沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
               今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)
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2020年2月
                            1月(先月)

帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録)
2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録)
2012年05月の動き(過去記録)

琉球・沖縄の地図(講演レジメ)
徳之島踏査 (画像略)
今帰仁の神アサギ
山原の神アサギ

山原の御嶽(ウタキ)と村と集落
今帰仁の墓の調査

今帰仁の印部石  


2020年2月29日(土)

今帰仁の印部石」の追加と整理、過去に報告した「元文検地と今帰仁」(追加書改)を近世の歴史に組み込むことに。


2020年2月28日(金)

中北山の時代(『北山時代(北山史話)』新城徳裕

  1100年頃から1300年頃までのおよそ二百年間を「中北山時代」という。『野史』によれば、源爲朝の子舜天王の二代目舜馬順煕王の二男が世の主となって今帰仁城主に封じられた。ところが、その二世は嗣子がなく、英祖王の子湧川王子を養子として跡をつがせたがその後今帰仁世の主の代になって、臣下、本部大主に攻められて城を奪われるその直前、城主はすでにこの世を去っていたが、生まれたばかりの嗣子は北谷間切砂辺村へ落ちのび、下人に身をやつして仇討ちの機会を待った。

 十八年後、あちこちに散らばっていた旧臣が大宜味に集って旗上げの準備をしていることを聞き、嗣子は直ちに大宜味へ行ってそこから精兵数千を率いて今帰仁城を攻め、本部大主を討って城を取り返した。

 この嗣子がいわゆる「北山由来記」に出て来る丘春(オカハル)幼名千代松君である。

 その後、一族の怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされ、ここに中北山は滅亡する。初代の今帰仁世の主から六代目のときのことであった。なお、絶世の美女志慶真乙樽の忠節とか、霜成の九年母などという話は皆この「中北山時代」の伝説である。

 今帰仁の住民は殆ど中北山の系統で、英祖王の子孫だと言われ、護佐丸も同祖だというので七年目毎に中城や、伊祖城に拝みに行く一族が多い。


2020年2月27日(木)

道の島の琉球的ものの禁止(奄美を見る視点)(過去の講演メモ)

 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。

   ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
    ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を
          琉球から請けることを禁止する。(寛永19年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖
          視するようになる。(亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に
          謁して辞令を貰っていたという) 
    ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁
         する。
    ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
    ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。
 
 【口語訳】(蔡温の独物語)

 毎年薩摩へ年貢米を納めるのは當琉球にとっては大そう損亡のように表面は見えるが、詰まりは當国の大へんな利益になっている。その次第は誠に筆紙に尽くしがたい理由が存する。というのは昔當国は政道もそれ程確立せず又農民も耕作方面に油断があり何かにつけ不自由でいかにも気ままの風俗がわるく蔓延、それに世がわり(革命)騒ぎも度々あって万民が苦しんだいきさつは言葉で言いあらわせない位だったが、薩摩の命令にしたがってから此の方は風俗も善くなり農民も耕作方にひとしお精を入れるようになり国中が何事も思いのままに達せられ今さらめでたい時代になった。
 これは畢竟薩摩のお蔭でかように幸福になったのであって筆紙に尽くしがたい厚恩と考えなければいけない。この事は「御教条」にも詳しく記しておいた。

  ・16世紀に制度化された神女(ノロ)制度が、地域にどのような文 化的な影響を与え、現在ど

  のように残っているのか。

  ・ノロ制度は首里王府は間切や村など末端まで統治する役目を果たしている。

  ・神行事は、今でいう休息日に相当する。税を取られる立場からすると、神行事をやることで休

  息日を確保することになる。

  ・ノロ制度が敷かれた頃、尚真王は各地のグスクに居住していた按司を首里に集めるという中

  央集権国家を形成した。

 ・ノロ制度を敷いたことで、首里王府を中心として文化が形成され、同時に地域の文化が首里化

  していく。しかし、ノロ制度が敷かれる以前からムラ・シマが持っていた伝統的な祭祀は遺して

  いく。

 ・地域文化は歴史を踏まえてみていくことで、そのムラや文化の変遷や人々のものの考え方や

  生き様が見えてくる。


    今帰仁村今泊の海神祭(ウイミ)

2020年2月26日(水)


                           
 (肩書きは当時のまま)

 まずは、山北滅亡に関わる資料を集めることから。(工事中)

【山北王攀安知12)(北山滅亡の王)(1416年)

①洪武
29年(1396)正月己巳(10日)
  
琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に錠を賜う。

②洪武
29年(1396)十一月戊寅(24日)
  琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。
  是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

③洪武
30年(1397)二月丙戌(3日)
  琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。

④洪武
30(1397)十二月癸巳(15日)
  琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び硫黄を貢す。

⑤洪武
31年(1398)正月(8日)
  琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

⑥永楽元年(
1403)三月丙戌(9日)
  琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯衣服を賜いて以て国俗を変ずを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び臣に冠帯を賜う。

永楽2年(1404)三月己未(18日)
  琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。

⑧永楽2年(
1404)四月壬午(12日)
  
詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
  上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に
冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。

⑨永楽3年(
1405)四月丙寅(1日)
  琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・綵幣表裏を以てす。

⑩永楽
3年(1405)十二月戊子(26日)
  琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。

⑪永楽
13年(1415)四月丙戌(19日)
  琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。

⑫永楽
13年(1415)六月辛未(6日)
  琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。


(山北王1416年に滅亡)


【主な参考文献】

「北山の興亡と其の裔」(『伝説補遺 沖縄の歴史』(昭和7年)島袋源一郎著108頁
 『中山世鑑』
 『琉球国由来記』(1713年)
 『中山伝信録』(1721年)
 『球陽』(読み下し編)昭和49年初版
 「真境名安興全集三巻」(33頁)
 『真境名安興全集』(第四巻)(334頁)
 『南島風土記』(東恩納寛惇著)(389頁)昭和25年発行
 『琉球百話』島袋源一郎著(昭和16年)(100頁)
 「伝説を探る」新聞記事(新聞名?)
 『中世南島通交貿易史の研究』小葉田惇著 昭和43年発行
 『明実録』
 その他


『中山世鑑』三巻 40 41

・・・・・・去る程に山北王某を招いてニの丸へ引下り神代より城守護のイベとて崇め奉りし盤石あり其の前にて宣いけるは、今はイベも神も諸共に冥土の旅に赴かんとて腹搔き切り、反す太刀にて盤石イベを切り破り後様へ五町余りの重間河へぞ投げ入れ給う。 

【嘉靖14年大明へ謝恩の使者あり】(1537年)

 金靶鞘腰刀二把
 銀靶鞘腰刀二把
 紅漆螺鈿鞘鍍金銅結束袞刀 二十把
 紅漆鞘鍍金銅結束腰刀 二十把
 紅漆螺鈿鍍金結束腰刀 二十把
 紅漆鞘鍍金銅結束腰刀 四十把
 黒漆鞘銅結束腰刀 八十把

【嘉靖18年慶賀】(1539年)

 金靶鞘腰刀 二把
 銀靶鞘腰刀 二把
 鍍金銅結束紅漆靶鞘袞刀 十六把
 鍍金銅結束紅漆鞘沙魚皮把腰刀 十把
 金結束黒漆鞘沙魚皮把腰刀 二把
 鍍金銅結束漆把鞘袞刀 十二把
 鍍金銅結束漆鞘魚皮靶腰刀 十把 


『琉球国由来記』(1713年)(永楽20年尚巴志即位の条)

「北山の滅亡」と千代金丸
 去る程に山北王、今は是までぞ。今一度、最後の会戦して、心よく自害をもせんとて、赤地の錦の直垂に、火威の鎧を着、龍頭の甲の緒をしめ、千代金丸とて、重代相伝の太刀をはき、三尺五寸(約106cm)の小長刀を腋(ワキ)に挟み、花やかに鎧ふたる、兄弟一族、只十七騎、三千余騎の真中に懸入り、面も振ず、火を散してぞ、もみ合ける。

  (略)

 去程に、山北王、其の兵を招て、サノミ罪を作りても、何かせん、人手に懸んと、末代の耻辱ぞ
かしとて、二の丸へ引上り、神代より、城守護の、イベとて、崇奉りし、盤石あり。其の前にして、宣けるは、今は、イベも、神も諸共に、冥途の旅に赴んとて、腹掻切て、反す太刀にて、盤石のイベを切り破り、後様へ、五町(500m余)余りの、重間河(志慶真川のこと)へぞ、投入給。七騎の者も、思々に自害して、主の尸を、枕にしてぞ、臥せたりける。

【具志川家家譜の今帰仁旧城図のイベ】


『中山世譜』

 今に至り神石尚ほ存す。而して十字の開の跡あり。剣の名は千代金丸。沈みて重間河に在り後に葉壁の人之を獲。又城門外の一大石上に王の乗る所の馬蹄の跡あり。皆山北の古蹟なり。


『中山伝信録』(1721年)

 流れて水漲渓に至り、光天を挿す。伊平屋島の人之を獲て中山に献上ず、今王府第一の宝剣とす。


『球 陽』

 『球陽』の記す所によれば、巴志幼年の時、嘗つて与那原に遊び鍛冶屋をして剣を造らしむ。鐡匠農具を造ることに忙しく剣を造ること甚だ遅し、巴志屢々(しばしば)徃いて之を督促す。匠人詐つて巴志の面前に於いて剣を鍛錬して成る。或る日巴志此剣を帯舟遊びをなせるに忽ち大鱶踊上り舟将に沈没せんとす。巴志直剣を握りて突立つ、鱶怖れて逃げ去りしという。
 その頃本土の商船鉄塊を載せて与那原に来り貿易をなす。即ち巴志帯ぶる所の剣を見て瀕りに之を求めんことを欲し、遂に満載せし鉄塊を以て之を購う。巴志多くの鉄を得、兵器を造らず、悉く農民に分与して耕具を造らしむ、百姓感激せざるものなく、為に産業俄に興り民力充実するに至る。云々


「真境名安興全集三巻」(33頁)

【北山王自刃の宝刀】

 故小松下御至愛の北山王自刃の宝刀
 千代金丸
 刀身二尺三寸六分
は、明治42年の夏手入した当時の鑑定の大家今村長賀、関保之助氏が天下の至宝なりと折紙をつけたようである。
 尚家の由来書は史にある通りであるが、麹町の今村長賀、小石川の関保之助氏の折紙にはこう書いてある。
 千代金一口、作者不明拵への年代足利時代に属す。大切羽二枚完備せるは、他に類なき珍品なり。柄は短くして騎兵刀の様式を具へ頭槌形に成り能く握るに適す。柄糸の巻方古式にして頗る珍重すべし。別に柄袋を調整して覆ひ置くべきは勿論取扱すべて鄭重にして糸を損ぜざるよう心得肝要なり。
 ―頭菊紋の毛彫は想うに琉球特有の作ならん。京都の作りとは思われず。刻する所の大世の二字、尚泰久王世代所鋳大世通宝の銘文と字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号代世主にとるか。鐔猪の目の金の中、覆輪最珍也。
 鞘の熨斗付金に継目あるは帯取の跡なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。要之伝家の宝刀たるのみに非ず、以て天下の至宝とすべし。―刀身が二尺三寸六分、刀紋乱れ刃で裏と表にご本の腰樋(こしひ)がある。中心が三寸六分七厘で重さが九十六匁、目貫は金唐花で目釘また金無垢である。
 柄頭は頭槌形で菊紋も彫、ここに折紙で不思議がられている問題の「大世」この二字が彫まれている。・・・・
 千代金丸はただの一度もわれらの眼にふれようとはしなかったが東京で報知新聞社の名宝展に出展され世の宝剣家のすべてへ声をかけようとしている。不思議な機会が開かれたものといってよい。前後一度その手入れの時立合った人々は先代の尚侯爵夫妻と家令家職のもののほか前に来た鑑定者二人、研師の井上行造、杉本次郎、鞘師小堀政治との門人一名であった。 


 『南島風土記』(東恩納寛惇著)(389頁)に、

 伝に、古へ山北王、中山に滅ぼさるゝに當り、其の佩刀を取りて是れに投ず、後伊平屋島の人これを獲て中山王に献じたり、今侯爵尚氏に蔵する所の千代金丸これである。伝信録重金丸に作る。方音千代チユにひゝくからである。大島筆記をこれを承けて、「重金丸の事を尋しに、それは琉球王第一の宝剣にて王府の中に秘蔵してあり、霊徳あり、前方王府回録のありしにも、どうして出たやら、脇にうつり存て、無恙由なり」
 

【千代金丸

 刀身長 二尺三寸六分匁乱刃、表裏五本ノ腰樋有之
 中心長 三寸六分七厘、刀身重量 九十六匁、柄頭 頭槌形、菊紋毛彫大世ノ文字有之、目貫 金唐花、目釘金無垢、鎺(ハバキ) 烏銅、色絵菊紋散文字一字有之、縁 菊紋毛彫、柄糸 鶯茶、巻下地 萠黄金襴、鐔(ツバ) 木瓜形、烏銅色絵菊文散、鯉口 金枝菊高彫鞘 金慰斗付、小尻 鯉口ニ同ジ、帯取 金物無之。

(備 考)(390頁)

 千代金丸一口、作者不明、拵の年代足利初代に属す。大切刃二枚完備せるは他に類なき珍品なり。柄は短くして騎馬兵刀の様式を具へ頭槌形に成り、能く握るに適す。
 柄糸の巻き方古式にして頗る珍重すべし。頭菊文の毛彫は想うに琉球独特の作ならん。京都作とは思われず。刻する所大世の二字尚泰久王世代所鑄大世通貨の銘文ニ字尚泰久王世代所鑄大世通貨の銘文ニ字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号大世主に取るか。

