沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
           今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)
0980-56-5767)

                    
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2020年10月(今月の業務日誌) 9月(先月へ)

※2019年4月から「業務日誌」として日々の動きを記しています。

今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  徳之島踏査
今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
山原の御嶽(ウタキ)と村と集落
・今帰仁の墓の調査
謝名の墓調査 
平良新助翁講演(昭和8年)
平良新助企画展(平成27年)           
今帰仁と戦争(企画展)
今帰仁と戦争
運天港と戦争
今帰仁の戦争体験記録1
今帰仁の戦争体験記録2
大宜味村の神アサギ             ・徳之島伊仙町
・今帰仁の印部石                ・奄美大島宇検町名柄(辞令書) 
・元文検地と今帰仁
・山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)      
山原の図像
・山原のノロドゥンチ                   
・本部町具志堅の調査記録(2003、2006年) ・平成24年(2012年)のムラ・シマ講座
・今帰仁の19のムラ・シマの歴史       ・平成22年(2010年)のムラ・シマ講座
古宇利島のプーチウガン(流行病)     ・平成20年(2008年)のムラ・シマ講座
古宇利島のムシバレー
クボウヌウタキ
嘉味田家の墓調査(2000年11月調査)(一部) ・嘉味味田家の墓調査報告
「山原の津(港)」参照
北山の歴史」の企画展
山原の図像
山原の図像調査(過去記録)
今帰仁村新里家の位牌や図象や系図
祭祀の「神遊び」は公休日!
北山監守一族の墓(大北墓・津屋口墓)
操り獅子の導入(参照)

北山の時代と沖永良部島(脱稿)(詳細参照)
神職並に信仰行事記録」参照


【時々、オオゴマダラがやってくる】
 チョウは日々蜜を吸いにきているであろう。「寡黙庵」に滞在するのは周二日なので。
 10月12日、15日
やってくる。10月16日(土)二頭の待望のオオゴマダラがやってきた。多分、もっと前から二頭や一頭でやってきているのでは。私が「寡黙庵」に立ち寄るのは、お昼時間のちょっとちょっとの間。出会えるのはラッキー。二頭(雌雄?)、比較的ゆらりゆらり。
 10月19日 お昼ころ二頭でホウライカガミに飛んでくる。周辺にいろんな花がさいているのに?


 


2020年10月13日(火)

 今帰仁村平敷に「神職並に信仰行事記録」(1952年再編)がある。平敷には「村畧図」「土地整理期の図」、「今帰仁間切村全図」、「今帰仁村字全図」などの資料がある。「神職並に信仰行事記録」に関心があるのは、神人に「大役殿地」(平敷にはノロはなし)の土地(役地:耕作地)が代々与えられてきていること。耕作地は神役を勤める世帯主に与えられ、祭祀は神役家の女性が行なっている姿が見られる。
 
 他の村の役地も、平敷村同様ではなかったか。ノロ家も男方に役地が与えられたか。詳細は本編で紹介することに。(「神職並に信仰行事記録」(筆耕)参照

    ③       ②        ①

     ⑥          ⑤        ④

 8          ⑦
 

2020年10月12日(月)

 ちょっと、寄り道でも。

2002.7.17(水)メモ

 まだ台風の余波が続いている。昨日は屋我地の方々が30名近くやってきた。屋我地の屋我グスクの話からスタートである。半分以上の方々が知っていた。私が最初に経験(20代の頃)した発掘調査の現場は屋我グスクであった。あの発掘調査の体験は今でも私の中に発掘された遺構や遺物をみる目を培ったと思っている。その時のメンバーは考古や歴史の分野でいい仕事をしている。今年になって20年ぶりに屋我グスクに入ってみた。小規模ではあるが、グスクの魅力を十分味わうことができた。

 さて、屋我地島には屋我・饒辺名・済井出・我部・運天原の五つの字(アザ)がある。運天原は昭和6年に饒辺名と我部の一部を分割して行政区運天原にしたという。比較的新しい字ということになる。『琉球国由来記』(1713年)に登場する村は、以下の四村である。どの村も神アサギが現在でもある。我部と松田は合併して我部となっているが神アサギは別個に建てられている。

    ・屋我村   神アシアゲ(屋我ノロ)
    ・済井出村   神アシアゲ(屋我ノロ)
    ・饒辺名村   神アシアゲ(屋我ノロ)
    ・我部村    神アシアゲ(我部ノロ)
    ・松田村   神アシアゲ(我部ノロ)

 その中の我部村と松田村は1736年に現在の今帰仁村の湧川地内から、蔡温の山林政策で移動させられた村である。屋我地の方々にとって自分達の村の歴史に関心があると同時に屋我ノロと我部ノロ、そして根神に関心が集中した。現在羽地間切屋嘉(屋我)ノロ職補任辞令書(1625年)が残っている。この辞令書は古琉球から近世にかけての過渡期の形式である。

 この辞令書が発給された頃、屋我島は屋我村である。まだ、済井出村・饒辺名村がなく、我部村・松田村が湧川地内から移動していなかった頃である。屋我ノロ家が饒平名村にあることの説明が必要だからである。明治26年の屋我ノロクモイも饒平(辺)名村である。何故、屋我のろが屋我村ではなく、饒平名にあるのかの答えを出してくれる。

 首里の御ミ事
   はねしまきりの
   やかのろハ
    もとののろのうまか
  一人おとうに
    たまわり申候
 天啓五年四月廿日 

      
▲屋我ノロ叙任辞令書(1625年)県指定文化財
  ▲仲尾ノロが「大のろくもひ」(仲尾)辞令書(1623年)

 屋我ノロは屋我・済井出・饒辺名の村の祭祀を掌るノロである。ノロ家は饒辺名の神アサギの側にある。明治のノロ引継ぎ(明治32年)の文書もあるようだ。屋我ノロでありながら、屋我ではなく饒辺名にノロドゥンチがあるのは不思議ではない。管轄するいずれかの村にあれば問題はない。例えば今帰仁間切の中城ヌルドゥンチは中城(仲尾次)にあるのではなく諸喜田村(現諸志)にある。

 屋我村は屋我グスク一帯にあった村が1858年に西米耶原(墨屋原)に移動している。移動集落(同じ村内で集落部分が移動)である。旧地の屋我グスク(御嶽を含む)あたりから、500メートル足らずの距離である。御嶽→神アサギ→集落の軸線が読みとれる。人口が減り税が納めきれず、それに夫役も出すことができないので地理師(風水見)にみせたら、「山地が広く子孫が繁盛しない」という理由であった。つまりは風水が悪いということ。昭和55年の発掘調査で祭祀場・住居跡・中国銭・青磁・鉄滓などが出土した。故地はアテー(阿太伊原)と呼ばれ集落のあった地としての地名が残されている。

 明治政府は廃藩置県の直後にノロ(ノロクモイ)の身分やノロクモイ地の調査を行っている。それはノロクモイの社録処分に備えての調査である。以下の資料は、ノロクモイ地が処分され、それに対する保障に関わる文書である。

           証
羽地間切饒平名村三拾九番地平民
         屋我村ノロクモイ
明治廿六年度一期渡   玉那覇マカト
ハ当社録仕払期ニ在テ生存シ当間切ニ現住
ノモノナルヲ証明ス
           羽地間切
明治廿六年八月九日 地頭代 嶋袋登嘉
国頭郡役所長笹田柾次郎殿

