沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵:(管理人:仲原)
               今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)0980-56-5767)

                        
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2019年9月

 2019年「ムラ・シマ講座」①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭へ

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仲宗根政善先生寄贈資料展(2013年) 資料目録1 資料目録2

今帰仁村謝名の操獅子(アヤーチ)(今年度は9月14日:豊年祭開催)
古宇利島の年中祭祀(平成21年度調査報告)
伊江島の大折目(シニグ)
http--yannaki.jp-jireisyoada.html(国頭村安田のシニグ)
http--yannaki.jp-20167gatu.html(沖永良部島のシニグ)
yannaki.jp/siniguunngami.html (シニグ/海神祭)
yannaki.jp/siniguunngami.html(湧川のワラビミチ)
http--yannaki.jp-yanbaruminato.html(国頭村与那の海神祭)
http--yannaki.jp-hiji1.html(国頭村比地)
http--yannaki.jp-gusiken.html(本部町具志堅のシニーグ

今帰仁村呉我山開墾地/本部村伊豆味唐又開墾値/本部村並里タナンガ開墾地(大正11年)
      



 10月4日まで休みです。


2019年9月24日(火)

 ボツボツ「北山の歴史」(第二監守時代)の概要でも。

・【第二監守時代(前期)】(1500年~1609年)

『向氏家譜』(具志川家)2006.07.16(メモ)

 『向氏家譜』(具志川家)に以下の文面がある。その文面は第二尚氏の監守初代尚韶威のところにある。弘治年間(1488~1505年)に今帰仁王子(尚韶威は尚真王の第三子)が北山監守の命を受けて、北山に赴いたときに尚真王から脇指二振、鎧一本、黄金保伊波武御盃一個、御盃臺一個、金織緞紳一條、唄雙紙(おもろさうし)一冊などを賜っている。康煕己丑(1709年)に首里城が回禄(火事)にあい唄雙紙を一部消失してしまった。尚韶威が賜った唄雙紙が、阿応理屋恵按司の職は廃止されていたが、行禮は毎節行われていた(唄雙紙も継承されていたようだ)ため、一部消失してしまった王府の唄雙紙を具志川家の唄雙紙で補完したという内容である。

 今帰仁グスクの大庭(ウーミャー)で行われていた奉納演舞は、唄雙紙(おもろさうし)と関わるものであったのであろうか。わたしも二回ほど見たことがあるが、唄雙紙と関わるものであったかは聞いていない。しかし、この写真を目にするたびに、唄雙紙に関わる『向氏家譜』(具志川家)の記事が気になる。

  弘治年間奉 命赴山北時蒙 尚真王特賜御脇指二振(一銘備州長光 一銘相州秋廣)御鎧通
  一本(銘行平)黄金保伊波武御盃一個御盃壹一個金織緞紳一條(即今傅為家寶其餘因兵火而
  失之)且□賜唄雙紙一冊毎節行禮盖 山北節節有神出現其禮最重故尚韶威監守以来世率家族
  以行此禮文又 王都遺唄勢頭三四人與彼土唄勢頭倶行禮式此時有阿応理屋恵按司世寄君按
  司宇志掛按司呉我阿武加那志等女官掌此禮式崇禎年間逢兵警後此禮倶廃但阿応理屋恵按司
  之職至今尚存毎節行禮(康煕己丑 王城回禄失唄雙紙時所以伝ん雙紙呈覧而□公補之用


▲今帰仁グスクの大庭(ウーミャー)で行われていた奉納演舞

・薩摩の琉球侵攻(今帰仁城焼き討ち)

・一世尚韶威 今帰仁王子(今帰仁按司) 今帰仁間切惣地頭職(弘治年間)(在今帰仁)
・二世向介紹(没年不明) 今帰仁按司 今帰仁間切惣地頭職(嘉靖年間)(在今帰仁)
・三世和賢(1557年~1591年没) 今帰仁間切惣地頭職(隆慶年間~1591年)(在今帰仁)
・四世克順(1580年~1596年没 今帰仁按司 今帰仁間切惣地頭職(1591年~1596年){在今帰仁)
・五世克址(1582年~1609年没) 今帰仁按司 今帰仁間切惣地頭職(1596年~1609年)(今帰仁在)
  一世は首里の玉陵
  二世、四世、五世は城下の「うつりたまい」から運天の大北墓へ移葬)(乾隆26年1761年
  十世宣謨 今帰仁王子の時、城下のうつりたまいから移す。

 
    ▲三世和賢(今帰仁按司)の墓           ▲「墳墓記」(津屋口墓)

・【第二監守時代(後期)】(1609年~1665年)

 10時半から「第二監守時代(後期)」のグループがやってきた。前の時代とのつなぎは、1609年3月に薩摩の軍隊が今帰仁グスクに攻め入った直後から。今帰仁グスクには監守(按司)の一族が住んでいた時代(城下に移り住む)である。監守(今帰仁按司)は縄祖(六世)従憲(七世)である。二人は運天の大北墓に葬られている。

 今帰仁グスクの後方と前方にあった今帰仁村(ムラ)と志慶真村(ムラ)の集落が麓に移る。移った痕跡として今帰仁ノロやトゥムヌハーニ、今帰仁アオリヤエの火の神の祠が今でも故地に残っている。この時代、今帰仁グスクへ上がるのにエーガー(親川)からミームングスク(見物城)を通るハンタ道が主要道路であった。

 1665年七世従憲は首里の赤平村に引き揚げてゆく。そのため今帰仁グスク内に監守が住むことはなくなった。城内に住んで監守としての役目は終わりを告げた。監守とその一族が首里に引き揚げた翌年、これまでの今帰仁間切は伊野波(本部)間切と今帰仁間切の二つの間切へと分割される。そのとき、今帰仁間切は運天村に、伊野波(本部)間切は伊野波村に間切番所を置いた(伊野波村→渡久地村)。

 この時代は監守が首里に引き上げ、二つの村(ムラ)の集落が麓に移動し、本部半島の大半を占めていた今帰仁間切が二つに分割した時代である。

・六世繩祖)(今帰仁按司)(1601年~1658年没)(今帰仁間切惣地頭職:1609~1654年)(城下在)
・七世従憲(今帰仁按司)(1627年~1687年没)今帰仁間切地惣頭職)(1654~1675年(首里引揚)
    (七世位牌あり)(墓は大北墓)
 
   ▲「具志川家家譜」より  ▲大北墓の碑(大正11年再建)      ▲運天にある大北墓(別名按司墓)

        
▲六世縄祖(瑞峯)の位牌▲1658年死去日が線彫  ▲古いタイプのガーナー位牌(無銘)


2019年9月23日(

 
今帰仁村呉我山開墾地や本部村伊豆味唐又開墾値/本部村並里タナンガ開墾地(大正11年)など(
『沖縄県農林水産行政史』(第十巻所収)に目を通していると、これまで「沖縄の地域調査研究」で扱ってきたいくつかのテーマに突き当たる。本部町伊豆味と今帰仁村天底(呉我山)地域は、方切・村移動・寄留・杣山・杣山払い下げ・移民・新設字など歴史のうねりの姿を見せてくれる。

 ・1666年の本部間切の今帰仁間切からの分離(方切)
 ・『琉球国由来記』(1713年)頃の伊豆味・天底・嘉津宇村と祭祀
 ・1719年の天底村・嘉津宇村の移動(移動地で祭祀を行い神アサギを設置。その理由!)
 ・1736年の呉我村・振慶名村などの移動(方切)
 ・原名にかつての村の痕跡を遺している(古拝原・古呉我原・拝所)
 ・明治36年の土地整理(土地の個人所有)
 ・明治36年の今帰仁間切村図に呉我山は今帰仁間切玉城村全図・同間切天底村全図に含まれる。
 ・大正8年~10年にかけての本集落と寄留地の人口調査
 ・大正9年の今帰仁村字呉我山の設置(年中祭祀、神アサギの設置必要なし。何故?)
 ・大正の頃まで天底ノロが伊豆味の祭祀を掌っていた。

などなど。(工事中)


2019年9月22日(

 被害は庭の木々が折れたり、飛ばされたり。これから片付。「寡黙庵」は明日。


2019年9月21(土)

