沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
           今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)
0980-56-5767)

                    
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 問合せ(メール)(Nakahara)
 
        
           
2020年11(今月の業務日誌) 10月(先月へ)

※2019年4月から「業務日誌」として日々の動きを記しています。

今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  徳之島踏査
今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
山原の御嶽(ウタキ)と村と集落
・今帰仁の墓の調査
謝名の墓調査 
平良新助翁講演(昭和8年)
平良新助企画展(平成27年)           
今帰仁と戦争(企画展)
今帰仁と戦争
運天港と戦争
今帰仁の戦争体験記録1
今帰仁の戦争体験記録2
大宜味村の神アサギ             ・徳之島伊仙町
・今帰仁の印部石                ・奄美大島宇検町名柄(辞令書) 
・元文検地と今帰仁
・山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)      
山原の図像
・山原のノロドゥンチ                   
・本部町具志堅の調査記録(2003、2006年) ・平成24年(2012年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・平成22年(2010年)のムラ・シマ講座
古宇利島のプーチウガン(流行病)     ・平成20年(2008年)のムラ・シマ講座
古宇利島のムシバレー
クボウヌウタキ
嘉味田家の墓調査(2000年11月調査)(一部) ・嘉味味田家の墓調査報告
「山原の津(港)」参照
北山の歴史」の企画展
山原の図像
山原の図像調査(過去記録)
今帰仁村新里家の位牌や図象や系図
祭祀の「神遊び」は公休日!
北山監守一族の墓(大北墓・津屋口墓)
操り獅子の導入(参照)

北山の時代と沖永良部島(脱稿)(詳細参照)
神職並に信仰行事記録」参照
屋我島の我部と故地の湧川



2020年11月28日(士)

11月28日大宜味村の根謝城・田嘉里,そこから国頭村の浜・桃原、辺士名(漁港)、宇良・与那・謝敷・佐手・辺野喜・佐手・宇嘉まで。

 大宜味村謝名城はウイグスク(根謝名グスク)へ。最近試掘した青磁碗を拝見。試掘場の確認。グスク内の大城嶽(イベ)の後方か。石の上を歩いていると

ヒザが痛む。体力がないなと諦めかけた。試掘跡を見つけると回復。屋嘉比から見たグスクとガナハナウタキの遠景をみる。根謝名グスク域はグスク内にある二つのイビ。大城嶽(イビ)は屋嘉比ノロ管轄、管轄村は屋嘉比村・親田村・見里村・浜村、中城嶽(イビ)は城のろの管轄、管轄村は城村・根謝名村・一名代村の管轄である。そこから大宜味・国頭地用に遺るマク。それが近世の村へとつながりそう。

 ・浜は国頭間切の番所があった村。

 ・桃原はかつての水田地帯、稲作・砂糖キビ・野菜などの栽培

   (神アサギとカニマンマク、フクギの大木、奥間から分離した村)

 ・辺士名は漁港、冬場の港(風ビュービュウー)

 ・宇良はスウトクマカク、アサギ内の二基の香炉。フクギ

 ・与那はチニブのある集落、与那の坂道、海神祭など

 ・辺野喜は材木の切りだし、積み出し

 ・宇嘉の辺野喜の村墓、辺野喜ダム周辺の木々

 ・宇嘉の神アサギは旧家の屋敷内

   (そこまで)

【大宜味村根謝名(ウイ)グスク】



【大宜味村田嘉里】





屋嘉比のろくもい学の文書

・屋嘉比のろくもい御願拝之時勤日記(同治□年)

・覚□控(屋嘉比のろ殿内)

・ノロクモイ跡職ノ件ニ付申請書(昭和6年)

・巳年大宜味間切屋嘉比村切支丹宗門改帳

・喜如嘉尋常小学校第一終業証書~高等小学校卒業証書(宮城記補)(明治23年~30年)

・明治期期土地整理の辞令書(大城記補)

・国頭街道修改修工事監督助手の辞令(大正7年、大城記補)

・沖縄県鉄道管理所雇ヲ命ス(大正10年大城記補)

【国頭村浜】



【国頭村桃原】


2020年11月27日(kin)

国頭地方(今回は大宜味村と国頭村)を思い描く場合最初にやることがある。踏査する前にやることがある。それは両村の字(ムラ・シマ)の成り立ち(歴史)や、まだ見たことのない集落の景観や掲げられた屋号や祭祀と関わる拝所やカーなどと出会うとことができないか。新型コロナで遠のいていた国頭地方を出かけてみるか。

 浜・半地・比地・鏡地・奥間・桃原・辺士名(上原)・宇良・伊地・与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉・宜名真・辺戸・奥・楚洲・安田・安波の20ケ字を念頭に入れて。数ケ字しか回れないが頭の中は全字。

 目的は決めていないが、かつてと変わったもの、変わらないもの、売店や食堂で店の方と一言二言交わせたらラッキー。


大宜味村




▲宇良


▲伊地

辺士名(上原)







 
安田


2020年11月26日(木)
 

【国頭村辺戸の安須森(アスムイ)】2004725日)メモ

 安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。

 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れる王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」

の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。

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    ▲辺戸岬から見た安須森                   ▲辺戸の集落から見た安須森


【辺戸のシチャラ嶽】

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

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  ▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)遠望              ▲御嶽のイビヌメーだとみられる

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   ▲御嶽の頂上部にあるイベ             ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある 


国頭村辺戸】(2005624日)メモ

 沖縄本島の最北端の国頭村の辺戸と奥の集落までゆく。「山原を見るキーワード」を探し求めて。もう一つは与論島に渡る予定が日程があわずゆくことができなかったため、辺戸の安須杜(アスムイ)から与論島と沖永良部島を見ることに。昨日は青空があり、何度か方降り(カタブイ)。こっちは大雨、あっちは青空状態。与論島と山原をテーマにしていたが与論島に行けず。それで与論島が見える安須杜から。

 空の様子をうかがいながら、まずは辺戸岬から安須杜を眺め、目的より頂上まで登れるかどうか、体力が心配。息ハーハー、膝がガクガクしながらではあるが、どうにか登ることができた。後、何回登るだろうか。

 安須杜はクニレベルの御嶽と位置づけている。辺戸には安須杜とは別に辺戸集落の発生と関わるシチャラ御嶽がある。安須杜は呼び方がいくもあり、ウガミ・アシムイ・ウネーガラシ・クガニムイ・アフリ嶽などである。ここで特徴的なことは、辺戸村(ムラ)の祭祀はないということ。だからクニレベルの御嶽だということではない。

 『琉球神道記』(1603年)や『琉球国由来記』(1713年)に、

   新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ即、
    アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆ヒ尽ス。
    八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。時ニ、
    託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘
    三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。

とある。国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。

     
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      ▲宇嘉からみた安須杜(アスムイ)              ▲辺戸岬からみた安須杜(アスムイ)

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    ▲安須杜からみた辺戸の集落と与論島               ▲辺戸岬からみた与論島

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   ▲国頭村奥の集落、海上に与論島が                  ▲国頭村奥の港(干潮時)


2020年11月24日(火)
 

【島袋源一郎】について(工事中)

 どんな活動をしたのか、系統Jだててまとめたことはありませんが、数カ所の理事や役員をしていたことで多忙だったと聞いています。源一郎関係を急遽取り出してみました。

 具体的なことは、昭和10年~15年頃の「沖縄人名録」で確認。手元にないので確認ができませんが。 


その他に、学校現場でも勤務しています。

 博物館のみの業務をしていたわけではありません。その間に、
  ・『沖縄県国頭郡志』(大正7年)
  ・『沖縄善行美談』(昭和6
  ・『沖縄案内』(初版昭和7年)
  ・『伝説補遺沖縄歴史』(初版 昭和7年)
  ・『新版 沖縄案内』(昭和17年 改訂五版)

 出版物については10冊ほどだしています。また「沖縄教育」では論文を数多く発表しています。
 (各学校の校長住宅、那覇では城嶽に住む) 

 博物館関係は東恩納寛惇へ調査記録(玉城朝薫の墓、護佐丸の墓のスケッチ)を送っています。東恩納文庫に入っています。東恩納寛惇の書物のグラビアにある百按司墓の木棺や石棺の写真は、首里城内の博物館での撮影です。それは首里城で数多くのノロ関係の品々で展示会を開いています。

