沖縄の地域調査研究
                             
寡黙庵:(管理人:仲原)
                             今帰仁村歴史文化センター(新今帰仁村史)

                        
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2019年4月30日(火)

 
地割の問い合わせがあり、間切により、あるいは間切内の村によっても土地配分の仕方が異なり、説明に窮することが多い。今帰仁間切でも貧富割・貧富割および耕耘力割・貧富および人頭割・人頭割(年齢に関せず)の違いがある。明治36年の土地整理直前、あるいは直後の土地保有(土地所有)の実態を把握したことがある(平敷村の前田原と古宇利島)。興味深い答えを導くをことができる。明治34年の「一筆限帳」や土地制度直後の「土地台帳」の分析をしてから解答を出すことに(『新今帰仁村史』で)。

今帰仁間切の地割 2017年3月11日(土)メモより

 明治17年の「問答書」から今帰仁間切の地割と人身売買の実態はどうだったのか「問答書」から、いくらかでも把握しておく必要あり(『琉球共産村落之研究』所収より 田村浩著:295頁)。

【今帰仁地方旧慣地割ニ関スル問答書】(明治17年)
より

 ・問  百姓地は各家に於いて古来所有の儘(地所の割換ありと雖も坪数の増減なきを言う)之を
     保有するか又は村内戸口の増減に従い之が分配を為すことあるや、その方法手続き如何。
 ・答  毎戸古来所有の儘之を保有せず。戸口の増減に従い之を分配す。その方法は村中吟味の
     上毎戸人員の多少農事の
     勤怠と資産の厚薄を見合はせ持地数を定め之を分配す。
 ・問  然らば戸口の増減に従い之が分配をなすや
 ・答  否地所割換の年に之を分配す
 ・問  農事の勤怠資産の厚薄を見合はあせ配分するとき、例へば一家三人の人口に二地を
     与へ一家五人の人口に一地を与える事あらん。然る時は其の分配方に差別あるが如し。
     右様の事に付苦情を生ずる事なきや。
 ・答  然り一家三人の人口にて二地を取り又五人の人口にて一地を取る事あり。然ると雖も右は
     人民中協議の上取り計らうことなれば苦情等の起りし事なし。
 ・問  百姓地を割換するは何年に一回なるや。臨時割換することあるや。その法如何。
 ・答  一定の年限なし。凡そ六年乃至十年目に割換す。又時の都合に由りては臨時割換する
     事もあり。其の方法は村中吟味し実地立合見分の上之を取は計ふ。
 ・問  右割換年限は田畑共同じきや。
 ・答  然り田畑共前条の通り。
 ・問  百姓地地頭地を相対譲与或いは質入する等の事あるや。その取扱い振如何。
 ・答  内分にて質入れする等の事あり。その取扱振は相対口上の示談に止まる。
 ・問  右内分ニテ質入せる後俄ニ地所の割換あるときは質取主は金の損亡するか、又は質入
     人にて前借金は之を償うか。
 ・答 右等の場合に於いては、今度配分せられし地所を、又更に金主へ引渡すに付損亡なし
    尤も今度配分せられたる特地数前者より少なきときは金主の損亡なり。
 ・問 惣地頭地村地頭地及び仕明地等取扱並びに小作セシムル手続き如何。
 ・答 右は総べて百姓地同様取扱分配方並びに割換法とも其の特続百姓地に異なることなし。
     但し人民仕明地請地は其の地主之を耕し或いは小作せしむるものあり。貢租は直ちに地主
     より取り立つ。 

 明治36年の土地整理で地割制度は終りつげる。下の図は土地整理直前の地割の最後の様子を示すものである。「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者について報告したことがある。土地保有者がバラバラである。それは地割の実態を示すものである。平敷村は貧富割タイプである。(古宇利はダブリあり。確認のこと)

 ①貧富割(12村)
   今帰仁・親泊・志慶真・兼次・諸喜田・與那嶺・崎山・平敷
・勢理客・天底・湧川・古宇利
 ②貧富および耕耘力割(5ヶ村)
   仲尾次・謝名・仲宗根・運天・古宇利?
 ③貧富および人頭割(3ヶ村)
   玉城・岸本・寒水
 ④人頭割・年齢に関せず(1ヶ村)
   上運天



2019年4月29日(

 連休の前半は「寡黙庵」へ通勤。テッポウユリが咲き香りをただよわせている。イチゴが葉の陰に隠れて実っている。わりと近いところでアカショウビンが鳴いている。メジロやヒヨドリなどが、子育てなのか忙しく飛び回っている。4月は多忙でストレスの塊。回りに迷惑をかけています。連休で片付けと諦めで、ストレス解消。

     
     ▲庭にテッポウユリ咲いています             ▲イチゴの実や花もチラホラ

2019年4月28日(

 22日(月)屋嘉比のノロ殿内(大城家)からお借りした神衣装、簪、玉ガーラ、刀などの展示を行います。神衣装をかける衣紋掛けを作成。衣装の撮影や虫干しに使っていただけたら嬉しい。衣紋掛けをつくりながら、大城家のノロ遺品や文書類にも頭が回ります。さて、今日はペイントが乾いた衣紋掛けの組み立て。うまく神衣装の展示やノロ関係遺品の展示ができるか。(もちろん展示や調査の中心は大宜味村史編纂室の職員)

http--yannaki jp-takazato html
http--yannaki.jp-happyou.html

  

   


2019年4月26日(金)

 今帰仁間切と関わる辞令書の紹介である。昭和63年(1988)に名護市博物館紀要「あじまぁ」第4号で「今帰仁(北山)の歴史」として発表。前年の昭和62年に「運天の歴史」を同紀要3号に平成5年(1993)に『なきじん研究3号』所収で「今帰仁間切関係の辞令書」として紹介したことがある。『新今帰仁村史』の編集に向けて辞令書の再検討をすることに。1988年当時は三大学で非常勤で講座(8駒から14駒)を受け持っていた頃である。この二本の論文(他にも数本)で今帰仁村(歴史資料館準備室、開館から歴史文化センターへ改称)から声がかかり平成元年4月から今帰仁村へ。ここ3年ばかり離れていたが、今月から再び今帰仁へ調査・研究、そして新村史編集事業へと軸を移している。

