沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
           今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)
0980-56-5767)

                    
 もくじ:トップページへ】      
 問合せ(メール)(Nakahara)
 
 
           
2021年3(今月の業務日誌) 2月(先月へ)

※2019年4月から「業務日誌」として日々の動きを記しています。

今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・山原の御嶽(ウタキ)と村と集落 

今帰仁の墓の調査
謝名の墓調査 
平良新助翁講演(昭和8年)
平良新助企画展(平成27年)           
今帰仁と戦争(企画展)
今帰仁と戦争
運天港と戦争
今帰仁の戦争体験記録1
今帰仁の戦争体験記録2
大宜味村の神アサギ      ・徳之島伊仙町 徳之島踏査
・今帰仁の印部石             ・奄美大島宇検町名柄(辞令書) 
・元文検地と今帰仁
・山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)      
山原の図像
・山原のノロドゥンチ                   
・本部町具志堅の調査記録(2003、2006年) ・平成24年(2012年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・平成22年(2010年)のムラ・シマ講座
古宇利島のプーチウガン(流行病)     ・平成20年(2008年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・古宇利のプーチ御願
古宇利島のムシバレー
クボウヌウタキ
嘉味田家の墓調査(2000年11月調査)(一部) ・嘉味味田家の墓調査報告
「山原の津(港)」参照
北山の歴史」の企画展
山原の図像
山原の図像調査(過去記録)
今帰仁村新里家の位牌や図象や系図
祭祀の「神遊び」は公休日!
北山監守一族の墓(大北墓・津屋口墓)
操り獅子の導入(参照)

・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・北山の時代と沖永良部島(脱稿)(詳細参照)
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・神職並に信仰行事記録」参照
屋我島の我部と故地の湧川
【按司墓】(渡久地)(国頭郡志)
WUNAZYARABAKA
 ドイツ・オーストリアをゆく



2021年3月14日(

今帰仁の戦後60年の軌跡

近現代の歴史を描くことは非常に難しい印象を持つことが多い。同時に違和感を持つことが度々である。それは現在に近い単なる時間の短さではないような気がする。戦後60年の時間が、近世や古琉球の時代、それ以前のグスクの時代同様重みのある歴史として描くことができないだろうか。そういう思いもあって「戦後60年の軌跡」をテーマに企画展を開催した。戦後60年の軌跡を重みある歴史展示への挑戦でもある。

戦後60年の移り変わりを戦後資料や写真などで描くことにした。平成の時代に生きる私たちが、昭和(戦後)と平成の時代をどう描くことができるか。そして消え去っていくもの、継承し残してゆくべきものは何だろうか。さらに、100年先から昭和(戦後)・平成という時代をどう捉え議論されるか。特に沖縄では、戦後60年に生きた人々は裸足の時代から宇宙の時代を経験した人々である。そのような時代を経験した歴史・文化は過去になかった。戦後60年という時代をどう位置づけできるのか。この企画展で試みるものである。




2021年3月13日(




上運天(今帰仁村)

                    2009年(平成21)・12月12日 kakokiroku

・上運天の概要
・上運天の神アサギ
・上運天の神殿(敬神の扁額)
・掟(ウッチ)火神の祠
・根神火神の祠
・上運天のウフェー(地番は運天)
・穴泉(アナガガー)
・ウキタのウタキ

 
       ▲上運天の神アサギ                ▲根ヤー火神の祠

   
         ▲上運天の神殿                       ▲ウフェへの階段

上運天の概況(がいきょう)

・ウンシマウガンジュは遺跡になっていたグスク系土器、磨石、叩き石、須恵器、青磁器などが
 確認されている。
・上運天はもともと運天と一つの村であった。
・運天の村が二つになったためウインシマ(上の島)とヒチャンシマ(下の島)と呼ばれる。
・ウタキの内部に神アサギ・ウタキのイベ・神殿などがある。
・ウタキの内部に集落があった痕跡が見られる。集落はウタキの周辺から下の方に移動している。
・オモロで「うむてん つけて こみなと つけて」とあるが、「こみなと」は浮田港ではないか?
・1741年(乾隆6)に大島に漂着した唐船を運天津に回したことがある。唐人を運天に囲っている間
 大和船は古宇利島に停泊するよう指示がなされる。
・その時、具志堅親方(蔡温)も訪れている。その時の宿は上運天村である。
・大和役人の藤山藤兵衛、与力宮之原四郎右衛門などは上運天村で指揮をとっている。
・上運天には年二回のタキヌウガンがある(4月と8月)。その時のウタキのイベは運天のティラガマ
 である。
・4月15日はアブシバレーとタキヌウガンが同時に行われる。
・6月25日にはシチュマとサーザーウェーがある。
・7月の後の亥の日はウフユミ(ワラビミチ)が行われる。勢理客ノロがやってくる。
・ウフェーの森があり、上運天と下運天の人たちが十五夜の行事を行っていた。
・上運天は毎年豊年踊が行われる。その会場は運天地番のウフェーで行う。何故?
・上運天の獅子は神アサギの中に置かれている。
・上運天の古い集落はアナガーバーリーとアサトゥである。
・1917年(大正6)に仲宗根に台南社の製糖工場ができ、浮田港に桟橋をつくり、仲宗根までレール
 を敷きトロッコで運搬がなされた。
・戦争中は日本軍の高速輸送及び特殊潜航艇魚雷基地であった。そのため爆撃を受けた。
・1934年(昭和9)に国会議事堂の門柱につかわれたトラバーチン(石材)が積み出された。
・1955年(昭和30)貿易補助港の指定をうける。
・1959年(昭和34)北部製糖工場の建設に伴って岩壁の建設がなされる。
・1987年(昭和62)伊是名島へのフェリーは運天港(浮田港)から発着する。
・1990年(平成2)伊平屋島と運天(浮田)港間のフェリーが運航する。

上運天の位置図


2021年3月12日(


1.北山(山原)の主なグスク

 グスクを中心としてまとまっていく過程、まだ「まきり」(間切)と呼ばれる行政区分がなされていなかった時代なので、後に国頭・羽地・今帰仁・名護・金武の五つのグループへとまとまっていく。あるいはまとめられていく過程が見えてくる。そのために、五つのまとまりを「・・・地方」と呼ぶことにする。(大宜味・本部・久志・恩納の間切は近世になって分割した間切である。)

【伊平屋・伊是名島】
・田名グスク(伊平屋島)    ・ヤヘーグスク(伊平屋島) 
・伊是名グスク(伊是名島)  ・アマグスク(伊是名島)

【伊江島】
・伊江グスク(伊江島)

【国頭地方】
・アマングスク(国頭地方) ・奥間グスク(国頭地方) 
・根謝銘(ウイ)グスク(国頭地方) ・喜如嘉グスク(国頭地方) 

【羽地地方】
・津波グスク(羽地地方) ・石グスク(羽地地方)  ・源河グスク(羽地地方)
・屋我グスク(羽地地方) ・アマグスク(羽地地方) ・ウチグスク(羽地地方)
・真喜屋グスク(羽地地方)・羽地(親川)グスク(羽地地方)

【今帰仁地方】
・ウチグスク(今帰仁地方)   ・シイナグスク(今帰仁地方) ・ハナグスク(今帰仁地方)
・古宇利グスク(今帰仁地方) ・ナカグスク(今帰仁地方) ・今帰仁グスク(今帰仁地方)
・備瀬グスク(今帰仁地方) ・具志川杜グスク(今帰仁地方) ・ジングスク(今帰仁地方)
・瀬底グスク(今帰仁地方)