 北山王の時代(工事中)

 この時代は「明実録」を見ていくが、沖縄側の研究者は「明実録」や「中山世鑑」「中山世譜」「球陽」などから、英祖王の時代、三山鼎立の時代をどうとらえているのか。                                            

2019年9月19日(木)

 明治13年14年あたりの明治政府への事務引継ぎ資料に目を通している。明治12年の廃藩置県で制度が切り替って行く課程の資料である。「旧慣温存期」の様子を見る事ができる。ここではノロの身分保証や間切り役人の削減や復活申請、遠見番と馬番の廃止、遠見番の据え置きなど、制度移行への動きがみられる。

2011年10月7日(金)メモ

 島袋源一郎は昭和31028日、名護神社竣工の式典を挙行するというので、関係団体から神社由緒の起草を懇請されたようである。「名護城史考」として『南島研究5号』(昭和3年)に寄稿されている。その中に名護城周辺の様子や名護神社建設の経緯が述べられているので紹介する。

   名護間切名護村は昔時は今の名護城の中腹に集落をなして居たが、按司は首里へ移住し、漸次人口も繁栄し
   て来たので、終に一部落は今の東江の土地に、一部落は今の大兼久の土地に移り、最後残って居た小部落
   が大兼久前方海岸の新成地即ち今のの土地に引越し、?に全部落が移転して元の城下には現在の如くノロ
   殿内、根神、内神、細目神四軒の神職の家だえk残るやうになったのである。其の移住の年代は明確でないが
   東江、大兼久は多分按司引上   の後で三百数十年前で、城は之より凡そ一世位後の事であろうと思われる。
   琉球由来には単に名護村とあって三部落の名称はなく、又御嶽もテンツギの嶽一ヶ所で神アシアゲも一つである
   から、元来この三ヶ字は同一の氏神の氏子であることになるのである。

   名護城神アシアゲは昔ながらに按司の居城であった山上の台地にあるが、ノロ火神殿内は以前は現在の拝殿
   の位置に建つて居た。そこには其の他にノロ位牌殿内とノロクモイ住宅と三棟相並んで居たのを、明治33年下方
   の風当りのない土地を相し、一軒の瓦葺を建てゝ此の三棟合一してあったのである。

   それを昭和元年町民の発起に依って新に元の三殿内のあった土地に近代日本式の神殿と拝殿とを建築して遷
   座し、全然ノロクモイ舎宅とは棟を別にする様になった。是れ古へに復ったので所謂神と床を同じうしてその
   神聖を汚すことを避けたのである。それと共に祭司の私宅より出る方が神威普く行はれ、隋って、民衆信仰の
   上から意義深くなる。


 
島袋源一郎は「琉球列島に於ける民家の構造と其のは  現在の城ノロドゥンチ(名護神社の側)
  位置」(昭和14年)で名護ノロ家の配置図を示してある。


2011年10月21日(土)メモ

 「北山神社 許可願書」(昭和18年)の資料である。「目次」に 一、北山神社創立願書(同添附書類) 一、土地寄附之証並ニ土地収益調 一、創立後一ヶ年ノ予算書 一、創立予想後ノ神社明細帳、神社地図 一、神社見取図 とある。今回の企画展を「琉球のノロ制度の終焉」とする理由は、「北山神社 許可願書」から、グスクやウタキを神社化することで、ノロ制度を終わらせる政策がとられる。首里城に県社沖縄神社の創立を見たのは大正151020日である。昭和に入ると各地の村(ムラ・シマ)に神社が造られる。昭和5年今帰仁グスクに鳥居が立てられるが神社化されるに至っていない。

 今帰仁グスクに「北山神社」(昭和18年)を創立しようとしたのが、この資料である。それと「ノロ制度の終焉」とどう結びつくかは、六、維持方法で「社禄ノ国債(但シ明治四十三年ノロクモイ職ニ給与セラレタルモノ)金一、五〇〇円及土地山林壱万五百八拾四坪ヲ神社ノ基本財産トシ之ヨリ生ズル利子及寄附ヲ受クルベキ土地ノ収益並ニ氏子崇敬者ノ負担金ヲ以テ維持スルモノトス」とある。ノロ職に与えられていた社禄の国債を取りあげ、神社の基本財産に組み込むことにしたのである。それはノロ制度の実質的廃止である。

 昭和18年に神社建設に向けて、生徒達が動員されているので、この書類は「内務大臣 安藤紀三郎殿」に提出されたと見られる。この許可願書を作成された方は、宮司の資格を取得され、「北山神社」の宮司の予定だったであろう。ところが、昭和19年沖縄本島も爆撃され、神社建設も中断していまう。戦後北山神社が建設されることはなかった。それと戦後ノロ制度の復活はなかった。ノロ制度は法的な区切りがなく、うやむやのうちに現在に至っているのではないか。

  (廃藩置以後、ノロや宮司(神官)は身分保障される。神社化はその狙いがあったと見られる。)

    
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2019年9月18日(水)

 今帰仁村兼次の字誌の編集会議。グラビアや内部に入れる画像の検討。400枚余の画像のキャプション入れ。新しい写真の提供もあり話題は積み残しや別の方向に進むので舵取りが大変。大城秀昭氏、諸喜田元雄氏写真の提供あり。まだまだ戦前・戦後の写真が集まりそう。

 
               ▲グラビアの画像の選び出し

 

 


2019年9月17日(火)

番所(役場)跡地の顛末記(2006.09.07メモ

 大正5年まで運天にあった番所(役場)跡地の顛末記である。大正5年まで番所(役場)があったことについては、これまで度々書いてきた。しかし、役場移転後跡地がどうなったのかはっきりしなかった。山となっている戦後資料の中に跡地についての「陳情書」が出てきた。以下のようにある。その顛末はいかに! 近々確認することに(早速、運天の番所跡地まで。


【運天番所(役場)跡地の顛末】
 番所(役場)跡地(村有地)は大正5年に役場が運天から仲宗根に移った直後、まず二番地が払い下げされたようである。そして「陳情書」の一番地は昭和48年3月の陳情直後に払い下げされている。一番地に枝番(15)があり、分割され払い下げされている。

 一番地と二番地の境にガジマルがあり、海岸沿いにはクムイ、ナガ、チンパーなどの名のついたコバテイシがあったという。現在あるコバテシはチンパの名で呼ばれていたコバテイシだという。現在残っている福木近くには石積みがあったが、護岸工事に使われたという。

                陳情書
 村有地の宅地字運天一番地に現在住居中の宅地に建造についてお願いします。
待望の復帰も実現し皆さまには村政発展のため日夜御奮闘なされることに対し深く感謝申し上げる次第であります。私共は終戦から今日に至るまで字運天一番地六七坪の村有地を分割貸地し宅地として住居を構え生活を営んで参りましたが、その土地も去る一月一日に賃貸契約を更新して居ります。

 その機会に家屋も終戦当時の家屋でありますので、又観光地、海洋博と観光客も年々増える今日であり、このみすぼらしい家屋を建造いたしたいと思いますので、村の計画されて居ります道路拡張に支障のない様に、私達の意を了解され建造許可をされます様連署を以って陳情いたします。

   昭和四十八年三月十九日
       陳情者 今帰仁村字運天一番地
                        上間貞頼
                 字運天十七番地
                        上間貞栄
                 字運天五八番地 
                        松田□□□
     今帰仁村長
          松田幸福殿

 
  ▲昭和48年以降払い下げされた一番地-1           ▲払い下げされた一番地―2

 
  ▲役場移転、直後に払い下げか(二番地)       ▲チンパー(コバテイシ)


2019年9月16日(月)

 今帰仁村兼次の字誌の編集委員会の準備。今回は資料目録と「グラビアの写真」の選び出し。




2019年9月15日(

 調査記録を報告するため、過去の調査を取りだしたみた。その中で「古宇利島」の調査記録が目にとまり、島の祭祀の一年か通してのまとめたことがある。その時、祭祀の調査を通して様々ことを学ばされた。一つひとつ揚げることはできないが、その「解説」で祭祀調査の課題として、自ら課題を課して調査をしてきた。古利島の調査は、私はもうないだろうと思っている。古宇利島の年中祭祀の記録を振り返って「祭祀」がムラ・シマの歴史を立体に見せる、祭祀は農耕暦と結びついた首里王府が決めた「神遊び」(公休日)である、祭祀を掌る神人(特にノロ)は公務員であるなど、歴史の一輪をになってきたと位置づけてきた。祭祀の記録も歴史史料になるのだと、いろいろ学ばされきた。少し忘れかけてきているので・・・・


