沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   今帰仁村歴史文化センター

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羽地地域の調査記録(2003年)

国頭村比地  ・大宜味根謝銘(ウイ)グスク   

2021年2月 2021年3月 ・2021年5月 ・2021年6月 2021年7月
 
シニグと山原文化圏  ・徳之島と琉球  ・ノロ制度の終焉 ・奄美のノロ制度

勝連半島のムラ・シマ

国頭間切の二枚の辞令書



2021年9月17日(

 徳之島を行く

2007年2月21日(水)調査記録

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

②徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


 ▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より 





 




2021年9月16日(

 いつ頃からか、よくわからないがメモをとる癖がある。ラジカメが登場すると、デジカメがメモ代わり。シャッターを押すときには頭には文章がある。昨年の12月本部町具志堅の仲里家の家系を頂いた。それにピータテゥヤーの家を見つける。今帰仁間切今帰仁村と本部間切の境にあり、どちらの担当なのか首をかしげていた。それは解決。視覚で記憶する癖がついている。

2002.6.20
(木)メモ


 総合学習の後の余韻が歴文まで伝わってくる。また、伊江島からもお礼の手紙をいただいている。先日伊江島の子供達は、今帰仁グスクから城山を見つけて歓声をあげていたのを思い出した。いくつかヒントをもらったようで、早速島村屋にいって調べるとのこと。私自身、今伊江島にはまっている状態。先日のトーミヤーの件もそうである。古宇利大嶺原伊江島とつながることもあって、五月に伊江島に渡った時、早朝イータッチューの頂上まで登った。それは古宇利島大嶺原伊江島のルートを伊江島からどう見えるのか、その確認でもあった。

 伊江島から大嶺原の方向を見ると、備瀬崎の後方に清掃工場のエントツが見える。エントツの左側に大嶺原がある。エントツから煙が出ていると、烽火がそのように見えたのだと想像する。二つ、三つ煙を上げるには大分離さないと風で一つになってしまいそう。すると、40~50mは離さないとイカンなとか、いろいろ考える。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について、以下の記録を残してくれた。

   位置 宿の前原2833原野の南部
       火立て屋 チータッチュー屋三つあった。
       中に薪を一ぱい、薪は間切船、唐船や大和行の船(偕船?)
       を見た時、その一つを焼く。
       火立ては国頭、伊平屋、具志堅、伊江にもあった。
       その番人の家 遠見屋という。
       唐船の入る頃になると掟も来て勤める。
       古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の
       位まで授けられる。終身職で頭を免ぜられた。

火立て屋あたりを、調査する手掛かりをいくつも与えてくれる。そういう記録は、非常にありがたい。
 今帰仁村と本部町の境界の大嶺原は、右手に古宇利島、左手に伊江島が視野に入り、トーミヤー(ピータティファーイという)を設置するのに最適な場所である。

大嶺原(ピータティファーイ)から伊江島を望む

2002.6.21
(金)
 メモ
 
 今帰仁村今泊の大嶺原のピータティファーイまで登ってみた。というのは、19日古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。今日は雲の多い天気だったのだが、下の写真のように伊江島と古宇利島が見える。

 『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述がある。

 ・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
 ・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
 ・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
 ・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した。
 ・民家から離れた場所にある。
 ・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
 ・火立所は離れて参ヶ所にある。
 ・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
 ・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
 ・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。

   
   
大嶺原から伊江島を眺める            大嶺原から古宇利島を眺める


2021年9月15日(

 兼次の字誌の編集会議はコロナで中止。来週から印刷会社へ原稿の発注。

 兼次の稲作とパインナップル(パイン)について。(工事中)

【稲 作】

・地目の「田」はあるが、兼次では稲作をしている家は現在はなし。

 昭和1957年の兼次の田は79筆、15,119㎡あるが、昭和60年から稲作は〇である。昭和49年まで村内でわずかながら稲作が行なわれている。

【1957年1月11日】

 第一期作水稲苗代の件
 村の指示に準じて播種をなす。然し雨が降らなかったら場合は順延する様にする。
 野ソ(野ネズミ)駆除

 水稲播種前に野ソを徹底的に駆除する。薬品は区会計より出し日取りは当務に委任する。

【1957年1月21日】
 ・水稲の件  雨降れば決定

【8月2日】
 ・水稲二期作播種準備の日程
  川原苗代 8月3日  道東 4日 道西上5日
   道西上 5日 東後原 6日 
   苗代の準備作業も上から順に行ない節水する様にする。