 鐔猪の目の金の中覆輪最珍也。鞘の慰斗付金に継目あるは帯取の迹なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。要之伝家の宝物たるのみあらず。亦以て天下の至宝とすべし(今村長賀・関保之助両氏鑑定)。

 蓋し、この刀は尚巴志(1372から1439年)時代に盛んに支覇に輸出された金結束袞刀の一種であって、山北滅亡の前年に尚巴志の長孫尚泰久が生まれているから、後に尚泰久に伝えられ、泰久時代に多少の改装を加えて今日に至ったものであろう。


▲千代金丸(模造)今帰仁村歴史文化センター展示


※今村長賀

 今村 長賀(いまむら ながよし、1837年(天保8)土佐生まれ。1888年(明治14)宮内庁御用掛、1886年(明治19)、東京九段の遊就館取締りとなり武器甲冑の整頓、鑑別を託された。全国有名寺社旧家の武器を調査、刀剣鑑定家としての名声をあげた。晩年、宮内庁御刀剣係となる。蒐集した刀剣は3000振りと言われている。1910年(明治43)12月27日、東京麹町で死去、享年74。

※関保之助(せき やすのすけ)

 1868-1945年 明治~昭和時代前期の有職(ゆうそく)故実研究家。慶応4年4月10日生まれ。有職故実の資料,古武器の収集・研究家として知られた。明治28年帝室博物館はいり,昭和8年東京帝室博物館芸委員。母校東京美術学校(現東京芸大)や京都帝大でもおしえた。昭和20年5月25日死去。78歳。江戸出身。 


『南島風土記』(東恩納寛淳著:昭和25年版 389頁

 伝に、古へ山北王、中山に滅さるゝに当り、その佩刀を取りて是に投ず、後侯爵尚氏に蔵する所の千代金丸これである。伝信録重金丸に作る。

方音千代チュにひゝくからである。大島筆記これを承けて、「重金丸の事を尋しに、それは琉球王第一の宝刀にて王府の中に秘蔵してあり、霊徳あり、前方王府回録のありしにも、どうして出たやら、脇にうつり在て、無恙由なり」


2.千代金丸・治金丸・北谷菜切の鑑定書(明治42年)
 イ、千代金丸
  刀身長    二尺三寸六分文乳刃、表裏   五本の腰樋有之
  中心長    三寸六分七厘
  刀身重量    九六匁
  柄頭     頭槌形、菊文手彫大世の文字有之
  目貫     金唐花
  目釘     金無垢、
  鎺(はばき) 烏銅、色絵菊文散文字一字有之,
  縁      菊文毛彫
  柄糸     鶯茶
  巻下地    萌黄金襴、
  鐔(つば) 木瓜形、烏銅色絵菊文散
  大切羽    色絵菊文散
  鯉口    金枝菊高彫
  鞘     金慰斗付
  小尻    鯉口に同じ
  帯取    金物無之

【備 考】

 千代金丸一口、作者不明、拵の年代足利初代に属す。大切羽二枚完備せるは他に類例なき珍品成り。柄は短くして騎兵刀の様式を具え頭槌形に成り、能く握るに適す。
 頭菊文の毛彫は想うに琉球特有の作ならん。京都作とは思われず。刻する所大世の二字尚泰久王世代所鑄大世通宝の銘文二字と字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号大世主に取るか。
 鍔猪目の金の中覆輪最も珍也。鞘の慰斗付金に継目あるは帯取りの迹なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。
 要之伝家の宝物たるのみにあらず、亦以て天下の至宝とすべし。(今村長賀・關保之助両氏鑑定)

【東恩納寛淳氏のコメント】
 蓋し、この刀は尚巴志(1429~1439年)時代に盛んに支那に輸出された金結束袞刀の一種であって、山北滅亡の前年に尚巴志の長孫尚泰久が生まれているから、後に尚泰久に伝えられ、泰久時代に多々の改装を加えて今日に至ったものであろう。 


ロ、治金丸(今村長賢・関保之助両氏の鑑定) 『南島風土記』(東恩納寛淳著:昭和25年版 110頁)

 刀身長   一尺七寸八分刃紋乳刃刀表裏四本樋
 中心長   四寸一分
 刀身量数   一百七匁
 柄頭    角頭巻懸柄
 目貫    黒ミ銅、桐紋
 目 釘   竹
 鎺(はばき)金着セ
 柄糸    鶯茶
 巻下地   黒塗鮫
 鐔(つば)  木瓜形烏銅色絵菊紋散(千代金丸の鐔(つば)と同形同大、但し緒覆輪剥落)
 大切羽   烏銅色絵菊紋散
 鞘     黒花塗
 小尻    丸小尻
 粟形    黒塗黒塗鴻目金
 反角    黒塗
 小柄    金含烏銅入絵雲形紋様
 小刀    無 之 

【備 考】
 治金丸一口、年代千代金丸に同じ、刀身地金見事也、焼刃亦細、作者は応永頃の信国乎、柄糸の巻方、頭に巻懸け、頭と糸との間に空隙あり、親鮫の位置第二の菱形に当る、但し古式也、今日完存するもの稀也、袋に包み、手を掛けないよう心得肝要也、小柄及び紋様共に名作、珍重すべし。

 おもろさうし八の二十八に
    おもろ ねあがりや
    いみやけど 世は まさる
    てがねまる しまけねて きより 

同六の三四に、
    きこえ きみがなし
    とよむ きみがなし
    これど だにの まてだやれ
    つくしちゃら はきよわちへ
    てがねまる さしよわちへ

  「てかねまる 宝剣の名也」

  (工事中)


2020年2月25日(火)

 「寡黙庵」の庭の手入れ。普段、人の声の聞こえないウプシマー集落に人声が。神アサギで報告会。「何の調査?」と聞いてみたが??? 災害時の救助なのか? まとめ役の一人に神アサギや舞台、周辺の拝所の説明。東京のM大学の学生達。

 昨日に続いて庭の草木、雑草の除去作業。手作業なので指に疲れが。隣で野菜の手入れをしている方が、「かわいい花が咲いていますよ」と声がかかる。「花の名前は」と聞かれ??? 数年前にくださった方に教えてもらう。「ニワウメですよ」とのこと。庭先のヒカンサクラはまだ咲いている。

 1957年の公民館資料に目を通す。当時のムラの様子を読み取ることができる。 

  
▲神アサギでの報告会(現代風活用?)     ▲目につかない所でひっそり咲いていたニワウメ

 
    ▲ヒカンサククラ          ▲年中花開いているハイビスカス

 
 ▲自家用ト殺許可願い    ▲旧正行事の簡素化  


2020年2月24日(

 
昨日に続いて、残した作業へ。

 山原の御嶽(ウタキ)と村と集落 をアップ。山原の神アサギと御嶽を調査後の報告かと。振り返ると新鮮な気分になる。そのころ「山原には調査研究」のテーマが数多くあると。そう思った時期である。それと現在を記録する、それらは生き物であることを実感させられた時期でもある。それとウタキとイベは明確に区別すべきだと。


2020年2月23日(

 
連休で「寡黙庵」の植物の切替え。雑草の刈り取り、役目を終えた木々の剪定、イチゴの土の取り替え。花や実をもった木々は、まだ役目を務めてもらうことに。(ボツボツ、小鳥の巣づくりの季節)

 老化した体力づくり。今日もつづく。
  

  

2020年2月22日(土)

 山原の神アサギをテーマにしたのは40年になる。今帰仁の神アサギは数年、そこからムラを見ていく、歴史を見ていく手掛かりにしたことが思い出される。それと今帰仁には19のアザがあり、そこで足踏みしていると数年で調査研究が終わってしまう。山原の150のアザを踏査すればムラ・シマは一生の研究になると思い、今帰仁にこだわらず周辺まで。伊是名島、伊平屋島は当然ながら与論・沖永良部・徳之島・奄美大嶋(特にカケロマ)・喜界島へと足を運ぶ。地域調査・研究を原点に戻る気持ちで今帰仁の神アサギから。あれから建物が変わったのが謝名・与那嶺・仲尾次・古宇利島。崎山の茅葺きは今も遺る。

 今帰仁の神アサギ


▲数年前に建て替えられた謝名の神アサギ(2020223)

2020年2月21日(金)

 徳之島踏査、1609年の薩摩軍の琉球侵攻の徳之島の様子や琉球発の辞令書やノロ関係史資料の確認。

2011年1月29日(土)メモ

 『女官御双紙』(1706~13年)に「今帰仁あふりやい」と「伊平屋島ののろ二かや田」、さらに「噯間切のろくもい」の代合(交代)について、以下のように記してある。今帰仁の歴史と祭祀に関わる。

 一 今帰仁ふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ今帰仁あふりやいより御様子
    有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみおみのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田御門
    よりよしうて按司下庫裡に控居大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉一対作事
    あむしられ御取次にておしあけ申按司御座敷御呼めしよわれハよしろちへて美待拝申
 天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司あかなしよりおしあけめしよわる
 合済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌御給御規式相済按司御座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申
 相済みはい御暇乞大勢頭御取次にてみおミのけておれ申
 一 同時御印印判ハセと新雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ将来らる首里大あむしられよりミはいの時早朝今帰仁あふ
   りやいへ上申
 一 伊平屋ののろ二かや田代合之時も上相済首里殿内火神御前へみはな一ツ御五水一対持参にて玉かはらはき立御拝
   四ツからめき申尤御拝日撰前以以日引合有之事
 一 噯間切のろくもいた代合之時も右同断

 「今帰仁あおりやえ」の写真と関わる記事がある。
   「国頭郡今帰仁村今泊で旧按司家阿応理屋恵所蔵の佩佳玉は二十二個の所謂曲玉と、多数の水晶玉製丸玉とを交
   へて極めて見ものであるが、之を納めた袋に、
     玉かはら一連。内かはら一、大形。かはら二十一、小形。水晶之玉百十一。昭和四年四月四日現在。
  と書いてあった。(本誌記者云う、袋の文字は古くより此の形式に書いてあったのを昭和四年に袋を新調して書替へた
  のみである。阿応理家では今もその一連の玉全体を玉ガハラと呼んでいるのである。 

 下の写真は今帰仁阿応理屋恵が一連の勾玉と水晶玉(ガラス)、前に広げられた袋に「玉かはら」など文字が読める。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)でいう「今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵目録」というのは、写真の文字のことであろう。それらの遺品は昭和11年に開館した「沖縄郷土博物館」(首里城北殿)で昭和□年10月15日より11月14日まで展示されたことがある。

 
一連の勾玉と水晶玉(ガラス)をかけた阿応理屋恵「国頭郡志」のグラビアより

 
  ▲今帰仁阿応理屋恵火神の祠にあった変額        ▲今帰仁按司七世の位牌(右側)

2020年2月20日(金)

 
北山三王時代以前は「中北山」と呼ばれている時代。その時代について歴史を描くのに苦心をする時代である。北山(今帰仁)がハニジに滅ぼされる直前の時代である。その様子は、その時離散して行った一族が伝承や「野史」として伝えている。その時代を描いた先人の記録を拾ってみる。名護城について『名護町六百年』や、『大宜味村史』などから。

「口碑」や「旧家系譜」の伝える北山中興の経緯を辿って、次に興った仲昔北山は、舜馬順熙王の次子を迎えて北山の世の主(よのぬし)今帰仁城主に奉じ、二世は嗣子がなかったので、中山英祖王の次子を養子に入れて統を継がしめた。これが北山の世の主湧川王子である。北山の世の主という称号は、国頭地方の諸按司を支配する最高の権力者を指す尊称である。湧川王子の嫡流は代々今帰仁に根城をおき、その一族は間切按司として名護、羽地、国頭の諸郡に君臨していたから、国頭地方は、宛然北山閥族一色で塗りつぶされた観がある。湧川王子の孫に当る三世の今帰仁城主に至って、一族の怕尼芝は宗家を覆えし、当時中山の衰頽に乗じてその覊絆を脱し、自ら北山王を名乗って天下三分の形勢を作った。


2020年2月19日(水)

 奄美の喜界島は3回訪れている。喜界島と琉球との関わりを見ていくため。1611年まで琉球国の支配下の島であった。それまでは琉球の統治下であった。当時の名残が400年経った現在、薩摩化していくが、琉球的のものがどのように遺っているのか。琉球的な名残は、1609年以前の文化が今でも遺っているのではないか。そのような視点で見ている。少し時間が経ったので、もう一度見直してみることに。

喜界島をゆく(平成17年4月30日~5月2日) (2005 年) (参照)               

 4月30日の午後4時半頃、喜界島に入る。天気は曇、時々小雨である。那覇空港から奄美空港経由での喜界島入りである。奄美空港から喜界島へは、乗り継ぎのため三時間ばかり待ち時間がある。奄美の(笠利町:現大島市)を回ろうかと、一瞬よぎったのだが、今回は喜界島に集中することに決める。少し時間があるので、空港近くの奄美パークと田中一村美術館で奄美の感覚をつかむことにした。

 喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。

 琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。

 それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。

【喜界島の野呂(ノロ)】


【喜界島の主な出来事】

 ・1441年 大島は琉球に従う。
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
      尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
 ・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
      (間切・大城大屋子の役職)
 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
 ・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
    五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
    (間切のもとに村々がある)

 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
     (豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)