                請求書

羽地間切饒平名村三十九番地平民我村ノロクモイ玉那覇マカト
右明治廿六年度第一期社禄受領致
候間御証明被成下度此段請求仕候也
 明治廿六年八月九日 右玉那覇マカ㊞国頭郡役所長笹田柾次郎殿
 明治廿七年二月三日には同廿六年度二期目の社禄支払いの証明書と請求書を国頭郡役所(羽地間切地頭代)に提出していることから、年二回の社禄の支払いを受けていたことがわかる。

2020年10月17日(土)

 運天の集落を再度見たくて、運天を訪れた先人達の記録に目をとおす。先日、草木や蔓などを刈り取った集落への道筋(スクミチ:ムラウチ入口))をゆく。途中、ワイトゥイ(切り通し)の道筋がある。地元の方に聴いてみると、ワイトゥイから百按司墓へ向けての3~4mの道筋があったとのこと。ワィトゥに立つと、1741年の「唐人漂着」のとき、蔡温は上運天村から指示を出していたようである。以下の達(覚え)から当時の運天のムラウチの様子が伺える。大北墓の碑文の確認、ワィトゥイについて「百按司までの道筋があった」との話を伺う。「運天の歴史」的ないろいろな出来事を思い浮かべてみた。2006年には「山原の津(港)と山原船」(『なきじん研究』14号も開いてみる。 

    覚
 一、唐人の囲いによってはならない
 一、女性は近くを通ってはならない
 一、大和年号や大和人の名字や京銭(寛永通宝)や斗マスなどを、唐人に見せてならない
   附 ここではどんなお金を使っているかと尋ねられたら、鳩目銭を使っていると
      答えること
 一、村の中で大和歌を歌ってはならない
 一、唐人の滞在中、薩摩の掲示板を立ててはならない
 一、勤番の家、並びに村中の民家は火の用心を、特別念入りに行なうこと
     右の通達について固く申し付ける
        正月廿八日

■明治14(1881)年  上杉県令巡回(『上杉県令巡回日誌』)

  ペリーの来航から28年後の明治14(1881)年、上杉県令が今帰仁間切を訪れている。そのときの様子が庶務課記録係十五等出仕の秋永桂修蔵の筆記により『沖縄県巡回誌』(明治14年)国頭之部に記されている。

  午後一時四十分、舟、今帰仁番所首里警察分署の前岸に達す。七百年前の昔、源八郎為朝、伊豆の大島より漂流して、颶風に遭ひ、運を天に任せ、来着したる、運天港是なり。秋永詩あり曰、
 樵漁聚落幾廛々、
 海水湾環畳碧連、
 憶起八郎当日事、
 運天港口始推船、
 直に路を右に取り、村間を貫き、坂路に就く。一洞あり、其中に鍛冶場を設けたり。鞴(フイゴ)を据へ、鉄碪(カナドコ)を置きたれども、げきとして人なし。曲折盤回して登る、陰風人を襲ひ、草水悲凄す。山の半腹に、邃洞あり、白骨の髑髏、其中に堆積す、或は腐朽せる、鎧櫃の中にあるもあり、土人伝へて、百按司墓と云ふ。〈略〉近来本庁にて、百按司の遺屍を埋むる議ありと聞く。

  〈略〉今帰仁分署に至る、門南西に向ひ、老榕甘木、陰を成し、皆是四五百年の物、傍に福木秀茂せり、港口に日本形の船二艘碇泊す。〈以下は略略〉(大意)午後一時四〇分、船は今帰仁番所と首里警察分署の前の岸に到着した。七〇〇年前、源八郎為朝が伊豆の大島より漂流して、つむじ風に遭い、運を天に任せて来たと言う運天港である。秋永が詩を詠んで曰く「樵漁聚落幾廛々、海水湾環畳碧連、憶起八郎当日事、運天港口始推船」(木こりや漁師の集落がいくつもあり、海水が湾をめぐり青く連なる、為朝が漂着した日のことを思い起こしつつ、運天港の口より船を進める)。すぐに道を右に行き、村の間を通って、坂道に至る洞窟があり、その中に鍛冶場を設け、フイゴを据えて鉄床(カナドコ)を置いてあるがひっそりとして人がいない。曲がった道を回りめぐりながら登る。陰気な風が吹き、景色ももの悲しい。山の中腹に奥深い洞窟があり、白骨がその中に堆積したり、あるいは朽ち果てたりしている。鎧櫃の中に入っているのもあり、地元の人たちは百按司墓と呼んでいる。間もなく本庁で百按司の遺骨を埋めることが決議されるとのことである。

  今帰仁分署に戻る。門は南西に向かい、四、五〇〇年になるという古いガジマルの木が木陰を作り、その側には福木が茂っている。港には日本型の船が二艘停泊している。

  『沖縄県巡回日誌』に描かれた運天を見ると、今帰仁間切の番所の他、首里警察の分署があったこと、また鍛冶場があったことも知られる。さらに、百按司墓も訪れており、墓の状況の他、「鎧櫃」があったことも記されている。「近来本庁にて、百按司の遺屍を埋むる議あり」とあるが、上杉県令巡回の翌年(明治十五年)県令自ら内務卿山田顕義に百按司墓修復のための見積書を添えて具申している。


  さて、百按司墓を巡回した後、県令一行は再び今帰仁分署に戻ってきた。「門は南西に向かい」ということは、建物は海に面しており、四〇〇~五〇〇年も経つガジマルの木陰があり、濃い緑の福木が茂っている。また港口には、日本形の船が二艘碇泊している。そのような穏やかな風景を描くことのできる、廃藩置県間もない頃の運天である。

  
 ▲山原の港(津)展示図 ▲運天のムラウチへ入口と別のワイトゥイ  ▲唐人が収容された小屋(1741年)


2020年10月16日(金)

 運天に移葬された大北墓(按司墓)。現存する碑は大正十三年に再建された碑である。碑の前文は採
拓で全文確認することができた。先日碑を訪れると裏面は摩耗して判読できず。ところが、採拓したときには(昭和60年頃)読めたとみえ、「按司墓ハ・・・墓碑ハ弘化年間外国船来航ノ際外人ノ破壊ヲ虞レテ隠蔽セシカ、遂ニ紛失之故モ之ヲ再建ス」とある。大正十三年のことである。島袋源一郎氏が『沖縄県国頭郡志』(大正8年発刊)を執筆した頃、「城(墓)内に石碑の台石あり、古老の説曰く該碑は六、七十年前迄(大正8年頃より)守立せしが外国船(オランダ)入港後遂に之を認めざるに至れり・・・・」とあり、島袋は台座はあったが碑は失っていた頃である。

 今の碑はその後、大正十三年に再建。島袋源一郎氏はめ明治39年に百按司墓のスケッチを遺し(師範学校卒業年)、その図は東恩納寛惇氏に提供している。島袋氏は明治45年(大正元年)に大北墓の内部の調査をし、『沖縄県国頭郡志』に図と判読できた銘を収録してあり、碑について触れていないので、台座はあったが碑は失われていたのであろう。石碑が失われた理由は古老の話として触れている。この石碑が花崗岩で源為朝公上陸之趾碑(大正11年)(花崗岩:イギリス船のバラスト)、運天隧道(大正13年)の開通など、歴史のうねりが見え隠れする。(墓碑の裏面の上の文確認)
 
▲大北墓の庭の碑(大正13年再建)    ▲碑の表文      ▲碑の裏面


▲久米島の遠見所の方位石(久米具志川城附近(1998.10撮影)

2020年10月15日(木)

 
沖縄県今帰仁村与那嶺出身の霜多正次(1913~2003年:享年89才)の故郷今帰仁村与那嶺で字の方々と思い出話でもしようと言うことで声がかかり、参加。霜多たきさん(霜多正次さんの奥さん)から発刊された書籍や資料として使われた書籍類が寄贈され、喜んで受け入れました。それらの資料に目を通している最中。今帰仁村与那嶺は二人の東大(東京帝国大学)出の人物(仲宗根政善言語学者、霜多正作家を排出した字(アザ・シマ)です。