【名護地方】
・名護グスク(名護地方) ・嘉陽グスク(名護地方)

【金武地方】
・金武グスク(金武地方)・宜野座大川グスク(金武地方)
・恩納グスク(金武地方)・アンナーグスク(金武地方)

3.山原の5つのグスク

根謝銘(ウイ)グスク
 大宜味村謝名城にあり、かつては城・根謝銘・一名代は国頭間切の村であった。1673年に国頭間切を分割して大宜味間切を創設。そのとき、根謝銘グスクは大宜味間切域となる。屋嘉比川が流れ屋嘉比港があった。

羽地(親川)グスク 
 羽地(親川)グスクは田井等村に位置している。1750年頃田井等村を分割して親川村を創設する。羽地グスクがあった場所が親川村知内に位置していることから親川グスクと呼ばれる。 

今帰仁グスク 
 今帰仁間切は本部半島の全域をしめていた。1666年に今帰仁間切を分割して伊野波(本部)間切となる。沖縄本島が三山に鼎立していた時代、北山の拠点になったグスクである。

名護グスク
 名護グスクの領域は名護湾域から東海岸まで広がる。1673年に名護間切と金武間切の一部を分割して久志間切が創設される。

金武グスク
 1673年の金武グスクは金武町・宜野座村・名護市・恩納村の谷茶以北の村を占めていた。1713年頃には金武グスクはほとんど機能していなかったようである。


    根謝銘(ウイ)グスク              羽地(親川)グスク


              今帰仁グスク

金武グスク
名護グスク

     


2021年3月11日(


2021.3.10 Sonsi Hensyuuiinnkai

今帰仁グスク周辺 2009年(平成21)・6月13

             第17期第2回ムラ・シマ講座


 梅雨に入っていますが、いいお天気が続いています。みなさんはお元気でお過ごしでしょうか。

 さて、第2回の「ムラ・シマ講座」は、「グスク周辺」の調査です。今帰仁グスク周辺には三つの村(集落)がありました。そこに家があった証として火神の祠(ほこら)がいくつもあります。また、祭祀(さいし:神行事)の時に使われたシニグンニや海神祭(ウンジャミ)の時にウガンをするウーニ(舟)などがあります。

 ミームングスクは見張り場所だったかもしれません。それと、まだ不明ですが人が住んでいた、あるいは祭祀場の跡とみられる何ヶ所かの場所があります。それはとても不思議な場所です。そのような場所に足を運んでみましょう。

☆2009年 6月13日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
   ↓ 出席の確認
   ↓ アオリヤエ火神の祠/今帰仁ノロ火神の祠/トモノハーニー火神の祠
   ↓ ハンタ道
   ↓ ミーンムングスク
   ↓ 集落跡? 祭祀場(三、四ヵ所)
   ↓ ハンタバルウーニ(ハンタ原のお舟)
   ↓ シニグンニ 
   12:30 歴史文化センターで報告 ・・・・・・ 解散

【グスク周辺】(雨の合間をぬっての調査でした。

①今帰仁ノロ火神の祠
          ②トモノハーニ火神の祠


③ミームン(見物)グスク               ④ハンタ道


⑤人工の石積みや祭祀空間?          ⑥ハンタバルウーニ(御舟)


⑦シニグンニ
 

⑧館内で報告・・・(みーちゃんがお迎えです。ごくろうさんでした!)
 
2021年3月10日(

【運天番所(役場)跡地の顛末】

 番所(役場)跡地(村有地)は大正5年に役場が運天から仲宗根に移った直後、まず二番地が払い下げされたようである。そして「陳情書」の一番地は昭和48年3月の陳情直後に払い下げされている。一番地に枝番(1~5)があり、分割され払い下げされている。

 一番地と二番地の境にガジマルがあり、海岸沿いにはクムイ、ナガ、チンパーなどの名のついたコバテイシがあったという。現在あるコバテシはチンパの名で呼ばれていたコバテイシだという。現在残っている福木近くには石積みがあったが、護岸工事に使われたという。


                陳情書
 村有地の宅地字運天一番地に現在住居中の宅地に建造についてお願いします。
待望の復帰も実現し皆さまには村政発展のため日夜御奮闘なされることに対し深く感謝申し上げる次第であります。私共は終戦から今日に至るまで字運天一番地六七坪の村有地を分割貸地し宅地として住居を構え生活を営んで参りましたが、その土地も去る一月一日に賃貸契約を更新して居ります。

 その機会に家屋も終戦当時の家屋でありますので、又観光地、海洋博と観光客も年々増える今日であり、このみすぼらしい家屋を建造いたしたいと思いますので、村の計画されて居ります道路拡張に支障のない様に、私達の意を了解され建造許可をされます様連署を以って陳情いたします。

   昭和四十八年三月十九日
       陳情者 今帰仁村字運天一番地
                        上間貞頼
                 字運天十七番地
                        上間貞栄
                 字運天五八番地 
                        松田□□□
     今帰仁村長
          松田幸福殿

 
  ▲昭和48年以降払い下げされた一番地-1           ▲払い下げされた一番地―2

 
  ▲役場移転、直後に払い下げか(二番地)   ▲チンパー(コバテイシ)


2021年3月9日(

第一監守時代

・山北(北山)王と百按司墓

 百按司墓については、詳細な説明が必要である。墓所が10もあるので、どの墓所のことか特定して論ずる必要がある。昭和4年「琉球の旅」をした金関丈夫氏が山原の百按司墓について詳細な記録をしているので、各墓所別に整理する必要がある。金関氏は1月8日に県庁の車で山原へきている。その日の午後には運天の百按司墓に到着し、同日第四号洞(第三墓所)から数個の頭蓋を運びだしている。1月14日に再び山原へ。名護で昼食後、名護小学校の校長をしていた島袋源一郎を訪ね、島袋も運天の百按司墓まで同行している。金関氏は百按司墓を西側(向かって左側)から第一号~第十号洞まで番号を付している。『琉球民俗誌』(金関丈夫著)から洞順に各洞の記事を整理してみる。昭和4年当時の墓内の様子の復元作業でもある。(下の画像は平成19年9月29日現在の様子である。)

第1号洞
 ・入り口に木造の梁柱及び障板を遺してある(板門)。
 ・板門の前に山原竹で編んだ綱代(チニブ)の壁が残る。
 ・木造の切妻屋形をした唐櫃様の棺が4個あり。(多くは大破し、不規則に
  置かれている)
 ・棺の内外に人骨の破片が散乱している。
 ・人骨は外見古くかつ重い。色は蒼寂び、質は硬いが表面は風化している。



第2号洞
 ・入り口に木造の梁柱及び障板を遺してある(板門)。(ほぼ完全)
    (第3号洞の西上方にあり、足場がなく精査できず)



第3号洞
 ・入り口に木造の梁柱及び障板を遺してある(板門)。ほぼ(完全)
▲・ジモン博士の第九図、十図は第二号洞か三号洞。




第4号洞(第三墓所)
 ・前面に石墻を作り漆喰で固めてある。
 ・石墻の内部に山原竹を編んだ網代(チニブ)の壁が一部残る。
 ・下に砂礫が敷いてある。
 ・七尺の石墻あり。
 ・木造屋形■の屋根(屋根形の建物)
 ・完全骨が累々とある。一見はなはだ質がよい。
▲・菊池の絵では六脚であるが、そこは四脚である。東西北の三壁は板を張り巡らしてある。
    (菊池氏の絵は第6号洞である)
 ・正面の中央部に入口がある。木■の長さは七尺五寸、幅五尺、高さ五尺五寸、入口の高さニ尺六寸、
  幅ニ尺。
 ・内部に多数の木棺の破片が散乱し、無数の人骨が堆積している。

