沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
           今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)
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2020年9月(今月の業務日誌) 8月(先月へ)

※2019年4月から「業務日誌」として日々の動きを記しています。

今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  徳之島踏査
今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
山原の御嶽(ウタキ)と村と集落
・今帰仁の墓の調査
謝名の墓調査 
平良新助翁講演(昭和8年)
平良新助企画展(平成27年)           
今帰仁と戦争(企画展)
今帰仁と戦争
運天港と戦争
今帰仁の戦争体験記録1
今帰仁の戦争体験記録2
大宜味村の神アサギ             ・徳之島伊仙町
・今帰仁の印部石                ・奄美大島宇検町名柄(辞令書) 
・元文検地と今帰仁
・山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)      
山原の図像
・山原のノロドゥンチ                   
・本部町具志堅の調査記録(2003、2006年) ・平成24年(2012年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・平成22年(2010年)のムラ・シマ講座
古宇利島のプーチウガン(流行病)     ・平成20年(2008年)のムラ・シマ講座
古宇利島のムシバレー
クボウヌウタキ
嘉味田家の墓調査(2000年11月調査)(一部) ・嘉味味田家の墓調査報告
「山原の津(港)」参照
北山の歴史」の企画展
山原の図像
山原の図像調査(過去記録)
今帰仁村新里家の位牌や図象や系図
祭祀の「神遊び」は公休日!
北山監守一族の墓(大北墓・津屋口墓)



2020年9月19日(土)

 さて、今日の予定は?


2020年9月18日(金)

 「古琉球の北山」と読んでいるが、さらに北山三王時代の前に「中北山」を置いている。1426年に北山王の時代は終わりを告げる。その後の1422年に監守を置く。第一監守時代である。尚忠が監守に置かれるが、1439年に尚忠が王になると、弟の具志頭王子が監守を引き継ぐ。1469年に第一尚王統が滅ぶとだd第二尚王統一へ。北山も第一監守から第二監守の時代へ。第一から第二監守に移行する間、大臣が輪番で監守を勤めたという。その後、尚真王の三子の「みやきせん あんし まもたいかね」(尚韶威)を北山監守として派遣。その一族は1665年七世の従憲まで在地(今帰仁グスク、城下)で監守(今帰仁按司)を継承する。その一族が葬られているのが大北墓(別名按司墓)、三世の和賢が葬られているのが、津屋口墓(アカン墓)。北山の歴史の第二監守時代を柱となるのが、監守(今帰仁按司:王子)と今帰仁阿応理屋恵が果たした役割である。「具志川家家譜」の内容は北山の歴史の時代区分や歴史の柱になっている。重要な史・資料である。(いつも感謝である)

 「北山の歴史」の監守時代の原稿整理をしている最中、「首里の喜舎場親雲上から羽地村仲尾次の我部祖河大屋子に送った手紙」が画像で県立図書館から送られてきたので拝見。一門の家系をたどる興味深い内容です。一族の初代、二代あたりが、北山監守につながるというものです。喜舎場親雲上の手紙の内容が、大北墓の内部の石棺や厨子甕の銘書を読まれたものなのか。その手紙(古文書)は光緒三年(1887年)なので墓の内部の銘書を判読したように見られます。具志川家家譜も手にしているように見られます。厨子甕の銘書の判読が不十分? 島袋源一郎氏が明治44年(大正元年)に大北墓の修繕のとき、立ち会ったようで、『国頭郡志』に内部の石棺・甕と銘書が記されています。頂いた画像で深読みが困難の部分がありますが、「北山の監守時代」が正史とするなら同家の歴史は「野史」に相当する一族の歴史ということになりそう。テレビでやっているアナザーストーリーということか。正史は琉球国全体の歴史をしる物差し、そこに記されない一族や家の歴史は「野史」として扱われている部分。どちらも重要だと考えている。墓を民俗の分野だけでなく、歴史に組み込んだことが頃のことが思い出される。特に、大北墓、津屋口墓、百按司墓、池城墓、赤墓など。

 嘉味田家は尚真王の第四子(越来王子)、北山監守の尚韶威(今帰仁王子)は第三子で兄弟。嘉味田家の墓も現在の墓地は昭和40年頃那覇市大道から大名に移葬される。その前に康熙26年(1688)に東風平間切富盛村の墓地は長年になり、風水や地震で傷んでいるため風水を見てもらっている。七世喜屋武按司の時、乾隆15年(1750)頃東風平間切富盛から安里村松尾原に移葬されている。さらに昭和41年頃、大道から現在地(那覇市大名)に移葬される。 内部は大北墓の厨子甕のならべ方は近いのかもしれない。
嘉味田家の墓調査報告
(参考のため)


        ▲上空からみた今帰仁グスク周辺(世界遺産登録前)(平成5年頃)

2020年9月17日(木)

 昨日から「北山の歴史」の整理中。「みやきせん(今帰仁)の表記の変遷と語義」について触れる。二、三日前から今帰仁グスクから伊是名・伊平屋島が近くに見える。グスクまで足を運ぶ。

・標高100mの杜である。

・杜全体がウタキ・グスクである。

・ウタキ・グスクに今帰仁・親泊・志慶真の三つの集落が接してあった。

・三山鼎立の時代の山北(北山)の拠点となる。

・『明実録』でハニジ・ミン・ハニジの山北王が登場する。

・今帰仁はオモロや古辞令書で「みやきせん」と表記される。

・『海東諸国紀』(1471年)に「伊麻奇利城」と記される。

・グスクの中に二つのウタキ(イビ)がある。それは今帰仁ムラと親泊村のウタキのイベと見られる。志慶真村のウタキはクボウヌウタキ。三ヵ村は今帰仁ノロの管轄である。

・『琉球国由来記』(1713年)で「城内上之嶽」と「城内下之嶽」と記される。それはイビである。

・それらの嶽(イビ)は集落の発生と関わる。

・グスク内に住む第一、第二監守時代の按司一族とムラの祭祀とは重なる部分もあるが、異なるとみていい。

・グスク内(イベ)で行われる祭祀は三つのムラの祭祀である。


 ▲伊是名・伊平屋島が近くに見える        ▲大隅の石垣


▲大宜味国頭方面の空に入道雲が            ▲火神の祠の前の石灯籠と監守来歴碑記

2020年9月16日(水)

 「地域調査研究」に手を染め始めた40年前の「今帰仁の語義、表記の変遷」を振り返ってみた。その後、地名(村名)の付け方に気づくことがあり、付け加えて「まとめ」ることに。

 間切名は既にある村に番所を置いたことで、その村名を間切名にしたのがある。1666年に今帰仁間切から伊野波間切(翌年本部間切)、1673年の田港間切、1695年に大宜味村を創設し、田港村から大宜味村へ番所を移動し大宜味間切と改称。恩納間切もすでにあった恩納村に番所を設置。久志間切も久志村に番所を置くが14年後、瀬嵩村へ番所は移動するが間切名はそのまま。ならば村名の語義は?の説明になりそう。それは近世の間切創設以前、村名創設以前に立ち戻って考える必要がありそう。