 島袋源一郎がスケッチ(明治38年)「師範学校3年」の時とメモがあり、確かめたくて履歴を整理。

  ・明治18年(1885108日 国頭郡今帰仁村(間切)兼次村に生れる。
  ・明治36年(19034月 沖縄県師範学校入学(首里龍潭池の傍)
  ・明治40年(19073月 師範学校卒業 名護小学校訓導拝命
  ・謝花小学校訓導
  ・沖縄師範学校訓導
  ・安和小学校校長
  ・屋部小学校 校長
 
 ・謝花小学校 校長
  ・大正9年(19208月 沖縄県社会教育主事(初代主事)
  ・大正12年(19234月 島尻群視学任命
  ・大正13年(19244月 沖縄県視学任命
  ・昭和2年(19273月 国頭郡名護小学校 校長任命
  ・昭和2年(1927)  沖縄県教育会主事拝命 
     (整理中)
  
昭和10年版(沖縄人名録)には、
  沖縄県教育会附設 郷土博物館(後に首里城内) 主事 島袋源一郎
  沖縄県郷土協会  幹事長、教育会主事
  沖縄県昭和会館 幹事長 教育会 主事
  沖縄県空手道振興協会(昭和会館内) 宣伝部長 教育会主事
  沖縄観光協会 理事 教育会主事
  沖縄廃酒期成会 副会長 沖縄県教育会主事
  沖縄M・L・T 教育会主事
  沖縄県連合青年団 幹事


2020年11月23日( 

 12年間務めていた大学から、平成元年4月今帰仁村教育委員会に職を移すことになった。その直前まで島袋源一郎全集(敬称略)の話があり、その準備に取り掛かっていた最中であった。しかし、資料館(博物館)づくりのため博物館めぐりと地域調査に没頭したこともあり、源一郎の全集の編集は出来なくなる。

 その時収集した源一郎資料のスクラップ出てきた。すっかり忘れていた源一郎の資料コピーや発表目録が出てきた。その中に、戦前の首里城北殿の「博物館開館紀念」(沖縄郷土は博物館観覧号)(昭和11年8月)が出されている。島袋源一郎は昭和17年3月17 日に永眠される。昭和17年5月『沖縄教育』(第309号)故島袋源一郎氏追悼号が発刊されている。

 島袋源一郎は幼い頃から反発をし、反面教師的に距離を置いて育ってきた(気づかず)。気づいたら同様な道を歩んでいる。30年近く距離を置いてきた。源一郎の働きは、今帰仁の研究者や教員に大きな影響を与えている。平良新助氏、島袋松次郎氏、仲宗根政善氏、霜田正次氏など。島袋が多方面に興味を持ち、首里城の北殿の館長にまで勤めたことは、龍潭池の傍にあった「沖縄師範学校」時代を経たことである。師範学校の卒業年に百按司墓のスケッチがある。その図は東恩寛淳氏に渡って(東恩納文庫)いる。郷土博物館前での百按司墓の木棺などの撮影。 


  郷土博物館建設経過報告(昭和11年7月4日) 島袋源一郎

抑も本県は帝国の南海に碁布し、古来土地狭小物欠乏の為め夙に日本々土は勿論、支那朝鮮及び南蠻諸国と通商貿易を策し、其の利潤を以て海島貧土の経済を補填したりき而して四五世紀前ハ此等東洋諸国の文化を租借して、独特の琉球文化を発揮し、美術工芸其の他制度文物の見るべきもの鮮少ならざりき。

 然るに置県以来五十年有余郷土文化の価値を認識せざりし為此等貴重なる資料も或いは県外に流出し或いは散逸隠滅しつゝあるの現状にありき、本会即ち茲に鑑みる所あり大正十四年参考館建設の計画を樹立し年々小学校児童ノート印税数百円を貯蓄して之が経費に充当せり。

 昭和二年二月己に本会に於いては建設委員を嘱託し、

第一部を書画書籍写真版木彫刻とし、

第二部を漆工陶器工染織工木竹工金石工牙工紙革工建築とし、

第三部を政治経済宗教産業交通風俗の部とし、

第四部を動物植物鉱物、

第五部を基他教育参考品の部

として夫々調査せしむる所あり。

 爾来歳月と共に資金の蓄積を見昭和七年度には五千数百円に達せしを以て仝年より参考品の蒐集を開始せり、今や計画以来十有二年之に要せし資金は僅々九千円に過ぎずと雖も書画を始め藩政時代の製作に係る漆鬆器琉球紅型衣類調度家具陶器石器博物資料等一千数百点を蒐集し昭和会館内に仮陳列して一般の観覧をなさしめたり。

 今回沖縄郷土協会の甚大なる援助に依り首里城北殿を改修して提供せられしを以て本会は議事機関の決議を経愈々本日開館することを得たり是れ歴代教育会当局の尽力に依るものなりと雖も亦一面沖縄郷土協会の奮起と江潮各位の深甚なる御援助の結果にして衷心感激に勝へざるなり。

 然るに宿直室の建築等未解決のものあるのみならず内容未だ貧弱にして各位の御期待に副ふ能はざるは頗る遺憾とする所にして本会は将来益々努力して之が充実を期せnとするものなり翼くは各位一層の御援助を垂れ以て本館の健全なる発達を遂げしめられむことを

 以上経過の一端を述べ以て御報告に代ふ。

  昭和十一年七月四日

      沖縄県教育会主事   島袋源一郎 


▲「沖縄郷土博物館紀念号」(昭和11年8月号) ▲故島袋源一郎氏追悼号(昭和17年) 

2020年11月22日(

 この頃、文字変換ができないこと多し)

 ここしばらく、国頭地方のマク(マキヨ)から近世の村への変遷について考える。ノロ管轄村の背景になったのは?


奥間は国頭間切の番所(後の役場:200年余)があった村(ムラ)である。国頭間切(後の村)の行政の 中心となっていた時期がある。番所跡は奥間小学校敷地である。その痕跡とする一つが地頭代(番所)火神の祠がある。奥間集落の後方に奥間グスク、別名アマグスクある。そこにはニシヌウドゥン跡とフェーヌウドゥン跡の祠と石燈籠?が置かれている。祠はウタキ(グスク)のイベである。そういう場所(杜)をウタキやグスクと呼んでいる例である。頂上部をアマンチヂといい、そこにはイベがある。因みに、ニシヌウドゥンのイベはノロ・勢頭神、フェーヌウドゥンのイベは若ノロ・根神・勢頭神が担当して拝む(神人とイベとの関係、そして近世の行政村が成立する以前のムラの姿が見え隠れする)。

  奥間には土帝君や金剛山(金剛嶺:経塚)や南無阿弥陀仏、カンジャヤーや十二支や豊年祭や綱引きなどがあり、外の文化をいくつも導入している。それは奥間に番所が置かれていたことと関係していると思われる。金剛山 は首里に住む国頭親方が国頭間切番所のある奥間村にやってきて建立(康煕45:1706年)、筆者の東峰は坊さんのようである。経塚(きょうづか)とは、経典が土中に埋納された塚。仏教的な作善行為の一種で、経塚を造営する供養のことを埋経という。阿弥陀仏に帰依する意。浄土宗で阿弥陀仏の救済を願って唱える語である。

 「土帝君」が琉球(沖縄)への移入は康煕37年(1698)である。農業の神様を祭っており、中国からの導入である。国頭への導入はだれがやったのであろうか。国頭間切の役人が唐旅をし、持ち帰り奥間村に持ってきたものであろう。年一回奥間の村で祭祀(旧暦2月2日)を行っている。