2019年9月14日(土)

 これから「今帰仁村謝名の豊年祭」(五年廻り)へ。「ムラ・シマ講座」を兼ねて。五年マーイ(満四年)なので、孫達には見せておきたい。30近いプログラムなので、寝ないで最後まで見れるか(午後9時頃まで)。
スタートまでミッチジュネー・サンケーモー(奉納踊りをするところ)・お宮など回ってみることに。⑭(謝名の豊年祭)

 
        ▲豊年祭の舞台        ▲二頭の獅子がムンダギ(黄金の玉)を取り合う場面(先日の練習)

2019年9月13日(金)

 「古琉球の北山」の世界(時代区分)、オモロで山原がどう謡われているか。


     ▲オモロからみた山原     
        ▲北山の時代区分(右側)

2019年9月12日(木)

「勤職書」より
 「勤職書」(口上覚:履歴)から興味深い出来事が読み取れる。その記事から歴史的な出来事を拾うことができる。奉公人のころ、王子の上国や殿内の婚礼や祝い事に雇われ、随行したり、間切役人の頃阿応理屋恵御殿并今帰仁城御火ノ神所の普請、札改や王様(今帰仁按司)が初入のとき、古宇利村の火立所仲原馬場、今帰仁城、親泊馬場四ヶ所のご案内をしたり、中央と地方と密接な関わりが伺える。「立願」が散見できる。それは上国など旅の航海安全を祈願とみられる。それと今帰仁阿応理恵家(アットメー様)へ百果報のウガンがなされ、間切役人がその面倒をみている。そのことが勤職(履歴)として記すことができることと、御内奉公人として推薦することができる。そこに間切役人の世界(動きや働き)が見えてくる。以下15件の「勤職書」(履歴書)から今帰仁城や阿つとう前(今帰仁阿応理恵・御殿のこと)と王子(今帰仁按司)などとの関係が見えてくる。「立願」が何なのかの議論もあるが、立願など、その動きを通して、その動き(関わり)を歴史の場面に登場させることをねらいとしている(シンポジウムデジメより)。〇番号は①から⑯の勤職書に記事があることを示す。

同治元年壬戌九月十八日ゟ同十九日迄今帰仁城上使御立願ニ付さはくり公事繁多ニ付足被仰付相勤置申候
②同治三年子八月廿五日阿応理屋恵御殿并今帰仁城御火ノ神所御普請ニ付本職掛而構被仰付同九月十三日迄
 首尾能相勤置申候
③同年八月今帰仁城并伊平屋島江御立願ニ付上使大宜味按司様金武按司様被遊御下光候付役々交代御拝ニ
 首里江罷登候付さはくり足被仰付同廿五日ゟ九月八日迄首尾能相勤置申候事

④同治十一年八月廿日ゟ同九月二日迄殿内阿つとう前様御百ヶ日之御焼香ニ付罷登相勤置申候事
⑥同三年子九月十一日ゟ同十三日迄今帰仁城上使御立願之時さはくり公事繁多ニ付足被仰付相勤置申
⑨同治三年八月廿五日阿応理屋恵御殿并今帰仁御火之神所御普請ニ付本職掛而構被仰付同九月十三日迄
 首尾能相勤置申候

⑨光緒三年時譜久山殿内亡親方様御始阿つとう前様両人御洗骨御弔ニ付御品々并御仮屋入具御手形入被仰
 付候処御日柄急ニ相成間切ゟ取調差登候間切ニ合不申候付買入上納ニ而御用相弁御焼香抔相勤置申候

①今帰仁間切上運天村当歳五拾八前兼次親雲上勤書 1832(道光12)辰年)~1878(光緒4)年寅8月)
②今帰仁間切志慶真村当歳五拾前湧川親雲上 1843(道光23)年卯8月~1878(光緒4)年寅8月)
③今帰仁間切上運天村当歳五拾前諸喜田親雲上勤書 1842(道光22)寅年~1878(光緒4)年寅8月)
④今帰仁間切兼次村当歳四拾四前兼次親雲上勤書 1840(道光20)年庚子~(1878(光緒4)年寅8月)
⑤今帰仁間切与那嶺村当歳四拾五当志慶真親雲上勤書 1846(道光26(年丙午~(1878(光緒4)年寅8月)
⑥今帰仁間切諸喜田村当歳四拾九前諸喜田親雲上勤書 1838(道光18)年戌12月~(1878(光緒4)年寅8月)
⑦今帰仁間切今帰仁村当歳五拾四前湧川親雲上勤書 1840(道光20)年子9月~1878(光緒4)年寅8月)
⑧今帰仁間切謝名村当歳五拾弐前志慶真親雲上勤書 1845(道光25)年巳3月~1878(光緒4)年寅8月)
⑨今帰仁間切親泊村当歳参拾九当諸喜田親雲上勤書  1843(道光23)年癸卯閏7月~1878(光諸4)年寅8月)
⑩今帰仁間切親泊村当歳四拾五前志慶真親雲上勤書 1841(道光21)年丑年~1878(光緒4)年寅8月) 
⑪今帰仁間切親泊村当歳四拾五前諸喜田親雲上勤書  1848(道光28)年申8月~1878(光緒4)年寅8月)
⑫勢理客村前兼次親雲上「口上覚」(1815~1857年)
⑬勢理客村湧川親雲上勤書(1851~1868年)
⑭新城徳助「口上覚」(1859~1883年)
⑮諸喜田福保「勤書」(1862~1859年)
   (他に勢理客ノロ家の勤職書:口上覚(島袋源七文庫)琉球大学図書館所蔵)

2007年4月17日(火)メモ

 今帰仁阿応理屋恵について整理することに。今帰仁阿応理屋恵按司は今帰仁グスクの祭祀(監守が今帰仁グスクに住んでいた頃)と切り離すことのできないものである。今帰仁阿応理屋恵が廃止され、今帰仁ノロが肩代わりしている。『琉球国由来記』(1713年)が編纂された頃は、今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期である。そのため、『琉球国由来記』では、今帰仁ノロの祭祀場とされる。(今帰仁阿応理屋恵について、とり急ぎ資料を整理してみる.。資料の読み込みを、もう少し丁寧にしてみることに)

今帰仁阿応理屋恵


 今帰仁阿応理屋恵の継承、廃止、復活について、まだ整理がつかないが、今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡ではないかと見られるのがある。それはクボウノ嶽(クボウヌウタキ)での祈りである。『琉球国由来記』(1713年)でクバウノ嶽は今帰仁巫崇所となっているが「首里天加那志美御前・・・」と始まっている。それは村(ムラ)レベルの祭祀ではなく国(クニ)レベルの祭祀としてみるべきだと考えている。(首里天加那志は国王のこと)

 首里天加那志・・・とはじまる祈りの場所は、首里王府と関わる国レベルの祭祀とみている。今帰仁で国レベルの祭祀を掌ることのできたのは今帰仁阿応理屋恵である。このように見るとクボウのウタキでの祭祀は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀だったのが、首里への引き上げ(1665年)や廃止(1731年)によって今帰仁ノロが肩代わりし、今帰仁阿応理屋恵が復活(1768年)するが、もとに戻すことができず、そのまま今帰仁ノロの祭祀として引き継がれてきたのではないか(一緒に行っていた部分もあるが)。

  
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノヽ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・
   八重山、島々浦浦ノ、船〃往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ、デテ

 『琉球国由来記』(1713年)で「首里天加那志美御前・・・」と唱えられるのは以下の場所である。
 
真和志間切  識名村の拝所
 知念間切    知念村(知念城内友利之嶽:同村)
 本部間切    伊野波村(伊野波巫火神:同村)
 今帰仁間切  今帰仁村(コバウノ嶽:同村)
 国頭間切    辺戸村(宜野久瀬嶽・大川)
 伊江島
 伊平屋島
 粟国島
 渡名喜島
 慶良間島
 渡嘉敷島
 久米島
  (宮古・八重山?)


