言い方をします。もちろん辺戸には神アサギのちょっといったら所がアシュラ御獄というムラの御獄があります。

国レベルの御獄というのは、今帰仁グスクの隣にクボウノ御獄があります。その祈りみたら「首里天加那志美御前…」と始まり国中の百果報を祈願しています。クボウノ御嶽の祭祀は今帰仁ノロが行っています。1665年に今帰仁按司(北山監守)一族が首里に引き上げたときに、これはしばらくしてから今帰仁阿応理屋恵が廃止されます。それまで今帰仁阿応理屋恵が主導していた今帰仁グスクやクボウノ御嶽での祭祀は今帰仁ノロが肩代わりしたとみられる。それが七、八十年して復活しますが、そのときには今帰仁阿応理屋恵が行っていた祭祀は十分に復活することができなかったとみられる。そのようなことは辺戸でも起こっている。安須森(アスムイ)での祭祀も今帰仁阿応理屋恵が行っていた国レベルの祭祀で、辺戸ノロが肩代わりし、そこも復活することができなかったとみられる。祈りを見たら、国家レベルの祈りをしています。宮古、八重山を含めてです。大和も唐も含めての祈りになってきます。そういう意味では、辺戸のアスムイで行われている祭祀は国レベルの祭祀と考えています。

今帰仁グスクや他の間切クラスの按司たちは1526年に首里に集められて、首里に住むようになったといいます。ところが今帰仁按司だけは首里に引き上げることが許されません。それは第一尚氏、第二尚氏になっても引き揚げは許されていません。五世のとき、薩摩が入ったとき今帰仁グスクは焼き討ちあい引き上げる口実はできわけですが、それでも許されません。もう監守という役目は四代、五代で形骸化しているのですが、引き揚げが許されないのは、祭祀を執り行っていた今帰仁阿応理屋恵の存在だったと思います。今帰仁按司の初代から五代ぐらいの女方は今帰仁阿応理屋恵を務めます。そういうこともあって、監守という役目は終わり首里に引き揚げたいが、山原の祭祀を司る役目にあった今帰仁阿応理屋恵の存在が、なかなか首里に引き上げることが許されなかった。1665年に一族が首里に引き上げることが許されると、今帰仁阿応理屋恵の祭祀は今帰仁では今帰仁ノロが、辺戸では辺戸ノロが肩代りしたとみられます。

 
国頭村辺戸の神アサギ                      ▲辺戸の安須森(アスムイ)  

 もう時間が過ぎましたので、最後にもう一枚。これは今帰仁阿応理屋恵(オーレー)です。今申し上げたように、三十三君の一人です。その時残ったのは久米島の君南風(チンベー)と今帰仁阿応理屋恵(オーレー)、それから伊平屋のあんしられが残ります。今帰仁阿応理屋恵は復活しますが、十分元に戻すことができず祭祀は形骸化してしまいます。今でも位牌があります。それは六世縄祖の位牌です。順治15年(1658年)の年号が彫られています。縄祖は万暦37年(1609)に今帰仁間切惣地頭職となり知行高100斛を賜っています。五世の克祉が亡くなったのは1609年の薩摩軍の琉球侵攻があったときですので、その克祉を継いだことになります。次男の従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の娘を娶っています。今帰仁安応理屋江按司となっています。今帰仁村歴史文化センターで保存しているのは、勾玉と水晶玉です。また袋状になった足袋もあります。それとビーズがいっぱい、足袋が修復できればと考えています。 

 
▲今帰仁阿応理屋恵の勾玉                     ▲今帰仁按司(北山監守)の位牌 

おわりに

 最後になりますが、こういう形で神アサギというものは、神アサギは何かということも大事ですが、もう一つ、アサギと手前の自分たちと…、時間がないので、話省きましたけれども、総地頭、脇地頭、それから按司地頭、これとの関係を見たときに、祭祀というのは祈りだけでなく、税金をとる、とられる関係で見ていくと、なかなか面白いです。ただ、ムラ人たちにとって税金をとる、とられる関係で言ってしまえばムラがまとまらない。首里王府は統治するのに祭祀を巧みに使っています。頂点に聞得大君を位置づけ、三十三君、さらに村にノロを配置し、村々の末端まで祭祀で統治する形となっています。ノロを中心とした祭祀が行われていること。神行事は「神あそび」といい、その日は休息日となります。税金とられる方からすれば、神様に名づけてウマチー、二月ウマチー、三月ウマチーと、いろんな行事をつくって休みをつくる。首里王府からすれば祭祀が多過ぎるということもあって絞らされます。その中でウンジャミの中に、海神祭と書いているけれども、あれは山、海、農耕の場面の三つの場面が所作に表れてきます。もちろん、もともと山・海・農耕と三つ別々に行っていたのが、絞られたときどれかを捨てるわけにはいかなかったのではないか。

最初ウンジャミを見たときに、どこに海と関わる場面があるのかと。海と関わるのは全体のほんのわずかにすぎなかった。そういうこともあって、古宇利島のウンジャミの全体の参与観察記録をつくりました。すると海神祭(ウンジャミ)とはいうものの海と関わるのはほんの一部にすぎないことに気づかされました。古宇利島の神人が持っているのはヌミ(弓)といいますが、弓矢の弓で狩猟を射る道具。そのヌミは作物を図る物差しともなっています。もう一方では海で船を漕ぐ櫂にもなります。ヌミの旗には進貢船が描かれています。航海安全を祈願しているのでしょう。この祭祀も祈りは国の安泰、五穀豊穣、豊漁、航海安全などが主です。もう一方では祭祀は国やムラ・シマをまとめていく、税金をとる、とられる関係でとらえることが可能です。時間がきたようですので、その辺で終わりとします。


○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 仲原さんですね、「神アサギの形態と分布」。「『琉球国由来記』の神アサギ、祭祀と神人の位置付け、あと祭祀から見たムラ・シマというふうに、山原を中心に幅広く調査した、フィールドワークをしたことを踏まえてのお話でした。

 それでコメントの方、稲福みき子先生の方お願いいたします。よろしくお願いします。

 

○コメンテータ 稲福みき子所員(総合文化学部教授)