▲・木棺の元の配置を保っているのは七個であるらしい。
▲・木棺の一~五まで同じ形式、切妻屋形で材料は細微である。大きさのやや小(一尺七寸×一尺三寸)
  表面赤漆、あるいは黒漆、唐草などの模様がある。腐食はなはだしく人骨も木■中最悪である。
 ・六号棺と七号棺は材料が強固で塗料なく形も大(二尺三寸×一尺五寸)、第一号洞の木棺と酷似し
 ている。
 ・中に納めた人骨もやや良質である。

 (※第4号洞と第6号洞と錯綜している部分があり、▲は確認をして整理しなおすことに)



第5号洞(第二墓所)

 ・前面に石墻を作り漆喰で固めてある。
 ・石墻の内部に山原竹を編んだ網代(チニブ)の壁が一部残る。

 ・下に砂礫が敷いてある。内部は白砂をみるのみ。



第6号洞(第一墓所)
 ・前面に石墻を作り漆喰で固めてある。
 ・石墻の内部が広い。全洞中第一である。
 ・木造屋根の形は残っているが柱は皆倒れている。木□がある。
 ・明治41年以降に倒壊したものか。
 ・菊池幽芳氏の『琉球と為朝』の口絵
 ・入母屋形の屋根をした唐櫃様木棺の破片がある。
 ・破片には黒漆、赤漆で唐草模様を描いたのがある。
 ・人骨は長骨破片等が散在している。
 ・菊池氏写生のもののような充満ぶりではない。その後に改葬か散逸したものであろう。
 ・同洞の奥上段の間に、辛うじて破損を免れた木棺が一個安置されている。
 ・「えさしきや」の文字確認できない。
 ・洞の奥壁になお一小洞あり。入口は石で塞がれている。



   ▲百按司(ムムジャナ)墓(右が第6号洞)      ▲百按司墓の木棺にあった巴紋



第7号洞

 ・入り口に木造の梁柱及び障板を僅かながら遺している(板門)。その跡を示す梁がある。
 ・入口は積み石で漆喰は用いていない。
 ・入口狭く上に一本の木梁を横たえて板門の名残がある。
 ・内部に人骨の破片散乱している。
 ・骨質は第1号洞のものと似ている。



第8号洞

 ・入口は積み石で漆喰は用いていない。
 ・入口狭く上に一本の木梁を横たえて板門の名残がある。
 ・内部に人骨の破片散乱している。
 ・骨質は第1号洞のものと似ている。




第9号洞
  ・入り口に木造の梁柱及び障板を遺してある(板門)。
 ・板門破れて内部がみれる。
 ・石棺・陶棺・甕棺が充満している。
 ・その空所には、長骨が重ねて美しく並べている。
 ・甕棺の丸形の蓋の内面に雍正・道光の頃の年月日と付近の村名、人名が記されている。
 ・一壷に二体分入っているのもある。頭骨は常に上部に、足跡骨は底部に。
 ・石製屋形棺のあるものの底に長骨数個を平行に敷き並べ、その上に頭骨を二個、三個と規則正しく
  並べたのもある。
 ・本洞の人骨は形はほぼ完全に近いが、質は最も劣悪である。
 ・屋形棺は美しく数種類ある。
 ・石棺で四注形の屋根をし、極めて単純なものがある。洞中最も古形か。壁面や背面に蔓模様等
  の線刻のあるのもある。
 ・□尾(シャチホコ)のようなような形が面白く、奇獣を現したのもある。
 ・陶棺は装飾がすぐれ、通気窓を正面に施し、左右に仏像を浮彫りにしたのがある。
 ・甕棺はそれよりも新しく、様式は再び簡単になる。



第10号洞

 ・ほとんど洞とは名づけがたい岩屋である。
 ・人工の痕は僅かに底面の礫を敷いたものくらいである。
 ・礫の上に僅かな長骨が散乱している。



2021年3月8日(月

2010(平成22)年910日memo

 これまで収蔵庫に寝かしてあった松の輪切りを展示(ヌンドゥルチモーにあった松の一部)。樹齢は約200年である。樹齢に出来事を重ねてみるか。今帰仁間切が今帰仁村になった頃。廃藩置県の頃。ペリー一行の一部が今帰仁に来た頃などなど。

 新城徳佑氏(故人)は今帰仁村内の松について貴重な資料を遺してある。氏の調査記録ノートは『なきじん研究』10号に収録。展示した写真パネルの二点は新城氏撮影である。松に関する記録を拾ってみた。

【今帰仁街道松喰虫の処理状況】1956年)

 仲原馬場より平敷に向って5本目から4本伐倒、皮を剥いでかき集め焼却してあり、根元も各々焼かれている。
 松喰虫はサソリの様に節のついた太く長い鋏を持った蚤□の虫で皮と幹の間に棲んで居り、表皮を喰う。「其の予防の方法が現在なく、被害松は伐倒して焼却する方法以外にはない」lと経済局で語っている。
 今泊の停留所の側の俗にプイの毛と言う所に被害松が3本あって、これも平敷の松と同じ様に処理されていた。尚大きな老木は中が白蟻に食いつぶされて空洞となり、2、3日前に亀裂を生じ通行人等に対して危険であるため、警察の申し出もあって伐倒した。
 今帰仁街道松並木410本の中、今回伐倒したのが8本で差し引き402本しか残っていない。斯様にして折角祖先が育て上げ風致上、又旅する人々に憩いの場を与え、懐しがられているが松喰虫の為に伐倒せざるを得ないことは返すも残念である。

【今帰仁街道松並木】(1956125日)

 ・謝名部落中通り東  22本   ・謝名部落中通り西 41本  ・今帰仁校下 26本 ・仲原馬場 54本
 ・平敷の東 43本 ・ヂニンサ 5本 ・仲尾次(両側) 19本 ・与那嶺 61本 ・諸志 4本 
 ・兼次校前 36本
 ・シュク原 19本 ・今泊ノロ殿内毛 4本 ・今泊西 46本

【松喰虫被害松】1957104日)
 ・北部営林所にて、今帰仁街道指定松
 ・馬場から西方 2本  ・今泊シュク原 3本  ・風倒木 計18本
 ・謝名(馬場) 5本  ・越地 4本  ・仲尾次 1本  ・与那嶺 3本  ・兼次 3本  ・今泊 2本

  ※大正中頃、馬場の周囲だけに96本あった。

 
宿道街道沿い(兼次校前)(1956年)       ▲1959年仲原馬場調査メモ
Sinzato si
  


2021年3月7日(

間切時代
(前期:1667~1879年)

 北山(山原)の歴史で、この時代を「間切時代(前期)」としてあるのは、今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司一族が首里に引き上げた。そのため首里王府とは首里に住む按司地頭や惣地頭、そして脇地頭との関係は間切(番所)、祭祀が今帰仁グスクとの関係となってくる。そのため便宜上「間切時代」とする。明治12年(廃藩置県)以後、明治41年まで間切が踏襲されるので、その時代と区別するために、この時代を間切時代(前期)とする。