 霜多さんとは、私が今帰仁村で調査・研究や歴史文化センター建設に向けて没頭していた頃から、三、四回お会いしています。歴史資料館準備室(平成3年)の印が押された、「生まれ島」や「沖縄島」があり、中に私のメモなどがあり、目を通した痕跡があります。平成の初期から、私が「ムラ・シマ」(アザや部落のこと)を使いだしているのは、霜多さんの「生まり島」の影響かもしれない。霜多さんの足跡を辿るため「生まり島」や「沖縄島」などに没頭しています。大正から昭和の初めにかけて、今帰仁出身の方々が何故一中だったのか。その疑問が解けたこと。その先輩に島袋源一郎(沖縄県視学)(隣村の兼次出身)の存在が大きかったことに気づかされます。

 霜多さんの作品は、明治から昭和(戦前)にかけての出来事や生業、風景を記録であり、戦争体験記録です。与那嶺の方々から霜多さんの作品の人物や家々、屋号、地割、シカマ、身売り、首里までの往来、スクミチ、一中時代の首里・那覇、今帰仁出身の人々は実在しフィクションではない記録として扱えるものです。

 呼びかけ人の忠次郎氏の「あいさつ」で霜多さんの「道の島」で書かれている事を手掛かりにして、まとめないと消えてしまうと危機感をもっての訴え。それに応えないとの区長の島袋氏。

(工事中) 






   ▲与那嶺の方々(於:与那嶺公民舘)         ▲呼びかけ人の忠次郎さん

2020年10月14日(水)

 三ヶ月ぶりの「字誌編集会議」、兼次の方言と学校、学校の田畑、宿道(すくみち)沿いの松並木など。シマ別れ、マカイワイ場所、サーターヤーの話。バインの植えていた場所、その出荷したパイン工場(呉我山、仲宗根の宮里パイン工場、南西食品)。


 

兼次校の学校林と開墾(今回聴いたことを入れ込んで字誌用に書替える) 

 兼次校の学校林、それは兼次の山手、ソージマタからさらに行った兼次と諸志にまたがる猪之平原にある。サガヤーと呼ばれ、学校の創立当時から楠木が植えられ学校林として管理されてきた。

 戦争で学校の校舎が四教室を除いてほとんど焼かれてしまい(『今帰仁村史』)、テント張りの仮校舎を建てて授業を行った。その後、教室を建てるために学校林から楠木を切り出し茅葺き校舎の柱に使った。その跡地を開墾し、水田とパイン畑にした。二枚の写真(山内昌雄先生提供)は山を開墾し、水田にした昭和三三年頃の状況をカメラに収めたものである。戦後、間もない物の少ない時代、雨が降り畑がウリーするとカズラの植付けの手伝いのため「今日は農民祭だ」といって学校が休みになったという。

 一枚目の写真は、植木を切り倒して開墾をし畑になる直前の様子である。長ズボンに長袖姿、中には学生帽をかぶった男子学生の一団の作業風景である。あちこちに木の根を掘り起こしている最中である。木は切り出されているが、まだ耕されていない。そこに、パインが植えつけられ、二年後から収穫できたという。

 パインの苗は伊豆味から手に入れ、今帰仁村の西部でパイン栽培が最も早かったという。北部農林の教頭の岸本本秀先生に見てもらったら「果樹やパインによく適する」とのひょうかであった。

 下の写真は、サガヤーの平担部を耕し水田にした風景である。一列に並んで田植をしているのは女学生で、ほとんどがスカート姿である。急きょ田植え作業に駆り出されたのか、中にはセーラー姿のまま田んぼに入っている。苗は羽地の真喜屋から持ってきたものである。

 植木林から水田に切り換えられたばかりで、田の中に楠木の大木の切り株がまだ残っているのが見える。名護の木工所の人が一メートル余りの楠木の切り株でテーブルの台を作ったという。畦に立って指揮しているのは、当時の校長玉城精喜先生(明治40年生)である。

 先生は「これは学校林よ。校長していてよ。戦後直後だね。食う物がないでしょ。学校はまた、教科書といってもないし、なにもないわけ。だから、食べるための増産、それが一番みんなの大事なことだった。勤労増産といって生徒や職員もつれていったよ。学校林は学校創立当時から植えてあって、毎年一回手入れをし本数を数えていたよ。山に行くためには弁当をもっていったので楽しかったよ。戦争当時には楠木の大きな木下に本部や伊江島の人たちが避難し、生活していたよ。戦後、学校を建てるために木を切り出した。山が荒れて手がつけられないので開墾して果樹をを植えてみようとのことであったが、米の値段が高かったので米を植えて中部あたりに売って学校の費用に充てた。開墾ばかりさせて、生徒に勉強させないでと怒られもしたよ」と述懐される。

 学校林の開墾や田植えに駆り出された当時の生徒や先生方は30年余りたった今、写真を手に当時の出来事や思い出を語ってくれる。

 


2020年10月13日(火)

 明日「兼次字誌」の編集会議が再開。会議資料の準備。前回は兼次の方語とエイサー節の途中まで。その続きと昭和18、19、20年の様子を識ることのできる「西部耕地整理」の帳簿を紹介。諸志、兼次の人物が中心。農兵隊や増産隊慰労、共同売店、材料の購入など。諸志の港原に眼鏡橋(石橋)があったことは聴いている。登場する島袋松次郎氏は、戦前学校長、村長をされ、木曜日「霜多正次」の「生まれ島」など勉強会をすることになっているが、霜多氏の父親であり、作品に父のこととして度々登場。紹介することに。

 昭和19年12月7日から昭和20年3月22日までの『現金受払簿』(今帰仁村西部耕地整理組合)の「摘要」部分の記事を興している。昭和19年12月は昭和19年の十・十空襲後である。そして3月は空爆が激しくなる最中である。村民が収容さえる前である。戦中でありながら、昭和十八年の「食糧増産決記」で紹介した今帰仁村諸志での「排水路作業」が「今帰仁村西部耕地整理組合」に引継がれている。昭和20年2月から3月を見ると、前年度、前々年度の受入が目立つ。工事の請負支払いが僅かである。事業半ばで戦争に突入した様子が伺える。事業途中の帳簿から「戦争」米軍上陸直前までの様子が伺える。

増産隊作業ノ時受払簿(今帰仁村西部耕地整理組合)(昭和十八年九月)

昭和十八年九月十三日

大井川仲原店より買入石油一升代/諸志配給所一升代 宮城宅に於/縄五垳代諸志 島袋幸福氏へ 一垳参三十銭宛/ヨキノ柄二つ代諸志支所へ/同品二つ代仝上へ/豚肉五斤代字諸志与那嶺忠助氏へお客用/自転車賃諸志内間利清氏へ/仝品二つ代仝上へ/仝上諸志 与那嶺圧吉氏へ/ハカリ賃諸志 大城彦次郎氏へ 

昭和十八年九月十六日

縄五垳代 大城幸五郎氏へ/農兵隊慰労用山羊四二斤代諸志 玉城カマダ様へ/諸志 高良森次へ山羊一匹代増産隊慰労用/豚肉代字与那嶺蒲一氏へ、内訳別帳に依る 

昭和十八年九月二十日

農兵隊延人員五百人の賃金一人一日一円宛仝上へ払/薪代字与那嶺共同店へ。ムトゥバヤに於送別の時/酒五升代金照屋店へ、仝上用/仝品の馬賃渡久山盛信氏へ/増産隊より豚肉外十七点代受入明細書別帳に依る/青年隊より味噌外二十一点代受入仝上 