 沖縄国際大学の稲福です。きょうのコメンテータを仰せつかりました。今、お話を聞いたばかりで、なかなかまだ頭の中は整理できないのですけれども、思いつくままにコメント、そしてまた質問をし、かつ私の学習にもしたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

 実は私もかかわって、今から20年以上も前でしょうか、1980年代の初めから調査を始めまして、これはグループでやったんですけれども、『沖縄国頭の村落』という本になりましたが、かつての国頭郡、10市町村、160の村落。村落といっても、きょう仲原さんがおっしゃっているムラ・シマという民俗の用語としての村落、というよりは、むしろ行政的な区、つまり字とその当初は字、あるいは区というふうに呼んでいた行政的な区域割りの村落、これが当時160でした、10市町村、つまり恩納以北ですね、恩納、金武以北になります。その170のそれぞれについて、まず足でかせごうということで、各村落の創設伝承、移動伝承、そしてこの村落内の地域区分、聖地、そして神役、主な祭祀とか、そういったものを兎に角やってみようということで、この時には私たちの構想は若かったから大きかったんですね。沖縄全体についてやりたいと。国頭郡で挫折しまして…。ただ、その時に考えましたことは、これまでの村落のとらえ方というものをもう少し整理してみようじゃないかと。そして様々な調査報告がなされていると。エンテンスブな主役的な調査報告もなされているんだけれども…。

現在行われている年中祭祀というものを一応おとしていこうと。非常に大雑把ではあったんですけれども、それを土台として持つことによって、そのエンテンスブな調査というものを上に乗っけていきたい。そのためのガイドの基礎資料を集めたいというのが当時の思いでした。そういう意味では、1980年代当時の神アサギや御獄や、あるいは祭祀場というものが、当時の時点での聞き取りによっては記されている成果はある。その当時のことを思い浮かべながら、あるいはまた私たちも毎年山原調査に出かけたり、地域の調査に出かけたりするので、今日いろんなスライドを見せていただいて、ああ、こんなに変わったのかとか、これだけ今もあったのかというのに気づかされると同時に、当初から抱いていた疑問点というものもまた新たに仲原さんによって指摘されたという気がします。

 それで非常に興味深かった点からまず申し上げますと、つまり行政的な管轄、例えば村落の統合、併合、移動、そういったものが行政、つまり王府の側から、あるいは町の行政レベルの側からあったとしても、それが祭祀の拝域として、なかなか変わらない。継続していると。そのあたりはその当時もなぜノロの管轄と行政上の単位がこんなにずれるのかというのを疑問だったんですけれども、やっぱりこの時に私たちが描いていた問題点というのは、この祭祀空間と行政上のずれ、ノロ祭祀の側から見ていたわけですね。きょう一つ勉強させていただいたというのは、この構想、つまり例えば『琉球国由来記』という300年前の当時の祭祀記録があります。祭祀場、そしてこの祭祀といってもすべての祭祀じゃなくて、非常に限られた稲に関している祭祀がほとんどなんですけれども、これも地域によって北の方と違うんですけれども、そこにオエカ地と百姓という形で、それぞれ供物の出し方が違う。そうした上で明記されている。そこまでは把握できたんだけれども、つまりこの集積場としての経済的な側面からの把握、つまり行政とのずれというものを理解するにあたって、今日の仲原さんの御指摘というのは、その行政的なそれをもう少し経済、つまりこの構想、とられる者、とる者、そういった側面から見ていくともう少し突っ込んだ、何というんでしょうかね、考察ができるんじゃないかと。そういった部分は今日大変勉強になりました。

 しかし、これは祭祀空間として、例えば山の上に残ると。その山の上に上ったものがどういう…、例えば御獄にしても移動した後も、この御獄の方向とは反対の方向に神アサギはつくられて、方向に向けてつくられているけれども、高いところにつくられると。そういった観念というのは、どう見えてくるのか。ここのところがまた疑問の一つになります。つまりちょっと整理が、なかなか考えながら、しゃべりながらやっていくとずれてしまうんですけれども、勉強させていただいた点は、そういった経済的な行政側の立場からの村落、祭祀の場としての神アサギの果たす役割、これに経済的な側面がどう見えてきて、どういう形で、それが実証というのか、考え方として裏打ちできるのかと。そこのところは非常に学習できる点だし、それの手がかりを教えていただきたい。

 さらに第二点目の質問としまして、集落の移動とかがあった時に、先ほどから御獄と神アサギというのは一つの統合体であると。だから神アサギを通して御獄、そして、ひいてはムラ、ムラの根っこの部分を知ることができるんだというお話。まさに私もこの点に関しましては、共感します。その時、移動した時に、なぜ高いところにやはり遥拝場をつくったり、神アサギをつくったりするのか、そこにはやっぱり仲原さんなりの見通しがあって、これは神観念、沖縄の人々の神観念と関連するんじゃないかと言われている。それはどういう神観念かという疑問があります。

 三点目として、例えば北山文化というお話、非常に面白い。例えば中部を今研究している若手の人たちは、中山文化圏、阿麻和利文化圏などのお話しをして、うんうんというふうな形でなかなかこのあたりからの追求もなかったなと、ほんとにいろんな動きが出てきて勉強になるのですけれども、この北山文化圏という論拠に関連しましてですが、仲原さんは神アシャギがあって殿(トゥン)が後々に出てくるというお話を今なさいましたんですよね。例えば仲松弥秀先生に言わせると、もう少し仲松弥秀先生は平和的にとらえておられるのかな、今の話を伺った限りでは。神アシャギというのは祭祀空間であると。それが中南部に行くと殿(トゥン)になると。神アシャギと殿(トゥン)というのは、同名、異義という位置づけ方をするんですね。ところが宮城真治さんは神アシャギというのは、これは何にいっていたのかな、神アシャギというのは、居つく神、神を遊ばせる、神が降臨し、神を創生し、神を遊ばせる歓待する場所である。殿(トゥン)というのは、主神ではない。部落の主神ではないんだと。かつての役職、神職者たち、神職であり、役職者であった者たちの邸宅、だから邸宅に祀られていた火の神だと。だから神アシャギには祀られる神は、神を祀る香炉というのはないんだ。火の神が殿(トゥン)にはある。その近くにある、アシャギのそばにある殿(トゥン)に火の神があって、それが家の神であり、決してムラの主神ではないという言い方をして、仲松先生とはちょっと違う立場をとっているんですね。このあたりに関して仲原さんはどう考えなのか。