【今帰仁阿応理屋恵が果たした役割】

 今帰仁阿応理屋恵は三十三君の一人である。三十三君の一人であった今帰仁阿応理屋恵がどのような役割を果たしていたのか。そのことは北山監守を務めた今帰仁按司の役割を知ることでもある。1665年今帰仁間切(今帰仁グスク・今帰仁村)から首里に引き揚げた監守一族である。今帰仁按司一族が今帰仁間切に居住していた頃、『具志川家家譜』に阿応理屋恵按司として登場する。

 弘治年間、一世尚韶威の頃、毎年元旦や十五日、冬至、大朝のとき首里に赴いていた。また山北(山原)節々神の出現があると尚韶威以来重要な儀式として家族で行っていた。王都から唄勢頭を三、四人遣わし、この礼式に阿応理屋恵按司、世寄君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志などの女官を遣わせた。崇禎年間(16281643年)に兵警に逢って礼を廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今(?年)に至って尚存続し毎節の礼を行う。

・【具志川家家譜】
 ・弘治年間の阿応理屋恵按司
 ・五世克祉の次男縄武、中宗根親雲上の女阿応理屋恵按司を娶る。
 ・六世縄祖の次男従宣、孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)女阿応理屋恵按司を娶
る。

・【大北墓のアオリヤエ】
  ・アヲリヤイアンシシタル金
  ・アヲリヤイアンシカナシ
  ・アヲリヤイ按司
   (『具志川家家譜』の三名の阿応理屋恵と同一か?)


・『女官御双紙』170613年)

一、今帰仁あふりやい代合の時、言上は御自分より御済めしょわちへ、御拝日撰は三日前に今帰仁あふり
  やいより御様子有之候得者、首里大あむしられより大勢頭部御取次にて、みおみのけ申、御拝の日は首
  里大あむしられ為御案内、赤田御門よりよしろて、按司下庫理に控居、大勢頭部御取次にてみおみのけ
  申、今帰仁ふりやいよりみはな一ツ御玉貫一対、作事あむしられ御取次にておしあげ申、按司御座敷御
  呼めしょわれば、よしろて美待拝申、天かなし美御前おすゑんみきょちゃにおがまれめしょわれば、御持
  参の御玉貫、真壁按司かなしよりおしあげしょわる。相飾済、みはい御仮乞、大勢頭御取次にてみおみの
  けて帰るなり。
一、同時御印判はせど親雲上より、みはいの日早朝、首里殿内へ持来らる。首里大あむしられより今帰仁あ
  ふりやいへ上申。


 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 向氏南風按司朝旬女(孟氏今帰仁親方宗珉室)
 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 孟氏今帰仁親方宗珉女(向氏本部按司朝当室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 孟氏中宗根親雲上宗良(崎山按司朝恭室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 向氏崎山按司朝恭女(今帰仁間切親泊村伊野波筑登之親雲上室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 本部間切居住伊野波爾也女(向氏与那嶺按司朝隣室)


  康煕四十年辛巳二月十九日今のあふりやゑあんじ言上有之 同年八月朔日志よ里の大あむしられ
  取次日撰言上同三日御拝するようにと御返詞拝同三日御朱印志よりの大あむしられより掟のあむを
  以頂戴同四日巳時前に首里の大あむしられ列て御城上りすゑんみきふちゃにて
 首里天嘉那志御前へみはい御酒奉進上次に美御酌御賜次に於御同職真壁按司かなし御酒献上次に
  御菓子御茶給り昇

  按司御座敷へ記召首里の大あむしられ相伴ふて御料理御菓子御茶給焉 御服給て退城

附進上物左記之
  天嘉那志美御前へ御花一御玉貫一對同御茶之子一籠飯
  真壁按司加那志錫一對同御茶之子一籠飯 御城参昇之時とも備
 あむしられ一人 あかた八人 與のすりる主部二人興かき二人御花御籠飯持一人
   ・金劔一箇 玉珈玻羅一連  玉草履一足
    前々より有き
   ・地所高二十弐石二斗七升二合六勺八夕内
          田方 六石ニ斗一升三合三勺四才
          畠方 十六石五升九合三勺四才
    (工事中)


・『琉球宗教史の研究』鳥越憲三郎)

 「阿応理屋恵按司は国王の姉妹或は王族の出身である関係から、女神官職就任に際しては国王の拝謁が許された。これは大アムシラレも同様である。一般下級ノロに対しては国王の拝謁はない。阿応理屋恵按司は王城に参上し、国王に対して就任の御挨拶を言上すると、国王からは御酒を賜わり、辞令書は王府の宗教事務官が首里殿内に持参し、首里大アムシラレの手から授かることになっていた。」

・『球 陽』

・始めて今帰仁郡の女官阿応理屋恵職を裁つ。(1731年)(廃止)
 
今帰仁郡内に阿応理屋恵按司職を設置す。歴年久遠にして、従って稽詳する無し。然り而して、尚韶威(今帰仁按司朝典)次男向介明(南風原按司朝句)の女に、阿応理屋恵按司職を授け、伝えて向介昭(今帰仁按司)の女宇志掛按司に至ること共計五員なり。今其の事職を按ずるに、五穀祭祀の日、但民の為に之れを祈祷する事のみ。而して他郡の祭祀は、只祝女有りて、以て其の祈を為す。是れに由りて、議して其の職を栽つ。

・六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す。(1768年)(復活)
 今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の務無きに因り、故に、三十三君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。

 『球陽』の二つの記事から、今帰仁阿応理屋恵の設置は、古くからあり詳しいことはわからないが、尚韶威の次男向介明の娘に阿応理屋恵職を授けている。その職は五穀豊穣を民のために祈るのみ。間切の祭祀はノロがいて祈りをする。

今帰仁尾阿応理屋恵の遺品(『沖縄県国頭郡志』(大正8年)
 ・冠玉たれ一通
  ・冠玉の緒一連
  ・玉の胸当一連
  ・玉の御草履一組
  ・玉かはら一連
  ・玉かわら一大形
  ・二十二小形
  ・水晶の玉百十六

今帰仁尾阿応理屋恵の遺品『鎌倉芳太郎ノート』
  ・曲玉一連(大曲玉一ケ・小曲玉二一ケ・水晶玉三一ケ・水晶玉八〇ケ)
  ・玉がはら(かはら一大形・同二二小形・水晶之玉百十六個)
  ・玉御草履
  ・冠玉たれ一連、同玉之緒一連
  ・胸当一連


・今帰仁阿応理屋恵の遺品(歴史文化センター所蔵)

今帰仁阿応理屋恵御殿(オーレーウドゥン)

 オーレーウドゥンは今帰仁グスクの前面にあったのが、今泊の集落内に移動している。故地にも祠がある。集落内のオーレーウドゥンの祠にガーナー位牌があり、その一つは北山監守(今帰
仁按司)を勤めた六世縄祖のものである。六世縄祖がオーレーウドゥンに祀られていることは、北山監守と今帰仁阿応理屋恵が密接に関わっていることを示している。今帰仁按司が果たした監守の役割もあるが、印判(辞令書)の発給があったことをみると、今帰仁阿応理屋恵をはじめ、三十三君の神女の身分保障と祭祀(祈り)に対する経済的な保障とみるべきであろう。

 近世の初期に今帰仁グスク近くにあったオーレウドゥンが麓の集落内に移動している。集落内のオーレーウドゥン跡地にコンクリートの祠があり、その内部にガーナー位牌が二基ある。一基は無銘だが、もう一基は今帰仁監守(今帰仁按司)六世(順治十年:1658年没)の縄祖(16011658年)のものとみられる。六世は運天の大北墓に葬られている。今泊集落内にあるオーレーウドゥン跡地の祠に位牌があるのは、そのころのオーレー(阿応理屋恵)の屋敷もそこだったでのであろう。屋敷跡地の境界は、よくわからないが屋敷の北側に掘り込みの井戸がありウルンガー(御殿井戸)と呼んでいる。

