寡寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究   

                    もくじ:トップページ

                 
2023年5
                 
先月23年4月へ

・2021年1月 ・2021年2月 ・2021年3月 ・2021年4月 ・2021年5月 ・2021年6月
2021年7月 ・2021年8月 ・2021年9月 ・2021年10月 ・2021年11月 ・2021年12月
2020年6月 ・2020年1月

    

国頭村安田のシニグと辞令書
  ・(山原のノロドゥンチ参照 本部町公民館
加計呂麻島1  加計呂麻島2
沖永良部島の和泊のムラ  知名町のムラ 2003年4月伊平屋島
写真に見る今帰仁 ⑧  ・2008年祭祀調査 ・今帰仁のろ墓2
オナジャラ墓  ・土帝君(浜元)

北山・琉球・薩摩から沖永良部島】 「地域博物館が果たす役割」
本部町崎本部の墓調査
羽地の語義】 【羽地地域のムラ・シマ
徳之島と琉球】 久米島を大学の講座
第一監守時代】  羽地域のムラ・シマ



2023年5月30日(火

 昨日、グラビア原稿を印刷会社へ。数ページ残す。(一部紹介:兼次字民提供))さて、足踏みしている台風対策へ。上空からの写真は先日の消えた地名・風景の場所) 


▲平成11年兼次集落カネシパンタ上空より(平成11年)▲兼次校前のスク道沿いの並松(1950年)

 
 
▲記念(昭和12年11月27日)兼次青年倶楽部 
  ▲豊年祭の道ジュネー(1954年)


2023年5月28日(

 6月が近づくと仲宗根政善先生の「その人が亡くなると、その人がもっている言葉も消えてしまう。そおの土地(風景)がを壊し、失うと地名として遺ったにしろ、その地名(言葉)は消えたに等しい」が思い出す。仲宗根資料の中に、先生の生誕地の与那嶺の土地改良以前と最中の写真が残されていた(以下の写真)。そのことが私の脳裏に刻まれ、無意識にシャッターを押すようになっている。シャッターを切るのは筆記のノート代わりになっている。

 今帰仁村字与那嶺は仲宗根政善先生、作家の霜田正次氏(作家)、一字(アザ)向こうの兼次は島袋源一郎氏の生誕地である。その間に諸志があり、中城のろ殿内があり、私の地域研究や博物館づくり(後の歴史文化センター)の土台になった地である。その地を回ってきた。

 今帰仁村兼次の方が描いた地図がある。その地図に地名が記されている。その場所の風景消えてしまっている。絵図にナートチビ、プルバシ、石バシ、タンチリガ、中タンチリ、上のタンチリ、モー、スクザナート、モー、イムイ、ボザイモ―、イモイ、ナト通、ナハンズとある。昭和10年頃とある。玉城清栄氏(明治生)の絵図である。モーやムイはほとんど消えている。川筋は遺っているが、風景は様変わりである。いくつか調査しているが、古橋や眼鏡橋があったことは聞いているが、もう想像さえできない。

    
▲玉城清栄氏画(昭和10年頃の様子)   ▲消えた風景はハウス団地に変貌 ▲ナハガーラの流れは変わらず 

【仲宗根先生のファイルの写真】

仲宗根先生が産みだした今帰仁方言辞典の地  (与那嶺)

 アルバムの中に50枚近い写真がありました。それらの写真は仲宗根先生の方言研究の根底を流れる思想のように思われます。「その人が持っている言葉、その人が亡くなると消えてしまう」という内容の文章がありました。画像の風景はこの土地(風景)を壊し、失ってしまうと地名として遺ったにしろ、その地名(言葉)は消えたに等しい。(モノクロ写真は昭和49年以前か。カラー写真は昭和491月)

 そのような叫びのよう思いで、土地改良を目の前にしてシャッターを切ったのではなかったか。今回寄贈いただいた本や資料の中に写真アルバム(今帰仁の写真)は、この一冊のみである。私は、これらの写真を手に、与那嶺の地を訪ずねてみたが、上の四枚の風景は残念ながら全く消えていました。下の土地改良中の場所は確認することができます。それ以前の風景や地名は消えて・・・。

 


 

 

 
▲現在の風景

【ミーガー】(仲宗根政善原稿より:原稿用紙4枚)

 与那嶺にミーガーという水の涸れようになった古井戸がある。テーラ屋ガーやシヂマヌヤガーの出来たのは、私どもの小学校の頃であって、それまでは、部落民の多くはここに水汲み、水あびをした。静まりかえった夏の夜半などにも、時には桶の音が聞こえることがあった。さゝやかな清水が流れて下にはたんぼが出来ていて、青々とした田芋が生いそのかげには鮒が泳いでいた。今では隣二三軒の者が洗濯に行くぐらいで、飲水には使用していない。三十年四十年と側を通っているけれども一度も立寄って中をのぞいたこともなく、ただ心の中でいつも思い浮かべているだけである。
 
 ミーガーはその名称からして新しく出来た井戸にちがいない。フブシマガー(大島川)の近くにあった与那嶺の部落が、アガリンバーリへ、メンバーリへと発展するにつれ、部落民の水の需要をみたすために、あらたに掘られた泉であろう。山にも野にも木の生い茂った時代には水も豊富に流れていたにちがいない。

 ミーガーの後方の木立のそばに鍛冶や卯屋があった。瓦で葺いてはあったが、壁もぼろぼろに朽ち、柱ばかりが立って、ふだんは食はず芋の青黒いはっぱが柱の礎を蔽うていた。時たま鍛冶屋が廻ってきて仕事を始めると、このあたりはにわかに活気づき部落中のこわれた鍋や釜鍬鋤類がどっさり持ち運ばれて、朝から晩までトンチンカンとせわしかった。小学校の時には習った村のかじやなどは、この鍛冶屋があったために我々には興味深い教材であった。ふいごのここちよいひびき、炎の中にまったかにどろどろととけている鉄、鍛冶屋が花火を散らして金床(金敷)に金槌を打つ動作は、まるで芝居でも見ているようにたのしかった。私の隣りにカンジャーヤーという屋号の家があった。ハンゼークヤーという屋号がほかにもあった。この二つの屋号は同じ意味でありながら、かなりニューアンスを持ち、ハンジェークヤーは上品に聞こえた。そこのおじさんは毛深く色の黒い逞しい方であったが、もとはカンジャーヤーで仕事をしたらしく、床下にはまだ鍛冶屋道具がわずかばかり残っていた。今泊のクビリにも、兼次にもこういった鍛冶屋があって、一昔前まではどこの部落でも、鍛冶屋は繁昌し、部落の小さい工場であった。戦前仲宗根のサンタキに伊波カンジャーヤーが一軒だけ残っていた。
 
 私は二年前、与論に旅行した。野路を歩いていると、あかあかと夕日が西の海に沈んでいた。ふと島影が浮かんでいるのに気がついた。畑につくばっている老婆に「あれは何という島ですか」と尋ねると、伊平屋島だという。郷里今帰仁から、いつも見馴れた島だが、反対の方から眺めるとまるで形もちがって見える。島をふりかえりふりかえり茶花の部落へと歩いていると途中に日はとっぷり暮れてしまった。部落への入口にさしかかった頃、みちばたのみすぼらしい小屋のかべの隙間からあかあかと燃えさかる炎が見えた。立ち寄って見ると、一昔前今帰仁にあった鍛冶屋であった。まだ鍛冶屋が重要な役割を果たしつつある。神話や伝説の世界にはいったようで、哀感にみち、火の神秘な力が燃えさかっていた。







2023年5月27日(

 台風2号の影響で会議は順延。
 台風対策で「寡黙庵」の竹垣の一部修復へ。 


「おもろ」に謡われた沖永良部島 (2016年の原稿書き改めへ)

今帰仁グスクの石積みの様子が読まれたとみられるオモロがある。山北国の領土は沖繩本島の北部と離島を合わせた七間切、すなわち今帰仁・羽地・名護・国頭・金武の五間切と、離島の伊江島・伊平屋の二間切、さらに遠く与論島・永良部島・徳之島を含む広範な地域のものであった。もちろん、これら全域を支配下におさめるのには、かなりの歳月を要して次第にひろげられたものであった。

そのなかで永良部島は、『世の主由緒書』によると、山北王の第二 子、真松千代が派遣されて永良部世の主がなしと称したという。「世の主」とは城主の称で、「がなし」は尊敬の接尾語である。島の伝えでも、この真松千代を永良部島の最初の世の主としているが、そのことはオモロにも見られる。(鳥越憲三郎氏は永良部島と北山の歴史の関係を以下のように捉えている。(おもろは左側が本文表記)
 
  一ゑらぶ、世のぬしの、      一永良部世の主の
    おうね、はし、しょわちへ         御船、橋し御座して
    ゑらぶしま、なちゃる       永良部島、成したる
    又はなれ、世のぬしの     又離れ、世の主の

 1400年前後のことで、山北国の最後の王となった攀安知の時代とされるが、怕尼芝の時代とみるべきである。真松千代は怕尼芝の弟で第二子であったのであろう。そしてまた第三子が与論島の世の主として派遣されたと伝えているので、永良部島や与論島などが山北国の領土として確立したのはこのころとみてよい。そこで、これら北方の遠隔の離島にまで支配がおよんだのは、怕尼芝王の頃とみるべきである。

はじめ世の主は玉城(村)金之塔に館をかまえて住んだ。かれは大城(村)川内の百という者を連れて、与和の浜へ漁に行くことが多かった。ある日、百が海上から大城(村)をさして、あそこに城を築かれるとよいでしようと申し上げた。世の主もお気にめして、さっそく今帰仁からごらんまこはち(後蘭孫八)という者を呼び寄せて、築城を命ぜられ、三年を経て城が完成した。城は地名をとって大城と名づけられたが、今でも城址がのこり、島では古城地と呼んでいる。ところが、この後蘭孫八の築城に関したオモロが二つも見つかる。
  
  一ゑらぶ、たつ、あすた   一永良部、立つ吾兄達
   大ぐすく、げらへて       大城、嫌ひて
   げらへ、やり           嫌ひやり
   おもひぐゎの、御ため     思ひ子の御為
 又はなれ、たつ、あすた    又離れ、立つ吾兄達

文中の「思ひ子」とは、山北王の王子、すなわち真松千代をさしており、また「吾兄達」とは孫八の一行のことである。

かれらが世の主のために城を造り終わって、永良部島を出発するときに詠まれたオモロもある。さきのオモロには孫八の名が見えなかったが、同じ時につくられた左のオモロにはかれの名まえがでている。しかも、これは孫八みずからが詠んだものと思われる。(おもろは左側が本文表記)
   