 これと関連して、さっきの北山文化、山原文化圏に戻るんです。例えば南部の殿(トゥン)と神アシャギが並立する例、このあたりは例えば仲原さんはかつての北山系統の子孫たちが散っていって、そこで祭祀なり、政治を行ったその証しじゃないかという見通しを述べられておられましたけれども、私は浦添の調査をしました時に、伊祖などでは、もちろん浦添はもう多くの村落が殿(トゥン)なんですね。ところが神アシャギという言い方もやっているんですよ。調査しました時に、1980年に、まだ伊祖などは人々は神アシャギというんですよ。でももう記録なんかには殿(トゥン)と出てくるんですね。ムラ域にしてそうなっている。300年前のムラ域に殿(トゥン)と出てきているけれども、人々の伝承は、こっちは神アシャギという。そして昭和10年代の鎌倉芳太郎の「鎌倉ノート」に出てきますものは、神アシャギなんですね。ここもやっぱりそうとらえられるのか。だからどういうふうに統制、つまり祭祀の全体的な統制、再編というものが国家レベルでなされていって、そことかかわってくるのか、あまりにも仲原さんのお話が歴史的な部分とかかわって雄大なので、その点からしか今のところ発想していないんですけれども、このあたりも加えて、大きく三点教えていただければと思います。大変勉強しながらのお話で、私の方もまとまってはいないんですけれども、どうぞよろしくお願いします。

 

○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 御質問がありましたので、仲原さんお願いします。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 神アサギと殿(トゥン)ということをさきに説明すると、先ほども最初の方でマップの方で中南部に11カ所の神アサギがあると。そこは確実な結論は出しきれていませんが、本来は神アサギが沖縄本島含めて、周辺の島々ではなかったのかというのが一つですね。三山統一された後に、殿(トゥン)に切りかわっていく。その中で、がんと根強く残った地域があるのではないかということ。それはまだどうなのかの答え出しておりません。もう一つは、稲福先生がおっしゃるように、北山が滅んだときに離散したメンバーたちが中南部に流れ着いて、そこで山原的な一つの形として10何カ所かに残ったのかと。中南部の神アサギのある地域に、まだ行っていないので、結論を出すのに躊躇しているところです。何とも言い難いところですが、逆にそういう視点での研究もあってほしいと思っています。それが一つは山原(北山)文化圏という言い方は、神アサギが分布する地域が奄美大島の加計呂麻島に及んでいること。三山が統一された時、北山の地(今帰仁グスク)に監守制度を敷いています。監守が置かれました。そのことに興味が惹かれました。その当時から既に北部というのは、中南部と違う文化を持った地域ではないかと認識されているのではないかと。そうでなければ北山に監守を置く必要も、あるいは第一尚氏の時代に置いたにしても、第二尚氏なった時期には引き上げ、監守としての役目は解かれてもよかったのではないか。しかし1665年まで監守を首里に引き上げることが許されなかった。そのことは中南部とは異なる文化を持っている地域ではないかと想定したのが、北山文化圏です。ところが当時からどうも北部は中南部と違うと認識されています。

北山文化の形成は、各地の集落が次第に後の間切クラス地域に統括されていく。山原では国頭地方はウイグスク(根謝銘グスク)、羽地地方は羽地(親川)グスク、本部半島の大半は今帰仁グスク、名護地方は名護グスク、現在の恩納村を含む金武地方は金武グスクの五つのグループにまとまっていく。さらに五つのグループが北山(今帰仁)グスクに統治されていく。その過程に形成されたのがあるのではないか。仮説であるが、北山(今帰仁)グスクにまとまっていく過程、そして北山王が君臨した時代に形成されたのが底流に流れているのではないか。それが北山文化であり、北山王が統治した地域、範囲を北山文化圏として想定しているものです。

一つから分かれたという発想ではなく、集落が次第に勢力を持ち、それがムラクラスから、後の間切規模の五つのグループにまとまり、さらに北山(今帰仁グスク)にまとまっていく過程を想定しています。北山というクニの成立過程、そして北山王が君臨した時代に形成されたのが何だろうか。それが神アサギの分布と重なる部分があり、北山文化を見ていくキーワードになっています。

殿(トゥン)には火の神が祀られている。そういう意味では、住居地だと考えています。祭祀空間であるけれども、山原でもトゥンチとか、トゥンとかというのがあります。ヌンドゥルチ(ノロ殿内)もそうですが、火の神を祀っています。この典型的なのが今帰仁グスク内の火の神です。1665年に今帰仁グスクから今帰仁按司(北山監守)一族が首里に引き上げます。そこに火の神を祭る殿(トゥン)設けていきます。『琉球国由来記』に出てくるような火の神を設けていく習俗を持っている。それは現在でもです。各グスクの中の火の神の祠は、各グスクの按司が首里に集居させられた時の火の神だとみています。もともとそこに住んでいた自分たちの居住地、その場所に拝みにいくという観念があるように思います。火の神が祀られているところは、かつての住居跡かなと。

伊計島、そのあたりに行くと結構立派な屋敷の中にアサギや殿が『琉球国由来記』に出てきます。それからすると、どちらも祭祀空間であるけれども、山原の神アサギとは性格は違うのではないかと思います。それ以上のことは。中南部の殿について、まだ十分な調査をしていませんので。まだ何とも言いえないですね。