「国中并諸離里積之事」より国頭方(1673年以降)

 ○恩納間切
    ・御城より同村番所迄9里7合1勺9才 ・番所より泊迄10里1合8才
    ・同所より那覇迄10里5合5勺7才 ・同所より読谷山迄4里2合2勺1才
    ・同所より名護迄5里1合8勺1才 ・同所より美里迄3里4勺7勺
 ○名護間切
    ・御城より同村番所迄14里9合 ・番所より泊迄15里2合8勺9才
    ・同所より那覇迄15里7合3勺8才 ・同所より金武迄4里8合6勺1才
    ・同所より今帰仁迄4里 ・同所より本部迄3里8合1勺6才 ・同所より久志迄4里3合6勺5才
 ○羽地間切
    ・御城より田井等村番所迄16里5合7勺5才 ・番所より泊迄16里9合6勺4才
    ・同所より那覇迄17里4合1勺3才 ・同所より本部迄3里9合1勺7才
    ・同所より今帰仁迄2里7合2勺2才 ・同所より大宜味迄3里5合8勺3才
    ・同所より恩納迄6里8合5勺6才 ・同所より久志迄2里6合9勺
 ○本部間切
    ・御城より渡久地村番所迄18里7合1勺6才 ・番所より泊迄19里1合5才
    ・同所より那覇迄19里5合5勺4才 ・同所より今帰仁迄4里1合1勺6才
    ・同所より金武迄8里6合7勺7才 
 ○今帰仁間切
    ・御城より運天村番所迄19里4合1勺1才 ・番所より泊迄19里6合8勺1才
    ・同所より那覇迄20里1合3勺6才 ・同所より羽地迄2里7合2勺2才
    ・名護迄4里
 ○大宜味間切
    ・御城より塩屋村番所迄勺20里1合5勺9才 ・番所より泊迄20里5合8才
    ・同所より那覇迄20里9合9勺7才 ・同所より久志迄8里1合4勺9才
    ・同所より国頭迄2里
 ○国頭間切
    ・御城より浜村番所迄22里9合2才 ・番所より泊迄23里3合8勺1才
    ・同所より那覇迄23里8合3勺 ・同所より辺戸迄6里3合2勺
    ・同所より安波迄6里2合9勺2才 ・安波より久志迄12里3合1勺2才
 ○久志間切
    ・御城より瀬嵩村番所迄14里4合2才 ・番所より泊迄14里8合7勺9才
    ・同所より那覇迄15里3合2勺8才 ・同所より羽地迄2里6合9勺
    ・同所より金武迄5里2合4勺3才 
 ○金武間切
    ・御城より同村番所迄勺9里1合5勺9才 ・番所より泊迄9里6合3勺6才
    ・同所より那覇迄10里8合8勺5才 ・同所より恩納迄3里6才
    ・同所より美里迄3里1勺7才 ・同所より本部迄8里6合7勺7才

【琉球国由来記】(1713年)の山原の間切と村(合計 7間切 116村)

【今帰仁間切】(18カ村)
 ・今帰仁村 ・親泊村 ・志慶真村 ・兼次村 ・諸喜田村 ・与那嶺村 ・崎山村 ・中城(仲尾次)村 
 ・平識(敷)村 ・謝名(平田)村 ・中(仲)宗根村 ・玉城村 ・岸本村 ・寒水村 ・勢理客村
 ・上運天村 ・運天村 ・郡(古宇利)村

【本部間切】(15カ村)
 ・伊野波村 ・具志川村 ・渡久地村 ・伊豆味村 ・天底村 ・嘉津宇村 ・具志堅村 ・備瀬村 
 ・浦崎村 ・謝花村 ・辺名地村 ・石嘉波村 ・瀬底村 ・崎本部村 ・健堅村 

【名護間切】(11カ村)
 ・名護村 ・喜瀬村 ・幸喜村 ・許田村 ・数久田村 ・世冨慶村 宮里村
 ・屋部村 宇茂佐村 ・安和村 ・山入端村

【金武間切】
(6カ村)
 ・金武村 ・漢那村 ・惣慶村 ・宜野座村 ・伊芸村 ・屋嘉村 

【恩納間切】(8カ村)
 ・恩納村 ・真栄田村 ・読谷山(山田)村 ・冨着村 ・瀬良垣村 ・安富祖村 ・名嘉真村 ・前兼久村

【久志間切】(11カ村)
 ・久志村 辺野古村 ・古知屋村 ・瀬嵩村 ・大浦村 ・汀間村 ・嘉陽村 ・安部村 ・天仁屋村 
 ・有銘村 ・慶佐次村

【羽地間切】(18カ村)
 ・瀬洲村 ・源河村 ・真喜屋村 ・中(仲)尾次村 ・川上村 ・中(仲)尾村 ・田井等村 ・谷田村
 ・伊指(差)川村 ・我祖河村 ・古嘉(我)知村 ・振慶名村 ・呉河(我)村 ・我部村 ・松田村
 ・屋我村 ・饒辺(平)名村 ・済井出村

【大宜味間切】(12カ村)
 ・城村 ・根謝銘村 ・喜如嘉村 ・大宜味村 ・田湊(港)村 ・塩屋村 ・津波村 ・平南村 ・平良村
 ・川田村 ・屋古村 ・前田村 

【国頭間切】(17カ村)
 ・比地村 ・奥間村 ・浜村 ・親田村 ・屋嘉比村 ・美里村 ・辺土名村 ・与那村 ・辺野喜村 
 ・辺戸村 ・奥村 ・安波村 ・安田村 ・宇良村 ・伊地村 ・謝敷村 ・佐手村 

【中山伝信録】(徐葆光)(1719年)が見た久米系の一族
  ・蔡氏・・・福建泉州晋江県(自ら南安県の人と)
  ・鄭氏・・・福建福州府長楽県
  ・梁氏・・・福建福州府長楽県
  ・金氏・・・福建□□
  ・林氏・・・福建福州府□(門+虫)県林浦
  ・阮氏・・・福建□州竜渓県
  ・毛氏・・・福建□州竜渓県

  ・毎姓
  ・余姓
  ・賜姓

【中山伝信録】(徐葆光)(1719年)が見た北山

【近世の間切境界の変更、村移動とノロ管轄、新設村】

 『球陽』の以下の記事は、間切の境界、村移動、蔡温の山林政策など、いくつもの動きが読み取れる。その記事を見る前に、そこに登場する村がどの間切の村であったか、まず確認が必要である。それらの村移動は山林政策もあるが、1735年に行われた羽地大川の改修工事と無縁ではない。振慶名村を羽地間切の中央部に近い田井等村の側に(羽地大川沿い)、羽地大川の河口に近い場所に呉我村を移動させ、我部村と松田村は屋我地島に移動させている。それは、羽地大川沿いと屋我地島の開拓も主目的としてあったと見られる。

 もう一つ注目しているのは、移動した村の祭祀を管轄していたノロは我部ノロである。近くにあった村々が他のノロ管轄の村を飛び越え、あるいは海を越えたのであるが、ノロ管轄の変更がなかったこと。『球陽』の記事では農地が狭いや山林を看守させる理由をあげているが、それとは別に村を移動させることで、羽地大川沿いや屋我地島を開拓させ、農地の拡大が目的にあったとみられる。それだけではなく印部石(原石)を用いた元文検地の最中でもある。