   一ゑらぶ、まごはつが      一永良部、孫八が
     たまのきゃく、たかべて、    玉の客、高宣べて
    ひといぢょは、           干瀬出では
    すかま、うちに、はりやせ     すかま内に走り遣らせ
   又はなれ、まごはつ       又離れ、孫八 

 沖永良部島に世之主ロードがある。ユワヌ浜→中寿神社→皆川のシニグドー→大城のシニグドー→玉城のフバドー→ウファチヂ→世之主城跡(世之主神社)→世之主の墓→後蘭孫八の墓・ヌルバンドー→後蘭孫八の居城跡→タシキマタへの道筋がある。そのロードはシニグ道と捉えている。今では行なわれていないが、ムラのシニグドーでシニグ旗をかざして競い合ったという。それはシニグをもつ一族の島への入った道筋だと言えそう。シニグが分布する地域が、沖縄本島北部から与論島・沖永良部島に伝わるシニグ文化圏とするものである。その領域が三山の時代の北山の領域と重なる。ここでは扱わないが知名町にもシニグの伝承を根強く残している。

 ※現在「沖永良部」と使われているが、近世まで「おもろ」では「ゑらぶ」、それに漢字で「永良部」と
   表記される。
   
     (再考必要)


2023年5月26日(金)

 沖永良部島はハ怕尼芝(ハ二ジ)王の兄弟(次男)が派遣されたという。その怕尼芝(ハ二ジ)王の素性についてみる。怕尼芝(ハ二ジ)の語義

【山北王怕尼芝】

 山北王怕尼芝が進貢を開始した洪武十六年(1383)で、次の珉王、そして攀安知王の進貢永楽十三年(1415)までの三二年間までである。三山(山北・中山・南山)の交易の回数を『明実録』によると、中山が52回、山南が26回、そして山北は17回である(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』)。山北王17回のうち怕尼芝王が5回、珉王が1回、攀安知王が11回である。北山だけで渡航した進貢は5回である。山北の多くは中山と同じ年に渡航している。進貢が同時期なのは明国の国情によるのであろうが、山北は12月から4月にかけてである。当時の状況を『明史』に「北山は最も弱く、これ故朝貢もまた最も稀」だと記してある。北京に遷都したのは永楽十九年(1390)なので、それまでの目的地は南京である。

冊封関係を持つ山北王は怕尼芝・珉・攀安知と続くが、怕尼芝についての出自と珉との関係は全くわからない。『中山世譜』と『球陽』(洪武二九年条)に「山北王珉薨じ、其の子攀安知嗣辰し、封を朝に受け、以て遣使入貢に便す」とあり、珉と攀安知とは親子関係にある。

もちろん山北王は、他の二山同様中国皇帝による王の地位を認めてもらう冊封と貢物を献上し忠誠を示し、それに対して冠帯や衣服、紗・文綺・襲衣などを賜ることを最大の目的としている。それと同時に、各地のグスクから出土している中国製の陶磁器類を輸入する貿易関係の確立でもあった。今帰仁グスクの麓にトーシンダー(唐船田)やトーシングムイ(唐船小堀)などの地名があり、明国と交易した名残りを示すものなのか。

冊封体制の確立は、明国との主従関係もあるが、山北内部での支配関係を明確にするものである。山北王の冊封は山北のクニ的儀礼であり、貢物の硫黄や馬や方物を準備するのに各地の按司(世の主)を統括する必要がある。山北王は冊封や朝貢の名で国頭・羽地・名護・金武などの按司を支配関係に置き、山原全域を統治していく役割を果たしたとみてよい。

具体的な貢物に馬と硫黄鳥島で採掘した硫黄がある。その他に方物がある。その中身について具体的に記されていないが夏布(芭蕉布?)もその一つである。貢物とは別に貿易品の調達もあり、その取引で移入されたのが各グスクから出土する陶磁器類であろう。

今帰仁グスクの基壇と翼廊のある正殿の建物で、山北王が明国から賜った冠服をまとい衣冠制度による身分を示す衣服をまとった各地のグスクの按司達が儀式に参列している風景は、まさにクニの体裁が整い、身分制度による支配形態が髣髴する。

怕尼芝から開始した冊封も、永楽十三年(1416)攀安知王で終わりを告げた。『明実録』で三名の王の出現があり、三名の中では冊封の回数が多いのが攀安知王である。しかし中山や南山と比較すると少ない。そのことが国頭・羽地・名護などの按司が中山に組みした理由の一つであろう。北山王を中心としてクニの形をなしているものの、内部では内紛の兆しがあった。

さて、山原の五つのグスク関係について『明実録』で全く触れられていないし、それと琉球側の『中山世譜』や『球陽』などの文献でもそうである。そのため、グスクの立地や発掘あるいは表採されたグスク系土器や中国製の陶磁器などの遺物や堀切、現在見えるグスク内の祭祀と関わる御嶽やカー、神アサギなどを手がかりにみていく方法しかない。

伝承の域をでることはないが、例えば根謝銘グスクは北山系の人々が根謝銘グスクを頼りに逃げ延びていった。親川グスクは、羽地域を統括した按司の居城であったが、築城途中でやめて今帰仁グスクへ移った。名護グスクは中北山の時代、今帰仁世の主の次男が派遣され築城。名護按司を名乗るようになり、代々名護按司の居城だと伝えられる。

北山滅亡後に山原各地のグスクが機能を失ったわけではない。今帰仁グスクは首里から派遣された今帰仁按司が代々監守をつとめ1665年まで続く。ところが尚真王が各地の按司を首里に集居させたため按司地頭や火神を残すのみとなった。その名残が『琉球国由来記』(1713年)のグスクでの祭祀に按司や惣地頭が首里から来て祭祀へ参加する姿である。

 山原の各グスク間の関わりは、文献史料をはじめ発掘された遺構や遺物などの成果を持っても、いい伝えら伝承の域をでていない。グスクとグスクとの関係についての研究を深めていく必要がある。

 『明実録』に山北王が記されるのは洪武十六年(1383)からである。洪武十六年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。

 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。

 山北王怕尼芝は洪武十六年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。

 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。

 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割は担っていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数においても。

 山北王怕尼芝はハネジやパ二ジと発音されることから、東恩納寛淳はハ二ジ・パ二ジ按司ではないかと。その指摘に筆者も論じたことがある。はねぢ」(ハネヂ:羽地)の語義


2023年5月25日(木)

 名護市我部祖河は、私の沖縄の地域研究に大きな影響を受けた地です。民俗学者の宮城真治先生が数多くの調査や資料を残した地です。「宮城真治民俗調査ノート」の整理をしたことがあり、民俗記録を歴史史料に切りかえるきっかけになった出来事でもあった。ちょっと時間ができたので気分転換。 


名護市(旧羽地村)我部祖河
                      (平成25年10月19日)

 名護市の我部祖河です。我部祖河みていく場合、まず羽地間切(村:ソン)の一つの村(現在は区、アザ)であったことを頭に入れておく必要があります。現在の名護市は羽地村(間切)と名護町(間切)と久志村(間切)、戦後屋我地村、屋部村が創設されます。昭和45年(1970)に名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併し名護市となります。合併して40年余になりますが、歴史・文化を見て行く場合は、長い間切時代に蓄積されてきた歴史や文化が今に根強く引継がれています。名護市になって40年余たった現在、大きく、あるいは急激に変貌しつつある我部祖河の地から羽地間切域の一村から、その面影を拾っていきましょう。

昭和50年代、くまなく踏査した経験があります。理解しにくい、あるいはできなかった地域との記憶があります。先日下見で行ったのですが、やはり難しい地域(ムラ)でした。よく解らないことは、ムラを見る視点を変える必要がありそうだ。それは我部祖河のムラ・シマと異なった形態をなしているのでしょう。

大きく変貌したのは、一帯が水田地帯だったことです。また蔡温が大浦川を改修した頃、一帯は湿地帯で川の氾濫がたびたびあった所です。川筋の付け替えや湿地地帯の開拓が行われています。羽地間切の三大ウェーキ(源河 700俵 70町)・河部祖河(フシヌヤー 500俵 50町)・仲尾次(下の松田 300俵 30町)の一人が河部祖河村(フシヌヤー)にいました。我部祖河は民俗学者の宮城真治先生が多くの資料をのこされたムラでもあります。

これまでの視点では説明できなかった河部祖河をどう理解していけばいいのか、その視点を見つけることができそうです。どんなムラでしょうか。おもしろそう!

  平成25年10月19日(土)
       
  名護市我部祖河のレクチャー
        
      ①我部祖河川~金川(ハニガー)流域(羽地田圃地域)
     ②我部祖河のウタキ(上バーリ御嶽・ナカムイ)
     ③アサギ跡?高倉?の礎石/ウタキのイベ/左縄
     ④合祀されたお宮と舞台(
     ⑤ホ □□□原の印部石
     ⑥高倉のある家(県指定)(ナカジョー)
     ⑦サニサギドゥクルの祠
     ⑧ナハヌヤー(上間家)
     ⑨我部祖河ウェーキ(ウプヤー・フシヌヤー・宮城家)
     ⑩メーガージョウフェー(古我知集落から嵐山方面)
     ⑪寒水泉(ソージガー)


▲我部祖河の御嶽                       ▲我部祖河川、上流部は金川(ハニガー)


▲仲門家の高倉(県指定)                 ▲仲門家の屋敷の福木と石垣

 
▲ウタキ内にあった神アサギの礎石            ▲ウタキのイベの祠(左縄が張り巡らされている) 


▲火の神を合祀したお宮            ▲合祀された火神と香炉       ▲お宮の後にある印部石(ハル石)

 我部祖河ウェーキ(ウプヤー・フシヌヤー・宮城家)


ハネジターブックヮ(羽地田圃)           ▲我部祖河川(満潮時)


2023年5月24日(水)

 台風の向きが奄美へ。

 急遽、琉球国と永良部島の歴史の概要を届けることに。

・琉球三山の時代(仲北山の攻防)
  国頭、羽地、名護、伊波へ離散した一族

・離散した按司たち
・離散したハ二ジ(帕尼芝)、山北王となる。
・北山三王の系統図
   帕尼芝(ハ二ジ)―珉(ミン)―攀安知(ハンアンヂ)

  帕尼芝(ハ二ジ)はハ二ジ、パ二ジと発音されることから羽地(パ二ジ)でないか(東恩納寛惇氏)
  その帕尼芝(ハ二ジ)王の兄弟(次男)が永良部島へ(世の主)

・山北三王時代の明国との交易・東南アジアの国々
   永良部島への東南アジアの遺物の導入
・帕尼芝(ハ二ジ)と良部島と与論島
  永良部島に伝わる史話
   良部島派遣された真千代金(幼名)
    真千代金から1609年(薩摩の琉球侵攻)までの良部島の系統図?)