 もう一つは、神観念のことでが、ノロが行っている御獄を中心とした祭祀や竜宮の神とか、いろいろ神があると思います。ノロが関わる神行事は公のものだと位置づけています。というのは、ムラ・シマの祭祀に関わるノロを中心とした神人の祭祀はムラ・シマという公のもの。ムラ・シマの祭祀を行う神人は公務員という言い方をするのはそのためです。御獄に関わる、その中にもちろん派生的に竜宮とか、ニライカナイという神観念があると思いますが、御獄そしてイベでの祭祀を行う神人たち。どのような神観念を持っているかというと、例えば今帰仁グスクの中にある御嶽のイビがあります。『琉球国由来記』で神名をテンチヂアマチヂと名付けています。その神観念は天から降りてくる神観念があると思います。それは御嶽の中のイビを高い所に向けて置いたり、岩に向かっていたりします。御嶽内の木は切ってはいけないなど、天から降りてくる神観念を持っています。それと同時に五穀豊穣、村の繁盛、航海安全などを祈っています。天から降りてくるという観念がある。そういう意味では、イビの周辺、御獄の中の木は切ってはいけないと。これは神人たちの話を聞くと、天から降りてくるはしごになってくると。それでイビのところまで神人たちが行って、神人どもを引き連れてアサギまで連れていくという。その役割が神人の役割だと思っているのですね。そういう意味では、御獄にかかわる祭祀についていえば天から降臨してくる神観念があるように思います。ただし、奄美の祭祀をみると海の方からやってくる神観念がみられます。

羽地地域の真喜屋の御嶽のイビは高い所にあります。そのイビがどこに向かっているかというと、集落の方からイビヌメー(イビの前)があり、さらに御嶽の上場部にいくとイビがあります。イビに行ったら、どこに向っているのだろうかと考えてしまします。真喜屋あたりのイビの向いている方向は、どうも北の方に向いている感じなのですね。そこから先についての議論はできません。というのは御嶽を中心とした祭祀は公だと。つまり祈りの中心は五穀豊穣、村の繁盛、そして航海安全であり、それは租税をとる、とられる関係で考えているからです。

御嶽(ウタキ)(御嶽)(御嶽)に一般の人達は入っていけない。一般の人達は神アサギの方で待っていて、神人が御嶽(ウタキ)(御嶽)(御嶽)のイビから戻ってくると合流して祭祀を行っています。今帰仁グスクの場合も、今のアサギはグスクの中にはありませんが、大正時代まで、鎌倉芳太郎のノートの中にもグスクの中のアサギ、『琉球国由来記』にも出てくるアサギがあります。ムラの人達はグスクの内の神アサギ跡に集まり、神人と合流します。神人達が七回、今の上の御獄、下の御獄という祭祀空間を回って、神アサギ跡にやってきます。

今帰仁グスクでの今帰仁ノロが関わるグスクの御嶽(ウタキ)(御嶽)(御嶽)(イベ)に於ける神観念について言うならば、神は天から降りてくる、その棺念が強いです。城内に二つのイビがあり、神は天から降りてくる観念です。その場所はテンチヂアマチヂの名称で呼ばれています。テンは天、チヂは頂き、アマも天、チヂは頂上部、つまりグスクの天に近い頂上部に神降りてきて神人が神を引き移らせて神アサギで待機している村人とつなぐ役目が神人。

 経済的なものと国の統治と祭祀との関係に、手をかけたばかりですが、やっと見えてきたかなという段階です。これは今日の資料の後ろの方に家禄や作得について触れています。これは言ってみれば、作物をつくる作得として、地頭地、脇地頭地とか、ヌル地があります。按司あたり、あるいは総地頭職は首里王府から家禄をもらい領地の間切から物成(租税)や作得(収入)があります。同じく脇地頭は村(ムラ)から物成と作得が配分されます。脇地頭の場合には、領地の村に行って、そこで耕しているのもいれば、あるいは村の人たちに耕作させて、そこで七対三の割合で賜ります。その辺は村によって比率が違っているようです。そこらあたりの研究は、まだまだのようです。その視点での研究は若い人たちが研究してくれたらと思います。大胆な言い方をしますがノロが行う祭祀は公務であり、村人と首里王府との関係を税金をとる、とられる関係で見ていく。各村で行っている祭祀は、税を介して首里王府が末端まで統治する手段であるとの視点でとらえると思いしろい。これまで見えなかった祭祀の世界が見えてきます。その視点が祭祀の研究を深めていく手がかりになればとの提案でもあります。

もちろん村人達はとられっぱなしではなく祭祀をつくり、休息日(神遊び)を増やしていく。首里王府は神事には弱いようです。一方、自分達の按司や脇地頭が間切や村にやってきたら思う存分もてなしをします。それは按司や惣地頭などが地方にやってくるともてなすのは、子弟を首里奉公させる機会でもあるわけです。首里奉公できるということは間切役人のエリートコースに乗っかることでもあります。

首里に住んでいる自分たちの脇地頭や按司家でお祝いなどがあると大宜味間切あたりからはミカンやウコンなどが届けられるわけです。

お答えに十分にはなりませんけれども。

 

○コメンテータ 稲福みき子所員(総合文化学部教授)

 どうもありがとうございます。

 質問という形でのコメントで、御容赦いただきたいんですけれども、例えば仲松先生あたりは、そうですね、古層のムラあたりではやっぱり殿(トゥン)というのはさきに発生したと。神アシャギよりもさきに発生したということをおっしゃられているんですよね。今日のお話を伺っていると、どうも仲松説というのは、山原の実態から見ていくと合わない、もちろんあわないわけですね。むしろ宮城真治先生のとらえ方というのがどちらかというと仲原さんのとらえ方につながるような気はするんですね。そういう意味でも実態をきめ細かく、そういったムラ・シマの境界線の問題とかかわらせていくと、祭祀圏の実態というのとかかわらせていくと、どうもそこに祭祀だけではとらえられないムラ・シマの見え方がする。そういうふうなものを今回は学ばせていただいたかなと思います。細かい点については、それぞれ一つ一つの事例が一つの論文に発展していきそうだし、いろんなことが言えそうで、例えば経済の話も、もとここが集積場であったという側面が非常に見えるところ、そこの中でじゃあ資料とどんなふうに対応できるのかなと。そして今、できる限りの資料の中でそれが浮かび上がってくるものがあればいいなというふうな、そういった埋めていく作業がどういうふうに可能なのかというのがまた次の課題として面白いだろうなと思いますし、それぞれ何というんでしょうか、ノロ管轄が違う諸志の事例なども、あるいはまた間切圏内を越えてムラが統合した場合のものとか、知ってはいても細かいものが出てきていないという段階で、地道な作業がなされておられるなということを学ばせていただいたと思います。ありがとうございました。以上で、コメンテータの役割は終わらせていただきたいと思います。