       【喜界島の集落】

 喜界島には源為朝は伊豆大島に流され、1165年に琉球に渡ろうとしたが喜界島の沖合いに流され、船上から島に向かって放った矢がささった所から水が湧きでた場所が「雁股の泉」だという源氏に関わる伝承。そして平家の武将が射場跡だという矢通場がある。また長嶺村には平家森、志戸桶の沖名泊に平家の上陸地などがあり、平家・源氏に関わる伝承を根強く伝えている。それと琉球と関わる伝承も。

 喜界島には「嶺」のつく村名に川嶺・坂嶺・長嶺がある。今帰仁村で大嶺原の小字がある。呼び方としてはプンニである。プンニは大きな骨(嶺)のことである。喜界島の嶺のつく村名は字の通り「嶺」からきた村名であろう。、

 喜界島の歴史を見ていく場合、間切(まきり)である。喜界島には五つの間切があり、間切の村がどうなっているのか。
  湾間切・・・・・・・湾・赤連・中里・羽里・山田・城久・川嶺
  荒木間切・・・・・荒木・手久津久・上嘉鉄・蒲原・花良治
  西目間切・・・・・西目・大朝戸・坂嶺・中熊・先内・中間・伊砂・島中・滝川
  東間切・・・・・・・早町・白水・嘉鈍・阿伝・塩道・長嶺
  志戸桶間切・・・志戸桶・佐手久・小野津・伊実久


1.喜界島430日)1日目)

 一日目、中里(ナカザト)荒木(アラキ)手久津久(テクツク)上嘉鉄(カミカテツ)先山(サキヤマ)蒲原(ウラハラ)花良治(ケラジ)蒲生(カモー)阿伝(アデン)までゆく。まずは、各村々の情報を整理することから。一気に整理しないと、どこのことか混乱を起こしてしまう。


1.中 里(なかざと)(湾間切)

 ナートゥやナーツともいうようで、ナートゥは港のこと。今の集落の西側(西原)に集落があったのが、現在地に移動してきたようである。西原に対して中里の村名になったというが、港近くに移動したことによるナートゥ(港)とも考えられる。明治9年にイギリス船がリーフで座礁し中里村の人達が救助する出来事があった。


       中里公民館                    中里地区公民館


2.荒 木(あらき)(荒木間切)

 185483日異国船の件の書付を持った久高島の人々で船頭内間ら15人が、くり舟五艘を組んだ飛船で那覇から薩摩藩へ向けて出発。風波が強いため、89日から1010日まで大島で避難し、翌11喜界島の平木村(荒木村か)に乗り入れ、成り行きを伝え、喜界島から拝借米で飯料や船具などを仕立てて112日に出発する(評定所文書9巻)。荒木は琉球と関わる伝承をいくつも持つ村である。

  ・荒木間切の内。間切役所が置かれた
  ・荒木泊は琉球との交通の拠点だった
  ・港の広場のクバは天女が天と地を上り下りした木だという
  ・琉球国から派遣された勝連親方は荒木を拠点として島を統治したという
  ・1466年琉球国王の尚徳王の軍勢が上陸した地
  ・1754年の墓碑に「荒木野呂・・・・俗名泊野呂」がある
  ・1841年蘇州船一艘が中里村と荒木村の境に漂着(琉球に送り届ける)


 集落内に「保食神社」があり、境内に再興の経緯が石碑に記されている。
 
      保食神社の由来
  一六九七年永道嘉(先内の人)が先内 坂嶺 荒木 上嘉鉄に馬頭観音を建立し祀った。これは
  豊作物の神様である 豊受姫命を祭神として毎年の豊作を祈った 明治維新に仏教廃止運動に
  よってその名称を保食神社と改めた 当初はめしぬく(小学校の庭)の地にあったが昭和十九年
  学校敷地拡張のため和早池の地に移転した 神社老朽化のため平成元年九月集落民は勿論
  島外の荒木出身者等から多額の浄財が託され この地に造営し再興したものである
 


       荒木公民館               保食神社の由来の碑

 
        荒木漁港                保食神社(荒木)


3.手久津久(てくつく)(荒木間切)
 
 集落の山手に湧泉があり、付近では小規模ながら田芋が栽培されている。かつて稲作が行われていたのであろう。


       手久津久公民館                公民館の前は広場になっている

 手久津久集落の山手で田芋栽培           集落の山手に湧泉がある


4.上嘉鉄(かみかてつ)(荒木間切)



2020年2月18日(火)

 1609年の「薩摩軍の琉球J侵攻」は今帰仁の歴史を大きく変わる出来事であった。1643年の「今帰仁間切与那嶺の大屋子職叙任辞令書」に「今帰仁おどん」と出てくる。薩摩の琉球侵攻後なので今帰仁城内から城下へ移り、1665年に首里赤田村へ引揚げることになる。1609年以前の辞令書に「中くすくのおきて」(中城掟)、「たまくすくの大屋こ」「へなちのめさし」などの役人が首里王府から任命されていいる。「みやきせんまきり」(今帰仁間切)では北山監守(今帰仁按司)が城内、麓のウドンで番所の役割を果たしていた痕跡が見られる。

 岸本村の湧川親雲上は『琉球国由来記』(1713年)地頭代湧川大屋子だった時の地頭代を勤めた人物戸見られる。屋号のワクガヌヤーは、それに因んだもの。(1735年頃、今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上となり屋号はフイヤー、メーフイヤ-となる。


【薩摩軍の琉球侵攻と今帰仁城】 『沖縄の歴史 補遺伝説』等より

 慶長十四年二月、義久・義弘・家久の三公琉球征伐の議を決し、軍律十三章を定め、樺山権佐衛門久高を以て大将とし平田太郎左衛門増宗を副将として総勢三千余人戦艦百余艘に打乗り七島の舟子小松吉兵衛等を先導とし、二十一日前軍鹿児島を発した。義弘・家久・両将を送って山川港に至り、義弘密かに久高に論し、那覇は防備必ず厳重なるべければ、宜しく不意に他港より侵入せよと。久高旨を拝し三月四日山川を発し、七日大島に至り、久高は津津代港、増宗は西間切より攻撃した。
 此の時笠利の大親真牛三千人を率い柵を海岸に設けて防戦したが、薩軍は種子島(銃)を放って攻め掛けたので敵すること能はず、遂に捕へられ島民皆降った。名瀬・焼内(今の宇検)の両地でも大親を大将として奮戦したが共に敗れ、大島駐在のの琉使那覇之大屋子降服して許された。
 徳之島では掟役の兄弟佐武良金・思呉良佐金節を堅くし膂力無双にして降らず都城附近の士六七人を殺したが、遂に火縄銃のために島民三百余人殪された。
 二十一日進んで沖之永良部島を攻撃した。島主嶮岨を恃んで防備をなさず、遂に衆を率いて降った。
 二十三日琉球船洋中を過ぎたので伊集院久元をして之を追はしめたが及ばず、二十四日久高等舟洋中をを過ぎたので伊集院久元をして之を追はしめたが及ばず、二十四日久高等舟師を発して那覇港へ向った。先ず七島の小舟六七艘を遣はして其の動静を偵察せしめしに、港口には鐵鎖を張り警備果たして厳重にして薩兵の来るを見て齊しく銃を発した。久高其の破り難きを知り、二十五日船を返して運天港に向った。

    (工事中)

【今帰仁村間切岸本村の湧川家】


 今帰仁村玉城(岸本村)の湧川家の記事である。湧川親雲上は地頭代になる。その記事は1715年である。そのころの今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子である。『琉球国由記』(1713年)でサバクリの一人である。1738年に湧川村が成立すると地頭代の湧川は古宇利親雲上となり、屋号が古宇利(フイヤー)を名乗ることになる。湧家の姓は湧川大屋子から来ているとみられる。屋号も当時の湧川ヌヤーは、そこから来ている可能性がある。同家の位牌に「湧川大屋子)とあったような。「玉城誌」で扱う記事である。詳細については字誌で詳述することに。

【今帰仁間切岸本村の湧川家】

 湧川親雲上(湧川善太郎氏祖先)は書算をたしなみ文書に通じ、番所勤めをし諸役を歴任して地頭代の栄職に進んだ。その家は富裕で貯蓄が多かった。成徳五年(1715)尚敬王三年公庫が欠乏したので湧川家は米を献納して公費にあてた。また宝栄六年(1709)島中穀実らず人民飢饉になった。湧川は惻隠の情で、貯蔵米粟百五十石余を出し間切内与那嶺・仲尾次・崎山・平敷・謝名・仲宗根・運天・上運天・古宇利の九村に貸して人命を救済した(「球陽」1715年条)(「国頭郡志」所収)


2020年2月17日(月)

 久しぶりに古宇利島までゆく。平成元年から長年調査を続けていた。その調査記録は『古宇利誌』460頁(平成18年:2006年発刊』へ。「古宇利島の祭祀の調査・研究」は祭祀のすべてを参与観察記録として『なきじ研究17』298頁として収録。今帰仁村歴史文化センターから発刊。(当時の職員達、頑張ってくれました。感謝)しばらく遠ざかっていたが、新しい『今帰仁村史』の発刊にむけスタートしている。

 島を訪れると懐かしい顔が。多くの方々から忘れられ顔の人である。島で二疋の生ダココを入手。「タコよく買いに来られるのですか?」と。「むかしは、よくもらっていました」 タコを分けてくれた方???「いやいや、買いますよ」 すっかり過去の人になってしまいました。ハハハ

 古宇利島のウプドゥマイ(大泊)は運天港の外港である。古宇利島は運天港への入口であり、外海にでる風待ちとして使われたり、1735年頃から今帰仁間切の抱え村となり今帰仁間切地頭代は古宇利親雲上を名乗るようになり、地頭代を勤めて人物の家にはフイヤー、前フイヤーの屋号がつく。

 
▲手に入れた二疋の蛸(小ぶりのようです)「寡黙庵」ゆがくと二皿になるの?


          
▲古宇利島の七森七嶽の位置

308 始めて烽火を各処に設く(1664年)(球陽)

本国、烽火有ること無し。或いは貢船、或いは異国の船隻、外島に来到すれば、只、使を遣はして、以て其の事を禀報するを為すこと有り。今番、始めて烽火を中山の各処並びに諸外島に建つ。而して貢船二隻、久米・慶良間・渡名喜・粟国・伊江・葉壁等の島に回至すれば、即ち烽火二炬を焼き、一隻なれば即ち烽火一炬を焼く。若し異国船隻有れば、即ち烽火三炬を焼き、転次伝へ焼きて、以て早く中山に知らしむるを為す。

・勢理客村当歳五拾五 前兼次親雲上「勤書:仮耕作当の頃)(フランス船の来航)

・道光二六年(1846)異国船一艘古宇利村の後の外干瀬に浮懸をし、伝間で五人が古宇利村の後原にきて 牛未並びにはんついもを押取したさい勤めた。
・同二六年に阿欄陀船三艘が当津に来た時、諸奉行たちの宿の構を仰せつけられ勤めた。
・同年運天港の見分の時、諸手組の構を仰せつけられ勤めた。


2020年2月16日(

  今帰仁村字仲宗根を流れる大井川の下流域にあった港のことである。方言ではテーミナトと呼び、東側は字渡喜仁と、西側は崎山から伸びた陸地で囲ったような小さな入江になっている。大井川とジニンサガーラ(下流ではヒチョシナガーラという)が炬港で合流する。土砂が堆積し、港としての機能は今では果たしていない。炬港の記事を目にしたので満潮時の様子をみる。昭和の初期に定期便が往来していた時期がある。

 大井川下流域(炬港含む)など川の下流域域に近世(17世紀)以降の厨子甕が数多く見られる。山原まで陸路で運ぶには困難。村々の江に山原舟で運んだのであろうか。

 
 ▲満潮時の大井川下流域   ▲大井川下流の炬港(干潮時は干潟となる)

 炬港の名称の由来は、進貢使として中国に赴いた大里親方宋森が帰国の途中台風にあい、漂流して今帰仁の海岸にたどり着いたが、神火の炬火に導かれ、無事に仲宗根湊に到着したというので炬港(湊)と名付けたという(『琉球国由来記』、球陽尚真王10年条附)。古くから冊封船の往来に際して、沿岸の各要所では昼は煙、夜は烽火(のろし)をあげて航路を知らせる習わしがあり、この伝説も烽火に関連したものと思われる(『南島風土記』)。
 
【中宗根湊下、炬港と云う】](〚琉球国由来記〛/〚球陽〛)
  由来は、孟氏大里親方宗森、進貢使をなし、中華に至り、帰国の時、颶風に逢い、夜な夜な津岸を迷っている時、神火の炬火が燃えるのを見て、この湊に着いたため炬港というなり。

・勢理客村当歳五拾五 前兼次親雲上「勤書」(ぺりー一行の時)

・咸豊4年(1854)十二月十九日に同船伝馬二艘、官人四人、水主十三人乗りが本部から来着し、與那嶺長浜へ潮懸かりし、同二二日に炬湊へ乗り回し、二二日に同所を出帆し番所の前から羽地へ通船し昼夜勤めた。

149  附 今帰仁郡の炬港(球陽)。

首里の孟揚清(大里親方宗森)、貢使と為り、閩に入り京に赴き、公務全く竣りて閩より国に返る。時に、陡に颶風に遭ひ、針東西を失し、風に任せて漂流す。已に数日を経て今帰仁郡外に漂到す。然り而して暗々たる黒夜、而ち何処なるやを知らず。人皆之れを驚訝し、只海洋に翺翔すること有るのみ。時に神火有りて大いに炬火を燃し、山と港とを示知す。船内の人大いに之れを称謝し、仲宗根港に弔進し、舡以て恙無し。因りて此の港を名づけて炬港と曰ふ。