・攀安知(北山滅亡)と宝剣千代金丸と北谷菜切と和泊の喜美留の宝刀
 
・山北三王の時代と明国
・今帰仁グスクの発掘遺物と東南アジアの国々
  隆盛を極めた北山の貿易と永良部島

・北山は監守制度が置かれる。第一監守(尚忠―具志頭王子)
・良部島は独自の歴史
  首里王府の統治下となる
・「海東諸国紀」(琉球国之図)(1471年)にみる琉球の姿
  「恵羅武嶋」
・「世之主かなし由緒」に描かれたシニグ
・「おもろ」に謡われた「ゑらぶ」の地名と人物 

・オモロに謡われた永良部島
   一ゑらぶ、世のぬしの、     一永良部世の主の、
    おうね、はし、しょわちへ、        御船、橋し御座して
    ゑらぶしま、なちゃる       永良部島、成したる
   又はなれ、世のぬしの       又離れ、世の主の

一ゑらぶ、たつ、あすた、  一永良部、立つ吾兄達、
    大ぐすく、げらへて、    大城、嫌ひて
    げらへ、やり、        嫌ひやり
    おもひぐゎの、御ため    思ひ子の御為
   又はなれ、たつ、あすた   又離れ、立つ吾兄達


  一ゑらぶ、まごはつが、    一永良部、孫八が
    たまのきゃく、たかべて    玉の客、高宣べて
    ひといぢょは          干瀬出では
    すかま、うちに、はりやせ   すかま内に走り遣らせ
   又はなれ、まごはつ        又離れ、孫八、


・東南アジアや大和からの貿易品々(島に遺る遺物)

・「那覇の世」と永良部
  ・1500年代中央集権国家をなす(各地の按司が首里に集居)
   第二尚氏になって今帰仁グスクに第二監守を置く(七代縄祖まで)
  ・のろ制度をおく(奄美に「ゑらぶあおりやえ」を配置
  ・奄美に首里王府からノロや間切役人に辞令書を賜る。

・古琉球の辞令書
  奄美に遺る辞令書(永良部では辞令書は未発見)
    
①嘉靖八年十二月廿九日(1529年)
     笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書
       ・かさりまきり ・うすく 大やこ
②嘉靖□□年(年欠)
   瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書
    ・せとうち ひかまきり ・しよりの大やこ
    ・かさり ひかせと
③嘉靖二十七年十月廿八日(1548年)
   瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令
    ・せとうち ・にしままきり ・にし ・大やこ
    ・ひか ・しよりの大やこ
④嘉靖三十三年八月廿九日(1554年)
  喜界の志戸桶の大城大屋子職補任辞令書
   ・きゝや  ・しとおけまきり ・大くすく ・大やこ

  略

・奄美に遺るノロ辞令書

⑨隆慶三年正月五日(1569年)(伊波普猷氏)
  鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書
   しよりの御ミ事
     ききやのひかまきりの
     あてんのろは(ハ)
      もとののろのおとゝ
     一人ゑくかたるに
     たまわり申候
   しよりよりゑくかたるか
         方へまいる
     隆慶三年正月五日

⑱萬暦十一年正月廿七日(1599年)
  屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書
 しよりの御ミ事
  やけうちまきりの
  なからのろハ
    もとののろのめい
  一人つるに
  たまわり申候
しよりよりつるか方へまいる
 萬暦十一年正月廿七年

⑲萬暦十五年十月四日(1587年)
  名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書
  しよりの御ミ事
    なせまきりの
    たいくまのろハ
       もとののろのめい
    一人まくもに
    たまわり申候
  しよりよりまくもか方へまいる
  萬暦十五年十月四日

㉒萬暦二十八年正月廿四日(1600年)
  徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
 辞令書と一緒に簪を遺している。
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日
  
㉓萬暦三十年九月十日(1602年)
   瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書
    し(志)より(里)の御ミ事
    せとうちにしまきりの
    こしのろハ
    もとののろのうなり
   一人まかるいもいに
    たまわり申<候>
  萬暦三十年九月十日 (山田尚二氏論文)

㉓萬暦三十年九月十日(1602年)
   瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書
    し(志)より(里)の御ミ事
    せとうちにしまきりのこしのろハ
    もとののろのうなり
   一人まかるいもいに
    たまわり申<候>
  萬暦三十年九月十日 (山田尚二氏論文)

註(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より

・永良部島のノロ家の遺品
 ・畦布の森家
 ・勢理客
  (略)

・「琉球国之内」之内の地図(薩摩化への過渡期)
  「まきり」、後のムラ名の「ひらかな表記」、地名(琉球の名残を遺している)
   島の拝所、池、津など 
  『正保国絵図』(1644年頃)「永良部嶋」

・道の島の琉球的ものの禁止

 永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかった。

・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を琉球から請け
      ることを禁止する。(寛永十九年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖視するようになる。
  (亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に謁して辞令を貰っていたという)
・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁する。
・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
・「親見瀬日記」にみる永良部島の船持ちの貿易


2023年5月23日(火)

 パソコンを除くと、数件の日程の調整、グラビア原稿(画像)の締め切り、講演ポスターの確認など。今月いっぱいは、頭の中は混迷中です。悪しからず。
 
 台風が沖縄にむかっているようだ。沖永良部島の会議ができるか。帰れないのでは?
沖永良部島と与論島に古琉球(1609年以前)の辞令書が確認されていないが、ノロの遺品は数件で拝見することができる。徳之島や大島、喜界島ではノロや間切役人の辞令書が今でも遺っている。辞令書は遺っていない沖永良部島と与論島。ノロ家や旧家にノロの遺品があり、辞令書の発給があったのであろう。首里王府発給の辞令書は同時代の史料とみなすことができそう。それを同時代史料ととらえ、その時代からの祭祀、後の漢字表記の村名、そして古琉球のひら仮名表記の「おもろ」をその時代の史料としてお使えないか。今回訪ねる「ノロ墓」を訪ねる。薩摩化しているとは思うが。10年前のメモをとりだしてみる。

『のろ調査資料』(宮城栄昌・中山盛茂・富村真映)で、奄美のノロについて以下のように述べている

  カケロマ島では於斉、花富、伊子茂、武名、木磁部落にノロを残す。大島諸島のノロは、慶長14年諸島が薩摩領となった後も、その存在が認められ、就任に際しては首里に上って聞得大君を拝し、王府からの朱印の辞令を戴いた。薩摩がノロを認めたのは、歴史的に村落結合の中核となっていたノロ機能を利用して社会秩序の維持をはかり、貢租の円滑をはかるためであったが、しかし薩摩の専制的支配を強化するためには、血縁共同体を基盤とする琉球の支配形態を変える必要があった。そのため1623年(寛永元)28年(寛永5)薩摩は琉球王によるノロ任命を禁止した。
 それでも世襲ノロは存在し、代替り期における聞得大君拝謁が行われていたので、享保年間、その拝謁を禁止し、役地も取り上げた。ただし徳之島手々の深見家文書によると文化文政の頃も宅地を給したり、住家新築に際して労力や茅を供することが行われているから、役地取上げのことはノロ田・ノロ畠につい てであったであろう。

 ・・・関係書類や衣装を隠匿して、祭祀をつづけるものがいた。
   明治2年の廃仏廃仏棄釈の折には徹底的に弾圧され、明治4年には安政以後も残っていたノロ殿内
  (とねや、神木屋)やお願所の破壊、神衣装珠玉の破却などがあり、ノロ司宰の神事も廃された。沖永
  良部島では神官鎌田常助がこれを指導したためにシヌグ祭も廃されたが、鎌田は与論島について同じ圧迫を加えている。それどほの圧迫にもかかわらず奄美大島・徳之島には隠れノロがいたようであるが、永良部島と与論島は全滅した。


【南島雑話】(名越左源太)

 慶長18年(1613)、始めて法元仁衛門を以て大島代官職被仰付、年貢を収、島民を皆土人に準じ、諸事頭取者を一等揚て下士に準じ、頭長は大親を以て長とす。其次与人とす。大島に始めて法令を建てることは、元和九年癸亥(1623)悉被定、同十年の二月十八日(嘉永元年此年改元)法令之帖に、冠簪衣服楷品を本琉球に受ける事を禁制す。
 此時より能呂久米年々印紙を本琉球官僚に請ることを止らる故に、寛永十九年(1642)迄之免官印を伝て今其三四枚を蔵め伝う。大熊村安加那納置書付なり。大熊村にて富統より内々にて、能呂久米安加那本書押付に為写す間、本書の儘也。本書唐紙也。文面如此かな書也。始と終に朱印、首里之印と云文あり。首里の里の子寮より出ものにて候由。上包の紙の上に里之子寮と有之候。

【神 事】
 能呂久米、祝主神之祭惣名女子迄也。男子あずからず。能呂久米の中に役名あり、船頭と云。那留古国より神、毎年ニ月初の壬に渡来す。是を御迎祭と云。
 同四月之壬の七ツメに帰り去る、是を御送祭と云。
 大神祭、島の山神海神を祭る。
 御印加那之能呂久米は頭にて、島中に雨人あり。真須知、須多共に此支配也。享保以前は、能呂久米一世一代一度ヅツ本琉球にいたり、国主に御目見あり。免許の御印を頂戴して在所に帰る。尤此免文は首里の里の子より出、里之子寮の支配の者也。海頭は御印加奈之よりは下官なり。然共国主免許文は里之子よりいだす。寛永七年(1630)戌五月代官新納用之進禁止す。
 ・・・・・・能呂久米二流に分る。大和浜より屋喜内、西東方迄は真須知組と云、名瀬より笠利までは須多組と云。・・・・・・・
【死葬】能呂久米葬式の法
 始死る者を穴蔵に入処、是をとうふろと云。今笠利間切の宇宿村、又同間切手花部村にも有之。島中所々にとふろあり。桶共に納め置く。とふろの奥の方、南京焼の蓋のある壺、幾所にも並有之、又石櫃に納るもあり。昔は島中なべて如此なりしを、今は大和風に習いて土葬なり。・・・・・

(工事中)

【辞令書等古文書調査報告書】(沖縄県教育委員会:昭和53年発行)
 ・鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶14:1569年)(喜界島)
 ・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)(奄美大島)
 ・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15:1587年)(奄美大島)
 ・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)
 ・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)

 以下の二枚の辞令は『かけろまの民俗』で須子茂のノロへの辞令として扱っている。ノロへの辞令ではないのではないかと見ていたが、ノロ辞令書とみてよさそうである。これらの辞令書はノロ家が所蔵しているようである。ノロ家の男方は知行を受ける役人を勤めている例がいくつもある。例えば今帰仁間切の「くしかわのろ」(3枚の内ノロ辞令は1枚)や今帰仁間切の中城のろ(9枚のうち2枚がノロ辞令で他は男方の役人)など。のろへの辞令の場合は多くは「・・・・のろの」とあるが、「ねたち」と「たる」など名前の場合もある。「ねたち」はすこものくちのうなり(妹)、あかひとうかの子へ引継なので、ノロ引継による知行安堵である。それを勘案するとノロへの辞令書とみてよさそうである。阿田のろ職補任辞令書(1569年)が沖縄本島も含めても、今のところ一番古い。

・瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2:1574年)(奄美・加計呂麻島)
・瀬戸内西間切の巣古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2:1574年)(奄美・加計呂麻島)

鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶3:1569年)(喜界島)
  しよりの御ミ事
     ききやのひかまきりの
     あてんのろは
       もとののろのおとと
     一人ゑくかたるか
          方へまいる
    隆慶三年正月五日

・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)
  しよりの御ミ事
     やけうちまきりの
     なからのろハ
      もとののろのめい
     一人つるに
     たまわり申候
  しよりよりつるか方へまいる
  万暦十一年正月廿七日



2023年5月21日(

  


 ボウラン(棒欄)を字の区長さんからいただき植え(さし)つける。先月植えたのが二輪咲いている。オオゴマダラ(蝶)がホウライカガミ(食草)にやってくる。

 奄美のノロ辞令書とノロ家の遺品を通して古琉球の時代を歴史が描けないか。









2023年5月20日(


 来月、川田の根謝銘家について講演するので、ネジャンヤ―と関わる根謝銘グスクのおさらい。それと、三山統一後の琉球と沖永良部島との關係。

【根謝銘(ウイ)グスクと関わる出来事】(歴史)

 ・大宜味村謝名城にある。
 ・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
 ・標高100mの所に位置する。
 ・14~15世紀頃の筑城で大型のグスク
 ・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
 ・ウイグスク内に大グスク(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
 ・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
 ・貝塚も確認されている。
 ・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
     (国頭按司の居城か。「国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
     (国頭間切の拠点は根謝銘(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城か)
 ・1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)とあり
     首里居住か。
 ・1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
 ・1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の国頭大くもい
     
は首里に居住か。
 ・根謝銘(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
     (1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし)
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
     (その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切
     分割以前(その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
 ・旧暦7月に海神祭が行われる。
 ・按司墓あり
 ・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)
 ・『絵図郷村帳』(1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
 ・『琉球国高究帳』に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
 ・屋嘉比川の下流右岸に国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
 ・1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
   田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、さらに大宜味へ施設。
 ・1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
 ・1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
 ・根路銘(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方の
  火神が重なっても問題なし。(国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にある
   ので、間切分割後の国頭按司は国頭間切内へ)
 ・1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
 ・1713年『琉球国由来記』に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村・親田村・屋
      嘉比村・見里村」がある。
 ・1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。
    (1736~95年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
 ・1732年(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
 ・明治36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
 ・明治36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
 ・明治41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。
     これまでの村(ムラ)は字(アザ)となる。
 ・1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。

※根謝銘グスク内の御嶽(イビ?)の名称は『琉球国由来記』(1713年)とでは混乱しているようである。
  ・中城之嶽(神名:大ツカサ)(見里村・屋嘉比ノロ管轄)・・・大城の嶽(田嘉里:屋嘉比ノロ)
   (当時国頭間切)
  ・小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)(城村・城ノロ管轄)・・・中城の嶽(謝名城:城ノロ)(当時大宜味間切)

http://rekibun.jp/0911gazou/201065ogi05.jpg
 http://rekibun.jp/0911gazou/201065ogi07.jpg http://rekibun.jp/0911gazou/201065ogi02.jpg
屋嘉比港からみたウイグスク  ウイグスクから見た屋嘉比港    グスク内にある神アサギ


2023年5月18日(木)
 これから沖永良部島と琉球・北山のことへ向かう。過去のメモからシニグの波及から歴史を描いていく。まずは沖縄本島に分布するシニグ部分(海神祭・ウプユミ・ウシデークからシニグ部分(流し)を取り出し、それと沖永良部島のシニグを対峙しながら(うまくいくか?)。沖永良部島に遺るシニグ旗は、山原の道ジュネーの旗頭か。

 与論島ではサークラごと、沖永良部島では島中で、山原では集落ごとに行われている。旗頭にシニグの類似が見られる。



▲沖永良部島のシニグ旗                  ▲永良部島(畦布)のシニグ旗(森家)
         
              
屋外, 人, 子供, 道路 が含まれている画像

自動的に生成された説明 屋外, 道路, ストリート, 座る が含まれている画像

自動的に生成された説明
▲シニグ舞いの日、移動(児童の舞いあり)▲御酒を置く小屋と旗頭         ▲今帰仁村諸志(豊年祭)の旗頭

2021年10月28日(木)メモより

 沖之永部島を往く(2001年10月21日~24日)(工事中)  今回の沖永良部島往きは『和泊町誌』の私の分担部分の確認である。まず「中北山」が怕尼芝(パ二ジ)滅ぼされた離散した一族の伝承(国頭(根謝銘・ういぐすく)、名護グスク、石川の伊波グスクの伝承、中北山の各地に離散した一族の伝承、そして怕尼芝の弟(二男)と三男の歴史伝承を見ていく必要があるのではないか。その時代と与論島・沖永良部島。その時の山北三王(ハニジ・ミン・ハンアンヂ)の明国との交易記録がある。その時代の山北は隆盛を極めた時代で、明国・朝鮮、東南アジア(ベトナム・タイなど)と貿易を行っている(明国への貢物の品々)。その時代は次男・三男を派遣していて北山の影響は大である。

 1416年ハンアンジが滅ぶと、その後は中山との関わりとなる。その時のことを「和睦」なのか討伐なのか。『世乃主由緒』(平安統記録)の「折柄中山より和睦の使船数艘渡海有之候由」とあり、その後は北山ではなく中山の統治である。その区切りとなり、中山の中央集権国家の統治下(1500年代)に置かれることになる。それから1609年までの薩摩軍の琉球侵攻までの時代である。

 その時代と関わる史料に、首里王府が奄美の役人やノロへの辞令の発給、ノロ辞令とカブ型の簪と勾玉(玉ガーラ)は辞令の発給とセットとみている。神衣装や御玉貫や鳩目銭など引き出物や祝儀として賜っているので、時代は後まで続き、琉球だけでなく奄美でも近世まで続く。それは琉球の儀礼が薩摩以降まで続くということになる。

奄美に辞令の発給がなくてもノロ制度が生き延びたことになる。それが喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島に遺っていることになる。今回扱う沖永良部島に辞令書はまだ確認できていないが、ノロ遺品の勾玉と簪(かぶ型)が遺っており、古琉球の時代を見ることができる。その時代は辞令書とノロ遺品と並行しながら、「おもろ」や「家文書」の地名や役職名、シ二グの行事の流れなど見ていくことができそう(実証的に)。そのことがあって知名町の上城と下城へ。島への女人の入り方はシ二グの本質をついているかもしれない。

天気が悪く、それと夏場の調査が多いので夕方七時頃まで踏査するが、今回は雨と夕暮れが早く時間切れ。会議が始まるまでの午前中、与和の浜、コンクリートの小屋後あり。砂糖の小屋とのこと。そこから古里へ。前日も皆川から通っているが気づかず。皆川の川が気になっていた。皆川でシニグドーとニャークバカとフークツクバカを見る。碗が十基近くあり、第一の印象は古琉球と薩摩以降(1609年)とさらに明治4年以降の重なりが見える。

勢理客のジッキョヌホーや住吉のクラガーと高倉へ。皆川にも水量の多い川がある。皆川の名のとおり水に恵まれた地である。以前に住吉ノロの遺品の調査をしたことがある(沖縄県の玉ガーラ調査)。福永家まで訪れる時間なし。そのころの娘さんはどうなったことか。そこからどう廻ったか不明。徳時、大津勘、屋子母へ。公民館に立ち寄ると区長さんの姿が見えたので、「浜番」について聞く。「自転車道路沿いにあるよ」とのこと。見つけました。琉球との関わりが説明してある。

 一日伸ばして、知名町を中心に回る。和泊町と知名町の道路は放射状に交差している印象。ちょっとずれると再び同じ道を通っている。世の神社で説明があるというので参加、そこに藤井氏と桂氏が来られ説明してくれた。伊地知君が世の主の歴史的な話をしてくれ、頭の整理ができた。世の主神社(内城)は二回目、そこから下り、谷間の人家のある場所まで。沢があり畑地は砂地である。田には向かない地質のようだ。大型の竹や芭蕉がある。そこからウファ―チヂの標識を目にしながら与之主の墓へ。何枚も画像に納める。内城へていた。

 そこらあたりから頭に描いていたストーリーが崩れてしまう。(別のことが入る) 立て直して、知名町よりの山手の集落へ。和泊町側に玉城・内城・大城がある。それと後蘭、後蘭孫八の居城跡と墓がある。おもろに謡われた人物である。そこにもヌルバンドーがある。天気が悪く、墓のある入口まで。その後、どう廻ったか記憶が交差しているが、伊延の西郷隆盛が到着した碑のたっている場所へ。 


2023年3月20日(月)メモ

 以下の報告は『和泊町誌』の琉球と沖永良部島との歴史を紐解こうとすることを目的としたものである。令和5年2月19日から23日の調査報告(知名町部分は略)

沖永良部島(和泊町)
 沖永良部島と琉球国との歴史を見ていく場合、沖永良部島と繋がる歴史と史料を準備する必要がある沖永良部島で北山王の三男や「世の主」、那覇の世など、各時代と沖永良部島の歴史を見てみたい。沖縄三山(北山・中山・南山)の時代、北山の怕尼芝・珉・攀安知の時代、三山統一後の中山と沖永良部島さらに三山統一後の中山と沖永良部島の時代(那覇の世)を史料と対峙させながらみていく。

 ハニジの出現は、中北山の時代の興亡があり、滅び怕尼芝が登場する。怕尼芝の出自は不明だが、怕尼芝はパニジやハニジと発音する羽地按司(世の主)ではないかという。仲北山が滅ぶと羽地出身の怕尼芝が北山王となり、その次男真松王子弟の真松千代だという。「沖永良部島世の主御由緒」386頁 

この時代は、「世の主」の時代で北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)で「明実録」の同時代史料をよみとる  その次の時代は、三山統一後の時代である。梵鐘に「琉球国王大世主」とあり「おほよぬし」とよむという。足利将軍が琉球国王への「りゅうきゅう国のよのぬしへ」の文書が五点あげてある。
 ①  応永廿一年(1414年)
 ② 永享八年(1436年)
 ③ 永享十一年(1439年)
 ④ 大永七年(1527年)
の文書(史料)から、沖永良部島に伝わる伝承を歴史的な流れにつげないか。

「おもろ」に「はにし」や「はにち」や古琉球の辞令書に「はにし」があり、怕尼芝の出身地を地名に表しているとみられる。

  