 今帰仁阿応理屋恵は17世紀中頃に今帰仁に戻ってくるが、復活したときの継承者が以前とは異なり地元出身者となり、継承は複雑となっている。そこで旧オーレーウゥン、集落内へ移動したオーレーウドゥン跡、その中のガーナー位牌、そして大北墓の人物との関係を整理する必要があり。

今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡

 今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡が伺える文章が『具志川家家譜』にある。

 山北に節節に神の出現がある。その禮は最も重要なので、尚韶威監守以来、家族を引率して禮を行う。王都から唄勢頭を三、四人を遣わせ、彼土唄勢頭と一緒に礼式を行う。その時、阿応理屋恵按司、世持君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志などの女官が禮式を掌る。崇禎年間(16281643年)に兵警に逢い、この禮は廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今尚(康煕己丑:1709年、あるいは雍正8年:1730年のことか)存続し節ごとに禮を行う。

   「山北、節節有神出現、其禮最重故、尚韶威監守以来世、率家族以行此禮、又王都遣唄勢頭三四人與、
   彼土唄勢頭倶行禮式、此時有阿応理屋恵按司、世寄君按司、寄君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志
   等女官掌此禮式、崇貞年間逢兵警後、此禮倶廃、但阿応理屋恵按司之職至今尚存毎節行禮」

 ここで登場する今帰仁阿応理屋恵、世寄君按司、寄君按司、宇志掛按司は、三十三君の一人である。

 ここでの「神の出現」とは、『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切「コバウノ嶽」(今帰仁村)の「君真物出現」のことか。この頃には監守や今帰仁阿応理屋恵は首里に住んでいるので、今帰仁ノロの崇所となっている。そこでの祈りは「首里天加那志美御前・・・」と唱えられる。今帰仁阿応理屋恵や監守一族が今帰仁グスク、あるいは麓の集落内(オーレーウドゥン)に住んでいたときは、クボウヌ嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀であったのであろう。「君真物出現」は国頭間切辺戸村の「アフリ嶽」につながるものである。

  
謝名村ニ、アフリノハナト、云所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立時ハ、コバウノ嶽ニ、赤冷
  傘立、又コバウノ嶽ニ、黄冷傘立時、ハ、此所ニ、赤冷傘立ト、申伝也。

 今帰仁グスクや付近の拝所で今帰仁阿応理屋恵の祭祀場と見られるのは、今帰仁里主所火神があるが今帰仁ノロとトモノカネノロの祭祀となっている。今帰仁グスクの麓に移動している阿応理屋恵按司火神は、今帰仁阿応理屋恵ノロの祭祀である。祭祀によっては今帰仁阿応理屋恵と一緒に今帰仁ノロや居神、惣地頭、按司、志慶真村・今帰仁・親泊の村、三村の百姓、間切役人(オエカ人)などが参加している。

 今帰仁阿応理屋恵と監守一族が1665年首里に引き揚げたので、今帰仁での阿応理屋恵の祭祀は今帰仁ノロや村の神人たちによって受け継がれているようである。『球陽』の1769年の条を見ると、三十三君の例にならって今帰仁阿応理屋恵も廃止になったはずであるが、殿は代々伝えられ撤去することはできなかった。それで今帰仁間切親泊村の兼次親雲上の娘蒲戸に阿応理屋恵按司職を継がしている。

・六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す。(『球陽』:1769年)
 今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の務無きに因り、故に、三十三君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。

 現在クボウヌ御嶽での祭祀は年二回行われている。旧暦の515日のフプウガン(タキヌウガン)と915日のウタキウガン(タキヌウガン)である。三合目あたりに拝所があり、村の人々はそこまでゆく。そこでのウガン(祈り)をすますと、七合目にある拝所へ神人(ノロ)と区長、書記が同行する。手を合わすときに、三合目で待機している人々に合図をして一緒に祈りをする。三合目の拝所に参加できない方々はサカンケーの方に集まり、クボウヌ御嶽まで行った神人たちと合流してサカンケーでクボウヌ御嶽に向かって祈りをする。今では今帰仁ノロ中心の祭祀である。

『琉球神道記』に「託女三十三君ハ皆以テ王家也、妃モソノ一ツナリ。聞得君ヲ長トス、都テ君ト称ス」とあり、山原に神が出現するときに赴いた三十三君の今帰仁阿応理屋恵、世持君按司、宇志掛按司は王家の出てある。三十三君の任命や継承は、首里王府の神観念や史実とは別の歴史観がうかがえる。三十三君や王家、按司地頭や惣地頭が関わる祭祀は国(クニ)レベルの祭祀と位置づけている。それに対して根神や根人を中心としたムラ・シマレベルの祭祀、それとノロ管轄の祭祀と区別しながら見ることにしている。(三つのレベルの祭祀が競合している場合が多いのであるが)。

今帰仁阿応理屋恵の代合(交代)

 今帰仁あふりやい代合之時
 言上は御自分より御済めしよわちへ 御拝日撰は三日前に今帰仁あふりやいより御様子有之候得共
 首里大あむしられより大勢頭部御取次にてみおみのけ申御拝の日首里阿むしられ御案内赤田御門
 よりよしらで按司下庫理扣居大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふ里やいよりみはな壱〆御玉
 貫一封作事あむしれ御取次にておしあけ申按司御座敷御呼めしよわればよしろちへ美拝申

【スムチナ御嶽】(今帰仁村玉城)

 今帰仁村玉城にスムチナ御嶽がある。『琉球国由来記』(1713年)で「コモキナ嶽:神名:コシアテモリノ御イベ」とあり、玉城巫崇所である。現在地番は今帰仁村玉城西アザナ原に位置し、スムチナ御嶽のイベ部分は標高約143mある。明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』を見ると、玉城村に五ヶ所の拝所があり、その一つに「百喜名嶽」とある。

 スムチナ御嶽は旧暦4月15日のタキヌウガンの時、玉城・謝名・平敷・仲宗根の四つの村の神人や人々が集まりウガン(御願)をする。四つの村の祭祀は玉城ノロの管轄である。タキヌウガンの前日、かつてはペーフや区長など何名かの人達が、ウカマ(広場)からイベを囲むように左縄を廻していた。それは近年までやっていたようである。(今年は左縄を廻すかどうか)

 15日三々五々と四カ字の神人と村人たちがスムチナ御嶽の広場(ウカマ)に字毎に集まり、神人が広場の香炉でイベに向かって祈りをする。その後、神人が時計回りでイベに登ってゆく。イベで神人が祈りの合図をするとウカマで待機している人達も手を合わす。イベでの祈りが終わると時計回りにウカマに戻り、そこでウガン(祈り)をする。そこでのウガンが終わると、四カ字の人達は自分の村に戻り、各村の御嶽でのウガンをする。
(玉城・謝名・平敷・仲宗根には、それぞれウタキを持っている。スムチナウタキは個々の村や集落のウタキとは性格を異にしている)

 スムチナウタキのイベに三つの香炉があった(22年前)。二基の香炉に「奉寄進」と「道光二拾年」と「同治九年 大城にや 松本にや」と刻まれていた。現在二基がある(一基不明なり)。


2019年9月10日(火)

 多忙。過去のメモを借用することに。数本の調査表を送付。後ろでは「豊年祭」のスクミ。相方が富山県へ。あれこれ生活の手順がわからずテンヤモンヤ。

 今帰仁グスク内の火神や石灯籠の今帰仁王子(十世宣謨)、山北監守来歴碑記など、「北山の歴史」と密接に関わり、歴史の主要な場面を引き出す手掛かりとなる史料である。


20081115日(土)メモ

 今帰仁グスクからクボウヌウタキを眺めながら思い出すことに。それと「石燈炉や今帰仁阿応理屋恵」などについての問い合わせがあり、どこかで報告(HPで)してあるが、探している時間がないので現場へ。

 これまで見てきた弁ガ嶽・糸数城・奥武島・座喜味城(道光23年:1843)・辺戸・比地などにある石燈炉や各地の香炉を見てきたが、今のところ今帰仁グスクの石燈炉の乾隆14年(1749)が最も古い。もしかしたら、今帰仁王子が建立した石燈炉が、その後堂々と建立する発端になったのかもしれない!?