 羽地間切、今帰仁間切、北谷間切、読谷山間切などの語義は。村名の語義は。東恩納寛惇氏や宮城真治氏の地名で解ける地名とその方法では解けない村名が数多くある。「みやきせん」(今帰仁)も表記の変遷は解るが、語義については皆目理解できないでいる。どのことを紐解くJことに。(工事中)

 「みやきせん(今帰仁)の表記の変遷」参照


2020年9月15日(火)

 今帰仁の村落の変遷(上)・(中)・(下)


2020年9月14日(月)

 「方切」(間切境界の変更)を扱うのは、方切で間切の変更、村(ムラ)移動などが行なわれて、祭祀が行なわれ、ノロ管轄は変わらず、山原では神アサギが設置される。首里王府は行なう、あるいは認めたことは何故なのか。それはムラ(村)の近世の内容を見極めることにつながる。祭祀を行なう必要性は祭祀の「神遊び」を行なうことで休息日をとることができる。神アサギの設置は、祭祀空間であると同時に上納(租税)の一時集積場、祈りは税に関わる五穀豊穣など王府が間切や村(ムラ)を統治する手段としていることがわかる。などなど

山原の方切
(間切境界の変更)
 1673年の恩納・大宜味・久志間切の創設を「方切」の視点で整理してみる。すると1673年の「方切」が間切や村にとって不都合が生じ、後に「方切」が行われている。まずは史料の整理から。
 1673年の「方切」(間切の創設)は、恩納間切は向弘毅(大里王子)・毛国瑞(佐渡山親方安治)、田港間切(後に大宜味)は向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)、小禄間切は向煕(金武王子朝興)・毛文祥(小禄親方盛聖)、久志間切は尚径(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)に、それぞれ領地を賜うことであった。「郡(間切)や邑(村)の田地が広い、人口が多い」ことを理由としているが、間切によっては当初の「方切」に不都合が生じ、康煕乙亥(1695年)に二回目の「方切」を行ったが、「不便」だということで1719年に元に戻している。
 1719年に村をもとの間切に戻している理由(不都合)は、間切番所とそれらの村の地理的不便さ(特に平良と川田)、それとノロ管轄(古知屋村は金武間切の宜野座ノロ)、祭祀場の分断(屋嘉比・里見・親田の祭祀場は根謝銘(ウイ)グスク)がある。「方切」の対象となった「川田村」と「平良村」は名護間切の村であったこともある。「方切」で1673年に名護間切から久志間切へ、1695年に大宜味間切へ、1719年に久志間切へ戻る。屋嘉比村・(里里村・親田村)も国頭間切から1673年に大宜味間切へ、1695年に国頭間切へ、1695年に再び大宜味間切へ戻る。それらの村は「方切」で振りまわされた村だったかもしれない。「方切」や村移動などあったが、ノロ管轄の変更はなかった。

1695年の「方切」と1719年の「方切」 
・古知屋村は金武間切の村であったが、1695年の「方切」で古知屋村を久志間切へ、
 ところが1719年に金武間切に戻した。 

・川田村と平良村は久志間切に属していたが、1695年の「方切」で大宜味間切へ、
 ところが1719年に久志間切へ戻した。
・屋嘉比村と親田村と見里村は1695年の「方切」で国頭間切としたが、1719年に再び
 大宜味間切に戻した。

【国頭間切と大宜味間切などの方切】

【一回目の方切】
(1673年)
・1673年「始めて恩納・大宜味・小禄・久志等の四郡を置く」(1673年条)本国の郡邑、田地甚だ広く、人民も亦多き者は、分ちて二郡と為す。国頭郡内十一邑、羽地間切二邑、合して田港郡と為し(後、名を大宜味に改む)、始めて向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)に賜う。後新に四邑を設け共計十六邑なり(二邑は合して一邑と為す。
此くの如し)。

【二回目の方切】(1695年)
 ・1695年に「方切」あり、久志間切の平良邑と川田村が大宜味間切へ。
 ・1695年に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
  1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。
   其の時の検見は御者奉行吟味職毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上
   朝上なり)(家譜)
 ・1713年の『琉球国由来記』
   ・古知屋村は久志間切(1719年に金武間切へ戻す)
   ・平良村と川田村は大宜味間切(1719年に久志間切へ戻す)
   ・親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切(1719年に大宜味間切へ戻す)

【三回目の方切】(1719年)(『球陽』1719年の条)
 ・1719年古知屋村・川田村・平良村・屋嘉比村・親田村・見里村、各々原籍の間切に復す。
  原籍、古知屋は金武間切に属し、川田・平良は久志間切に属し、屋嘉比・親田・見里
  は大宜味に属す。康煕乙亥の年(1695)、改めて古知屋を将て久志間切に属せしめ、
  屋嘉比・川田・見里は国頭間切に属せしむ。
これより各村多く便利ならず。各村呈し
  て旧に復するを准す。

・1732年国頭郡駅を奥間邑に移置す。
  国頭郡駅は、原、浜邑設け、一偏に僻置して、号令伝へ難し。人民の往還、均一
  なること有らず。是れに由りて、奥間邑に移建す。

 「方切」というのは、間切境界の変更のことである。「方切とは間切と同じく村の境界を定めたるものにして人口少なくして土地広き村はその耕地の一部を他間切又は他村に配置したり」とある。ここでは間切の境界の変更(方切)について史料であるが、「方切」を視点すると、また興味深い首里王府の動きが見えてくる。

【今帰仁間切と本部間切と羽地間切の方切】
 今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切は1666年である。今帰仁間切の第一回目は1666年である。その時の「方切」はこれまでの今帰仁間切を今帰仁間切と伊野は(本部)間切の二つに分割してものである。二回目は1692年頃の今帰仁間切と羽地間切との境界の変更である。三回目は1736年の羽地間切と今帰仁間切との境界線の変更である。

【一回目の方切】(1666年)(今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切)
 これまで本部地域まで含んでいた今帰仁間切を分割して、今帰仁間切と伊野波(本部)間切とに分割した。(絵図郷村帳や琉球国高究帳)。その時の方切(間切分割)について、『球陽』で、以下のように記している。
   「始めて本部・美里等二郡(間切)を置く」(1666年条)
    今帰仁郡邑(間切・村)は、素三十余邑有り。田地甚だ広く、人民已に多し。
   今、其の十一邑を分ちて、伊野波郡と為し、始めて向弘信(本部王子朝平)・
   毛泰永(伊野波親方盛紀)に賜う。後亦、七邑を新設し本部間切と改名す。 
 
 
・「方切」(あるいは間切の分割と創設)の理由は、邑数が多く、田地が広く人民が
  多いということ。
  それと新設した間切を本部王子と伊野波親方へ賜うことであった。
 ・天底村は本部間切地内にあり(絵図)(1719年今帰仁間切へ移動)
 ・1690年「こかおきて」(呉我掟)(池城墓碑)・(呉我村は今帰仁間切の村の掟)
 ・1671年今帰仁間切松田の名(家譜)
 ・1672年今帰仁間切松田の名(家譜) 
 ・1672年羽地?間切我部の名(家譜)(今帰仁間切?)
 