  奥間を構成している門中に、座安姓・金城姓・与那城姓・親川姓がある。奥間ノロは座安姓の一門から出している。他に、小橋川姓(後に小川)、竹園(元与那城姓)、東恩納、宮里、宮城、大城、山川、奥間、橋口(元金城)、又吉、玉城、嘉数、伊波などがあるが寄留民だという(『沖縄風土記全集:国頭村編』)。寄留してきた一族が多いことが村の歴史や文化に大きな影響を及ぼしている。祭祀の中心となっているのは古くからの一門である。座安一族から出る公儀ノロは首里王府からの任命なので中央部の祭祀の影響を受ける。また、座安家は尚円王(金丸)と関わる伝承を持ち、それを示すカンジャヤーがあり、そのことが奥間の村の伝統的は文化となっている。また鍛冶屋が扱う金属、あるいは金丸に因んで奥間はカニマンのマクの名の名称を持ち字(アザ)の称号にもなっている。

 首里王府によってノロ制度(1500年代)がしかれるが、ノロが掌る村(ムラ)があてがわれる。奥間ノロは奥間村と比地村である。ノロ制度そのものは消滅するが、今でもノロが行う祭祀は引き継がれている。奥間ノロは比地で行われる海神祭に出ている。

   地域(特に沖縄のアザ:区)の歴史と結びつく出来事や遺されている碑や伝承、今に行われている祭祀や綱引きや村踊りなどを見て行くと、そのムラ・シマの伝統や文化に気づかされる。   











2020年11月21日(土)

 
連休は「寡黙庵」の庭と先日植えた花畑の草取りでもするか。バナナの収穫は早いか。パパイアは柿のような甘い味。オオゴマダラは、まだ食草(ホウライカガミ)の周りを舞っているかな。

 昨日、羽地間切域のムラ(村)について触れた。屋我地島も羽地間切である。屋我地島の我部(松田)も1736年まで現在の今帰仁村湧川地内にあった村が羽地側へ(振慶名・呉我・桃原?)、我部(松田)が移転させられ、その土地は今帰仁間切に組み込まれ、湧川村を創設した。

 屋我地島は今帰仁間切の番所が置かれた運天(上運天・湧川・現天底)の対岸で、結び付きのある島である。(屋我島の我部と故地の湧川)参照


▲熟したパパイヤは小鳥に与え、家で完熟させてレザートに!


▲三か月前に植えた草花、雑草に隠れているので除草(雨が少なくまだ根付かず)

2020年11月20日(金)

 「宮城真治研究ノート」(『羽地村誌資料』)(名護市教育委員会)に興味深い記事をみる。三山以前(羽地世の主)の頃の村数は四、古琉球は七ムラ、十七カ村。それは近世に至る村(ムラ)の展開を示しているのではないか。(古琉球の時代のムラを考える)

 ムラの発祥を見ていると、七煙や四門中などが出てくる。それが宮城が羽地間切の村数、七村なのか。古琉球から近世の村となる変遷を見ているような気がする。羽路間切、今帰仁間切、本部間切の場合を揚げてみる。のろが複数村を管轄するのは、古琉球の時代の「むら」の形なのかもしれない!

  少し、羽地地域のおさらい。羽地域の歴史と文化

  三山以前の形式として、
    羽地世の主

     四ヶ村 ①真喜屋 ②田井等 ③屋我
  (マク・マキヨ)(まきり。間切は登場)

  (古琉球の辞令に登場ある後の村)
     七ヶ村 ①源河 ②真喜屋 ③田井等 ④川上 ⑤伊差川 ⑥屋我 ⑦我部

  (近世十七村)(1609年以後の村)(行政村)
    ①源河村 ②(稲嶺村) ③真喜屋村 ④仲尾次村
    ⑤仲尾村 ⑥(親川村) ⑦田井等村 ⑧川上村
    ⑨伊差川村 ⑩我部祖河村 ⑪古我知村 ⑫振慶名村
    ⑬呉我村 ⑭我部村 ⑮饒平名村 ⑯済井出村 ⑰屋我村

   ( )村は近世に独立した村である。
    ⑫⑬⑭は羽地間切から方切と村移動、その地は今帰仁間切へ。

  近世の羽地間切の村とのろ管轄
   源河のろ   源河村 瀬洲村
   真喜屋のろ 真喜屋村(稲嶺) 仲尾次村
   仲尾のろ   仲尾村 田井等村(親川) 川上村
   伊差川のろ 伊差川村 我部祖河村 古我知村
   屋我のろ   屋我村 饒平名村 屋我村
   我部のろ   我部村 呉我村 振慶名村
    
(村が移動してもノロ管轄の村は基本的に変わらない) 

近世の今帰仁間切の村とのろ管轄
   古宇利のろ       古宇利村
   今帰仁のろ       今帰仁村 親泊村 志慶真村
   中城(仲尾次)のろ   兼次村 諸喜田村 与那嶺村 崎山村 中城村
   玉城のろ         玉城村 謝名村 平敷村 仲宗根村
   岸本のろ         岸本村 寒水村
   勢理客(しませんこ)のろ 勢理客村 上運天村 運天村
  (湧川村は1736年創設なので由来記になし)

  (天底のろは1719年に本部間切から今帰仁間切へ) 

近世の本部間切の村とのろ管轄
   伊野波のろ 伊野波村
   具志川のろ 具志川村 渡久地村 
   天底のろ   伊豆味村 天底村 (嘉津宇村)
   嘉津宇のろ 嘉津宇村(天底村)
   具志堅のろ 具志堅村
   浦崎のろ   浦崎村
   謝花のろ   謝花村 備瀬村
   瀬底のろ   瀬底村 辺名知村
   本部のろ   崎本部村 健堅村
   石嘉波のろ 石嘉波村 
   具志川のろ 具志川村 渡久地村



2020年11月19日(木)

 あれこれ飛び込みがあり、耳にする、目にする情報が多すぎて動きがとれず。「村制100年」での講演や企画展など過去の資料に目を通しながら頭の切り替え。


2020年11月18日(水)

 兼次の字誌の編集会議。公民館に旧暦9月15日に行われたウガン。「ウイチブリン ソウレ。ウガンのウサンデーす!!」と張り紙。九月ウマチーが行われたようで、崎山のノロドゥンチに中城ノロ管轄の崎山・仲尾次・与那嶺・諸志・兼次の各字の書記・区長などがウガンをし、各字でウガンをする。兼次は崎山でのウガンが済むと、兼次のウイドゥンチ(上原家)、カニマンドウゥンチ、ウタキ内でのウガンをし神アサギまで。字の重要な神行事の一つである。お米の包みは、参加できなかった方々へのウサンデー。

 兼次校の様子、戦中の兼次校に陸軍の駐屯。軍隊との住民との関わりで話が盛り上がる(陣地構築、タコつぼなど)。戦中・辺野古・引き上げ後のこと)。農業も稲作、サトウキビづくり、サーターヤー。古島の苗代、兼次の方々が諸志のナハガーラ沿いに田を持つもっている事。そこにムトゥブダー(本部の方の田)。私が話を引き出す準備ができていず、改めて。

 

2020年11月17日

 昭和19年ころ、十・十空襲以前の兼次の様子をみる。
    (整理中)

兼次の学校教育



 昭和19年8月に兼次校に軍隊(部隊)が駐屯し、陣地構築や村人達との関わりがみえる。

『陣中日誌』 独立混成第十五連隊第四中隊

今帰仁に関する部分と、部隊の動きが分る部分を抽出

昭和十九年八月
 一日     宿営地読谷山喜名国民学校
 六日     宿営地恩納国民学校
         井作輸令第二号
         井上隊命令 十九.八.六 .一七:〇〇
         於恩納国民学校

七日     宿営地名護国民学校 

八日 
火曜日  一、部隊ハ〇三:三〇起床校舎内ノ清掃ヲ行ヒ〇四:〇〇名護国民学校ヲ出発ス
      二、呉我ニ於テ約一時間ノ小休止其ノ間ニ於テ朝食ヲ終リ〇六:二〇呉我ヲ発シ〇九:〇〇
        仲宗根国民学校ニ到着ス
      三、部隊到着時左ノ訓示ヲ受ク 大隊長
         1、長途ノ行軍御苦労デアツタ
        2、衛生ニ留意シ陣地ノ構築ニ努力セラレタシ
初見   四、大隊長代理橋本大尉編成ヲ解クニ当リく所見ヲ述ヘラル
        皆ハ三日間ニ亘ル間行軍ハ天候ニ恵マレズ悪天候デアリ
        長途ノ行軍ヲ実施シタノデアルガ、概ネ軍紀厳正ニシテ
        規律正シク患者モ少ナク現在地ニ到着出来得タコトハ
        満足デアル 茲ニ編成ヲ解キ各中隊ノ設営者ノ指示ニ
        依リ宿営スルコト 御苦労デアツタ
      五、中隊ハ□末運動ヲ実施シタル後設営者ノ指示ニ依リ
        宿営ス
井作命 六 (一)大隊ハ本日八日以降主力ヲ以テ今帰仁国民学校ニ一部ヲ以
           テ兼次国民学校ニ駐屯セントス
        (二)第四中隊第二機関銃中隊ノ一ヶ小隊ハ兼次国民学
           校ニ夫々駐屯スベシ
        (三)兼次国民学校ニ於ケル防空ニ関スル設備ハ橋本大尉
        区処スベシ