 三山統一後の時代は、第一尚氏時代(1429年)から第二監守時代と沖永良部島を史料で見ていく作業である。中山の尚徳王成化二年(1466 年)喜界島遠征、大島討伐が尚清王嘉靖十六年(1537年)、尚清王嘉靖年間、尚元王尚元王(隆慶五年(1571年)が認められる。この時代の史料に大島遠征ではないが「首里王之印」の辞令書が三十点ある。与論島と沖永良部島では辞令書の確認はされていないが、嘉靖八年十二月廿九日(1529年)笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(かさりまきり ・うすく 大やこ)が古く、新しいのが萬暦三十七年二月十一日(1609年)名瀬間切の西の里主職補任辞令書(なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさ・おきて)がある。十六世紀初め頃「三十三君」(祭祀の制度化)が置かれ、永良部阿応理恵の遺品昭和10年頃認されているので、おもろにのろ、三十のろとあり、のろ辞令の発給があり、沖永良部島ののろの辞令があったとみられる。
  ・1265年大島始めて琉球英祖に入貢
  ・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
  ・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
  ・大島七間切、喜界五間切
 ・229年(舜天三三)英祖生まれる。
 ・1243年(舜馬順煕元)長崎の渡宋者一行、琉球に漂着。
 ・1260年(英祖元)英祖即位
 ・1261年(英祖二)英祖、各地を巡り田地の境界をただす。極楽山に墓を築く。(浦添ようどれ)
 ・1264年(英祖五年)久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。
 ・1265年頃、僧禅鑑浦添に極楽寺を建立。
 ・1266年(英祖七年)大島諸島。中山に入貢、その頃泊に公館(泊御殿)と公倉築造る。
 ・1291年(英祖三二年)世祖(フビライ汗)瑠求を討つが失敗。
 ・1585年(尚永十三年)紋船(天龍寺桃庵、安谷屋宗春)薩摩を経て大阪に着く。
 ・1588年(尚永十六年)豊臣秀吉、島津を介して琉球を招論する。
 ・1590年(尚寧二年)宮古の上国船、朝鮮に漂着救助される。

【シニグの痕跡踏査
 シニグが行われていたシニグドーがどれだけ確認できるか拾ってみた(和泊町のみ)。
①西原村 シニグドー(集落内)シニグ祭の時神酒を造る篭石のウヮーマが祭られている。
②出花村 シニグド―に篭石ウヮーマ、ウミリ祭
③畦布村 シニグド― ヌルバンドー、数基のトゥ―ル墓あり、一基本に「貞享三年寅八月九日
       奉加修補忌代々為先祖也孝孫敬白 和之掟大工松細工牛川間」(1675年)とある。
④根折村
⑤玉城村 フバドー
⑥内城村 世之主の居城あり。
   永良部 立つ あす達 大ぐすく げらへて げらへ遺り 思ひ子の 御為 又 離れ立つ
   あす達 大ぐすく
⑦大城村 川内百が世の主に築城の場所を指したという。
   大城間切があった頃、中心になった村か。
   シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に夜籠りして祭祀を行っていた。
⑧皆川村 シニグドー(看板が消失)
   世の主が巡回の時、馬を下りて休憩したところがシニグドー、シニグ祭の時、大城・久志検・
   喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・百姓旗持った騎馬隊が集結したという。
⑨古里村 与和の浜あり。
   永良部世の主の選でおつある 御駄群れ 御駄群 世の主ぢよ 待ち居る 又 
   離れ世の主の 金鞍 掛けて 与和泊 降れて
   世の主の家来が自害(中寿神社)
⑩瀬名村 おかみ山あり。内喜名港、山原との交易
⑪永嶺村 ニャ―トゥ墓あり。
⑫後欄村 グラルマグハチの居城跡がある。「おもろさうし」に 
      「永良部まこはちが 玉のきやく崇べて ひといいよは すかま内に 走りやせ 又 
      離れまこはち 玉の」と謡われている。
   クラルマグハチが積み上げたるグスク 永良部三十ノロの遊び所」とある。
   城(グスク)内にマグハチの墓がある。近くにノロ墓があるという(私は未確認)


 和泊町の喜美留へ。「世乃主かなし由緒書」に登場する名刀のこと。北山伝承の北野菜切」と類似した刀の話。シニグドー(金毘羅神社一帯?)(そこは昨年案内いただいていた)へ。トゥールチヂやヒャーヤなど気になりながら畦布へ。


2023年5月17日(

 昨日まで多忙。原稿の校正に追われて。「寡黙庵」で寡黙にゴロゴロ。頭の切り替えのため、これから草刈りへ。

2004.4.25(記録(画像は略)

【上間家の赤墓
 本部町具志堅に上間家がある。そこの大上間大親亨翁は伊平屋嶋から今帰仁間切上間村(現在の本部町具志堅の一部)に移り住んだという。尚真王が今帰仁へ幸行のとき、御船が湊口に近づいたとき大風が吹き災難にあった。そのとき、上間大親嫡男と次男を召し連れて怒涛の中御船を湊口に引き入れ救った。

 尚真王は喜び御前に召されたところ、上間は父尚円王の実弟で君上とは骨肉の間柄で、叔父にあたり御褒美として今帰仁間切惣地頭職を仰せつかった。上間大親は純厚の方で惣地頭職を断り、上間村の地頭と比興喜屋の地を賜った。長男と次男はは首里へ召され取り立てたられた。三男の上間子は父の跡を継いで具志堅へ。一族の墓は今帰仁村字諸志の佐田浜にあり、伊平屋に向かって作ってある。赤墓と呼ばれ、拝領墓だという。
..
          ▲今帰仁村諸志の佐田浜にある赤墓
.
▲赤墓から伊平屋を望む(曇でみえません)      ▲佐田浜

 この墓は光緒三年(1875)に開けられたようだ。その記録があるので紹介する。

    光緒三年丙子十一月八日赤御墓御開御見分ニ付御六男西平里主
     子親雲上御女性衆御弐人〆御三人被成御下彼ノ御墓開御見分仕
    候処美ぎやを御弐勺具上ニ板二枚内壱枚ハ字面相見得不申壱枚
    ハ字面相見得候処板痛テ相付字面不正ノ字面相見得候分左之通
    書抜置申候

高ハ九寸程口差渡シ三寸程
廻弐尺弐寸三寸計       石ニ而下台臺
御□美きやを         石大小左巾三寸計下臺長□尺五寸程
高壱尺三寸程口差渡シ     上臺長壱尺計
三寸五分計
廻弐尺計

地面御書之等美きやをノ上ニ美ふさ□ニ而うしろへ置申候
板一枚長 壱尺上六寸巾三寸
字めんなし右同
御墓門長弐間御門与段?壱尺□
右同時御見分ニ付寸法付仕置申候□美
ぎやを之儀を唐調之等ニ而御□候□□父三良上間
七十四歳男子牛上間にや三十八歳ニ而御開
仕置申候

一 乾隆五十六年庚戌六月六日死去父親
一 同五十九年甲寅正月廿一日死去母親
一 道光二十五年巳巳十月十八日金城筑登之妻
一 咸豊五年巳卯十二月七日金城筑登之
    三良上間女子なへ
一 道光十八年寅十二月十日 同人
一 同二十一年寅五月廿日  妻
一 同二十八年戌申五月十九日満名親雲上
             満名親雲上二男
一 咸豊十二年酉三月廿一日参与良上間にや
   但明治廿年乙亥十二月廿八日右三良上間にや嫡子まつ上間宅へ御移置申候
一 同治二年癸亥正月廿五日加那上間
                 加な上間は父
一 光緒三年丁丑十二月廿五日三良上間
一 明治三十八年乙□三月五日上間権兵□
  七男堪次郎ハ清国盛京省奉天省興隆□北方高地に於テ戦死陸軍
   歩兵上等兵

 赤墓に葬られている人物の話は1500年代のことである(『球陽』)。この文書の書き出しでも触れているように尚円王の弟の上間大親とその子供達、そして尚真王を救助したことで取りたてられたている。光緒三年に開いたときの記録をみると、解読できた銘書は乾隆56年(1790)以降jである。字面が読めないのもあったようなので、それ以前の年代を考える必要がある。どこまでさかのぼることができるかである。

 伝えれた時代までさかのぼることは困難であるが、このように墓を開けたときの記録が残されていることは有難いことである。


2023年5月13日(

 平成23年12月10日に東村のムラ・シマ講座を開催している。来月、川田の根謝銘ヤ―について講話をする予定 【仲北山の時代(参照)。歴史的な話をするが、川田と平良の様子を思い浮かべながら。

                                     
 今回は東村です。東村には北から高江・宮城・川田・平良・慶佐次・有銘がある。今回は平良と川田を中心に訪ねることにします。沖縄本島西海岸に住んでいると、東海岸のムラ・シマを踏みこんで見ていくことはめったにない。前回は東海岸の久志でした。引き続き東海岸の平良と川田を訪れ、東海岸のムラ・シマの面白さを引き出していきましょう。

 東村は大正12年に久志村から分離・独立した村(ソン)です。分離以前の久志村(ソン)は南北68kmあり、13ヶ字から北側の5ヶ字で東村としました。翌年に一区を新設(高江)して6ヶ字となりました。現在の東村は名護間切の時代、大宜味間切時代、久志間切の時代、そして久志間切(村)から分れて東村となります。行政からすると複雑な歴史を歩んでいます。そのようなムラを祭祀と集落の成り立ちの視点で訪ねてみましょう。

  ・平良と川田のレクチャー
  ・9時40分 大宜味村塩屋を通り、東海岸の平良へ。
  ・平良の根神屋(ニガミヤー)


・平良ノロドゥンチと神アサギ
  ・川田の神アサギ
  ・川田のお宮(勝宮)・ウフガー・根謝銘ヤー
  ・北山一族の伝承をもつムラ
  ・タケダーラウタキ(ヌル屋敷・神アサギがあった場所の伝承あり)
  ・イェーラガマ(根謝銘屋門中一族の拝所)
  ・東村山と水の生活舘
 
 ▲平良の神アサギ(中学生達が迎えの車を待つ)   ▲川田の旧家の根謝銘ヤーとオミヤ(勝宮)


2023年5月12日(金)

 6月に「東村の川田」の北山系統の一族の話をすることに。結構複雑なストリーである。かみくだいてとの註文。もう歯がないのでかみくだけませんよ。正史と目される「中山世鑑」や「中山世譜」や「球陽」から外れて「野史」の世界である。現在執筆中の沖永良部島の「世の主」の話と軌を一つである。つまり、同時代に記された資料が皆目ない時代の話である。14世紀から15世紀にかけての歴史である。
 まだ、時間があるので周辺の歴史的事例や「おもろ」や古琉球の辞令を手がかりにしてみるか?