【バッタ】

 バッタの発生面積及び防除発生面積、防除面積調査

【パイン】
 

【公民館資料】
  ・1956年1月5日
  パイン園区画払い下げについて
  パイン園栽培土地のない方々に優先する。 

【1972年】
 ・パインアップル採苗ほ設置申し込み 
 ・パインンアップル優良種苗譲渡申請書

  パイン古株更新実績補助金交付申請



2021年9月14日(

 2013年に行った講演のレジメの一部である。

生業と祭祀から見る戦後の生活の変容
                    2013127(於:名護市立中央公民館)レジュメ

                    仲原 弘哲(南島文化研究所特別研究員
                                 今帰仁村歴史文化センター館長)
はじめに

Ⅰ 生業の変容
  1.山原(やんばる)の歴史的背景
  2.風景や生業の変貌
  3.戦後の公民館資料(一事例)

Ⅱ 祭祀の変容
    祭祀の位置づけ
 1.祭祀は休息日(遊び)である
 2.祭祀を執り行う神人は公務員である
 3.神人の消滅はあるが、祭祀は行われている
 4.祭祀の廃止 

むすび

祭祀の変容(
祭祀の位置づけ)

1.祭祀は休息日(遊び)である

 祭祀を行う日、名称、祭祀の内容など、村内(ソンナイ)のムラ(字)まちまちである。そのことを認識してかかる必要がある。一言で祭祀の本質を言い当てようとする心理が強く働いている。ひとつにまとめるのであるが、数多くの事例を調査していく。その視点が必要である。

 祭祀(神行事)は「神遊」や「海神祭」といい、今の土、日や公休日に相当するものと考えている。村が移動したり、あるいは新設したとき、ウタキを置き祭祀を行うのは祭祀を行わないと休息日はなくなることを意味する。『琉球国由来記』(1713年)の編さんは、祭祀を首里王府は整理したものであろう。

 祭祀の中に「遊び」一日、二日などとあり、「遊び」の日は首里王府が認めた公休日であり、それは間切、村の末端まで統治する手段としたものとみていい。

 そのことは「旧慣ニ付間切吏員と問答書」(明治17年)によく表れている。大宜味間切の「遊戯」(遊び)の事例を紹介する。

 大宜味間切の「麦の穂祭」は2月中に行い日の規定はない。当日より翌日まで百姓は家業を休む。休む。4月はアブシ払い、5月稲、6月稲の大祭も当日から翌日まで休む。2月は「麦の穂祭」といい、そのときは日を撰んでノロクモイは祭りをし、人民は2日間業をやめて各家庭にて遊ぶ。

 3月のウマチーのとき遊びはない。4月は虫払いといい、日を選んで人民は耕作をやめ、牛馬を引いて浜辺に出る。そのとき、ノロクモイはウガンの勤めがあり、それが済む間、人民より牛馬まで職をしない。その勤めを済ませた後、各家に帰る。

 5月は大御願といって、ノロクモイならびに人民連れて火の神所に参詣する。「稲の穂祭」があり、そのとき、日を選んで2日間遊ぶ(休む)。6月は3月同様休みなし。

 7月16日、7月念仏という遊びがある。そのとき子供達が三味線を引いて人民の家々を回って遊ぶ。大折目というのもあり、その日は1819日頃より2425日に限る。そのとき、人民は仕事を休む村もある。ノロクモイは火神は参詣して祭祀を行う。

 8月15日はヨウカビという遊びがある。そのとき童子達は、巷または毛へ集まって遊ぶ。 

【伊平屋島の事例】(計31日あり)