     七、大隊荷揚搭載掛トシテ先向セル長越少尉以下一六名及ビ
      設営ノタメ先向セル谷内軍曹以下三名ハ中隊ニ復帰ス

宿営地 八、今帰仁国民学校
勤 務 九、日直 下士官 霜上伍長
        同 上等兵 宮林上等兵
人 員 一〇、将校以下一三〇名 

八月九日 水曜日 晴 於兼次
      一、中隊命令要旨左ノ如シ 八・九、〇六:三〇
        (一)井作命第一九号ニ基キ第四中隊(□一ヶ小隊)ハ本九日〇八:〇〇
        現在地出発シ兼次国民学校ニ向ヒ前進セントス

       (二)間片少尉 田開曹長ハ〇七:〇〇部隊ヲ先行シ兼次国民
        学校ニ至リ設営ニ任ズベシ

中命     (三)谷内軍曹ハ給養ニ関シ本部ト連絡ノ上荷馬車ニ依
        リ運搬スベシ

      (四)稲場軍曹ハ荷物ノ搭載ニ任シ兼次国民学校ニ運搬スヘシ
      二、〇七:五〇 今帰仁校舎ニ面シ整列ス
      三、出発ニ際シ大隊長注意事項左ノ如シ
       1、厳正ナル敬礼ヲ実行セヨ
       2、作業ハ移駐ノタメ少シハ遅クナツタガ大馬力ヲ掛ケテ速ニ
      完成スルコト

      四、大隊長注意ガ終リ〇八:〇〇出発 〇九:〇〇兼次国民学校ニ到着ス
       五、配宿区分別紙ノ通リトス
中宿命 
        (一)中隊(□一ヶ小隊)ハ兼次国民学校ニ駐屯ス
        (二)各小隊ハ設営者ノ指示ニ依リ宿営スヘシ
      (地図あり)

      (三)警急集合場所ハ校庭トス
       (四)空襲ニ際シテハ校庭附近ニ疎開スベシ小隊ハ対空射撃部隊ニ任ズヘシ
          細部ニ関シテハ間片少尉指示スヘシ
       (五)給養ニ関シテハ谷内軍曹準備スヘシ
     七、
       (一)駐屯間ノ起居ハ兵営ニ準備スルコト
       (二)学校ノ諸物品ハ無断ニ使用セサルコト
       (三)班内ノ整頓ニ関シテハ別ニ示スモノトス

井日命 八、加藤益夫一等兵当分ノ間大隊本部ニ在リテ勤務スヘシ
      九、大門中尉(伝令一)ハ引継任務終了一四:〇〇中隊ニ復帰セリ

宿営地  一〇、兼次国民学校
勤務    一一、左看護兵ニ服務ス
       1、司令 竹前伍長    歩哨掛 柳澤上等兵
         歩哨 浜野一等兵   歩哨  道坂一等兵
          〃  山崎金一等兵  〃   数家一等兵
           日直将校 間片少尉
       2、日直下下官 小林伍長
         同上等兵 余川上等兵
人員   一二、将校以下一二九名 

八月十日 一、〇八:〇〇ヨリ陣地偵察ノタメ中隊長以下将校全員指揮班長 
  木曜日    出発ス 一四:〇〇ヨリ分隊長以上全員出発ス
  晴       一四:〇〇大隊長陣地現地視察ノタメ来隊セラル
 於兼次  二、兵ハ谷内軍曹ノ指示ニ依リ校舎附近ニ於テ防空用待避壕ヲ構築ス
 宿営地  三、兼次国民学校
 勤務    四、日直将校  間片少尉
        同下士官  岡部伍長

            同上等兵  吉澤上等兵
          衛兵 司令 中原伍長  歩哨掛 砂地上等兵
             歩哨 辰尾一等兵 歩哨  鍛冶一等兵
              〃 重谷一等兵 〃   花木一等兵
人員     五、将校以下一二九名

八月十一日 一、〇七:〇〇ヨリ中隊長以下各小隊長兵半数ハ陣地ノ標識ノタメ出発ス
 
金曜日 晴   残ノ兵ハ内務実施
       二、一四:〇〇ヨリ分隊長以上更ニ陣地ノ標識ノタメ出発ス

          隊長陣地視察ノタメ来隊セラル

混一五日命
  三、(一)明十二日別紙計画ニヨリ部隊長内務巡視ヲ行ワル
             第四中隊t所一ヶ小隊ハ一三:三〇― 一三:五〇迄トス
宿営地    四、兼次国民学校
勤務       五、日直将校  長越少尉
            同下士官  奥原伍長
            同上等兵  山﨑信上等兵
         衛兵司令  竹内伍長
         歩哨掛  瀧澤上等兵

         歩哨   中田一等兵
         〃    根塚一等兵
         〃    廣原一等兵
         〃    芹澤一等兵
人員     六、将校以下一二九命

 八月十二日 土曜日 晴 於兼次
        一、部隊長内務巡視ヲ受ケタルタメ中隊ハ全員午前中内務実施
     二、自一二:〇〇至る一二:四〇間大隊長ノ内務検査ヲ受ク

         三、部隊長殿内務巡視ノタメ一三:五五兼次分隊に到着セラル 
        五分間ノ休憩其ノ間簡単ナル状況報告ヲ行フ

          一四:〇〇ヨリ約二十五分間ニ亘り巡視セラル
          一四:三〇―一四:四五間全員ニ対シ講評並ニ訓示ヲ行ワル
講評    四、中隊長以下各幹部ノ指示指導適確ニシテ其ノ成績ハ良好ナリ

訓 示   五、1.陣地ノ促進ニ就テ
       2.衛生ニ就テ
     六、一四:五〇兼次国民学校ヲ出発サレⅡ本部今帰仁ニ向ヒ出発サル
宿営地   七、兼次国民学校
勤務    八、日直将校   田関曹長
       同下士官  伊藤伍長

         同上等兵  井原上等兵
         衛生司令  野村伍長
         歩哨掛   松下上等兵
         歩哨     数井一等兵
         〃    田村一等兵
       〃     向川一等兵
       〃    作本一等兵
井作命  九、第四中隊ハ兼次南方地区ニ專滅拠点ヲ占領スヘシ
人員   一〇、将校以下一二九命


2020年11月16日

 何故かわからないが、今日は文字変換ができる。今のうちに変換。

国頭村宇嘉の神アサギ

 国頭村宇嘉について、2004年12月に調査したことがある。それ以前から調査をしている。その年の関心ごとは神アサギであった。神アサギが旧家の屋敷内にあること。それまで神アサギの場所が集落内、御嶽の内部にある。屋敷内に神アサギが置かれるのは伊是名や伊平屋などヒャー(旧家)に置かれていること、それと『琉球国由来記』(1713年)に宇嘉村としては登場せず、それも辺土名神アシアゲのところに登場。『絵図郷村帳』(1648年?)に「おか村」は宇嘉村のことか。『琉球国高究帳』には登場しない。それらの史料に村として登場するほど規模の集落でなかったのか。明治13年の宇嘉の世帯数は39戸(人口201人(男91人、女110人)である。

 
▲国頭村宇嘉大嶺原の神アサギ         ▲宇嘉の旧家の庭にある神アサギ

▲宇嘉の神アサギ前で(『沖縄の社会と宗教』)所収(昭和30年代)


