沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
           今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)
0980-56-5767)

                    
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 問合せ(メール)(Nakahara)
 
        
           
2021年1(今月の業務日誌) 12月(先月へ)

※2019年4月から「業務日誌」として日々の動きを記しています。

今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・山原の御嶽(ウタキ)と村と集落

今帰仁の墓の調査
謝名の墓調査 
平良新助翁講演(昭和8年)
平良新助企画展(平成27年)           
今帰仁と戦争(企画展)
今帰仁と戦争
運天港と戦争
今帰仁の戦争体験記録1
今帰仁の戦争体験記録2
大宜味村の神アサギ            ・徳之島伊仙町 徳之島踏査
・今帰仁の印部石                ・奄美大島宇検町名柄(辞令書) 
・元文検地と今帰仁
・山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)      
山原の図像
・山原のノロドゥンチ                   
・本部町具志堅の調査記録(2003、2006年) ・平成24年(2012年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・平成22年(2010年)のムラ・シマ講座
古宇利島のプーチウガン(流行病)     ・平成20年(2008年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・古宇利のプーチ御願
古宇利島のムシバレー
クボウヌウタキ
嘉味田家の墓調査(2000年11月調査)(一部) ・嘉味味田家の墓調査報告
「山原の津(港)」参照
北山の歴史」の企画展
山原の図像
山原の図像調査(過去記録)
今帰仁村新里家の位牌や図象や系図
祭祀の「神遊び」は公休日!
北山監守一族の墓(大北墓・津屋口墓)
操り獅子の導入(参照)

・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・北山の時代と沖永良部島(脱稿)(詳細参照)
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・神職並に信仰行事記録」参照
屋我島の我部と故地の湧川
【按司墓】(渡久地)(国頭郡志)
WUNAZYARABAKA



2021年1月23日(土過去のメモ

2002.1.4(金)
 
 今年の歴文センターは、どんな動きをするのか。しばらくは、一つひとつ積み上げていく作業になるかと思います。昨年暮れに予告してありましたシリーズものは、これまで博物館づくりや企画展の調査で、あるいは研修会などで訪れた各地での調査記録ノートを公にしていくものです。すでに公にしたものもありますが、過去のメモ書きのノートを整理する形でまとめていきます(結構なボリュームになりそう。月に2本程度)。

 現在(2002.1.4)進行している調査ものは、この「動き」で報告する形になります。その時、その時のメモやノートから歴文センターが何を考え、何を目指しているのか。さらに将来に向けて、公の財産として何を引き継いでいこうとしているのか。渦中の中から飛び出して第三者的に見ていければと思います。

 さて、1230日から元旦にかけて長崎・福岡を訪れた。家族揃っての旅は久しぶりである。ここでは歴文に関わる部分について、福岡・長崎の順で一部報告することにする。福岡では「蒙古(元寇)襲来の痕跡」、そして長崎訪問は琉球側にオランダ墓(1846年)と呼ばれている仏人の墓があり、その当時屋我地島と古宇利島を出島にする計画があった(実現しなかったが)。琉球にあるウタンダー(墓)や出島計画を「長崎の出島」を通して見ていきたい。

博多(福岡県)を訪ねる
 198712月(15年前)に福岡県(特に北九州)を訪ねている。その時、10軒余の博物館の施設を訪ねている。それは「福岡県内の博物館・資料館視察から」(上・下)として報告している(広報なきじん147148号)。その前書きで「今回の視察の主な目的は、これまで積み重ねてきた(仮)歴史資料館設立準備委員会の調査研究を踏まえ、さらに県外の博物館や資料館を視察することで、広い視野から今帰仁村の今帰仁らしい特徴ある歴史資料館の建設に向けて反映」させたい。さらに「活動する・活動している資料館」を目指している(歴史資料館は現在の歴史文化センターのことである)。15年前の福岡ゆきは、資料館(現在の歴史文化センター)づくりのためであった。歴文センターは開館して足掛け8年目をむかえるが、どうだろうか。