・麦穂祭(二月)(遊び二日) ・田植ヲリメ(二月中)(遊び一日) ・麦大祭(三月)(遊び二日) ・山留(四月一日から五月中)(遊びなし) ・アブシバライ(四月)(遊び二日) ・稲穂祭(五月)(遊び三日) ・稲穂祭(五月)(遊び三日) ・稲大祭(六月)(遊び三日) ・年浴(六月)
(遊び二日) ・ミヤ口折目(六月)(遊び一日) ・屋那覇折目(七月)(遊び二日) ・シノゴオリメの事(七月)(遊び一日) ・柴差(八月)(遊び二日) ・麦初種子・ミヤ種子(九月)(一日遊び) ・粟豆初種子(11月)(遊びなし) ・アラゾウリ(11月)(遊び一日) ・具志川折目(11月)(遊び一日) ・海神祭(11月)(遊び一日) ・タケナイの折目(12月)(遊び一日) ・向ザウリ(12月)(遊び一日) ・鬼餅(12月)(遊び一日)

【伊江島】(明記された遊び日 17日)

・正月芋折目(一日遊び) ・二月麦穂祭(二日遊び) ・三月麦大祭(遊び?) ・四月日撰以粟黍豆正実付申願い(遊び?) ・五月はじめ唐船祭(遊び?) ・五月麦穂祭(遊び日?) ・五月粟穂祭(二日遊び) ・五月いんない折目(遊び?) ・六月粟大祭(遊び?) ・六月年浴(二日遊び) ・五月いんない折目(遊び日?) ・六月粟大祭(遊び日?) ・六月年浴(二日遊び) ・七月大折目(遊び計三日) ・七月神遊(シニグ)(一日遊び) ・七月施餓鬼(シガキ)(遊び日?) ・七月豆俵折目(遊び日?) ・八月柴差(二日遊) ・九月麦初種子(一日遊) ・十月粟初種子(二日遊) ・十二月作物、麦の立願、粟黍の結願(遊び日?) ・十二月鬼餅(遊び日?)

【久米島仲里間切】

・麦穂祭(当島は遊びなし) ・アブシ払いの事(二日遊び) ・稲穂祭の事(三日遊び)・稲大祭(三日遊) ・柴指の事(遊二日) ・麦初種子ミヤ種子の事(遊び二日) ・粟豆初種子事(二日遊び)

・アラザウリノ事(二日遊び) ・向ザウリノ事(一日遊び) 

 


2021年9月13日(

国頭間切の二枚の辞令書 2002.8.18(日)記録

 
国頭村安田にあった二枚の辞令書、以前から気になっている。2001年と2002年と安田のシニグとシニググヮーの調査をしたこともあり、祭祀と国(琉球国)について述べる。そのため、この二枚の辞令書を使って首里王府と国頭間切、そしてムラとについての支配関係をできるだけ明確にしておきたいと思う。国都首里から遠く離れた国頭間切の一つのムラをどのように支配していたのか。ムラを支配するため、末端まで支配権力を徹底させるためにどのような方法をとっていたのか。さらに祭祀を政治にうまく取り込んでいる姿が見え隠れしている。祭祀を祈りや神が何かという議論も大事であるが、支配する、支配される関係。言葉を変えれば税をとる側と採られる側という視点で、祭祀を捉えてみようと考えている。

 その後、「国頭村安田のシニグ」の国指文化財指定に関わる。

 三山が統一された後、また第二尚氏王統になってからの辞令書であるが、ここに掲げ国の地域支配について考えてみたいと思う。難解な文面なのですぐにとはいかないがゆっくり考えてみる。とりあえず、二つの辞令書を前文掲載しておこう。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に掲載されたものを『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)(昭和53年度)に形を整えて掲げられている(「沖縄諸島逸在辞令書」)ので、それをここで利用する。二枚とも古琉球の辞令書である。

〔国頭間切の安田里主所安堵辞令書〕
  しよりの御み事
    くにかみまきりの
    あたのさとぬし〔ところ〕
    この内に四十八つか〔た〕は
    みかないのくち
  御ゆるしめされ候
    一人あたの大や〔こ〕に
    たまわり申〔候〕
  しよりよりあたの大や〔こ〕か方へまいる
  万暦十五年二月十二日