今帰仁間切と関わる古琉球(近世への過渡期含む)辞令書が14点。現存するのは現本部町仲村家の3点
のみ。

 今帰仁村諸志の中城ヌルドゥンチには、戦前10点あり写真で2点、平敷兼仙氏発刊の「ご案内」(昭和11年)に8点が掲げられている。今帰仁間切関係の辞令書を歴史で扱うのはいくつもの歴史的な事が読み取れるからである。首里王府から地方役人に辞令が発給されていた。ノロに辞令が発給されていて、ノロも今で言う公務員だということ。そしてノロ中心に行われていた祭祀は今で言う公休日(神遊び)であったこと。ノロの継承、ノロ家にはノロ辞令と同時に大屋子・掟・目差・里主などがあり、ノロ家の男方は辞令を授かる役人であったこと。今の小字(原)にあたる「はる」、税が「みかない(貢)」、んつほこりミかない、せちミかない、なつわかミかない、おれつむミかないなどが見られる。

 辞令書が発給された時代(1553年~1667年)は、今帰仁間切は現在の本部町も町を含む領域であった(1666年まで)。その頃、今帰仁按司や今帰仁アオリヤエ(三十三君の一人)は今帰仁グスクや周辺に居住していて、親泊・今帰仁・志慶真の三ムラがグスク周辺あり、1665年に北山監守と今帰仁アオリヤエの一族が首里赤平に引揚げるとグスク周辺にあったムラが麓に移動。

 辞令書にミやきせんあんじが今帰仁に住み、丑のヘバンやミのへはんの番人がおり、「今帰仁おどん」のよなみね大屋子を今帰仁おどんのももなみの大屋子に給っている。

 まぎり名やムラ名がひらがな、古琉球の「まきり」やムラ、はらが近世とは異なっていることに気づかされる。

 これらの辞令書から首里王府の統治(地方支配)の様子を彷彿させてくれる。注目したいのは「中城ノロ家」に10点の辞令書が戦前まで遺っていたのか(ノロ辞令書2点、8点は目差・大屋子・掟など)

 
    ▲中城ノロ辞令書(1605年)                ▲具志川ノロ辞令書(169年)

①与那嶺の大屋子宛辞令書  (嘉靖42年:1563年) 監守二世介昭  中城ノロ家
②東の掟宛辞令書        (嘉靖42年:1563年) 監守二世介昭  具志堅上間家
➂浦崎の目差宛辞令書     (萬暦14年:1586年) 監守三世和賢  中城ノロ家 
④玉城の大屋子宛辞令書    (萬暦20年:1592年) 監守四世克順  中城ノロ家
⑤辺名地の目差職叙任辞令書(萬暦32年:1604年) 監守五世克址  辺名地(中村家)
⑥中城ノロ職叙任辞令書    (萬暦33年:1605年) 監守五世克址  中城ノロ殿内
⑦具志川ノロ叙任辞令書    (萬暦35年:1607年) 監守五世克址  辺名地(仲村家)
⑧与那嶺の大屋子叙任辞令書(萬暦40年:1612年) 監守六世繩祖  中城ノロ家
⑨謝花掟叙任辞令書      (萬暦40年:1612年) 監守六世繩祖  辺名地(仲村家)
⑩与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643年) 監守六世繩祖  中城ノロ家・比嘉春潮全集
⑪中城ノロ叙任辞令書     (隆武8年:1652年)  監守六世繩祖  中城ノロ家
⑫本部目差叙任辞令書    (順治13年:1654年)  監監守六世か七世か 中城ノロ家
⑬西目差叙任辞令書      (康煕3年:1664年)  監守七世繩祖   中城ノロ家
⑭上間大屋子叙任辞令書   (寛文7円:1667年)   監守七世繩祖  中城ノロ家(監守首里引揚)
    
http--www.yannaki.jp-2008nen5gatu.htmlや(『なきじん研究―今帰仁の歴史―』参照)

2019年4月25日(木)


津屋口墳墓 

 親泊馬場の東端より海岸へ通ずる右方を津屋口という。屏風の如き隆起珊瑚岩の下に饅頭形を鎖されたる古墳あり。摩滅せる墓碑を通して窺うに是向氏具志川氏(元の今帰仁御殿)の祖先にして北山監守韶威の嫡孫宗真公を葬れるが如し。宗真は其の号にして唐名を和賢といい嘉靖三十六年に生まれ万暦十九年三十五歳にて病死せし人なり。

 今向氏七世百四五十年間の一族は運天なる大北墓に合葬せらる。然るに三世宗真公は何の故を以て津屋口に葬られしか是頗る疑問とする所なり。

 土地の口碑によれば此の癩を病みしに依り津屋口に別殿を営みて之に居らしめ後遂に便葬せりという。該墳墓には別に門口なく且古来章魚及び豚肉等を供えざるの習慣あり、之によりて見れば伝説亦事実ならんか、大正六年編者具志川家を訪ねいて此事を質す。未亡人語って曰く、是れ慶長年間薩摩入りに際し退隠して遂に別殿に入りし人なりと、然るに墓碑には万暦辛卯易簀(死亡)とあり、辛卯は同十九年にして我天正十九年(1587年)に当たり慶長十四年より実に十八年前の事に属す。以て其事実にあらざるを知るべきなり。 

墳墓記(碑文)

