寡黙庵琉球・沖縄の地域史調査研究 (管理人:仲原)   

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国頭村安田のシニグと辞令書
  ・(山原のノロドゥンチ参照 本部町公民館
加計呂麻島1  加計呂麻島2
沖永良部島の和泊のムラ  知名町のムラ 2003年4月伊平屋島
写真に見る今帰仁 ⑧  ・2008年祭祀調査 ・今帰仁のろ墓2
オナジャラ墓  ・土帝君(浜元)

北山・琉球・薩摩から沖永良部島】 「地域博物館が果たす役割」
本部町崎本部の墓調査
羽地の語義】 【羽地地域のムラ・シマ
徳之島と琉球】 久米島を大学の講座
第一監守時代】  羽地域のムラ・シマ




2023年1月28日(土)

 明日、恩納村谷茶と前兼久をゆく。下見する時間がなく、10年前(2013年)に作成したパワーポイントを取り出して頭の整理。

 恩納村は、1673年以前は金武間切と読谷山間切であった。金武間切からの村(ムラ)は名嘉真・安富祖・瀬良垣・恩納、読谷山間切からの村は谷茶・冨着・(前兼久)・仲泊・読谷山(山田)・久良波・真栄田・塩屋である与久田である。恩納間切が創設されると恩納村に番所が置かれた。

 恩納間切は読谷山間切から名護間切へつなぐ、西街道筋にある。金武間切から喜瀬武原を経由し安富祖に抜けるルートがある。そのような歴史の痕跡が宿道(スクミチ)沿いにみることができる。国頭方西海道に喜名番所(読谷山間切)から多幸山の一里塚(真栄田)、フェレー岩(石クビリ)、山田城、山田の迫川の石矼、比屋根坂石畳道、仲泊の座礁した唐船、175年頃の印部石(大どう原)、女流歌人の恩納ナベ、1726年尚敬王の恩納の万座毛へ、仲泊の一里塚、1853年にペリー一行は金武間切漢名から山越えで名嘉真村から恩納村(番所)、恩納間切番所の扁額、海上輸送の港は名嘉真、屋富祖、瀬良垣、恩納、谷茶、冨着、前兼久、仲泊、久良波、美留などがある。

 明治41年に恩納間切から恩納村(ソン)へ、各村は字(アザ)となる。

 恩納村が金武間切の内を示す二枚の辞令書。
谷茶は山原と中頭の境界村。







2023年1月27日(金)



 古琉球(1609年以前)の首里王府発給の辞令書を手がかりに「ひらがな表記」の「おもろ」や「絵図」などを歴史史料として扱えないか。

古琉球の辞令書と三島の「まきり」(間切)

 近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性は十分にある。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりがもう少し具体的に見えそうである。

 古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。
 
  ・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
  ・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
  ・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
  ・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
     (受給者不明)(年欠)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
  ・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)

 
・与論島(近世後期に大水間切と東間切があったという。
   【正保琉球国絵図】に間切名出てこない。
    ①大水間切 ②東間切
 
・沖永良部島(安政4年:1857に方制、明治411908年に町村制)
   【正保琉球国絵図】
    ①大城間切 ②きびる間切 ③徳時間切
     大城間切/喜美留間切/久志検間切
  安政4年に方制が敷かれ、和泊方・東方・西方となる。
 
・徳之島
   【正保琉球国絵図】
    ①東間切 ②西目間切 ③面縄間切
 
・奄美大島
   【正保琉球国絵図】
     ①笠利間切 ②名瀬間切 ③焼内間切 ④西間切 ⑤東間切 
     ⑥住用間切 ⑦古見間切
 
・喜界島
    【正保琉球国絵図】
     ①志戸桶間切 ②東間切 ③西目間切 ④わん間切 ⑤荒木間切
 

琉球(首里)からのノロ辞令書

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(15291609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

・徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       
もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


 徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より

琉球の痕跡としての地名や役職や入墨や墓など
 徳之島の村名をみると沖縄本島と共通する村名(地名)がいくつもある。その共通性は何だろうか?マギリ(間切)やグスク(城)やアジ(按司)やノロは琉球側から入り込んだ語彙なのか?地名などの語彙の共通性をどう理解すればいいのか。いくつも仮説が立てることができそうである。

 伊仙町に面縄がある。面縄にあるウンノーグスクに恩納城が充てられている。沖縄本島の恩納村の恩納と同義だろうか。恩納村の恩納(ウンナー)は「大きな広場」と解しているが、ウンノーは「大きなイノー」のことか。あるいはノーとナーは地域空間をあらわす義でウンノーもオンナも「大きな広場」なのだろうか。

地 名

       【徳之島】                      【沖縄本島】
   ・久志村(徳之島町)             ←→久志村(久志間切・現在名護市・クシ)
   ・母間村(徳之島町・ブマ)         ←→部間村(久志間切・現在名護市・ブマ)
    ・宮城村(徳之島町花徳・ミヤグスク)  ←→宮城(ミヤグスク・ミヤギ)
    ・手々村(徳之島町手々・ティティ)    ←→手々(今帰仁村湧川・テテ)
   ・兼久村(天城町・カネク)        ←→兼久村(名護市・カネク)
   ・平土野(天城町・ヘトノ)         ←→辺土名(国頭村・ヘントナ)?
   ・瀬滝村(天城町・セタキ)        ←→瀬嵩(名護市:セタケ)
   ・与名間村(天城町・ユナマ)      ←→与那嶺(今帰仁村・ユナミ)?
   ・面縄村(伊仙町・ウンノー・恩納)   ←→恩納(恩納村・ウンナ)?
   ・糸木名村(伊仙町・イチキナ)     ←→イチョシナ(今帰仁村兼次・平敷)
   ・大城跡(天城町松原・ウフグスク)    ←→大城(ウフグスク)
   ・喜念(伊仙町・キネン)         ←→知念(現在南城市・チネン)? 
   ・グスク                  ←→グスク
   ・間切                   ←→間切(マギリ)
   ・八重竿村(伊仙町・竿・ソー)     ←→川竿・長竿(今帰仁村湧川・・・ソー)
   ・掟袋・里袋(・・・ブク)          ←→田袋(ターブク)
   ・河地(カワチ)              ←→幸地
   ・按司(アジ)               ←→按司(アジ) 
   ・玉城(タマグスク)            ←→玉城(タマグスク・タモーシ)




 コロナなって伊是名島は渡っていない。今年こそは島に渡りたい。奄美の島々をつなぐヒントを与えてくれる。(肩書は当時のまま)








2023年1月26日(木)



 北山の領域をいくつかのキーワードで囲むことができないか。北山の領域は三山(山北・中山・南山)の時代があり、山北三王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代の痕跡がどのように遺っているのか。

北山の領域



【山原各地の神アサギ】

国頭村の神アサギ
  ②大宜味村の神アサギ  ③羽地地域の神アサギ  ④屋我地の神アサギ
名護の神アサギ  今帰仁の神アサギ  ⑦本部の神アサギと村  ⑧恩納の神アサギ 
金武・宜野座の神アサギ  ⑩伊平屋の神アサギ



山原の神アサギの分布

神アサギの分布(188字 ○118 ×54)(琉球国由来記の村数□ 神アサギ□)
 現在の字と神アサギ(『琉球国由来記』(1713年)―「祝女類別表」(明治17年頃)―現在(平成30年)。

 一覧表の作成は必須。×大正以後のアザ、分離独立など。複数の〇は、合併しても祭祀は一体化しない)神アサギの分布は沖縄本島北部から奄美大島まで(現存するのは瀬戸内の加計呂間島)

 『琉球国由来記』(1713年)の村(神アサギ)と現在に至る変遷を確認するのは、村の成り立ちを確認することである。古くからの村、移動村、合併村、「由来記」以後の村(明治以前)が神アサギを設け祭祀を行う必要があったのか。大正以後のムラ(アザ)に神アサギや祭祀が必要ないのは。 

[国頭村] (20ケ字、○16 ×4)(『琉球国由来記』13 村数)
  ・浜○ ・半地× ・比地○ ・鏡地× ・奥間○ ・桃原○ ・辺土名○ ・宇良○ ・伊地○ 
  ・与那○ ・謝敷○ ・佐手○ ・辺野喜○ ・宇嘉○ ・宜名真× ・辺戸○ ・奥○ ・楚洲× 
  ・安田○ ・安波○ 

[大宜味村](17ケ字、○12 ×6)(『琉球国由来記』5村、川田・平良に2含)
  ・田嘉里○△  ・謝名城○ ・喜如嘉○ ・饒波○ ・大兼久× ・大宜味○ ・根路銘△ 
  ・上原× ・塩屋○ ・屋古○ ・田港○ ・押川× ・白浜(渡野喜屋)○ ・大保× ・宮城× 
  ・江洲× ・津波・平南○〇

  ※寄留アザに神アサギは必要ない。何故? 

[東村](6ケ字 ○5 ×1)
  ・有銘○ ・慶佐次○ ・平良○ ・川田○ ・宮城○ ・高江× 

[今帰仁村](19ケ字 ○20 ×3)(『琉球国由来記』村数20)

  ・今泊(○○2)・兼次○ ・諸志(○○2) ・与那嶺○ ・仲尾次○ ・崎山○ ・平敷○
  ・謝名○ ・越地× ・仲宗根○ ・玉城(○○○3) ・呉我山× ・湧川○△ ・天底○
  ・勢理客○ ・渡喜仁× ・上運天○ ・運天○ ・古宇利○

   ※村が統合しても祭祀は一体化しない。

[本部町](26字 ○19 ×10)(『琉球国由来記』村数13)

 ・瀬底○ ・(石嘉波)○ ・崎本部○○2 ・健堅○ ・辺名地○ ・大浜× ・谷茶× 
 ・渡久地○○2 ・大嘉陽× ・伊豆味○ ・並里○ ・伊野波○ ・山里△ ・野原× 
 ・浜元○ ・浦崎○ ・古島×(寄留) ・大堂× ・謝花○ ・北里×? ・嘉津宇○(移動) 
 ・具志堅○(3統合) ・新里× ・備瀬○ ・豊原× ・山川×

  (大正以後に分離独立したアザは神アサギは必要なし)
  (村が移動しても神アサギと祭祀は必要あり)
  (崎本部は本部村と崎浜村の合併村。崎本部となるが「由来記に神アサギと
   アサギ小があり、現在もある)
   ※移動しても神アサギは必要。(嘉津宇と天底、石嘉波)  

[旧羽地村](15字 ○12 ×3) 『琉球国由来記』村数18)

  ・源河○ ・稲嶺× ・真喜屋○ ・仲尾次○ ・川上○ ・田井等○ ・親川○(城内) 
  ・仲尾○ ・振慶名○ ・山田× ・伊差川○ ・我部祖河○ ・古我知○ ・呉我○ ・内原×

    ※親川は1750年頃田井等村から分離、羽地グスク内の神アサギは 

[旧屋我地村](5字 ○4 ×1)(屋我島)(屋我地村は戦後分村)

  ・饒平名○ ・我部○ (松田) ・運天原× ・済井出○ ・屋我○  

[旧久志村](13字、8○ 5×)(『琉球国由来記』村数10)

  ・久志○ ・豊原× ・辺野古○ ・二見× ・大浦○ ・大川× ・瀬嵩○ ・汀間○ ・三原×
  ・安部○ ・嘉陽○ ・底仁屋× ・天仁屋○  

[旧屋部村](7字 ○4 ×3)(屋部村は戦後名護町から分離)

  ・屋部○ ・宇茂佐○ ・中山× ・旭川× ・勝山× ・山入端○ ・安和○  

[旧名護町](10字 ○7 ×3)(『琉球国由来記』村数11)

  ・喜瀬○ ・幸喜○ ・許田○ ・数久田○ ・世冨慶○ ・東江× ・城○ ・大兼久× 
  ・宮里○ ・為又× 
        (名護村から東・城・大兼久が分かれる。神アサギは名護城内(城)

[恩納村](19字 ○8 ×11) 『琉球国由来記』村数11)

 ・名嘉真○ ・安富祖○ ・喜瀬武原× ・瀬良垣○ ・太田× ・恩納○ ・南恩納× ・谷茶×
 ・冨着○ ・前兼久× ・仲泊× ・山田○ ・真栄田○ ・塩屋○ ・ビル× ・与久田× ・宇加地× 
 ・与久田× ・比留×  

宜野座村](6字 ○4 ×2)

 ・松田(古知屋)○ ・宜野座○ ・惣慶○ ・漢那○ ・福山× ・城原×
      ※本部落から分離独立)

[金武町](5字 ○3 ×2)(『琉球国由来記』村数宜野座含6)

 ・金武○ ・並里× ・中川× ・伊芸○ ・屋嘉○ 
    ※並里?