 

○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 ありがとうございました。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 ちょっとだけ、ノロ管轄の件で、我部ノロ、我部村は屋我地島にある村の一つです。呉我は羽地大川の下流域、振慶名が羽地間切地域のほぼ中央部に、村移動がなされていますが我部ノロの管轄は移動前と変わらなかったです。海を越えていく、あるいは他のノロ管轄を飛び越えて移動しても変更がなされなかった。ほんと言えば振慶名や呉我村は仲尾ノロか伊佐川ノロの管轄に組み替えてもよさそうなものですが。海を越えて(危険があっても)でも祭祀を行いノロ管轄は手放さない理由があろう。神観念やそれまで行ってきたこともあろうが、手放すということはノロの給料が減るということになるわけです。海を越え、危険をおかしてでも手放ししません。

もう一つは、宜野座ノロですが、久志間切に組み込まれた古知屋村、今の松田ですが、古知屋村は久志間切に入るのですね。ところが宜野座ノロは久志間切の古知屋村の祭祀を行い、間切を超えてもノロ管轄の組み替えがなされなかったのです。そういう意味では、冷たい言い方だけれども、「給料が減るからだめだ」ということのとらえ方の方がはっきりします。これは明治になってからノロの奪い合いの事例がいくつか出てきます。裁判になりかけた事例もあります。明治になって廃藩置県以後ですが、社禄という形で、どこまで国が身分を保障しようかの問題が持ち上がってきます。ノロまで補償されることになります。すると三代前までは一族の誰がしがやっていたので、ノロはだれそれがやるべきだと連名で県に文書を提出した事例がいくつもあります。今帰仁村に三点の古文書があります。こう塩屋もそうなんだけれども、そういう意味では、三代前は自分だったので、これは取り返したいという形の姿が見えると。そういう意味では、明治36年以降もノロ地は処分されるけれども、小作人たちに所有権をあげると。ただ、そのかわり年金をもらうのですね。昭和13年までもらっています。これは国頭郡役所に行ってわざわざノロたちはお金をもらうことになるのですね。ところが昭和13年、戦争に入っていくと、もう金類はみんな削っていく時代になってくるので、もうそれは結構ですと。戦後になって、それが復活しないために、ごたごたがまた起きると。そういう意味では、今の経済的なもの、これももっとノロだけじゃなくて、神人たち含めて見ていくと神観念の部分と、もう一つは、この財政的なもの、それが保障されているからずっと。明治36年でなくなったけれども、100年たつけどまだ祭祀としては残ると、その姿は見える。だからそこは保障があれば2,000坪、3,000坪もらうことができれば、今でもノロはやっていただろうと思います。そこの部分の研究が深まればもっともっと見えてくるのではないかと思います。

 

○コメンテータ 稲福みき子所員(総合文化学部教授)

 宮城栄昌先生のノロの研究の中でもノロバーキーの話、恐ろしい話が結構出てきます。これと関連して、私も先ほどの時代に戻ってきたんですけれども、瀬底などもすごい、現在に至るまで、この何というんでしょうか、公儀(クーギ)ノロと、この地元のシマノロとの対立というのもあります。それに経済的なものがかかわってきますよね。その公儀(クーギ)ノロの問題というのは、どんなふうに見えますか。その公儀(クーギ)ノロとシマノロの今の問題に引っ掛けて。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 そのあたり、公儀(クーギ)ノロと、一つはシマの人たちがネガミさんとか、神人と一緒にしている部分があるのですね。公儀(クーギ)ノロというのは、例えば古宇利の場合には今はマーグスクヤーがちょっとノロさん引き継ぐけれども、そこも裁判が起きたのですね。仲村渠家がノロ家なにですね。明治11年にノロ家、マーグスクヤーと仲村渠家ともう一件がノロの争いで、熊本で裁判に出かける。ところが途中で仲村渠家は本来のノロさんなので自分たちのものだと。そういう人たちは公儀(クーギ)ノロだからという言い方をするんですね。それで今度はノロさんをやっている分がそこから言わせれば、これは私的にはノロさんだって。多分継承のやり方の問題もあるかなと。そのあたりですね、瀬底もそうですけれども、中城ノロのことも表にできないのですね。今、ノロ家というのは資料から見て明らかですが継承の仕方が必ずしも期待するような法則に乗っかっていないのです。ところがお嫁さんに行って、お嫁さんに行ったところの娘が大体引き継ぐのですね。3代ぐらいになって永地の段階になったら3代前は自分たちだったね、跡取りがいるので返せと。ところが昭和30年になって諦めているのですね。この文書にも、もうそういう時代じゃないので、ただ自分たちの主張もとはそれが正しいのだけれども、もうそういう時代ではないので、そこは古文書にしっかり書き留めて認めましょうと収めています。公儀(クーギ)クーギノロと、私的なノロの件は誤解、継承の問題を含めてですね、資料から事例書が発表されないということもあるので、その辺の整理がうまくいっていないかなという…。

 

○コメンテータ 稲福みき子所員(総合文化学部教授)

 ありがとうございます。コメンテータだけで時間がかかってしまって、すみません。

 

○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 貴重なコメントありがとうございます。

 

○栄野川氏

 ありがとうございました。大変いいお話をお聞きしまして、私も素人なので本質的な質問じゃないんですが、お聞きしたいと思います。二番目におっしゃった御獄を中心にノロが天から降りてくるというお話、そして次に神アサギに行くというお話でしたが、水平的にあるニライカナイとの関係は海神祭、いわゆるウンジャミがありますが、その関係はどうなっているかということが一つです。

 それから火の神(ヒヌカン)があるのですが、私たち家でももちろん火の神(ヒヌカン)、香炉や火の神を置いて、真っ先に拝むところは、子供が生まれても何が起こっても真っ先に拝むところが火の神で、その次に仏壇にいくのですが、これは祭祀空間では火の神(ヒヌカン)と御獄、そして神アサギの関係ですね、上下関係があるのかどうかということが聞きたいです。