昭和十八年九月二一日

増産隊北山城跡拝観料として/御香代諸志支所へ、□草用/酒一升代今泊 玉城松吉氏へ、終了慰労の時/炊事妊婦夫賃内間ナエ外七人へ/窯造石運搬馬賃上間弥栄様へ

昭和十八年九月二二日

井戸の縄(ロップ代)与那嶺配給所へ/宮城様宅に於慰労の時酒二升代諸志支所へ/仝日食器洗用糖二升代島袋ハナ様へ/ムトゥバヤ於送別の時酒二升酒四合五勺代兼次配給所へ/増産隊慰労として今泊踊見物御礼金/ペンキ(ショベル符合付用)字諸志卯妻カマダ様へ/三共に於立替金五百円支払の時御礼酒代与那嶺共同店へ/家賃諸志島袋吉七郎氏へ/ダシ用として鰹代本部知念松一氏へ二三斤一二〇□一斤十銭宛/仝上用として仝、仝人へ三十斤代一斤二円四十銭宛三十斤代 

昭和十八年九月二四日

味ソ代醤油代今キ仁村商業組合へ/塩代大井川喜屋武店へ/味ソ三升代兼次 比嘉カマダ様へ一升に付二円五十宛/二等ホーライ米一□一等在来米一□一と長モチ米一□代今帰仁産組合へ/豚肉二五斤代兼次比嘉徳次郎氏へ一軒一円三十銭宛/豚骨代諸志内間又四郎隣保班より仝人へ払い/字与那嶺与那嶺蒲一氏は肉代二六斤代一斤一円三十銭宛/御米代今帰仁産業組合へ/豚肉六十斤一円三十銭宛代及び骨代八円五十銭諸志内間又四郎へ/ウドゥン二箱十七円二八銭箱二個四十銭今帰仁産業組合へ/諸炊事道具買入賃二日分諸志比嘉カナ様へ/味そ一升代諸志島袋サエ様へ/今帰仁校区の分食代一〇八円差引して領収証受たるに付依て領収証と差一〇八円/青年隊延人人員四八六人一人一円宛/南瓜七五六斤半一斤五銭宛、字兼次城間忠太郎氏外十八名へ/カブ四三七束一束に付十四束八厘字与那嶺上間蒲吉外七人へ/冬瓜三七一斤一ヶ一斤につき十銭宛、島袋源徳外五名へ/毛瓜代大城久六郎へ払い八斤一斤八銭宛/兼次校へ牛蒡代/芋二、二四〇斤代一斤六銭宛字与那嶺与那嶺亨氏外十二名へ/芋一、一八九斤仝上字諸志仲村渠仙宜外三名へ/芋四二〇斤一斤に付六銭宛字兼次古波蔵森蒲外一人へ/御著一三〇人分金城新三郎氏へ/バイセキ四〇ヶ代渡久地城間へ。一ヶ五〇銭宛 

昭和十八年九月二五日

残品整理、三十七点の代金受入

●第二次食糧増産ニ関する現金受払簿】(昭和十九年一月~十二月)

 

昭和十九年二月二一日

 耕地整理組合より一時借入資金受入

昭和十九年一月二五日

北港原排水路根掘請負賃 大城辰一郎氏へ払い/北港原小排水路根掘請負賃 宮城康二氏へ/港原排水路根掘請負賃 与那嶺俊松氏へ/仝上原仝 高良太郎氏へ

昭和十九年一月二九日

安田用水路請負内金 島袋清四郎氏へ

昭和十九年二月十二日

排水路土上げ請負夫賃 高良太郎外三名へ/仝上用坑尖請負賃 仲村利十郎へ/仝上用坑打請負賃 上間豊清へ

昭和十九年二月十三日

 三共支所より金子拝借の為借用紙三枚代仲尾次配給所

昭和十九年二月二二日

 南港原排水路請負賃上間一正君へ/現場用御茶代金城商店へ/工事用モッコ二二ヶ代 諸喜田福五郎氏へ/人夫賃、兼次、今泊代表 比嘉徳次郎氏へ/現場用御茶代諸志支所へ/排水路用坑木代平敷、大城重助氏へ/北港原排水路坑打請負賃 上間豊生氏へ/坑木代平敷 大城盛助氏へ/坑木代字諸志 大城豊八氏へ/直営人夫賃代表 内間利吉氏へ/坑木運搬賃 内間松太郎氏へ/北港排水幹線切取 内間松太郎氏へ

 昭和十九年三月二日

 三共支所より一時借入金/耕地組合より一時立替一千円也借入、依て仝組合へ利息支払(自二月二一日~至三月二日)四二日分 日歩一銭五厘/仝組合より一借入金本日返済/用水路請負金内渡 島袋源四郎氏へ払/書記給料二月分 仲宗根小次郎氏へ払/会計報酬二月分与那嶺蒲吉へ/副組合長報酬二月分 宮城仙三郎氏へ/坑木拵賃諸志 仲村利十郎氏へ/南港原排水切取夫賃兼次 上間豊生氏/土手側土上夫字兼次 上間豊生氏へ/伊盛切取請負賃仝人へ/兼次学校生徒土運搬の時間食用芋代諸志 内間雄次郎氏へ/人夫賃 内間利吉氏へ/監督日給二月分当間蒲二へ/耕地整理資金より一時借入金/當間蒲二氏へ現場監督手当/字諸志内 間利次郎氏へ坑木代 

昭和十九年三月八日

 モッコ代 玉城福五郎氏へ/粗朶十束代 大城丹後氏へ/二月分現場監督手当 比嘉徳次郎氏へ/現場監督日給二月分比嘉徳次郎氏へ/組合長報酬二月分 島袋松次郎氏へ/南港原シガラ架並サライ共請負賃 上間豊生氏へ/兼次学生の土運搬の時間食用芋代 當間蒲二氏へ 

昭和十九年三月二十日

 現場用茶代 金城店へ/祖乃竹代仝人へ/北港線のトイ木代 大城辰一郎氏へ/柄杓一本代 諸志支所へ/現場監督日給三月分 當間蒲二氏へ

 昭和十九年三月三一日

 三月現場監督手当 當間蒲二氏へ/三月分会計報酬与那嶺蒲吉氏へ/三月分福組合長報酬 宮城仙三郎氏へ

 昭和十九年四月一日

 三共支所より借入金/(三月二日)耕地整理組合より一時借入金返済/書記給料三月分仲宗根小次郎氏へ

 昭和十九年四月七日

北港線土揚請負賃 上間豊生氏へ/仝上粗朶運搬賃字兼次 上間清喜氏へ/粗朶運搬賃 大城□後氏へ/北港線粗朶架請負上間豊生氏へ/現場監督日給比嘉徳次郎氏へ/仝人三月分手当金

 昭和十九年四月八日

 組合長報酬三月分/現場監督手当四月分比嘉徳次郎氏へ/仝人四月分日給/小使代理三日分夫賃 宮城サキ様へ/坑木運搬並粗朶運搬夫賃字兼次上間清喜氏へ/坑木打込賃上間豊生氏へ/粗朶架請負賃仝人へ