 夫〇吾統人之志吾述人之事有也誠哉此言也〇典松公入奉
尚真帝王之敷命以康煕丙午移居干首里涘〇述兼得忠考而全故也保祿位顕名干京師偉哉盛哉
 此〇〇売〇祖之心志而述昌祖之墓〇石也哉是以乙日謂命日我高祖今帰仁按司宗真石
先王尚真帝王第四之三子宗仁公之嫡孫也〇〇自出於此矣今乃其墓将敗壊故以為修築之以将堅
 久之元計〇其夏也深故其言出而無食育方而無〇丁康煕戌午仲秋十七乙酉〇築始〇尌之何
 所以為記誠一則恐人不知誤也一則恐或〇而難尋故封之高救尺也古人亦至干如此矣伏〇疾
宗真公〇鎮守列〇便役以時数〇有節是故孫子無〇而振振〇〇其証如此明則〇猶予之有遂致仕
 而遠〇地於大屋泊以営殿間近築墓於津屋口以将便葬也干時万暦辛卯易簀不緯遺命而葬於
 此今也〇百余載是故為風雨所敗壊〇乎辛寅日功〇成而増旧制塚頭酒〇孝心解志報本之心
 不可勝〇也〇〇日君子楽楽其所自生礼恐其本〇〇〇退請〇其事干石以知来〇〇此墓不毀
 壊曰為

大清康煕十七戌午仲秋二十二日立 友弟謹誌〇 

                  『沖縄県国頭郡志』(島袋源一郎著)(大正八年)

http--yannaki.jp-imadomari.html(参照)


津屋口墓(アカン墓)(新聞記事) 

壊された開かん墓(沖縄タイムス:1964.12.29)

 三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。

 墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。

 墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。

 新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。

 新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。 


あかなかった古墳(琉球新報:1964.12.30)

 北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。
 区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。

 この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。

 この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。

 この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。 


2019年4月24日(水)

「新参政姓家譜」を持つ一族がやってきた。その家譜を興したのは2006年。その内容はうろ覚え。データを探し出してみた。目を通す時間はないが.

 

新参政姓家譜大宗 

新参一世幸光(嘉慶十四年己巳年十月二十八日生)(一八〇九年)
  父泊村無系平良筑登之親雲上
    (乾隆三十八年癸巳六月五日生)(一七七三年)
    (咸豊 五年乙卯七月十六日死寿八十八号壽山)(一八八五年)
  母今帰仁間切謝名村百姓松与那嶺女鍋
    (乾隆三十八年癸己八月八日道光九年己丑十月十五日死
     享年五十七号雪庭) 
  室今帰仁間切岸本村百姓嶋袋筑登之女真鶴
     (嘉慶十五年康午十二月十六日生)(一八一〇年)
  長女真鶴(道光七年丁亥十二月十八日)(一八二七年) 

新参長男 幸常
 新参次男 幸永
 新参三男 幸佐
 新参四男 幸長
 新参五男 幸映
   次女 思戸(道光二十二年壬寅十二月十七日生)

新参六男 幸得
  新参七男 幸定
  参八男 幸成 

尚灝王世代
   道光三年癸未二月八日結敧髻(一八二三年)

尚育王世代
   道光二十四年甲辰十二月朔日叙筑登之座敷(一八四四年)
    同二十六年丙午十二月朔日叙黄冠

尚泰王世代
   同治十二年癸酉六月十二日陛新参士籍其褒書記干寫(一七八三年・明治六年)

     覚寫

   新家譜      泊村  平良筑親雲上

 右は中城御殿御普請量為御加護 残百萬貫文差上度

    (略)

 仰付致下度奉存候事

以上

  酉六月十二日
 

新参二世 幸常
    童名思加那唐名政永與行一道光九年己丑十月朔日生(一八二九年)
  父幸光

母百姓真鶴
  室今帰仁間切玉城村百姓松田筑登之親雲上女
  真蒲戸 道光十三年癸巳三月十日生同治五年丙寅十月九日死享年三十四号雪心
          (一八三三年)
  長女真鶴 咸豊二年壬子十月十日生同治五年十一月二十八日生
         (一八五二年、一八六六年)
  次女真鶴 咸豊十一年幸酉八月二十九日生(一八六一年) 

尚育王世代

  道光二十三年癸卯十一月二日結頭敧髻(一八四三年)
  同治四年乙丑九月二十五年不禄享年三十七号菊隠(一八六五年) 

新参二世 幸永
    童名松金唐名致政永通行二道光十三年癸巳三月五日生(一八三三年)
  父幸光
  母百姓真鶴
    室令今帰仁間切岸本村山戸大城女真鶴(道光十五年乙未四月三日生)(一八三五年)

新参長男幸通
 新参次男幸吉
 新参三男幸宗 

尚泰王世代
  道光二十八年戌申八月二日結敧髻(一八四八年)
  咸豊十年康申十二月朔日叙筑登之座敷(一八六〇年) 

新参二世 幸佐
  童名思加那唐名政永隆行三道光十五年乙未四月二十九日生(一八三五年)
  父幸光
  母百姓真鶴
  室西村無系次良玉城女真呉勢 道光十六年丙申十月二十四日生(一八三六年)
  長女真嘉戸 咸豊六年丙辰五月十七日生(一八五六年)

新参長男 幸正
  次女真鶴 咸豊十一年辛酉七月二十七日生(一八六一年) 

新参次男 幸豊
  三女真牛 同治九年康午閏十月五日生(一八七〇年) 

尚泰王世代
  道光二十九年己酉三月八日結敧髻(一八四九年) 

新参二世 幸長
  童名樽金唐名政永明行四道光十八年戊戌七月十八日生(一八三八年)
  父幸光
  母百姓真鶴

尚泰王世代
  咸豊二年壬子二月六日結敧髻(一八五二年)
  同十一年辛酉五月二十四日不禄享年二十四号仁心(一八六一年) 