2020年2月15日(土)

 上間大親と赤墓(2014年11月17日で詳細に触れたので紹介。上間家の伝承と墓の建立は時代が違う。赤墓に葬られているのは墓建立の以降の方々。赤墓は光緒元年十一月八日に開けた結果を「上間家文書」(上間家の「先祖之由来遺書」(大清道光癸未八月吉日) に記されている。 「孟氏家譜」(西平殿内?)は未確認。赤墓に葬られているのは乾隆年間以降の上間家の方々。墓を開けると、伝承が証明できると考えている方々が居られるが、特に古琉球の伝承を持つ墓の証明はなかなか困難。 

138 上間大親、先王尚真の御船を救う。(球陽)

本部間切上間村(今、具志堅邑と称す:今帰仁間切時代)の上間大親(号(享翁宗親)は、素、葉壁山首見邑の人なり。尚円王国頭に渉り来るのとき、大親(上間村に移居す。故に上間大親と称す。大親、三男を生産す。長は孟揚清(大里親方宗森)と称し、二は孟元勲(中城親雲上宗愛)と称し、三は上間子と称す。後、真王、国頭を巡狩するに至り、行きて上間津外に至るのとき、陡に暴風に遭ひ画舫甚だ危し。大親、三児をして行きて御舫を救はしむ。三児即ち小舟に坐し、身命を顧みず風濤を凌破し、生を救ひて上岸す。聖顔大悦し、大親父子をして御前に召し入れ、深く褒奨を蒙り、且大親に今帰仁総地頭職を賜ひ、首里に搬り居らしめんとす。大親固く辞し、敢へて拝授せず

 恭しく勅諭して再三強ひて勤むるを蒙る。大親跪きて奏すらく、孟揚清・元勳は、聖駕に扈従して首里に移居せしめ、且大親に、上間地頭職及び比与喜屋の地を賜へと。幸に兪允を蒙り、大親、上間に住居す。後、身体已に老い血気甚だ衰ふるに至り、其の三男を将て膝下に侍坐せしめ、以て使令に便して天年を終る。後年に至り、其の宅を崇尊し、以て拝祈の処と為す。今、子孫繁茂し、多く凡人と異なり、簪纓世々継ぎて声明大いに振ふ。孟氏家譜に詳見すと爾云ふ。


2020年2月14日(金)

 「球陽」から「北山の歴史」に関わる記事を拾ってみる。その中の「諸諸按司、首里に聚居す」、そのことが近世の間切の統治(首里王府と地方)と密接に関わってくる。時々、話題にするが今帰仁間切と本部間切に分割する以前の今帰仁間切の番所はどこにあったのか。分割した時に今帰仁間切は運天に、本部間切は渡久地に置かれる。その前は今帰仁では今帰仁グスク、薩摩軍の焼き討ち後は、麓の集落内(今帰仁村側)へ。(詳細は山北監守と今帰仁阿応理屋恵参照) 1673年の大宜味間切、久志間切、恩納間切などは按司掟の制度はなく地頭代が頭となっての制度、それと首里王府との関係の統治。

 1611年に按司掟を廃止して地頭代を置くとある(球陽)が、一斉に行われたわけではなさそうである。その1609年以後も「按司掟」が廃止されず置かれていた間切がある。今帰仁間切(本部を含む)時代は「北山監守(今帰仁監守)がその役割を果たしている。そこで、今帰仁間切番所がどこにあったのか? 今帰仁グスク内? 1609年以降は今帰仁村(ムラ)の集落内? 運天村に番所が置かれたのは本部間切を分割した1666年である。他の間切は?

195 諸按司、首里に聚居す(「球陽」1500年頃)
 窃かに按ずるに、旧制は、毎郡按司一員を設置し、按司は各一城を建て、常に其の城に居りて教化を承敷し、郡民を蒞治す。猶中華に諸侯有るが若し。或いは見朝の期に当れば、則ち啓行して京に赴き、或いは公事の時有れば、則ち暫く首里に駐し、公務全く竣りて既に各城に帰り、仍郡民を治む。此の時、権りに兵戦を重ぬれば、群郡雄を争ひ干戈未だ息まざらん。尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遥かに其の地を領せしめ、代りて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せしむ(俗に按司掟と呼ぶ)。而して按司の功勲有る者は、錦浮織冠を恩賜し、高く王子位に陞す

252 王、諸郡の按司掟を裁して、始めて地頭代を建つ。(「球陽」1611年)


2020年2月13日(木)

 
 二本の編集委員会あり(午後二時から大宜味村史(言語編)、夕方七時から今帰仁村兼次)。兼次は打ち上げた原稿の校正。冠婚葬祭と人物。

  ▲兼次の集落(平成11年撮影)              ▲兼次の字誌編委員集会

2020年2月12日(水)

 2012年8月に本部町堅健に足を踏み込んでいる。堅健は1666年以前は今帰仁間切の内。「球陽」に登場する堅健大親の名馬の話。堅堅大親の墓、屋敷跡が今に伝わる。各地を調査しているとムラ名は人物の生誕地に付けられたことが数多く見られる。隣の崎本部も本部大主の生誕地、謝花も謝花大親の伝承のある地、それらの伝承の人物の生誕地がムラ名になる場合がある。健堅村と崎本部村(崎浜+本部)の間にあった石嘉波村が1736年に瀬底島へ移動した村である。村が移動したとき、移動地にウタキや神アサギを設け、祭祀を行ったのは何故か。そのようなことを知る手掛かりとなる事例である。

 「ムラ・シマ講座の案内文書」

 第4回目の「ムラ・シマ講座」は本部町健堅です。健堅の山手(大小掘川)の上流に健堅のムラの発祥地(古島)だとされます。古島から、健堅(キンキン)と呼ばれる地(一班:ウインバーリ)に移り、そこにウタキ(ウガンヤマ)があり、神アサギ、旧家跡(タマウドゥン・お宮とも呼ばれる)などがあります。健堅の祭祀は本部(崎本部)ノロの管轄です。健堅の小字に駆原(かけばる)があり、そこは健堅大親と関わる名馬がかけ廻ったことに由来するといいます。墓が駆原にあり、健堅大親にまつわる伝承は今に伝わり、屋敷跡もあります。健堅大親の墓の前から瀬底大橋が架かっています。

 麓の浜崎(ハマサチ:ナカンバーリ)は糸満からやってきた漁民が中心となり、集落を形成しています。瀬底島との渡し場でもありました。現在は大型のフェリーや伊江島とのフェリーの発着場(港)となっています。その側に浜崎の漁港があります。そこは瀬底島と健堅との間の渡し場でした。

 1736年健堅と崎本部との間にあった石嘉波村が瀬底島の東側へ移動し、石嘉波の故地は健堅石川原と呼ばれ、崎本部の石川と区別しています。石嘉波村が移動すると、そこは寄留人が集落を形成しています。本部間切の地頭代は健堅大屋子(親雲上)を名乗ります。今帰仁間切が古宇利親雲上を名乗るように健堅と瀬底島の間が重要な港であったことに起因しているであろう(瀬底親雲上でもよかったかも)。

 健堅は古島からの移動、かつてあった石嘉波村が移動、麓の浜崎は糸満からの漁民や他からの人達が中心となって形成された集落です。それらのキーワードで健堅を回ってみましょう。歴史的にも興味深いムラです。

8月11日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合。9時30分バスで出発します。

 ・本部町健堅についての概要説明をします(於:歴史文化センター。午前9時集合)
  ①健堅の集落の形態(丘陵地の集落と麓の集落)(午前9時40分 本部町健堅へ出発)
  ②健堅大親と健堅大親の墓や屋敷跡
  ③海岸沿いの集落(浜崎)と瀬底島
  ④ニーヌファヌウタキ
  ⑤健堅の丘陵地の集落(旧家:ヒナジ殿内・松川家・タマウドゥンなど)
  ⑥健堅の神アサギ
  ⑦健堅のウタキ
      (12時30分には歴史文化センター着予定、報告お願いします)

参考文献:本部町史資料編 1.2
       「本部のシヌグ」 仲田善明箸
       「本部町の文化財」5集

・健堅大親の墓と住居跡地の拝所

 健堅大親は『球陽』(1394年)で「健堅大親給馬中華人以蒙招撫」(けんけん うふや うまを ちゅうかじん もって しょうぶを こうむる)とあり、久米島の堂之大親と親交を結び、暴風で久米島に漂着した中華人を連れ帰り、船と良馬を与えたことから、中国の皇帝は琉球国王を介して幣帛と石碑を贈り褒賞したという。住居跡地はアメラグスクの地にある(そこに移設されたようである)。墓のある場所は、中国に献上した名馬に因んで「駆ケ原」と小字名になっている。

  

・健堅の浜崎港と竜宮の宮

 健堅と瀬底島の間は古くから中国や薩摩への船の停泊した場所で唐泊の地名がある。大型船の発着や避難地として利用されている。そこに鳥居のある「竜宮神」(お宮)がある。浜崎の入江や大小掘川の河口は山原船などの出入りした津(港)であった。

 

・ニーヌファーの拝所

 ニーヌファーは女神を祀ってあるという。

 
 ▲ニーヌファ(ウタキ?)のイベ       ▲ニーヌファーの祠       ▲祠内の香炉

・ヒナジ殿内(松川家)

 ヒナジ殿内は松川家とも呼ばれ、辺名地からやってきた家筋のようである。健堅の草分けの一軒と見られる。ムラの拝所の一つとなっている。

 

・旧家の跡

 イッチャファーヤの後ろにりっぱな石垣の屋敷がある。どんな家筋?

 

・タマウドゥン(玉御殿・健堅大親御願所ともいう)

 祠の内部に「御先中世健堅比屋 父 松 幼名 次郎  次男 亀寿  子之神 夫 太郎 妻 オミチル」と記された位牌が置かれている。関帝王の図像、観音、香炉(8)が置かれている。

 
            ▲タマウドゥン                ▲タマウドゥン祠の内部

 

・神アサギとウタキのイベ
 アサギは石嘉波家(仲宗根家)の屋敷にあったようで、同家は根屋であったと見られる。神アサギは現在地に移設され、後方に根所火神が祀られている。祠内に女神・男神・火神が祀られている。神アサギの後方にウタキがある。一合ユーバン(旧7月22日)がある。その時の拝む順序はアマカワ御嶽(ゴルフ場内)→ニーヌファ→ヒナジ殿内→女神→ウイヌウタキ→タマウドゥン→根屋→アサギである(但し、神アサギと女神が移動する前の流れである)

 
  ▲現在の神アサギと根所火神(後方)              ▲ウイヌウタキのイベ


   ▲ウイヌウタキのイベでのウガン


2020年2月11日(火)

 過去の「調査記録」から「北山の歴史」に関わる記録やメモを集合させている。

2012年5月20日(日)メモ

 今帰仁グスクの鳥居のある付近の様子(戦後)について以前「3.今帰仁(北山)城跡の正門付近」(平成2年8月)したことがある。ここで紹介する鳥居のある二枚の写真は戦前のものである。鳥居の2本の柱の一部は歴史文化センターの前に移設してある(平成15年)。

 今帰仁グスク正門付近に鳥居が建設された直後と見られる(「関西今泊郷共会60周年記念」所収)。鳥居の竣工は昭和5年である。鳥居に「奉納大阪今泊共済会岡山支部」と「昭和五年十二月吉日竣工」とある。鳥居のセメントの白さから、建設間もない頃であろう。鳥居に左縄があり、燈籠も見られる。鳥居の右側に茅葺屋根の家、平郎門の石積みと大隅の石垣の様子がわかる。

 もう一枚は昭和15年撮影(三中のアルバム所収)である。鳥居の前の学生達は三中(現在の県立名護高等学校)の学生達が訓練で今帰仁グスクを訪れている。右手前に燈籠がある。左側後方に茅葺屋根の家がある。


 下の写真は「関西今泊郷共会60周年記念」所収で、「図ハ水晶ノ勾玉ニシテ四百年来ノ宝物トシテ保存セラル 煙管ハ純金ニシテ昭和四年ノ秋 宮ノ境内ノ地中ヨリ現レタル物也」とある。それは今帰仁ノロの遺品で勾玉とガラス(水晶玉)とカブ型の簪、煙管(2本?)が写っている。煙管は今はなし。


 下の写真は「関西今泊郷共会60周年記念」所収で、「図ハ水晶ノ勾玉ニシテ四百年来ノ宝物トシテ保存セラル 煙管ハ純金ニシテ昭和四年ノ秋 宮ノ境内ノ地中ヨリ現レタル物也」とある。それは今帰仁ノロの遺品で勾玉とガラス(水晶玉)とカブ型の簪、煙管(2本?)が写っている。煙管は今はなし。

  ▲今帰仁ノロ家の遺品か

「北山神社 許可願書」(昭和18年)の資料である。「目次」に 一、北山神社創立願書(同添附書類) 一、土地寄附之証並ニ土地収益調 一、創立後一ヶ年ノ予算書 一、創立予想後ノ神社明細帳、神社地図 一、神社見取図 とある。今回の企画展を「琉球のノロ制度の終焉」とする理由は、「北山神社 許可願書」から、グスクやウタキを神社化することで、ノロ制度を終わらせる政策がとられる。首里城に県社沖縄神社の創立を見たのは大正151020日である。昭和に入ると各地の村(ムラ・シマ)に神社が造られる。昭和5年今帰仁グスクに鳥居が立てられるが神社化されるに至っていない。