〔国頭間切の安田よんたものさ掟知行安堵辞令書〕
   しよりの御み事
     くにかみまきりの
     あたのしろいまち
     この内に十四つか〔た〕は
     みかないのくち
    御ゆるしめされ候
      〔脱けた部分あり〕
    このふんのおやみかない〔ハ〕
      〔脱けた部分あり〕
    のろさとぬしおきてかないとも〔ニ〕
    御ゆるしめされ候
    此ちもどは三かりやたにて候へども
    万暦十四年に二かりやたなり申〔候〕
    □□□にいろいろのみかないの三分一は
    おゆるしめされ候
    一人よんたもさおきてに
    たまわり申〔候〕
   しよりよりよんたもさおきての方へまいる
   万暦十五年二月十二日
 安田のシニグ、シニググヮー(ウンガミ)で国と間切、そしてムラについて紐解くのでここに掲載のみ。


2021年9月13日(月)
台風対策で、畑の様子を見にいく。まだ、雨風が弱いのでバナナ木の支えのみする。刈り残した場所は「佇麻」が伸びている。下の記事を見ていたので繊糸でも取ってみるか。今帰仁芭蕉布は大正・明治の頃はよく知られているが、「苧麻」の糸とりはどうだったか。伺ってみることに。
  

兼次の苧麻(明治34年6月27日)琉球新報 県史16記事より

 今帰仁間切の特有産物は苧麻にして苧麻は親泊今帰仁の二村を第一とし兼次、之につき志慶真、之に次ぐその作付反別は七反余歩一ケ年収穫高二千斤に及ぶという、今調査の要領をあげれば左の如し。 

・苧麻の由来
 之が由来は未だ明ならざるも北谷間切は当地より伝え当地は本部間切満名村カーマタ桃原より伝来せりといえりと今を去る凡そ七7八十年前には盛に栽培せしものの如きも爾来価格の下落につれ漸次衰え近年に至りては漸く盛に趣くに至り従って栽培製造の上にも改良を加えつつあるものの如し

・種 類
 種類は白苧と赤苧との二ありて白苧□□□ろしくその質亦宜しと唱うれども二者の区別は容易に判明せず白苧と称するものも之を移して土質悪く栽培その当を得されば直に悪化すという依て当地に於ては明にこの二種の区別をなす能はずと。

・挿秧
 挿秧は四時其忌むにあらざるも最適は七月とすこれ七月に植えしものはその翌春旧茎を刈り捨て施肥をなすときはその年第一期とり殆ど普通圃と仝様の収穫あるも七月後に植えしものはその翌年迄の収穫宜しからず、又七月前に植えものと雖もその翌年を待たされば収穫する能はざるを以ってそのまえに植えるの必要なし。

 苗は旧圃又は普通圃より根茎ともに鍬にて切り取これを整地せる圃に畦巾株間共に七八寸より一尺二寸を隔てて五寸位の深さに茎三四本づつを植え後時々除草中耕をなすべし。茎は梢々密接するをよしとす薄ければ分蘗大なるも収穫少なければなり。而して之を密接せしめんとせば一度の収穫を捨て一回の施肥を見合すべし。

・収 穫
 収穫の時期は其の茎の三分の一褐色を帯びるに至るを最適期とす。之より過ぎるときは短時日の間にも繊維硬化し品質甚だ劣等となるべし。今一年中の収穫期をあげれば左の如し。

 第一期 三月  第二期 五月 第三期 七月  第四期 十月 第五期 一月

但し五期は刈捨とて収穫の中に算せさることあり。之収穫至て少なく品質極めて劣等なればならい。
 本作物の収穫は時期により各期間の日数は異なるも仝期間の日数は毎年殆ど仝じ。依て其の日数を各期に別ちあぐれば次の如し。

 第一期 日数六十日(日を延さす)
 第二期 仝 六十日(日を延さす)
 第三期 仝 六十日(少し日を延すも可なり)
 第四期 仝 九十日(成長を見計りてなす)
 第五期 第四期収穫後より春分迄)