昭和十九年五月一日

 会計報酬四月分与那嶺蒲吉へ

昭和十九年五月二十日

 今帰仁青年学校先生の慰労費御肉代 仲宗根小五郎氏へ/仝上用酒代与那嶺支所へ/組合長手当四月分 島袋松次郎へ/御茶代諸志支所へ/今帰仁青年学校出動の時、夫賃代表 大城辰一郎氏へ/港上原の土代(埋土用)字諸志 内間梅次郎氏へ/モッコ用藁代字諸志仝人へ/兼次国民学校長比嘉徳仁氏へ謝礼金として/青年学校生出動の時、指導者に晩食用 内間梅次郎氏へ/青年学校生手伝人夫賃 島袋カナへ/青年学校生御ヤツ用甘藷代 宮城仙三郎氏へ/御茶代諸志 金城店へ/薪代 宮城カナ様へ/四月分副組合長報酬

 昭和十九年六月一日

 五月分書記給料 仲宗根小次郎氏へ/五月分会計報酬 与那嶺蒲二氏へ/今帰仁青年学校五日間出動の時、謝礼金として支払/第二回今帰仁青年学校生及兼次国民学校出動の時、先生の御礼用品代/五月副組合長報酬 宮城仙三郎氏へ

 昭和十九年六月十一日

 工事人夫賃 代表 内間松太郎氏へ/五月分日給 比嘉徳次郎氏へ/五月分手当仝人へ/縄二垳代字諸志 高良太郎氏へ/測量用坑木 大城豊八氏へ/測量用坑木代 大城豊八氏へ/土間打用板代 玉城嘉助氏へ/今帰仁青年学校生出動の時、慰労として玉菜代 上間嘉助氏へ

昭和十九年七月一日

 六月二四日評議員会の時、御茶一個代 金城店

昭和十九年七月二日

 工事費補助金受入/県負担金村農業会書記喜屋武甚堅氏へ/郡負担金仝人へ/懇談会費村へ 同人

昭和十九年七月三日

 三共支所より借入金元金二千円返済利息金三七円二十銭 印紙代五二銭/仲宗根書記へ六月分給料/会計給料六月分 与那嶺蒲吉氏へ

 昭和十九年七月四日

 土地改良第二次検査の為待機の時、諸志支所に於酒四合代

 昭和十九年七月二九日

 六月分手当金比嘉徳次郎氏へ/六月分工事人夫賃二五日分 比嘉徳次郎氏へ/工事検査の時技手の食費/本工事へ貸金/南港北港工事人夫賃 宮城康二外六名へ/六月分手当 比嘉徳次郎氏へ/六月分工事人夫賃二五日分 比嘉徳次郎氏へ/工事検査の時、枝手の食費

 昭和十九年九月十五日

 本工事へ賃金返済本日受入

昭和十九年十一月二日

 昭和十九年増産補助金/昭和十八年度用水路補助金

昭和十九年十二月六日

  出納検査済み 印


●現金受払簿(今帰仁村西部耕地整理組合)(昭和十九年十二月~仝二十年三月))


「会計出納簿」(昭和十八年度)、「増産隊作業ノ時受払簿」(昭和十八年九月)、「現金受払簿」(昭和十九年十二月)、「会計出納簿」(昭和十八年以降)がある。ここでは十・十空襲後の「現金受払簿」(昭和1九年十二月~同二十年三月)から戦中の最中の様子を「摘要」(受入額・支払額・残額もあるが略)から紹介してみる。

【昭和十九年十二月七日】

 前帳簿尻より受入金/型板買入の為比嘉徳次郎より一時借入金利息仝人へ/丁張用縄一垳代 内間又四郎氏へ/比嘉徳次郎氏へ日給六日分支払い/仝人へ七、九、十、十一月五ヶ月分手当支払/十二月五、六日出納検査の時、小使料及び莚外二点 島袋ナハ様

【昭和十九年十二月二十日】

 仲吉技手現場検査の為御登来の時肉二斤代 宮城トミ様へ

【昭和十九年十二月二四日】

 セメント保障金 仲宗根孝徳より四十口の分受入一口に付三、五宛/組合長報酬 島袋松次郎氏へ、昭和十九年九、十、十一、十二、四ヶ月払/昭和十九年年末慰労費/十二月分書記給料 仲宗根小次郎氏へ/書記 仲宗根小次郎氏名護へ事務打合の旅費/御茶代金城商店へ/十二月二七日事務打合の為名護出張旅費/十二月分手当として 比嘉徳次郎氏へ払/副組合長報酬十二月分 宮城仙三郎氏へ/十二月分借家料 島袋ナヘ払う/當間蒲二へ現場監督日給二日分/会計給料十二月分 与那嶺蒲吉へ支払/臨時人夫賃 島袋ナヘへ支払

【昭和二十年一月十五日】

 現場監督手当十二月分 比嘉徳次郎へ/帳簿整理の時日給八日分 比嘉徳次郎氏へ支払/新聞料十一月分/眼鏡橋下排水路両側土羽打工事請負賃 久田友行へ払

【昭和二十年二月一日】
 借家料昭和二十年一月分島袋ナヘへ支払/昭和二十年一月分書記給料 仲宗根小次郎へ支払

【昭和二十年二月十二日】

 昭和二十年一月分会計給料 与那嶺蒲吉へ支払/組合貯金利息受入三共支所より/副組合長報酬一月分 宮城仙三郎へ

【昭和二十年二月二二日】

 眼鏡橋請負工事内金として 島袋弥四郎へ/電気料一月二、三月三ヶ月分 仲村静夫へ/昭和二十年二月二一日仝二二日分賦金徴収の茶代 島袋吉茂へ/仝人へ二日間人夫賃/崎山 上間森助より十七年二期分賦金受入/字諸志 山城幸重ヨリ十八年分分賦金受入/仲尾次 仲本弥二郎より十七年二期分受入/仝人より十八年分受入/高良森蒲十七年二期分納/山城幸重より十八年分受/諸喜田福五郎より十八年分
  (以下略)

【昭和二十年二月二五日】

 
仲宗根庄五郎へ農地代支払/仲宗根蒲吉より昭和十七年一期/山内昌より十七年二期分/仝人よい十八年度分受入/
   (以下略)

【昭和二十年三月一日】

 昭和二十年二月分会計給料与那嶺蒲吉へ

【昭和二十年三月二二日】

 三月二二日組合会費用弁償島袋松次郎外十一名へ/第二号橋渠請負賃金の内金島袋源四郎へ

 (この帳簿は、ここで終り)

2020年10月12日(月)

 大宜味村塩屋の海神祭と神アサギの件で大宜味村まで。過去にまとめと大宜味の神アサギや海神祭を思い出すことに。「大宜味村の神アサギ」参照
 猪垣の入口ある六田原展望台、そこから塩屋湾を眺める。

 
    ▲田港の神アサギ         
  ▲田港の神アサギ(2017年3月撮影)

 
 ▲屋古の神アサギ(2017年3月撮影)      ▲屋古の神アサギ(2020年10月12日撮影)

 
 ▲六田原展望台から(塩屋湾)       ▲今日の会議は塩屋公民館

2020年10月11日(

 近世の宿道(スクミチ)の運天番所への出入り口。昨日、草木の伐開をし道筋を開いてみた。一度、田空整備事業で整備した跡地、それでも草木や蔦かづらで通行止め。途中、ムラウチ集落の入口の跡を確認。道筋は荷車が往来した時代である。