 今帰仁グスクに「北山神社」(昭和18年)を創立しようとしたのが、この資料である。それと「ノロ制度の終焉」とどう結びつくかは、六、維持方法で「社禄ノ国債(但シ明治四十三年ノロクモイ職ニ給与セラレタルモノ)金一、五〇〇円及土地山林壱万五百八拾四坪ヲ神社ノ基本財産トシ之ヨリ生ズル利子及寄附ヲ受クルベキ土地ノ収益並ニ氏子崇敬者ノ負担金ヲ以テ維持スルモノトス」とある。ノロ職に与えられていた社禄の国債を取りあげ、神社の基本財産に組み込むことにしたのである。それはノロ制度の実質的廃止である。

 昭和18年に神社建設に向けて、生徒達が動員されているので、この書類は「内務大臣 安藤紀三郎殿」に提出されたと見られる。この許可願書を作成された方は、宮司の資格を取得され、「北山神社」の宮司の予定だったであろう。ところが、昭和19年沖縄本島も爆撃され、神社建設も中断していまう。戦後北山神社が建設されることはなかった。それと戦後ノロ制度の復活はなかった。ノロ制度は法的な区切りがなく、うやむやのうちに現在に至っているのではないか・・・)




2002年2月10日(月)

 『琉球国由来記』(1713年)の山原の地頭代が今帰仁間切、羽地間切、大宜味間切、羽地間切の地頭代の名称が変わっている。地頭代の管轄村(扱村)の変更だと見られる。今帰仁間切の場合は、湧川村の新設(1738年)のとき、湧川を新設村名にし、古宇利島(村)を地頭代名としている。今帰仁では1738年頃から地頭代となるとフイヤー、前古宇利(メーフイヤー)の屋号がつく。ワクガヌヤーのつく屋号の家は、1738年に地頭代をした人物の出た家と言えそう。

【間切の地頭代名の変更】(2009年12月過去記録

 『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1713年)に各間切の地頭代が記されている。その時の地頭代は「・・・大屋子」である。18世紀中ごろになると、大屋子から「・・・親雲上」となり、今帰仁間切や羽地間切・大宜味間切・恩納間切で地頭代の村名の変更がある。時期を同じくしての変更であれば、王府の大きな行政の改革があったのではないか(43の間切・島の内、変更のあったのは23である)。その出来事を記す史料があるのではないか。

 今帰仁間切などの例を示すと、『琉球国由来記』と『琉球国旧記』の時の地頭代は「湧川大屋子」である。その時、湧川村はまだなかった。湧川村の創設は1738年である。その時、地頭代の湧川をとって村名にし、地頭代のかかえ村は古宇利村に変更し、地頭代を古宇利親雲上にした可能性がある。羽地間切も1700年代に親川村の創設があり、地頭代親川親雲上(1735年)がが出てくるのはうなづける。その後川上親雲上に変わっている。新村の創設が理由の一つになりどうであるが、恩納間切の場合は、『琉九国由来記』(1713年)で谷茶村と前兼久村はすでにあるので、別の理由があったのであろう。変更のあった23の間切・島についてみる必要がありそうだ。村名がないのは、脇地頭が地頭代を勤めた間切なのか。

【琉球国由来記・旧記】の地頭代の村名と以後の名称

  【間切名】   【由来記・旧記】
 今帰仁間切  湧川大屋子      古宇利親雲上
 本部間切    健堅大屋子     (健堅親雲上:村名は変わらず)
 羽地間切    嵩川大屋子      親川親雲上1735年)・川上親雲上
 大宜味間切  前田大屋子      山川親雲上(道光20年:
 国頭間切   辺野喜大屋子    (辺野喜親雲上:村名は変わらず)
 久志間切   大浦大子       (大浦親雲上:村名は変わらず)
 名護間切   東江大屋子      (東江親雲上:東江村はない、同村は名護村))
 金武間切   安次富大屋子     (安次富親雲上:安冨次村はなし。同村は金武村)
 恩納間切   谷茶大屋子      前兼久親雲上1763年)
 

 『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1713年)に各間切の地頭代が記されている。その時の地頭代は「・・・大屋子」である。18世紀中ごろになると、大屋子から「・・・親雲上」となり、今帰仁間切や羽地間切・大宜味間切・恩納間切で地頭代の村名の変更がある。時期を同じくしての変更であれば、王府の大きな行政の改革があったのではないか(43の間切・島の内、変更のあったのは23である)。その出来事を記す史料があるのではないか。

 今帰仁間切などの例を示すと、『琉球国由来記』と『琉球国旧記』の時の地頭代は「湧川大屋子」である。その時、湧川村はまだなかった。湧川村の創設は1738年である。その時、地頭代の湧川をとって村名にし、地頭代のかかえ村は古宇利村に変更し、地頭代を古宇利親雲上にした可能性がある。羽地間切も1700年代に親川村の創設があり、地頭代親川親雲上(1735年)がが出てくるのはうなづける。その後川上親雲上に変わっている。新村の創設が理由の一つになりどうであるが、恩納間切の場合は、『琉九国由来記』(1713年)で谷茶村と前兼久村はすでにあるので、別の理由があったのであろう。変更のあった23の間切・島についてみる必要がありそうだ。村名がないのは、脇地頭が地頭代を勤めた間切なのか。

【琉球国由来記・旧記】の地頭代の村名と以後の名称

  【間切名】   【由来記・旧記】
 今帰仁間切   湧川大屋子      古宇利親雲上(1738年湧川村の新設)
 本部間切    健堅大屋子       (健堅親雲上:村名は変わらず)
 羽地間切     嵩川大屋子      親川親雲上1735年)・川上親雲上(親川村の分割)
 大宜味間切   前田大屋子      山川親雲上(道光20年:
 国頭間切    辺野喜大屋子     (辺野喜親雲上:村名は変わらず)
 久志間切    大浦大子        (大浦親雲上:村名は変わらず)
 名護間切    東江大屋子       (東江親雲上:東江村はない、同村は名護村))
 金武間切    安次富大屋子      (安次富親雲上:安冨次村はなし。同村は金武村)
 恩納間切     谷茶大屋子       前兼久親雲上1763年)(前兼久村の分割)
 

2020年2月9日(

 「謝名神社」 へ。沖縄県の神社の建立への疑問。明治12年の廃藩置県以前から神社やお寺があり、それらの財産は廃藩置県後、財産の保証が保証された。首里城内に沖縄神社(大正12年:19123)に申請され大正14年(1925年)建立している。近代社格制度近代に基づく「県社」の建立は財産の確保が一つあったとみている。沖縄各地に神社の建立がなされているが、それはムラが持っていたウタキやグスク馬場跡などの土地財産の確保が狙いだったとみている。各字の神社も持っていたウタキや土地をアザのものにする狙いがあった。(アザには土地の登記ができない制度、そのため連名や神社(法人)にして登記)

 以下の「北山神社 許可願書」(昭和18年)の神社化は今帰仁グスクの土地の法人化やアザ化を狙ったものである。「奉寄進 同政九年 松本にや」と「口上覚」(勤職書)と薩摩上の按司の確認をしてみるか。

 
       ▲古宇利島のお宮                 ▲謝名神社(後方のウタキの確保)

   
  ▲謝名神社は昭和12年に神社建立     ▲「謝名神社」の碑  ▲本来のウタキのイベの香炉

 
      ▲謝名神社の桜と鳥居                     ▲「寡黙庵」のヒカン桜

20111021日(土)過去記録(今帰仁村歴史文化センター蔵)

 「北山神社 許可願書」(昭和18年)の資料である。「目次」に 一、北山神社創立願書(同添附書類) 一、土地寄附之証並ニ土地収益調 一、創立後一ヶ年ノ予算書 一、創立予想後ノ神社明細帳、神社地図 一、神社見取図 とある。今回の企画展を「琉球のノロ制度の終焉」とする理由は、「北山神社 許可願書」から、グスクやウタキを神社化することで、ノロ制度を終わらせる政策がとられる。首里城に県社沖縄神社の創立を見たのは大正151020日である。昭和に入ると各地の村(ムラ・シマ)に神社が造られる。昭和5年今帰仁グスクに鳥居が立てられるが神社化されるに至っていない。

 今帰仁グスクに「北山神社」(昭和18年)を創立しようとしたのが、この資料である。それと「ノロ制度の終焉」とどう結びつくかは、六、維持方法で「社禄ノ国債(但シ明治四十三年ノロクモイ職ニ給与セラレタルモノ)金一、五〇〇円及土地山林壱万五百八拾四坪ヲ神社ノ基本財産トシ之ヨリ生ズル利子及寄附ヲ受クルベキ土地ノ収益並ニ氏子崇敬者ノ負担金ヲ以テ維持スルモノトス」とある。ノロ職に与えられていた社禄の国債を取りあげ、神社の基本財産に組み込むことにしたのである。それはノロ制度の実質的廃止である。

 昭和18年に神社建設に向けて、生徒達が動員されているので、この書類は「内務大臣 安藤紀三郎殿」に提出されたと見られる。この許可願書を作成された方は、宮司の資格を取得され、「北山神社」の宮司の予定だったであろう。ところが、昭和19年沖縄本島も爆撃され、神社建設も中断していまう。戦後北山神社が建設されることはなかった。それと戦後ノロ制度の復活はなかった。ノロ制度は法的な区切りがなく、うやむやのうちに現在に至っているのではないか・・・)


          (24)                    (2)                  (1)



 ウタキのイベにある香炉の「同治九年」と同年の記事。(同年の記事は二三あるが一致するかは未確認)。

・今帰仁間切諸喜田村当歳四拾九前諸喜田親雲上勤書
 1878(光緒4)年寅8月 惣耕作当への昇格のための口上覚

一 同治(同)九年午五月今帰仁王子様被遊御上国候御時
  海上御安全之為御立願伊平屋島江罷渡五月廿七日ゟ
  六月十日迄御火神所并御嶽々迄御使相勤置申候事

一 右同之時御殿ゟ御用ニ付右拝所弐拾五ヶ所之内御嶽々
  御今帰仁并御火神所御名日記抔相調六月十三日ゟ同廿二日迄
  首里江罷登御首尾申上置候事



2020年2月8日(土)

 (工事中)

今帰仁村のムラ・シマ

・おもろに登場する今帰仁の地名
・古琉球の村が描けないか(1609年以前の辞令書から断片的に)

 1609年以前の辞令書では「・・・まきり」とあるが、・・・村はまだ出てこない。


 ・ミやきせん(まきり)(今帰仁) ・へなぢ(辺名地) ・ちゃはな(謝花) ・中くすく(中城) 
 ・よなみね(与那嶺) ・うらさき(浦崎) ・しよきた(諸喜田) ・たまくすく(玉城)  

・以下、近世から現在至る各村(字)の変遷

・「絵図郷村帳」(1649年)(本部域も今帰仁間切の内)

 ・崎本部村 ・へなち村 ・けんけん村 ・瀬底島 ・上によは村 ・下によは村(当時無之) 
 ・下によは村 ・具志川村 ・浦崎村 ・びし村 ・具志堅村 ・おや泊村 ・今帰仁村 ・しげま村 
 ・兼城村 ・しゅきち村 ・よな嶺村 ・へしき村 ・崎山村 ・中城村 ・中そね村 ・謝名村 
 ・きし本村 ・玉城村 ・せつかく村 ・あめそこ村 ・ごが村 ・かつお村 ・ふれけな村 ・まつざ村 
 ・がぶ村 ・上運天村 ・下運天村 ・沖ノ郡島 ・しゃはな村 ・ミつな島 ・石川村(当時無之)

・「琉球国高究帳」

 ・へしき村 崎山村 中城村 ・中そね村 ・謝名村 ・きし本村 ・玉城村 ・ぜつかく村 
 ・あめそこ村 ごが村 ・(かつお村) ・ふれけな村 ・まつざ村 ・がぶ村 ・運天村 ・(下運天村)
 ・沖ノ郡島 (ミつな島) (石川村) 

※1666年に伊野波(本部)間切と今帰仁間切が分割する。 並立して表記した村があり。

・「琉球国由来記」(1713年)

 ・今帰仁村 ・中尾次村 (中城村) ・玉城村 ・岸本村 ・上運天村 ・郡村 ・與那嶺村 
 ・兼次村 ・親泊村 ・志慶真村 ・諸喜田村 ・崎山村 ・平識村 ・謝名村 ・中宗根村
 ・寒水村 ・勢理客村 ・運天村 

・『琉球国旧記』(1731年)(今帰仁郡の邑)

  (天底邑) ①今帰仁邑 ②親泊邑 ③親泊邑 ④兼次邑 ⑤志慶真邑 ⑥諸喜田邑 
  ⑦与那嶺邑 ⑧中城邑  ⑨崎山邑 ⑨平敷邑 ⑩謝名邑 ⑪仲宗根邑 ⑫岸本邑 
  ⑬玉城邑 ⑭寒水邑 ⑮勢理客邑 ⑯上運天邑 ⑰運天邑 ⑱古宇理邑