蒙古(元寇)襲来の痕跡
 今回の福岡県を訪れた目的の一つに蒙古襲来(元寇)の痕跡を確認しておきたかった。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の痕跡である。というのは、時代は違うが1609年に「琉球国」が薩摩軍の侵攻にあった時の琉球国側の対応があまりにも貧弱すぎる。国力や武力などの大差があったにしろ、琉球国の国情を知る手がかりになりはしないだろうか。そんな思いで福岡市博多区の東公園の一角にある「元寇史料館」を訪ねた。明治37年に「元寇記念館」として遺品が陳列されたようである。昭和61年に新たに「元寇史料館」(現在)として開館している。開館後の史料館の元寇の調査研究が進んで いるのであろうか。そうであればありがたい。

 薩摩軍の琉球侵攻との比較研究をしていくために長崎県の「鷹島町立歴史民俗資料館」まで足をのばしたかったが、その願いは、今回果たせなかった。弘安の役(1281年)の主戦場が鷹島で、近年周辺の海底から見つかった元軍の遺品の数々が展示されているという。元軍が遺していった石の砲弾や石臼、元船の大きなイカリなどなど。それらの展示物から元の兵力の規模、当時の日本の兵力、そして時代は下るが琉球の兵力の規模。その違いが体感できたにちがいない。薩摩軍の兵力、そして琉球国の兵力や国情などを視野に入れながら「薩摩軍の琉球侵攻」をみ、さらに今帰仁間切における薩摩軍の「今きじんの焼きうち」など、もう少し踏み込んで考える手がかりしていきたい。


2021年1月22日(

2003.11.22(土)メモから輸出輸入品を確認してみる。

明治31年頃の今帰仁間切の「輸出品」と「輸入品」について具体的にみていくのもいいのではないか。当時の「新聞記事」から紹介してみよう。

 普段ムラやシマなどを歴史の動きや祭祀などを通してみているが、生活している立場に立って歴史を見ていきたいと考えている。そうすると、今私たちが常識としていることが、その時代に戻して考えたとき、常識ではないことに気づかされる。

 明治31年頃の今帰仁の様子を輸出品や輸入品から何が見えてくるのだろうか。また、当時のお金もそうである。例えば、白米の輸出品価格の5120800厘は、五千百二十円八十銭である。数え方は品物によって斤・丸・本・升・間・枚・個などがある。

■輸出の部                       ■輸入の部   

品  目

輸出品数量

輸出品価格

種 類

輸入品数量

輸入品価格

製 藍

317790

1,5889500

焼  酎

28480

5696000

薪 木

471755

2830530

5694

911040

木 炭

244055

3660825

石  油

1130

158200

砂 糖

168047

6721880

白  米

15815

1897800

白 米

42670

5120800

大  豆

11340

190700

角 下

224

67200

甘  藷

9224

73792

楷 木

26

2600

素  麺

7000

56000

徳 利

1185

59250

杉  板

190

133000

小 麦

150

12000

34150

136600

杉四分板

30

15000

41

10250

丸 木

1140

91200

小  麦

600

48000

杉七分板

30

39000

樽  板

261

52200

2475

297000

2

1400

棚 木

6

10800

味  噌

500

22000

ケキ木

80

1600

雑品入

233

186400

石 灰 

3900

3900

戸  棚

4

8000

合 計

3,4823085

昆  布

300

12000

徳  利

2

100

芋  粕

250

750

650

52000

樫  木

10

1000

イク木

50

125000

300

60000

製  藍

2400

120000

西洋綛

20

6000

合 計

9845232


2021年1月21日( 

「琉球国旧記」1731年)から「神軒」(神アシアゲ)(神アサギと呼んでいる)

 「琉球国旧記」で間切は郡、村は邑の字が充てられている。注目してきたのは、300年経っても健在であること。山原(やんばる)の村(邑)の歴史を見ていく指標の一つである。もちろん、茅葺き屋根から瓦葺きやコンクリート葺きに変わるが、神アサギそのものは消えることはない。神アサギを失うと山原ではないと。山原に茅葺き屋根の神アサギは①本部町具志堅 ②今帰仁村崎山 ③国頭村比地 ④国頭村安田 ⑤恩納村恩納の五か字(村)である。伊平屋村、伊是名村は除く) 各字にある神アサギは寡黙に歴史を見つめてきた。語らすのはあなたである。祭祀空間であると同時に村の税の集積場でもあった。