2020年11月15日

2007年6月6日(水)(平成19年)メモより

 急遽、資料に目を通すことに。県公文書館から「食料増産決戦記」(昭和18年)のコピーが送られてきた。それに対応する資料が歴史文化センターにある。食料増産隊沖縄隊がどのような動きをしたか把握していないが、本館が所蔵している資料に目を通すことに。①~⑥は連動するものであろうが、余裕がないので①の内容のみ把握することに。食料増産隊が昭和18年9月に今帰仁村にやってきた時、対応した帳簿ではないか。それと昭和18年以前から「耕地整理組合」があり、それと「食料増産隊」が今帰仁村にやってきたとき、関わった村人達の集合写真が二枚ある(『なきじん研究』(11号)写真で見る今帰仁で紹介したことがある?。

 (但し、執筆した当時食料増産隊との関わりは全く念頭になかった。各地にそれと関係する記念写真が残っている。すぐ取り出せないが市町村史や字誌で散見している)

   増産隊作業ノ時受拂簿(昭和十八年九月)今帰仁村西部耕地整理組合
  第二次食料増産ニ関スル現金受拂簿(昭和十九年一月)今帰仁村西部耕地整理組合)
  会計出納簿(昭和十八年八月以降)今帰仁村西部耕地整理組合
  費用徴収簿(自昭和十六年至昭和十八年)今帰仁村西部耕地聖地組合
  現金受拂簿(昭和十九年十二月)今帰仁村西部耕地整理組合
  分賦金賦課標準原簿(昭和拾六年壱月以降)今帰仁村西部耕地整理組合
   
 の「増産隊作業ノ時受拂簿」(昭和18年9月13日~9月15日)から、どのような内容か記事を拾ってみた。
  ・大井川仲原店ヨリ買入石油壱升代
  ・諸志配給所酒壱升ダイ宮城宅ニ於
  ・縄五桁諸志島袋幸福氏へ壱桁三十銭宛
  ・ヲキノ柄二ツ代諸志支所へ
  ・豚肉五斤代字諸志与那嶺忠助氏へお客用
  ・自転車賃諸志内間利清氏へ
  ・ハカリ賃諸志大城彦次郎氏へ
  ・縄五桁代大城幸五郎氏へ
  ・農兵隊慰労用山羊四二斤代諸志玉城カマダ様へ
  ・諸志高良森次へ山羊一匹代増産隊慰労用
  ・農兵隊延人員五百人ノ賃金一人壱日壱円同上ヘ払
  ・増産隊北山城跡拝観料トシテ
  ・増産隊慰労トシテ今泊踊見物御礼金
  ・家賃諸志島袋吉七郎氏へ

2013年8月10日(土)(平成25年)メモより
 『会計出納簿』(昭和18年8月以降)(今帰仁村西部耕地整理組合)がある。これまで紹介した「会計出納簿」や「食糧増産決記」(昭和18年10月)や「増産隊作業ノ時受払簿」などと関係する。この「会計出納簿」は昭和18年7月31日に前会計年度を継承している。

 そこに掲載されている「摘要」は昭和18年7月31日から昭和19年12月7日(検査)までの記事である。昭和十九年の10・10空襲もあるが、翌日の10月11日に以下のようにあるが、そこで十・十空襲の影響がなかったのか一切触れていない。「土地改良事業」の様子がよくわかるので「会計出納簿」の「摘要」記事の一部を紹介する。

【昭和十九年十月十一日】
(摘要)
  ・字諸志人夫賃代表内間利吉へ
  ・増産隊炊事場写真代
  ・大坑木代仲里博氏へ
  ・粗?(竹)九二束代上間弥栄へ
  ・粗?二九〇束上間源栄氏へ
  ・工事人夫賃比嘉徳次郎氏へ
  ・諸志北港原へ通ずる土管埋立内間梅次郎へ
  ・土管一個代仲村渠仙冝氏へ
  ・現場用御茶代嘉手苅店へ
  ・仝上用御茶代金城店へ
  ・與那嶺代表人夫賃山内昌保へ
  ・坑木七四本粗?六束代大城源栄氏へ 





▲「泥粥を掬ふ難作業」であった(昭和十八年)


2020年11月14日(土)

【伊江島にない村と今帰仁掟・並里掟・謝花掟】

 そのことは『伊江村史』(上巻)に以下のように触れているが…

  「島の掟名に今帰仁掟、並里掟、謝花掟と云う古い三掟名が由来記に出ているが、島の地名にない掟名である。これは後世謝花掟は東江上に、今帰仁掟は東江前に配置されているが恐らく北山時代におかれた役人ではなかろうかと思われる。部落名がなく島として呼ばれていたので適当な掟名が見つからず、他間切の掟名を転用したものと思われる。今帰仁掟は今帰仁城(北山城)との連絡にあたり、謝花掟は島内のことを掌ったと伝へられる。

  もう一つ考えられることは、新領土である。伊江島は入貢に馴れていないとして、始め島に近い今帰仁掟と謝花掟に兼務させたことから、かかる掟名が後世に継がれたことかとも推測できる。

 
(下の画像は「寡黙庵」の庭先)

  ▲庭のシークワヮサー    ▲オオゴマダラ(ホウライカガミのまわりを舞っている))


▲柿のような味のするパパイア   ▲間もなく収穫のバナナ

2020年11月13日(金

 文字変換ができず・・・(やっと回復。どこを押していたのだろう?)



       ▲今帰仁グスクの石囲いの城郭


 ▲下の御嶽のイベ(ソイツギ)       ▲城城内の神アサギ跡         ▲上の御嶽のイベ(カナイヤブ)

2020年11月12日(木

2002.6.21(金)kakomemo

 今帰仁村今泊の大嶺原のピータティファーイまで登ってみた。というのは、19日古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。今日は雲の多い天気だったのだが、下の写真のように伊江島と古宇利島が見える。
 『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述がある。

 ・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
 ・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
 ・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
 ・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した。
 ・民家から離れた場所にある。
 ・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
 ・火立所は離れて参ヶ所にある。
 ・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
 ・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
 ・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。


  
▲大嶺原から伊江島を眺める      ▲大嶺原から古宇利島を眺める

2002.6.20(木)memo

 総合学習の後の余韻が歴文まで伝わってくる。また、伊江島からもお礼の手紙をいただいている。先日伊江島の子供達は、今帰仁グスクから城山を見つけて歓声をあげていたのを思い出した。いくつかヒントをもらったようで、早速島村屋にいって調べるとのこと。私自身、今伊江島にはまっている状態。先日のトーミヤーの件もそうである。古宇利大嶺原伊江島とつながることもあって、五月に伊江島に渡った時、早朝イータッチューの頂上まで登った。それは古宇利島大嶺原伊江島のルートを伊江島からどう見えるのか、その確認でもあった。伊江島から大嶺原の方向を見ると、備瀬崎の後方に清掃工場のエントツが見える。エントツの左側に大嶺原がある。エントツから煙が出ていると、烽火がそのように見えたのだと想像する。二つ、三つ煙を上げるには大分離さないと風で一つになってしまいそう。すると、40~50mは離さないとイカンなとか、いろいろ考える。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について、以下の記録を残してくれた。
   位置 宿の前原2833原野の南部
       火立て屋 チータッチュー屋三つあった。
       中に薪を一ぱい、薪は間切船、唐船や大和行の船(偕船?)
       を見た時、その一つを焼く。
       火立ては国頭、伊平屋、具志堅、伊江にもあった。
       その番人の家 遠見屋という。
       唐船の入る頃になると掟も来て勤める。
       古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の
       位まで授けられる。終身職で頭を免ぜられた。

火立て屋あたりを、調査する手掛かりをいくつも与えてくれる。そういう記録は、非常にありがたい。
 今帰仁村と本部町の境界の大嶺原は、右手に古宇利島、左手に伊江島が視野に入り、トーミヤー(ピータティファーイという)を設置するのに最適な場所である。
 
▲大嶺原(ピータティファーイ)から伊江島を望む

2002.5.18(土)memo
 

 
歴史文化センターに「轉籍願」の文書がある。それは那覇士族が今帰仁間切仲尾次村へ寄留してきた時の文書である。このような文書資料は非常に少ない。村に転居する場合の手続きがわかり興味深い。光緒五年は明治12年にあたり廃藩置県の年である。廃藩置県前後に首里那覇などの士族が地方に寄留していった時代である。以下の文書の形式で村内に寄留したことがわかる。