☆天底邑は1719年に今帰仁間切に移動しているが旧記ではそのままである。資料を読む
  機会がなかない。村移動についてモデルにしているのが、現在の今帰仁村天底である。
  1719年に本部間切伊豆味地内から今帰仁間切の勢理客地内へ嘉津宇は具志堅村に
  移動。村移動であることは、天保琉球国図に「あめすく村」は伊豆味村地内に描かれて
  いる。『球陽』(尚敬7年:1718年)「本部間切天底村を遷して今帰仁間切に入る。その村
  移動をもって、貢租は免れるものではなかった。享保三年戊戌年天底村今帰仁間切へ
  村越仰付候の如く農民は 土地に付随し貢租の為にその自由を奪われ当村疲入候付
  き具志堅村へ一応加勢は貢祖の割付と土地耕作の強制を示したるものなりと言うべし。
                (田村浩:琉球共産村落の研究)
・御当国中村位定之事

 ・今帰仁村 ・岸本村 ・湧川村 ・天底村 ・古宇利村 ・志慶真村 ・寒水村 ・親泊村 
 ・諸喜田村 ・勢理客村 ・謝名村 ・与那宗村 ・中城(上間)村 ・兼次村 ・仲宗根村
 ・平敷村 ・崎山村 ・玉城村 ・上運天村 ・運天村
 
・『乾隆二年帳』(1737年)今帰仁間切の村数(20ケ村)

 ①天底村 ②今帰仁村 ③親泊村 ④兼次村 ⑤志慶真村 ⑥諸喜田村 ⑦与那嶺村 ⑧中城村 ⑨上間村
   ⑩崎山村 ⑪平敷村 ⑫謝名村 ⑬仲宗根村 ⑭岸本村 ⑮玉城村 ⑯寒水村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村 
   ⑲運天村 ⑳古宇利村


・間切村名尽(附宮殿宮衛名)(1713~1719年)
 
 ・仲宗根村 ・岸本村 ・与那嶺村 ・崎山村 ・平識村 ・謝名村 ・勢理客村 ・親泊村 ・志慶真村 
 ・中城村 ・兼次村 ・今帰仁村 ・玉城村 ・運天村 ・上運天村 ・寒水村 ・諸喜田村

・間切村名尽(琉球資料三二)那覇市史所収

 ・運天村 ・上運天村 ・天底村 ・勢理客村 ・湧川村 ・岸本村 ・玉城村 ・寒水村 ・古宇利村 
 ・平敷村 ・崎山村 ・与那嶺村 ・仲宗根村 ・謝名村 ・仲尾次村 ・志慶真村 ・兼次村 
 ・諸喜田村 ・親泊村 ・今帰仁村

    ※天底村(1719年本部間切から今帰仁間切へ移動)
      湧川村(1738年)がある。

・『事々抜書』(1742~64年)(21ヶ村)(中城は上間仲尾次二ケ村の事)
   ①天底村 ②今帰仁村 ③親泊村 ④兼次村 ⑤志慶真村 ⑥諸喜田村 ⑦与那嶺村 ⑧中城村 ⑨(上間村) 
   ⑩崎山村 ⑪平敷村 ⑫謝名村 ⑬仲宗根村 ⑭岸本村 ⑮玉城村 ⑯寒水村
 ⑰勢理客村 ⑱上運天村 
   ⑲運天村 ⑳古宇利村 ㉑湧川村

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・琉球一件帳(1738年)(今帰仁間切村数)(21村)
 
 ・今帰仁村 ・岸本村 ・湧川村 ・天底村 ・古宇利村 ・志慶真村 ・寒水村 ・親泊村 
 ・諸喜田村 ・勢理客村 ・謝名村 ・与那嶺村 ・中城村 ・上間村 ・兼次村 ・仲宗根村
 ・平敷村 ・崎山村 ・玉城村 ・上運天村 ・運天村 

   ※天底村(1719年)湧川村(1738年)がなし

『御当国御高並諸上納里積記』(1738年以降)(21村)

   (「此村位ハ慶長御検地之時相定候村立ニて候」とある。しかし、本部間切は1666年、恩納間切、久志間切、
   大宜味間切の成立は1673年であり、村レベルでみると湧川村の成立は1738年であり、村位は慶長検地の時に
   定めたものを踏襲したとしても村の成立は元文検地以降である。


 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥与那嶺村 (⑦中城村 ⑧上間村) ⑨崎山村 
 ⑩平敷村 ⑪謝名村 ⑪仲宗根村 ⑫玉城村 ⑬寒水村 ⑭岸本村 ⑮湧川村 ⑯天底村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村
 ⑲運天村 ⑳古宇利村 


『琉球藩雑記』(明治6年)今帰仁間切の村(21ヶ村)
 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④誌慶真村 ⑤諸喜田村 ⑤与那嶺村 ⑦仲尾次村  ⑧上間村 
 ⑨崎山村 ⑩平敷村 ⑪謝名村 ⑫仲宗根村 ⑬玉城村 ⑭岸本村  ⑮寒水村 ⑯湧川村 ⑰天底村 
 ⑱勢喜客村 ⑲上運天村 ⑳運天村 
古宇利村   

・『統計慨表』(明治13年)今帰仁間切の村(20村)
 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥與那嶺村 ⑦仲尾次村 ⑧崎山村 
  ⑨平敷村 ⑩謝名 ⑪仲宗根村  ⑫岸本村 ⑬寒水村 ⑭玉城村  ⑮湧川村 ⑯天底村 ⑰勢理客村 
  ⑱上運天村 ⑲運天村 ⑳古宇利村 

    
・土地整理(明治36年)
 ①今泊村(今帰仁村と親泊村が合併) ②兼次村 ③諸志村(諸喜田村と志慶真村が合併)
 ④与那嶺村 ⑤仲尾次村 ⑥崎山村 ⑦平敷村 ⑧謝名村 ⑨仲宗根村 ⑩玉城村(岸本村・
  玉城村・寒水村が合併) ⑪湧川村 ⑫天底村 ⑬勢理客村 ⑭上運天村 ⑮運天村 
 ⑯上運天村 ⑰古宇利村

沖縄島諸祭神祝女類別表(明治15年)(20村)(田代安定撰録)
  ①今帰仁村 ②御泊村 ③兼次村 ④諸喜田村 ⑤志慶真村 ⑥与那嶺村 ⑦仲尾次村 ⑧崎山村 
  ⑨平敷村 ⑩謝名村 ⑪仲宗根村 ⑫岸本村 ⑬玉城村 ⑭寒水村 ⑮天底村 ⑯湧川村 ⑰勢理客村
  ⑱上運天 ⑲運天 ⑳古宇利村 

    当時の祭祀場の確認

・土地整理期の今帰仁間切村全図と原
    地割から個人に土地の所有権が与えられる。
    明治36年当時の各村の戸数、人口(士族の戸数、人口)
    税制が物納から金納となる。
    地割の痕跡をみる。

・明治41年以後の恩納村字全図と小字

    間切(まぎり)が村(ソン)に村(ムラ)が字(アザ)となる。

・字(アザ)の新設
  ・呉我山(玉城の西アザナ原、天底の三謝原、古拝原、古呉我原、湧川の中山原からなる)
  ・越地(渡喜原、与比地原、伊地那覇原、頭原、謝名越地原は謝名から、
         仲宗根越地原と小浜は仲宗根から)
  ・渡喜仁(小禄原、渡喜仁原、浜原、金原、立石原は勢理客から、大浜原は上運天から、
        長迫原、川俣原、水川原は上運天原から、西時仁原は仲宗根から)

・現在の字
  ①今泊 ②兼次 ③諸志 ④与那嶺 ⑤仲尾次 ⑥崎山 ⑦平敷 ⑧謝名 ⑨越地
  ⑩仲宗根 ⑪玉城 ⑫呉我山 ⑬湧川 ⑭天底 ⑮勢理客 ⑯渡喜仁 ⑰上運天
  ⑱運天 ⑲古宇利


2020年2月7日(金)

 1665年以後今帰仁按司は首里に居住したのであるが、首里に住みながらどのようなことをやっていたのか知りたい。そこから領地である今帰仁間切と今帰仁按司との関わりが見えてきそうである。奉公人を務めて「口上覚」(勤職書)に今帰仁城への「立願」がたびたび登場。迎え入れたのが間切役人(奉公人あがり)。

2005.03.19(土)

 明日(2005年3月19日)から与那国島と石垣島を訪れている。与那国島ははじめてである。これから与那国についての下調べ。地図を広げてみると、沖縄本島北部から直線距離にして与那国島までと、鹿児島県の開門岳あたりに相当する。そう見ると、沖縄県ではあるが与那国島は遠い。今回、与那国島に足を向けた理由の一つに、『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)や『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条、そして『具志川家家譜』の記事である。

 ○『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)
   右嘉慶弐拾四卯九月、与那国島江今帰仁按司様
   大和船より被成御漂着候付、諸事為見届渡海之時、
   西表村潮懸滞留ニ而先祖由来より書写、如斯御座
   候、以上
      辰二月          用庸
   右錦芳氏石垣親雲上用能御所持之写よ里写候也 
      用紙弐拾五枚    松茂氏
                     當整

 ○『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条に、与那国島へ漂着した概略が記されて
  いる。
   本年。為慶賀 太守様。陞中将位事。遣向氏玉城按司朝昆。六月十一日。
   到薩州。十一月二十三日。回国。(去年為此事。遣向氏今帰仁按司朝英。
   前赴薩州。但其所坐船隻。在洋遭風。漂到八重山。与那国島。不赶慶賀使
   之期。故今行改遣焉)

 ○『具志川家家譜』十二世鴻基(朝英)の嘉慶24年に詳細な記述がある(省略)。

 薩州の太守様が中将になったときに、向氏今帰仁按司朝英(鴻基)が派遣されたが、薩州に着く前に、船は逆風に逢い八重山の与那国島に流されてしまった。翌嘉慶25年向玉城按司(朝昆)を派遣した。今帰仁按司鴻基は1816年に琉球を訪れたバジル・ホールと交渉した人物である。那覇港を出航したが、逆風にあい運天港に乗り入れ風待ちをし、運天港から出航したが与那国島へ漂着する。漂着地である与那国へである。

 与那国のことを調べている(『与那国島』(町史第一巻参照)と、膨大な情報があるが頭に入れ込めず。島に行って島の人々の個性と接することができればと開き直っている。

 与那国のことを島の人々は「どぅなん」と呼び、石垣では「ゆのおん」と呼ぶという。そのこと確認できれば、それでいい・・・。ついでに言うなら音として確認できないが、『成宗実録』(1477年)に与那国島に漂着した朝鮮済州島民の見聞録では「閏伊是麼」(ゆいんしま)、おもろさうしでは「いにやくに」、『中山伝信録』(1719年)には「由那姑尼」とある。近世になると「与那国」と表記される。

 与那国島近海が黒潮の玄関口だという。大正13年に西表島の北方沖で起きた海底火山。そのときの軽石が黒潮に乗って日本海側と太平洋側の海岸に流れ着いた様子を気象庁に勤めていた正木譲氏が紹介されている。与那国島近海を北流する黒潮本流と、与那国島にぶち当たり反流する黒潮支流があるようだ。そのことが、与那国島の祭祀や言語などに影響及ぼしているのであろう。

 与那国島について、乏しい知識で渡ることになった。すでに多くの研究がなされているであろう。それらに目を通すことなく渡ることになるが、まずは島に渡ることから。
 

2020年2月6日(木)

 平成3年(1991)頃、今帰仁グスクを訪れた先人達がどう記したのか。グスクを記した記録に目を通してみた。これまで数多くのテーマで書き綴ってきたが、先人達が訪ねた場所、そこを自分の足で、目で確かめてきたことが今でも習慣になっている。そのスタートが以下の記録である。昨日の「運天を訪れた人々」そうであるが、先人達の研究を直に確かめてきたし、どう変わり、変化しないのはなにか。歴史も生き物なのだと実感している。20年前に脳裏に刻んできたのが、今はどう圧縮あるいは変化して遺っているのか。(それは自分自身の成長でもあり、見逃していたものに気づく。あるいは仲原流の研究スタイルなのかもしれない。
 
※「なきじん研究 6」所収(1996年発刊)

2020年2月5日(水)

運天を訪れた人々(参照)




2020年2月4日(火)

 
「近世の今帰仁間切の役人」は『琉球国由来記』(1713年)まとまって出てくる。間切役人を見ると変化があり、行政改革があったことが読み取れる。

 ・地頭代 湧川大屋子 ・夫地頭6員(地頭代含) ・志慶真大屋子 ・奥間大屋子 ・郡大屋子
               ・兼次大屋子 ・諸喜田大屋子
               ・首里大屋子 ・大掟 ・郡掟 ・運天掟 ・上運天掟 ・玉城掟
               ・中尾次掟  ・平敷掟 ・南風掟 ・西掟 ・与那嶺掟 ・今帰仁掟

【「農事御取締帳」(咸豊11年:1861)】
   ・地頭代 古宇利親雲上 ・耕作当 前諸喜田親雲上  ・仮耕作当 前兼次親雲上
   ・夫地頭 志慶真大屋子 ・夫地頭 諸喜田大屋子 ・夫地頭 湧川大屋子 ・夫地頭兼次親雲上
   ・首里大屋子 東嶺筑登之 ・大掟 村田にや ・南風掟 大城にや ・西掟 大城にや 
   ・今帰仁掟 ・与那嶺掟 ・仲尾次掟 ・平敷掟 平田(謝名)掟 ・仲宗根掟 ・玉城掟
   ・天底掟 ・上運天掟 ・運天掟 ・古宇利掟


【「県下各間切各島夫地頭以下役奉調」明治13年:1880】

【「沖縄旧慣地方制度」明治26年:1893】
  ・地頭代(1名) ・耕作当(3名) ・惣山当(3名) 

【明治29年に郡区制】
 ・番所→役場
 ・間切吏員は廃止(間切長・収入役・勧業委員・村頭)
 