今帰仁の神アサギ

(神 軒)
 ・神軒 (親泊邑に在り)   ◎ 
 ・神軒 (今帰仁邑に在り) 
 ・神軒 (これまた親泊邑に在り  △ ※親泊邑の神アサギは集落内と城内の神軒
 ・神軒 (志慶真邑に在り)            ◎
  ・神軒 (兼次邑に在り)             ◎
  ・神軒 (諸喜田邑に在り)       ◎
  ・神軒 (與那嶺邑に在り)           ◎
  ・神軒 (崎山邑に在り)           ◎
  ・神軒 (中城邑に在り)             ◎
  ・神軒 (平識(敷)邑に在り)       ◎
  ・神軒 (謝名邑 に在り)           ◎
  ・神軒 (仲宗根邑に在り)          ◎
  ・神軒 (玉城邑に在り)            ◎
  ・神軒 (岸本邑に在り)           ◎
  ・神軒 (寒水邑に在り)            ◎
  ・神軒 (勢理客邑に在り)          ◎
  ・神軒 (上運天邑に在り)          ◎
  ・神軒 (運天邑に在り)            ◎
  ・神軒 (郡邑に在り)              ◎

   ◎記は現在もある神軒(アサギ)300年前から現在まで継承されている。
     行政は統合されるが、神軒は一つにまとめることない。(祭祀は一体化しない)


2021年1月20日(水







2021年1月19日( 

(バソコンの文字変換ができず、他のパソコンで打って貼り付け中‼)

 沖縄県も「緊急事態宣言」を発出され、字誌の編集会議は中止。会議で使う予定の資料をアップ。2009年に1月に調査用に掲げた資料である。

2019年1月28日(月)

 1956年、57年の「今帰仁村字兼次」の公民舘資料に目を通す。時々、近世の生活習慣など「昭和30年代まで、近世が踏襲している」と述べることがある。

 戦後間もない頃の「公民館資料」の記録を頭に入れてムラ・シマの調査する必要がありそう(以下、一部紹介)。琉球政府時代なので年号は西暦、お金はB円(昭和33年からはドル)、暦は旧暦など。ムラ・シマの実態をしることができる興味深い動きが数多くある。それらを踏まえての調査。

内 容

19561229  1229日 朝常会  

 評議員選出の件  

売店任人前当務各団長外十名とする。

新評議員 実、秀夫、米助、鎭夫、丹吉、源次郎、林助、昇一、孫信、源弘、哲夫、森猛、常夫

 1957年度    区取締役員 大城金蔵 諸喜田林光、諸喜田源弘、玉城藤七

  1229日 粉□器を買う決定致しました。

 

195715月 15日常会に於いて

 一、暴風災害農協資金について  借入者 災害に極く困って居られる方へ貸付する

 一、パイン園区拂い下げについて  パイン園栽培土地のない方々に優先す 希望者 盛□ 仙幸、豊生、
   米助、丹吉、島トラ、青年団

 一、学校負担金は区費に割当てして 各戸月三円とす

 一、農事奨励会 一月拾壱日にする組合総会□ 遅刻又は欠席者は配当金より各自50円の罰金とす

 一、区予算は60,420円とす内 負担額は50,224円とす

 一、一 二ヶ月分の区費、賦課は従前通り□とす

 

1957111 朝常会に於いて  

 第一期作水稲苗代の件

  村の指示に準じて播種をなす 然し雨が降らなかった場合は順延する様にする

  野ソ駆除の件

  水稲播種前に野ソを徹底的に駆除する。 薬品は区会計より出し日取りは当務に委任する。 
  当務は早目にこれを実践する。

 