・1690年(康煕九)今帰仁間切松田の名(家譜)
 
  ※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。
其の時の検見は御者奉行吟味職毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)

【二回目の方切】(1690年頃)(今帰仁間切と羽地間切の間の方切)
  二回目の方切を1690年頃としたのは、その時の「方切」を示した直接史料を確認できていないので、他の史料を並べてみた。すると1690年「今帰仁間切松田」と1691年「羽地郡松田村」を『家譜』に見ることができる。そのために二回目の「方切」は1690年頃とした。
 ・1691年羽地間切我部地頭職を拝授す(家譜)。
 ・1691年羽地郡(間切)松田村、本郡我部村に属す(球陽)。(方切済) 
 ・1713年羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・松田村を今帰仁間切から羽地間切へ
  (間切境界線の変更あり)
 ・1719年本部間切にあった天底村が今帰仁間切内へ移動(村の疲弊)。

【三回目の方切】(1736年)(今帰仁間切と羽地間切との方切)
 ・1735年に羽地大川の改修工事が行われた。呉我村と振慶名村は改修工事が終った羽地大    川流域への村移動である。その時の「方切」は羽地大川の改修、村移動、間切境界線
  の変更、村が移動した土地に湧川村の新設(1738年)がある。そこで村移動がなされ
  てもノロ管轄は変動することはなかった。
 ・1736年呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村は羽地間切から羽地間切内へ移動。
  その土地は今帰仁間切へ組み入れる(間切境界線の変更あり)
 ・1736年村が移動した後に今帰仁間切湧川村を創設する(1738年)。

 三回目の「方切」は『球陽』で、以下のように記してある。そこでの「方切」の理由は、山林が狭いことや村が密集していることをあげている。山原での元文検地は、その後に実施されている。三回目の「方切」は蔡温の山林政策、大浦(羽地)大川の改修工事、村移動、村の新設、元文検地と連動した流れである。その過程で変わらないのが祭祀のノロ管轄村である。歴史を辿るとき、変化していく、その理由を見て行くことも重要であるが、祭祀のように頑固に継承されているのも歴史を見る視点に入れるべきであろう。
  「蔡法司、諸郡の山林を巡視して、村を各処に移す」(1736年条)
  「羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶名等の村は、一処に集在して、
 農地最も狭く、動もすれば山林を焼き以て農地に供す。
今帰仁山林甚だ狭し。乃ち
 呉我村等五邑を以て、山林外に移徙して、其の山林の地は今帰仁県(間切)に属せし
 め、其の邑(村)は、仍、羽地県(間切)に属せしむ。…」
 湧川邑(村)の創設(1738年条)
  「今帰仁郡に湧川邑を創建す」
   今帰仁郡は民居繁衍し、山林甚だ狭く、木材用に足らず。乾隆元年(1736)、検者・
  酋長を奏請し、羽地山林を分別して今帰仁郡に属せしむ。依りて湧川邑を建てて山林
  を看守せしむ。

        (三回の「方切」の図が入れ)


※「方切」のあった村々を踏査することに。


2020年9月13日(

 11年前に久米島を訪れている。久米島のノロ関係の遺品の調査に行なう。調査の合間をぬって久米島を踏査。私のねらいは久米島のチンベーであった。今帰仁アオリヤエと同等のノロで、今帰仁グスクの側にあるクボウヌウタキでの祭祀と同様な祭祀が行なわれているのではないか。それと遠見所のこと。

●2009年1月31日(土)調査メモ

 27日~29日まで久米島調査。調査の目的はノロ関係の勾玉や水晶玉(ガラス)など。久米島自然文化センター寄託品、儀間ノロ関係遺品などの調査報告は別にされる。合間をぬって久米島の何カ所かを訪ねる。

  ①久米島仲地の君南風殿内
  ②久米島具志川グスク跡(仲村渠)
  ③島尻集落と板門墓(島尻)
  ④島尻のウティダ石(島尻)
  ⑤ソナミの烽火台(宇根)
  ⑥上江洲家(西銘)
  ⑦泰山石敢當(1733年)建立(西銘)
  ⑧登武那覇城跡(宇根)
  ⑨具志川間切蔵元跡
  ⑩石塘根(イシトーネ)(嘉手刈)
  ⑪兼城御嶽(兼城)
  ⑫ウティダ石(太陽石)(比屋定)
  ⑬宇江城グスク跡(宇江城)
などなど。

 久米島の君南風については、今帰仁阿応理屋恵同様、三十三君の一人である。ノロ制度は、首里王府がクニを統治する手段の一つだと捉えている。久米島の君南風をクニを統治する手段とする視点でとらえてみたい。久米島には「君南風(チンベー)の配下に①具志川ノロ ②仲地ノロ ③西銘ノロ ④兼城ノロ ⑤儀間ノロ ⑥山城ノロ ⑦比嘉ノロ ⑧宇根ノロ ⑨城ノロ ⑩比屋定ノロの10名のノロがいた。今回勾玉や水晶玉などを入れる櫃の大きさに注目したい。

 「君南風が果たした役割」と、その男方(太氏氏・美済氏・和州氏)と首里王府との関わりについて見ていくことに。首里王府と関わる烽火台や蔵元や湊などを手がかりとする。その手がかりがつかめたらと。

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君南風がグスクヌムイをする具志川城跡 海岸側からみた具志川グスク跡

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久米島具志川城跡           グスク登り口のトートー石     

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 久米島君南風殿内(久米島仲地) 君南風殿内の屋敷にある雨乞い石

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島尻のウテゥダ石から東に渡名喜と座間味島が見える。ウテゥダ石(割れ目は東西)
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 ソナミの烽火台(宇根)から奥武島方面を望む  烽火台の頂上部


2020年9月12日(土)

近世の烽火制度(遠見台)古宇利島

古宇利島の標高107mのところにある「遠見番所」周辺が今年度整備される。整備のため周辺見通しがきくようになっているというので、古宇利区長の案内で訪ねてみた。現在のうるま市(与那城上原)にある「川田崎針崎丑寅間」(下の画像:沖縄県歴史の道調査報告書Ⅴ)と彫られた石碑が報告されている。古宇利島の遠見所付近で、同様な石碑が見つかるのではないかと期待しているのだが(石に文字が彫られた石があったとか)。(平成8年頃調査)