2023年1月25日(水)

  
2023.1.26(旧暦1.5) 今年一番の冷え込み(13℃)寒いので室内から撮影

2004 年11月神奈川県久里浜まで行っている。ペリー来航で知られる三浦半島に浦賀・久里浜と横須賀があるが、訪れたのは久里浜のみ。記憶から消えかかっている。ペリー一行は、1853年に琉球国をおとずれ首里城へ。その年三浦半島へ。1854年に日米和親条約を結ぶ。

2004.11.10(水)

 8日(月)池袋駅から品川駅まで。朝のラッシュを避けるため、早めにホテルをでる。品川駅のロッカーに荷物を預け、横須賀線で久里浜へ。途中にある鎌倉は今年の5月に訪れている。三浦半島は初めてである。歴史地図にある三浦按針墓や咸臨丸出航記念碑や砲台跡、それと観音崎などが気になる。まずは久里浜のペリー上陸記念碑を目指した。久里浜は横須賀線の終駅であった。京浜急行久里浜線も走っている。

 駅前から車でペリー上陸記念碑へ。海岸近くにあり、隣に小さなペリー記念館が市制施行80周年事業(昭和62年)で建てられている。月曜日なので休館である。館の入口にペリー提督と戸田伊豆守の胸像がある。

 久里浜海岸に立つと沖からフェリーがくる。千葉県金谷と連絡している。20分から30分ごとに運行している。1853年7月14日フィルモア大統領の「親書」を携えて久里浜に上陸したペリー一行。「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」を見ると明治34年7月に建立され伊藤博文の筆である。何度か整備されているようで、現在の様子は昭和62年の整備である。

 ベリー提督が江戸湾(東京湾)に来る以前に二度琉球国(那覇)を訪れている。浦賀にやってきたのはミシシッピー号とサスケハナ号の二隻の蒸気船と、二隻の帆船のようである。「親書」を引き渡した久里浜の地で『ペルリ提督 日本遠征記』(岩波文庫)から歴史を読み取っていく作業は興味が尽きない。

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   ▲久里浜の海岸から沖をみる   ▲北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑表
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  ▲ぺりーと戸田伊豆守の胸像    ▲北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑裏

 
久里浜駅から浦賀駅までバスで15分ばかりである。浦賀駅でバスを降り、観音崎に向かって歩いてみた。なかなか海が見渡せる場所がない。観音崎まで行くには時間が足りないので、途中浦賀の海が一望できる場所を探してみた。切り立った崖の麓や崖に建物が建っていて、強度の地震がくると・・・。恐怖でヒヤリ。浦賀の湾全体が眺めることのできる場所まで行けず、建物と建物の間からパチリ。しばらく駅の近くを歩き浦賀駅から横浜へ。

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      ▲黒船がやって来た浦賀の海をビルとビルの間からみる

2023年1月24日(火)

 「寡黙庵」の二本のヒカンサクラは満開中。そとは雨と風で寒くガラス戸超しに。

 各地の石灯籠や香炉の銘の調査に夢中になっていたのは2008年頃。そのつど、「山原の各間切と御殿・殿内」(奉公人)と結びつくものであるとの発見。2008年4月恩納村の谷茶までいく。谷茶の御嶽の中の祠に銘のある香炉がある。年号は彫られていないが、「奉寄進 □ 仲村渠にや」の香炉が二基ある。もう一基にも同様な銘が書かれているが判読は困難である。恩納村については、前に少し触れているが、重複する部分もあるが、整理することにする。

 恩納間切の創設1673年である。金武間切と読谷山間切を分割し、それぞれの村を合わせて創設される。恩納間切が創設されたとき、大里王子朝亮と佐渡山親方安治に領地として恩納間切が与えられた。その後、佐渡山親方家が廃藩置県まで恩納間切と密接に関っている。恩納村や安富祖村に佐渡山家の仕明地が多くあった。

 谷茶村と金武町の屋嘉と結ぶラインが言語の境界線だと調査をしていた。そこは間切の境界線でもあった。言語の境界線と間切境界線が重なった。言語のH→F→PのF音が遺っている地域であった。その前に集落区分の呼称の調査をしており、・・・ダカリを確認していた。また神アサギの分布の残存の確認。首里や那覇などからの寄留人の移住など。そこに山原とは異なるなにかを可視化できないか。北山文化圏をテーマに掲げてやってきた。久しぶりに恩納村の谷茶と前兼久へ。

 佐渡山殿内は恩納間切の総地頭をだした家である。その佐渡山家は仕明地を多く持っていたようである。『恩納村誌』を見ると、恩納グスクの下、グランチャマの砂質地一帯の畑、南恩納の馬場の下印場一帯、シルジ、屋嘉の下り口、太田のクビリ、安富祖の川沿いの水田、字名嘉真にもあったという。

       覚
  恩納村帳内の原に有之候佐渡山親雲上面付三万三千四百二十三坪七

分之内潟二万八千二百三十六坪七分…

 (佐渡山殿内の土地を手放したのは佐渡山安嵩が中国に行く準備のため、借金を負うようになった。その目的が達せず多くの土地を手放すことになった)。

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080408ta2
 ▲恩納村谷茶(後方の森がウタキ)    ▲ウタキの中にある祠

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   ▲祠の中にある銘のある石香炉


2023年1月23日(月

  
2023.1.23(旧暦01.0.2)  そろそろ満開か。

今帰仁間切役職 

地頭代(『琉球国由来記』(1713年)での地頭代は湧川大屋子、1730年頃から古宇利親雲上となる)

一、湧川親雲上
  寒水村の生まれ、大井川の割替えとせき止めをなし潅漑の便を溝したと、国頭郡誌
  にみゆ。地頭代を二回務めたと伝えあり。 

一、城間親雲上
  今帰仁村の生まれ、今は廃家となる。サン崎前古宇利屋

一、与那嶺親雲上 嘉慶二十一年死亡
  その夫人は諸喜田村の生まれ 元屋号諸喜田御殿津波屋なりしを子孫に至り家財藻尽
  離散せるため本筋与那嶺家に元祖崇敬せらる。

一、松田親雲上
  この人は仲宗根村の生まれ、屋号クンチャマ

一、親川親雲上
  勢理客村の生まれ 屋号 前古宇利屋(メーフイヤ―)

一仲村親雲上
  謝名村の生まれ 屋号 西の古宇利屋(イリぬメーフイヤ―)

一仲尾次村の生まれ 屋号 前古宇利屋(メーフイヤ―)
  前期 城間地頭代の後裔なり。

一、糸嶺親雲上
  平敷村の生まれ 屋号 川の上(ハーヌウイ)

一仲村親雲上
  謝名村の生まれ 屋号 東の前古宇利屋(アガリヌメーフイヤ―) 明治十二年廃藩置県
  当時の地頭代にして辛苦を嘗めたという。子孫に深く  学問させぬと遺言せりと伝え話
  がある。悩み思いやらる。

一、大城静造
  今帰仁村の生まれ 明治十六年 結髪大帯姿で長崎市に九州沖縄八県共進会参列に
  出張せり。城間半蔵随行す 屋号後の前古宇利屋 (クシヌメーフイヤ―)

一、新城金助
  今帰仁村の生まれ 今は廃家となる 前の前古宇利屋(メーヌメーフイヤ―) 

一、新城金助
  今帰仁村の生まれ 屋号 西の前古宇利屋(イリヌメーフイヤ―) 彼の惣山当の時
  他府県より「クヌ木」種子を取り寄せ呉我山越地に撒いたと伝えられる。その樹は
  今も存在せり 

一、小波津幸福  親泊村の生まれ 屋号田の端の前古宇利屋(ターバタヌメーフイヤ―) 
  白髭 膝に垂れ体躯偉大にして名あり 

一、諸喜田幸保
  兼次村の生まれ 今帰仁間切最後の地頭代、明治三十年制度改革の際勧業員に任せら
  れ勧業大主に名あり

間切長及び村長

一、城間半蔵(任期1897.4.1~1909.11.19)
  今帰仁字の生まれ 明治三十年沖縄県間切島規定施行に当たる
  初代間切長となる。村道開通の祖なり 普通教育普及発達の功により文部大臣より表彰
  せらる。明治四二年退職国頭銀行重役勧業銀行頭取を経て引退、六十八才を以て没す。  

一、新垣源次郎(任期1909.11.~1916.5.31)
  字玉城の生まれ 明治四十二年 村長に命せらる。明治四十五年山林覆興業を樹立し
  森林の美を成したる功あり、大正五年役場を運天より字仲宗根に移転の掌に当る。昭和
  二十年没す。 

一、与那嶺蒲助(任期1916.6.1~1924.2.9)
  字与那嶺の出身 勧業員 村会議員歴任、大正五年村長に任ぜり 大正九年普通町村制
  施行 第一回民選村長に就任する。村内一貫道路を改修し、県道に編入させ、更に農道
  を改修し急務を認め城間亀助氏を主任技術員に招聘し隈なく普及せしめ為に国頭郡各村
  組合管理者国頭郡長より表彰せらる。昭和十八年没す。

一、仲宗根宗助(任期1924.11.10~1928.11.9)
  字湧川の生まれ大正十三年村長に選任される。沖縄県土地整理局技師手、国頭銀行、産
  業銀行書記、村会議員等に活躍する。村長に就任するや当時財政紊乱なりしを整理し一
  面公有林と私有林の境界侵害不明を査定せり。昭和二十一年没す。

一、山城善助(任期1928.11.10~1933.11.9)
  字仲宗根生まれ 県立師範学校を卒業し、小学校長、村会議員歴任、昭和三年村長に
  選任にせらる。昭和七年再選したるも樟脳事件に遭遇し停職せられ、助役高良森蒲氏代
  理掌理せり 

一、仲村豊七郎(任期1933.11.10~1937.11.9)
  字勢理客の生まれ 小学校訓導を経て昭和八年村長に選任せらる。我呉山自作農創設、
  救済事業、道路開設の功あり。 

一、玉城幸五郎(任期1937.11.10~1941.11.9)
  字今帰仁の生まれ 国頭郡書記、郡農会書記、助役歴任、昭和十二年村長に選任せら
  れる。支那事変中、応召軍人の出征、戦死者の続出等悲喜悲喜こもごも間に過せり。 

一、島袋松次郎(任期1941.11.10~1945.11.5)
  字与那嶺の生まれ 小学校訓導 助役歴任 昭和十六年村長に選任 昭和二十年敗戦当
  時久志村辺野古大浦崎に謝名の一部以西の村民移動集団生活を強制せられ村長として
  辛酸を嘗めたり。 

一、松本吉英(任期1945.11.10~1950.4.16)
  字謝名出身、明治四十年十一月二十日生まれ、大正十五年三月県立農林学校卒、教員、
  警察官、村長退職後、群島政府議会議員、那覇消防隊長。
  戦後の行政発足、役所新築、水産組合設立、家村民一万人余受入れ、北山高校誘致、
  通貨切替、電話開通


2023年1月22日(


▲沖縄の旧正月の開花状況。初ウガンの祭祀あり。
  世神殿内→ウタキ(お宮)→桃原家→仲原家→シカ―ムラヤ―(公民館)
    参加者20名余

 2011年12月に行った講義デジメです。しばらく国頭まで足を運んでいないです。












2023年1月21日(

羽地(親川)グスク
参照
羽地の語義
金武町


  ▲2023.01.21(旧暦12月30日大晦日)開花状況

 山原の五つのグスク(①今帰仁グスク ②根謝名(ウイ:国頭?)グスク ③羽地(親川)グスク ④名護グスク ⑤金武グスク )。それは古琉球の五つの間切に繋がるグスクである。いつも手薄のグスクは金武グスクである。金武のろ殿内の勾玉や文書などの遺品の調査をしたことがあるが、山原の間切ののろとは、どうも異なる印象をもっている。金武グスクも同様である。そのことがあってか、いつも手薄である。それが何なのか未解決である。そのため金武間切恩納のろの辞令がすぐ登場してくる。手薄になる理由は金武按司と伊江按司(伊江家)の存在であろう。山原であってヤンバルではない!