仲北山の時代】(大宜味村田港、東村川田)

仲北山の時代(参照)

●【久志川田屋号根謝銘屋(当主奥元氏)】(『沖縄県国頭郡志』)(現在:東村川田)

 同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして、本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に祭し一時名護城に移り(その妻は世富慶村カニクダ屋の女なりしという)、これより大宜味根謝銘に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イェーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に1500坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。

 川田は八戸中十数戸を除く外、皆同家の胤孫にして①根謝銘屋及びその分家なる②西の屋内(イリヌヤ)、③西の根屋、④東の殿内(東の比嘉)、⑤新門(ミージョー)、⑥鍛細工屋、⑦大川端(元ニーブ屋)の七煙より分れたり・・・。

 以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金カブの簪などの遺品があった。火災があって今あるのは類似の品。首里長浜氏の記録にあり。
  
  
 
  ▲北山系統の伝承をもつ根謝銘屋(川田)      ▲根謝銘屋の側にある勝之宮
   
【川田にある仲北山御次男思金の墓】

 東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男 思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。
 
 
   ▲「仲北山御次男思金」の墓         ▲東村指定のサキシマスオウの板根

  
・東村川田に北山盛衰にまつわる伝承あり。
・『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に「「旧家由緒」に口碑伝説、「長浜氏の記録」あり。
・始祖の墓として根謝銘屋一門が清明祭(シーミー)の時に拝む。


2023年5月11日(木)

 10年前、故仲宗根政善先生の寄贈資料展を開催したことがある。先生には個人的にお世話になっている。ちょうど、東京から沖縄に戻った時、義兄の紹介でキリ短短(現在のキリスト教大学)で講座を持っていた。隣に琉球大学(現首里城)があり、そこで言語センターの設立の準備があるので仲宗根先生の紹介でその研修会に参加し、各地の言語調査をしたことがある。仲宗根先生の今帰仁調査の時、運転手を引き受けたことが何度かあった。三、四大学の掛け持ちで昼食時間に移動していた頃があった。確か、10~12コマをこなしていた。(住居は名護市、高速は名護から石川までの開通。往復5時間の運転。週4日)その生活は平成元年3月で終わり。平成元年4月から今帰仁村教育委員会(歴史博物館建設準備室)へ。後の歴史文化センターである。平成7年に開館、初代館長として勤める。

 その間、数多くの調査と資料蒐集ができ、その一例が「仲宗根政善蔵書の寄贈」であった。蔵書の整理ばかりでなくノートなどに目を奪われることが度々。また、先生の出版された本の中に丁寧な書き改め。調査ノートのメモ。八重山での調査中、台風が接近。台風の接近でシマの方々は暇になると思っていたら逆だった。その様子をみた先生は「化石になった言葉、消えかかった言葉も大事だが、今使われている言葉の記録がもっと大事だ」と。そのことは『琉球語の美しさ』で「その方がなくなると、その言葉も消えてゆく」というようなことが記されている。そのことは「ひめゆり祈念資料館」の戦争体験者の記録で戦争のことは風化させてはならないことにつながっている。

    (工事中)

 記憶を呼び戻すために、展示や資料目録作成、ノートの記録を振り返ってみる。


故仲宗根政善先生資料展
仲宗根政善先生展示会    仲宗根政善先生資料目録2 


2023年5月10日(水)

 気分転換で本部町具志堅まで。平成10年頃から学生達の学芸員実習でお世話になった集落である。シニグやウシデークの調査でお世話になり、当時の区長さんやウプガーのデザインをされた方とお逢いしたくて。それと今年はシニグ、ウシデークは開催されるのかの確認で。(その方々はお留守でしたのでウプガー、上間家の前の神アサ―ギ跡、ウシデークの出発場所、神ハサ―ギまで。


  ▲フプガー(大川)      ▲上間・具志堅・真部の絆の象徴の木

 
▲具志堅の神ハサ―ギ(三村の統合)       ▲ハサギ内のタモト木

 
  ▲具志堅の上間家(ウイマヤ―)           ▲夏空の下、海が映える


2023年5月9日(火)

【古琉球の遺宝】2008年7月2日(水)(昭和10年頃)新聞記事より)

 昭和10年頃の新聞記事かと思います。数年前にいただいた記事。読みにくいので紹介しましょう(判読できない文字はで)。勾玉や水晶玉などへの、当時の評価がしれて興味深いです。また、今では失ってしまったものがあり、戦前どのような遺品があったのかしれ調査の手掛かりとなる。

 永良部阿応理屋恵は、三十三君の一人である。永良部阿応理屋が沖永良部島に居住していたのか。奄美大島には系統の異なる(琉球・大和)ノロの存在があり、永良部阿応理屋は大島に居住した琉球系統のノロをさしているのか。三十三君の下位のノロは奄美の島々(ノロ辞令や遺品)に散見する。

   古琉球の遺宝
     県外流失を免がれ 郷土参考館へ所蔵

 県教育会郷土参考館では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎氏秘蔵の永良部阿応理屋恵の曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本品は元小禄御殿の伝宝にかかり同家大宗尚維衡(尚真大王長男)より四世に当る大具志頭王子朝盛の室永良部阿応理屋恵職の佩用したものとみられている。これに関し教育会主事島袋源一郎氏は語る。
 此曲玉は永良部阿応理屋恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上昌娟の女で童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理屋恵なる神職は小録御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其後廃官になったものと思われる。しかし同家では尚維衡が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えている中で、この曲玉は前年大に送うて調査の結果何れも曲玉の石の原産は南支地方であろうとのことで、曲玉は三個で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一個が一聯になってをり、又と得がたき宝物であるが松原氏は数個所より高価をもって所望せらるるにもかかはらず、その県外流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派なものだ(写真は得難き曲玉)。


 


2023年5月8日(月)

伊平屋のシニグ
シニグの分布と山原(参照)

1、北山の領域(北山文化圏)の痕跡
2、シニグの分布と名称
3、祭祀(シニグ)の名称
4、祭祀の「流し」―流し―が意味するもの
5、祭祀に見られる凌ぐ(シニグ)流しと弓(ヌミ)を持った所作(猪狩)
6、祭祀での猪狩は豊漁・豊作・豊猪と同様

 過去にシニグについて講演をしたことがある。このシニグが与論島や沖之永良部島にも分布している(いた)痕跡を踏査することができる。北山文化圏や神アサギ圏、シニグ圏として括れるのではないかと追いかけてきた。沖永良部島にはシニグドーと呼ばれるポイントがあり、シニグロード(世の主ロード)としてあり、またシニグ旗が遺っている。沖縄本島ではシニグは海神祭やウプユミとして行われている祭祀に組み込まれているのではないか。『琉球国由来記』(1713年編集)で国頭村辺戸や奥、安田などではシニグと海神祭が隔年に行われている。与論島、沖永良部島にはシニグ部分が遺っているのではないか。


2023年5月7日(

 20年前に踏査した「神アサギ」を振り返る。

・国頭村の神アサギ(事例)

加計呂麻の神アサギ


 2004.11.24(水)に神アサギについて以下のように報告している。これまでの調査を踏まえ書き改めるが、「ムラ・シマ」を歴史的に見ていく上で歴史的変遷で祭祀は変化しにくい部分をになっている。特に『琉球国由来記』(1713年)から300年余ムラ・シマの中で継続されていること。そのことと、分布する領域を神アサギ文化圏と位置付けている所以である。

1.はじめに
2.神アサギの形態と分布
3.『琉球国由来記』(1713年)に見る神アサギ(アシアゲ)
4.祭祀と神人の位置付け
5.祭祀から見たムラ・シマ
6.おわりに

1.はじめに

 ここ何年か「山原のムラ・シマ」を歴史や祭祀、あるいは神アサギや御嶽や集落の呼称など様々なキーワードでみてきた。今回は神アサギと祭祀を中心にムラ・シマを見ていく。沖縄の歴史や文化を大きく三つの柱と見ることができる。一つは沖縄(琉球)の人たちが本質的に持っているもの。二つ目にグスクから発掘される大量の中国製の陶磁器類から中国のもの。そして三つ目は言葉や鉄など日本からのもの。神人、神人が関わる祭祀、そして御嶽は琉球の人たちが持っている本質的なものを知る手がかりになるものではないか。神アサギや祭祀を通してみていくことにする。

2.神アサギの形態と分布

イ.神アサギの形態
 神アサギは地域によってアシャギやハサギと呼んでいる。その呼称から「屋根に足をつけてあげる」ことに由来するとか、「神にご馳走(アシ)をあげる場所」だからという。久志の汀間や大浦や瀬嵩などの神アサギはかつて海浜や潮がくる場所にあったことから「足上げ」だと解しているようである。呼称が必ずしも機能を言い当ててない場合がある。

 神アサギが果たしている役目から見ると、まず祭祀空間であること。そのことは間違いなさそうである。たとえば、山原のグスクやウタキ内にある神アサギは祭祀空間としての施設である。集落内のアサギマーにある神アサギは、祭祀空間と穀物の集積場所である。久志の汀間などの例は、貢租の穀物などの運搬に便利な水辺の場所に設置したと見た方がよさそうである。

 神アサギが祭祀空間として見られるのは、例えば国頭村安波や根謝名グスクや親川クスク、名護グスク、そして大正時代まであった今帰仁グスクの中の神アサギ。グスク内の神アサギを貢租の集積する場所とするには大変な労力を必要とする。そういう神アサギは祭祀空間の場、集落の中心部や川辺や海岸に近い神アサギは祭祀空間でもあるが、穀物の集積場所としての利用もあったのでではなか。そのため「集積場所」と言われているのかもしれない。

ロ.神アサギの分布(分布図略)
 まず、『琉球国由来記』(1713年)から神アシアゲ(アサギ)の分布をみる。山原地域に神アサギ、中南部には殿(トゥン)が分布するのは何故か。そして恩納間切では神アサギと殿が共存している。恩納間切の谷茶村まで金武間切のうち、富着村以南は読谷山間切のうち。富着・山田・真栄田・塩屋に神アサギがある、あるいはかつてあったことが知れる。恩納間切の南側の村も北山の影響を受けている可能性が強い。

3.『琉球国由来記』(1713年)に見る神アサギ(アシアゲ)

 1713年頃の山原の村と神アサギを整理したみた。中には神アサギを持っていない村がある。そこは村の歴史を辿ることで見えてくる。その中の大宜味間切の11村の内神アサギがあるのは5となっているが、神アサギがなかったのではなく脱漏であることがわかる。

