山原のムラ・シマ
   
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【本部町辺名地】2003年4月14日)

 本部町辺名地まで足を運んでみた。先日(3月27日)ノートを開いて辺名地を整理してみたのであるが、やはり足で確認して置きたいことがいくつかあった。と同時に10日に初カツオ漁があったとうし丸さんから教えられていたので豊漁祈願があったかもと。

 徳用丸の船主は大浜である(昭和22年に辺名地から分区)ので豊漁祈願などの祭祀は辺名地と一緒に行っている。神アサギの側に豊漁祈願の旗が一本立ててあった。辺名地公民館にいた書記さんに「最近ウガンがあったのですか」と聞いてみると、「初カツオの水揚げがあったのですよ。大浜の漁師さんが立てたのですよ」と(大雨のため画像に収めることができなかった)。

 「豊年祭はありますか?」と訪ねると「昔はあったといいますよ。今はやっていませんね。豊年祭の衣装が台風で飛ばされてしまったので、どこか名護?あたりでやっているとか・・・。川に流したという人もいるようです」と。「川に衣装を流したなら復活させんといけませんね。きっと、台風で吹き飛ばされたのでしょう」と半分冗談で答えておいた。

 神アサギの隣りの祠には麦が供えられていた。拝所の中には「本部按司・・・」の香炉(三基)、扇、火神、麦が供えられていた(以前は稲も)。神アサギの屋根裏には神酒(カシミキ)をつくる木の樽とポリバケツの容器が置かれていた。

 タキサン(御嶽)の側にある湧泉(カー)あり、そのカーも含めて御嶽としているのだろうか。カーに左縄(今はビニールの縄)が何回も張り巡らされている。毎年新しい縄を張っているのであろう。カーの前の香炉(ブロック)はイビとみたてている?

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 ▲本部町辺名地の神アサギ(雨の日)     ▲辺名地のタキサンの側のカー

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  ▲辺名地神アサギの側の拝所の内部    ▲供えらた扇と麦穂



2004年5月25日

 普段の休日とは異なった一日であった。語れば長くなるし、がっかりするので省略。多忙でありながら、ちょっとした時間、あるいは次の場所への移動の途中に行ってみる。やっぱり、来てよかったと。予定していた10万円が消えてもである。今回の「本部町辺名地をゆく」は10万円の原稿料だと値をつけたい。

 午後から今帰仁中で「平和を考える」をスライドでやる。山北l高校からも平和に関する展示についての依頼があったが、企画をしっかりやってもってきて欲しいと差し戻す。そうでないと「仲宗根先生の信念や思いが伝わりません」。

【本部町辺名地をゆく】
 辺名地は1665年以前は今帰仁間切の村の一つである。
『琉球国由来記』(1713年)に辺名地村のウタキとして西森(神名:コバヅカサノ御イベ)が登場している。また「年中祭祀」のところに神アシヤゲと根所火神(根神火神)がある。祭祀は瀬底ノロの管轄である。『沖縄島諸祭神祝女女類別表』(明治17年頃)には「辺名地村・大辺名地村二ヶ所村 三ヶ所内 赤平ラノ御嶽・神アサギ・御火神所」とある。ここに出てくる大辺名地村は明治36年に辺名地村に統合される。

 大辺名地村は祭祀や神アサギなどから辺名地村から分かれ、再び統合したようである。辺名地村の存在は万暦32年(1604)の辞令書に「へなちめさし」(辺名地目差)とあり、へなち村の存在をうかがわせる。

 辺名地公民館の周辺はプシマ(大島)と呼ばれ根所火神の祠・神アサギ・辺名地家などの拝所や旧家などがあり、かつて村(ムラ)の中心地であった。神アサギの後方にウタキへの遥拝所なのか、いくつか拝所がつくられている。

 辺名地の御嶽(ウタキ)はウタキサンと呼ばれ、何度が移動しようでタキサン・フルウガミ・ナカヌウタキなどが地名として残っている。タキサンへの入口に小さな広場があり「昭和六年建設」「寄進」と刻まれた燈籠?がある。
 
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  ▲集落の後方の森がタキサン(御嶽) ▲タキサンの中にあるイベ

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  ▲辺名地の神アサギ            ▲タキサン入口の燈籠?