・恩納のろくもい 
 恩納村(ムラ)は1673年以前は金武間切の村の一つであった。恩納ノロに関する古琉球の辞令書と近世初期の辞令書二枚が写真で残っている(『補遺伝説 沖縄の歴史』島袋源一郎)。一枚は万暦12年(1584)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書(1584年)、もう一枚は順治15年(1658)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書である。まだ恩納間切が創設される以前である。そのため「きんまきりの」(金武間切の)となっている。また年号に干支が書かれない最後の辞令書である。翌順治16年の辞令書から干支が記されるようになる。

   しよりの御ミ事              首里の御見事
      きんまきりの              金武間切の
      おんなのろハ              おんなのろハ
      もとののろのくわ            □□□□□
      一人まかとうに             一人□□□□に
      たまわり申候             たまわり申候
   万暦十二年五月十二日        順治十五年七月廿八日

 明治36年頃の恩納ノロのノロ地(田畑など)は以下の通りである(『恩納村誌』)。
   ・畑(赤間原)1200坪  ・田(屋嘉下り口)700坪  ・畑(先原)1200坪 ・田(ウチノウラ)400坪
   ・田(伊場)750坪  ・田(当袋)600坪 その他

[明治43年の作得]
 作得表高  米1石2斗5升4合  雑穀 9斗7升
                       雑穀9斗7升
               現収高    (ナシ)


    ▲恩納ノロの辞令書(1584年)       ▲恩納ノロの辞令書(1658年)

金武グスク(2009年3月14日)

 少し時間があったので金武グスク跡、喜瀬武原(恩納村・金武町)経由で、恩納村の安富祖に出て名嘉真(仲間)に立ち寄る。喜瀬武原のメンバーがやってくるので、その下見でもある。喜瀬武原は恩納村と金武町とに分かれているようである。喜瀬武原は恩納村と金武町との境に位置していることが、歴史を見ていく視点に示唆を与えてくれる。それと、金武グスク跡近くと名嘉真(仲間)にある琉歌碑に1673年に創設された恩納間切以前の領域が歌いこまれている。東海岸からかつて同間切だった西海岸のムラ・シマを読み、また分割された西海岸から分割される以前の東海岸のムラ・シマを謡っている。歌に詠みこまれた歴史を紐解いていく面白さ。そしてその中間に位置する喜瀬武原。

【金武節】(東海岸から西海岸のムラを読む。意訳は説明文から)

  くばや金武くばに(くばは金武で取り)
  竹や安富祖竹(竹や安富祖で取り)
  やにぃ瀬良垣に(瀬良垣では竹を細く削り)
  張りや恩納(恩納では笠を仕上げ)

【仲間節】(西海岸から東海岸のムラを読む)

  仲間からかいとて(仲間村もそうであるが)
  久志辺野古までも(久志・辺野古までも)
  金武の御前がなし(金武王子様の)
  おかけ親島(お抱えの領地)

 
  ▲金武グスク跡の前に碑が建立(金武町金武)          ▲「金武節」の歌碑


2023年1月20日(金)


2023.01.20 (旧暦12月29日)今日の開花状況     ▲桃の花も開花(数輪)


名護村と三つの村】(東江・城・大兼久)参照(名護間切、現名護市)

 30日羽地間切羽地と名護間切名護村について話を。

 『絵図郷村帳』(1646年)の「名護間切名護村、かねく村(当時無之) 城村(当時無之)」とあるが、「当時無之」をどう解するかで、村の成り立ちの実態が大分違ってくる。それと「間切村名尽」が『琉球資料三〇と三二』にある(『那覇市史』(琉球資料上所収)。資料三〇には出てこないが、三二に「東江村・大兼久村・城むら」と出てくる。前者に今帰仁間切湧川村(1738年創設)は出てこないが、後者には出てくる。すると「名護間切の東江村と大兼久村と城村」が行政村になったのは、その頃とみてよさそうである。行政村にはなったのであるが、神アサギの創設や祭祀の分離は行われていない。そこでも祭祀は強固であるとの法則が見出される。

 『琉球国由来記』(1713年)の名護間切に、以下の三ヶ所が出てくる。
   テンツギノ嶽       名護村
   名護巫火神      名護村
   名護城神アシアゲ  名護村】

 『絵図郷村帳』に「城村」と「かねく村」は「当時無之」として登場する。その後の『琉球国高究帳』には「名護村」のみ出てくる。「当時無之」は『絵図郷村帳』の時には「城村」と「かねく村」は、行政村としてなかったと解すべきか。『絵図郷村帳』はそれらの村が存在した頃に編集されたと見るべきか。「当時無之」をどう解するかで、行政の名護村の変遷に大きく影響してくる。

 「御当国御高並諸上納里積記」(1743年頃か)には、名護間切の村は世富慶村・名護村・喜瀬村・幸喜村・許田村・安和村・宇茂佐村・屋部村・山入端村・宮里村・数久田村の11ヶ村である。前回のムラ・シマ講座で行った羽地間切の田井等村は登場するが親川村はまだ出てこない。分村する前の資料である。

 『沖縄県統計慨表』(明治13年)を見ると、名護間切の村は13ヶ村が登場する。新しく出てきた村は城村と東江村と大兼久村の三ヶ村である。そこで名護村が消えている。流れから見ると名護村が東江・城・大兼久の三つの集落となり、それが行政村になったと見られる。

 明治13年当時の東江村は147世帯(人口697人)、城村は80世帯(人口497人)、大兼久村は201世帯(1016人)である。他の地域の村規模と比較すると名護村は大規模な村であったことがわかる。分村した大兼久村と東江村も大規模な村である。

 名護グスクの麓に展開していた名護村が三つの村に分かれるが、行政村として独立した村の祭祀はどうなっていったであろうか。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年)を見ると、名護間切は城村しか出てこない。名護城嶽と神アシアゲとのみ登場。東江村と大兼久村に神アサギを造らなかったのはなぜか。羽地間切の田井等村から親川村が分かれたが、祭祀は一緒に行っているのと同様なものか。そのあたり、名護村から分れた城・東江・大兼久の集落が行政村となり、再び名護村に統合されていく過程を丁寧にみていくことにする。行政村になっていく過程で祭祀や土地制度や低地の仕明など、複雑に絡んでいるようだ。

名護村と三つの村】(東江・城・大兼久)
 
▲名護が「那五」と記した『海東諸国紀』(1472年)       ▲名護市の全域(『名護市史』より)


 
▲名護村(ムラ)が東江・城・大兼久の三か村が創設される ▲大正末頃の名護三ヶ(『共産村落之研究』


2023年1月19日(木)

 1月29日(日)恩納村谷茶と前兼久、30日(月)午前中、本部町の嘉津宇(現場)と本部間切から今帰仁間切へ移動した天底のウガンウガンの講座(スライド)。午後から羽地と名護の町の展開(スライド)で講座を。日にちとデータの所在の確認。いずれもしばらく現場へ行っていないのでどう変わっているか。

 青空なので撮影日より。旧暦の12月28日、沖縄のヒカンサクラの開花は旧正月前後が見ごろである。ニュースで春到来とアナウンスしている。昭和30年代頃、豚の悲鳴が聞こえた時期でもあった。桜と言えば、卒業式や入学式の頃と教科書的に春と頭に刷り込まれているが、イヤ、山原では真冬なのだと抵抗している。

 
2023.1.19(旧暦12.28)撮影

 恩納村の谷茶と前兼久で何を話そうかと夢の中で駆け巡っている。忘れないうちに目も書きしておこう。まず谷茶は1673年まで金武間切の内、行政で国頭方で行政区分の境界。言語のP→F→Hの変遷のF地域、神アサギ、集落区分の…ダカリ地域である。恩納村は金武間切と読谷山間切から村からなる。それがどんな特徴を生み出したのか。琉歌に表れ、壺屋焼きの土の産地? ヒチャラが石原、ウンナ(恩納)が大きな広場の義か?





2023年1月18日(水)

 山原地域にある五つのグスク(今帰仁グスク、名護グスク、羽地グスク、国頭(根謝銘)グスク、金武グスク)の個々のグスクの歴史を抑えておく必要がありそう。それは三山の時代の興亡を見極める必要がありそう。それら五つのグスクは、古琉球の五間切へ繋がるキーワードである。

根謝銘(ウイ)グスクと関わる出来事】(歴史)

 ・大宜味村謝名城にある。
 ・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
 ・標高100mの所に位置する。
 ・14~15世紀頃の筑城で大型のグスク
 ・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
 ・ウイグスク内に大グスク(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
 ・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
 ・貝塚も確認されている。
 ・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
     (国頭按司の居城か。「国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
     (国頭間切の拠点は根謝銘(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城か)
 ・1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)と
     あり首里居住か。
 ・1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
 ・1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の国頭
     大くもいは首里に居住か。
 ・根謝銘(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
     (1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし)
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
     (その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切
     分割以前(その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
 ・旧暦7月に海神祭が行われる。
 ・按司墓あり
 ・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)
 ・『絵図郷村帳』(1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
 ・『琉球国高究帳』に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
 ・屋嘉比川の下流右岸に国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
 ・1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
   田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、さらに大宜味へ
   施設。
 ・1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
 ・1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
 ・根路銘(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方
  の火神が重なっても問題なし。
   (国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にあるので、間切分割後の
    国頭按司は国頭間切内へ)
 ・1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
 ・1713年『琉球国由来記』に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村・親田村
   ・屋嘉比村・見里村」がある。
 ・1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。
    (1736~95年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
 ・1732年(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
 ・明治36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
 ・明治36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
 ・明治41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。これまでの村(ムラ)
  は字(アザ)となる。
 ・1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。

※根謝銘グスク内の御嶽(イビ?)の名称は『琉球国由来記』(1713年)とでは混乱して
 いるようである。
  ・中城之嶽(神名:大ツカサ)(見里村・屋嘉比ノロ管轄)・・・大城の嶽(田嘉里:屋嘉比ノロ)
                    (当時国頭間切)
  ・小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)(城村・城ノロ管轄)・・・中城の嶽(謝名城:城ノロ)
                    (当時大宜味間切)



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屋嘉比港からみたウイグスク  ウイグスクから見た屋嘉比港  グスク内にある神アサギ

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グスク内にあるウフグスク嶽(イビ)グスク内にあるナカグスク嶽(イビ) 地頭火神の祠

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▲国頭按司(大宜味按司?)の墓  ▲ヌルガー     ▲トゥンチニーズとウドゥンニーズ

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▲今帰仁グスクが遠望できる    ▲国頭按司寄進の石燈籠か(奥)

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 ▲城ノロドゥンチの建物    ▲ノロドゥンチの側にある石の香炉


2023年1月17日(火)

 「寡黙庵」のヒカンサクラは花開いています。一分咲きか。沖縄の桜の満開時は「真冬です」と説明している。10年間観察したことがあり、旧暦の正月前後が、ヒカンサクラの見ごろ。今年の旧正月は22日。不思議とバナナが二本花(つぼみ?)が顔をだしている。一本は茎の途中から飛び出している。突然変異か? 昨年からの実の収穫はまだ(3本)。飽きることなく桜とバナナを見上げているので首痛になっている。





 以前「沖縄の共同体の起源と形成」というテーマで講演を行っている(於:琉球大学医学部精神科?)。私の肩書が「前館長」なので、退職直後である。共同体や祭祀、土俗が与えられたテーマでしたので、あの大津波(2011年3月)の後である。






 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

   ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
    ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
          琉球から請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
          視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
          謁して辞令を貰っていたという) 
    ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁
         する。
    ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
    ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
 