【今帰仁グスク火神の祠前の石燈籠】

 今帰仁グスク城内にある火神の祠の前に四基の石燈炉がある。石燈炉の他に「山北今帰仁城監守来歴碑記」(乾隆14年:1749)がある。それらは火神の整備と同時期に建立されたものとみられる。元文検地の時、今帰仁城も竿入れがなされている。「今帰仁城之儀」の「覚」書きがあり、乾隆7年(1742年)に今帰仁按司の名で提出されている。「今帰仁旧城図」は翌年の乾隆8年(1743)に差し出されている。その旧城図に火神・トノ敷・上イヘ・下イヘが描かれ、当時にもあったことが知れる。それ以前の『琉球国由来記』(1713年)には、城内上之嶽・同下之嶽・今帰仁里主所火神・今帰仁城内神アシアゲがあった。

 「山北今帰仁城監守来歴碑記」と「石燈炉」の建立は乾隆14年(1749)である。それは『琉球国由来記』と「旧城図」の差出より後のことである。石碑と石燈炉の建立は何を記念してのことなのか。どのような意味あったのかということになる。大和めきものは隠していた時代に。

 碑と石燈炉に乾隆14年(1749)と今帰仁王子、奉寄進とある。1749年の今帰仁按司は十世の宣謨である。十世宣謨は乾隆12年(1747)に王子の位を賜り使者として乾隆13年6月薩摩に赴き、翌年14年3月に帰国している。「石燈籠」の一つに「乾隆十四年己巳仲秋吉日」とあり、帰国した年の秋(八月)に石碑と石燈炉の建立がなされている。その時、火神の祠の改修も行われたのであろう。

 これまで各地の石燈籠や銘のある香炉を見てきた。その多くが薩州(薩摩)や上国(江戸)の年号と合致する。石燈炉や香炉の「奉寄進」は薩摩や江戸上りから無事帰国できたことへのお礼と、その記念としての奉納の意味合いが強い。

 帰国は麑府(鹿児島)を出て山川港から出港している。石燈炉、あるいは石燈炉に使われている石は山川産の石(凝灰岩)か。


           ▲今帰仁グスクの火神の祠の前の石灯籠


 ①の石燈炉          の石燈炉         の石燈炉       の石燈炉

①の石燈炉  「乾隆十四年己巳 仲秋吉旦(日?)」「奉寄進石燈炉」 「今帰仁王子朝忠」
②の石燈炉  「奉寄進□□年」(他の文字は判読できず)
③の石燈炉  (文字判読できず)
④の石燈炉  「奉寄進」(他の文字は判読できず)

2019年9月8日(

 今帰仁村謝名の豊年祭のあたり年(五年マール)となっています。今年は9月14日(土)に開催されます。先週から会場の準備が行われ、雨風がありましたけれど、大丈夫そうです。10日(火)にはシクミがあります。平成8年(1996年)(県指定文化財)に調査したことがありますので参考のため掲げておきます。操り獅子はプログラムの最終です。豊年祭や操獅子(アヤーチ)の見学や調査で来られる方は遠慮なく声をかけてください。

今帰仁村謝名の操獅子(アヤーチ)過去の調査:参考のため)

 会場は「寡黙庵」(仲原家)のすぐ側なので会場の一部のようなものです。今日はこれから、「寡黙庵」の片付けへ。

 豊年祭の舞台で仮獅子で調整。雨天だと動きが重いようだ。十四日の本番は本獅子が登場。


    ▲青面の雄獅子            ▲赤面は雌獅子




2019年9月7日(土)

 昨日、中城ノロ殿内の辞令書を紹介したが、再度確認。書き改める必要がありそう。『御案内』の仲城ノロ殿内の辞令書を打ち込んでいたら、過去の記録が思い出された。昭和六十年頃、北山の「第二監守時代の歴史状況」を書き記している(『じゃな誌』収録)。その中で「今帰仁間切関係の古琉球の辞令書」(『御案内』所収の辞令書は目にしていない)、「辞令書からみた地方役人」「間切・ムラ・原(ハル)域、「辞令書にみる畑と田の範囲」から古琉球のまきり(間切)・ムラ(後の村)・はる(原)域について意識するようになる。そのころ辞令書に登場する「今帰仁間切具志堅」(現本部町具志堅)の小字(ハル)を踏査している。その後、「今帰仁グスクが抱えた村」の一つとして展示会をしたことがあり、また学芸員実習の学生達と具志堅の祭祀のシニグやウシデークの調査がよみがえってくる。「今帰仁村史」に中城ノロドゥンチの十点、具志堅の上間家、そして本部町辺名地の仲村家の辞令書(三点)を含めて書き改めて収録することに。

本部町具志堅(上間家の辞令書・赤墓など)参照

2011年2月19日(土)より

 本部町具志堅と関わる古琉球の辞令書が二枚ある。「くしけん」は上間殿内が所蔵していた「古琉球の辞令書」(今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年)(宮城真治資料所収)があり、中城ノロ家の「今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年)(『御案内』所収)でも「くしけん」(具志堅)が登場する。同村とみて、近世と古琉球のムラの違いが見えないか。

 古琉球の時代の「くしけん」(具志堅)が登場する二枚の辞令書から村(ムラ)の概念と村の範囲についてみる。すると古琉球の時代のムラと近世の行政村(ムラ)とは大分異なっているようである。そのことを、もう少し丁寧に見て行くことに。その前提となる辞令書がどの程度正確に読み取っているか不安である。具志堅の上間家の辞令書と同年の「よなみねの大屋子の辞令」(嘉靖四十二年:1563年)があるが別である。
 
今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年】(具志堅上間家)
    しよりの御ミ事
      ミやきせんのまきりの
      くしけんのせさかち
      この内にひやうすくミかないのくち御ゆるしめされ
      五おつかかないのところ
      二かりやたに十三まし
      たけのみきはる又まへたはるともニ
    又二百三十ぬきちはたけ七おほそ(二百三十ぬきち)
      とみちやはる 又きのけなはる 又あらはなはる
    又たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
    又まふはるともニ
      この分(ふん)のミかない
      四かためおけの なつほこりミかない
    又くひき みしやもち
    又四かためおけの せちミかない
    又一かためおけの なつわかミかない
    又一かためおけ 又なかう正月ミかない
    又一くひき みしやもち
    又五かためおけの きみかみのおやミかない
    又一くひみしやもち
    又一かためおけの けふりミかない共
      このふんのみかないは
      上申□□□
        ふみそい申候ち
        もとは中おしちの内より
     一ミやうすくたに 二まし
       まえたはる一
       このふんのおやみかない
     又十五ぬきちはたけ 一おほそ
       あまみせはる一
       このふんのおやみかない
       又のろさとぬし
       おきてかないともニ
       御ゆるしめされ候
    一人あかるいのおきてに給候
    しよりよりあかるいのおきての方へまいる
     嘉靖四十二年七月十七日

 【今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年】(中城ノロ家)
   しよりの御ミ事
     ミやきせんまきりの(このふんのミかない 上申あるべし ふみそい申しちもとは)
     よなみねのうちま人ち
     中くすくのおきてのちの内より
     人ひようすくたに二まし
     やせたはる又かなわらはるともに(ニ)
     又もとはくしけんのはらちのうちより 
   一十五ぬきちはたけ三おほそ
     えつかたはる 又しけやはる 又大たはる共に(ニ)
       この子人(ふん)のおみ(ミ)みかない
     又のろさとぬしおきてかないいともに(ニ)
     御ゆるしめされ候
     一人うらさきのめめさしにたまわり申(候)
    しよりよりうらさきのめさしの方へまゐる
   万暦十四年五月九日

 最初の辞令書に「くしけん」と「まふ」とあり、後の具志堅村と真部村へつながる地名とみてよさそうである。真部村の成立は近世中以降であるが、具志堅村の存在は少なくとも1500年代にはあったとみてよさそうである。但、後の間切が仮名の「まきり」であり、村の表現はまだ登場してこない。後の「浦崎の目差宛辞令書」にも「元は具志堅の原地(畑地)より」とあり、後の具志堅村の存在を伺わせる。