 『沖縄旧慣地方制度』(明治26年)の今帰仁間切に地頭代以下の間切役人が記されている。その中に6名の「遠見番」がいる。任期は無期、俸給は米三斗、金五円七十六銭とある。一人当たり米0.5斗、金九十六銭づつである。今帰仁間切に6名の遠見番を配置している。

 北大嶺原(本部町具志堅)のピータティファーイは本部間切の管轄のようだ。本部間切の遠見番は12名である。具志堅の他に瀬底島にも遠見番があるので12名は二ヶ所の人員であろう。

  宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について「古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の位まで授けられる。終身職で頭(地割?)を免ぜられる」と記してある。

  『元禄国絵図』(1702年?)の古宇利島に「異国船遠見番所」と記載されている。遠見番所の設置は1644年に遡る。烽火をあげて首里王府への通報網である。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻時は一炬、二隻時は二炬、その他の異国船の場合は三炬が焚かれたという。先島は沖縄本島とは異なるようだ。(三ヶ所の竈(火烽)があるだろうと。見つけることができなかった)

 
 古宇利島の「遠見番所」跡             「遠見番所」跡の遠景

 
 島から北大嶺原の遠見番所跡をみる        古宇利島の「遠見番所」跡 

 
   米軍が設置した標識?          ▲うるま市宮城島


 2020年9月11日(金)

 雑然とした歴史文化センターの一室で『今帰仁村史』(歴史編上・下)の原稿化を進めている。2000頁になっているので半分に圧縮。通史編は気づいたら1989年に公にした「北山の歴史」(90頁)と「運天の歴史」(60頁)があることに気づく。上は通史編にし、下はテーマ別の論文編にするか。1500頁あるので下に収まりません。資料編は次巻に回すか。今月一杯で判断を下すことに。

 向かいの今帰仁グスク近くのクボウヌウタキ(クバヌ御嶽)は台風で潮風でうっすらと紅葉している(一週間ばかり)。「寡黙」に業務をしているのがこの部屋。(はかどりすぎ) 歴史文化センターは開館になりましたのでボツボツ来舘者の姿が見られます。
 
  
   ▲2000枚の原稿ファイル        ▲頭の中は雑然      ▲クボウヌウタキは薄く紅葉と秋空

2020年9月10日(木)

 ⑤と⑨の辞令書の読みは「辞令書等古文書調査報告書」(沖縄県文化財調査報告書Ⅴ)による。⑩は『ご案内』(平敷兼仙氏:昭和11年)による。ここで三点の辞令書に注目したのは「北山の歴史」第二監守時代(前期・後期)に相当し、山北監守が今帰仁間切(1666年まで本部間切域を含む)、今帰仁グスク、薩摩軍の今帰仁グスク焼き討ち後、グスクから麓の集落内に移り、みやきせんあんじ、おどん(今帰仁おどん)、三番制(丑の日番、巳の日番)があったことがわかる。それと各地の按司が首里に集められたが、今帰仁按司は北山監守(今帰仁按司)として1665年まで遺されたこと。「北山の歴史」に手を染めた初期の『なきじん研究―今帰仁の歴史』(平成5年)で扱っているが、すっかり忘れている。(当時の勢いはないが検討してみることに)

⑤【今帰仁間切の辺名地目差職補任辞令書】(1604年)(本部町仲村家)

 しよりの御ミ事

  ミやきせんまきりの

  へなちのめさしハ

  ミやきせんのあんしの御前の

  一人うしのへはんのくかへのさちに

  たまわり申候

 しよりyほりうしのへはんのあくかへのさちの

                 方へまいる

 萬暦三十二年閏九月十八日


⑨【今帰仁間切の謝花掟職補任辞令書】(1612年)(本部町仲村家)

  しよりび御ミ事

    ミやきせんまきりの

    ちゃはなのおきてハ

    ミのへはんの(に)

    くたされ候

 萬暦四十年十二月□日

⑩与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643)(今帰仁村中城ノロ家)
 首里の御ミこと
   今帰仁間切の
   よなみねの大屋こは
  一人 今帰仁おどん
   ももなみの大屋こに
   たまわり申す[候か]
 崇禎十六年十月三日

 
⑤今帰仁間切の辺名地目差職補任辞令書】(1604年)⑨今帰仁間切の謝花掟職補任辞令書】(1612年)

 

2020年8月9日(水)

 国頭村の遠見所について沖縄タイムスの紙面で紹介されています。ここにも問合わせがありましたので、詳細は2013年10月12日(寡黙庵) 伊是名島の遠見所を参照いただけたらと。

一 右相図火之儀御条書之表異国船ハ三ツ唐船ハ両艘之時二ツ一艘之
時一ツ可立合候 但唐船一艘之時一之竃壱ツ二艘之時一二之竃二ツ
異国船之時一二三之竃三ツ可立合候事

一 辺戸村之火立定規ヨリ伊平屋島火立所酉代之小間酉ニ付候事

一 右伊平屋島立火之数見届候請次之火ハ伊地村郡島へ之相図火
ニテ双方兼テ可相済候勿論伊地村郡島請次之火不立合間ハ不絶ニ可
焼事

一 壱之竃ヨリ伊地村郡島之定規仕合置候事

一 竃一ニ薪木百束程ツヽ不断積入三百束程ハ用意可仕置事

 右之通堅固ニ可被相勤候此旨依御下知如此候以上

  康熙二十九年庚午四月十四日

                        大湾親雲上
                     安波茶親雲上
                     仲村渠親雲上
   国頭間切
    在番



2020年8月8日(火)

 祭祀は二、三除いてほとんどが旧暦で行なわれている。祭祀は農耕暦で、「神遊び」は今の公休日だとみている。今では祭祀以外はほとんど使われることがない。それと農事の風景も見られなくなり、カレンダーで確認しないとわからない。歴史をひもとくとき、農耕暦は体にしみ込ませておく必要がありそう。そうしないと、足が地に着いていない議論も軽々しくなってきそう。(今年の海神祭やシニグは、細々行なわれているがコロナウィルスと台風で、どこも調査は小規模に行っている)


2015年8月29日(土)記録

 「耕作下知方並諸物作節附帳」(道光20年:1840)に大宜味間切での「農事一般」と「稲の播種期と農具のこと」「毎月の農事暦」について紹介してある(『日本農書全集』第34巻所収』。翻刻と現代語訳(仲地哲夫:沖縄国際大学)がなされている。現代語訳から1840年頃の大宜味間切の農業についての把握したいと思う。稲の種蒔きは大宜味間切の北側と南側の塩屋湾岸の村とは十日ばかりの差がある。稲、粟、綿、大豆、さつもいもなどの畑の除草は、草の成長が早いこともあり、欠かせない重要な農作業である。

 さつまいもの種芋の伏せこみがあるが、それは芋の収穫を目的とするのではなく、芋から出て来るいくつもの芽(蔓)をとるためのもの。その蔓を寝かせて植え、それから芋を収穫する。畑を整地し、雨が降り潤うといもの蔓を植える。芋の植えつけは一年間に何度も行われる。