【明治30年(1897)】
  ・地頭代→間切長
  ・掟   →村頭

【明治41年 沖縄県及島嶼町村制】
  ・間切→村(ソン)
    村→字(アザ)

    (事中)



2020年2月3日(月)

 「山北三王の時代」について素描。それ以前の時代について冒険してみることに。いくつか手掛かりをつかんでいる。与論や沖永良部、国頭、大宜味、名護などを見ると、三王以前のことを記している。「野史」と言われているので「歴史」で軽視されているのではないか。(史料がほとんどないことは承知している)「正史」の古い時代も「野史」同様な手法、あるいは他の分野の学問を使って描かれている。「野史」も「正史」(『中山世譜』や『中山世鑑』や『球陽』など)部分を引用している。「正史」からはみ出した部分、あるいは史料がない、あるいはみつからない部分(伝承)部分、あるいは「おもろ」で謡われている時代を「野史」とされているのではないか。

 沖永良部島(知名町・和泊町)から十数名が訪れる。両町の資料の確認。新聞記事が何年なのか、それと小禄家の家譜の記事、永良部阿応恵、郷土参考舘などの確認がしたくて。

2010(平成22)年1028日(木)メモから

 以前紹介した記憶があるが、新聞の切り抜きが出て来たので再度のその記事を掲げておく(昭和14日新聞記事)。

   古琉球の遺寶
      水晶の曲玉  県外流失を免れ 郷土参考舘へ所蔵
  県教育会郷土参考舘では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎秘蔵の永良部阿応恵の
  曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本晶は元小
  録御殿の伝寶にかかり同家大宗維衝(尚氏大王長男)より四世に当る大具志頭王子
  朝盛の室永良部阿応理恵職の佩用したものとみられている。これに関し県教育会
  主事島袋源一郎氏は語る。
   此曲玉は永良部阿応理恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上
  昌けんの女で童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理恵なる神職
  は苧禄御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年
  島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其の後廃官になったものと思
  われる。しかし同家では尚維衝が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えてい
  る中でこの曲玉は前年京大に送って調査の結果何れも硬玉で石の原産は南支地方で
  あろうとのことで曲玉は三箇で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一箇が一連になってをり又と
  得がたき寶物であるが松原氏は数箇所より高価をもって所望せらるるにもかかわらず、
  その県外に流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派
  なものだ。

 
     永良部阿応理恵の曲玉        右が永良部阿応理恵の佩用の曲玉
 

濱田博士絶讃
    本県最高の宝玉
      明日より郷土博物館に陳列


 首里城内沖縄郷土博物館では来る二十日挙行される本県唯一の秋祭り沖縄神社祭を好機に明十五日より十一月十四日まで一ヶ月の予定で今帰仁村今泊向姓糸洲氏阿応理屋恵按司(□涼傘をさす神職)所蔵の勾玉一聯(大形一、小形二十一、水晶玉一聯百十六個)の他左記数点を特別陳列することになっている。
 一、玉の□草履一組、冠玉、玉の旨当等一式
 二、今帰仁村今泊。今帰仁のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金の簪一個。
 三、名護屋部のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金のかみさし一個
 四、永良部阿応理屋恵按司佩用勾玉一連(勾玉大形二個、水晶白□個)
 五、地方のろくもい勾玉一連、今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵、

勾玉は今から四百五十年

以前尚真王時代のもので京都帝大濱田常□博士が同種勾玉として全国に類例なく本県最高の宝玉であると絶讃した逸品である。

2020年2月2日(

【山北三王の時代】(怕尼芝・珉・攀安知】

沖縄本島北部を山原(やんばる)と呼ばれている。山原と呼ばれるようになるのは近世になってからである。その地域は山北(北山)と記される。山北(北山)・中山・山南(南山)が鼎立していた時代を三山鼎立の時代と呼んでいる。北山の領域が山原である。

北山の時代は十一、二世紀から十五世紀初頭にかけてを言う。その北山の時代は、各地のグスク(城の字をあてグスクやグシクと呼ぶ)に按司が居住し、小規模のグスクが山原では五つにまとまり、さらに五つが今帰仁グスクに統一される。『明実録』に山北王が登場する頃には今帰仁グスク(北山城址・今帰仁城)に山北(北山)王が居住し、山原全域(奄美域の一部含む)を統括しクニとしての体裁を持った時代である。

山北というクニはどのような支配形態を持っていたのか。後に五つの行政区(間切)へまとまっていく。その過程とその時代に築かれた文化、支配形態については『明実録』を通してみることにする。 

一、山原の五つのグスクの頂点

 まず、現在想定している山原の歴史の流れを素描してみる。沖縄本島北部に後に五つの間切へとつながる根謝銘(ウイ)グスク(現在の大宜味村謝名城)、親川グスク(別名羽地グスク、旧羽地村で現在名護市)、金武グスク(金武町)、今帰仁グスク(今帰仁村)がある。その他に四十近い小規模のグスクがある。グスクと呼ばれていないが、御嶽(ウタキ)というのが、村(ムラ、今の字)クラスにある。御嶽(ウタキ)は集落(マキ・マキヨ)の発生と密接にかかわる信仰の対象となる重要な聖地である。グスクはある規模の権力を持った有力者と関わる場所だと考えている。

 十一、二世紀頃から各地の御嶽(ウタキ)を腰当(クサティ)とした集落の発達と、それらベースにした支配者のグスクが地域をまとめていく(支配)していく流れが被さっている。そして山原の各地の小規模のグスクが五つの中規模のグスクへとまとまっていく。そのまとまりが前にあげた一つのグスクである。さらに、五つのグスクを統括したのが今帰仁グスクである。山原の五つのグスクに住む按司達は、それぞれのグスクに居住しつつも今帰仁グスクに君臨する北山王のもとに統治された。今帰仁グスクを拠点に君臨した山北王が北山というクニをつくりあげた、そのような姿が想定できる。 

二、怕尼芝は羽地按司?

 怕尼芝・珉・攀安知の三人の山北王の出現を『明実録』や『中山世鑑』や『中山世譜』にみることができる。山北王が今帰仁グスクを含め五つのグスクの上に君臨した時代は、翼廊と基壇のある正殿の建物など今帰仁グスクの本格的な築城と重なる時代である。今帰仁グスクから大量にこの時期の中国製の陶磁器が出土している。沖縄本島では北山・中山・南山の三山が鼎立した時代で、南山ではまだいくつかのグスクが相争っている姿が『明実録』に見え隠れする。

 北山は怕尼芝・珉・攀安知の山王と続くが、怕尼芝はハニジやパニジと発音されることから、それは羽地グスクから出現した羽地按司ではないかともいう。ハニジとハンアンヂはハニ按司とハン按司ではないか。ミンは珉按司の按司部分が脱落しているとも考えられる。ハンアンヂはハニジ同様ハニ按司とも読み取れる。そのように見ると、北山王は今帰仁の地から生まれた按司ではなく他の地からきて今帰仁グスクを築いたとも考えられる。怕尼芝・珉・攀安知以前の北山の王統は、これまで歴史で扱っている資料では皆目不明というしかない。

 それ以前の北山の王統は「野史」と言われている資料の検証しながら扱うしかない。

 攀安知の時代(一四〇五~一四一六年)、中山の巴志と山原の国頭・羽根地・名護などの連合軍で攀安知(今帰仁)を滅ぼした。攀安知が滅ぼされた時、国頭・羽地・名護などの山原の按司は中山に寝返った様子などから、北山は必ずしも安泰であったわけではない。攀安知王の滅亡(一四一六、よっては一四二二年)で北山王を頂点としたクニとしての体裁は崩れてしまった。

 北山滅亡後、中山から派遣された按司が統治する監守制度が敷かれた。一四二二年巴志の弟の尚忠が北山に派遣される。一四二九年に南山も巴志に滅ぼされ琉球は統一国家となる。一四三九年に尚忠が国王になると、北山監守は尚忠の弟の具志頭王子に引き継がれる。

 一四六九年に第一尚氏は滅び、第二尚氏王統になると、北山監守はしばらく大臣が交替で監守を勤めていたようである。一五〇〇年頃になると尚真王の三番目の尚韶威を北山に派遣し、七代まで北山監守を務める。

 北山が滅ぼされた後、監守を派遣した理由、それが第二尚氏になっても監守を派遣しなければならなかった理由が、南山あるいは中山とは異なる文化を持っていた地域という観念が読み取れる。それがどういうものなのか。 

三、近世・現在の行政区分へ

 歴史の大きな流れで、山原の五つのグスクの領域は、一五〇〇年代になると国頭、羽地、名護、今帰仁、金武の五つの間切となる。それは首里王府を中心とした行政区分である。一五〇〇年代の古琉球の「辞令書」に具体的に反映している。「みやきせんまきり」(今帰仁間切)や「くにかみまきり」(国頭間切)、「きんまきり」(金武間切)がそれである。その時期にはグスクに居住していた按司達は、もう首里に集められていた時期である。

 近世になると今帰仁間切を分割して伊野波(後に本部)間切(一六六六年)、国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(大宜味)間切(一六七三年)、名護間切と金武間切を分割して久志間切(一六七三年)、恩納間切と読谷山間切を分割して恩納間切(一六七三年)が創設される。近世に分割された間切区分は近年まで継承せれてきた。

 このように見てくると、現在の行政区分は山原の小規模のグスクが五つのグスク(根謝銘・親川・今帰仁・名護・金武)と、その領域にまとまっていく過程と間切区分が重なってくる。今帰仁グスクに統括されると、山北王が山原全域、さらには奄美地域(少なくとも沖永良部島・与論島)を支配、その時期に築かれたものが文化(その圏域を北山文化圏という)として継承されているに違いない。

四、北山の支配形態

 今帰仁グスクの支配形態を、特に『明実録』や『中山世譜』や『球陽』を通してみていくことにする。まず『明実録』に山北王が登場するのは一三八三年十二月の記事が最初である。交易の回数などについては次回に述べるが、ここでは交易品や貢物から山北(北山)の支配形態について触れてことにする。 

イ、印・衣冠で地位強化

 琉球国側からの貢物として馬と硫黄、そして方物がある。一方隆吾九から賜った品々は衣類・文綺・紗錠などである。

 まず、最初に注目したいのは駱駝鍍金銀印である。駱駝の形をした鍍金(メッキ)を施された銀印である。それには「山北王之印」と彫られていたとみられる。中国皇帝から印を賜ったということは、山北はクニとしての体裁を整え、自らの地位を確固たるものにしていこうとする意図によるものであり、小規模にしてもクニとしての成り立っていたことを示すものであろう。山北王を頂点としてクニの存在を示すものである。山北王が「山北王之印」と彫られた印の押された文書を作成し、達(たっし)を伝達する体制が整えられていたか、あるいは整えつつあったことがしれる。文書をもっての仕組みがあったことを意味する。

 駱駝鍍金の銀印は山北王だけでなく中山王、山南王も賜っている。そのことは沖縄本島で三山が鼎立しながら三王がクニとしての体裁をなしていた。今帰仁城跡の発掘で山北王の駱駝鍍金銀印の出土が期待されるのは、『明実録』の記事の信ぴょう性だけでなく、山北王を頂点としたクニがあり、中国から賜った銀印で山北(山原)地域を統治して形態の裏付けともなるからである。

 次に衣冠や衣服類であるが、『球陽』武寧八(一四〇三)年の条に「山北王、衣冠を賜らんことを乞う。山北王攀安知、善佳姑那を派遣し、表文を奉して方物を貢ぎ、冠帯・衣服を賜り、以って国俗を変えることを乞う」とあり、中国国王に文書を出して国俗を変えることを願い出て許されている。国俗を変えるとはクニの制度を変えることであり、また衣冠を請い願うことは、身分を明確にし、位階制度を整えることである。中国の皇帝から賜った衣類をまとい儀式に参加することで、王としての身分が確立され顕示したとみられる。

 このような状況から、山北王を頂点としたクニの制度が比較的整っていたとみてよさそうである。ただし、山北王が山原の他のグスクの按司、世の主などをどう支配していたのかについては、さらに研究を深めていく必要がある。 

ロ、硫黄はどこから?

 『明実録』や『中山世譜』や『球陽』による琉球側からの貢物に硫黄と馬と方物である。その中の硫黄であるが、山原に硫黄を産出する場所はない。当時から硫黄の採掘地は硫黄鳥島である。旧那覇港付近に硫黄城(イオウグスク)があり、名の示す通り硫黄の集積場所である。

 薩摩が琉球に侵攻した一六〇九年以降、硫黄鳥島は薩摩に入れず(与論以北を薩摩へ)いびつな形で琉球と薩摩の境界線が引かれた。それは硫黄が琉球国から中国への重要な貢物の一つあり、その産地の硫黄鳥島は重要な島であった。そのため、いびつな線引きは琉球と中国との貿易が多大な利益を得ていた薩摩の計らいによるものである。現在でも硫黄鳥島は久米島町(合併以前は久米島具志川村)である。

 硫黄は山北王からの貢物の重要な一品である。硫黄を産出しない山北は、硫黄鳥島からどのような経路で硫黄を手にし、中国への貢物にしていたのだろうか。山原の、特に運天港や今帰仁グスクの麓の親泊に硫黄と関わる遺跡や地名など、その確認ができない。もし、山原に硫黄と関わる遺跡の確認ができれば、山北は独立した形で明国と交易していたことになる。その遺跡が確認できない段階で、硫黄の北山への移送をどうとらえればいいのか。

 『明実録』から、山北の明国への朝貢は、硫黄鳥島から那覇港の硫黄城へ、北山もそこで積み込み明国へ貢いだ可能性が高い。というのは、山北王の明国との交易が十八回あるが、その内独自に行ったのは五回である。他はどうも中山と一緒のようである。中国側の記録の仕方に起因する面もあるが、硫黄の蓄積場の硫黄グスクや久米系、それと留学生を送っているなら独立した形での交易の姿が見えるのだが。

ハ、物流は今帰仁経由?