 近世になると『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」、『琉球国高究帳』に今帰仁間切「具志賢村」と登場する。1713年の『琉球国由来記』以降では今帰仁間切「具志堅村」である。1666年に今帰仁間切は本部間切とに分割されるので、それ以降の具志堅村は明治41年まで本部間切具志堅村である。明治41年に本部間切は本部村、具志堅村は字具志堅となる。昭和15年に本部町字具志堅となり現在に至る。

 明治初期以前に具志堅村と真部村、そして上間村が具志堅村に統合される。神アサーギは昭和16年まで旧村名で引き継がれた。明治明治36年に嘉津宇村が具志堅村に統合されるが祭祀は別である。昭和16年に具志堅から嘉津宇・北里・新里が分離し新設される。昭和16年以降、現在の具志堅の範囲となる。

 以前、原(小字)から村(ムラ)の領域について考えたことがある。古琉球の村(ムラ)は現在の行政村(字:アザ)の範囲を隣接している字まで広げてみる必要がある。そのことまで確認できたと記憶している。



2019年9月6日(金)

 今帰仁間切に北山監守が在駐していた時代(1500年頃~1665年)の辞令書が14点知られている。ここでは、現今帰仁村諸志(諸喜田村)にあった辞令書の10点の紹介。(他に現本部町辺名地の仲村家に三点、同町具志堅の上間家の一点:宮城真治資料)

 『ご案内』(昭和11年)著平敷兼仙の辞令書のみ紹介

 『御案内』は今帰仁村兼次小学校で教鞭をとられた平敷兼仙氏が二五九四年(昭和11年)にまとめたものである。序に「一 調査の根拠」として「調査記述の根拠は、国頭郡志、沖縄歴史、沖縄案内、琉球歌物語、沖縄一千年史等の文献を基とし、更に先輩古老の話を参考にして記載し、尚不明の箇所は直接島袋源一郎先生、宮城真治先生のご指導を仰ぎました」とあり、二五九四年(昭和11年10月)兼次小学校児童文芸部として出されている。その中に「諸志ノロ(中グスクノロのこと)家の古辞令九枚が紹介されている。その中の二枚は写真で紹介されている。歴史的に非常に貴重な史料である。(タイトルは原文のまま) 一と十が写真で遺されている。同じ家に10枚の辞令書が遺っていたことは珍しい(今次大戦直後、干していたら焼けたたという)

一 中ぐすくのろの辞令(萬暦三十三年:1605年)
    首里のおみこと
    みやきせんまきりの
    仲ぐすくのろは
    一人もとののおのくわ
       まうしに
    たまわり申す
  しゆりよりまうしの方へまゐる
  萬暦三十三年九月十八日

二 上間の大屋子の辞令(寛文七年:1667年)
    首里の御詔
      今帰仁間切の
      上間の大屋子は
      與那嶺大屋子給之
     寛文七年
丁未四月九日

     寛文は日本年号である。宮城真治先生のお話しによると、その頃摂政羽地王子向象賢は日本崇拝の方
       であるので、これにも日本年号を使用せしめたのであろう」と。

三 本部めざしの辞令(順次十三年:1656年)
    首里の御みこと
       今帰仁間切の
       本部めざしは
       一人はるまいに
       たまわり申す
     明(順)治十三年正月廿日

  ※明治とあるが順治の誤り

四 よなみねの大屋子の辞令(萬暦四十年:1612年)
    首里よりの御みこと
     ミやきせんまぎりの
     よなみねの大屋子は
     くわしまでくぐに
     下され候
    萬暦四十年十二月八日 


五 与那嶺大屋子の辞令(崇貞十六年:1643年)
    首里の御みこと
     今帰仁間切の
     よなみねの大屋こは
     一人今帰仁おどんの
          ももなみの大屋子に
   
   たまわり申す
   崇禎十六年十月三日        

六 にしめさしの辞令(康煕三年:1664年)
    首里乃御
      今帰仁間切
      にしめさしは
     一人與那嶺子に
    たまはり申す
   康煕三年甲辰四月四日 

七 よなみねの大屋子の辞令(嘉靖四十二年:1563年)
    
 (前の文破損している。宮城真治先生の御話によると十三行程あっただろうとのこと)

    (前文破損)
   くひきなからミしやもちなつほこりみかない
   又叉四かなためおけのせぢミかない
   又一かためおけのはかミかない
   又一かため中らおけの正月ミかない
   又一」くひきミしやもちともに
   又一かためおけのけふりみかない
   又五かためおけのきみかみのおやのミかない
   又一くひきミしやもちともに
     このふんのミかないは
     上申すあるべく
   ふみそい申しちはふうち
   もとはふたふたの大やくちの内より
   一ミやくすくたに一まし
      しよきたはる一
    又十五ぬきちはたけ一おほそ
    下はる一
   このふんのおやミかない又のろ
   さとぬしおきてかないともに
   御ゆるしめされ候
   一人よなみねの大屋子に
   たまはり申し候
   しよりよりよなみねの大屋く方へまゐる
  嘉靖四十二年七月十七日

八 たまくすの大屋子の辞令(萬暦二十年:1592年)

   しよりの御ミ事
    みやきせんまきりの
    よなみねのさとぬしところ
   一 六かりやたに四十九まし
    しよきたはる 叉をくろちかたはるともに
   一 百四十ぬきちはたけ七おほそ
    やとうはる 叉ひらのねはる 叉はなばる
    又さきはる 叉ながさこはる 叉おえはる ともに
    又よなみねの四十五ぬき
    かないの大おきてとも
    一人たまくすくの大屋子に
    たまはり申す
  しよりよりたまくすくの大やこの方へまゐる
  萬暦二十年十月三日

九 うらさきのめさしの辞令(萬暦十四年:1586年)

      (前の文は破損してよめない)
    このふんのミかない
    上申あるべし
    ふみそい申しちもとは
    よね(な)みねのうち ま人ち
    中くすくのおきてのちの内より
   一 ひやらすくたに二まし
    やせたはる 又かなはらはるともに
    又もとはくしけんのとのはらちのうちより
   一 十五ぬきちはたけ三おぼそ
    えつかたはる 又しけやまはる 叉大たはるとも
    このふんのおやミかない
    のろさとぬしおきてかないとも
    おゆるしめされ候
   一 うらさきめさし
    たまはり申し
   しよりうらさきうらさきめさしの方へまゐる
  萬暦十四年五月九日
    

十 中城ノロの辞令書(隆武八年:1652年)(比嘉春潮全集に写真所収)
   首里乃御見事
     今帰仁間切
     中城のろハ
    一人かなに
     たまハり申し候
   隆武八年二月五日

  
 
平敷令治先生提供(コピー)      ▲『沖縄県国頭郡志』所収         ▲『比嘉春潮全集』所収


2019年9月5日(木)

 出勤前に書き込む時間がなくなり、頂いた渡名喜島のシマノウシの一門が集まって祭祀を行っている画像のアップができず。山原で神アサギの建造物が出来る前の仮小屋ではないかと想定。山原のシニグはムラで、与論のサークラ(一門)で行っているシニグ、神アサギのない渡名喜島のユノウシも一門で行っている。その形は先日拝見した与論のシニグと類似。仮小屋は沖縄本島北部では神アサギへ与論島は渡名喜同様、仮テントを張っている。本部町備瀬は、神アサギもあるがかつての姿を遺しているのかも。渡名喜のシマノウシの画像は地域史協議会の渡名喜村に参加したタマキ ナミジさん提供。


▲本部町備瀬のシニーグ(仮小屋)       ▲サトドゥンのシマノウシ(渡名喜島)


 ▲ニシバラドゥン(渡名喜島)          ▲クビリドンゥン(渡名喜島)

2019年9月3日(水)

 今帰仁村でイリンシマ(西方)方言とアガリンシマ(東方)方言に大きく分けられる。神アサギはアサギとハサーギと発音される。崎山から西側の仲尾次・与那嶺・諸志・兼次・今泊ではハサーギ、平敷・謝名・仲宗根・玉城・湧川・勢理客・上運天・運天・古宇利の東方ではアサギである。(『琉球国由来記』で「アシアゲ」とあることからアシャギと表記されることが見られる。アシャギの発音は特に今帰仁では違和感があり、アサギ(ハサーギ)で通している。今帰仁でアサギとハサーギの二音の違いの説明ができないできた。二語の違いは歴史的なものか、hasagi(ハサギ)のh音が脱落したものなのか。そうするとハサギからアサギになったのか。そう考えるとハサギが古くアサギが新しい、いや逆ではないか。その説明ができずに40年近くのど元につかえていた。