『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』(1650年以前)

  ・ごが村・ふれけな村・まつざ(だ)村・がぶ村・・・・・・今帰仁間切の内
       (1690年頃、それらの村は今帰仁間切から羽地間切へ。間切境の変更)

『琉球国由来記』(1713年)

  ・振慶名村・呉河(我)村・我部村・松田村・・・・・・・は羽地間切の内
                (それらの村は現在の呉我山から湧川地内にあった)

 1736年に呉我山から湧川地内にあった村を屋我地島と羽地間切の内部へ移動。呉我山から湧川地内を、羽地間切から今帰仁間切に入れる。村を移動させると同時に、その地を今帰仁間切の領地とし、1738年そこに湧川村(今帰仁間切)を新設する。

【蔡法司、諸郡の山林を巡視して、村を移す】(1736年)の記事が(『球陽』にある。今帰仁間切と羽地間切に関わる部分のみ下に記す。
  国師、法司蔡温(具志頭親方文若)、御物奉行毛鴻基(奥平親方安三)・高奉行東景仁(天願
  親雲上政房)を率領し、諸郡の山林を巡見す。而して羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶
  名等村、・・・・村は一処に集在して、農地狭く、動もしれば山林を焼き以て農地に供す。今帰仁
  山林は甚だ狭し。乃ち呉我村等五邑を以て、山林外に移徒して、其の山林の地は今帰仁県に
  属せしめ、仍、羽地県内に属せしむ。・・・」


 その二年後(1738年)に、同じく『球陽』に【今帰仁郡に湧川邑を創建す】とある。
  今帰仁郡は民居繁衍し、山林甚だ狭く、材用に足らず。乾隆元年、検者・酋長奏請し、羽地山林
   を分別して今帰仁郡に属せしむ。依りて湧川邑を建てて山林を看守せしむ。



  ▲我部・松田・振慶名・呉我村があった付近(現湧川地内)

【今帰仁間切今帰仁村のクボウヌウタキ】


 この御嶽(ウタキ)は国レベルのウタキと位置づけている。『琉球国由来記』(1713年)では、今帰仁巫(ノロ)の崇所とされる。本来、三十三君の一人今帰仁阿応理屋恵の崇所ではなかったか。『琉球国由来記』が編纂された頃、今帰仁阿応理屋恵は今帰仁監守(今帰仁按司)が首里に引き揚げていた時期、あるいは廃止されていた時期でもあり、今帰仁阿応理屋恵が今帰仁に居住していた時は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場としていたと見られる。勿論、祭祀に今帰仁ノロや村の神人や間切役人や村人たちの参加があったであろう。

 今帰仁阿応理屋恵が首里に引き揚げると、クボウのウタキでの祭祀は今帰仁ノロが肩代わりしたものと見ている。後に今帰仁阿応理屋恵は今帰仁で復活するが、今帰仁ノロが肩代わりしたのを、しっかりと元に戻すことができなかったのだと見ている。

クボウのウタキでの祭祀が、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場、つまり国(クニ)レベルの祭祀だったというのは『琉球国由来記』(1713年)に表れた「君真物出現」と以下の祈願の趣旨から読み取れる。クボウの御嶽での祭祀は村(ムラ)の御嶽での祭祀とは異なるレベルの祭祀であると位置づける必要がある。三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵が今帰仁按司(監守)と密接に関わっており、北山監守の設置と「君真物」を迎える今帰仁阿応理屋恵の祭祀と表裏一帯の関係にあったことが伺える。因みに三十三君は王室関係の女性である。

2021年3月6日(

第21期1回 「山原のムラ・シマ講座」kaomemo

名護市汀間
(平成25年5月18日終了)

 今年度の「山原のムラ・シマ講座」のスタートは「今帰仁村湧川」の予定でしたが、その時間帯は満潮時にあたっているため、塩田跡とヤガンナ島まで渡れませんので、7月20日(3回目)に行います。それで第1回目は、名護市汀間となります。

 汀間は現在は名護市ですが、かつては久志間切(久志村)の一字(アザ)でした。沖縄本島の東海岸に位置し、集落移動、村の合併、神アサギの移動、汀間のろをだすムラ、整然と区画された集落など、興味深いムラです。急きょの変更なので汀間についてはのコースは下見をしてから案内致します。名護市汀間を参照下さい。

  9:00 今帰仁村歴史文化センター集合 
   参加者の確認、講座開催の説明。汀間の概要説明
   ②930 名護市汀間へ出発(羽地大川経由)
   ③1020 汀間公民館前到着
   ウタキグヮー/サンカジョウ(ヌール火神・世ヌ火神・根神火神)/神アサギ
   ウマバ(馬場)~イリギッチャ(一帯に旧家あり/石敢当)/スクミチ
   按司墓/模合墓(仲田・上原・アブ)/ワラビ墓/ダビシモー/ガンヤー
   汀間港/ウプウタキ/ウェンチュビラシ


   若按司墓・親按司墓・イジミガー
   旧神アサギ/ノロドゥンチ跡/カニマンガー/松浜屋/ヌルガー/チンガー(嘉手刈側)

  1300 終了(歴史文化センターで報告:解散) 


 サンカジョウの祠(ウタキグヮー)        合祠された祠の内部

 
    汀間の神アサギ                  汀間のウプウタキ

【汀間の三つの模合墓】

  
    仲田門中の模合墓         上原門中の模合墓        アブ門中の模合墓


       按司墓            若按司の墓            親按司の墓


2021年3月6日(

古宇利島のムシバレー

2010(平成22)年8月20日(金)memo

 16日長崎へ。博多から鳥栖を通り佐賀市。JR長崎本線で鹿島市、諫早湾沿いを通り諫早市。そこから長崎市へ。長崎駅前は坂本竜馬伝で賑わっていた。路面電車で数ヶ所行く予定が、最初に足を運んだ「出島」でほとんど時間を費やしてしまった。1996年に訪れた孔子廟・中国歴代博物館、今でも忘れることのできない靴のパクパク事件というのがあり、今回もその二の舞いになりそう。そのためではなかったのであるが訪れることができず残念。

 出島で時間を費やしたのには『江戸参府旅行日記』」(ケンペル:東洋文庫)に目を通していたからにほかならない。薩摩藩と琉球の江戸立(上り)、対馬藩と朝鮮通信使、松前藩と蝦夷地。長崎から江戸参府。琉球の江戸立(上り)や朝鮮通信使は門司から瀬戸内海を通るのが一般的なルートのようである。そのような江戸参府や江戸立(上り)などのつながりで「出島」で足止め。






2010(平成22)年8月19日(木)memo

  15日(日)福岡県の博多駅から筑肥線で唐津、呼子(佐賀県)などをゆく。福岡空港を降り立つと博多駅へ。駅に荷物を預けると、さっそく筑肥線に乗り、沿線のマチと玄界灘の空気が吸いたくて。そこらの歴史について、全く無知ながら朝鮮半島から渡ってきた人々と一帯に住んでいた人々との関わり(視線)が、どのように歴史・文化に影響を及ぼしているのだろうか。そんなことは暑さのためどこへやら。底のすれた靴を引きづりながら。

 今回は足を運ぶことができなかった平戸・鄭成功居宅跡・媽姐像及びその隋身、オランダ商館倉庫跡、井戸、平戸城などのことが思い出される(1996年9月「環シナ海地域間交流と平戸・長崎」の研究会で訪れている)。 