 それからちょっと小さなことで、細々したことになるのですが、勾玉ですね、全部お持ちなのですが、この前にちょっとした新聞のニュースでしたか、勾玉は離島まで全部お持ちなのですよね。それはどんなふうにして、恐らく本土から伝わってきたと思うのですが、この勾玉の経路といいますか、それがちょっとわからないのでお尋ねします。

 そして古いほどアシャギの柱が低くて、だんだん近代的になると高くなっていくわけですが、それは時代の変遷と思うんですが、そういうところ足の数を四本であるところもあるし、6本、そしてもっと多いところがあるように見受けたのですが、この足の数は全然こういう信仰とも関係ないのかどうか。そういうことだけ、まずはお尋ねしたいと思います。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 まず火の神(ヒヌカン)の方から申し上げると、火の神(ヒヌカン)は火を使って生活してきたことへの感謝だと考えています。火の神(ヒヌカン)への祈りは私達が生活をしていく上で欠かすことのできないものです。それが何百年も続けてきた。それに対することへの感謝という意味合いが強いのだと思っています。山原各地の空き家を見るときに火の神(ヒヌカン)が置かれています。特にムートゥ家や旧家の方にいくと、必ず火の神があります。そして位牌、火の神は生活に対する感謝、位牌は血のつながった先祖、さらにお墓につながってきます。位牌は血のつながりの自分達の先祖、お墓につながる先祖への祈りだと思います。これだけ足りず、歓関羽や七福神や福禄寿などが祀られています。また千手観音も祀っています。これは本土の方々に説明するのに非常に難しいです。千手観音について言えば、何宗だろうか。そんなこと関係ないように思います。曹洞宗なのか真言宗なのではなく助けてくれるものは何宗でもすがる。そのような民族ではないかと思います。

御獄に関わるものは、それはノロが関わる祭祀です。ノロが関わる祭祀は公の神行事だと考えています。もちろん、家に行くと自分の家の火の神(ヒヌカン)や位牌を拝みます。火の神(ヒヌカン)は生活に関わる神、血のつながった先祖への拝みは位牌。それは自分達の血のつながった先祖の神、それでは足りずに福禄寿や七福神や関羽などの図像を拝む。インドや中国、大和の神様も拝む。場合によっては天照大神なども拝んでいるところもあります。

千手観音で聞かれるのは、航海安全というとらえ方をしています。もちろん千手観音の誕生日に一門が集まって健康や繁栄を祈願していますが、船が沈没したとき、手が二本では二人しか救えない。千手あればみんな救えるという観念があります。船の時代ですので航海安全ということでしょう。そこではどんな宗教だろうかとは関係ないのです。沖縄の人たちが持っている、助けてくれるものは受け入れる民族ではないかと考えています。

血のつながった神様、人間が生活していく上で欠かすことのできないものへの感謝、ウフガー(産湧泉)というのがあって、子供が生まれたら最初に水をくんできて浴びせる。また元旦に水を汲んできてお茶湯をする。これは赤ん坊の健康や家族の健康を祈願しカーへの感謝だと考えています。そういう神観念だととらえています。

『琉球国由来記』(1713年)以降、その前から、祭祀というのは国家を統治するためのシステムや手段だとみています。そのシステムの中での祭祀だというとらえ方をしているのですね。逆にこれをはずしていくと、どうもアイヌとか、そういう意味での自然との対話の信仰かなというのがあるんですね。そういう意味では、一つは国という枠で祭祀を見ていくときには、さっきの経済的な観念でのもの、とらえ方、そういう意味でも最初にちょっと触れたように、神行事というのは神遊びと書くように、まさにこれはシマ人たちの休息日だというとらえ方なのですね。だからそういう意味では、火の神というのは今あっちこっち回っていく中では、さっきの根謝銘グスクの下の方のウドゥンニーズ、トゥンチニーズというのはまさに首里に住んでいるけれども、もともとそこに居住地があって、そこが首里に引き上げるという形での火の神の置き方だと思うのですね。ただ御獄の場合には火の神(ヒヌカン)はありません。石が一個置かれているようなものです。

 

○栄野川氏

 火の神は海上といったらおかしいですが、海からやってくるというわけではない。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 必ずしもそうではないと思いますね。

 

○栄野川氏

 これは…。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 家庭にもあれば、例えばグスクの中に火の神(ヒヌカン)はある場合があります。今帰仁グスクの監守は首里に引き上げたときに、そこに火の神を祀って、また帰ってくるというか、そこにお世話になりましたという観念が強いのです。今帰仁グスクの例をあますが、各地のグスクの中にある火の神(ヒヌカン)もそういう性格だと思います。首里に住んでいる総地頭や按司地頭がいます。今帰仁はたまたま明治まで同じ一族が継承してきました。火の神(ヒヌカン)、それ一つで済むのです。これは場所によっては按司地頭変わってくるので、すると古いメンバーたちも拝みに来るし、今度新しく按司になったメンバーの一族も火の神をつくって、これが幾つにも重なっているのがグスクの火の神、お参りに来るという。そうしてもその観念じゃないかなというとらえ方なのですね。ある家庭的には、これは特に旧家の血は、複数の人たちが拝みに来るんですね。例えばもうここはウェーキ(富農)や旧家というのは結構、みんな息子たちが学問をして戻らないのですね。ところがいろんな人たちが拝みに来るので、火の神を残して祠をつくっておかないと、首里のアパートに住んだとします。するとそこまで追いかけてくることになります。そういうこともあって、土地を残していくときには火の神(ヒヌカン)の祠をつくって自由に拝んでくださいと。そんな感じがあるのですね。火の神というのは生活していた土地や家に対して感謝のとらえ方をしています。