 【口語訳】(蔡温の独物語)
 毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、詰まりは當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が存する。というのは昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何かにつけ不自由でいかにも気ままの風俗がわるく蔓延、それに世がわり(革命)騒ぎも度々あって万民が苦しんだいきさつは言葉で言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にしたがってから此の方は風俗も善くなり農民も耕作方にひとしお精を入れるようになり国中が何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代になった。
 これは畢竟薩摩のお蔭でかように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考えなければいけない。この事は「御教条」にも詳しく記しておいた。





2023年1月16日(月

 昭和56年頃、百按司墓關係の資料収集を収集したことがある。百按司墓―本格的な調査と保存対策急務―として報告したことがある(『なきじん研究11号』に収録) 以下は積み残しの報告である。先日の笹森儀助資料紹介も一連の調査である。

2004.7.7(水)調査記録

運天の百按司墓の明治の修理 

 運天の百按司墓は明治になって修復されている。その資料を紹介しましょう。「沖縄県下今帰仁間切白骨埋エイノ件」に関する以下の文書がある。百按司墓の「白骨埋エイ之義ニ付伺」は明治15年2月2日に沖縄県令上杉茂憲県令から内務卿山田顕義宛に提出され、さらに明治15年9月7日に内務卿山田顕義から太政大臣三条実美に提出された文書である。太政大臣の決裁は「伺ノ趣ハ該県庁費用中ヲ流用支弁セシムヘシ」との回答である。その後、百按司墓は修理されているが、「白骨が暴露し風雨にさらされているので堪えない」とのことで文化財的な視点での修理ではなかった。

   ・白骨埋エイ之儀ニ付伺
   ・第一付属書「管下今帰仁間切運天港側白骨埋エイ之義ニ付上申」
   ・第二付属書「今帰仁間切運天港側白骨掩埋費見積書」
   ・内務省伺沖縄県下白骨埋エイノ義ニ付上申

 これらの文書の詳細は掲載できないが、百按司墓が明治15年2月に「見積書」を添えて申請され、明治15年9月7日付けで「伺ノ趣ハ該県庁費中ヲ以テ流用支弁セシムヘシ」とあり、その後明治21年頃に修理されたようだ。百按司墓は明治15年に修理の申請がなされ、すぐ修理されたわけではないようである。明治26年9月運天を訪れた笹森儀助は「番所ノ南、百按司山ニ百按司墓ヲ参拝ス。洞窟ハ数年前、石垣ヘ堊塗(石灰のことか)ニテ堅メ外部ヨリ顕レタル数百ノ髑髏ヲ蔽ヘリ」と述べている。明治26年から数年前とするなら、百按司墓の修復は明治20年頃ということになる(何かに明治21年との記事があったような・・・)。

 その時の「見積書」と修理された第一~三墓所が現在(2004年)どうなっているか画像で紹介しましょう。「見積書」に添付されているのが下の絵である。「見積書」の石垣の修理などからすると、修理前の現状を描いた絵のようである。
 

▲『沖縄県史』(12巻所収。沖縄県関係各省公文書)より


 ▲第一墓所の外形


▲第一墓所の内部(現在の様子)

一 金四拾円六銭
  内 訳
一 金四円八拾銭

第一墓所入口石垣ノ積リ高六尺幅三尺五寸
  此用材壱尺二寸角ノ切石六十個壱個ニ付八  銭宛
一 金四円八拾銭

右 仝墓所北表ノ石垣破壊築替高六尺幅六尺五   寸右用石三十個一   個八銭ツヽ
一 金三拾銭
  右 石垣ノ中込用小石十五荷毎荷二銭ツヽ
一 金四円五十銭
  右 石工拾五人代毎人拾六銭宛
一 金弐円四拾銭
  右 石工手伝拾五人毎人拾六銭宛
一 金弐円九拾四銭
  右 石灰三斗入七俵代毎俵四十二銭
一 金四円四拾八銭
  右 石灰搗練夫二拾八人代毎人拾六銭
一 金弐円四拾銭


 第一墓所にあった木棺の三基は歴史文化センターに修復して保存・展示してある。明治の第一墓所の修理は、覗き穴のある部分との石積みと北表部分(墓の奥の上部に墓室があり、その入口の修理の可能性が大である。木棺は移してあるが家型の建物の部材は現在でも墓所内にある。

 ▲第二墓所の外形


▲第二墓所の内部(現在の様子)

右 第二墓所石垣高二尺幅四尺此用材一尺二寸  角ノ切石三十個   毎固八銭
一 金拾銭
 右 石垣中込用小石五荷
一 金弐拾四銭
 右 従来石垣破壊修補中込小石十二個
一 金弐円拾銭
 右 石工七人賃銭
一 金壱円拾弐銭
 右 石工手伝七人賃銭
一 金弐円拾銭
  右 石灰三斗入五俵代
一 金三円弐拾銭
  右 石灰練夫弐拾人賃
一 金三拾銭



 第二墓所の建物の屋根部分の一部は歴史文化センターで保存し展示してある。木棺の部材の一部が残っている。その墓所の部材が歴文に持ち込まれたのは、某家具屋が家具に使おうとしたが柔らかすぎて使えなかったということで。




  ▲第三墓所の外形


▲第三墓所の屋根部分

第三墓所石垣破壊ニ付修繕所高六尺幅二尺中込  用
一 金九拾銭
  右 石工三人代
一 金四拾八銭
 右石工手伝夫三人賃
一 金弐円拾銭
 右 石灰三斗入五俵代
一 金三円弐拾銭
 右 石灰練夫弐拾人賃 


 明治の修理は、石垣を積み、漆喰で塗り固めることを主としているので、内部の家型の建物や木棺などの部材は古くからのものとみていいであろう。第三墓所の屋根部などの部材も同様、古くからのもの。屋根部分に使われている部材をザフンと呼んでいる。

 「見積書」にある修理に使われた石の数や石灰などの数量や添付された絵などから、当時の修理の範囲がわかりそうである。

 


※百按司墓一帯に10余の墓地があり、修復時につけた名称である。

  
 

島袋源一郎調査
   人骨
  ・人骨あり民間墓らし
  ・人骨あり民間墓らし
  ・人骨あり民間墓らし
  ・人骨あり民間墓らし
  ・残れる遺骨を移せる陶壺 那覇□□社より入手し此の壺の蓋に□年月日を記入せり
  1、
   (謎の墓)
 
      地上(屋根あり、図)
      現在石垣を以て囲僥せり
      金紋の板片は此処より昭和二年金関氏同行の際採集せり
      今に□物の屑出土す 琉球カハラケ一個出土 博物館にあり
      灰色の素焼直径ル□□

  2、此処は遺骨殆どなし 板葺なし

  3、此の二か所(2、3墓所)北山王関係 又は仲北山(その□の)關係ならんか不明 祀人なし

 (墓あり)
   民間の古墓
      □□
    甕の蓋に人名年号記入あり

       内部のカメ(二基の図あり)
    (上段の墓) 梯子にて上る
   金氏祖先、上江洲健 吉田安盛等金氏の祖先にして、
   久志親方安〇某 第一尚氏時代の臣下なりしものにあらんかと考ふ
  甕二個

  4、(百按司墓の諸臣下ならんか)
   此の内一個は博物館に保存 木棺数個あり 白木造りの粗造り 葬る人なし
 
    以下工事中)



※戦前の博物館に展示されていたものか?

上の写真は東恩納寛淳氏「南島風土記」のグラビア


 2023年1月15日(

 過去の講演内容が必要で「地域博物館が果たす役割」をアップ。
 地域をみていくためのキーワードの説明しなければならず、過去のとりだすことに。

2004.11.18(木)

 「山原の御嶽(うたき)」について目を通している。以前、レジュメ原稿をつくったのであるが頭から消えている。再度目を通しているが、なかなか頭に入らない。ハハハ。普段講演の直前に真っ白に抜けます。一度真っ白に抜けないとダメ。一度だけ真っ白に抜けたまま回復しなかったことがあります。その後、生放送番組は引き受けないことにしていますが。

 講演や報告などは、直前に原稿を作ります。直前なので原稿が頭にありますので、そのまましゃべればいいことになります。それは、一石二鳥だと思っています。今回はそうはいきません。前に提出した原稿は、もう頭にありません。それと、原稿をつくっても原稿を見て話すことができません。字が見えないので。手書き原稿はなおさら。それで、これからレジュメ原稿を頭に叩き込むことに。

 さて、言い訳はそれだけにして「山原の御嶽(うたき)」について、レジュメに目を通して頭の整理をしておきます。「山原の御嶽(うたき)」については、次年度の「なきじん研究」(第14号)で踏査した御嶽の全てを掲載の予定。20日の歴史研究会での発表は、代表的な事例と御嶽の概要の報告となります。頭整理のためレジュメを掲載しておきましょう。

         山原の御嶽(うたき)
           
1.はじめに
 これまで山原のウタキ(御嶽)を踏査してきた。ムラのウタキを探す場合、いくつか気づかされたことがある。ウタキがムラの墓所である、あるいはニライ・カナイの神や航海安全の神を祭った聖地であるとか、ウタキが何かの議論がなされてきたと思う。ここではウタキの本質や神観念を論ずるものではなく、ウタキと関わる集落や村(ムラ)、そして祭祀や祭祀と関わる神人との関係からウタキについてみていきたい。

2.山原のウタキ(御嶽)と集落と村(ムラ)
  山原のウタキ(御嶽)を集落や村(ムラ)との関係でみていく。そのために使用する言葉について規定しておきたい。

  村(ムラ)・・・近世から明治41年まで使ってきた行政単位。明治41年に村(ムラ)
           は(アザ)となる。部落や村落と同じ意味で使う。
  村(ソン)・・・村(ソン)は明治41年に間切は村(ソン)となる。現在の村(ソン)の
           こと。明治41年に今帰仁間切は今帰仁村(ナキジンソン)となる。
           かつての村(ムラ)は今の字(アザ)のこと。
  集  落・・・・・村(ムラ)や字(アザ)や部落の中の、さらに小さい単位の家々の集
          まりに使う。村(ムラ)の中のマクやマキヨなどの単位を集落と呼ぶこ
          とにする。
   移動村・・・移動村(ムラ)、あるいは移動村落は行政村や間切を越えて移動し
          た村(ムラ)のこと。
  集落移動・・・村(ムラ)内部で集落部分が移動している場合をさしている。
          
3.山原のウタキ(御嶽)の様相と呼称
  山原のウタキは杜をなし、その多くが集落の後方に位置する。後方にあり、集落を抱えるようにある。ウタキを集落との関わりで見ていくが、ウタキそのものがどのような要件を供えているか。ウタキは外観から見ると杜をなしている。ウタキの基本的な要件は杜の入口あたりに鳥居がたっている。それは本来の姿ではない。山原における鳥居は、大正から昭和の初期にかけてのものが多い(但し、石垣島の鳥居は明治初期にはある)。杜の内部にイビヌメーやイビがあり、ムラの人たちによって拝まれている。
  ウタキ(その杜)の頂上部にイビがあり、イビは岩であったり、目印に石を置き、線香を立てる香炉が置かれたりする。イビヌメーあたり、あるいはイビを囲むように左縄が廻らされている(今でもウタキでみられる)。
  ウタキ(杜)の中に、イビやイビヌメーばかりでなく神屋(カミヤー)や火神を祭った祠などもあり、集落の痕跡をみせるウタキもある。また墓があったり、グスクになっているウタキ(杜)もある。  
   ・ウタキ(御嶽)
   ・タキサン
   ・ムイ(杜)
   ・ウガンジュ(御願所)
   ・ウガミ(御願)
   ・グスク(グシク)
   ・オミヤ(お宮)
   ・神 社

4.山原のウタキ(御嶽)の分類
 ウタキを集落との関わりで見ていくと、ウタキは以下のように分類できる。そこから見 えてくるものを御嶽(ウタキ)の神観念や御嶽が何かということより、ウタキや祭祀が首里王府の制度との関りでとらえてみたい(具体的な事例は別資料で紹介)。

①集落の発生と関わるウタキ(御嶽)
 ウタキの内部、あるいは麓や近くに集落があり、集落(マキやマキヨ規模)の発生と結びつ
 いている。ウタキの内部に集落の跡や神アサギなどが残っている。複数のウタキを持つ村
 (ムラ)の様相。

②複数のウタキ(御嶽)を持つ村と神人
 複数のウタキ(御嶽)を持つ村(ムラ)ある。それぞれのウタキを中心として発達した集落が一
 つの村(ムラ)になった痕跡として複数のウタキと神役の配分が、一門からだす。

③集落移動の村(ムラ)のウタキ(御嶽)
 集落の発生と密接につながり、ウタキはその位置に残したまま集落だけが移動している。
 距離的にウタキを移す必要は必ずしもなかった。

④移動村(ムラ)のウタキ(御嶽)
 ムラ全体が他の村(ムラ)を飛び越え、移動先で新しくウタキを作っている。故地にこだわるこ
 となく高い所に向けてイビを置いてある。地形的に故地に向いているウタキもあるが、こだわ
 る場合は故地へ遥拝する拝所をつくり、あるいは向きを変えてウガンをする。移動先でウタキ
 をつくり祭祀を行うのは何故か。その必要性。

⑤明治以前に創設された村(ムラ)とウタキ(御嶽)
 明治以前に創設された村(ムラ)はウタキをつくり祭祀を行っている。ウタキをつくり祭祀を行
 う理由は。(祭祀が多く、統合されたのは?)