 
 (沖縄本島北部、山原というが、地元の人々の視線、首里・那覇からみた山原への視線、それらの視線が対立したり、
    融合したりしながら歴史・文化が築かれてきているのではないか)。


【呼子】(佐賀県:よぶこ)


       ▲呼子のイカ干し           ▲呼子の港(イカの朝市)

【名護屋城跡】(佐賀県)


▲大手口付近の石積み(勾配が比較的緩やか)▲名護屋城跡から玄界灘の島々と数多くの陣屋

【唐津城跡】(佐賀県)


      ▲唐津城跡の天主閣      ▲唐津城跡から眺めたマチと虹の松原方面


     
 ▲唐津城跡の本丸         ▲唐津城跡から眺めた唐津のマチ

2021年3月5日(

2011730日(土)memo

 1673年の恩納・大宜味・久志間切の創設を「方切」の視点で整理してみる。すると1673年の「方切」が間切や村にとって不都合が生じ、後に「方切」が行われている。まずは史料の整理から。

 1673年の「方切」(間切の創設)は、恩納間切は向弘毅(大里王子)・毛国瑞(佐渡山親方安治)、田港間切(後に大宜味)は向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)、小禄間切は向煕(金武王子朝興)・毛文祥(小禄親方盛聖)、久志間切は尚径(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)に、それぞれ領地を賜うことであった。「郡(間切)や邑(村)の田地が広い、人口が多い」ことを理由としているが、間切によっては当初の「方切」に不都合が生じ、康煕乙亥(1695年)に2回目の「方切」を行ったが、「不便」だということで1719年に元に戻している。

 1719年に村をもとの間切に戻している理由(不都合)は、間切番所とそれらの村の地理的不便さ(特に平良と川田)、それとノロ管轄(古知屋村は金武間切の宜野座ノロ)、祭祀場の分断(屋嘉比・里見・親田の祭祀場は根謝銘(ウイ)グスク)がある。「方切」の対象となった「川田村」と「平良村」は名護間切の村であったこともある。「方切」で1673年に名護間切から久志間切へ、1695年に大宜味間切へ、1719年に久志間切へ戻る。屋嘉比村・(里里村・親田村)も国頭間切から1673年に大宜味間切へ、1695年に国頭間切へ、1695年に再び大宜味間切へ戻る。それらの村は「方切」で振りまわされた村だったかもしれない。「方切」や村移動などあったが、ノロ管轄の変更はなかった。

1695年の「方切」と1719年の「方切」 
 ・古知屋村は金武間切の村であったが、1695年の「方切」で古知屋村を久志間切へ、ところが1719年に金武間切に戻した。 
  ・川田村と平良村は久志間切に属していたが、1695年の「方切」で大宜味間切へ、ところが1719年に久志間切へ戻した。
  ・屋嘉比村と親田村と見里村は1695年の「方切」で国頭間切としたが、1719年に再び大宜味間切に戻した。

【国頭間切と大宜味間切などの方切】

【1回目の方切】(1673年)
・1673年「始めて恩納・大宜味・小禄・久志等の四郡を置く」(1673年条)
   本国の郡邑、田地甚だ広く、人民も亦多き者は、分ちて二郡と為す。…国頭郡内十一邑、羽地間切二邑、合して田港郡
    と為し(後、名を大宜味に改む)、始めて向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)に賜う。後新に四邑を設
    け共計十六邑なり(二邑は合して一邑と為す。此くの如し)。

【2回目の方切】(1695年)
 ・1695年に「方切」あり、久志間切の平良邑と川田村が大宜味間切へ。
 ・1695年に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。

  ※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。其の時の検見は御者奉行吟味職
    毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)

 ・1713年の『琉球国由来記』
   ・古知屋村は久志間切(1719年に金武間切へ戻す)
   ・平良村と川田村は大宜味間切(1719年に久志間切へ戻す)
   ・親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切(1719年に大宜味間切へ戻す)

【3回目の方切】(1719年)(球陽1719年の条)
 ・1719年古知屋村・川田村・平良村・屋嘉比村・親田村・見里村、各々原籍の間切に復す。
  原籍、古知屋は金武間切に属し、川田・平良は久志間切に属し、屋嘉比・親田・見里は大宜味に属す。康煕乙亥の年
  (1695)、改めて古知屋を将て久志間切に属せしめ、屋嘉比・川田・見里は国頭間切に属せしむ。これより各村多く便利
  ならず。各村呈して旧に復するを准す。

1732年国頭郡駅を奥間邑に移置す。
  国頭郡駅は、原、浜邑設け、一偏に僻置して、号令伝へ難し。人民の往還、均一なること有らず。
  是れに由りて、奥間邑に移建す。


2011729日(金)memo

 「方切」というのは、間切境界の変更のことである。「方切とは間切と同じく村の境界を定めたるものにして人口少なくして土地広き村はその耕地の一部を他間切又は他村に配置したり」とある。ここでは間切の境界の変更(方切)について史料であるが、「方切」を視点すると、また興味深い首里王府の動きが見えてくる。

【今帰仁間切と本部間切と羽地間切の方切】

 今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切は1666年である。今帰仁間切の第一回目は1666年である。その時の「方切」はこれまでの今帰仁間切を今帰仁間切と伊野は(本部)間切の二つに分割してものである。二回目は1692年頃の今帰仁間切と羽地間切との境界の変更である。三回目は1736年の羽地間切と今帰仁間切との境界線の変更である。

 【1回目の方切】1666年)(今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切)
   これまで本部地域まで含んでいた今帰仁間切を分割して、今帰仁間切と伊野波(本部)間切
   とに分割した。(絵図郷村帳や琉球国高究帳)。その時の方切(間切分割)について、『球陽』
   で、以下のように記している。

   「始めて本部・美里等二郡(間切)を置く」(1666年条)
    今帰仁郡邑(間切・村)は、素三十余邑有り。田地甚だ広く、人民已に多し。今、其の十一邑を分ちて、伊野波郡と為し、
    始めて向弘信(本部王子朝平)・毛泰永(伊野波親方盛紀)に賜う。後亦、七邑を新設し本部間切と改名す。 
 
 ・「方切」(あるいは間切の分割と創設)の理由は、邑数が多く、田地が広く人民が多いということ。
  それと新設した間切を本部王子と伊野波親方へ賜うことであった。
 ・天底村は本部間切地内にあり(絵図)(1719年今帰仁間切へ移動)
 ・1670年「こかおきて」(呉我掟)(池城墓碑).(呉我村は今帰仁間切の村の掟)
 ・1671年今帰仁間切松田の名(家譜)
 ・1672年今帰仁間切松田の名(家譜) 
 ・1672羽地?間切我部の名(家譜)(今帰仁間切?)
 ・1690年(康煕9今帰仁間切松田の名(家譜)
 
  ※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。其の時の検見は御者奉行吟味職
   毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)

【2回目の方切】(1690年頃)(今帰仁間切と羽地間切の間の方切)
  2回目の方切を1690年頃としたのは、その時の「方切」を示した直接史料を確認できていないので、他の史料を並べてみた。すると1690年「今帰仁間切松田」と1691年「羽地郡松田村」を『家譜』に見ることができる。そのために2回目の「方切」は1690年頃とした。
 ・1691年羽地間切我部地頭職を拝授す(家譜)。
 ・1691羽地郡(間切)松田村、本郡我部村に属す(球陽)。(方切済) 
 ・1713年羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・松田村を今帰仁間切から羽地間切へ
    (間切境界線の変更あり)
 ・1719年本部間切にあった天底村が今帰仁間切内へ移動(村の疲弊)。