新参二世 幸映
  童名松金唐名政永順行五道光二十年康子八月二日生(一八四〇年)
  父幸光母百姓真鶴
  室今帰仁間切謝名村百姓三良親川女思武太 道光二十二年壬寅七月二十五日生
       (一八四二年) 

新参長男 幸亀
  長女思亀 同治八年己巳九月十九日生(一八六九年) 

尚泰王世代
   咸豊二年壬子二月六日結敧髻(一八五二年)
   同治十一年壬申十二月五日不禄享年三十三号寒梅(一八七二年) 

新参二世 幸得
  童名真蒲戸唐名政永慶行六 道光二十六年丙午六月二日生(一八四六年)
  父幸光
  母百姓真鶴


2019年4月22日(月)

 
大宜味村編纂室で屋嘉比ノロ殿内(大城家)の大ノロと若ノロが着用したと見られる衣装の調査を行う。虫干しを兼ねて、撮影・実測などを行う。昭和60年代に調査された先学者のデータと現物とを合わせながらの調査である。(調査をしながらいくつもの発見があるが、詳細は別報告で)

 時代は異なるが、オモロで謡われている「おやのろ」(屋嘉比のろ)が祭祀のとき召された衣装なのだと重ねながらの鑑賞するのもよさそうである。(衣装もオモロも、まだオボロにしか理解できませんが、それがいい)



『校本おもろさうし』 (巻十三ノ176)

 一 やかひもり おわる
    おやのろは たかへて
    あん まふて
    このと わたしよわれ
 又 あかまるに おわる
   てくのきみ たかへて

『校本おもろさうし』 (巻十三ノ182)

 一 くにかさ おわる
    おやのろは たかへて
    しまうち しちへ
    あらおそいに みおやせ
 又 やかひもり おわる
    かねまるは たかへて
 又 あかまるに pわり
    てくの きみ たかへて
 又 あすもりに おわる
    ましらては たかへて
 又 おくもりに おわる
    たまの きやく たかへて
  
 
▲やかひもり(ヤカビムイのイベか)

2019年4月19日(金)

 
国頭間切時代(現大宜味村)屋嘉比村の屋嘉比ノロ殿内の祭祀衣装の調査を行う(大宜味村史編纂室)。どんな事が見えてくるか。虫干しと五月五日のグラ(竹の子)祭りの展示、その後の保存について。神衣装や簪や脇差しや「おもろ」などから屋嘉比の歴史が描けるか。旅のお土産でも届けるか。


 大宜味村田嘉里の屋嘉比ノロ殿内(大城家)から祭祀関係の遺品を大宜味村史編纂室で写真撮影・実測を行う。5月5日田嘉里の「グラ祭り」で一日のみ公開(田嘉里集落センター)。(資料の確認のみ。詳細の中鎖は来週)

屋嘉比ノロ殿内(大城家)の神衣装(呼称は『琉球服飾の研究』辻合喜太郎・橋本千栄子より)
①淡黄色紋緞子・神サージ
②大袖衣(若ノロ用)・神サージ
  沙綾形花紋、淡黄色綾綸子地(布の神サージあり)
③赤色木綿地
④芭蕉布胴衣(大ノロ用)
⑤輪子地縹色単胴衣(若ノロ用)
⑥白麻地(神衣装)ウンガミ用
⑦白手防木木綿地(神衣装)
⑧白木綿地(裾)
⑨白木綿地(若ノロ用)
⑩白木綿地
⑪玉ガーラ(勾玉一個、水晶玉(ガラス)(81個数)
⑫竹筒(大に「屋嘉比のろくもい代合之時日誌」と墨書きあり。屋嘉比と漢字が当てられているので
 近世になってのものか。小に「・・・四拾三年?」線彫あり)玉ガーラ入れと簪入れ、辞令書?入れか)
⑬簪はカブ型の中振り
⑭脇差し一本
  (詳細は来週からの調査後に)

  
▲衣装箱(簪や脇差しなど、文書は別)

 
    ▲玉ガーラ・簪・竹筒                 ▲刀(脇差し)

http--yannaki.jp-takazato.html((屋嘉比ノロ家の遺品)
http--yannaki.jp-20167gatu.html(屋嘉比ノロ家の遺品)

 しばらく休みです


2019年4月14日(

 
先日、「運天が果たした役割」を思い出していたら、運天付近を踏査したくなり「ムラ・シママ講座」でゆく。何度訪れても胸打つものがある。

運天の主な出来事(明治以降)

  明治の廃藩置県後、運天港を取り巻く状況も大きく変化していったが、それらの主な出来事を見ていこう。

  ・明治16年  今帰仁郵便局が番所の隣に新築される。
  ・明治37年  今帰仁郵便局が運天村から寒水村に移る。
  ・明治37年  日露戦争時、運天港に燃料(石炭)や給水施設がつくられる。
  ・明治41年  今帰仁間切が「今帰仁村」となり、運天村が「字運天」となる。番所は「村役場」となる。 
  ・明治44年  大北墓が修理が行なわれ、島袋源一郎により調査がなされる(『国頭郡』収録)。
  ・大正 5年  村役場が仲宗根に移転する。
 ・大正12年 「源為朝公上陸址之碑」建立される。
  ・大正13年  運天遂道(トンネル)が開通する。
  ・昭和19年  日本軍の高速輸送艇や特殊潜航艇・魚雷艇の基地となる。

  このように明治以降の運天の流れを見ていくと、郵便局ができたものの11年後には寒水村に移転(その後更に仲宗根に移転)、その後を追うように、村役場も大正五5年に仲宗根に移転した。役場の移転については、大正 2年に「沖縄毎日新聞」に投書が掲載されている。                               