 旧道の案内を済ませ、時間があったので大北墓まで。以前から気になっていた墓庭の石碑。『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)に「城内(墓庭)に石碑あり古老の説に曰く該碑は六七十年前迄守立せしが
外国(オランダ)船入港後遂に之を認めざるに至れり、されば多分外人の破壊を虞れ当時の番所員が抜き取りて隠蔽し遂に埋没せしならんといふ。」とある。碑の前面に『具志川家家譜』同様、墓移葬(乾隆26年:1761年)のことが彫られている。島袋源一郎氏は「明治四十五年四月廿七日(旧三月十一日)に大北墓の修理せし際その内部を伺いたるに」と調査をしている。その時には墓庭の石碑は失われていたとみられ、『国頭郡志』執筆時(大正8年)も石碑はなかった。現在ある碑の裏面に「大正十三年・・・
具志川ウト」と判読できる。大正十三年に再建されたことがわかる。この墓碑は花崗岩である。大正十一年建立の源為朝公上陸之趾の碑も花崗岩である。二年後の大正十三年の「運天隧道」の開通、同年の大北墓の再建など一連の時代の流れの渦中にあったことが伺える。
 (後面の碑文は摩耗が進み判読が困難、一字一字拾って行くと読めそう。時間がなくて。それと蚊に好かれて・・・)

 旧道の集落内の入口の対峙した二つの壕、荷車の回転場所など、運天番所(役場)、百按司墓、大北墓、唐人の収容所、大和人墓、バイル・ホール、ぺリー一行、オランダ艦船の来航、対岸のオランダ墓、島津斉彬の幻のフランスとの貿易構想、海軍基地など、運天の集落、運天港を巡って数多くの歴史的な出来事が彷彿してくる。


  
▲乾隆26年(1761)運天に移葬された大北墓    ▲大正13年に花崗岩で再建されて石碑

2020年10月10日(土)

 数人の方々と運天の村内(ムラウチ)集落への道筋の草刈りをする。大正13年に運天隧道が開通するまで集落内(番所・港)への道(スクミチの運天番所の終点)である。集落内に番所(後役場)・在番が置かれ、また上納の集積地、漂着唐人の収容所、外国船の往来など琉球の歴史の出来事を彷彿させる地である。その集落内に出入りする陸上からの道筋の確認である。道筋を伐開しながらいくつかの発見があった。明日は、大正11年に開通した「運天隧道」100年の祝いがあるようだ。運天隧道の開通は旧道との別れであり、車時代への突入である。運天番所(役場)は運天隧道開通以前の大正5年である。役場が仲宗根に移転する理由となった興味深い記事がある。運天については、「運天の歴史」「山原の港」として報告したことがある『なきじん研究』3号、9号に収録。

 運天の歴史(もくじ)
 1. 運天(村)の表記の変遷
 2. 源為朝の運天上陸伝説
 3. 『海東諸国紀』「琉球国之図」の「雲見」
 4. 運天の百按司墓
 5. 薩摩軍の琉球入りと今帰仁(連天港)  
 6. 大北墓と今帰仁按司(北山監守)  
 7. 運天の大和人墓
 8. 仏人の運天来航とオランダ墓
 9. 運天の無名の古墓群
10. 今帰仁間切(運天)番所・在番
11. 地域史料からみた運天(港・番所)
12. 明治以後の運天
 結びにかえて一今後の課題一
運天関係の歴史年表

 ▲運天のムラウチ集落(仲原作図)       ▲故松崎氏イラスト(唐人の収容所)


▲ムラウチへの旧道       ▲大正13年開通の運天隧道   ▲修復直後のトンネル(平成7年)


2020年10月9日(金)

 運天の資料の問い合わせがあったので企画展の展示資料から。
(この展示は学芸実習で行なったものである。当時、関わった学生達はどうしているのかな? 広島県、関西、金沢の学生達数名と職員)

【歴史を秘めた運天港】
(企画展から)





2020年10月8日(木)

 今帰仁村の運天は「琉球の歴史」が凝縮した地だと主張している。今帰仁にこだわるなら、1665年以前は今帰仁グスクを中心とした歴史、1666年に番所は運天に置かれ行政の中心が今帰仁グスクから運天に移り、大正5年に役場が仲宗根へ。その一端となる「源為朝公上陸之趾」碑の建立除幕式の様子を知ることができる新聞記事や学校の日誌を紹介。以前、除幕式に参加された方の文やウタを紹介したことがある。

 為朝公上陸碑(大正11年)より二年後に「運天隧道」が開通する。その資料は、改修前の「運天隧道 大正十三年十一月竣工」とあった。別資料を見つけることができた。

 ・大正5年  今帰仁役場(番所)が運天から仲宗根に移転。
 ・大正9年 坂口総一郎 古宇利小学校視察
 ・大正10年 「忠魂碑」の建立
 ・大正11年 源為朝公上陸之趾の碑の除幕式
 ・大正13年 大北墓の碑(再建?)
 ・大正13年 運天隧道(トンネル)の開通
 ・昭和4年  山北今帰仁城祉碑
 ・平成7年  改修直後の運天トンネル

【源為朝公上陸之趾碑】(大正11年)

 大正11年
  六月廿三日源為朝公上陸紀年碑除幕式挙行スルニツキ児童三学年以上
  職員(古宇利校)全部ニテ引率シ運天ノ式場ニ赴ク
  式ノ主催ハ国頭郡教育部会ニテ同会長タル田村浩郡長ハ
  定刻トナルカ招聘セシ波ノ上宮司タレシ鎮魂祭ヲ行ハレシ
  天底小学校女児童(姓名不明)ノ手ニヨリ紀年碑ハ除幕ヲ
  行ハレタリ




     ▲昭和35年頃の運天港

【運天隧道】開通(大正13年)
 
・十一月廿九日 運天隧道開通式挙行ニツキ安慶名校長ハ下運天ヘ赴ク
翌日の十二月一日、
 ・秋季原山及差分式並招魂祭アリテ余興トシテ村内各校ノ遊戯ト青年処女議員役場吏員学校等
  ・・・・・

 運天隧道(トンネル)が開通するまで、運天集落(番所・役場)や港へはウケメービラ(お粥坂)を往来していた。翌十二月一日の原山勝負と招魂祭は隧道(トンネル)開通を祝ったものか。村内各校の遊戯、青年、処女、議員役場吏員学校等が参加。

 
▲『古宇利小学校日誌』より    ▲「運天隧道」(トンネル)開通まで往来した坂道(ウケメービラ)(仲原図)

 
▲運天隧道(大正11年開通)  ▲運天トンネル改修直後(平成7年)

2020年10月6日(火)

 PCの調子が悪く、更新できず。久しぶりに大宜味村史の編纂委員会へ。学校の日誌に今帰仁村の「忠魂碑」の除幕式について触れている。「仲原馬場」で小運動会を行なっている。大正11年に立てられた「忠魂碑」は地名として今も遺っている。現在は今帰仁村の慰霊塔が建立されている。「一軍人の仲原馬場での村葬」の後方や生徒達の後方に見えるのが「忠魂碑」である。

▲「忠魂碑」前で撮影              ▲「忠魂碑」の除幕を記す『古宇利小学校日誌』 

一軍人の仲原馬場での村葬と墓 (平成3年3月号)(「写真に見る今帰仁」より)

  この写真は昭和1311月7日、仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬の場面である。乙羽山の遠景がみえることから、祭壇のある場所は仲原馬場中央部の南側と見られる。石段の上にテント屋根の祭壇がつくられ、祭壇の中央部に写真がかざられ、下の段には果物が供えられている。祭壇の横には「村葬の式次第」が張られ、また両側には長い竹竿にノボリが20本余り数えることができる。 前方の看板には、兼次校・婦人会・字民・今帰仁校などとあり、村民あげて葬儀を行なったことがわかる。丸刈りの少年や大日本国防婦人会のたすき掛けの婦人の姿などがみえ、写真の左側には団体旗とみられる旗と、帽子に詰襟の制服姿がみられる。

