沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
           今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)
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2020年8月(今月の業務日誌) 月(先月へ)

※4月から「業務日誌」として日々の動きを記しています。

今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  徳之島踏査
今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
山原の御嶽(ウタキ)と村と集落
・今帰仁の墓の調査
謝名の墓調査 
平良新助翁講演(昭和8年)
平良新助企画展(平成27年)           
今帰仁と戦争(企画展)
今帰仁と戦争
運天港と戦争
今帰仁の戦争体験記録1
今帰仁の戦争体験記録2
大宜味村の神アサギ            
・今帰仁の印部石                 
・元文検地と今帰仁
・山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)      
山原の図像
・山原のノロドゥンチ                   
・本部町具志堅の調査記録(2003、2006年) ・平成24年(2012年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・平成22年(2010年)のムラ・シマ講座
古宇利島のプーチウガン(流行病)     ・平成20年(2008年)のムラ・シマ講座
古宇利島のムシバレー
クボウヌウタキ
嘉味田家の墓調査(2000年11月調査)(一部) ・嘉味味田家の墓調査報告
「山原の津(港)」参照
北山の歴史」の企画展
山原の図像
山原の図像調査(過去記録)


2020年8月4日(火)

 沖縄県有の歴史に向かったきっかけとなったのは、諸喜田福保の地頭代の辞令書と「口上覚」との出会いであった。総和54年頃。大学で講義を受け持っていた(10~14講座、12年間、平成元年まで)。そのことがあって、地域から得たものは地域に還す、その方針は今も変わっていないようだ。台風の影響で風があったのでバナナの様子を見にゆく。

 

【今帰仁間切最後の地頭代】(2008.01.31)(原稿は当時のまま)

 明治28年に発給された今帰仁間切の最後の地頭代(諸喜田福保)の辞令書と「勤職書」に目を通す。辞令書の文面は「今帰仁間切耕作當諸喜田福保 任今帰仁間切地頭代 明治廿八年九月三十日 印」とある。印は「沖縄県庁」である。これが今帰仁間切地頭代の最後の辞令書というのは、明治31年に間切の地頭代は間切長となり、同41年には村長となるからである。

 「勤職書」は、この文書の表題部分が欠落しているため、琉球大学の島袋源七文庫の中に、「勢理客村湧川親雲上勤職書」とあり、それに因んで「今帰仁間切諸喜田福保勤職書」とした記憶がある(昭和57年)。辞令書と勤職書を公に紹介したことから、後に寄贈いただくことになる。

 沖縄の歴史研究に手を染め始めた頃である。というよりは、それがきっかけで沖縄の歴史に本格的に足を踏み込んだように思う。言語調査から入り数年、民俗調査に数年、宮城真治資料と関わって民俗から離れる。昭和55年頃諸喜田福保の辞令書と勤職書をきっかけに歴史研究へと変わっていった。10年近く歴史と悪戦苦闘したと記憶している。その頃、「今帰仁村の村落の変遷」や「北山の歴史」や「運天の歴史」などをまとめる。また角川の沖縄の地名辞典で羽地や久志地域、今帰仁村の歴史地名を分担した。そして名護市史で「わがまちわがむら」で羽地地域と久志地域の歴史原稿をまとめている。

 平成元年4月に今帰仁村に仕事場を移し、資料館(現在の歴史文化センター)づくりへと業務の中心が移り準備室時代が7年あった。資料館(博物館)づくりに入ると言語、民俗、歴史、地名などと分野を分けて業務をすることができない状況であった。自分の専門としたい分野だけでは博物館活動は成り立たないのである。やってきたものには分野を問わず関わっている。苦手としたのは芸能や音楽、それと自然である。それらは今でもお手上げである。

 歴史の分野に足を踏み入れるきっかけとなった「辞令書」と「勤職書」を手にしていると、30年余の沖縄研究の足跡を整理する時期にきたかと思う。人前に出ることは苦手だったことが思い出される、今でもそうであるが。
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 ▲今帰仁間切最後の地頭代任命の辞令書     ▲諸喜田福保勤職書の一部


2020年8月3日(

 旧暦はまだ6月である。旧暦8月10日はグスクウイミが行なわれる。平成3年頃から数回調査を行なってきた。調査をした頃、まだ神人や参加者が多く見られたが、現在はどうだろうか。

201493日(水)記

 旧暦8月10日今帰仁グスク内でグスクウイミ(大拝み)がある。午後二時ころ、今帰仁ノロ家(ノロドゥンチ)の仲尾次氏が出席。ノロさんは高齢でグスクの中までいけず。代理で仲尾次清治氏が勾玉と簪を携えて出席。仲尾次さん(ノロさん代理)、区長、書記で行う。場所は今帰仁グスク内の神アサギ跡(香炉あり)で。

 グスク内神ハサギ跡の香炉の前に黒の木箱に勾玉と簪(別々の箱)を香炉の前に置いてウガンをする。20年前までは、今帰仁ノロほか、区長、書記、数人の神人、志慶真村系統の人も参加していた。供え物はお酒・線香・御菓子でした。下左側が画像は20年前の撮影。前のノロさんと後を継いだノロさん、後方に志慶真の乙樽家の方も参加している姿がある。

 今回は神人の参加はなし。仲尾次さんが代理で勾玉と簪を入れた木箱を風呂敷に包んで持ち運び。この勾玉と簪がグスクでお披露目するのはその日のみ。村の繁栄、子孫繁栄、五穀豊穣の祈願。明日はヨウカ日(シマウイミ)で夕方には獅子が獅子小屋から出て集落内をうねり、ヨーハビで災い払いをする。