 農事暦の月は旧である。


 道光20年(1840年)
   耕作下知方並諸物作節附帳
 大宜味間切
   地頭代 山川親雲上
   惣耕作当 山川親雲上  前田親雲上 宮城筑登之

  毎月の一日に村々の地頭、掟、耕作当が番所へ集る際に申し渡す農事の方法に関する項目を次に記す

 一、農事一般
 ・田畑については、いくら耕しても、肥料を使わなければ収量が少ないことは誰でも知っている。
  肥料を調達するには、よくよく念を入れなさい。 
 ・肥料は、牛馬や山羊を屋敷内で飼わなければ思うように確保できないものである。従って以前
  から度々申し渡された通達を確実に守らなければならない。
 ・農民は、毎日野良仕事から帰るとき、牛馬、山羊用の草、かや、すすきの類、木の小枝などを運
  ばなければならない。かやすすきは、台所近くの庭から豚小屋の前まで広げておいて踏みつけ、
  雨の降るときには濡らさないようにがつの所に取り込んでおく。腐ってきたら豚小屋に入れ、豚に
  踏ませた後、肥料小屋に積んで貯えておき、使用すること。
 ・田拵えの時、畦草は鎌で刈り取ること。鍬を使うと畦をくずしてしまうのでかたく禁止する。
 ・大雨が降って田畑、河川、道路に被害があった時は、すぐさま組の者たちで補修すべきである。
  もし被害が大きく、組の者たちだけで修理できない場合には、惣耕作当まで申し出て、検者、地
  頭代の検査を受けた上で人夫の増員を願い出ること。
 ・堤防の保全には充分念を入れること。

 二、稲の種蒔きの時期と農具
  ・屋嘉比・親田・美里・城・根謝銘・一名代・喜如嘉・饒波、大宜味、根路銘の十か村では八月の
   秋分から五十五、六日たったら稲の種子を播きなさい。塩屋、屋古前田、田港、渡野喜屋、津波
   の五か村では同じく六十五、六日に種蒔きをすること。
    (平南村が登場していないので、1840年には津波村に統合されているか?)

  ・鍬、鎌、ヘラ、おの、山刀、バーキ、くわ、バーキ、オーダー(もっこ)、美濃笠
  ・これらの農具は農民には絶対欠かせないもので、ない場合は耕作や山仕事の際困ること
   になる。一月と七月の二度、地頭、掟、惣耕作当が検査し、その状態を検者と地頭代まで
   報告すること。

 三、毎月の農事暦 
   【一月】
 ・念入りに田ごしらえをする。
 ・田植えの適期は場所によって違うので、何時ごろから行ったらよいか、相談すること。
 ・黍(きび)を播く・
 ・山の新開地に粟を播く。
 ・黒かじを挿す。
 ・しゅろ苗を植えつける。
 ・田いもを植え付ける。
 ・さつまいもの蔓を植えつける。
 ・さつまいもの種芋を伏せこむ。
 ・冬瓜(とうがん)、青瓜、キュウリ、へちまの種播きをする。

  【二月】
 ・田植えをする。
 ・畑を耕起、整地しておき、雨が降って土が潤おいしだい、さつまいもを植えつける。
 ・綿を植えつける。
 ・しょうがを植えつける。
 ・さつまいもの種いもを伏せこむ。
 ・ソテツの種子を植えつける。

  【三月】
 ・畑を耕起、整地しておき、土が潤い次第、さつまいもや各種の作物を植えつける。
 ・大豆の種播きをする。
 ・小豆の種播きをする。
 ・粟畑の除草をする。
 ・稲の除草をする。
 ・平地のさつまいも畑の除草と施肥をする。

 【四月】
  ・山の新開地の地ごしらえをし、さつまいもの蔓を植えつける。
  ・稲の除草をする。
  ・粟畑の除草をする。
  ・綿畑の除草をする。

 【五月】
 ・畑を耕起、整地し、さつまいもの蔓を植えつける。
 ・稲の除草をする。
 ・粟畑の除草をする。
 ・綿畑の除草をする。
 ・大豆畑の除草をする。
 ・さつまいもの畑の除草をする。
 ・稲の作柄調査をする。

  【六月】
  ・畑の耕起、整地して、さつまいもの蔓を植えつける。
  ・稲刈りをする。
  ・秋作稲の種播きをする(二期作目)。
  ・薩摩への上納米(仕上世米)について、整製も含めて村々で準備するよう申し渡す。
  ・大豆畑の除草をする。
  ・綿畑の除草をする。

  【七月】
  ・苗代の耕起、地こしらえをする。
  ・さつまいもの蔓を植えつける。
  ・秋作稲を植えつける。
  ・さつまいも畑の除草をする。

  【八月】
  ・大豆と小豆の収穫、調製が終り次第、畑の耕起、整地する。
  ・さつまいもの蔓を植えつける。
  ・田の荒起こしをする。

  【九月】
  ・綿を移植する畑を耕起、整地する。

  【十月】
  ・湿田の荒起こしをする。
  ・二度目の田打ちをする。
  ・稲の種播きをする。
  ・麦の種播きをする。

  【十一月】
  ・山の新開畑を開墾する。

  【十二月】

 ・三度目の田打ちをする。
 ・粟の種播きをする。
 ・山の新開畑を開墾する。

 四、あとがき

  このたび、前記の数か条をかたく守るように村人に申し渡し、さらに田地奉行様から示された条項を
  かたく守るように申し渡しました。ついてはその結果を報告されるようお願い致します。
    道光二十年(天保十一年)十一月
                                  さばくり一同
                                  惣耕作当一同
                                  地頭代 

  以上のように、村人に農事にはげみ怠りなく働くよう、かたく申し渡したことを報告します。
      道光二十年(天保十一年)十一月
             検者 下知役

  以上の『農務帳』一冊と『耕作下知方並諸物作節附帳』一冊とは、農事の重要な規範であるから、おろそかにすげきではないが、大宜味では廃棄してしまったのだろうか。きちんと保管されていないので田地方のものを写して改めて下付した。ここに書かれているように、念を入れて耕作するよう申し渡しておく。一所懸命に耕作にはげみ、生活が安定するように常々申し聞かせてきたが、今回改めて申し渡す次第である。以上
    道光二十一年(天保十二年)二月
                         検者  屋嘉比筑登之親雲上
                         下知役 仲吉筑登之親雲上
         地頭代   喜如嘉村 山川親雲上殿
         惣耕作当  同村   山川親雲上殿
         同 右   塩屋村  前田親雲上殿
         同 右   同 村   宮城筑登之殿 


2020年9月7日(月)

 古宇利島に橋が架かる

 古宇利島の資料を掘り返してみる。学生達と調査。企画展を開催する。企画展を開催したメンバーの一人、二人としか音信はないが、当時皆さんよく頑張ってくれました。


2020年9月6日(

 台風は掠めてゆく。しかしまだ雨が降っている。旧慣の名残が昭和30年代まで残っている。内法規則からムラの内情を見る。


2013年1月24日(木)