3回目の方切】(1736年)(今帰仁間切と羽地間切との方切)
 ・1735年に羽地大川の改修工事が行われた。呉我村と振慶名村は改修工事が終った羽地大川
   流域への村移動である。その時の「方切」は羽地大川の改修、村移動、間切境界線の変更、
   村が移動した土地に湧川村の新設(1738年)がある。そこで村移動がなされてもノロ管轄は
   変動することはなかった。
 ・1736年呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村は羽地間切から羽地間切内へ移動。その
   土地は今帰仁間切へ組み入れる(間切境界線の変更あり)
 ・1736年村が移動した後に今帰仁間切湧川村を創設する(1738年)。

 3回目の「方切」は『球陽』で、以下のように記してある。そこでの「方切」の理由は、山林が狭いことや村が密集していることをあげている。山原での元文検地は、その後に実施されている。三回目の「方切」は蔡温の山林政策、大浦(羽地)大川の改修工事、村移動、村の新設、元文検地と連動した流れである。その過程で変わらないのが祭祀のノロ管轄村である。歴史を辿るとき、変化していく、その理由を見て行くことも重要であるが、祭祀のように頑固に継承されているのも歴史を見る視点に入れるべきであろう。

  「蔡法司、諸郡の山林を巡視して、村を各処に移す」(1736年条)
    「…羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶名等の村は、…一処に集在して、農地最も狭く、動もすれば山林を焼き
    以て農地に供す。今帰仁山林甚だ狭し。乃ち呉我村等五邑を以て、山林外に移徙して、其の山林の地は今帰仁県(
    切)に属せしめ、其の邑(村)は、仍、羽地県(間切)に属せしむ。…」

 湧川邑(村)の創設(1738年条)
  「今帰仁郡に湧川邑を創建す」
   今帰仁郡は民居繁衍し、山林甚だ狭く、木材用に足らず。乾隆元年(1736)、検者・酋長を奏請し、羽地山林を分別して
   今帰仁郡に属せしむ。依りて湧川邑を建てて山林を看守せしむ。

        (3回の「方切」の図が入れ) 


2021年3月4日(

コラム 今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン)の祠
 
今帰仁阿応理屋恵殿内(オーレーウドゥン)の祠にあった扁額である。平成5年頃まで祠にあったが、今では失われている。昭和60年頃撮影と採拓したものである。右上に「乾隆歳次丁未□□春穀」と確認できた。「□依福得」と読める。乾隆歳次丁未は乾隆52年(1787,?か1726年(乾隆27)12月21日?にあたり、当時の今帰仁間切惣地頭職は 十世の十世宣謨 ?か十一世の弘猷(今帰仁王子、名乗:朝賞)(1756~1809年)である。オーレーウドゥンの祠にあった下の扁額と十一世弘猷がどう関わっているのか。今のところ直接関わった資料に出会えたわけではないが、オーレウドゥンへの扁額の奉納と今帰仁王子弘猷の動きと無関係ではなかろう。

 乾隆52年(1787)に太守様の元服のときで、向氏今帰仁按司朝賞は使者として派遣される。7月11日那覇港を出て15日に山川港へ到着。鹿児島城での公敷きの儀礼を果たし、方物を献上し、また福昌寺や浄明明寺などを拝謁している。翌年2月11日麑府を出て、翌日山川に到着するが風が不順だったようで帰ってきたのは3月11日である。同じく乾隆52年に三平等許願いのとき、世子尚哲、世子妃などを薩州へ使わされている。

 オーレーウドゥンの扁額はふたつの薩州への派遣と関わっての奉納だと思われるが、果たしてどうだろうか。30年余前に別の視点で扱った扁額を再び扱うのもまたいいものである。



2008年6月27日(金)memo

 立ち止まって、記された記録に目を通すことがなかなかできない。歴史を話す機会が出てくると、記憶をよみがえらすために目を通す。7月から10月にかけて3回、「北山を中心とした歴史」の講演がある。記憶が薄らいでいる時代についての確認と、これまでとは視点を変えた話ができないかと。まずは、資料の確認から。「第一監守時代」としている時代を描くには、『中山世譜』や『球陽』の記事を手掛かりとせざる得ない時代である。監守として派遣された尚忠(今帰仁王子)や部下などの一族と、今帰仁グスク周辺にあった今帰仁・親泊・志慶真などの集落や人々との関わりは?

  
・北山の滅亡(北山の中国との交易の回数が、滅亡への・・・)
  ・監守を置いた理由(北山文化・・・)
  ・南山の滅亡もあるが監守の設置がなされず。
  ・三山の統一後も監守制度を継続したのは?
  ・監守の派遣と中山(首里王府)との統治や祭祀関係
  ・今帰仁グスクに住む監守一族と周辺の集落との関わり
  ・監守の置かなければならないところに北山の個性が
  ・三山統一後も監守制度を維持し続けたところにも北山の風土の違いが
  ・祭祀の姿は(尚真王が確立した中央集権国家、祭祀の制度化した以前の姿がみえないか・・・)

2011724日(日)memo

 「今帰仁村今泊で発見 阿応理屋恵按司の曲玉」の記事(琉球新報 19541228日)を確認する。短い記事なので全文掲げることにする。その勾玉と水晶玉は今帰仁村歴史文化センター所蔵で展示してある。

  
来島中の大阪学芸大鳥越教授は玉木芳雄、与那国善三、多和田真淳の三氏らと二十四、五日今帰仁村の天然記念物や史蹟を綿密に調査したが、同村今泊で山北国時代の最高女神官である阿応理屋恵(オーレー)按司の曲玉が発見され、戦後紛失したものと信じられていただけに、関係者を喜ばせている。この曲玉は水晶二個、曲玉二十個からなっており、中に見事なヒスイが二個あり、鳥越教授は「この勾玉は琉球のおもろに次ぐ特別重要な文化財で国宝級最古最高級の曲玉である。これが紛失しないで保存されていたのは非常にうれしいことである」とその喜びを語った。 

 大嶺薫コレクション(沖縄県立博物館・美術舘)に「今帰仁おうりゑ御殿の勾玉」(7枚)と「今帰仁祝殿内の勾玉」の実測図がある。他に「識名殿内伝来」や「首里博物館所蔵勾玉」や「久米島君南風」などの図がある。手元のコピーでは作図された方はどなたか、調査年がはっきりしない。「竹富西部落」で発掘された貨幣が「195910月頃」とあるので、それ以降のものか。また「今帰仁祝殿内の勾玉」に「国頭郡今帰仁字親泊313、仲尾次清一所蔵」とあり、仲尾次清一氏は伺ったら昭和45年(1970)に他界されておられるので、それ以前の調査と見られる。

 10月から企画展「沖縄のノロ制の終焉」(仮称)の開催する。そのような記事や図をみると、戦後の新聞記事や図や写真など丁寧に拾っていく必要がありそう。どなたの調査(作図)だろうか。昭和29年から文化財指定に向けての調査が行われているので一連のものかもしれない。上の新聞記事(1954.12.2425)の時の調査ではなさそう。


             ▲今帰仁あおりやゑ御殿の勾玉の図(7枚の内2枚)