 それから勾玉、ニライカナイを先にいきますと、これは古宇利の場合にも神アサギの中で、神アサギの庭で7回まわる行事があります。そこを終わると神道を通りながら下の方のところでもシチャグワァーアサギと言っていますけれども、そこでも同じ回り方をする。最後、近いところで白田という岬の方で神人たちが東の方に向って神のウークイをするのですね。そこで仲松先生、いつも私に「仲原君どう思うか」と。はい、先生がおっしゃっているのは、お芝居じゃなくて、もとからニライカナイですねという形で。ただ神人たちの観念とすれば、父親と兄弟だと。そこに対するウークイだという観念を持っている。そういう意味では、研究していく立場の見方と神人たちが考えている神観念にずれが出があります。仲松先生はニライカナイ、その場所は海のかなたに送るという発想を持っているものですから、私にいつも質問をして来られました。ニライカナイにしましょうと。神人たちの観念と必ずしも一致するものではありあません。

 あと勾玉ですけれども、これはどこからきたかということでは、結論出ていません。一つは、おもろの中で、タマカワラは大和に買いに行くという歌が「おもろさうし」の中に何カ所か出ていると思います。ストレートに大和と言っていいかどうか。先ほど紹介した阿応理屋恵(オーレー)の勾玉ですが、考古のメンバーに見てもらったら、びっくりしていました。というのは、本土の考古学の中で、あの勾玉の中には三時代のものが混じっているという言い方をされているのです。勾玉ですね、今帰仁阿応理屋恵の勾玉が21個ありました。あの勾玉に縄文系の勾玉、弥生系の勾玉、そして古墳時代の勾玉が混じっていることにびっくりしたのですね。これはどう説明するかということなのですよ。これは盗掘だろうと。本土では勾玉というのはもう古墳時代で機能がストップするのですね。使われなくなってお寺や神社になどに祀られると。琉球はそれ以降に三山の時代、聞得大君を頂点とした祭祀組織ができます。そのときにノロの任命制度となり、辞令書を発給するのですね、そのときに勾玉と簪と衣装や辞令書などをセットで与えるのですね。そのときに勾玉を配る。琉球で遊ぶ(祭祀を行う)ためには勾玉が必要なのですね。これは本土では使わなくなったけど、沖縄では、琉球では売れる。そういうことから、三時代の勾玉が混じって琉球に売ったと、そういう風に考えると理解、説明がつくのではないか。時々そう思うけれども、あの石の翡翠は明らかに沖縄ではとれる石ではないですね。翡翠は琉球でとれる石ではないので、中国経由なのかどうかはよくわかりませんけれども、そういう意味では、勾玉というのも非常に不思議なもの。これがどのような経路ではいてきたかはっきりしていません。伝世品として、勾玉は単なる勾玉ではなくて、ある意味では身分証明でもあるわけです。ノロを継承するためにはこれを持っていかないと認めてくれないということでもあります。それで戦争でも位牌と同時に大事に大事にと。これをなくすということは、言ってみればノロの身分や権利を失うということでもあるのです。そのために大事にしてきたということですね。こもう一点あったような気がしますが忘れました。

 

○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 はい、どうぞ。

 

○        

 …なると思っていますけれども、というのも私みたいな…ものと、…低い次元で見ていますとね、2ページの『琉球国由来記』に見る神アサギの中で「1713年ごろの山原の村と神アサギを整理してみた」と書いてありますよね。この間切…、先ほど恩納間切は8、7はアサギがあるという意味なのでしょうか。アサギがないところもある。それとですね、本部間切も15のうち13ありますね。その5番目、天底村ありますよね。この番号が『琉球国由来記』にこういう番号がつけられているんでしょうか。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 この番号は便宜的なもので、天底はその時代、由来記の時代は本部間切なのですよ。1719年に今帰仁間切、今帰仁間切へ移動します。それは1719年です。

 

○        

 実は小学校三年のときに、三年だけ天底小学校を出まして、今帰仁の…、本部…疑問で、それで6ページに、今帰仁間切に…が載っていますね。そこの中で天底の要する…とか。いわゆる明治になってからということなのですね。古宇利もありますね。今帰仁のところに古宇利…今帰仁まで    20とあるものだから、18ムラのうち20もアサギがあるのかなと。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 この数字はその後に、明治の36年以前にムラが分かれたときには、あるいは明治の廃藩置県前に分かれたムラはアサギとか、祭祀はそのままつくっていくのですよ。新しくつくります。だから由来記以降に新しくムラができたのは結構あります。そのときに、神アサギつくったかどうか。作らなければならなかったのは何故なんですかね。今帰仁村の呉我山や越地や渡喜仁は昭和に入ってから分字していますが、もう神アサギつくる必要がなかったからです。祭祀はもとのムラに参加しています。近世、あるいは明治36年以前に分かれたムラや新設ムラは祭祀をつくってやる必要があったわけです。それは神人という役職があり祭祀日は休息日だったわけです。

これはちょうど今の市町村合併の議員が合併に反対する発想に近いのだと思いますね。今帰仁村で言うならば、名護市と合併したら今帰仁村から議員が三名当選するかどうかなのです。今19名います。ということは、300票以上とらないと市議員に当選しなですね。議員を19名から13名に削減されます。13名の内に入るとの計算があるからです。合併しないで13名の一人には入る可能性は高いからです。そういうこともあって、合併に議員さんたちは合併に反対している節があるのです。

 

湧川村は1738年にできたムラです。そこもノロをつくって神行事も行っているのですね。ということは、ノロという役職がそこで発生すると、神人の。そういう発想なのですね。だからそういう意味では、近世のムラ分かれとか、合併しても先ほどの振慶名とか、そうムラは動かなかった、もうかえないということですね。それから明治36年、1738年に湧川ムラを新設したときに、湧川ノロをつくり、神人をつくり祭祀を行っているわけです。そうしなければ公の休日がとれないということになります。祭祀は社会システムの中で税金とる、とられる関係で見ていくと、ノロという役職、神人という職業や役職をつくり、祭祀を行っていく。それはムラ社会の仕組みだろう考えています。

 

○        

 ……は、そういう感じ。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 非常によく似ています。例は悪いかもしれませんが。

        

 仲原先生、一つだけね、先ほどの質問ですが、神アサギの足、柱の数ですね。その数には意味ありますか。

 ○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 神アサギは最低四本の足が必要ですね、建物として。先ほど比地の古い写真を出しましたが、昭和30年代のアサギの柱が22本ぐらいあります。今は昭和30年代の数より少なくなっています。比地の場合は柱の数だけ神人がいるという考えがあります。柱の前に神人が座るという言い方をします。その時代は神人がこれだけの数、それぞれの柱の前は神人の席であるとの認識があります。