⑥分字(ブンアザ)とウタキ(御嶽)
 大正から昭和初期、戦後にかけて分字(ブンアザ)があるが、新しくウタキをつくらず、祭祀は、
 出身字(アザ)に参加する。それは制度としてウタキをつくり祭祀を行う必要性がなくなったか
 らである。

⑦グスクの中のウタキ(御嶽)
 杜そのものがグスクになっていて、その内部にウタキ(イビ)がある例。今帰仁グスクや名護
 グスク、親川(羽地)グスク、根謝名グスクなど。小規模のグスクでは中城(今帰仁村)、ナカグ
 スク(旧羽地村)、恩納グスク(恩納村)などがある。

⑧クニ(国)レベルの御嶽(ウタキ)
 集落の発生とは関わりないウタキで、今帰仁村のクボウヌウタキやカナイヤブ、国頭村のアス
 ムイなど。

⑨その他
 集落の発生とは関係なく複数村(ムラ)を管轄するノロと関わるウタキがある。今帰仁村玉城
 にあるスムチナウタキ。玉城ノロは玉城・謝名・平敷・仲宗根のムラを管轄するノロである。

5.複数のウタキ(御嶽)を持つ村(ムラ)と神人
  ・ウタキ(御嶽)の管理と神人
  ・集落の発生と神人と神役の継承
  ・ウタキ(御嶽)における神人の祈願(ウガン)
  ・ウタキ(御嶽)にある「奉寄進」の香炉や石灯籠

6.ウタキ(御嶽)と神人と祭祀
  ・村(ムラ)の祭祀を首里王府との関係でみる。
  ・祭祀を司るノロをはじめ神人は公務員である。
  ・神人の祈りは五穀豊穣・ムラの繁盛・航海安全(豊漁)が主である。
  ・祭祀は「神遊び」といわれるように村人の休息日である。
  ・神人の祈りは国の貢租に関わるものである。

まとめ

.
▲上運天の御嶽のイビ(タキヌウガン)    ▲上運天の御嶽(ウタキ)の遠景



2023年1月14日(

 【瀬洲・源河(現名護市)】2003.5.7(水)羽地域のムラ・シマ参照)

 
連休明けは気が重い。腰を上げるのに時間がかかる。また、休み明けはあれこれスケジュールが入る。今年の連休は、前半は伊平屋島。後半は一日は家でブラブラしたかったのであるが、買い物に出かけたら、つい名護市源河まで走っていた。そのまま戻るには、「まだ時間があるなぁー」一時間半ばかり・・・。ちょっと集落に入ってみようかと。まず、今では村名の消えた瀬洲村へ。さらに源河まで足を運んでみた。瀬洲は現在名護市の源河に吸収されているが、近世にあった村である。

 
『琉球国由来記』(1713年)に瀬洲村に源河之嶽があり、源河村に上城嶽、野国ニヤ嶽、源河神アシアギ、源河巫火神がある。瀬洲村には源河之嶽と掟神火神と瀬洲村神アシャゲがある。源河村と瀬洲村の両方に神アシアギがあり、源河ノロの管轄となっている(『琉球国由来記』で御嶽の部分で真喜屋ノロの管轄としている部分があるので注意を要する)。現在、源河に神アサギがない。昭和2年にクーグシクに拝所(お宮)をつくり統合してしまったようだ。お宮の内部で瀬洲と源河の拝所は区分している。

 瀬洲村跡は源河の東側の山の麓に細長く集落(メーガーと呼ばれているようだ)が展開している。そこが瀬洲村の故地から移動してできた集落である。故地の近くに瀬洲嶽(シーシウタキ)があり、その名残りをかろうじてとどめている。瀬洲村の源河村への合併の時期は今のところはっきりしない。明治13年の「県統計概表」に瀬洲村は見えない。また明治15年頃の『羽地間切神拝所』に「瀬洲内神火ノ神と瀬洲嶽」は出てくるが村名と神アサギは出てこないので、そのころにはすでに統合されていたのであろう。もう少し現場の踏査が必要だ。

 
瀬洲から源河のウーグシクまで登る。お宮のあるクーグスク(小グスク)はウーグスク(大グスク)に対する呼び方のようだ。そこには源河ウェーキ(豪農)の屋敷が残っている。前方は道路に沿って円形に石積みされ、門口の石積みは、ずれないように結構工夫をこらしている。石はほとんどが海石(珊瑚石灰岩)である。石積みのブタ小屋があり、屋根部分はアーチ型に削った石積みとなっている。

 源河ウェーキは国頭地方一、沖縄の三大ウェーキの一つだといわれている。明治14年11月上杉県令一行が羽地間切から大宜味間切への途中、源河ウェーキで小休止している。「国頭地方、第一の金満家」と表現している。

....
 
▲源河の集落。右側の川は源河川 ▲源河ウェーキの屋敷の石積みの一部

..
▲源河ウェーキの門の石垣     ▲同家のブタ小屋(ウヮンプル)の跡

..
     ▲同家の勝手口の門                 ▲瀬洲集落のカー(前湧泉?) 
  

 2012年10月22日、竹田城(兵庫県)を訪れる。どのような城なのか無知であるが、なぜか訪れてみたい城の一つであった。大阪から姫路へ。姫路から播担線の寺前、さらに竹田駅へ。竹田駅から登城する。竹田城は虎が伏せたような形状から虎臥城とも呼ばれている。登城途中、シカとであう。(武田城へ飛んだのは、山上の国指定の遺跡の安全性がどこまで認められているのかの確認!)


 

 

 

                



2023年1月13日(金)

  
▲開花状況            ▲膨らんできました      ▲朝もやの羽地内海

 昭和63年3月15日から10日間、東京→青森県(弘前市)→東京→大阪(奈良)まで。大阪では平良盛吉の資料調査。『南島探検』に収録されたのもあるが、開墾すべき場所の図は、その後活用している。その時に印象的だったのは、資料目録に「箱棺の図 百按司墓の木棺」の図であった(下の木棺の図:淡いピンク色の色付けされていた記憶)。資料集ができたのは目録から山原と関わる部分のみである(約80枚)。コピー資料は名護市史に所蔵)。

 平良盛吉氏(敬称略)は旧羽地村誌の執筆者である。娘さんの比嘉京子さんは大阪在で平良盛吉の資料の確認、人柄について聞き書きをすることができた。



【平良盛吉氏目録と聞き取り(略)】(仲原作成)


2023年1月12日(木)

  年度末が近づいてきた。そのこともあって会議の日程調整の問い合わせあり。頭の中であれこれ走り回る。過去の調査記録を取り出し記憶をよみがらせている。目の前の原稿の区切りをつけないと。さて、「寡黙庵」のポツリポツリ開花している花を数えにいくか。

【新城徳助と新城徳幸の文書史料】(2008.02.01)記録

新城徳助と新城徳幸の文書史料の確認をする。今帰仁間切親泊村の出身で徳助(1841年生)と徳幸(1869年生)は親子である。徳助は明治の辞令書と「口上覚」(履歴)(16点)、徳幸は明治10年代の卒業証書と辞令書など(16点)である。1990年に公にし、後に寄贈いただいたものである。史・資料を所有されていた新城徳祐氏(故人:徳幸の子)の奥さんから、さらに多くの資料(書籍や写真や拓本、新聞スクラップ・直筆の原稿など)の提供があった。史・資料紹介を兼ねて「新城徳祐氏寄贈資料展―グスク・芸能・ノ-ト類を中心に―企画展(平成10年)を開催した。辞令書や明治の卒業証書や口上覚などの文書史料(32点)に目を通してみる。
 (その後、新城保子さん(徳祐氏の奥さん教員辞令寄贈)

http://rekibun.jp/gazou1/080201ji1.jpghttp://rekibun.jp/gazou1/080201ji2.jpghttp://rekibun.jp/gazou1/080201ji3.jpg
            ▲新城徳助の「口上覚」(明治16年)

http://rekibun.jp/gazou07/080201nak1.jpghttp://rekibun.jp/gazou07/080201nak2.jpg
 ▲新城徳助の「今帰仁間切西掟」の辞令書   ▲新城徳幸の「今帰仁間切仮文子」の辞令書

2021年7月7日(水)(この年いろいろな資料を紹介をしている)

 2020年の12月に寄贈いただいた辞令・証明書の一部(31枚)である。故新城徳祐氏と保子さん(徳祐氏の奥さん)の学校関係の辞令・講習証明書である。辞令書と講習証書には新城苗茂となっているが戦後か名字を徳祐と改める。新城徳祐氏は数多くの史・資料を寄贈いただいた方でである。その一部は『なきじん研究10』―新城徳祐調査記録ノートとして発行(今帰仁村教育委員会:298頁 2001年)。

  

 



 下の二枚は兵庫県と神奈川県からの帰還証明書と南方からの引揚証明書である。詳細は別で触れるが、コロナ禍の今の社会の動きと重なって仕方がない。

 


2023年1月11日(水)

 琉球の三山の時代を中々イメージすることができないでいる。想像豊かにすることも可能であるが、それでも手がかりを掴みたい。その時代を島袋源一郎(敬称略)はどう捉えていたのか。彼の『琉球百話』に興味深く、その時代を捉えている。まずは、戦前の研究者が「群雄割拠」の時代をどう捉えていたかなぞってみる。

 島袋源一郎の『琉球百話』(昭和16年発刊)の自序に山上八郎氏を豊見城家を案内され、氏が退県する際「貴君一つ註文がある。あなたの知っている琉球の話を百種だけ纒め、琉球百話とでも題して出版したら・・・・、之が貴君に対するお礼の言葉だ」と。

 


『琉球百話』 22 琉球の群雄割拠時代 

 戦争を知らない国があるといってナポレオンを驚愕させたという琉球は、昔から戦争の国ではなかった。こちらでも本土とおなじく群雄割拠の戦闘時代があり「いくさ花遊び」という俚諺さへ残っている位だから随分殺伐な時代もあったらしい。弾丸黒字黒子の此の島には百に近い小さい城祉が残っているのを見ても当時の状態を伺うことが出来よう。

 此等一城の主のことを昔は「世の主」とか「按司」とか呼んでいた。世の主とは世を支配する主の意で凡そ本城の主を指して称へたらしく、按司とは所謂一城の「あるじ」という意味の言葉らしい。近頃は俗に「あじ」と称へ又「あんず」と発音している。

 沖縄本島に於ける城址を調査するに面積僅に十万里の島尻地方だけでも規模の最も大きい東大里城・豊見城・多々那城・南山城を始め・具志頭・佐敷・玉城・東大城・米須・真壁・名城など五十近くもあり、又中頭地方でも浦添・中城・勝連を主として大小二十余を算し、北部国頭地方では北山城を始め十数ヶ所あって合計二百に近いのは驚くべきことゝいはねばならぬ。此等の中には単に郭だけあって防塁といった形のものも二三はあり、又比較的新らしいのは石垣低くして貴人の邸宅といった程度のものもないではないが、大体に於て第一尚氏の後半期迄は殆ど各部落に城塞を設けた形になって居り、城内及付近よりはいづれも支那又は朝鮮、安南方面の青磁焼南南蛮等の高台破片並に当時の琉球土器(かはらけ)の破片を採集することが出来るので之を以て按司住居又は築城の年代を推測し得らるゝことは学界の喜びとする所である。著者の採集したもの己に数十ヶ所に及びすべて郷土博物館に保存してある。