1957121日 朝常会に於いて

 一、水稲苗代の件

   雨降れば決定
 二、竹林清掃出夫 二十三日決定

 三、生年祝の件

  部落民全部事務所で行う。酒肴携帯、会費二〇円持参。会費は記念贈呈に向ける。記念品は十三祝、61以上
  の方に贈呈

 四、焼香

  香典料は持たずに焼香する。親類は重箱を持って焼香する

 五、学校植樹の件

  旧十二月二三日竹林清掃と一緒に行う。 樹名 櫻一六本、□葉木十三本植付

 

1957213日 朝常会

 一、溜池当番年報 区予算 五百円也 年報補年報参百亦は苗木所有者が負担す 当番年報 五百円也提供両靴一足
   電燈一ケ

 一、竹林清掃出夫 旧一月弐壱日にする 各人高 一荷づつ持参

 

 一、資力等級査定員選定 39日朝常会

  査定委員左の通りとす 丹吉、実、鎮夫、米助、孫信、林助、林光、□□、和正、保弘、堅光 出席38名 
  得要数 三六票   無効 二票

 一、査定方法 見込み等級で比れを行う 

 一、売店区よりの株配当金の件 (3月23日朝常会) 去年度1956年度配当金は区より増株する。 
   次年の区費負担金の補いにす様

 一、学児奨励会の件 学児奨励会は三月廿五日午後一時開催 敬老会も今日挙行 学校に準じて賞品援興は行う。

 

56日 朝常会

 一、育英会役員再選

 一、右役員選出は前役員及び部落当務で行う

 一、役員当で選出不能の場合は常会にて亘選す

 

710日育英会役員決定報告 (朝常会にて)

  育英会会長 大城丹吉  副会長 諸喜田保弘  会計 玉城光久雄  新農道に於いての潰地は無償提供し
  今後の産業発展に寄興す。

 一、区費未納整理は各班で行う

 

82日 朝常会

 一、水稲二期作播種準備は次の日程で行う。

  糸川原苗代 八月三日 道東 四日 道西上 五日 東後原 六日 苗代の準備作業も上から順に行い節水する様にす。

 一、育英会会費として  物品で会費の足しにする(籾)  班長は四班の籾の徴収に当る

 一、1012日 朝常会

 竹林総出夫の件について  竹林夫は十月十五日に決定致すことにします

 
8
23日 朝常会 出席人員52名

 一、乾燥場北の溜池の件

  区産業発展と衛生面の蚊蝿の源池の為 区煙草組合の乾燥場敷地に切替する

 一、育英会資金徴収の件

  籾各個 五斤以上とす  籾なき家は現斤50、-以上とす 新設農道の潰地は無償提供にす

 

926日 (晝常会) 台風済んで以後

 一、字内の全壊家屋の復旧奉仕作業の件

  奉仕作業は五日間続行する(日程九月28日より) 作業は部落総出夫をなす。晝食携行で罹災者に迷惑いない
  様禁酒する事 

 一、戸籍整備事務の件

  事務執行は当務に委任す  事務雑費は個人負担とす  事務員は月当100,-としす

 一、二タンクより五タンク迄の水道設修について

  金□や西辻より五タンク迄の予約100米  亜鉛パイプに切替える様 議決す 
  各個所の字有潰地は競売して水道設修費にあてる 

 竹林補助金5,300ドル也は全額 亜鉛パイプ購入資材代に当てる 

 

1012日 朝常会 出席員51名

 一、フェイ台風の竹林清掃の日取の件

  竹林清掃は十月十五日になす 清掃当日の竹代は二タンクから五タンク間のパイプ代に当てる

 一、小中運動会に傍々水祭の件

  従来通り常会に計らなくとも水祭は運動会当日施行する

 一、リバック救援物資の件

  配給の方法は各々頭数に割当て配給をなす

 一、台風被害見舞金割当配給方法について 一金 1,120
 一、復旧作業に於いての大工道具又は道具の破損料に当てる  その他の残金は当務に任し作業当時の
   雑費に繰入れる

 一、内間カナ氏の改築茅葺の件

   困窮者であり一人者である故字よりの配夫で復旧作業を決行す

 