 収穫高を普通作につき各期に分けて左の如し。

第一期 五坪より一斤(品質上等)
 第二期 五坪より一斤(品質□等)
 第三期 十坪より一斤(品質中等)
 第四期 廿坪より一斤(品質上等)
 第五期 収穫極めて少なく(品質劣悪なり)

 右は普通作にして上作に至れは第一第二期は四坪より一斤取れるもとあり。その高さは普通五六尺にして稀に七尺以上に達するものあり。

・製 造
 製造は茎を刈り葉を去りたる為に手数を要すものにしてその順序は初に皮を脱き(一旦水に浸すもよし)丈管を以ってすること芭蕉苧の製造に殆ど同一なり。然し製造は尤も熟練を要すことにして老練家は一人一日六斤を製するもあるも未熟練のものは一斤も尚困難するあり。製造したるもの派」必ず水にて洗う之汚物を去るの法にしてその水は清水をよしとす。

 製造あいたるものは日光に干すをよしとす。之乾燥を計るのみならず。光沢を出すに便なり。昔は陰干せしという。これ光沢なき色青味を帯びその当時の人の賞美せしを以ってなり。 

・病虫害
 本作物は性質甚だ強健にして未だ病害を受けしことなく、また虫が害にかかりしことなきも湿地に植えるときは殆ど病状を来し根の枯朽甚だしく又衰弱すること早し。


浜元(はまもと)(具志川村)

・浜元はハマムトゥと呼ばれ本部町の字である。
・字名は集落が海に面していることに由来する。
・浜元は本部高校近くの具志川ウタキ(グシチャーウガン)付近にあった。
1700年代に具志川村の一部が移動して浜元村をつくる(一部は渡久地村へ)。
・神行事を行う神人は具志川ノロである。
・旧暦5月と9月にウフウガンがあり、ウタキまで行ってウガンをする。
・浜元の集落はアガリンバーリとニシンバーリに分かれる。
具志川ノロの男方は間切役人をつとめ唐旅をして「土帝君」をもってきて祭っている。
・具志川ノロはニシンロウヤから出ていたことがある。今は辺名地の仲村家(カラマヤー)から出ている。
 ノロ辞令書が残っている。(浜元にあったノロ家跡と唐帝君)
・今帰仁間切と本部間切の番所(役場)をつなぐスクミチが通る。
・泊原に集落があり、そこはハルヤーと呼ばれ旧士族の人たちが住んでいる。
・旧625日の夜に毎年綱引きが南(ペー)と北(ニシ)に分かれて行われる。
・むかしはミージナ(メス綱)とヲゥージナ(オス綱)があったが、今では一本綱。
・海岸にリュウグウの神を祭ってある祠がある。


 
    浜元の旧公民館            神アサギと並んで殿(トゥン) 
 
  過渡期の墓の様相をみせる    神社化されたが元の配置を残している
 ▲ノロ家の側を通るスクミチ ▲ノロ家の屋敷跡▲具志川ノロの辞令書(仲村家蔵)


2021年9月12日(

 台風対策で「寡黙庵」へ。野ぶどうやバナナのハナにハチが群がっている。

(工事中)

役場移転問題
(沖毎大正二年八月一五日) 

 本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里何等交通運輸の便なきのみか僅かに二三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓を負ひ前方屋我地島と相対して其間に運天港を擁し極めて寂莫荒寥の一寒村に候

 予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要あるかを怪しむ者に候今泊在の理員に至りては早朝家出しても役場着は十時頃なるべくそれより汗を拭き去り諒を納れて卓に向へば時辰は十一を指すべし一時間にして食事をなし更に二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし然れば毎日の執務時間は僅々四時間を超えざるべくと存候加之人民の納税、諸願届書類の進達学校並各字の小使派遣等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と障害を受け居るかは門外漢の想像し得ざる所に有之候

 曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為め遂に沈黙の悲運に逢着したりと些々たる感情の為めに犠牲となる村民こそ不憫の至りに候

議員諸君如何に