 猶ほ余談ながら此に附記して置きたいことは、此の按司の子孫より「のろ」と称する女の神職を出しているが、其の数が凡そ城の数に比例し、島尻百四人、二百十四人(之は附近の離島を併せて)になって居り、之を以て当時の人居の繁栄と文化の普及と想察することが出来ることである。

 偖て琉球に於いて戦国時代と称すべきは、我が南北朝醍醐天皇の御代、当地では玉城王の治世中政権荒怠し、遂に中山・南山・北山の三王分立して覇を争うてより凡そ一世紀間が其の絶頂で明主太祖から左の如く戒告されたのを見ても分かる。

 「近頃使者帰っていう、琉球国三王互に争い、農を廃して民を傷く、朕之を聞きて憫撛に勝へず、今使を遣して之を諭さしむ、能く朕か意を體し、兵を息め、民を養い、以て国作を綿(つらぬ)れば天之を祐け、然らざれば悔ゆるとも及ばざるべし」

 五百年前尚巴志王に至って始めて三山一統の大業が成就した。此の時明主成祖は詔を賜いて、「両琉球国分かれて人民塗炭すること百余年、近頃汝が義兵復た太平を致すと、是れ朕が素意なり今より以後慎むこと始の如く、海邦を安んじ、子孫之を保せよ、欽(つつしおめ)よや、故に諭す」と訓諭された。

 然るに夫より二十余年を経て尚金副王の薨後其子志魯と叔父布里との即位争があり、続いて阿摩和利の乱、二回の鬼界島征伐もあり、更に第二尚氏時代に入っても八重山赤蜂征伐、久米島出征もあって尚真王の晩年中央集権に至る迄は各按司は父祖の城地に割拠していたので、三山分立より此に至る凡そ二百年である。

2023年1月10日(火

 戦前の首里城内北殿に創設された「郷土博物館」」に携わっていた島袋源一郎(敬称略)は「旧都首里見物―首里城―」として『琉球百話』(昭和16年)におさめている。その前に「郷土博物館建設報告」(沖縄教育240号)で報告されている。島袋源一郎が首里城だけでなく「沖縄の歴史」と深く関わっていたか、ずっと疑問に思っていた。「ヤンバラ―が、なんで首里城の館長になっているのか」と批判があったと聞かされていた。その一つに東恩納寛淳氏と崇元寺(下馬碑)でのエピソードがある。「平民は車から下りないといけない」と。源一郎は「万民とあります」と。それから山原(ヤンバル)はウヤンバル(御原)と呼ばれるようになったと。源一郎の撰文は東恩納寛淳氏である。島袋源一郎の公徳碑の序幕式に母に連れられ参加した記憶がある(1960.6.5)

「寡黙庵」の庭のヒカンサクラが咲き出している。花芽が膨らんでいる。季節感のないハイビスカスやランなども咲いている。

   

94、旧都首里見物―首里城―

 龍潭池湖畔より、往時一千年間三十六島に号令していたと称せられるゝ旧主城を望む時、こんもりと茂った翠縁の上に殿閣の浮かび出ている閉静優雅な景観は、夢か幻か絵か恍惚我を忘れしむるものがあり、凡そ如何なる霊筆と雖も描くことは出来ぬであろうとさえ思われる。城は市の南方丘上に築かれ、面積一万九千坪、築城は日本式で門楼は支那風である。正門は歓歓会門は尚真王時代の建築で入母屋造りの楼と共に国宝に指定されている。門前左右には、唐獅子の石像が安置され、門を入ると古来中山第一と称されらるゝ「瑞泉」俗に龍樋があり、四時清冽比類なき水を堪え、其の上方には歴代冊封使の賛が堂々たる名文達筆で書遺されてある。

 石階を上りつめると正面に琉球第一の大建築たる旧王城正殿が鑱然として雲表に聳へているのを嚧迎する。昔より「百浦添」(百の浦々を襲うの義)俗に唐摶風と称へ、大玄関前石階の下に丈余の石龍柱が左右に対立している。正殿は間口九十五尺余、深さ五十六尺余、高さ壇上より屋背迄五十四尺、前に一面の突出部と更に向拝とが附加せられ、合計百五十五坪余、外観は重層であるが内容は三層になっている。

 弘化三年の建築で腐朽甚だしかったが、伊東博士の尽力に依って国宝に指定され十数万円を費やして大修理を施した。現今はその奥に鎮座す県社沖縄神社の拝殿となっている。神社は源為朝・舜天・尚円王・尚敬王・尚泰侯の五柱を祀り大正十三年の創建である。向って左の北殿は一に議政殿と称し俗に西の御殿と呼んでいた。之は支那風で尚真王以来冊封使官歓待のために明朝の制を用いて建てたもので、冊封の大典は此処に於て行はれていたが、平常は摂政三司官が政務を執っていたという。ペルリ一行の来訪したのも此の建物であった。元は内部の棟柱に昇龍を描き、丹青の美を盡していたが、年久しく荒廃し、昭和十一年沖縄郷土協会が一万円を募って之を営繕し今は県教育会附設郷土博物館を開設している。

 南殿は俗に南風の御殿と称し、純日本式の二階建である。寛永五年尚豊王時代に薩摩の使臣を歓待する目的を以て創建せられ、佳節に際し、王此の殿にて儀式を行はわれたという。或年北殿北殿に於いて冊封の典礼が行われた時薩使は琉球官吏の制すのも聞かず窃かに南殿より簾越しに窺いていると、冊使徐葆光之を看破し「南殿有客」と呼んで琉吏の色を失はしめたという挿話もある。

 其の他城内には国王御書院の間たりし二階殿や、王女姉常住の世誇殿(現在社務所)などが残存している。城奥の最高地、東のアザナは観望台で首里全景は素より遠く中頭・島尻地方を睥睨し甚だ眺望に富んでいる。城外、園比屋武嶽の石門並守礼門はいづれも国宝に指定され、附近に立つている苔蒸した「国王頌徳碑」及び「真珠湊之碑」は仮名漢字交りで書流してあり貴重な史料である。

 
  首里城正殿(国宝)(源一郎は右から二人目)

※首里城正殿の写真は『琉球百話』のグラビアより

(以下は略)
 ・円覚寺
 ・弁財天堂
 ・龍潭
 ・尚候爵邸
 ・桃原農園

▲東恩納寛淳氏も参列(1960年)

2023年1月9日(

 島袋源一郎スクラップファイルに昭和56年頃作成した「島袋源一郎著作論文目録」(以下)が出てきた。「伝説補遺 沖縄歴史」「国頭郡志」「琉球百話」など活用してきた。「沖縄教育」(大正5年~昭和16年)掲載分は断片的に出版本に収録されている。未収録が多かったため周りから全集の話がでていたこともあり、資料目録を作成した経緯がある。その頃、大学の非常勤と名護市史の資料収集に携わっていた頃である。それと沖縄県地域史協議会と。平成元年、今帰仁村教育委員会の歴史資料館建設準備委員会へ。そのため公務優先のため、源一郎の全集の編集作業はそこでストップ。(敬称は略)

 源一郎関係の件は、源一郎の妻から母(源一郎の実妹)に託された。戦後であるが、源一郎の資料の件で母に問い合わせがあった。源一郎の後継者とされていたT氏が持っているのではと。その件で大阪に飛んだことがある。万博会場跡地千里が丘のT氏の自宅を訪ねたことがある。「私のところに沖縄関係の資料はありませんよ」とのことで、納得して帰ってきたことがあった。その時のお土産で「田村浩」初版本の「共産村落の研究」と銅鏡の出版物を戴いてきた。(そのころ、沖縄研究に手を染め始めたころである。源一郎は母から半面教師的に学んでいた)
  
 来客があるごとに、伊波晋猷、東恩納寛淳、柳田国男、折口信夫、仲宗根政善、平良新助、戦前の首里城北殿の博物館などの話を聞かされていた。





2023年1月8日(

 天気がいいので屋我島の饒平名・我部(松田)、今帰仁村の上運天、運天まで往く。

 何故饒平名に屋我ノロ家がある?
    屋我ノロ管轄の村は?
 我部に二つの神アサギがるのは?
    我部ノロ管轄の村は?
 上運天の神アサギ、現お宮の建立は?
 運天の神アサギ、運天のウタキは?
 運天に源為朝公はやってきた?
 運天村と上運天村の祭祀の管轄ノロは?

 
▲饒平名の神アサギ        ▲ノロ家の隣にある拝所

 
▲我部の拝所と神アサギ      ▲松田の神アサギ

 
▲上運天の神アサギ         ▲上運天のお宮(昭和15年)

 
▲運天の神アサギ          ▲運天の海岸(番所があった頃の馬場跡)

【面白い琉球の辞令】(昭和16年)(文章はママとした。戦前の研究レベルの確認のため) 

 琉球より支那への文書は勿論漢文で、之は明朝時代琉球へ帰化した三十六姓の久米村の人達が草案するのであった。しかし薩摩及び江戸幕府に対する文書は、所謂候文で認めていたのである。また藩内に於ける公文書等も候文を使用していた。茲に往時琉球政庁より発せられた辞令を掲げてある。四百年前尚清が南蛮貿易に従事する役人に与えた辞令書に、

  しよりの御み事
   たうへまいる
   たから丸か
   くわにしやは
   せいやりとみかひきの
   一人しほたるもい てくこに
   たまはり申
  しよえいよりしほたるもいてこくの方へまいる
    嘉靖二年二十二日

 「首里の御詔 唐へまいる たから丸のくわにしや(官舎にて官職名)は勢遣(せいやり)(とみ)とという意である。嘉靖二年(1523年)は日本年号大永三年に当たっている。また更に一通には、
  しよりの御み事
   まなはんゑまいる
   せちあらとみちくとのは
   一人〇〇かひこほりの
   まさふろてこくに
   たまはり申
  しよりよえいまさふろてこくの方へまいる
   嘉靖二十年八月十日

「首里の御詔 真南蛮へ参る勢治荒富号の筑登之(位階名)は一人〇かね〇の一人真三郎文子に賜り申す 首里より真三郎文子の方へ参る」の意である。嘉靖二十年(1541年)は天文十年に当る。

 今一つ神職に賜りし辞令を掲げて見る。

  しよりの御み事
  きんまきりの
  おんなのろは
  一人もとののろのくわ
  まかとうに
  たまわり申
しよりよりまかとうか方へまいる
万暦十二年(1584)五月十二日

「首里の御詔 金武間切恩納村の のろは一人元ののろの子まかとうに賜り申す。首里よりまかとうが方へまいる」万暦十二年は天正十年で秀吉が関白に任ぜられる前年の発令である。

 以上文書に依って見ると、当時琉球の辞令は我が国特有の仮名を以て書流してあり、拝受者の童名はあるが別に、大田・中村などという姓はないのであるから一国を一家とする大家族主義の精神が現れている。只年号が支那年号を用いているのは貿易の関係上毎年支那へ交通があるのに比し、本土とは割合に疎遠勝な所から便宜之を用いたのであるまいか。尤も「寛文」など日本年号うぃ使用されているのもある。

 此の辞令形式によって考察しても琉球が古くから同文同種であることがわかるであろう。


2023年1月7日(

 年末から体調が良すぎるのではと、セーブしないと。伯父源一郎のファイルが二冊。奄美と琉球について整理中。いろいろ目を通していないのが多い。

45、薩摩と琉球(琉球百話 昭和16年初版))

島津忠国が謀反者足利善照を誅した功に依って将軍足利義敬より南海十二島を加腸せられたのは嘉吉元年(一四四一年)であった。しかしそれは琉球王が将軍の継投や島津氏の襲封毎に慶賀使を派遣する程度に過ぎぎなかった。