1024日 朝常会

 一、新農道工事長 大城丹吉氏  副工事長 諸喜田保弘氏  工事会計 新城保信氏 右三氏を工事責任者に
   承認決定す

 一、新農道潰地有償の件

  有償代金は区長で委員を選定す  地主と確適な代金を考慮す  

 一、伊良波幸明氏轉籍の件

   幸明氏を入籍なす事を承認決定す  字内法に従い誓約書を参考迄に受とる

 一、第二回救援物資処分の件

  ミルク 六缶入 二箱 メリケン 一袋   米 三〇斤 豆 一袋  右援助物資は区当務に任す様承認を得る

 

19571212日 朝常会

 村よりの村民税の算定は区費に五〇%村当局の算定額に五〇%を調定する様 決議す

 

19571226 晝常会

 区長後任選挙の件

  有払者 六八名  投票数 六八名  無効 三票  後任区長に新城保信氏が当選す

 書記後任選挙の件

 有払者 右仝  投票数 右仝  無効 二票    後任書記に大城常夫氏が当選す

 給仕後任選挙の件

 有払者 右仝  投票数 右仝  無効 一票   後任給仕に島袋松重氏が当選す

 一、詮衡委員の件

  詮衡委員は常会の承認を得へ各班より代表者一名を区長が任命す

 一、出納簿検査委員の件

  常会の承認を得先輩の任命を持って左の委員を可決す

  委員 大城丹吉  玉城鎭夫  諸喜田保弘  大山光三朗  諸喜田実  以上五名とす


2021年1月18日(

(バソコンの文字変換ができず、他のパソコンで打って貼り付け中‼)

 平成21年(2009)「新城徳祐資料展」(企画展)を開催している。その時、「新城徳祐氏資料目録」を作成している。その中の調査ノートと写真の一部は『なきじん研究』―新城徳祐調査記録ノートとして発刊(297頁)。昨年(12月18日)に資料があるので必要であれば寄贈するとの連絡があり現館長と臨時職員と三名で尋ね書籍箱5個分の資料(書籍と奥さんの教職辞令と詳細な日誌)、スクラップノートを受け取る。その中に「辞令書書類(徳祐・安子)」と書かれた封筒があり、両人の辞令書があった。徳祐氏の父徳幸と祖父の徳助の辞令書(明治期)と文書(口上覚)は村指定の文化財に。資料目録に追加することに。一部紹介(9点)。スクラップに歴史文化センターの企画展の新聞記事も(私は失念)。

戦後、新城苗茂から新城徳祐へ改名。








2021年1月17日(

mojihenkang dekizu komentoga dekimasen!





2021年1月16日(土

国頭村辺戸の安須森(アスムイ)】(2004725日)メモ

 安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。

 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。

   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れる王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」

の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたのは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。

http://yannaki.jp/kakogazou/9he01.jpg .http://yannaki.jp/kakogazou/9he02.jpg
    ▲辺戸岬から見た安須森                  ▲辺戸の集落から見た安須森


【辺戸のシチャラ嶽】

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

http://yannaki.jp/kakogazou/9he03.jpg.http://yannaki.jp/kakogazou/9he04.jpg
  ▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)遠望              ▲御嶽のイビヌメーだとみられる


2021年1月15日(

mojihenkang dekizu komentoga dekimasenn!





2021年1月14日(木

mojihenkang dekizu komentoga dekimasenn!



2021年1月10日(

mojihenkang dekizu komentoga dekimasenn!
嘉味味田家の墓調査報告





2021年1月8日(







2021年1月8日(

国頭村安波について。新年正月はよく国頭を踏査していた。安波ノロの遺品の調査、釣金(複)、集落調査こえ、海神祭(ウンガミ)、安波のノロ墓、南山墓など。講演の依頼もあり、字民を中心にやったことが思い出される。近々、テレワーク?リモート?やらの収録をするため、その準備中。パソコンの文字変換ができず文章が書けず、寡黙の生活!