  「本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来、已に幾百星霜を閲し、最西端今泊を距る二里余。東端湧川より半里、何等交通運輸の便なきのみか、僅に二、三十戸に過ぎざる小部落にて、背後に百按司墓を負ひ、前方屋我地島と相対して、其間に運天港を擁し、極めて寂莫荒寥の一寒村の候。予輩は何が故に数百年来、敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要あるかを怪しむ者に候。今泊在の吏員に至りては早朝家しても役場到着は十時頃なるべく。それより汗を拭き去り、涼を納れて卓に向かへば時辰は十一指すべし。一時間にして食事をなし、更に二時より初めて二時間を経れば四時となり、退散を報ずべし。然れば毎日執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候〈以下略〉。                                             │

  本村の役場は旧藩当時運天港に建設されて以来、既に長い年月を経ており、(運天は)村の最西端の今泊から約 8km、東端の湧川から約 2kmあるが、交通の便もなく、僅か 二、三十戸の小さな村で、背後に百按司墓、前方は屋我地島、その間に運天港があり、非常に寂しい村である。私は何故数百年の間、こんな不便をそのままにしておくのか不思議でならない。今泊に住む職員は、早朝家を出ても、役場に到着するのは10時頃、それから一息ついて仕事にかかるともう11時である。 一時間経つと昼食で、 二時から仕事を始めても 2時間経てば 4時となり、退出の時間である。すると毎日の業務時間は僅か 四時間足らずとなろう)。                      

  この投書の三年後、役場は仲宗根に移転し、かつては山原の政治・経済の中心地であった運天は、仲宗根にその地位を譲ることとなる運天に行くには明治40年に運天を訪れた菊池幽芳が記していたように「山坂越えで随分難儀な道のり」であったが、大正13年に開したトンネルのおかげで村内(ムラウチ)と村の外との行き来が楽になり、海上輸送の時代から荷馬車や車での運搬の時代が運天にも到来した。

  

2019月4月13日(土)

 一日から「寡黙」に二週間過ごす。やっと休みが。「寡黙庵」に立ち寄る。草花があれこれ咲いています。今日は、これから「寡黙庵」で休息。

  

【古琉球の今帰仁】


 今帰仁間切と関わる首里王府発給の辞令書から第二監守時代の歴史的出来事を読み取ることができる。第一に1665年以前は現在の本部町は今帰仁間切であったこと。その時代、北山監守(今帰仁按司一族)は今帰仁グスク、あるいは周辺に御殿(ウドゥン)に居住していたこと、首里王府から発給された辞令書が中城ノロ殿内、具志川ノロと関わる仲村家、尚円王と関わる具志堅の上間家に遺っていたこと、ノロ家に遺るノロ辞令と男方の辞令。例えば中城ノロ家には九枚の内ノロ辞令が二枚、残りの七枚は大屋子・目差・掟など男方である。

 それだけではなく、間切は「まきり」、村名は中くすく・よなみね・くしけん・うらさき・くしかわ・ちゃはななど、ひらがな表記である。島津軍の薩摩侵攻以後になると漢字表記がなされている。監守一族が今帰仁に駐留していたこと示す「今帰仁おどん」や「みやきせんあんしの御まへ」の「うしのへばんのあくかへ」(丑の番の赤頭)などことが見られる。

 当時の役職、「はる」(後の原)やむら(村)や租税とみられる「ミかない」などが知れる。

①今帰仁間切与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42年:1563)(中城ノロ家)

②今帰仁間切東の掟宛辞令書(嘉靖42年:1563)(具志堅上間家)

③今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書(萬暦14年:1586年)(中城ノロ家)

④今帰仁間切玉城の大屋子辞令書(萬暦20年:1592)(中城ノロ家)

⑤今帰仁間切辺名地の目差職叙任辞令書(萬暦32年:1604)(仲村家)

⑥今帰仁間切中城ノロ職叙任辞令書(萬暦33年:1605)(中城ノロ家)

⑦今帰仁間切具志川ノロ叙任辞令書(萬暦35年:1607)(仲村家)

⑧今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書(萬暦40年:1612)(中城ノロ家)

⑨今帰仁間切謝花の掟叙任辞令書(萬暦40年:1612)(仲村家)

⑩今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643)(中城ノロ家)

⑪今帰仁間切中城ノロ叙任辞令書(隆武8年:1652)(中城ノロ家?)

⑫今帰仁間切本部目差叙任辞令書(順治13年:1654)(中城ノロ家)

⑬今帰仁間切西目差叙任辞令書(康煕3年:1664)(中城ノロ家)

⑭今帰仁間切上間大屋子叙任辞令書(寛文7年:1667)(中城ノロ家)

 

2019月4月12日(金)

 「北山の歴史」に関わる書籍や論文などに目を通している。その多くが『伝説補遺 沖縄歴史』(島袋源一郎著)(初版昭和七年)をベースにされているようだ。それを書き記すのに「中山世譜」や「「中山世鑑」、それと「球陽」を丁寧に扱っている。それは正史と言われる部分の活用である。正史で扱われていない部分を「野史」からとして補っている。本のタイトルに「補遺伝説」としているのは、そのためである。「野史」と島袋源一郎自身も認めている。そのこともあって私自身避けてきた。そこには現在の研究以に発想切替えアル展開ができそう。時々「野史の正史をつくったら」と漏らすのはそのこと。しばらく、集中してみることに。

 
       ▲「補遺伝説 沖縄歴史」(島袋源一郎著)                   (扉)

2019月4月11日(木)

 『新今帰仁村史』の編集に向けて、周辺の市町史編さん(集)室の力をおかりして今帰仁と山原と関わる史・資料を揃える作業に取りかかっている。膨大な作業量に頭を痛めている。力尽きないように楽しみながら進めるか。