戦時体制下の波が山原の隅々にまで行きわたり、一軍人の葬儀以上に全体を流れる軍事一色の不気味さが漂ってくる。大日本国防婦人会は昭和17年に愛国婦人会や大日本連合婦人会などとともに大日本婦人会沖縄支部に統合された。婦人たちも映画会や講演会を開いたり、戦没者の報告や出征軍人の送迎から慰問品などの発送などの活動をした。また、生産の増強や貯蓄を積極的にするなど挙国一致運動を進めたりした(『沖縄近代史辞典』)。大日本国防婦人会のメンバーが、仲原馬場での行なわれた一軍人の村葬へ列席したり遺族に物品を贈るなどの活動をしたのである。
    ────────────────────
    ・昭和6年  満州事変を引き起こす。
    ・昭和12  日華事変となる。
    ・昭和13  国家総動員法を公布する。
    ・昭和15  大政翼賛成会が発足する。
    ────────────────────
  このような時代の流れの中で、昭和13年に仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬は単なる一軍人の葬儀ではなく、戦時下に組み込まれていった一時代を写しだしているのである。下の写真は、村葬を行なった一軍人である湧川高一の墓を造っている最中である。ピータイ(兵隊)墓とも呼ばれ、今帰仁村で外地で戦死した三人目が湧川高一であったという。その墓の前を通るときによく敬礼させられたという。その墓は今でも謝名のトーヌカ付近にある。

  墓を造っている中に右手後方の棒を持っているのが湧川喜正(故人)、諸喜田平吉(故人)兼次吉正(故人)、玉城徳助、大城善盛、湧川高信(故人)、幸地良徳(故人)、玉城権五郎(故人)、湧川喜福(故人)、大城文五郎(故人)などの顔ぶれが見られる。当時の墓づくりの道具の一端を写真にみることができる。バキに綱を通して二人で担ぐ、すでにセメントが出ている、スコップや三つ歯や一枚歯のクワなどがみられる。そのような道具で、当時としてはりっぱな墓を造っている。服装は個々まちまちで、年配の方々が着物、若者たちはズボンでほとんどが裸足である。モダンな帽子をかぶった方、ねじり八巻をした方、タオルをかぶった方など様々である。

  昭和13年頃の仲原馬場の松並木、この写真と比較してもわかるとおり、今では大木の松の数が少なくなっしまった。仲原馬場は、ある時代にあってはアブシバレーの会場であったり、そこで競馬をしたり、運動会をしたり様々な催物の会場になった所である。写真のように一軍人の葬儀の場としても利用された。イラン戦争が勃発している最中、仲原馬場の松はイヤな気持で世界の状況をながめているような気がする。 

 


2020年10月5日(月)

 オオゴマダラがやってきた(7月から三度目)。食草のホウライカガミの花の蜜をすっている様子。卵も産み付けるのかな。ゆらりゆらりの気分を味わいたいのだが、結構はやい。シャッターチャンスがなかなか。(ゆったりチョウを眺めている時間がないのだが) 動かない隣にあるパパイアもパチリ。

 

2020年10月4日(

 「操り獅子の導入」(平成21年) 


・今帰仁の歴史(通史編)(案)

今帰仁(北山)の歴史

(もくじ)

1.今帰仁(北山)城跡の位置と概況
2.今帰仁(北山)の時代区分
3.今帰仁のグスク時代の遺跡分布
4.今帰仁(北山)城跡内の出土遺物
5.山北王時代(13世紀末~1422年)
6.第一監守時代(1422~1469年)

(間切番所、今帰仁城、城下へ)
7.第二監守時代と今帰仁按司(北山監守)
 (1)第二監守時代(前期)
 (2)第二監守時代(後期)
 (3)間切時代
 (4)代々の今帰仁按司(北山監守)
8.薩摩軍の琉球侵攻と今帰仁城
9.今帰仁関係の辞令書
 (1)今帰仁関係の辞令書
 (2)辞令書からみた今帰仁
 (3)今帰仁間切の分割
10.今帰仁(北山)城跡と祭祀
11.今帰仁城旧城図と山北今帰仁城監守来歴碑記

(間切番所の運天設置)

12.今帰仁間切の組織
 (1)今帰仁間切の組織
 (2)間切役人の職務権限・選任・資格・昇級過程
 (3)地頭代への昇級過程の事例
13.今帰仁間切と村(ムラ・シマ)の変遷
 (1)「今帰仁」の表記の変遷
 (2)今帰仁の領域の変遷
 (3)今帰仁の村(ムラ・シマ)の変遷
  (イ)第二監守時代(前期)の村(ムラ・シマ)
  (ロ)第二監守時代よ(後期)の村(ムラ・シマ)
  (ハ)間切時代の村(ムラ・シマ)
  (ニ)今帰仁村時代の字(区)
おわりに

 今帰仁関係の歴史年表

・今帰仁の歴史(論述編)(案)

  もくじ作成中

2020年10月3日(土)

 
『今帰仁村史』収録の画像の撮影。久しぶりに明治の図に見入る。数多くのことを学ばせてもらい、数本の論文も公にしてきた。再度、深読みをすることに。


 ▲平敷村畧図▲国頭郡今帰仁間切平敷村字小浜原▲今帰仁間切勢理客客村全図


・印部石の原と「平敷村略図」と現在の小字

 「平敷村略図」がいつ頃の図面なのか、年号が記載されていないためはっきりしないが、明治32年以前の図面とみられるタイトルには「平敷村略図」とのみある。図面の紙は楮紙で本土産だとのご教示を受けている)。

 「平敷村略図」は平敷村と周辺村との境界を測量し、その内側に小字の線引きをした図面である。西側の崎山村との境から竿入(測量)(竿入)が始まり、海岸のミナト原(崎山)を起点に南下し、さらに上原から東側の謝名村境へと北上し海岸で終了している。「平敷村略図」から情報を読み取ると、東西南北、謝名村境、崎山村境が記され、凡例には赤色の道路、黒の破線の原境、赤い丸印の村境などが測量されている他、小字名や道路、それに家、松などの記載がある。境界線の部分に出てくる小字名は、ミナト原、・スガ原・渡川原・前田原・掟田原・山田原・ギミ原・上原・上サナ(上ザナ・上謝名)原・山出原・トチャ原・小浜原である。ミナト原が崎山、ゴミ原は崎山か仲尾次(グミの小地名がある)。上ザナは謝名、平敷にもウヘテナ(上ザナ)原がある。平敷村の周辺は不明な四地点を除いた距離は2,288間5合(約4.6km)である。

 「平敷村略図」と名の示す通り、平敷村の周辺と小字の境界などを概略的に作成した図面である。略図面ではあるが、旧原域や原名や村境や印部石との関わりもあり、今帰仁村内で確認されている印部石の整理をしてみる。数個の増あり。 

・国頭郡今帰仁間切平敷村小字図(7枚)

  ① 国頭郡今帰仁間切平敷村字戸茶原 筆数百三十九筆
② 国頭郡今帰仁間切平敷村字前田原
③ 国頭郡今帰仁間切平敷村字運田原
④ 国頭郡今帰仁間切平敷村字山出原
⑤ 国頭郡今帰仁間切平敷村字越原
⑥ 国頭頭郡今帰仁間切平敷村字沢原
⑦ 国頭郡今帰仁間切小浜原


2020年10月2日(金)

 「沖永良部島と北山」の原稿ほぼまとまる(20頁)に納める。もうちょい。北山のハニジ・ミン・ハンアンジの時代と次男を送った真松千代、山北三王が「明国」と交易したことが沖永良部島にどのような影響を与えたのか、三山が統一された時代(中山と沖永良部島)、尚真王の頃の祭祀が組織、1609年の薩摩の琉球侵攻、その後1625年の琉球的なものの禁止。それらをくぐり抜け沖永良部島にどう遺っているか。そして祭祀のシニグが世之主ロードとして今に息づいている。