また、ウタでも七尋や八尋など大きい神アサギをつくって誇りにする。それはムラの勢いを示していると思います。神アサギの大きいことを唄にして自慢すると。そういう意味では、柱の数というのは単なる柱の数ではなくて、神人の数含めて、ムラがこれだけ大きいですよということを神アサギで見せていくというムラの勢いみたいなものが見えるのですね。そのあたりは隣のムラより大きい、あるいは繁盛していることを誇りにもつ。威張りたい。神アサギの柱の数や大きさを誇るのは、そのような意味合いがあるように多分あると思います。 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 先ほど湧川の方で神アサギの屋根が非常に低く、ひざまずいたら顔が隠れます。そういう意味では、神人イコール神様という観念もあるのかなと。外からは見せないということで、ただ今、お年寄りたちは曲がらないものですから、何センチにするかということで、あまり高くても格好悪いんですね。そのためにバランスをとって、安田のときは1m20cmあったのですね。ちょっと間延びするのですよ。ほかのところにいくと、伊是名・伊平屋辺にいくと70センチはもう、かがんでも入れないのですね。それで90センチのところもあって、そうすると1メートル10にあんばいした今の神人たちが、という形で、本来はもうおっしゃるとおり、もっと低い。顔が見えない形の…。もう一つは、最近の機能の中で、穀物の集積場所という言い方をしましたけれども、言ってみれば、馬とか、家畜が中の穀物をあさらないと。ほんとかどうかよくわかりませんが、そういう機能もあるのかなということです。 

○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 もうお一方、質問。どうぞ。

        

 仲原先生にちょっとお願いしたいのですが、私、国頭の謝敷出身なのですが、三ページの14番ですね。アサギと拝みですね、拝み(ウガミ)と御嶽(ウタキ)。この差はあるのですか。教えていただきたい。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 拝み(ウガミ)とかウガンジュ、呼び方は数種類あります。呼び方の差異はありますが、同じ場所を指しています。それでどの言い方を取ればいいのか迷うことがあります。ヤンバルを歩きながら、集落の後方や近くの森を見ます。その森が拝みの対象になっている場合は全体が御嶽(ウタキ)、中に入っていく入口あたりがイビノメー、そして森の頂上部にイビがあります。御嶽(ウタキ)をそういう形で見ていきます。国頭村の比地を例にあげますと、小玉森があります。森の中に神アサギがあります。その周辺の大木の根っこに香炉が置いてあります。そこが御嶽(ウタキ)のイビにあたる部分。御嶽(ウタキ)の中に複数のイビがありますね。そのイビは門中ごとにあり、その近くに集まり直会をしています。拝所があると。謝敷はどのムラでしたか。謝敷は神アサギですが、資料を確認ないと思い出しません。

謝敷は拝み(ウガミ)です。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 拝み(ウガミ)。御獄(ウタキ)という所。神社やお宮という字もあります。呼び方は幾つもあります。宮古、八重山に行くと、オン(御)やワー(御)という呼び方をしていますね。祭祀空間としての違いはないと思います。場所によってはグスクという呼び方もあります。祭祀空間としての御獄、そこで拝み(ウガミ)が行われ、拝みや祈りをする場所でありながらグスク呼び字もあります。

今帰仁グスクの側にあるクボウノ御獄は『琉球国由来記』(1713年)ではコバの嶽、地元ではクバンウガタキ、ウガーミ、公方の御嶽など呼び方がいくつもあります。

全体的な大きなとらえ方をすれば、同じような呼び方、場所によってですね…。これは前の事例のところでその話はしたのですが、基本的に同じ空間を指していると思います。

 

○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 もう6時を過ぎておりますが、あとお一方で、こういう御質問、どなたか、何でもよろしいですが、いらっしゃいますか。

 

○      

 よろしいですか。トゥン(殿)というのは、大体島尻に多いのですが、国頭にはないですか。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 恩納村で幾つかあったと思います。谷茶から北の方は金武間切だから国頭、北山圏に入っています。ただ1673年に恩納間切ができたときに読谷山からの村(ムラ)に出てくる、そこが2つ並行して出てくるのですね。そこの部分が非常に面白いです。言語的に谷茶あたりが境界線になっていますが…、恩納村には山原(ヤンバル)で見られるP音、中南部で見られるH音、その中間のF音が恩納村の南側で見られます。恩納村山田の方々が今帰仁に来たときに質問したことがあります。「山田の皆さんは山原(ヤンバル)ですか」と。山田の人たちは首を傾げたのですね。その通りなのですね。というのは、恩納間切ができる前は読谷山間切で、中山の支配下にありました。恩納間切になったときに今度は山原(ヤンバル)に入っていくわけです。それから300何余経っています。山田の人たちが手をあげようか、あげまいかと迷う、「その通りでいいですよ」と。歴史にも出てくる、ああ、それでいいのかということなので、その辺はちょうどあのあたりが殿(トゥン)と神アサギがダブってくる場所です。ただ、伊計とか、宮城とか、あのあたりは神アサギがしっかりと残っているので、どっちかというと、東海岸からずっと向こうの勝連文化圏じゃなくて、あのあたりまで北山が圏に入るのかなという印象があるのですね。あそこの島々は神アサギが意外と残っていますね。今日は神アサギを中心に話していませんが、シニグやウンジャミについても見ると視野が広がると思いますが、そこまで十分に検討しておりません。

 

○講師 仲原弘哲氏今帰仁村歴史文化センター館長)

 これはシマじゃなくて、御獄の中にあるナナムゥイのうちの御獄の一つ。

 

 そうです、そうです。例外もあるでしょうけれども、やっぱりトゥンというのは、名称というのは、やっぱり共通な意味を持っているだろうと思うのですよね。

 

○司会 崎浜 靖専任所員(総合文化学部講師)

 議論が盛り上がってまいりましたが、6時過ぎております。一端閉じまして、あとは私的に、仲原さん10分、15分程度ですが、質問をお受けします。一応これで第133回のシマ研究会終了します。