 山原の五つのグスクからは中国製の陶磁器が出土する。今帰仁グスクの山北王は『明実録』に登場し、直接中国と貿易があったことが知れる。ところが他のグスクについての交易記録は皆無である。グスクはいずれも港を抱えているので、直接貿易していた可能性はある。しかし今帰仁グスクのような大量の出土ではない。すると、山原の各グスクへの陶磁器類の入り込みは、今帰仁グスク経由が主だと考えられる。

 まだ、仮設の域は出ないが、山北王の山原のグスク支配と交易品の中国製の品々の物流が今帰仁グスク経由であるなら、中国への馬や硫黄、そして方物と記される品々を拠出する山原の各グスク(按司)と今帰仁グスク(山北王)の支配関係や統治の様子が見えてくる。 

五、『明実録』に見る山北王

山北王怕尼芝が進貢を開始した洪武十六年(一三八三)から攀安知王の最後の進貢永楽十三年(一四一五)までの三二年間までの三山の交易の回数を『明実録』によると、中山が五二回、山南が二六回、そして山北は十七回である(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』)。山北十七回のうち怕尼芝王が五回、珉王が一回、攀安知王が十一回である。北山だけで渡航した進貢は五回である。山北の多くは中山と同じ年に渡航している。進貢が同時期なのは明国の国情によるのであろうが、山北は十二月から四月にかけてである。当時の状況を『明史』に「北山は最も弱く、これ故朝貢もまた最も稀」だと記してある。北京に遷都したのは永楽十九年(一三九〇)なので、それまでの目的地は南京である。

冊封関係を持つ山北王は怕尼芝・珉・攀安知と続くが、怕尼芝についての出自と珉との関係は全くわからない。『中山世譜』と『球陽』(洪武二九年条)に「山北王珉薨じ、其の子攀安知嗣辰し、封を朝に受け、以て遣使入貢に便す」とあり、珉と攀安知とは親子関係にある。

もちろん山北王は、他の二山同様中国皇帝による王の地位を認めてもらう冊封と貢物を献上し忠誠を示し、それに対して冠帯や衣服、紗・文綺・襲衣などを賜ることを最大の目的としている。それと同時に、各地のグスクから出土している中国製の陶磁器類を輸入する貿易関係の確立でもあった。今帰仁グスクの麓にトーシンダー(唐船田)やトーシングムイ(唐船小堀)などの地名がり、明国と交易した名残なのだろうか。

冊封体制の確立は、明国との主従関係もあるが、山北内部での支配関係を明確にするものである。山北王の冊封は山北のクニ的儀礼であり、貢物の硫黄や馬や方物を準備するのに各地の按司(世の主)を統括する必要がある。山北王は冊封や朝貢の名で国頭・羽地・名護・金武などの按司を支配関係に置き、山原全域を統治していく役割を果たしたとみてよい。

具体的な貢物に馬と硫黄鳥島で採掘した硫黄がある。その他に方物がある。その中身について具体的に記されていないが夏布(芭蕉布?)もその一つである。貢物とは別に貿易品の調達もあり、その取引で移入されたのが各グスクから出土する陶磁器類であろう。

今帰仁グスクの基壇と翼廊のある正殿の建物で、山北王が明国から賜った冠服をまとい衣冠制度による身分を示す衣服をまとった各地のグスクの按司達が儀式に参列している風景は、まさにクニの体裁が整い、身分制度による支配形態が髣髴する。

怕尼芝から開始した冊封も、永楽十三年(一四一六)攀安知王で終わりを告げた。『明実録』で三名の王の出現があり、三名の中では冊封の回数が多いのが攀安知王である。しかし中山や南山と比較すると少ない。そのことが国頭・羽地・名護などの按司が中山に組みした理由の一つであろう。北山王を中心としてクニの形をなしているものの、内部では内紛の兆しがあった。

六、根強く残る北山王の時代の伝承

さて、山原の五つのグスク関係について『明実録』で全く触れられていないし、それと琉球側の『中山世譜』や『球陽』などの文献でもそうである。そのため、グスクの立地や発掘あるいは表採されたグスク系土器や中国製の陶磁器などの遺物や堀切、現在見えるグスク内の祭祀と関わる御嶽やカー、神アサギなどを手がかりにみていく方法しかない。

伝承の域をでることはないが、例えば根謝銘グスクは北山系の人々が根謝銘グスクを頼りに逃げ延びていった。親川グスクは、羽地地域を統括した按司の居城であったが、築城途中でやめて今帰仁グスクへ移った。名護グスクは中北山の時代、今帰仁世の主の次男が派遣され築城。名護按司を名乗るようになり、代々名護按司の居城だと伝えられる。

 北山滅亡後に山原各地のグスクが機能を失ったわけではない。今帰仁グスクは首里から派遣された今帰仁按司が代々監守をつとめ一六六五年まで続く。ところが尚真王が各地の按司を首里に集居させたため按司地頭や火神を残すのみとなった。その名残が『琉球国由来記』(一七一三年)のグスクでの祭祀に按司や惣地頭が首里から来て祭祀へ参加する姿である。

 山原の各グスク間の関わりは、文献史料をはじめ発掘された遺構や遺物などの成果を持っても、いい伝えら伝承の域をでていない。グスクとグスクとの関係についての研究を深めていく必要がある。

七、沖永良部島・与論島の歴史

八、国頭(大宜味)の歴史 

『明実録』の山北王の記事に目を通してみることに。歴代宝案編集参考資料5に『明実録』の琉球史料(一)として、原文篇、訳文篇、注釈篇が公にされている(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室)ので、大変有り難いことである。感謝するものである。この訳文と注釈を通して、山北三王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代を、一歩、二歩、踏み込んでいける。まずは、山北王の記事の全てを拾い上げる。

【参考資料編】

 『明実録』に山北王が記されるのは洪武十六年(一三八三)からである。洪武十六年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。

 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。

 山北王怕尼芝は洪武十六年(一三八五)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。
 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。

 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割は、になっていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数に於いても。

『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度三六年(一三八五)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。

 攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。

【山北王怕尼芝】(七)

①洪武十六年(一三八三)正月丁未(三日)
 
 詔して琉球国中山王察度に鍍金銀印并びに織金文綺・帛・紗・羅凡そ七十二匹を賜う。山南王承察度 も亦た之の如し。亜蘭匏等は文綺・鈔・帛を賜うこと差有り。…時に琉球国、三王雄長を争いて相い攻撃す。使者帰りて其の故を言う。是に於て亜蘭匏等を遣(や)りて還国せしむるに、并びに遣使した中山王察度に勅した曰く「王、滄溟の中に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや。

 王能く天を体して民を育て、事大の礼を行う。朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わして朝貢す。朕、王の至誠を嘉し、尚佩監奉御路謙に命じて王の誠礼に報わしむ。何ぞ期せん、王復た遣使し来りて謝す。今内使監丞梁民をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)して王に渡金銀印一を賜わしむ。近ごろ使者帰りて言わく、琉球の三王互いに争いて農を廃し民を傷つく、と。

 朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。王其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん」。山南王承察度・山北王怕尼芝に論して曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。

 邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察度も亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近ごろ使者、海中より帰りて言わく、琉球の三王互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。
 朕之を聞き?憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体し、兵を息め民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん」。

②洪武十六年(一三八三)十二月甲申(十五日)
 琉球国山北王怕尼芝、其の臣模結習を遣わし方物を貢す。衣一襲を賜う。

③洪武十七年(一三八四)正月己亥(一日)
 琉球国中山王察度・山南王承察度・山北王怕尼芝・暹羅斛国王参烈宝毘牙偲哩□録及び雲南・四川・湖広の諸蛮夷の酋長、倶に遣使して表を進め方物を貢す。文綺・衣服を賜うこと差有り。

④洪武十八年(一三八五)正月丁卯(五日)
 琉球国の朝貢の使者に文綺・鈔錠を賜う。及び駱駝鍍金銀印二を以て山南王承察度・山北王怕尼芝に賜う。又中山王察度・山南王承察度に海舟各一を賜う。

⑤洪武二一年(一三八八)正月戊子(十三日) 
 琉球国山北王怕尼芝、其の臣を遣わして方物を貢す。

⑥洪武二十一年(一三八八)九月丁亥(十六日) 
 琉球国中山王察度・山北王尼怕芝、其の臣甚結致を遣わし、表を上りて天寿聖節を賀し馬を貢す。来使に鈔を賜うことを差有り。

⑦洪武二十三年(一三九〇)正月庚寅(二十六日) 
 琉球国中山王察度、亜蘭匏等を遣使し表を上りて正旦を賀し馬二十六匹・硫黄四千斤・胡椒五百斤・蘇木三百斤を進む。王子武寧、馬五匹、硫黄二千斤・胡椒二百斤・蘇木三百斤を貢す。
 山北王怕尼芝、李仲等を遣使して馬一十匹・硫黄二千斤を貢す。而して中山王遣わす所の通事屋之結なる者、附して胡椒三百斤・乳香十斤を致す。守門せる者験して之を得、以聞すらく、当に其の貨を没入すべし、と。詔して皆之に還す。仍お屋之結等六十人に錠各十錠を賜う。

【山北王珉】(一)
①洪武二十八年(一三九五)正月丙申(一日)
 是の日、朝鮮国李旦・琉球国山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・馬匹を進む。

【山北王攀安知】(十二)
①洪武二十九年(一三九五)正月己巳(十日)
 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に錠を賜う。

②洪武二十九年(一三九六)十一月戊寅(二十四日)
 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。
 是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

③洪武三十年(一三九七)二月丙戌(三日)
 琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。

④洪武三十年(一三九七)十二月癸巳(十五日)
 琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び硫黄を貢す。

⑤洪武三十一年(一三九八)正月(八日)
  琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

⑥永楽元年(一四〇三)三月丙戌(九日)
 琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯・衣服を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び倍臣に冠帯を賜う。

⑦永楽二年(一四〇四)三月己未(十八日)
 琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。

⑧永楽二年(一四〇四)四月壬午(十二日)
 詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
 上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。

⑨永楽三年(一四〇五)四月丙寅(一日)
 琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・綵幣表裏を以てす。

⑩永楽三年(一四〇五)十二月戊子(二十六日)
 琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。

⑪永楽十三年(一四一五)四月丙戌(十九日)
 琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。

⑫永楽十三年(一四一五)六月辛未(六日)
 琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。


2020年2月1日(土)

 2月、沖永良部島から今帰仁へ。「北山と沖永良部島」で原稿をお願いしてある。ちょっと一服。今帰仁グスクの桜は見頃。やはりグスクの桜は美しい。

  


  (工事中)

㉛【七代官制】

①首里代官……真和志・南風原・西原の三間切を掌る
 ②東代官………大里・佐敷・知念・玉城の間切を掌る
 ③島尻代官……具志頭・東風平・摩文仁・喜屋武・真壁・高嶺・豊見城の間切を掌る
 ④浦添代官……浦添・中城・北谷の三間切を掌る
 ⑤越来代官……越来・読谷山・具志川・勝連の間切を掌る
 ⑥今帰仁代官…金武・名護・羽地・今帰仁・国頭の間切を掌る
 ⑦久米代官……久米・慶良間・粟国・渡名喜など島を掌る

七代官制の起源について定かでないが、四代官制(1660年)になる前の制度である。『南島風土記』(東恩納寛惇)は「代官と言う名目は、鎌倉時代に守護代の事であるから、これに倣ったものであろう。」という。17世紀中ごろ創設された間切がないのは当然である。首里代官の下にある真和志・南風原・西原の三間切に同村がないのは、首里王府直轄地とされると同時に、間切規模の領域をまとめたグスクがあったにしろ、西原と南風原の両間切は首里王府からの位置で名付けられた間切名となっている。

【四代官制】(順治17~雍正7年:16601729年)

①島尻代官……真和志・南風原・大里・知念・玉城・東風平・具志頭・真壁・兼城・喜屋武
           ・高嶺・小禄・豊見城・摩文仁・佐敷など十五間切を管轄する
 ②中頭代官……西原・浦添・宜野湾・中城・北谷・読谷山・越来・美里・具志川・勝連・
           与那城など十一間切を管轄する
 ③国頭代官……恩納・名護・本部・今帰仁・羽地・大宜味・国頭・金武・久志・伊江・
           伊平屋など十四間切を管轄する
 ④久米代官……久米・慶良間・粟国・渡名喜など四島を管轄する

 四代官制にしたのは『琉球国旧記』(1731年)にあり、万治三年(1660)であるが、1731年以前に新設された間切名も記されている。『南島風土記』(東恩納寛惇)は「七代官制を改めて四代官制とし、首里三平等・国頭方・中頭方・中頭方・島尻方の管区名も亦この時に設定されたもののようである」と記してある。

・転籍願(明治十三年)



沖永良部島から来客

 2016年に沖永良部島(和泊町)でシンポジウムで講演をしている。その時のテーマは薩摩の史料を廃して、琉球の史料で議論をしたいと提案したことを思い出す。北山と沖永良部島との関わりを話題提供することに。