2020年10月1日(木)

 今朝急に秋の気配。10月のタイムカード押し。涼しさも伴って緊張感が走る。一昨年の秋、出雲大社や姫路城などを旅している。今年は1月以降県外へは全く行けないでいる。まだまだ行けない状況が続く。

 さて、今日か体に鞭打って楽しく進んでいくか。

北山の時代と沖永良部島

はじめに

 北山の時代と沖永良部島は「系統図」に掲げてあるように、中北山」が滅ぼされ、怕尼芝(パニジ)が北山王になった時、怕尼芝の弟の真松千代を沖永良部島へ、三男を与論島へ送り込んだことから、北山と沖永良部島との結びつきがあると。本稿では中北山の時代と三北山王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代を中心に、三山統一後の琉球と沖永良部島、1609年の薩摩の琉球侵攻後、琉球的なものの廃止、それでも遺る琉球的なノロ制度、遺品、おもろ、辞令書、墓、祭祀などについて触れることにする。 

1、北山の四時代と発掘調査からみた区分 

第Ⅰ期 (13世紀末~14世紀初頭)

 初期の頃の建物は、敷地に穴を掘って柱を立てたアナヤーと言われ掘立柱の建物でした。石垣の城壁はまだなく建物のまわりに柵をめぐらし、外的の浸入に備えていたと見られる。グスク時と十三世紀末から十四世紀初頭にかけての中国陶磁器が見つかっている。

①土留の石積み
②版築造成
③柵列跡
④堀立柱建物
⑤石敷き

第Ⅱ期(14世紀前半~中頃)(1300~1350年) (中北山の時代)

 今帰仁城を代表する古世代から中生代にかけての石灰岩の石垣が築かれたのはこの頃である。主郭の北側に基壇をもうけ、その上に南向きの正殿が築かれ、グスクとしての姿が整う。基壇の回りには回廊がめぐらされていたようだ。以上のことから正殿は東西にのびる本格的な翼廊のある建物であったことがわかる。

  ①石積みの城壁
  ②翼廊付基壇建物跡
  ③方形石組遺構
 ④第2号土坑から青磁碗6点同皿1点
 ⑤南門

 今帰仁グスク内の発掘の第Ⅱ期(14世紀前半~中頃)(1300~1350年)にあたる時代、「石積みの城壁」が確認されている。それ以前は、土留の石積み、柵列跡が確認されている。石積みの城壁を築いたとみられるオモロがある。

 しよりゑとのふし
  一 きこゑ みやきせん
    もゝまかり、つみ、あけて
    かはら、よせ、御くすく、けらへ
   又 とよむ、みやきせん (870) 

期(14世紀後半から15世紀初頭)(1350年~1416年頃)

 中国の『明実録』に登場する怕尼芝(ハニジ)・珉(ミン)・攀安知(ハンアンジ)の頃で明国(中国)との交易が行われ、今帰仁グスクがもっとも栄えた時期である。第Ⅱ期の翼廊付の期壇は埋められ、主郭が平らに造成され現在の面積に達している。正殿も礎石のある建物に変わり、もう一棟が東よりに並んで建てられたと考えられている。

①第期 造成層
 ②礎石建物跡
 ③階段遺構  

2、北山の時代区分

 1.前北山時代(先北山、昔北山とも言う)

  琉球開闢から1100年頃まで。 

 2.中北山時代(中昔北山ともいう)
      西暦1100年頃から1300年頃まで。

「中北山」の時代の興亡の様子をあげてみる。「中山世譜」及「球陽」に依れば玉城王の代、明の延祐年間(1314~1320)国分れて三となり、今帰仁按司は山北王と稱して山北諸郡を從へたとあり、洪武16年(1384)明の太祖使を遣はして三王兵戦を息めよと諭さしめたので中山王祭度・山南王承察度・山北王怕尼芝各々詔を奉じて兵を止め使を以て恩を謝した。依て太祖三王に衣幣を賜う。山北の入貢は之より始まる。云々

 怕尼芝は元中9年(1392)に薨じ珉之に代り、應永3年(1396)珉亦没して子攀安知立ち、應永23年に至り尚巴志の指揮する連合軍に包囲せられ遂に滅亡した、四代九十余年と稱する。「中山世譜」に云う、

山北王今帰仁在位年數不詳、怕尼芝在位年数不詳、珉在位五年、攀安知在位21年、元の延祐年間に起り明の永樂14年に尽く、凡そ四王90余年を經たり。

山北王の明国入貢は弘和三年(1383)中山察度王の時怕尼芝の遣はしたのが、史上に現れた始であるが怕尼芝に亡ぼされた。今帰仁按司の子孫と称する家に支那織の衣類などが數種傳わっているのから考へ又「中山世譜」に怕尼芝の前に山北王今帰仁とあるのから察すれば北山王国も怕尼芝王以前より支那交通をなし、今帰仁の世の主が其の子弟を羽地・名護・国頭等に配置して全地方を統一し事実上の北山王となっていたのであろう。

偖て「野史」に依って怕尼芝以前の今帰仁按司を探るに、昔天孫氏の子弟今帰仁に封ぜられてあったが、利勇反逆の際に亡び、次に義本王の弟が今帰仁按司となり数代の後嗣子なき爲め姻戚なる英祖王の次男を養子となしたという。

予、「野史」に基きて調査するに瞬天系統以前に就きては全く之を確めることが出来ないけれど、英祖系統に就きては其の記事と大同小異の伝説が各地の旧家にあり且種々の遺物も保存されているのから見れば、必らずしも無稽の説とは思はれず。

此の英祖王の子で今帰仁按司になった系統を俗に仲北山と呼んでいる。今「中山世譜」の記事と総合すれば矢張りそれ以前に北山王と稱する今帰仁按司が数代あったことは明白である。

仲北山は二三代の後其臣本部大主(大腹とは違う)の謀反に遭って一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取返したが(「北山由来記」1383には此の若按司を丘春としてある)不運未だに尽きず、一、二代の後再び一族なる伯尼芝の爲めに打滅ぼされてしまた。

伯尼芝(長男)が中北山を滅ぼし、北山王となり、次男の真松千代が沖永良部島、三男の与論世の主(王舅)が与論島を統治していく流れである。

 3.後北山時代(1322~1416年)

怕尼芝(ハニジ)が中北山を滅ぼしてから珉、攀安知(ハンアンヂ)まで。中北山を滅ぼした怕尼芝は弟(二男)の真松千代を沖永良部島へ、三男を与論島へ。そこから沖永良部島と与論島へとつづく。(与論町史はハンアンジの次男としてる?)

 この時代は三北山王の時代である。三北山王の時代「明国」との交易があり、沖永良部島では、一時期真松千代の時代と重なる。

 「怕尼芝は弘和三年(1838)より初めて明国に入貢し、与論・永良い部の諸島迄征服し北山王国の基礎を固めた人である。沖之永良島には今帰仁王の二男真松代王子の城址があり、内城は子孫がいて、世之主御由諸という記録を保存している」(『伝説補遺沖縄歴史』(110頁)

・山北三王時代と明国との交易

 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。
 山北王怕尼芝は洪武十六年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。

 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。

 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割は、になっていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数に於いても。

   (詳細は略するが、交易の回数は怕尼芝が七回、珉一回、怕尼芝十二回である。

 『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度三六年(1385)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。

 攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。

(以下工事中)