然るに之より百五六十年後には秀吉の朝鮮征伐の時に課せられた兵糧の未進が問題の種子を撒いて兎角薩琉の関係は円満を缺くようになった。当時琉球の三司官には明国に留学して来た謝名親方(唐名鄭迵)という豪傑がいたが、彼は支那の強大を恃んで本土を軽視していたので、褱に兵糧の不足分は銀を薩摩から借りて之を補い、年々米を送って償脚しようと約束しながら之を履行せず、剰え督促の使者を侮辱する等不法の行為があり、又徳川氏が三十年間廃絶している明国交易の復活方につき琉球に依頼せるも固く之を拒みて従はなかったので、島津氏は遂に徳川幕府の許可を得て琉球征伐を断行することにしたのである。

慶長十四年薩摩では義久・義弘・家久の三公議を決して樺山久高を大将に、平田増宗を副将に命じ、総勢三千余人、戦船百余艘、三月薩摩山川を発し、大島・徳之島・沖永良部等を降し一路那覇港へ向ったが、防備厳重なりしを以て船を運天港へ引返した。

尚寧王諸臣に議して和を結ぶに如かずとなし、三司官名護良豊等を今帰仁へ遣わし、只菅罪を謝せしめたが久高等許さず那覇に於いて対談すべしと之を除けた。かくて水軍は運天を発して中頭の大湾渡口へ着いた。

陸軍は運天に上陸し途中山林民家を焼き払って進軍し、途中の琉軍を破って大将久高の軍勢は遂に首里城を取囲んだ。然るに琉球は尚真王以来武具を撤廃して己に一世紀を経て居り、しかも薩軍は火縄を携えて居るので到底敵対することは出来なかったのである。

那覇はかねて海岸に柵を繞らし、防備を厳重にして敵の上陸を禦ぎ、琉軍の将謝名は天妃城に拠っていたが、薩軍の副将平田増宗の一隊、水路那覇に殺到し直ちに仝域を襲った。城兵能く防戦したけれども遂に敗れ、謝名は首里へ逃走中捕縛されてしまい、那覇四町の軍士も勇奮身を挺して戦ったが力及ばず生き残っていた琉球武士は泉崎地蔵堂の下で悲惨なる最後を遂げてしまった。

此に於いて那覇を平定した薩軍は破竹の勢で首里へ進撃し、樺山大将の本隊と合して愈々総攻撃を開始した。尚寧王は越来親方を大将とし軍兵を発して防戦せしめたが、甲斐なく、遂に謝罪状を捧げて降服を願出させた。大将久高は衆議の上之を許可することにし、やがて城下の軍を那覇へ撤退せしめた。

而して久高増宗は具志上王子並三司官を召して訓辞を与え、後更に「国王以下謝恩の為め薩摩に到るべし」と厳命した。
 愈々久高等は尚寧王以下琉球官吏二百名の俘虜を乗せて鹿児島へ凱旋した。


2023年1月6日(金)
 
 間切公事に「神遊」について決めている。「神遊び」は首里王府が決めた公休旧と位置づけている。祭祀は民俗として扱われるが、現在の公休日と位置づけて考えている。琉球国は奄美から先島まで広がる。祭祀は基本的に農耕歴であり、祈りは国の繁栄、五穀豊穣、それはらは国への納税にかかわる祈りである。

 ここで公儀帳の「神遊び」を引っ張りだしているのは、1611年以後与論以北喜界島まで薩摩の統治下にはいる。それ以後、琉球国と断絶させられたかというと、必ずしもそうではない。入港時の検査や出港時の荷物改め船が行われる。また、城登りや「神遊び」などの動きもあり、創造以上に船を介しての動きがみあられる。「神遊び」などの見え方は、古琉球からの慣習が受け継がれていることに気づかされる。

   (工事中)







2023年1月5日(木)

 正月休みで(年中休)「寡黙庵」でのらりくらり。職場から段ボールに入れたままのファイルやコピー資料。何がはいているか、ひらくことなく10年近く。1985年頃、「運天の歴史」をまとめるために収集したコピーやファイルが目につき開く。註書きの多い論文スタイルである。笹森儀助資料(コピー)もある。青森県弘前図書での資料収集である。法政大学の沖縄研究所、そこから弘前図書館へ。笹森儀助の沖縄関係の資料収集が思い出される。(下の百按司墓の木棺の図)がそうである。屋根部の実測図と拓本は、東恩納文庫(那覇市与儀にあったころ閲覧とコピーである。その論文は最初は名護博物館「あじまぁ」へ、。後に「なきじん研究」3巻へ。註書きをみると、資料集にとびまわっていることがわかる。運天は奉公人の「口上覚」の記録が最近購入した琉球關係史料集成の「親見世日記」と重なり、足が地についた論文になった気がしている。

 (まだ、手書きの原稿。ボツボツワープロを使うころ)

 沖縄県史12巻資料編(2)841~842頁に「沖縄県下今帰仁間切白骨埋えいノ件」と題する百按司墓に関する資料がある。その一部を掲載しておく。

沖庶甲二三号

白骨埋瘞之儀二付伺

沖縄県下今帰仁間切運天港側白骨暴露シ風雨侵冒スル所トナリ実ニ目撃ニ堪へサル景状ニ付掩埋方同県令上杉茂憲ヨリ別紙ノ通伺出候間勘考候処民心ニモ関シ到底此儘ニ難捨置事情尤ニ相聞へ候間埋掩方聞届申度ニ付右入費金四拾円六銭別途御下渡相成候様致度依テ別紙相添此段相伺候也

明治十五年八月三日     内務卿 山 田 顕 義

太政大臣  条 実 美 殿

伺ノ趣ハ該県庁費中ヲ以テ流用支弁セシムへシ

明治十五年九月七日

(第一付属書)

第三拾五号

管下今帰仁間切運天港側白骨埋瘞之義ニ付上申

本県下今帰仁間切運天港側へ(俗ニ百按司塚等ノ称アリ)数百年来無数ノ白骨ヲ暴露シ風雨ノ侵冒スル所トナリ実ニ目撃ニ堪へサル景状昭代ニ有間敷事柄ニシテ且大ニ民心ニモ可関義ト存候間右白骨掩埋候様致度別紙目論見積書相添此段相伺候条至急仰御裁可候也

但本文御裁可相成ニ於テハ別紙四拾円六銭別途御下渡相成度候也

明治十五年二月二日  沖縄県令 上 杉 茂 憲

内務卿 山 田 顕 義 殿

(第二付属書)

今帰仁間切運天港側白骨掩埋費見積書

一金40円6銭
 内 訳
一金4円80銭                  一金24銭
 右第一墓所入口石垣ノ積リ高六尺幅三尺五寸     右従来石垣破壊修補中込小石十
 此用材壱尺二寸角ノ切石六十個壱個ニ付八銭宛    二荷
一金2円40銭                  一金2円10銭
 右仝墓所北表ノ石垣破壊築替高六尺幅五寸右用    右石工七人賃銭
 右三十個一個八銭ツ、              一金1円12銭
一金30銭                     右石工手伝七人賃銭
 右石垣ノ申込用小石十五荷毎荷ニ二銭ツ、     一金2円10銭
一金4円50銭                 右石灰三斗入五俵代
 右石工拾五人代毎人三拾銭宛           一金3円20銭
一金2円40銭                   右石灰練夫弐拾人賃
 右石工手伝拾五入毎人拾六銭宛          一金30銭 
一金2円94銭                   右第三墓所石垣破壊ニ付修繕所
 右石灰三斗入七俵代毎俵四十二銭          高六尺幅二丈二尺申込用
一金4円銭                    一金90銭
 右石灰搗練夫弐拾八人代毎人十六銭         右石工三人代
一金2円40銭                  一金48銭
 右第二墓所石垣高二尺幅四尺此用材一尺       右石工手伝夫三人賃
 二寸角ノ切石三十個毎個八銭           一金2円10銭 一金10銭                     右石灰三斗入五俵代 
 右石垣申込用小石五荷              一金3円20銭
 右石灰練夫弐拾人賃



 
▲右から第一墓所、第二墓所、第三墓所      ▲左の板閉が第四墓所、屋根部分が第三墓所

2023年1月4日(水) 

 沖永良部島と琉球国との歴史を見ていく場合、沖永良部島と繋がる歴史と史料を準備する必要がある沖永良部島で北山王の三男や「世の主」、那覇の世など、各時代と沖永良部島の歴史を見てみたい。沖縄三山(北山・中山・南山)の時代、北山の怕尼芝・珉・攀安知の時代、三山統一後の中山と沖永良部島さらに三山統一後の中山と沖永良部島の時代(那覇の世)を史料と対峙させながらみていく。

 ハニジの出現は、中北山の時代の興亡があり、滅び怕尼芝が登場する。怕尼芝の出自は不明だが、怕尼芝はパニジやハニジと発音する羽地按司(世の主)ではないかという。仲北山が滅ぶと羽地出身の怕尼芝が北山王となり、その次男真松王子弟の真松千代だという。「沖永良部島世の主御由緒」386頁 

この時代は、「世の主」の時代で北山の三王(怕尼芝・珉・攀安知)で「明実録」の同時代史料をよみとる  その次の時代は、三山統一後の時代である。梵鐘に「琉球国王大世主」とあり「おほよぬし」とよむという。足利将軍が琉球国王への「りゅうきゅう国のよのぬしへ」の文書が五点あげてある。
 ①  応永廿一年(1414年)
 ② 永享八年(1436年)
 ③ 永享十一年(1439年)
 ④ 大永七年(1527年)
の文書(史料)から、沖永良部島に伝わる伝承を歴史的な流れにつげないか。 

「おもろ」に「はにし」や「はにち」や古琉球の辞令書に「はにし」があり、怕尼芝の出身地を地名に表しているとみられる。

 三山統一後の時代は、第一尚氏時代(1429年)から第二監守時代と沖永良部島を史料で見ていく作業である。中山の尚徳王成化二年(1466 年)喜界島遠征、大島討伐が尚清王嘉靖十六年(1537年)、尚清王嘉靖年間、尚元王尚元王(隆慶五年(1571年)が認められる。この時代の史料に大島遠征ではないが「首里王之印」の辞令書が三十点ある。与論島と沖永良部島では辞令書の確認はされていないが、嘉靖八年十二月廿九日(1529年)笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(かさりまきり ・うすく 大やこ)が古く、新しいのが萬暦三十七年二月十一日(1609年)名瀬間切の西の里主職補任辞令書(なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさ・おきて)がある。十六世紀初め頃「三十三君」(祭祀の制度化)が置かれ、永良部阿応理恵の遺品(昭和□年)確認されているので、おもろにのろ、三十のろとあり、のろ辞令の発給があり、沖永良部島ののろの辞令があったとみられる。

 
・1265年大島始めて琉球英祖に入貢
  ・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
  ・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
  ・大島七間切、喜界五間切
 ・1229年(舜天三三)英祖生まれる。
 ・1243年(舜馬順煕元)長崎の渡宋者一行、琉球に漂着。
 ・1260年(英祖元)英祖即位
 ・1261年(英祖二)英祖、各地を巡り田地の境界をただす。極楽山に墓を築く。(浦添ようどれ)
 ・1264年(英祖五年)久米・慶良間・伊平屋の各島初めて中山に入貢。
 ・1265年頃、僧禅鑑浦添に極楽寺を建立。
 ・1266年(英祖七年)大島諸島。中山に入貢、その頃泊に公館(泊御殿)と公倉築造る。
 ・1291年(英祖三二年)世祖(フビライ汗)瑠求を討つが失敗。
 ・1585年(尚永十三年)紋船(天龍寺桃庵、安谷屋宗春)薩摩を経て大阪に着く。
 ・1588年(尚永十六年)豊臣秀吉、島津を介して琉球を招論する。
 ・1590年(尚寧二年)宮古の上国船、朝鮮に漂着救助される。

 (工事中)


2023年1月3日(火

 今帰仁村字諸志の川尻無しの開鑿作業である。一帯は近世末の「仕明地」であった。また昭和19年、陸軍が近くの兼次国民学校に陸軍が一時駐屯した時、手助けをしている。(当時の動き参照

  
▲「泥粥を掬ふ難作業」であった(昭和18年) ▲今帰仁村諸志の港原一帯(現在)      
 
   ▲水路掘削が行われた上流部(現在)             ▲下流域(現在)