・恩納間切(8村中7) 
   ①恩納村 ②真栄田村 ③読谷山村(山田) ④富着村 ⑤瀬良垣村
   ⑥安富祖村 ⑦名嘉真村 ⑧前兼久村

・金武間切(6村のうち6)
   ①金武村 ②漢那村 ③惣慶村 ④宜野座村 ⑤伊芸村 ⑥屋嘉村

・久志間切(11村のうち10)
   ①久志村 ②辺野古村 ③古知屋村 ④瀬嵩村 ⑤汀間村 ⑥嘉陽村
   ⑦天仁屋村 ⑧有銘村 ⑨慶佐次村 ⑩大浦村 ⑪安部村 

・名護間切(11村のうち11)
   ①名護村 ②喜瀬村 ③幸喜村 ④許田村 ⑤数久田村 ⑥世冨慶村
   ⑦宮里村 ⑧屋部村 ⑨宇茂佐村 ⑩安和村 ⑪山入端村 

・本部間切(15村のうち13)
   ①伊野波村 ②具志川村 ③渡久地村 ④伊豆味村 ⑤天底村
   ⑥嘉津宇村 ⑦具志堅村 ⑧備瀬村 ⑨浦崎村 ⑩謝花村
   ⑪辺名地村 ⑫石嘉波  ⑬瀬底村 ⑭崎本部村 ⑮健堅村

・今帰仁間切(18村のうち20)(1はグスク内)
  ①今帰仁村 ②親泊村 ③志慶真村 ④兼次村 ⑤諸喜田村 
  ⑥与那嶺村 ⑦崎山村 ⑧中城村 ⑨平敷(識)村 ⑩謝名村 
  ⑪中(仲)宗根村 ⑫玉城村 ⑬岸本村 ⑭寒水村 ⑮勢理客村 
  ⑯上運天村 ⑰運天村 ⑱郡村

羽地間切(18村のうち18)
  ①瀬洲村 ②源河村 ③真喜屋村 ④中(仲)尾次村 ⑤川上村 
  ⑥中(仲)尾村 ⑦田井等村 ⑧伊指(佐)川村 ⑨我部祖河村 
  ⑩古我知村 ⑪振慶名村 ⑫呉我村 ⑬我部村 ⑭屋我村 
  ⑮饒辺名村 ⑯済井出村 ⑰谷田村 ⑱松田村

・大宜味間切(11村のうち5)
  ①城村 ②根謝銘村 ③喜如嘉村 ④大宜味村 ⑤田湊(港)村 
  ⑥塩屋村 ⑦津波村 ⑧平南村 ⑨平良村 ⑩屋古前田村 ⑪川田村

・国頭間切(16村のうち15)
  ①比地村 ②奥間村 ③浜村 ④親田村 ⑤屋嘉比村 ⑥見里村 
  ⑦辺土名村 ⑧与那村 ⑨辺戸村 ⑩安波村 ⑪安田村 ⑫宇良村 
  ⑬伊地村 ⑭謝敷村 ⑮佐手村 ⑯辺野喜村

国頭間切・大宜味間切・羽地間切・今帰仁間切・本部間切・名護間切・久志間切・金武間切・恩納間切の村数106あり、神アサギは106村のうち98村にある。ただし、一つの村に二つの神アサギがある場合もある。羽地間切真喜屋、今帰仁間切今帰仁村はグスク内の神アサギがある。

『琉球国由来記』(1713年)における山原の神アサギ98、現在の神アサギ数は118近くある(ただし、戦前や明治17年頃にあった神アサギ含む)。現在の神アサギ数を確認してみる。

今帰仁村……………………………20(湧川の奥間アサギ1含まず)
  本部町………………………………15
  旧名護町(現在名護市)……………11
  旧久志村……………………………9(間部1含む)
  東 村……………………………… 5(宮城1含む)
  旧羽地村……………………………18(統合した4含む)
  大宜味村……………………………10(統合した3含む)
  国頭村………………………………16(楚洲1含まず)
  恩納村………………………………7(真栄田と山田2含む)
  金武町………………………………3(屋嘉・伊芸・金武以前の含む)
  宜野座村……………………………4                                                      
               (現在の神アサギ合計118)
4.祭祀と神人の位置付け

 祭祀を首里王府との関係で租税を納める、租税をとる関係で捕らえることができないか。つまり、祭祀は祭祀に名付けた休息日と。神人は公務員と位置づけて祭祀をみる視点が必要ではないか。

 神人の祈りを聞いていると、五穀豊穣・村の繁盛、そして航海安全である。それを神人の基本的な三つの祈りというようになっている。その三つの祈りは神人のプライベートの祈りではなく、ムラ全体、ムラの人々の祈願でもある。もちろん神人が家庭に戻ると位牌や火神に手を合わせて祈りをする。それはプライベートや一門の祈りである。御嶽や祭祀場における神人の祈りは、公の祈りである。その勤めをする神人を公務員位置づけている。
 神職を務めている間ノロさんはノロ地、他の神役の神人達も畑などの土地の配分を受けていたであろう。掟は掟地と呼ばれる土地がある。掟の役職を務めている間、その土地を授かっていたのであろう。

5.祭祀から見たムラ・シマ

 『琉球国由来記』(1713年)の祭祀のところで、気になったのは百姓やおえか人(間切役人)は地方にいるので、関わる村の祭祀に参加する。もちろんノロや神人は参加する。その中で首里に居住しているはずの按司地頭や惣地頭や地頭(脇地頭)の祭祀への参加がある。

 脇地頭はかかえ村への参加となろう。按司地頭と惣地頭はどこの村に出席するのか。例えば、恩納間切では城内(恩納村)の殿と神アシアゲでの祭祀に両惣地頭が参加している。金武間切では金武ノロ火神(金武村)と金武神アシアゲでの祭祀に両惣地頭が参加。

 名護間切では名護ノロ火神と名護城神アシアゲに惣地頭、本部間切は伊野波村のカナヒヤ森の祭祀に惣地頭が参加する。今帰仁間切の場合は今帰仁グスク内の里主所や城内の神アシアゲに按司、惣地頭が関わる。『琉球国由来記』では今帰仁ノロや百姓やオエカ人、今帰仁ノロとトモノカネノロの参加もある。

 羽地間切は中尾神アシアゲや池城神アシアゲに惣地頭が参加。久志間切は久志村の神アシアゲ、大宜味間切では城ノロ火神に按司と惣地頭が参加する。さらに喜如嘉村の神アシアゲや田港ノロ火神やウンガミにも参加。国頭間切では奥間村神アシアゲに両惣地頭が参加している。

 惣地頭や按司地頭クラスは間切の主村の祭祀と関わるのは興味深い。惣地頭や按司地頭は間切から作得を得ていたので祭祀に参加、あるいはかかわりを持っていたのであろう。

  ・村(ムラ)の祭祀を首里王府との関係でみる。
  ・祭祀を司るノロをはじめ神人は公務員である。
  ・神人の祈りは五穀豊穣・ムラの繁盛・航海安全(豊漁)が主である。
  ・祭祀は「神遊び」といわれるように村人の休息日である。
  ・神人の祈りは国の貢租に関わるものである。


6.おわりに

 神アサギの分布は沖縄の歴史の三山の時代の北山の範囲と重なる。「北山文化圏」のキーワードになったのが神アサギの分布であった。中南部には以下の12の神アサギがある。山原の神アサギと数少ない中南部の神アサギとの関係をどう説明するのか。二つの仮説を立てている。・・・
   ①越来間切の大工廻神アシアゲ(大工廻村)
   ②兼城間切神アシアゲ(波平村)
   ③高嶺間切神アシアゲノ殿(真栄里村)
   ④真壁間切神アシアゲ(名嘉真村)
   ⑤真壁間切神アシアゲ(新垣村)
   ⑥真壁間切神アシアゲ(真栄平村)
   ⑦真壁間切真栄平アシアゲ(真栄平村)
   ⑧喜屋武間切神アシアゲ(上里村)
   ⑨南風原間切神アシアゲ之殿(照屋村)
   ⑩知念間切神アシアゲ(安坐真村)
   ⑪玉城間切神アシアゲ(奥武村)
   ⑫西原間切翁長神アシアゲ(翁長村) 

 恩納間切の富着以南は読谷山間切、中山の間切の村である。その村に神アサギがあるのは? 
   何か示唆しているようである。上の12の神アサギ同様。二つの仮説も一つに絞れるかも。もう少し
   資料を踏まえて考えてみることに。


2023年5月6日(土)

 歴史に関わる原稿を執筆する時、その時代の生業、風景、交通、暦などを念頭に入れながら考えている。平成生まれが大学の講座を受講するようになった時、農耕暦や旧暦で行われる祭祀、風景が失われ、その時代を体験したことのない・・・

 以下の画像は、昭和30年代まであった沖縄本島北部の風景である。それらの画像を最初に紹介する。時々、それらの画像を見ながら時代を眺めている。(以下の画像は昭和23年から同36年まで宣教師としてメルビン・八キンス氏撮影である。モノクロの一部はクラウド氏)




2023年5月5日(金

沖永良部と北山・琉球国 

 沖永良部島に北山や琉球国と関わる歴史や伝承があります。1609 年以前の北山や古琉球の姿が今に伝えています。そのことを確認するために島通いしています。世の主の初代が次男だという。北山と関わる世の主の話、北山と関わる地にあるシニグ。島にはシニグドー多くの字にあり、明治四年までシニグ行われていたといいます。シニグが分布する地域が沖縄本島北から与論島、そして永良部島です。沖縄のシ二グの古い形を遺し、シニグ旗に武士の絵が描かれ薩摩化しています。琉球型と見られるトゥール墓、その前面には大和的墓(大和年号)墓塔があります。

 三山統一後の尚真王の頃(1450年)になると、八重山のオヤケアカハチの乱、中山軍の討伐、宮古の仲宗根豊見親が宮古頭職に任命され、神職の大阿母職の任命がなされます。尚徳王の喜界島などの征伐があり、奄美の島々に酋長がおり、首里王府から間切役人やのろへ辞令が発給されています。1500年頃、各地の按司を首里に集居させる制度が敷かれます。そのころは三十三君の女官制度が整います。「おもろ」に沖永良部島にのろが登場し、のろが任命されています。勾玉や簪などのろの祭具が遺っています。

 三山統一後の沖永良部島は首里王府が建立した金石文や「おもろ」ははひらがな表記で刻まれています。「おもろさうし」(一巻)が発刊されます。沖永良部島を謡った「おもろ」もひらがな表記です。1500年代から1609年までは発給の喜界島まで首里王府から辞令書(御印判)は中国年号で、文面はひらがな表記です。古琉球(1609年以前)で「正保国絵図」に奄美の島々、先島も「琉球国之内」とあり、先島は1600 年以降も琉球国の内ですが、1611年に大島・喜界・徳之島・沖永良部・与論の島々が薩摩の支配下となります。

 1611年以後、琉球的な物の禁止や廃止や没収されますが、そこに琉球的なもの、薩摩化していく、それでも遺った琉球的ものを膚で感じながら沖永良部島の歴史を紐解いています。