  

   ▲平成3年頃            ▲平成26年のグスクウイミ(海神祭)     ▲簪・勾玉が供えられる


2020年8月2日(

 勢理客ノロ家の男方文書と勢理客ノロの祭祀(湧川でのウプユミとワラビミチ)を振り返ってみる。

平成22年4月17日(土)過去メモ  湧川のワラビミチ・ウプユミ
                   
今帰仁村勢理客参照

【諸々事日記】(今帰仁間切勢理客村大城仁屋)


   (今帰仁間切勢理客村の勢理客ノロと男方)

(島袋源七文庫:琉球大学図書館)
  今帰仁間切勢理客村兼次親雲上の「口上覚」に以下の一文がある。道光16年(183612月に恩納間切の安富祖村の外干瀬で唐船が破船したとき、兼次親雲上は昼夜して勤めを果たしたいうもので、それが勤星として加算されたわけである。そのことは『中山世譜』に記されている以下の出来事の時とみられる。

【中山世譜】
  「中国広東省潮州府澄海県の商船一隻が安富祖村の湾内に入ろうとし岩礁に衝突して
   破船したが、乗組員五十名は全員無事に保護され、泊村(那覇)に護送されている」

【諸々事日記】(今帰仁間切勢理客村大城仁屋)
  道光拾六年丙申十二月恩納間切安富祖村外干瀬江唐船破船之時昼夜シテ而差越
  大番詰並諸御用向相済置申候事

 
 ▲恩納村安富祖の河口           ▲右手が安富祖の外干瀬

 「大城仁屋元祖行成之次第」(勢理客ノロ家の男方の文書)(島袋源七文庫の口上覚)

 奥間親雲上羽地間切我部村生同間切親川村地頭代立川親雲上と申者間切中問答差起候ニ付、表御方より彼ノ家内御取揚、立川親雲上流刑被仰付候ニ付、奥間親雲上者其時南風掟役ニ而候処□、間切ニ而ハ役職之勤方難仕、今帰仁間切勢理客村江屋敷相奉新村相立於当間切(今帰仁)首里大屋子江役職順々戴頂仕□之役目相勤、地頭代並順仕候段伝承候
    (奥間親雲上は勢理客ノロ家へ入り婿か)
メモ
【道光10年】(1830
 ・玉城村之儀、先年村側居候処身買三人請出村被仰付諸事仕立方並田畠御帳面
  表相糾坪入叶米取立地割松


・湧川の奥間神アサギ(奥間家の跡)
・我部村は1638年の現湧川地内(羽地間切)から屋我地島へ移動。湧川地を今帰仁間切りへ(方切)
・村移動後、我部ノロの管轄は変わらず(我部村・振慶名村・呉我村・松田村・桃原村


2020年8月1日(土)

 
バナナが花?を咲かせています。苗を植えたとき、「大きな房」ですと。別の種類のバナナもありますが、実ってみないとタイワンバナナかシマバナナ、あるいは別名か。植物名や蝶などの名称は全く記憶に残らない。パパイヤも種類があるようですが、収穫するのみ。以前パパイヤは通りがかりの方が、欲しいということで訪ねてきた。「ご自由にどうぞ」。45㎏あったので4500円ですと。バナナは実ったことあるが、台風で倒され未熟のまま、食べるに至らず。今年は熟するまで育つか。期待しよう。

 これまで、調査記録として報告してきた。それにはいくつか理由がある。同じものや出来事をみても、その表現は人によっても異なる。私自身でも異なることが度々である。絶対とか真理とか、普遍性だとか、客観的とかに言葉を目にするが、それはあり得ないのではないか。日によって、地域によって、時代によって、見る目線によって異なってくる。乙羽岳に登り、羽地内海の勘手納港方面をみるともやってみえず。



【今帰仁村親泊(現今泊)のウシデーク節】

 
今帰仁村今泊のウシデークの問合わせあり。今泊でのウシデークは大正の頃こなったことがあります。今泊の集落(現国道505号)から今帰仁グスクまでの「参詣道」(大正13年)の落成でウシデークを披露したと聞く。平成の三、四年頃、シマウイミのとき親泊の神アサギで三名の神人が「昔はやっていたけどね」と一、二曲舞っていたことがある。「ウシデーク節」の歌詞は『なきじん研究(第19号)』に収録。同じ歌詞が「御案内」(平敷兼仙先生:昭和11年)に収録されている。


          
 (「御案内」(昭和11年)より

2014年10月15日(水)メモ
 山原の港(津)について調べることがあり、名護市(羽地)の勘手納港まで。勘手納港は港といっても、今でいう船が接岸したり、桟橋があるような港ではない。台風の余波で山原船くらいの船が仲尾(勘手納港)に座礁?している。沖の大き目の船から、座礁しかかっている船に近づこうとしているのは、むかし風に言えば舟底の浅いテンマー舟である。明治までの勘定納港は、そのような風景だったに違いない。テンマー舟は風にあおられ、手漕ぎのため座礁しかかった船に、なかなか近づけない。陸側には数名の人たちが見守っていたので退散する。

 勘手納港は北山滅亡の時、国頭地方・羽地地方・名護地方のメンバーがハニジに滅ぼされたとき、離散したメンバーが中山の巴志の軍隊い組してハンアンヂを滅ぼしたという。離散したメンバーが集結した場所だという。近世のシノボセ米を集積して薩摩へ運び出した津(港)である。

 
   ▲羽地内海には20隻余りが避難(2014.10)         ▲かつての勘手納港を彷彿させる風景(2014.10)


▲2020年7月撮影                     ▲2020年8月1日撮影