【本部町健堅】2003.4.16(水)

 本部町健堅の帰り、渡久地のマチを通り市場でカツオを仕入れてきた。先日、うし丸さまが「本部町で初カツオがとれたんですね」と新聞の記事を見ながら、食べたそうに声をかけてきた。そう言われると・・・上司として願いをかなえてあげないわけにはいきません。それで天気も回復してきたので健堅の調査をしながら帰りに、渡久地のマチの魚屋さんに寄りカツオを仕入れてきました。三人の姫たちの今日の夕食はカツオの刺身でしょう。きっと。私も食べました。コリコリした歯ごたえと旬の味。美味しかった(カツオに睨まれ、シャッター切れませんでした)。

    (夕方、山形県酒田市から中学生がやってきた。先生方と
     委員会の職員との顔合わせ。そして明日、明後日の行程
     の確認、打ち合わせがありました。)

〔本部町健堅をゆく〕
 本部町健堅(けんけん)までいく。健堅の対岸に瀬底島がある。その間、約600mの海峡は瀬底二仲(シーク・タナカ)と呼んばれ、台風時などに船が風を避けるため停泊した場所でもある。現在は本部新港として伊江島、あるいは与論・沖永良部・奄美大島などを経由する大型汽船が寄稿する港でもある。健堅から対岸の瀬底島に瀬底大橋が架かっている。

 健堅の集落は東側の山手から西側の海岸への斜面に発達している。ムラウチ(一班)は下の写真の中腹に見えるブルーの建物(健堅分校の体育館の屋根)より上の方である。そこには御嶽・神アサギ・ムラヤー・旧家などがあり、ムラの発達は御嶽を背にして発達している。
 
 海岸沿いに浜崎とカキバルの集落が発達している。それらの集落は寄留人と大浜からの人たちで形成している。ムラウチ集落がもともとの健堅の人たちで他の集落は寄留人や、特にカキバルは大浜からの人たちが移り住んでいるという。

 山手にもう一つ集落がある。そこは健堅の石川(2班)で、イッチャファ(石川)と呼ばれる。集会所の近くに宇座茂神社があり、昭和5年月21日(旧7月26日)に改築されている。

 健堅は本部ノロ(崎本部)の管轄である(『琉球国由来記』(1713年)。本部ノロが祭祀を管轄していた村(ムラ)は崎本部村・健堅村の二つの村である。御嶽の中にイベがあり、『琉球国由来記』(1713年)に登場するイシャラ嶽のことか?神名はワカマツノ御イベとなっている。イベの祠の中に香炉があり、古い香炉に銘が彫られているが磨耗して判読ができない。コンクリートの香炉に「土地役場」(?)と記されている。


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  ▲瀬底大橋からみた健堅の集落    ▲健堅の御嶽(イシャラ嶽?)のイベ

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  ▲健堅の神アサギ(新しい場所)     ▲石垣の残る屋敷跡(ムラウチ集落)


【本部町具志堅】】2003.5.31(土)

 山原のあちこち(数ヶ所)の畑にたわわに実った黍(マージン)を見かけた。山原のは収穫までもう少し先かな。特に今帰仁村のは、収穫までまだ間がありそうだ(下の画像)。立ち寄った本部町渡久地の市場には黄色い粒のはいった八重山産(竹富)だというマージンが袋に入れて並べてあった。すでに収穫されているようだ。

 本部町具志堅や備瀬のは収穫が間近のようだ。具志堅のは穂に袋がかぶせてあり、台風対策だろうか。

 『西村外間筑登之親雲上農書』(道光18年:1838)に「黍の作り方」がある。現在の黍作りにあっているか心もとないが掲げておく(『日本農書全集』34:現代語訳の一部)。

    きびは12月から1月までに二尺間隔で穴を掘って撒き、水肥をかけて
    薄く覆土して押さえる。二、三寸になったころ二本立てにし、その他は
    間引いてしまう。同時にヘラ?で除草をし、間に小豆を播く。きびを刈り
    取ったら小豆を土の中へうない込んで、あつまいもを植えつける。

    雑穀のうちでも、きびは収量が多く、さつまいもの倍ほどの収入になる
    ものだから、手広く作るべきである。そうすれば、盆や正月に使う分も
    用意でき、余ったものを売れば家計がうるおうことはいうまでもない。     
   
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  ▲今帰仁村今泊ネクン原にある黍畑と実った黍(マージン)(2003.5.31)