 「字諸志 内法規則」(1951年)がある。内容は戦前の字(ムラ)の取締や約束事を踏襲してとみられる。その条文を紹介することに。

 第一章
  一、公共施設保護に関する事項
  1.事務所並に青年倶楽部及これに類似する公共用建築物は如何なる事があると雖も之を破損することを得ず。
  2.事務所並に青年倶楽部及び区下部組織団体所有に属する公共用備品を無断借用又は所持することを得ず
  3.浄水道施設幹支線の保持を侵害する行為をなすことを得ず
  4.浄水幹支線並に水槽のバルブの自由開閉及コックの変更を係員に連絡なく無断処置することを得ず
  5.農業用既設用水路から田圃に対する水の取入口の新設又は用水路の水路底より破損して設定することを得ず
    但し、開田等に依り取入口の必要を認めたる場合は区長の許可を得て之を設定するものとす
  6.用水路筋に塵、枯草、石其の他等故意に依り、流水の邪魔になる様な行為をなすことを得ず
  7.農地潮害防風林及風致保安林並に水源涵養林より樹木の枝葉及枯木と雖も無断切取ることを得ず
  8.浄水道貯水池より何人と雖も無断魚類を捕獲することを得ず
  9.田圃並用排水路の生物(魚貝類)を捕獲する目的に依り堤塘及田圃の畦畔を侵害する行為をなすことを得ず

 第二章 個人所有物保護に関する事項
  1.砂糖蔗を無断放食することを得ず
   但し、病人及七才以下の幼児其の他取締委員の許可得た者は此の限りに非ず
  2.砂糖蔗上頭部青枯葉を無断切取ことを得ず
  3.甘藷の芋蔓を収穫掘立中及成育中の芋畑より刈取ることを得ず
  4.甘藷植付後のほ場より牛馬用草並に食用に供する野生葉草類を採取することを得ず
  5.植物後の粟、麦、豆類、野菜畑、其の他農作物植付中の圃場内に立入ることを得ず
  6.田圃内より貝類を捕獲する目的により畦畔を切取り又は破損したり田圃内にセキlを設け水を干し、

田圃の維持を侵害する
    ことを得ず
    但し、所有主の許可を得たる場合は此の限りに非ず
  7.牛馬を農作物及田畑に侵する様に繋ぐことを得ず
  8.他人の柑橘類を無断放食することを得ず
  9.鶏、家鴨等其の家禽類は区常会に於いて放飼の期間を設定せる以外は放飼することを得ず
  10.他人の茅仕立山林、原野より無断茅を刈取ることを得ず
  11.他人の山林原野より無樹木を伐採並に栽培及自然緑肥樹木の枝葉を切取ことを得ず

 第三章 衛生に関する事項
  1.公共施設の浄水道タンクの飲料水を利用し、洗濯及水浴等をなすことを得ず、諸志大川又同じ
  2.浄水道貯水池堤塘内に無断立入すること、又は堤塘内に塵枯草等を捨て飲料水に非衛生的行為をなすことを得ず
  3.渡川用水路水源取入口及用水路全域に亘りアーシ水及汚物(オシメ、病人用身廻品)其の他非衛生的な物を洗濯する
    ことを得ず
  4.道路傍及排用水路近傍等区常会の議決に依り指定せる場所以外に塵、身廻品の塵紙、其の他害草貝殻、食器、瓶類の
    割物を捨てることを得ず  

 第四章 風紀に関する事項
  1.夜間公道並に部落内道路に於いて通行人の妨害及夏は十時冬は十一時以後安眠の防げなる行為をなさざること
  2.診療所の近隣に於て夜間入院患者の睡眠の妨げになる行為をなさざること
  3.その他

 第五章 罰 則
  1.前各章の区内規を侵犯したる者は区取締委員に於いて初犯は説論処分に処し再犯後は二条以下の罰則を適用す。
     但し、公共施設の損害弁償は此の限りに非ず
  2.公共施設に関する規定を犯したる場合は損害を弁償せしむる共に取締委員会に於いて処罰す
  3.個人所有保護に関する規定を犯したる者は百円以下の罰金に処す
  3.衛生に関する規定を犯したる者は五〇円以下の罰金に処す
  4.風紀に関する取締り規定にを犯したる者は取締委員会に於いて処罰す
  5.本内規侵犯による科料は総て区の収入に之納金するものとす
  本区内規定は一九五一年日より之を施行する
 
 諸取締規則
 一、本団は諸志区行政施行運営の円滑を計るも目的を以って区当局jに協力する為諸取締規則を作成し諸規則に
    基き其の取締をせんとす
 一、鶏取締の件
   1.鶏は原則として一年中放任する事を禁じ放任したる場合は取締札を渡し、其の取締をなす
   2.取締札は一日に付金五円也、過怠金を徴収し、他に渡し得ぬ時は五日間に了し取り上げる事にす
   3.他に渡したる節は其の都度保員に其の旨通達し上過怠金を納入しむるものとす
   4.取上げる節は本人から渡し得ぬ旨通達し過怠金を納入するものとす
   5.五日になっても其の旨係に通達せぬ場合は申し出る迄一日金五円也て過怠金を徴収するものとす
   6.鶏一羽に付き一事件を発生するものとす
   7.屋敷内と雖も放任したる場合は適用する。但し事情如何に依りては団員と合議の上免ずる事あるべし
   
 一、大動物取締の件
   大動物、中、馬、山羊、犬、豚は被害現場を認め被害有と認ある時、鶏と同じ規則に依りて取締をなす

 一、原取締の件
  1.甘蔗を他人のものを盗み取るもの自己のものと雖も畑又は道路又は休憩所に於いて食うもの
  2.自己の甘蔗を畑内にありて食べたい者は其の旨申出の上団長の許可を得るものとす許可なきものは

之を取り締まる
  3.子供にして数年七才までは本則適用せず。数年八才以上に適用するものとす
  4.甘藷其の他の作物を盗み取る者は本則に反したるものとし取締をなす
  5.原取締も鶏と同じ規則に基づき之を取り締まる

 一、祝日最終時間取締の件
  1.諸祝日は晩十時を最終時間とし消防団員の解散合図に依り了解するものとす
  2.祝日外と雖も客三人以上の者が揃って十時以後隣家に迷惑を掛けるべき行為のありたる節は本則に反する者とし之を
    取り締まる

 一、取締札紛失したる場合は該札一個に付金百円也の賠償金を徴収す
 一、取締札を受取って一ヶ月の間申出なき者は過怠金の外に金百円也の違約金を徴収す
 一、保安林取締の件
  1.御嶽内から竹木の薪を切るものは金五百円以下罰金を徴収す
  2.保安林も右に準ず