2011年1月29日(土)メモより

 『女官御双紙』(1706~13年)に「今帰仁あふりやい」と「伊平屋島ののろ二かや田」、さらに「噯間切のろくもい」の代合(交代)について、以下のように記してある。

 一 今帰仁ふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ今帰仁あふりやいより御様子
    有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみおみのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田御門
    よりよしうて按司下庫裡に控居大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉一対作事
    あむしられ御取次にておしあけ申按司御座敷御呼めしよわれハよしろちへて美待拝申
 天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司あかなしよりおしあけめしよわる
 合済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌御給御規式相済按司御座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申
 相済みはい御暇乞大勢頭御取次にてみおミのけておれ申
 一 同時御印印判ハセと新雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ将来らる首里大あむしられよりミはいの時早朝今帰仁あふ
   りやいへ上申
 一 伊平屋ののろ二かや田代合之時も上相済首里殿内火神御前へみはな一ツ御五水一対持参にて玉かはらはき立御拝
   四ツからめき申尤御拝日撰前以以日引合有之事
 一 噯間切のろくもいた代合之時も右同断

 「今帰仁あおりやえ」の写真と関わる記事がある。

   「国頭郡今帰仁村今泊で旧按司家阿応理屋恵所蔵の佩佳玉は二十二個の所謂曲玉と、多数の水晶玉製丸玉とを交
   へて極めて見ものであるが、之を納めた袋に、
     玉かはら一連。内かはら一、大形。かはら二十一、小形。水晶之玉百十一。昭和四年四月四日現在。
  と書いてあった。(本誌記者云う、袋の文字は古くより此の形式に書いてあったのを昭和四年に袋を新調して書替へた
  のみである。阿応理家では今もその一連の玉全体を玉ガハラと呼んでいるのである。 

 下の写真は今帰仁阿応理屋恵(アットメー)が一連の勾玉と水晶玉(ガラス)、前に広げられた袋に「玉かはら」など文字が読める。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)でいう「今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵目録」というのは、写真の文字のことであろう。それらの遺品は昭和11年に開館した「沖縄郷土博物館」(首里城北殿)で昭和□年10月15日より11月14日まで展示されたことがある。

 近年目にした「勤職書」(口上覚)に「立願」として首里の御殿から度々訪れている。

 
一連の勾玉と水晶玉(ガラス)をかけた阿応理屋恵  「国頭郡志」のグラビアより


2019年4月10日(水)

 来月「今帰仁村兼次」の字誌編集会議がある。字の地名がテーマである。小字が13あり、それと小地名を拾い出すことに。玉城清栄氏(大正5年生)が描いた昭和10年頃の兼次を紹介しながら伺うことに。また兼次には二基の印部石(パル石と呼んでいる)があるのでその説明も。加祢寸原は兼次のこと?加祢寸原は現在の「村屋敷原(北・南)」か、それとも兼次集落のあった古島のことか。地名論議も楽しいものだ。

 

2008年4月21日(水)記録

 今帰仁村兼次の古島原までゆく。古島は兼次の旧集落跡地である(今の古島原と糸川原)。そこに「金満殿内」(平成11年)に建立された祠がある。祠を建てるにあたって、何本かの石柱がでてきたという。そこは集落が移動する前の神ハサギがあった場所であろうとのこと。神アサギが集落とともに移動するのは、いくつも例があるのでその通りであろう。その西側に兼次のウタキ(糸川原)がある。『琉球国由来記』(1713年)にある「兼次之嶽御イベ」の「兼次之嶽」とみられる。郡巫管轄の祭祀のように記されているが、兼次村の祭祀は中城巫の管轄である。

 『琉球国由来記』(1713年)に「神アシアゲ」が出てくるが、その場所は「金満殿内」(平成11年)が建立されている場所とみられる。つまり、兼次の集落が古島原から現在の村屋敷原に移動している。兼次の古島からの集落移動はいつ頃なのか。古島原の呼称は、集落が移動後に付けられた原名と見られる。古島域(古島原から糸川原)は集落が移動する前は「加祢寸原」(兼次原)と見てよさそうである。と言うのは、村名と同様な原名は集落の中心に名づけられる場合が多い。例えば、今帰仁村は今帰仁原、親泊村は親泊原、村によってはアタイ原(当原・當江原)、村内原などである。

 それからすると兼次村の古島からの集落移動(北・南屋敷原への移動)は印部石(原石)が設置された元文検地(今帰仁間切は1742年)以後のことと見られる。因みに、兼次は同村から同村内への移動なので「集落移動」である。明治36年の「国頭郡今帰仁間切兼次村全図」(明治36年)では、古島原と糸川原に家が一軒も記されていない。ただし、山手には寄留の方々の家が数件見られる。

 古島(糸川原)に神アサギ跡地に「金満殿内」が建立されていて、ウタキの方向に向けて香炉が置かれている。また、この祠は神アサギを意識して作られている。神アサギは集落と共に移動する傾向にあるが、集落移動はそう遠い場所ではないので、また同村内での移動なのでウタキは以前からの場所である。ウタキ内にはイビの祠が設けられている。イビへの道筋が今でもあり、祭祀が行われている。古島原から糸川原にかけて、兼次の人々の苗代があった場所である(苗代の詳細な記録あり)

   
「ソ 加祢寸原」の印部石(今の古島原にあったか) 「フ 加祢寸原」の印部石(今の古島原にあったか)

(二基とも現在の「南屋敷原」の民家にあったもの。歴史文化センターに展示)


2011年1月26日(水)メモ

 「印部石」が寄贈される。今帰仁村湧川の前田原にあった印部石(原石)である。前田原には前田拝所があり、湧川の祭祀に旧暦二月の最後の亥の日に行う前田折目(前田御願)がある。前田にあるイビムイ(湧川のウタキ:タキサンともいう)の麓に三穂田(ミフダ:神田)がある。そこで稲の生育や豊作のウガンがあある。神人が神田に入り稲苗の初植えの祭祀が行われる。田植えの合図であるという。20年前田港さん(故人)から付近に「原石がある」と聞かされていた。前田原一帯は土地改良でなされた。そのこともあって土地改良中に何度か足を運んだが確認することができなかった。印部石(原石)はあった場所からすると、間違いなさそうである。