 仲宗根政善寄贈資料の中に『南島談話』((第1号~第6号)の綴りを開く。「南島談話」は『旅と傅説』に附録としてはいている。その中に仲宗根先生は「今帰仁方言に於ける語頭母音の無聲化」の短い論文を寄せて居られる。最後に一九三六、五、一〇とあるので、昭和11年掲載である。その中にアサギとハサーギの違いを紐解くヒントを見つける。アサギについて直接事例として取り上げていないのは、当然のことであったのであろう。仲宗根先生は「国頭郡今帰仁の西部、即ち、イリンシマー(西方)にのみある現象であると。事例を数多くあげているが、ここではアサギの説明のみしておくことに。
【1】アが無声化されたハになる事例  アパセン(東方)→ハパーセン(西方)
【2】イが無声化されたヒになる事例  リカー(行こう)(東方)→ヒカー(西方)
【3】ウが無声化されたフになる例   フポーセン(多い)(東方)←→フプセン(西方)

 アサギは【1】で、アサギのアが無声化してハになり、アサギはハサギになる事例である。アサギがハサギになるのはアの後ろにsが来る場合にハとなる例である。アサギがハサギとなるのはハサギ(hasagi)のh
音の脱落ではなくアの後ろにsがくると無声化してハになる。今帰仁村の西方に見られる特徴のようだ。無声化の法則を使って説明ができる語がありそうだ。(少し勉強してみるか。その法則がつかえるのは今帰仁のみか)


▲「語頭母音無声化」(仲宗根)所収の『旅と伝説』(大正11年)

2019年9月2日(月)

 働き改革で、時間的には三分の一が自宅(まとめ)、三分の一は職場(原稿作成・来客対応)、三分の一の思案は「寡黙庵」で。その働き改革も定着してきたような。いくらでも怠けられますよ。ハハハ

 さて、今日は・・・

今帰仁間切の拝所にある香炉と人物

 今帰仁間切内の四つの香炉の年号と二人の内の一人の今帰仁按司の動きが『中山世譜』(附巻五)の記事を合わせ見ることで判明する。ただし、今帰仁城内の香炉や阿応理恵火神の祠、クボウのウタキの香炉の年号が判読ができていない。奉公人の「口上覚」に数多くの「立願」で今帰仁グスクや阿応理屋恵トゥンチを訪れている。また、伊平屋(伊是名)への遥拝が行われている。その確認をしてみることに。
  
 今帰仁村勢理客のウタキ(御嶽)の中のイビに二基の石香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋」がある。スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つに航海安全があることがしれる。  
 イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風   化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また、それとは別に雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。

 すると、これまで判読できなかった勢理客の御嶽のイビにある二つの香炉と玉城のスムチナ御嶽にある判読できない部分は以下のように補足できる。それは『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ることでできる。①③の道光二拾年(1840)については、再度石灯籠の年号の確認が必要であるが、同治九年(1840)は今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州(薩摩)に王子として派遣されている。勢理客村の親川仁屋と上間仁屋、それと謝名村とみられる大城にやと松本にやは、今帰仁御殿へ奉公した、あるいは奉公人であろう。そのような関係が中央の芸能を地方に伝播させる要因になっているのであろう。
  ①奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋→奉寄進 道光二拾年八月吉日 親川仁屋
   ②奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋→「奉寄進 同治九年庚午十月 上間仁屋
   ③奉寄進 道光二拾年→奉寄進 道光二拾年(八月吉日)
   ④奉寄進 同治九年十月→奉寄進 同治九年(庚午)十月 大城にや 松本にや

[城内の按司クラス上国と香炉の関わり、判読ができず)]

  
 ▲城内のカラウカーの香炉     ▲カナイヤブ(上の御嶽)イビ前の香炉  ▲ソイツギ(下の御嶽)イベ前の香炉

 
        ▲城内の十世今帰仁按司宣謨の石灯籠(1749年)と火神の祠

2019年9月1日(

 (工事中)

141 尚真の世、治道大いに明らかにして政刑、咸、備はり、以て雍煕の治を致す。(『球陽』より)

王、性質英明にして己を謙みて益を受く。其の長成するに及び、能く先志を継ぎ善く父業を述べ、務めて治を精にす。百僚に職を分ち群臣に官を授け、簪するに金銀を以てし、冠するに黄赤(俗に冠を称して八巻と曰)を以てして、貴賤上下の分を定む。朝儀を朔望に設け、拝班を左右に列して大小朝儀の礼を定む。且山北の地、嶮嶇に係り、人亦驍健なり。城の鞏固なるを恃みて復変乱を生ずること有るを恐れ、仍りて第三子尚韶威を遣はし、旧制に遵依して山北を監守せしめ、今帰仁王子と称す。而して其の子孫継ぎて山北を守り、世々襲爵を受けて按司と称す。又刀剣弓矢の属を蔵し、以て護国の具と為す。

※政治の道
 天下はよく治まる
  遵依  より従い)
  先代の爵位を代々受け継ぎ
  刀剣は具志川家譜にある脇差二本を指しているか。

2005.10.01(土)メモ(歴史編のコラムに入れるか)
 
 古宇利島の標高107mのところにある「遠見番所」周辺が今年度整備される。整備のため周辺見通しがきくようになっているというので、古宇利区長の案内で訪ねてみた。現在のうるま市(与那城上原)にある「川田崎針崎丑寅間」(下の画像:沖縄県歴史の道調査報告書)と彫られた石碑が報告されている。古宇利島の遠見所付近で、同様な石碑が見つかるのではないかと期待しているのだが(石に文字が彫られた石があったとか)。

 『沖縄旧慣地方制度』(明治26年)の今帰仁間切に地頭代以下の間切役人が記されている。その中に6名の「遠見番」がいる。任期は無期、俸給は米三斗、金五円七十六銭とある。一人当たり米0.5斗、金九十六銭づつである。今帰仁間切に6名の遠見番を配置している。

 北大嶺原(本部町具志堅)のピータティファーイは本部間切の管轄のようだ。本部間切の遠見番は12名である。具志堅の他に瀬底島にも遠見番があるので12名は二ヶ所の人員であろう。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について「古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の位まで授けられる。終身職で頭(地割?)を免ぜられる」と記してある。

 『元禄国絵図』(1702年?)の古宇利島に「異国船遠見番所」と記載されている。遠見番所の設置は1644年に遡る。烽火をあげて首里王府への通報網である。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻時は一炬、二隻時は二炬、その他の異国船の場合は三炬が焚かれたという。先島は沖縄本島とは異なるようだ。


【今帰仁間切公事帳】(唐船併異国船公帳ノ条)鎌倉芳太郎資料集(ノート篇Ⅲ 歴史・文学)351頁

 一 伊平屋島立火国頭間切戸村火番所請次候尤郡村も請次双方兼而相済候
 一 辺戸村立火国頭間切伊地村火立火番所請次候
 一 伊地村立火今帰仁間切郡村火番所請次候尤本部今帰仁境大嶺請次双方兼而相済候
 一 郡村立火本部今帰仁間切境大嶺火番所請次候
 一 大嶺立伊江島火番所請次候
 一 伊江島立火本部間切瀬底村火番所請次候尤読谷山間切も請次双方兼双方兼相済候
 一 瀬底村立火読谷山間切火番所請次候
 一 読谷山間切立弁之嶽火番所請次候
    〇右西方立火之次第


   ▲古宇利(郡)島の火番所跡       ▲大嶺原と伊江島方面を望む

※文字で表すとはっきりしているが、天気のいい日でも遠見所のポイントを見きわめるには困難。
  ,ましては烽(のろし)や煙が一本か二本か三本かの判別もなかな難しい。

  
▲麓に伊江島・大嶺原・群(古宇利)島の遠見所     ▲本部町瀬底島の遠見所が望める
 が眺望できる(城山より)


  
▲グスクから見た大嶺原の遠見所   ▲グスク正面に伊是名島     ▲古宇利島・伊地・辺戸岬が眺望できる