 附 則
  右の外部落集会及各団体の最終時間も又本則に準ず
  第四章風紀取締の項追加
 一、夜間一時以降部落内にてあやしき者ある時は、此れを「スイカ}尋問する事を得。万一これに妨害ありたる時は、団員の
   非常集召を行い総団員にて取締をなす

  


2020年9月5日(土)

 台風10号接近中。午前中、自家の干し場の屋根の打ち付け。台風対策。

2002年2月10日(月)過去メモ

 『琉球国由来記』(1713年)の山原の地頭代が今帰仁間切、羽地間切、大宜味間切、羽地間切の地頭代の名称が変わっている。地頭代の管轄村(扱村)の変更だと見られる。今帰仁間切の場合は、湧川村の新設(1738年)のとき、湧川を新設村名にし、古宇利島(村)を地頭代名としている。今帰仁では1738年頃から地頭代となるとフイヤー、前古宇利(メーフイヤー)の屋号がつく。ワクガヌヤーのつく屋号の家は、1738年に地頭代をした人物の出た家と言えそう。

【間切の地頭代名の変更】(2009年12月過去記録

 『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1713年)に各間切の地頭代が記されている。その時の地頭代は「・・・大屋子」である。18世紀中ごろになると、大屋子から「・・・親雲上」となり、今帰仁間切や羽地間切・大宜味間切・恩納間切で地頭代の村名の変更がある。時期を同じくしての変更であれば、王府の大きな行政の改革があったのではないか(43の間切・島の内、変更のあったのは23である)。その出来事を記す史料があるのではないか。

 今帰仁間切などの例を示すと、『琉球国由来記』と『琉球国旧記』の時の地頭代は「湧川大屋子」である。その時、湧川村はまだなかった。湧川村の創設は1738年である。その時、地頭代の湧川をとって村名にし、地頭代のかかえ村は古宇利村に変更し、地頭代を古宇利親雲上にした可能性がある。羽地間切も1700年代に親川村の創設があり、地頭代親川親雲上(1735年)が出てくるのはうなづける。その後川上親雲上に変わっている。新村の創設が理由の一つになりどうであるが、恩納間切の場合は、『琉九国由来記』(1713年)で谷茶村と前兼久村はすでにあるので、別の理由があったのであろう。変更のあった23の間切・島についてみる必要がありそうだ。村名がないのは、脇地頭が地頭代を勤めた間切なのか。

【琉球国由来記・旧記】の地頭代の村名と以後の名称

  【間切名】   【由来記・旧記】      (以後の地頭代名)
 ①今帰仁間切  湧川大屋子      古宇利親雲上
 ②本部間切    健堅大屋子     (健堅親雲上:村名は変わらず)
 ③羽地間切    嵩川大屋子      親川親雲上(1735年)・川上親雲上
 ④大宜味間切  前田大屋子      山川親雲上(道光20年:
 ⑤国頭間切   辺野喜大屋子    (辺野喜親雲上:村名は変わらず)
 ⑥久志間切   大浦大子       (大浦親雲上:村名は変わらず)
 ⑦名護間切   東江大屋子      (東江親雲上:東江村はない、同村は名護村))
 ⑧金武間切   安次富大屋子     (安次富親雲上:安冨次村はなし。同村は金武村)
 ⑨恩納間切    谷茶大屋子      前兼久親雲上(1763年)
 
 『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1713年)に各間切の地頭代が記されている。その時の地頭代は「・・・大屋子」である。18世紀中ごろになると、大屋子から「・・・親雲上」となり、今帰仁間切や羽地間切・大宜味間切・恩納間切で地頭代の村名の変更がある。時期を同じくしての変更であれば、王府の大きな行政の改革があったのではないか(43の間切・島の内、変更のあったのは23である)。その出来事を記す史料があるのではないか。

 今帰仁間切などの例を示すと、『琉球国由来記』と『琉球国旧記』の時の地頭代は「湧川大屋子」である。その時、湧川村はまだなかった。湧川村の創設は1738年である。その時、地頭代の湧川をとって村名にし、地頭代のかかえ村は古宇利村に変更し、地頭代を古宇利親雲上にした可能性がある。羽地間切も1700年代に親川村の創設があり、地頭代親川親雲上(1735年)がが出てくるのはうなづける。その後川上親雲上に変わっている。新村の創設が理由の一つになりどうであるが、恩納間切の場合は、『琉九国由来記』(1713年)で谷茶村と前兼久村はすでにあるので、別の理由があったのであろう。変更のあった23の間切・島についてみる必要がありそうだ。村名がないのは、脇地頭が地頭代を勤めた間切なのか。

【琉球国由来記・旧記】の地頭代の村名と以後の名称

  【間切名】   【由来記・旧記】
 ①今帰仁間切   湧川大屋子      古宇利親雲上(1738年湧川村の新設)
 ②本部間切    健堅大屋子       (健堅親雲上:村名は変わらず)
 ③羽地間切     嵩川大屋子      親川親雲上(1735年)・川上親雲上(親川村の分割)
 ④大宜味間切   前田大屋子      山川親雲上(道光20年:
 ⑤国頭間切    辺野喜大屋子     (辺野喜親雲上:村名は変わらず)
 ⑥久志間切    大浦大子        (大浦親雲上:村名は変わらず)
 ⑦名護間切    東江大屋子       (東江親雲上:東江村はない、同村は名護村))
 ⑧金武間切    安次富大屋子      (安次富親雲上:安冨次村はなし。同村は金武村)
 ⑨恩納間切     谷茶大屋子       前兼久親雲上(1763年)(前兼久村の分割) 


【喜界島の主な出来事】

 ・1441年 大島は琉球に従う。
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
      尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?

 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。

 ・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。

 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。
 ・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
      (間切・大城大屋子の役職)
 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)

 ・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
    五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
    (間切のもとに村々がある)

 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
     (豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)


2020年9月4日(金)

 『事々集(事々抜書)』(複製本(東恩納文庫蔵)がある。今帰仁間切部分のみでも、村名の表記や移動村、新設村、消えた村など村の変遷をみていく貴重な史料である。今では常識となっている村名の以前の姿みえて興味深い。天底村は1719年に本部間切から今帰仁間切へ、今の仲尾次が中城村、中城は中尾次と上間二ヶ村の事とあり、これまで崎山村と上間村を対峙させて見ていたが、上間村は中城村に組み込まれたことがわかる。それと現在の崎山地内にある中城ノロ殿地とスガーウタキ(仲尾次村のウタキ)は仲尾次村であったのではないか。そこに、村の境界線の変更があったのではないか。(今帰仁間切の西側の短冊形の村の形は、東西に延びる形をなしていたのではないか)


  ▲「事々抜書」の羽地間切・本部間切・今帰仁間切部分


2020年9月3日(木)