 「ケ しゆや原」である。塩屋原のことであろう。現在の小字(原)に「しゆや原」はない。前田原に「スガー」「シユガー」(塩川)があり、元文検地の頃、現在の前田原に「しゆや原」の原域があったと見られる。「しゆや原」は塩屋に因んだ原名と言えそうである。今帰仁間の元文検地は1743年頃だと見られる。印部石がたてられたのは、湧川村が新設されて間もない頃である。(湧川村が創設される以前、湧川村地内に振慶名・我部・松田・桃原などの村があった場所である。それらの村を移動させて湧川村を新設)。湧川村に印部石を設置したのは村移動や村の新設と関係あるのだろう。


湧川の前田原にあった印部石

2019年4月9日(火)

 
上杉県令沖縄県令沖縄関係資料(『沖縄県史料』近代4)の事務引継書類(上・下)(明治16年頃)の目録をざっとみる。

2003年12月11日(木)記録
 
 今帰仁村の役場は現在字仲宗根にある。近世から大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)は今帰仁の東側の運天港にあった。大正5年に運天にあった役場が今帰仁村の中央部の仲宗根に移転する。その後押しは大正2815日の「沖縄毎日新聞」(今帰仁通信)の記事ではなかったかと考えている。

   [役場移転問題](運天から仲宗根へ)

     本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲
     し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里等交通運輸の便
     なきのみか僅にニ三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓
     を負ひ前方屋我地島と相対して其間運天港を擁し極めて寂莫荒
     廖の一寒村に候
     予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要
     あるかを怪しむ者に候 今泊在の吏員に至りては早朝家出しても
     役場到着は十時頃になるべくそれより汗を拭き去り涼を納れて卓
     に向へば時辰は十一を指すべし 一時間にして食事をなし更に
     二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし 然れ
     ば毎日の執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候
     加之人民の納税、諸願届書類の進達等学校に各字の小使派遣
     等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と傷害を受け居る
     かは門外漢の想像し得ざる所に有之候
     曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為に
     遂に沈黙の悲運に逢着したりと 些々たる感情の為めに犠牲とな
     る村民こと不憫の至りに候 

その記事が出て三年後の大正5年今帰仁村役場は運天から中央部の仲宗根に移転する。


2019年4月8日(月)

 これから資料の書き出しに入る。一つの出来事でも歴史・民俗・伝承・時代・立場によっても異なっている。異なった視点であっても、そのもとは何かを把握することからスタート。


2019年4月5日(金)

運天(港)が果たした役割(35年前のまとめ)

  運天港は「北山の歴史」を描く上で重要な地点であり、どのような港であったのか。

    ・良港としての自然条件が備わっている。

    ・北山の時代から、海上交通の重要な要所として機能していた。

    ・『おもろさうし』に「うむてん」とうたわれている。

    ・薩摩軍の琉球侵攻の舟元がこほり(古宇利)と運天であった。

    ・近世紀から、源為朝の運天上陸伝説がある。

    ・薩摩への「仕上世米」の積み出し港であった。

    ・運天に番所・在番が置かれた。

    ・近世琉球の中国対策の一役を担っていた。

    ・歴史的な百按司墓・大北墓・大和墓・オランダ墓や古墓群などがある。

    ・琉球・日本との通商を目的とした外国船が来航した。

    ・避難や風待ちのために一時寄港地として利用された。

  運天港は北山の時代から海上交通の要所として琉球・日本はもとより諸外国にも知れ渡っていた。『海東諸国紀』「琉球国之図」(1471年)の項で述べたように、地図に記された運天港の部分に「要津」とわざわざコメントを入れる程、地図の製作者にとって文字通り海外交易の際の重要な港として認識されていたことが伺い知れる。

 このように15世紀には既に貿易港として機能していた運天港であり、それは薩摩の琉球侵攻以後も中国を始めとする対外政策上、重要な拠点の一つであった。ペリーの来航により実現はしなかったものの、薩摩藩が運天港に商館を建て、古宇利島を出島に仕立て、鎖国の中での海外貿易地にしようという計画も立てられていた程である。政治・経済の舞台の一つであり、番所が置かれ、百按司墓や大北墓など、位の高い人々の墓が造られた場所でもある。源為朝が流れ着いたとする伝説があるのも(「運を天にまかせて」という語呂合わせが当てはまるということを抜きにしてなお)、運天の名が多くの人に知られ、為朝が流れ着くにふさわしい場所と考えられていたからではないだろうか。

  近世、運天港の周辺にはムラの人々は住んでおらず、番所を中心とした公の世界であり、運天の活気は運天港の動き―船の出入り―と連動していた。しかし、海上輸送から陸上輸送に転換したことで運天番所(役場)の利用が不便になり、役場が仲宗根に移転したことによって、表舞台としての運天(港)の役割はひとまず幕を下ろすこととなる。明治40(1907)年に運天を訪れた菊池幽芳によると「現在この港は誰にも利用されておらず、ただ近海を通る漁船や汽船が暴風に遭うと逃げ込んでくるだけ」とあり、役場移転のほぼ10年前ではあるが既に閑散とした港の様子である。

  「運天港」は古琉球の時代から近世末に至るまでの今帰仁や山原を考える上で、いくつものテーマを示唆してくれる場所である。運天港は今は小さくなってしまった感のある一つの港にすぎないが、その港をめぐる歴史は非常にダイナミックで、しかも関係する範囲が地理的にも広く、一つひとつの課題を丁寧に掘り起こしていくことで琉球や世界の歴史を展開することができるテーマである。個々の課題の持つ視点を通して、運天港の果たした役割やその全体像がようやく掴めてくると言えるのではないだろうか。


2019年4月4日(木)