2021年1月7日






2021年1月6日(水)


島袋源一郎著作論文目録

■佛国宣教師渡琉史             □□新聞(1~10回連載)  1915年(大正4年
■国民思想と教育者の覚悟        『沖縄教育』第106号   1916年(大正
◇本県の俚諺                  『沖縄教育』第115号   1918年(大正7年
◇口碑伝説の研究              『沖縄教育』第117号   1918年(大正7年
■沖縄県国頭郡志                         1919年(大正8年
◇他府県視察報告               『沖縄教育』第140号   1924年(大正13年)
■目出度意味を持った三の数に就いて 『沖縄教育』第141号   1924年(大正13年)
◇沖縄に於ける地勢と人文との交渉    『沖縄教育』第142号   1924年(大正13年)
■琉球(共著)                            1925年(大正14年)
■名護城史考                   『南島研究』第5号    1928年(昭和3年
■如何にして県勢を振興すべきか     『沖縄救済論集』収    1930年(昭和5年
■沖縄善行美談                          1931年(昭和6年
◇船に関する土俗                『南島談話』第2号    1931年(昭和6年)
◇沖縄固有の宗教に就いて        『龍潭』         1931年(昭和6年
■伝説補遺沖縄歴史                          1932年(昭和7年
■新版沖縄案内                              1932年(昭和7年
■母校の五〇周年を迎えて         『今帰仁小学校五十周年誌』 1932年(昭和7年
■本県郷土史の重点             『沖縄教育』第199号   1933年(昭和8年)
■数世前迄の琉球諸島の景観      『沖縄教育』第201号   1933年(昭和8年)
■食の史的考察(二)             『沖縄教育』第205号   1933年(昭和8年)
◇言語学的思索                 『沖縄教育』第243号   1936年(昭和11年)
◇言葉                       『沖縄教育』第244号   1936年(昭和11年
◇郷土の話題を求めて            『大阪朝日新聞』(沖縄版)  1936年(昭和11年)
◇郷土博物間建設経過報告        『沖縄教育』第240号   1936年(昭和11年
■琉球列島に於ける民家の構造と其の配置 『南島論叢』所収     1937年(昭和12年
■産業三大恩人御事跡                        1937年(昭和12年
◇薩南列島に於ける平家の遺跡     『沖縄教育』第247号   1937年(昭和12年
◇姓の統一に関する私見         『沖縄教育』第247号   1937年(昭和12年
■『沖縄教育』変遷と思い出       『沖縄教育』第249号   1937年(昭和12年
◇部落の発達                 『沖縄教育』第272
◇仕事はこれからだ             『沖縄郷友会会報』第1号 1939年(昭和14年
◇幼き日の思い出              『沖縄郷友会会報』第2号 1940年(昭和15年
■新琉球百話                           1941年(昭和16年
◇沖縄郷土史の話               『沖縄郷友会会報』第3号 1941年(昭和16年
◇沖縄方言による古事記の新解釈    『沖縄教育』第294号   1941年(昭和16年)
◇琉球列島に遺れる我国上代の風俗   『沖縄教育』第298号   1941年(昭和16年
◇ビタミン欠乏症に就いて体験を語る   『沖縄教育』第303号   1941年(昭和16年)
◇沖縄郷土史の便概             『文化沖縄』第3巻第4号 1942年(昭和17年)

註)■は収集済みの著書・論
◇は未収集の著書・論文

 郷土博物館建設経過報告(昭和11年7月4日) 島袋源一郎

抑も本県は帝国の南海に碁布し、古来土地狭小物欠乏の為め夙に日本々土は勿論、支那朝鮮及び南蠻諸国と通商貿易を策し、其の利潤を以て海島貧土の経済を補填したりき而して四五世紀前ハ此等東洋諸国の文化を租借して、独特の琉球文化を発揮し、美術工芸其の他制度文物の見るべきもの鮮少ならざりき。

 然るに置県以来五十年有余郷土文化の価値を認識せざりし為此等貴重なる資料も或いは県外に流出し或いは散逸隠滅しつゝあるの現状にありき、本会即ち茲に鑑みる所あり大正十四年参考館建設の計画を樹立し年々小学校児童ノート印税数百円を貯蓄して之が経費に充当せり。