 今帰仁間切(村)で寄留人の多い字(村)は天底(56.6%)・運天(58.3%)・湧川(50.4%)・玉城(45.8%)上運天(30.5%)・勢理客(26.4%)などである。今帰仁間切全体の寄留士族の比率の平均は19.9%である。因みに「転籍願」が出された仲尾次村は19.6%なので平均的な村ということになる。
     
       
轉 籍 願
    無 禄         父那覇西村士族亡長男國吉眞千二男
    家 族               國  吉  眞  益
                     當年六十
幸巳八月十日生
        今帰仁間切平敷村
           平民玉城牛長女
  妻  蒲 戸 
                       當年五十五
丙戌九月二十日生
                        
                  長男  國 吉 真 映
                        當年二十五
丙辰五月五日生
         久米村士族岸本
          恵廸二女真映 
   婦  真 鶴
                       當年二十四
丁巳六月十日生
     光緒五年己卯十一月ヨリ今帰仁間切仲尾次村
     住居仕居候處私儀爾来同村ニ轉籍
     住居仕度奉存候条何卒是迄之通士族籍
ニテ
     被差免被下度別紙財産取調書 相副此段
                                  奉願候也

                今帰仁間切仲尾次村住居士族
     明治十三年辰六月六日出ル    國 吉 真 益

     記
    建家二間角萓薺二棟
     牛一疋
     豚一疋
     野羊三疋
   右財産取調書如斯御座候也
   明治十三年辰六月六日出ル 
今帰仁間切仲尾次村住居士族
                     國 吉 眞 益 印


   ▲「転籍願」の文書(明治13年)


2020年11月11日(

2006.08.31()memo

 学芸員実習最終日。今日は展示のレファレンスまで。一人ひとりの実習期間の感想や印象を述べてもらった。これまでの展示では、以下のコーナーにまとめてあります(資料の整理で一部変更もあり)。展示を見に来られた方々がどう見てくれるのか一番気になるところでしょう。レファレンスもやってもらいましょうか。残念、そこまでやる時間がありませんでした。作る側の立場、充分体験できたのではないか。実習ごくろうさんでした。

 水田のある風景
 戦後の建物の移り変わり
 今帰仁の19の字(アザ:ムラ)
 ムラ・シマの人々
 戦後60年の軌跡(文書資料展)
 行政の中心となった役所(役所関係文書)
 村内の学校
 湧川の塩づくり
 薪からガスへの時代
 今帰仁の生業(農業・漁業など)
 茅葺屋根から瓦葺へ(神アサギ)
 消えゆく祭祀(海神祭、ウプユミなど)

 展示の全体は、「戦後60年の軌跡」のページで報告することに。


片付けも終り、ヤッター!   「稲作が行われていた風景」そこに・・・
2020年11月10日(火)

 昨日、今帰仁村兼次の稲作について触れた。兼次のどこに田があったのか気がかり。五冊の内三冊のこっている「国頭郡今帰仁間切 土地台帳 兼次村」を開く。三冊から「田」の地目を拾ってみた。小字の「南屋敷原と北屋敷原」に田はなく宅地と畑地、溜池などはあるが田はなし。前名原と古島原に田が散見できた。特に古島原に集中して田がある。そこには水倉(兼次村有)があり、苗代があった場所である。田のありそうな「福地原」も田はなし。明治期の「土地台帳」から、かつての稲作が行われていた場所が特定でき、また田の所有者が確認できる。次の会議で、それを手がかりに話を伺うことに。

 金武町史の展示会を見ながら、金武町まで。自動車道を下りたのはいいが、逆方向(うるま市)へ。気づいたのが屋嘉。屋嘉の「御嶽」のイベの修復の件で講演をしたことがあり、どうなっているか気がかり。御嶽のイベまで上がる体力がないので、二つの御嶽が見渡せる場所へ。ちょうど、稲作jの刈り入れ時期。兼次では消えた田の稲を眺め満足。屋嘉の御嶽(イベ)の修復された祠は展示会で確認。ラッキー。ジャフン岳や物見所や七日浜(金武節)(11.3 )の確認ができ職員たちと情報交換ができ、日々の「寡黙」が解かれ満足。

 
 ▲兼次村の土地台帳(歴史文化センター所蔵)(明治41年~)  ▲金武町屋嘉の稲作(コシヒカリ?)

2020年11月9日(月)

 まだ、手を付けていない「兼次の農業」について触れることに。

第七編 兼次の農業 

 今帰仁村全体の農業は、社会的・経済的環境の推移・変化に応じ、農業形態に変遷が見られる。これまで土地改良、農業構造改善事業など、各種の農業関連事業が取り入れられ、農業の振興に力を注いている。

 主要作物はサトウキビを基幹作物とし、パイン、野菜、畜産、花卉などであある。若手農業者はシオカ、キュウリ、花卉類の生産が目立つ。機械の導入で若者の農業者が目につくようになる。しかし、大幅な農業人口の減少が見られる。 兼次でも三割近い減少である。

 村全体の農家人口の変遷(農業センサスより)

 ・昭和三九年 一〇八九〇人 (男五三九七人、女五四九三人)
 ・昭和四六年   七九九〇人 (男三九三八人、女四〇五二人)
 ・昭和四九年   六五五二人 (男三二九六人、女三二五六人)
 ・昭和五四年   五三九〇人 (男二七二一人、女二六六九人)
 ・昭和五九年   四七一二人 (男二四〇五人、女二三〇七人)
 ・平成元年     四二六四人 (男二一九九人、女二〇六五人)
 ・平成六年     三七六四人 (男一九四六人、女一八一八人)

 【昭和三九年】の兼次の栽培作物

  ・いも類・豆類、サトウキビ、野菜(キャベツ・ネギ・ダイコン・ニンジン・トマト・キュリ
    ・カボチャ・ニガウリなどの栽培がみられる。

 ・兼次の農家人口
  ・昭和三九年  三八四人 (男一九六人、女一八八人)
  ・昭和四六年  二八三人 (男一四〇人、女一四三人)
  ・昭和四九年  二二二人 (男一一二人、女一一〇人)
  ・昭和五四年  一七三人 (男八四人、女八九人)
  ・昭和五九年  一二一人 (男六六人、女五五人)
  ・平成元年    一四六人 (男 八〇人、女六六人)
  ・平成六年    一五六人 (男 八二人 女七四人) 

 ・兼次の公民館資料より 

 公民館資料から兼次の生業の様子がみえてくる。一九五八年に「メートル法実施」についての記事がある。 

 農事奨励会(組合総会) 

【戦後の兼次の農業】

 戦後の公民館資料から農業に関わる記事を集め、そこから兼次の農業についてまとめてみる。 

【稲 作】

 一九五七年一月十一日の「兼次公民館資料」から稲作についての記事を拾ってみる。地目の「田」はあるが、兼次では稲作をしている家はなし。

昭和四九年の兼次の地目の田は七九筆、一五一一九㎡あるが、昭和四九年後の稲作は〇である。昭和四九年まで村内でわずかながら稲作が行なわれている。 

【一九五七年一月十一日】

 第一期作水稲苗代の件
  村の指示に準じて播種をなす。然し雨が降らなかったら場合は順延する様にする。
  野ソ(野ネズミ)駆除
  水稲播種前に野ソを徹底的に駆除する。薬品は区会計より出し日取りは当務に委任する。

(当時、中学生達は野ねずみを捕まえ、シッポを公民舘に届け一尾?円(セント)の小遣い稼ぎ)

【一九五七年一月二一日】
  ・水稲の件
    雨降れば決定(ここで水倉ついてに触れる)(天水田が多かったことが知れる)

【八月二日】
   ・水稲二期作播種準備の日程
   川原苗代 八月三日  道東 四日 道西上五日 道西上 五日 東後原 六日 
     (ユイマールの様子が伺える)

    苗代の準備作業も上から順に行ない節水する様にする。

※兼次は隣の諸志に田を所有する方々が見られる(ナハガーラ沿いは「仕明地」があった)