 「球陽」に登場する上間大親のことがある。上間大親は尚円王が国頭に渡ったとき、大親は本部間切(当時今帰仁間切)具志堅村で、尚真王が巡回のとき、具志堅津で遭難したとき救助したとで上間大親の父子に報償をたまわることに。・・・

 そのような出来事の功績をもつ一族の墓を乾隆年間に墓をつくり、上間家の乾隆年間の人物から葬られている。上間大親が葬られているというより、家譜を申請するに及んで墓を創設したものであろう。その出来事と上間家にあった古琉球の辞令書(辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給)が昭和の初期まであったことと無縁はなかろう。(詳細については別で述べる)

http--yannaki.jp-akabaka1.html(上間家と赤墓)



2019年4月3日(水)

 1471年頃の琉球の様子が伺える図である。そこで注目しているのは「国頭城」である。北山では第一監守時代(1422年~1469年)である。その頃の監守は尚忠から具志頭(王子)へ。その後、輪番で監守が継承されたようである。図が描かれたのはその時期である。北山討伐に君臨したのは、今帰仁按司をのぞいた国頭・羽地・名護の一団は巴志(中山)へ組している。大宜味間切(田港)や大宜味村の出現は1673年以降である。「中山世譜」など正史では扱われない歴史を読み取ることができそう。

 「国頭城」と「琉球国都」についで大きく描かれているのは何故なのか。今帰仁グスクは「伊麻奇時利城」と小さく描かれているのは理由があるのではないか。北山討伐に加勢したことが反映しているのではないかと。国頭按司は近世なっても首里王府の重要な位置にあったとみられる(金石文で「くにかみあんし」)。

 (工事中)


   ▲「海東諸国紀」(琉球国之図)より

2019年4月2日(火)

 古琉球の辞令書を紐解いてみると、古琉球の「まきり」(間切)や「・・・村」の前身、そして「はる」(後の原)の姿が見えて来そうである。2003年のメモを見てみる。それは近世の間切・村・原つながる「まきり」「ムラ」、そして「はる」について考えてみようとするものである。


【上間家にあった辞令書】(写)2003.7.31メモ

 この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。名護市史の崎原さんに捜してもらい、ファックスで送ってもらった資料である。感謝。

 この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。

 現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているの、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致するでしょう。

     ・たけのみはる→嵩原?
        ・まへたはる→前田原(現在ナシ)
        ・とみちやはる→富謝原 

     ・きのけなはら
     ・あら(な?)はなはる→穴花原
     ・たこせなはる
     ・あふうちはる
     ・ふなさとはる
     ・まふはる→真部原
     ・あまみせはら

 貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
     ・なつほこりミかない
     ・せちミかない
     ・なつわかミかない
     ・おれつむミかない
     ・正月ミかない
     ・きみかみのおやのミかない
     ・けふりのミかない

 のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
 古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。

【辞令書の全文】(一部不明あり)
  志よりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
   五 おミかないのところ
   二 かりやたに 十三まし
   たけのみはる 又まへたはるともに
  又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
    とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
  又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
  又 まふはるともニ
    この分のミかない与
    四かためおけの なつほこりミかない
  又 くひきゆら ミしやもち
  又 四かためおけの なつわかミかない
  又 一かためおけの なつわミかない
  又 一かためおけの おれつむミかない
  又 一かためおけ 又なから正月ミかない
  又 一lくひき みしやもち
  又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又 一くひ みしやもち
  又 一かためおけの けふりミかない共
    この分のみかないは
    上申・・・・・・
    ふみそい申しち
    もとは中おしちの内より
  一 ミやうすくたに ニまし
    まへたはる一
    この分のおやみかない
  又 のろさとぬし
    おきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
  一人あかるいの
おきてに給う
 志よりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日





 本ブログは今月から「今帰仁村歴史文化センター」に軸を移します。『新今帰仁村史』の編集に取りかかるからです。これまでの「沖縄の地域調査研究」は『新今帰仁村史』発刊に向けての調査研究でした。本ページは、その延長上に置いていきます。2017年以前の「記録」は「寡黙庵」に全部は移すことができませんでした。それで「沖縄の地域調査研究」(寡黙庵)で今帰仁村歴史文化センターのこと・新今帰仁村史についてできる範囲で対応の予定です。

 業務の打ち合わせは、これからです。


2019年4月1日(月)

 初出勤で業務の打ち合わせです。 「寡黙」に過ごしてきたので、どうなることやら。これからもよろしくお願いいたします。

 早速資料を広げ古琉球の時代と関わる資料に見入る。
 ・『明実録』から山北三王の時代
 ・オモロから見える時代
 ・今帰仁や山原が謡われている時代を読み取ってみる(読み取れるか?)
 ・『海東諸国紀』(1471年)みる山原
 ・古琉球の辞令書から
 ・ノロ遺品から?
 ・古琉球の「まきり」、ムラの形がみえてくるのでは?
 ・『中山世譜』や『中山世鑑』では北山はどう描かれているか。
 ・野史では正史に描かれない歴史はどう描かれているのか。
 ・先学者はどうか。

   (どんなことになるのか興味深い)

 

 『明実録』の山北王の記事に目を通してみることに。歴代宝案編集参考資料5に『明実録』の琉球史料(一)として、原文篇、訳文篇、注釈篇が公にされている(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室)ので、大変有り難いことである。感謝するものである。この訳文と注釈を通して、山北三王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代を、一歩、二歩、踏み込んでいける。まずは、山北王の記事の全てを拾い上げることからはじめることに。

『明実録』に見る北山

 『明実録』に山北王が記されるのは洪武十六年(1383)からである。洪武十六年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあろう。

 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王はいたであろう。

 山北王怕尼芝は洪武十六年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。

 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。

 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割は、になっていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数に於いても。

 『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度三六年(1385)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。

 攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。