 台風の後片付け。一年ぶりの「ムラ・シマ講座」。まずは、熊手と竹箒を持って「神道」の清掃から。キノボリトカゲやカマキリなどを見つけてオオハシャギ。

 


2020年9月2日(水)

 台風の片付けへ。バナナや庭木はどうなっているやら。晩は旧盆のウークイへ。

北山の歴史の監守時代の一族の墓
2015
99日(水)のメモ
【墳 墓】
 旧藩の頃は土地所属地の村役目の承諾及び地頭代の奥書をへて山奉行の許可を得、置県後は同様の手続きにより郡長の認可を得て一般人民の墳墓用に供し、多くは山野の中を以てこれに充て、その願い出人の所持に属し売買・譲与・質入・抵当をなすを得べきものなり。旧藩来士族は一墳墓につき十二間角、平民は一墳墓につき六間角の制限ありしも、実際旧藩の頃、墳墓所在者に交付しある
朱引(墳墓地域図面)によれば、その地坪右制限範囲を超越せるもの少なからず。朱引地域内墳墓以外の余地は耕耘の用に供し居るもの少からず。旧藩の頃は墳墓地には概ね朱引(差出)を交付せしも、置県後は之を交付せず墳墓設置願に対する認可書を以てその所有を証するものとせり。

下の二枚の絵図は乾隆26年の具志川家の墓である(乾隆26年:1761)。墓仕立ての時、朱引きをし交付したものである。
 「右亡父代西原間切末吉村西百姓地山野之内
絵図朱引之通譲取墓仕立置候間、永々為墓地被下度奉存候」
右朱引之内願之通被下候間、永々可能被致所持候也」
 「右
朱之内願之通御達被下候間、永々可被致所持者也」
  
 ▲具志川家の末吉村の墓 ▲運天の大北墓(按司墓) ▲六世縄祖(鶴松金)の位牌(右)

2015101日(木)メモ
 今帰仁村運天にある大北墓、別名按司墓。大北墓はウニシ墓と呼ばれウフヌシ(大主)墓と解した方がよさそうである。大北墓の全体が確認できるように草刈をしてみた。絵図に「竿本つ湊ヨリ亥巳弐間」「壱竿丑未六間」「二竿寅申上中六間三合」「三竿巳亥十間五合」「四竿申寅下申九間」「五竿酉卯上申三間」とあり、石垣より外側の距離は34間8合(約67m)。石垣の内側、あるいは外側の実測してみる必要がありそうだ。大北墓と嘉味田家の墓に葬られている人物は1500年代まで遡るが、その墓や葬法は士族であり、平民の墓とは区別してみる必要がある。

 平成271024日「琉球弧の葬墓制」(県立博物館・美術館)の企画で大北墓(按司墓)の巡検がある。それで大北墓の草刈をして、1671年の絵図の姿げ見えるように。見事な墓です。墓室は明治45年の調査記録があるので紹介。30名余と見られるが人物の特定には詳細な調査が必要。

 それはともかく、『具志川家家譜』には西原間切末吉村と今帰仁間切運天村の墓は乾隆26年(1761)に今帰仁王子(十世宣謨)が提出し三司官に認められたものである。つまり、今帰仁グスクの麓(ウツリタマイ)にあった墓(玉御墓)の天井が崩落したため、1761年に運天に移葬したものである(『沖縄県国頭郡志』)。明治45427日(旧311日)に墓を修理した際、島袋源一郎は内部の記録(平面図)を遺している(前書掲載)。また、葬られている人物名が記してある。北山監守(今帰仁王子)一世の尚韶威(具志川家)の弟に当る尚龍徳(嘉味田家)の墓調査をしたことがある。大北墓の内部の様子は嘉味田家の墓室の石棺などの配置が参考になる。
嘉味田家の墓調査へ(北山監守尚真王三子、嘉味田家の越来王子は四子)(両家の墓内部の葬り型が類似)

 ■一、イロノヘ按司、今帰仁按司御一人御名相不知
 ■二、宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金、御一人アヲリヤイアンシタル金
 ■三、御一人真南風按司、御一人アヲリヤインアシカナシ、オリヒカナコイ
 〇四、宗仁公四世今帰仁按司ママカル金、御一人御名相不知申候 
 ■五、記名ナシ(宗仁公五世及び婦人などにあらざるか)
 ■六、宗仁公次男南風按司子孫多人数永々相成面々相不知雍正十一年癸丑三月十六日 移
 ■七、宗仁公六世曾孫今帰仁按司童名松鶴金、御同人御母思玉金、与那嶺按司御同人ヲナジャラ、
     アヲリヤイ按司
 ■八、宗仁公七世今帰仁按司、御同人ヲナジャラ
 〇九、崎山按司、伊野波按司、親泊按司、崎山按司、本部按司、伊野波按司後付相不知
 ■十、呉我アムカナシ、浦添大屋子、知念大屋子
 〇十一、崎山按司嫡子、崎山里之親雲上、同人姉マウシ金
 〇十二、今帰仁里主親雲上

   ■は石棺陶棺   ○は甕なり
 

  ▲『具志川家家』墓の申請絵図(1761年)より   ▲明治45年墓内部調査メモ(島袋源一郎)

 

墳墓記(津屋口墓) 監守三世(和賢)の墓

  (工事、追加中)

大北墓に関する関係資料

 ・『具志川家家譜』
 ・『今帰仁村史』
 ・『なきじん研究3号―北山の歴史―』
 ・『沖縄県国頭郡志』
 ・「北山監守と今帰仁阿応理屋恵」(今帰仁グスクを学ぶ会誌)
 ・「オーレーウドゥン位牌」(今帰仁按司六世縄祖:1658年)
 ・その他


2020年9月1日(火)(台風9号接近中,10号発生中)

 昨日の夕方から台風。強風が吹いている。

夏場に調査が多いので、時々台風や雨など天候に恵まれないことあり「そのような時に歴史変わる」と、呟くことがあった。台風のこともあるが、「新型コロナウゥルス」が、国だけでなく地域の歴史を区切るキーワードになりそう。

 その痕跡を遺しているのは古宇利島のプーチウガンである。プーチは「流行病」のこと。プーチウガンは旧4月と旧10月の二回行なわれる。古宇利は島なので流行病は、島への入口(津)からはいてくるとの認識があり、東西の二組に分かれ東側7ヶ所、西組6ヶ所で行なわれる。流行病で島の人口が激減し上納(税)が納めることができなかったことがあったのかもしれない。病を治す、予防するワクチンがなく、神頼みするしかなかった時代である。祭祀も歴史を見ていくキーワードの一つにしているのは、そのためである。平成21年(2009)のプーチウガンの調査を当時の職員と行い報告したことがある。『なきじん研究17号―古宇利島の祭祀の調査・研究』(300頁)古宇利島のプーチウガン(参照)

▲古宇利島や集落への入口を拝む
  
▲東側のウタキへ遥拝         ▲グサブ(津)でのウガン        ▲プーチウガンの供物