          ▲兼次配備区分要図(陸軍陣中日誌)より

2007年6月6日(水)記録
 
県公文書館から「食料増産決戦記」(昭和18年)のコピーが送られてきた。それに対応する資料が歴史文化センターにある。食料増産隊沖縄隊がどのような動きをしたか把握していないが、本館が所蔵している資料に目を通すことに。①~⑥は連動するものであろうが、余裕がないので①の内容のみ把握することに。食料増産隊が昭和18年9月に今帰仁村にやってきた時、対応した帳簿ではないか。それと昭和18年以前から「耕地整理組合」があり、それと「食料増産隊」が今帰仁村にやってきたとき、関わった村人達の集合写真が二枚ある(『なきじん研究』(11号)写真で見る今帰仁で紹介したことがある。(但し、執筆した当時食料増産隊との関わりは全く念頭になかった。各地にそれと関係する記念写真が残っている。すぐ取り出せないが市町村史や字誌で散見している)

   
①増産隊作業ノ時受拂簿(昭和十八年九月)今帰仁村西部耕地整理組合
   ②第二次食料増産ニ関スル現金受拂簿(昭和十九年一月)
    今帰仁村西部耕地整理組合)
   ③会計出納簿(昭和十八年八月以降)今帰仁村西部耕地整理組合
   ④費用徴収簿(自昭和十六年至昭和十八年)今帰仁村西部耕地聖地組合
   ⑤現金受拂簿(昭和十九年十二月)今帰仁村西部耕地整理組合
   ⑥分賦金賦課標準原簿(昭和拾六年壱月以降)今帰仁村西部耕地整理組合
   
 ①の「増産隊作業ノ時受拂簿」(昭和18年9月13日~9月15日)から、どのような内容か記事を拾ってみた。
 
 ・大井川仲原店ヨリ買入石油壱升代
  ・諸志配給所酒壱升ダイ宮城宅ニ於
  ・縄五桁諸志島袋幸福氏へ壱桁三十銭宛
  ・ヲキノ柄二ツ代諸志支所へ
  ・豚肉五斤代字諸志与那嶺忠助氏へお客用
  ・自転車賃諸志内間利清氏へ
  ・ハカリ賃諸志大城彦次郎氏へ
  ・縄五桁代大城幸五郎氏へ
  ・農兵隊慰労用山羊四二斤代諸志玉城カマダ様へ
  ・諸志高良森次へ山羊一匹代増産隊慰労用
  ・農兵隊延人員五百人ノ賃金一人壱日壱円同上ヘ払
  ・増産隊北山城跡拝観料トシテ
  ・増産隊慰労トシテ今泊踊見物御礼金
  ・家賃諸志島袋吉七郎氏へ

 ③会計出納簿(昭和十八年八月以降)から増産隊と関わる記事を拾ってみる。
  ・増産部隊長池間氏現場視察ノ時鶏壱羽与那嶺トシ様へ
  ・食料増産隊用飲物及湯飲代嘉手苅店へ
  ・増産隊炊事場写真代
  ・大杭木代
  ・食料増産隊作業ノ時、夜間勤務手当宮城仙三郎外五人へ

 

2023年1月2日(

 正月期間は、ボーと過去を振り返る。

 昨年、ちょうど奄美をやっている最中、「琉球新報」からコラム原稿の依頼があり、以下まとめたことがある。沖縄本島周辺の島々には、統治される以前には酋長の存在があったのではないか。最近、「親見世」日記(近世)に目を通している。近世ではあるが、沖縄本島と周辺の島々の交流は頻繁に行われれいる。それは入貢・派遣・遠征などの出来事が「世鑑」「世譜」「球陽」に出てくるが、それはほんの一部であることが知れる。船頭がおり、それは日常的な渡航があったことがしれる。

 ここ二年、奄美の島々を巡っている。というよりは、平成の初期から各地の島々を踏査してきた。新型コロナで他の地域に足を運ぶことは遠慮している。

 特に奄美は、1609年まで「琉球国」の内とあり、琉球国統治下にあった与論島・沖の永良部島・徳之島・奄美大島・喜界島に古琉球の痕跡を追いかけている。与論島・沖永良部島・徳之島、そして奄美大島、喜界島に、慶長検地(1611年)後、これまでの琉球国の統治ら薩摩支配下なるが、奄美の島々に琉球統治下の歴史文化の痕跡がどう継がれているか。変貌の痕跡を拾うことを目的としている。

2007年に訪れたそのきっかけは、南西諸島の最南端島波照間島。琉球国の最南端の波照間島の下田原城を見た時の第一印象は、八重山地域に文化があるとするなら、このグスクが拠点となっていた時代があったのではないかと。15~16世紀にかけて集落遺跡と位置づけられている。

・1265年大島始めて琉球英祖に入貢
  ・永祖7年(1266年)酋長を大島に派遣し統治
  ・琉球の王の尚徳の喜界島遠征
  ・大島七間切、喜界五間切

 徳、永良部、与論、那覇の地の内と謡われている。奄美と琉球との関わりで琉球の時代の残存と見ているのは、おもろ、神アシャギ(アサギ)、古琉球の辞令書、シニグ、ノロ家の遺品、今では消えた針付)、城(グスク)のつく村名や地名、さらに琉球型墓などである。「正保琉球国絵図」(1632年)に奄美の島々は「琉球国之内」とあり、まきり(後の間切)や漢字交じりの村名に琉球国当時の名残が散見できる。

島の南東の標高25mほどの台地上の崖に沿って造られている。グスクが独立した形であるのではなく、周辺に石積みの屋敷囲いがいくとも連続してある。その中心の石囲いがグスクの中心部とみられる。50~100×180m規模の石囲いが残っているようである。下田原グスクに立ってみた印象は、このグスクが栄えていたとみられる15~16世紀の頃、下田原グスクを拠点にして北側に散在する島々を統治していた時代があったのではないか。グスクからどのくらいの遺物が出土するかわからないが、規模と取り巻いている集落の後からいくらか想像が巡らしてみると面白い。竹富町の一島であるが、グスクの時代は波照間島の下田原グスクが統治の要になった時代を想定してみると興味深い。波照間島のグスクの位置する場所は、石垣島や西表島などの島々をつなぐ拠点になっていたのではないかと想像してみた。

令書の「あらぬと」は村名で、崇貞元年(1628)までに波照間村と平田村、そして「あらんと村」が統合されたようである。辞令書は統合される直前である。1628年頃の首里王府と最南端の島との統治関係がうかがえる。新本(村)の目差職に新本の筑登之を任命するというものである。首里王府は辞令書の発給で八重山の最南端の島まで統治している。


2023年1月1日(

 あけましてお目でとうございます.。新年は自宅からのスタートです。
 亜熱帯の沖縄、ポツリポツリとヒカンサクラが開花。バナナが本実をつけ、パパイヤも実をつけている。沖縄の冬と春、そして夏が混在。頭は15年前の1月。自然も世の中の混迷を察知しているかのようだ。


▲ヒカン桜が花ボツボツ開花      ▲夏を思わせるバナナが実    ▲季節関係ないよと実パパイヤ

【北山と関わる金石文】(2008.01.22) 

 今帰仁(北山)と関わる金石文を『金石文―歴史資料調査報告書Ⅴ』(沖縄県教育委員会:昭和60年)からいくつか拾ってみた。今帰仁だけでなく、北山や山北府や人物なども碑文から拾ってみた。中山から北山という地をどう見ていたのか、それと三山統一後も琉球国王も出てくるが目立って中山(王)が使われている。三山統一後も中山を踏襲していった背景が見えてきそうである。

 「万歳嶺記」(1497年)と「官松嶺記」(1497年)が建立されている場所が、何故ミヤキジナハなのかがテーマである。吟味したことがないので、東恩納寛惇の『南島風土記』の説明を借用すると「ナチヂナーといい、今帰仁屋に作る」というとある。屋は居住地と解されているので今帰仁人が住んでいた場所が地名になったことになる。そのナチヂナーは今帰仁から行った人たちの居住地だったのか。碑が建立された頃(1497年)には地名としてあったのであろう。

 玉御殿の碑文(弘治14年:1501)に「ミやきせんあんしまもたいかね」とあり、今帰仁按司真武體金、第二監守一世の今帰仁王子(尚韶威)で、亡くなると碑文にあるように玉陵に葬られるべき人物であった。今帰仁グスクに派遣された尚韶威が亡くなると玉陵に葬られる観念はどこからきたのか。北山監守一族が首里に引き上げた時の七世従憲は首里で亡くなり葬られたのは生まれ育った今帰仁間切運天村の大北墓である。

 以下の碑文をひも解いていくと中山からみた北山をどう見ていたのか読み取れそうである。本覚山碑(1624年)の今帰仁思徳(いまきしん思徳)や内間御殿の御殿守を勤めてきた中山家の墓誌(1792年)に出てくる「今帰仁ちい」なる人物は今帰仁とどう関わるのか。そのようなことをひも解いていくことも必要かあるかもしれない。

・万歳嶺記(上ミヤキジナハノ碑文)(1497年)(首里山川)
・官松嶺記(下ミヤキジナハノ碑文)(1497年)(首里大中)
・玉御殿の碑文(首里金城町玉陵、弘治14:1501年)
・本覚山碑文(首里山川町金武家墓、天啓4:1624年)
・池城墓碑(今帰仁村平敷、康煕9:1670年)
・首里魚池碑文(康煕17:1678年)
・墳墓記(津屋口墓)(今帰仁村今泊、康煕17:1678年)
・改決羽地大川碑記(乾隆9:1744年、道光10:再建)
・山北今帰仁城監守来歴碑記(今帰仁グスク:乾隆14:1749年)
・三府龍脈碑記(名護市:乾隆15:1750年)
・中山家墓誌(西原町小那覇:乾隆57:1792年)
・オランダ墓墓碑(1846年)(屋我地島)

【今帰仁グスクの四基の石燈籠】(2008.02.23)

 今帰仁グスク内の火神の祠の前に四基の石灯篭がある。「奉寄進 石燈爐」「今帰仁王子朝忠」「乾隆十四年己已仲秋吉日」と、摩耗しているが辛うじて読み取ることができる。乾隆14年は1749年で今帰仁王子朝忠は今帰仁按司十世の宣謨(1702~1787年)のことである。宣謨が王子になったのは乾隆12年(1743)である。その時、薩州(薩摩)へ使者として赴いている。詳細について触れないが、これら石燈爐の二年後の建立は薩州へ赴き無事帰ってきたことと無縁ではなかろう。それと下記の「覚」の「城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行う仕事がある」ともある。

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 『具志川家家譜』(那覇市史 家譜資料首里系)に、次のような「覚」書きがある。そこには、今帰仁グスクを関わる重要なことがいくつも記されている。

 ・此節御支配…元文検地のこと(今帰仁グスクは乾隆7年(1742)に行われる)
 ・尚巴志王の時落城する。
 ・国頭方は險阻で殊さら難しい所である。
 ・権威のある人物を派遣して守らせる。
 ・尚真王の時、今帰仁王子(一世の尚韶威)が鎮守する。
 ・今帰仁グスク内に住み六代まで相続し勤める。
 ・今帰仁村と志慶真村は城の近方にあったが場所がよくないので敷き替えをする。
 ・そのため村が遠くなったので城の住居は不自由となる。
 ・高祖父?の時代今帰仁村へ引っ越す。
 ・城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行う
  仕事がある。
 ・宗仁以来十代までやってきたが、この節所中(間切)に渡したならば後年旧跡は廃れて
  しまう。
 ・それは黙止することはできない。
 ・そのようなことで、城囲内は子孫へ永代御願地にして下さるよう願いでて許される。

      覚
   今帰仁城之儀、此節御支配ニ付而間切江被下候旨承知仕候、然者今帰仁城之儀
   尚巴志王御代致落城候得共、国頭方險阻殊六ケ敷所ニ而
  尚真様御代元祖今帰仁王子宗仁右為鎮守奉
   命、今帰仁城内江被詰居、高祖父迄六代右之勤致相続候、然処今帰仁村志慶真村之儀、
    城近方ニ有之候処、場所能無之故、當村江致敷替候ニ付而、村遠相成城之住居不自由
   有之候之処、