 昭和二年二月己に本会に於いては建設委員を嘱託し、

第一部を書画書籍写真版木彫刻とし、

第二部を漆工陶器工染織工木竹工金石工牙工紙革工建築とし、

第三部を政治経済宗教産業交通風俗の部とし、

第四部を動物植物鉱物、

第五部を基他教育参考品の部

として夫々調査せしむる所あり。

 爾来歳月と共に資金の蓄積を見昭和七年度には五千数百円に達せしを以て仝年より参考品の蒐集を開始せり、今や計画以来十有二年之に要せし資金は僅々九千円に過ぎずと雖も書画を始め藩政時代の製作に係る漆鬆器琉球紅型衣類調度家具陶器石器博物資料等一千数百点を蒐集し昭和会館内に仮陳列して一般の観覧をなさしめたり。

 今回沖縄郷土協会の甚大なる援助に依り首里城北殿を改修して提供せられしを以て本会は議事機関の決議を経愈々本日開館することを得たり是れ歴代教育会当局の尽力に依るものなりと雖も亦一面沖縄郷土協会の奮起と江潮各位の深甚なる御援助の結果にして衷心感激に勝へざるなり。

 然るに宿直室の建築等未解決のものあるのみならず内容未だ貧弱にして各位の御期待に副ふ能はざるは頗る遺憾とする所にして本会は将来益々努力して之が充実を期せnとするものなり翼くは各位一層の御援助を垂れ以て本館の健全なる発達を遂げしめられむことを

 以上経過の一端を述べ以て御報告に代ふ。

  昭和十一年七月四日

      沖縄県教育会主事   島袋源一郎 

 

沖縄県教育会主事   島袋源一郎 

   
▲「沖縄郷土博物館紀念号」(昭和11年8月号) ▲故島袋源一郎氏追悼号(昭和17年) 


2021年1月5日(

「山原の津(港)」参照

今年は山原からスタート。1999年(平成11)と2006年(平成17)に『なきじん研究9―山原の港―』、『なきじん研究14―山原の津(港)と山原船―』を発刊したことがある。その時、企画展も開催している。『琉球国旧記』(1731年)から山原の津(港・江)をおさえ、そして明治14年山原を巡回した上杉県令の視察コースを念頭に入れて踏査したことがある。各地を回るのには徒歩での時代である。道筋の風景や江(津・港)に山原船が碇泊し、産物の積み荷などが知ることができ歴史を視る視点を変える必要があると実感させられる。そのこともあって無意識に現場踏査を行ってきた。昨年新型コロナウイルスで足踏みしている。それで過去の調査記録を取り出している昨今である。

上杉県令の視察コース(明治14年 1881年)


2021年1月4日(




2021年1月3日(

【石垣島の東側のムラ】川平(2014年10月30日)

 石垣島の東側から北上してみた。市街地の新川から名蔵、元名蔵、崎枝、川平へ。そこまでは報告したので、そこから北側のムラ。吉原→米原→富野→太田→伊土名→多良間→下地→野底→兼城→伊原間→明石→久宇良→吉野→平久保→平野まで。伊原間が研修地。吉原から伊原間までは、研修が始まる前に。新川から川平は前日の研修会前に(報告済)。明石から平野までは伊原間での研究会が終わってからの踏査。

【仲間サカイ之墓】(川平)
  


2021年1月2日(

今年は北山(今帰仁)の歴史の山北王ハンアンジ滅亡時、中山と山原の国頭・羽地・名護が集結したと言われる「勘手納港」を乙羽山から眺めながら思い出して見た。それだけではなく、おもろで謡われた「うむてん」「かつおたけ」、ハニジアジの羽地グスク、ハニガーの伊差川の跡、国頭、大宜味、さらに辺戸、伊平屋島、与論島、沖永良部島までの事を一気に思い巡らす。眼下には古宇利島の正月も。



2021年1月1日(

 新年のスタート。今年もよろしくお願いします。寡黙に過去の調査記録を紹介していくことになりそう。これから「寡黙庵」へ。途中乙羽山からご来光でも。羽地内海が臨めるか。新年1月のHPを立ち上げ、一月に大きな仕事がいくつか予定。正月休みで準備することに。出発!