【バッタ】

 バッタの発生面積及び防除発生面積、防除面積調査
  

【兼次古島原の苗代】(詳細な記録がある)


(工事中)

以下、イモ、サトウキビ、葉煙草、パイン、山林へと続く。


2020年11月7日(土)

 ほぼ仕上がる。
 


2020年11月6日(金)

 島袋源一郎氏は「沖縄教育」(大正7年)(謝花尋常高等小学校校長)で「七日浜と金武節」について発表している。同じ頃、『沖縄国頭郡志』(大正8年)の「名所旧蹟」で七日浜について記してある。島袋源一郎氏が歴史や他の分野に関心を持った理由は「師範学校」が首里にあり、師範学校時代「百按司墓」の図をスケッチしており(明治39年)、それを東恩納寛惇氏に提供している。島袋源一郎氏が師範学校時代から首里で、屋部・安和・謝花校の校長、県視学で那覇へ(城嶽か)、東江校の校長で名護へ。その後、那覇ヘ。息子は二中から鹿児島(七高)で病死)、その時山崎博士にお世話になっている。

 今帰仁の明治以後の人物像として、最後の地頭代諸喜田福保、平良新助、島袋源一郎、島袋松四郎、仲宗根政善、霜多正次、与那嶺松助、湧川清栄、幸地新政、幸地新蔵、島袋源七などが浮かんでくる。

島袋源一郎の『口碑伝説の研究』(大正7年)
          
 (謝花尋常高等小学校長)(沖縄教育第117号)より

一、七日浜と金武節
 琉球古劇の脚本、久志若按司道行口説の一筋に、
   イザャイザャと立出でて、伊芸や屋嘉村行過て
   歩み兼ねたる七日浜、石川港川打ち渡て
   今ど美里の伊波村や、急ぎ急ぎて忍でちやる

という句がある。七日浜は美里村と石川と金武村屋嘉の間なる曲浦を指している。路程一里余、国頭東海岸から首里への通路に当り右に勝連左に金武の二岬相対して金武湾と称し、伊計、高離、平安座、浜等の諸島湾頭に横たわって実に風光明媚の勝地である。けれども白砂長汀踵を没し行客の困難一通りではない。

 俗説に、昔一乞食此の浜を過ぐるに六七日を費したるに依って此の名を得たと言伝へている。しかし私は数年前七日浜の由来について、次のような伝説を耳にしたことがある。

 今より四五〇年目琉球に革命が起り、彼の三山統一の英王尚巴志の血統は七世の尚徳に至って遂に廃せられ同時に尚円推されて王位に即ようになった。

 其時先王の遺族及家臣は此は此の事変に遭って俄に王城を脱し東宿を通って北山に隠遁するに際し、昼は山中又は洞窟に潜伏し夜はなれぬ旅路を辿りかくて金武湾を落ち延びるに六七日を要したので七日浜のを負うているということである。若し之が事実であるとすれば、七日浜とは美里から金武に至る馬蹄形全部を指すのであろう。

 又或る琉球音楽の先生は金武節の本歌
  くばや金武くばに竹や安富祖竹
     やねや瀬良垣にはりや恩納
は尚徳王の遺子が守役(ヤカー)に背負われて北山に落ちて行った時に出来たのであるといっていた。それは七日浜を過ぎて金武にさしかかった時、此処は何処かと問われたから「此処(クマ)は金武の同村」と答えた。それから落ち延びて行くと山岳が突立つている王子はこの嶽は何嶽かと聞かれたから「嶽は安富祖」とお答えした。だんだん下って行くと村落が見える王子は又あの屋根の見える処は何嶽かと尋ねられたから守役は「屋根は瀬良垣であれから少し走れば恩納村です」と申した。それで、
   くまや金武のくま嶽や安富祖嶽
     やねや瀬良垣に走れば恩納
というのが原作であったが、時代は急転して天下は尚円王の

 以上の伝説は直にその真偽を判ずることは出来ないが私は別個に聞いたこの二つの伝説が全く符合した様な気がしたので少からず興味を起こし遂に昨年の夏休を利用してその探訪に出掛けることにした。

 八月二五日嘉陽小学校長祖慶良信君の紹介に依り屋嘉の宜野座翁(72歳)に就いて土地の口碑を聞く聞くことを得た。翁の語る処に依れば、
 昔首里から二人按司が世を忍んで落ちて来る時、屋嘉の西南なる七日浜の黒岩の所まできたが、此処で空腹の為め二人共足が運べなくなって倒れて仕舞った。その時

     (途中)

 因みに云う。其の革命の後先王の遺臣で北山に退隠した者が頗る多かった。即ち彼の運天の百按司墓は新王に致仕するを好まない徳王の遺臣が釆薮の節を完うして世を終わり而して此処に祀られたのであると云伝へ、又本部村渡久地なる按司御墓の主人公大米須親方もその一人であるということである。

 島袋源一郎は『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で七日浜や按司墓(本部町渡久地)について紹介してある。以下の按司墓調査については承知されている。


2020年11月5日(木)

 汀間のろの祭祀の調査とのろが使ったカンザシや勾玉などの調査したことがある。汀間の二基の印部石の調査の件を思い出す必要があり、「ムラシマ講座」(2013年)のデータを取り出す。

第21期1回 「山原のムラ・シマ講座」
        ―名護市汀間―
(平成25年5月18日)

 今年度の「山原のムラ・シマ講座」のスタートは「今帰仁村湧川」の予定でしたが、その時間帯は満潮時にあたっているため、塩田跡とヤガンナ島まで渡れませんので、7月20日(3回目)に行います。それで第1回目は、名護市汀間となります。

 汀間は現在は名護市ですが、かつては久志間切(久志村)の一字(アザ)でした。沖縄本島の東海岸に位置し、集落移動、村の合併、神アサギの移動、汀間のろをだすムラ、整然と区画された集落など、興味深いムラです。急きょ変更なので汀間についてはのコースは下見をしてから案内致します。名護市汀間を参照下さい。

  9:00 今帰仁村歴史文化センター集合 
   ①参加者の確認、講座開催の説明。汀間の概要説明
   ②930 名護市汀間へ出発(羽地大川経由)
   ③1020 汀間公民館前到着
   ④ウタキグヮー/サンカジョウ(ヌール火神・世ヌ火神・根神火神)/神アサギ
   ⑤ウマバ(馬場)~イリギッチャ(一帯に旧家あり/石敢当)/スクミチ
   ⑥按司墓/模合墓(仲田・上原・アブ)/ワラビ墓/ダビシモー/ガンヤー
   ⑦汀間港/ウプウタキ/ウェンチュビラシ


   ⑧若按司墓・親按司墓・イジミガー
   ⑨旧神アサギ/ノロドゥンチ跡/カニマンガー/松浜屋/ヌルガー/チンガー(嘉手刈側)

 
 ▲サンカジョウの祠(ウタキグヮー)          ▲合祠された祠の内部

 
     ▲汀間の神アサギ                   ▲汀間のウプウタキ

【汀間の三つの模合墓】

  
   ▲仲田門中の模合墓        ▲上原門中の模合墓        ▲アブ門中の模合墓

   
    ▲按司墓              ▲若按司の墓            ▲親按司の墓


2020年11月3日(

 休日で、朽ちた竹垣の作り替え。時間がなく途中まで。午後から孫娘の発表会へ。三、四本(ピアノ・連弾・歌・親子で)をやりこなしている。コロナでムラシマ講座はストップ。

 先日、収穫し吊してあったバナナが一気に色づく。孫達に配る。まっ黄色ですが、撮影が下手。


▲数年前、孫と作った竹垣は朽ちてしまい、作り替え(途中)

 
▲先週、収穫。吊してあったバナナが一気に熟する。


2020年11月2日(月)

 宮城真治氏の資料を目にする機会がある。宮城は具志堅の上間家の辞令や今帰仁中城のろの辞令書も目にされている。、ムラ・シマ講座で我部祖我を訪れたのは、いくつか理由があった。「神人がいなくなると祭祀が消えてしまう」とよく言われる。我部祖我の公民館資料を拝見したことがある。そこに「海神祭」を廃止するには神人ではなく、アザの評議員会で決定するある。公民舘に年中祭祀を掲げてあるのは、神人がいなても区長や書記が行っている。そのことを我部祖河で教えられる。