   ▲今帰仁祝殿内の勾玉


【北山監守をした尚忠王】(第一監守時代)

 1416年に山北王攀安知が亡ぼされる(1422年ともいう)。その後、1422年に北山監守として尚忠(今帰仁王子)が今帰仁城に派遣される。尚忠は洪武24年(1391)に生まれ、1422年に北山監守となり政統5年(1440)50才の時、父尚思紹王を継いで王位に即位している。在位は5年で54才で亡くなっている。それからすると、北山監守を勤めたのは1422年~1440年までの間である。『中山世譜』の尚忠の条を見ると、童名と神号は伝わらず。父尚巴志王、尚忠は第二子、母・妃伝わらず、世子は尚思達。

 尚忠は即位して、中国に部下を派遣したり、また東南アジアにも派遣し胡椒や蘇木などを買わしたりしている。尚忠王は四度目の進貢のとき、海舟を賜らんことを願いでている。

 永楽20年(1422)に尚巴志王が尚忠を北山監守として特命した。今帰仁城に派遣した理由は
『中山世譜』尚忠王の附記の条で、以下のように記してある。

 永楽20年(1422)尚巴志王は、山北は固恃し、また変の恐れあり、特に尚忠を山北の監守に
命じ、今帰仁王子と称す。

 後に尚忠は踐祚(センソ)(即位)し、旧制にしたがって子弟に今帰仁を領地としてあたえ、
世世(代々)監守をなすと定規(決まり)と著す。

 同じ条に、百按司墓についても触れている。
今帰仁間切下運天村、所謂百按司墓は、其(監守)貴族の墓なり。墓内には枯骨が甚だ
多く、骨龕が数個あり、木でもって之を為し、修飾が美しく、皆巴字の金紋の銘がある。一
個に稍(やや)新しい者の壁に、字があり云うに、弘治十三年九月某日。此れを以て、その
ことを考えるに、其の貴族は、尚真王代に至っては、老尽くしてしまっている。其の証也。

2021年3月3日(水)

コラム 古宇利島の遠見所の整備

 古宇利島の標高107mのところにある「遠見番所」周辺が今年度整備される。整備のため周辺見通しがきくようになっているというので、古宇利区長の案内で訪ねてみた。現在のうるま市(与那城上原)にある「川田崎針崎丑寅間」(下の画像:沖縄県歴史の道調査報告書Ⅴ)と彫られた石碑が報告されている。古宇利島の遠見所付近で、同様な石碑が見つかるのではないかと期待しているのだが(石に文字が彫られた石があったとか)。

 『沖縄旧慣地方制度』(明治26年)の今帰仁間切に地頭代以下の間切役人が記されている。その中に6名の「遠見番」がいる。任期は無期、俸給は米三斗、金五円七十六銭とある。一人当たり米0.5斗、金九十六銭づつである。今帰仁間切に6名の遠見番を配置している。

 北大嶺原(本部町具志堅)のピータティファーイは本部間切の管轄。本部間切の遠見番は12名である。具志堅の他に瀬底島にも遠見番があるので12名は二ヶ所の人員である。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について「古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の位まで授けられる。終身職で頭(地割?)を免ぜられる」と記してある。

 『元禄国絵図』(1702年?)の古宇利島に「異国船遠見番所」と記載されている。遠見番所の設置は1644年に遡る。烽火をあげて首里王府への通報網である。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻時は一炬、二隻時は二炬、その他の異国船の場合は三炬が焚かれたという。先島は沖縄本島とは異なるようだ。


  ▲古宇利島の「遠見番所」跡          ▲「遠見番所」跡の遠景


▲島から北大嶺原の遠見番所跡をみる    ▲古宇利島の「遠見番所」跡 


▲米軍が設置した指標の一部か?   ▲現うるま市(与那城上原)の遠見番所の碑?


具志堅のピーてぃファイ 2002.6.21(金)

 本部間切具志堅村の大嶺原のピータティファーイまで登ってみた。というのは、19日古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。雲の多い天気だったが、伊江島と古宇利島が見える。

 『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述がある。

 ・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
 ・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
 ・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
 ・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した
 ・民家から離れた場所にある。
 ・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
 ・火立所は離れて参ヶ所にある。
 ・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
 ・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
 ・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。


2021年3月2日(火)

ドイツ・オーストリアをゆく

2005.10.03)memo
「フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究」科学研究補助金基盤研究報告書
平成12年3月)より

【フランス艦船が見た運天港】1846年)

 30年後の1846年に運天港に三隻のフランス艦船がやってくる。その時の運天港や付近の様子を描いた絵が残されている。それから運天の集落、海上に山原船、さらに木を刳り貫いた舟を三隻平行に連結したテーサン舟?に琉球国側の役人が乗った様子が描かれている。よく見るとコバテイシの大木や番所、茅葺きの家、抜け出る道なども描かれ、当時の運天津(港)の様子がわかる。山原船が往来していた長閑な風景である。フランス艦船の三ヶ月の碇泊で首里王府は右往左往したのであろうが。その間、二人のフランス人船員が亡くなっている。二人を葬った墓がある。フランス人墓ではなくオランダ墓と呼ばれる。


    
▲1846年の運天港の様子

Ounting(Port Melvillet 1846, Lieoutcheou
   (運天(マルヴィル港),1846 年7月、琉球


  テーサン舟?に乗った役人と後方に山原船が碇泊中


②Bateayx-Lieou-tcheou  琉球の船

③udja, minisuture du roi  Lieod―tcgeu―

  古謝、琉球国王の大臣[古謝は偽名で、実名は国頭按司(唐名は馬克仁>
   総理官、あるいは総理大臣と称した] 

 
  運天の対岸にあるオランダ墓


2021年3月1(月)

運天の魚雷艇

20141016日(木)
 「今帰仁と戦争」(平成23年)をテーマに企画展を開催したことがある。【運天港と海軍】(企画展―今帰仁と戦争―)、上地さんが第二十七魚雷艇隊について、昭和197月から昭和201月までの『戦時日誌』 から、「海軍の動き」を、基地建設魚雷艇の整備、訓練、出撃、そして住民からの聞き取り。そこから当時の様子を具体的に記述してある。

 『戦時日誌』にある図面がある。ちょうど地図付近を、羽地内海に台風避難していた船が曳航され運天港、古宇利島の水路を通り外洋へ向かっている場面に遭遇した。その風景を見ると、これまで聞き取りで昭和191010日の空爆について、「米軍の飛行機が多野岳の方から飛んできてやられた」、また古宇利島では学校で運天港の方に向いてバンザイ、バンザイをした」との話は、現場を踏むと説得力がある。1010日の午前8時前後、12時前後に空爆があった。

 図には空爆以前、何度の空爆での被害などがあり、陸軍輸送船、北進丸、瑞博丸、住幸丸、潜航艇(20隻余)などが記されている。上運天に陣地壕?(棚が設けられた跡があり爆薬庫か)や防空壕は多数ありとある。(昭和19年の1010日から70年目)弾薬庫?の側にもう一つ壕がある(入口部分崩落)。ウキタのウタキの下の魚雷艇の格納庫の入口も半分以上埋まっている。
16kami1 16kami2
   ▲ワルミ海峡を曳航さていく運搬船      ▲左側の海岸に潜航艇が20基近く秘匿される


 ▲『戦時日誌』所収の空撃による被害状況図(昭和191010日)