【大宜味村謝名城】2003.1.21(火)

 ポカポカ陽気の中、名護市から大宜味村の謝名城(ジャナグスク)へ。謝名城は国頭地方(後の国頭間切と大宜味間切)の拠点となった根謝銘グスクのある字(アザ)で、大宜味村(ソン)の北側に位置しています。

 謝名城は明治36年に根謝銘村と一名代村と城村が合併、三つの村から一字づつとって謝名城村、明治41年に大宜味村字謝名城となります。合併し100年余になるが城・根謝銘・一名代と合併以前の集落形態をそのまま踏襲しています。足が向いたのは、北山の時代(三山時代)の名残りと国頭地方をまとめあげ、国頭地方の拠点となったグスクを肌で感じ取りたいというのが私の内側にあったのでしょう。謝名城の詳細は「謝名城をゆく」で紹介します。

 まずは一名代(テンナス)の集落を歩いてた。集落の前方に、かつての水田地帯が広がっていたことがすぐわかる。ここを訪れたのは、一名代あたりまで水没させてみたらどうだろうか。喜如嘉の集落前方のかつての水田地帯を陥没させてみる。入り江にしてみたとき、グスク時代のムラの展開が見えてくるのではないか。
 集落の前方を一名代川が流れている。中流域から喜如嘉の川になるのだろうか。川が字(アザ)の境界線になっているのかもしれない。川の右岸は一名代の人たちの土地に違いない。

 上山公園に登り、そこはムラの人たちのゲートボール場になっていた。ゲームをする人の姿はなかった。寒い冬のせいだろうか。上山農村公園は昭和52年に整備されたようだ。集落の上の方から降りてみた。細い急な坂道は、老人のためだろうか小幅な階段にしてあった。空き家が目立った。正月間もないせいだろうか、庭などは草が刈られ、家主が帰って来たのだろう。斜面の階段を降りきったところにカーを見つけた。「あ、カー散歩は、放り投げてあるな。締めっくりをしなといけないな」と、変なところで反省させられてしまった。

 家の前や川の土手に花が生けてあるのが目についた。ちょうど、集落を降りきったところで耕運機で畑を耕していた一人の70歳くらいの方が、ちょうど手を休めていたので声をかけてみた。「あちこちに花が生けられていますが、あれはなんでしょうか?」「あー、あれか。昨日はあの世の正月ですよ。ミンサーと言って、昨日やったもんだよ」と教えてもらった。「あ、あ、そうか。昨日は十六日なんだ。後世の正月だったのですね」と、お礼を述べながら一人苦笑してしまった。「後生の正月だったのだ」自分自身に言い聞かせた。

 集落の前を流れる一筋の水路の前で「これ、名前ありますか?」「用水路と呼んでいます。いい水ですよ」と誇らしげにいい放った。その老人の一言で一名代(テンナス)の集落が好きになってしまった。「以前はみな田んぼだったのだが、砂糖キビになったが、割りにあわんからアタイグァーに野菜を植えているのですよ」と。少し離れた畑では老婦がインゲンマメの収穫をしていた。

 「この川の名前は何というのでしょうか?」「フプハガーというが、ティンナスガーと橋には書いてあるよ」と指差してくれた。その橋までいくと、確かに漢字で「一名代橋」、反対側に仮名で「てぃんなす橋」とあった。近くに丸い形をした分水を見つけた。上流部から水路を引いて橋のところで一名代の集落の方と、川を越えて喜如嘉方面へ流し込む水路への分水である。

 一名代から城(グスク)集落へと車で登り、根謝銘グスクと城集落、そこから降りて根謝銘集落へと回り、集落の中を歩いてみた。そこは「ムラ・シマをゆく」に譲ることにする。
    
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  ▲上山農村公園から一名代の集落を望む      ▲集落の前を通る水路

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 ▲二手に水を分ける分水        ▲集落内にあるカー


【大宜味村田港2003.2.13(木)

 2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表の記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介します。北山城主末裔については久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもあります。
 大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。

   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。

   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。・・・・」

とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。

 もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う(Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?の問い合わせあり)。


【大宜味村田港・屋古】2003.5.27(火)

 晴れると外に出かけるがの常というか、クセになっている。何度も行っているはずであるが、昨日は田港・屋古・塩屋、そして稲嶺の御嶽までいく。

 田港の御嶽の中の祠に21基の香炉がある。銘の刻銘されたのが数基あり「奉寄進」は読めるが年月日や寄進者名の判読が困難である。

 田港の御嶽は国指定の文化財である。御嶽の途中はアタイグヮー(小さな畑)である。今でもナスダー(苗代)と呼ばれ、一帯はかつて苗代や水田であったという。田港の御嶽から流れ出る水は、灌漑用水に利用している。石灰分が多いので飲み水には適さないのだという。

 トウモロコシやプチトマト(ミニトマト?)、キュウリ・ナスなどが実をつけている。カボチャは、まだ花をつけている状態であった。田港で生まれ、北大東島や関東などで仕事をしたという90歳の前田翁とユンタクすることができた。

 前田翁は一門で「今帰仁上り」の行事があるのか、戦前の仲宗根や今泊や今帰仁グスクのことなどよくご存知であった。塩屋から舟で屋我地に渡り、そこから運天へ。運天港で上陸して仲宗根へ行ったという。「仲宗根のことをプンジャー」、「旅館もありよった」などと今帰仁に詳しい。

 田港の集落に入っていくと、家と家の間の突き当たりにカー(湧泉)が二つ確認できた。一つはメーダガー、もう一つはハーナカジョーガーである。今では使われていないため、水が枯れている。ほとんど土砂で埋まっている。

 最近落成した新築の田港公民館があり、隣接してウンガミのときのハーリー(田印)が二艘置いてある。鍛冶屋の図像のある祠。図像は年々ほころびて小さくなる。プーチウガンが行われる限り、新しい図像に差し替えるにちがいない。同祠のフイゴと金床(カナカ)、それに金槌などが静かに置かれている。

 沖縄はほとんど鉄を産出しない。グスクが機能していた時代、鉄の多くは大和から輸入したであろう。鉄の移入は農耕の生産高をあげたことであろう。と同時に、まだゆるやかではあるがクニの統治や支配関係にも影響を及ぼしていったに違いない。そんな思いにふけての大宜味村田港ゆきであった。

 屋古と塩屋は改めて紹介する予定。

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  ▲大宜味村田港の御嶽の中のイビナー(お宮)の祠と内部にある香炉(21基)

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  ▲田港のナスダー(苗代)、今では小さな畑となっている。90歳になる前田翁

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    ▲鍛冶屋にまつわる図像と大きな箱はフイゴ、左側に金床





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