 「山原のムラ・シマ講座」    
   ―名護市(旧羽地村)我部祖河―平成251019日 土:開催)

名護市の我部祖河です。我部祖河みていく場合、まず羽地間切(村:ソン)の一つの村(現在は区、アザ)であったことを頭に入れておく必要があります。現在の名護市は羽地村(間切)と名護町(間切)と久志村(間切)、戦後屋我地村、屋部村が創設されます。昭和45年(1970)に名護町、屋部村、羽地村、屋我地村、久志村が合併し名護市となります。合併して40年余になりますが、歴史・文化を見て行く場合は、長い間切時代に蓄積されてきた歴史や文化が今に根強く引継がれています。名護市になって40年余たった現在、大きく、あるいは急激に変貌しつつある我部祖河の地から羽地間切域の一村から、その面影を拾っていきましょう。

 昭和50年代、くまなく踏査した経験があります。理解しにくい、あるいはできなかった地域との記憶があります。先日下見で行ったのですが、やはり難しい地域(ムラ)でした。よく解らないことは、ムラを見る視点を変える必要がありそうだ。それは我部祖河のムラ・シマと異なった形態をなしているのでしょう。

 大きく変貌したのは、一帯が水田地帯だったことです。また蔡温が大浦川を改修した頃、一帯は湿地帯で川の氾濫がたびたびあった所です。川筋の付け替えや湿地地帯の開拓が行われています。羽地間切の三大ウェーキ(源河・河部祖河・□?)の一人が河部祖河村にいました。我部祖河は民俗学者の宮城真治先生が多くの資料をのこされたムラです。

これまでの視点では説明できなかった河部祖河をどう理解していけばいいのか、その視点を見つけることができそうです。どんなムラでしょうか。おもしろそう!(出発前の説明を聴かないとチンプンカンプンかも)

    名護市我部祖河のレクチャー
     名護市我部祖河へ出発(マイクロバス)
         ①我部祖河川~金川(ハニガー)流域(羽地田圃地域)
        ②我部祖河のウタキ(上バーリ御嶽・ナカムイ)
        ③アサギ跡?高倉?の礎石/ウタキのイベ/左縄
        ④合祀されたお宮と舞台(
        ⑤ホ □□□原の印部石
        ⑥高倉のある家(県指定)(ナカジョー)
        ⑦サニサギドゥクルの祠
        ⑧我部祖河ウェーキ(上間家)
        ⑨メーガージョウフェー(古我知集落から嵐山方面)
        ⑩寒水泉(ソージガー)
    

  ▲我部祖河のウタキ(上バーリ御嶽・ナカムイ)       ▲アサギ跡の礎石      

 
 ▲高倉のある家(県指定)(仲門:ナカジョー)  ▲仲門(ナカジョウ)の屋敷の石垣と福木

 
   ▲ウタキの中のイベの祠と左縄    ▲ウタキ内にあるお宮へ合祀された旧家の火神


2020年11月1日(

 この時期になると「公事帳」の「付届」が気になる。羽地朝秀のころ、廃止(規制)されたとあるが、しかし廃藩置県後の明治17年頃の調査でも「付届」が行なわれている。規制や禁止されたから、沖縄全域で実践されたからと言っても、地域によってもその状況の濃淡があることに気づかされる。地域研究の醍醐味はそこにある。

2009年3月19日(木)

 「旧慣問答書」の「付届ノ事」の記事は、間切と両総地頭や脇地頭との関係をしる手掛かりとなる。恩納間切と大宜味間切の例を取り上げることにする。2008年4月でも触れている。

【恩納間切】の「付届」

 .問
 付届とて文子より掟に昇等するか。掟より南風掟、西掟等へ昇等、或は位階に叙せられし際、地頭代又は検者、下知役、
  掟へ豚、焼酎等送るの慣例はなきか。若しあらば何役へ豚何斤、焼酎何升等詳細に記すべし。

・答
 掟以上役上りしたる総人数より下知役、検者、地頭代へは一人に豚肉四斤宛、山筆者へ三斤宛、総地頭へ三十斤差上げ申候


・問
 盆暮その他、両総地頭杯へ右等附届をなすことあらば、其事を詳細に記すべし。
・答
 盆薪木拾束、炭三十斤、ハライ蔦二升、酒代銭五貫文なり。尤も歳暮として豚肉三十斤、生姜二十斤、炭三拾斤、薪木拾束
 総地頭へ差上申
候。


付届の事(大宜味間切問答書)

一問 文子以上後(役か)上リの時地頭代以下役々へ付届並に盆暮当役々へ付届の定例如何
 答 役々相互に付届ケスる事なし 

一問 文子以上地頭代マテ役上リの時々両惣地頭其他へ付届の定例如何
 答 地頭代以下役上リ時々付届の定例左の通リ

両惣地頭へ             地頭代例
 一 肴拾斤つ   一 焼酎弐合瓶一対つ

両惣地頭摘子元服次第 同人へ
 一 肴弐斤つ   一 焼酎壱合瓶壱対つ

両惣地頭惣聞へ
 一 肴弐斤つ

下知役検者へ
 一 肴壱斤つ 

両惣地頭へ    夫地頭捌理壱人例并百姓位取の節同
 一 肴七斤つ   一 焼酎弐合瓶壱対つ

右同嫡子元服次第同人へ
 一 肴弐斤つ

右同惣聞へ
 一 肴弐斤つ

下知役検者へ
 一 肴壱斤つ

掟壱人例並に百姓赤頭取リ節同 

両惣地頭へ
 一 肴五斤つ   一 焼酎弐合瓶壱対つ


右同嫡子元服次第同人へ
 一 肴弐斤つ   一 焼酎壱合瓶対つ

首里那覇両宿並下知役筆者へ 役上リ人数模合にテ
 一 肴五斤つ

下ごり方へ筵ちんしして
 一 銭五貫文

評定所公事持へ
 一 銭五貫文 

両惣地頭へ      大文子壱人例〈但相付文子以下は例なし〉
 一 肴壱斤五合つ 一 焼酎壱合瓶壱対つ

右同嫡子元服次第同人へ

 一 肴壱斤五合つ 一 焼酎壱合瓶壱対つ

右同惣聞へ

 一 肴壱斤五合 

 一問 役々より両惣地頭其他へ盆暮等付届の定例如何
 答 盆暮等は役々より付届の例なし 

 一問 村又は間切より付届の定例如何
  答 左の通り 

盆上物例

両惣地頭へ       間切より
 一 薪木拾束つ   一 明松三束つ
 一 白菜壱斤つ   一 角俣壱斤つ
 一 みみくり壱斤つ 一 辛子壱升つ
 一 玉子五拾甲つ 

脇地頭へ        村々より
 一 白菜半斤つ   一 角俣半斤つ
 一 みみくり半斤つ 一 辛子五合つ 

歳暮上物例
 公義へ            間切より
 一 干猪肉拾八斤  一 壱斗八升 

聞得大君殿へ         間切より
 一 干猪肉壱斤   一 四斤四合五勺 

佐敷殿へ           間切より
 一 干猪肉壱斤   一 四斤四合五勺 

両惣地頭へ          間切より
 一 □壱斗弐升つ   一 代々九年母弐拾粒つ
 一 焼酎八合つ    一 猪し拾八斤つ
 一 銭弐百五拾文つ
右同嫡子嫡孫元服次第
 一 □弐升つ  一 肴五斤つ

脇地頭へ          村より
 一 □五升つ  一 焼酎弐合つ
 一 代々九年母七拾粒つ  一 肴七斤つ 

下知役検者並に首里宿へ   間切より
 一 □弐升つ  一 肴五斤つ

下知役検者詰所へ
 一 九年母五拾粒つ

筆者在番下知役筆者並に那覇宿へ
 一 □壱升つ  一 肴弐斤つ

地頭代へ
 一 □弐升  一 肴弐斤

捌理へ
 一 □壱升つ  一 肴弐斤つ
   勘定主取へ
 一 □弐升

宰領人へ
 一 干塩肴五斤