 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

   ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
    ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
          琉球から請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
          視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
          謁して辞令を貰っていたという) 
    ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁
         する。
    ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
    ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
 
 【口語訳】(蔡温の独物語)
   毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、詰まりは
  當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が存する。というのは
  昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何かにつけ不自由でいかにも気まま
  の風俗がわるく蔓延、それに世がわり(革命)騒ぎも度々あって万民が苦しんだいきさつは言葉で
  言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にしたがってから此の方は風俗も善くなり農民も耕作方
  にひとしお精を入れるようになり国中が何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代になった。
  これは畢竟薩摩のお蔭でかように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考えなければ





2023年5月4日(

瀬底島の概況

・瀬底島は本部町にある。石灰岩の段丘のある島。
・瀬底島と本島側との間は瀬底港ともいう。かつての山原船や大和と往来する船の避難港
 となる。
・島の面積は3.46平方㎞、周囲は約6.8㎞
・1471年の『海東諸国紀』に「世々九」と見える。方言でシークという。
・1469年第一尚氏が滅びると第一監守も崩壊する。その一人が瀬底島に逃れ、ムラの草分け
 となる(伝承:大底:ウフジュク)。
・1560年(嘉靖39)の辞令書に「せそこの大やくもいに」と瀬底が登場。
・1644年の遠見ヤー(ウフンニ:瀬底島の一番高い所、大きな水道タンクあり)がある。伊
 江島→瀬底島→座喜味→首里
・1670年池城墓の碑文に「那覇の石細工 瀬底にや」とある。
・1666年に今帰仁間切を二つに分割する。今帰仁間切と本部間切が創設される。瀬底島は本
 部間切の内となる。
・康煕12年(1673)曹姓大宗(平敷家)三世慶均 瀬底親雲上を任じられる。
・康煕19年(1680)明姓五世長満 瀬底親雲上 本部間切瀬底地頭職に任じられる。
・康煕41年(1702)(那覇・泊系家譜:根路銘家)六世恵勇 本部間切瀬底地頭職に任命さ
 れる。
・瀬底島には瀬底と石嘉波の二つのムラからなる。
・石嘉波は1736年に崎本部と健堅の間から瀬底島に移動させられる。
・健堅側と瀬底島には瀬底大橋がかかっている。
・瀬底のウフジュクは第一監守が崩壊したとき逃げ延びた一族で村の草分けとなる。
・瀬底の神アサギは大底(ウフジュク:大城家)の屋敷内にある。
・ウフジュクはグスク近くから移動してくる。
・ウフジュクの側の広場で村踊りがおこなわれる。
・瀬底島にはノロがいた。その屋敷跡がヌルルンチである。
・旧屋敷跡に祠をつくり火神や位牌がまつってある。
・首里に向かっての遥拝所がいくつも置かれる(門中ごと)。
・ウチグスクがあるが、別名東の御嶽(アガリヌウタキ)とも呼ぶ。
・ウチグスクは岩(イビ)の前に香炉のみであったが、コンクリートの祠と鳥居がつくられ
 る(1991年)。
・瀬底には七ウタキがある。
  ①ニーヒヌカン(ウフジュク屋敷内)
  ②ヌルルンチ
  ③ウチグスク(東のウタキ)
  ④土帝君(瀬底ウェーキ)が中国から持ってくる。一門から村で拝むようになる。ウタ
   キの一つに数えられている。
  ⑤アンチウタキ(瀬底島の入り口) 航海安全祈願
  ⑥イリヌウタキ
  ⑦メンナウタキ(水納御嶽)


        ▲瀬底島の全景(『瀬底誌』より)

 瀬底村

①神アサギ ②メンナ御嶽 ③ノロ殿内火神 ④イリノ御嶽 ⑤前ノ御嶽 ⑥内の御嶽 ⑦土帝神



       瀬底ノロドゥンチ             瀬底の「土帝君」の祠

・神アサギ(ウフジュクの屋敷にある)
http://rekibun.jp/0911gazou/610seso08.JPG http://rekibun.jp/0911gazou/610kami2.JPG
 神アサギに獅子がおさめられている ウフジュク(大城家)の屋敷にある神アサギ


2023年5月3日(水)

 与論島へ往く予定が、急遽取りやめ。民宿は無理にお願いして予約がとれる。ところが、ゴールデンウィークのことは念頭になし。フェリーの予約してないと乗船できず。普段は平日に訪れているので乗船できにいことはなかった(一度、台風で中止したことはあった) 民宿には近々伺うことを約束。

 切替てムラ・シマ講座へ。フェリーを見送るため崎本部のエージモー(合図毛)へあがる。しばらく訪れていないのでエージモーが見つからず。でも集落から山手をぐるぐる廻る。
 崎本部公民館→神アサギ→崎本部小学校(?)→急斜面に集落が発達→ウタキ→ミジグルマーガー→防空壕跡→アサセローラ畑→エージモーへ。

 その後、今帰仁グスクへ。グスクから与論島へ向かっているフェリーを見送る。その先に与論島。グスク交流センターのメンバーに声をかけて講座終了。

 1666年まで現本部町は「みやきせんまきり」、今帰仁間切を分割し伊野波間切を創設、翌年本部間切へ改称。崎本部村が登場するのは慶長検地以後のようである。琉球国高究帳や絵図郷村帳なって崎本部村と出てくる。現崎部は仲北山の時代に登場する本部大主と山北王時代の攀安知(ハンアンヂ)の時、中山(巴志)軍に寝返った本部平原の生誕地でもある。本部は両雄の生誕地に因んだ村名とみられる。隣の健堅村も健堅大親に因んだ村名と見ている。崎本部村となったのは崎浜と本部が統合した字名とみられる(現崎本部に二つの神アサギがあり、行政的村が合併しても神アサギは一つにならない法則がある)。三山鼎立時代の北山を浮かべながらの踏査である。

  
▲ミジグルマ―ガ―           ▲防空壕(避難壕)      ▲崎本部農村公園(エージモー)

  
▲与論島に向けてのフェリー  ▲今帰仁グスクと関わる与論島      ▲今帰仁グスクの志慶真廓

本部町崎本部(2003.2.13)                               



   本部町崎本部の位置図


 本部町崎本部は本部半島の西側に位置し、名護市の安和と接している。本部間切は寛文6(1666)年に今帰仁間切を分割し伊野波間切を創設した。1667年に間切名を伊野波間切から本部間切と改称した。本部間切の村の一つである。崎本部は大きく崎本部・塩川・石川の三つの集落からなる。崎本部集落の両側を崎本部川とシンナナ川が流れる。

 崎本部は本部村と崎浜村の合併村とみられる。崎本部集落内に二つの神アサギがある。


2023年5月2日(火)

 3日から鹿児島県与論町へ。過去の与論島の調査記録でおさらい。タイミングよく「南海日々新聞」(与論町特集記事)が沖永良部島から届く。両島への次男、三男の北山からの入り方(歴史)が異なっている。その件で沖永良部島へ渡る予定が、宿の予約で混雑しているとの情報。諦めて与論島へ。ラッキー。


【与論グスク】 【与論町へ(過去記録

 与論グスクと北山との関わりについて史料が皆無なため困難である。これまで言われていることを掲げてみる。
  ・築城は1405年~1416年だという。
  ・北山怕尼芝王の三男の王舅(オーシャン)が与論之主として来島し築城
  ・北山滅亡のため未完成
  ・グスクの西方に今帰仁系の子孫の安田墓がある。
  ・大道那太(北山之主の後裔)の墓(国頭墓)
 それらのことが史実かどうかについてはなかなか証明し難い。グスクの呼び方や高台への築城など、琉球のグスクの条件にかなっている。
 上のことが史実かどうかは別にして、与論の人々が北山の三男の王舅を派遣し、その系統だという認識は根強くもっている。そのことが国頭墓や安田墓を国頭(北山)あたりに向けて作られている。先祖を崇めたて、血筋として代々引き継がれているという観念は、史実として証明できないが、琉球の人々が根強く持っている観念である。それは根っこが一つであることから与論の人々も根強くもっている。1609年に薩摩がかぶさって400年近い歳月がたっても消え去ることなく引き継がれている(記録された史料はないのであるが)。そのことも古琉球の時代の痕跡の一つにちがいない。


    ▲与論グスク跡と城の集落と道筋

 
         ▲与論グスクの石積み(近年)        ▲野面積みの石垣(後方に社殿)

 
    
 ▲与論グスクのテラスに土俵          ▲後世に積まれた野面積みの石垣

 
      
▲与論グスクからみた国頭(奥~辺戸)      ▲画像の中央部が与論グスク

 
  
▲ヤゴーへ降りる階段      ▲城の集落は石積の屋敷と福木が多い 

 
       ▲城の集落の道筋はクモの巣状になっている


2023年5月1日(月

 5月スタート。

 大里グスクは、沖縄本島南部地方の東北部、大里村字西原の、東・北・西が絶壁状の断崖に囲まれた琉球石灰岩の丘陵上(標高143m)に位置するグスクである。
 北端の高台に立つと、中城湾を中心に知念岬から勝連半島が一望でき、那覇市街地・那覇港までも見渡せる日がある。  グスクの規模は東西200m、南北100m、面積が20,000㎡程で、三山時代当時のグスクの中でも大きい部類に入る。

 城壁は琉球石灰岩の自然石を巧みに積み上げた野面積みであるが、尚巴志が中山王「武寧」を滅ぼした後の首里城拡張工事に際し、石を運んだと伝えられており、更に、沖縄戦争後に大里城址公園として整備された際、遺構が破壊されてしまったらしく、明確な城壁はほとんど残されていない。 城の脇にある井戸「チチンガー」の石垣はよく保存されている。

 大里城のはっきりした築城年は不明だが、一説では、南山国王である南山城(糸満市字大里)の城主(島尻大里按司)が、中山王に対抗するための出城として、弟の「汪英紫(おうえいし)」に築城させた城であると伝えられている。 南山城が別名「島尻大里城」と言うのに対して、大里城は「島添大里城」と呼ばれている。

 汪英紫はその後、南山王の勢力衰退に乗じて近隣の諸按司を支配下に置いて勢力を広げ、「下の世の主」と称して、南山王承察度(しょうさっと:汪英紫は叔父にあたる)とは別に、中国(明)と朝貢貿易を独自に行うようになる。

 一般的な説として、その後、「南山王叔」汪英紫は佐敷按司の尚巴志によって滅ぼされたとされている。
 その後、尚巴志の三山統一の際の拠点グスクの一つとなり、後に、第一尚氏王統の支城として使われたようである。


※大里間切西原ノロは大里ノロに名称が変更される。大里間切西原村は同間切南風原村に
 対するもの。島添大里城の城下の村であったこともあり、西原ノロであったが、間切名の大里
 に因んで大里ノロとなる。