沖縄の地域調査研究
                             
寡黙庵(管理人:仲原)

                        
 もくじ:トップページ      
 問合せ(メール)         
                   
2019年3月(今月)

2017年4月 ・2017年5月 ・2017年6月  ・2017年7月2017年8月  
2017年9月  ・2017年10月 ・2017年11月 ・2017年12月  2018年1月 2018年2月へ
・2018年3月 2018年4月 ・2018年5月 2018年6月  2018年7月 2018年8月 2018年9月
2018年10月  2018年11月 2018年12月 ・2019年1月 2019年2月(先月)




2019年3月31日(

 
第三回目の「ムラ・シマ講座」、午前9時から2時まで。少しハードなスケジュール。仕事の軸を今帰仁村に移すのでお礼の挨拶をかねて。
  ・大宜味村田港(屋根の修復中?)
  ・大宜味村屋古
  ・塩屋湾の見渡せる六田原展望台へ(大保:途中アカマターと出会う。タイホ(逮捕)されるの?)
  ・猪を見に(姿みえず、嘘つき)
  ・道を迷って大保ダムへ(ぶながや舘の資料、昭和34年台風での土砂崩れ死者38名)
   オキナワウラジロガシの大木の切り株
  ・道を迷いながら出たのは饒波。(グラは芭蕉の芯:饒波のオバーから教わる)
  ・喜如嘉→謝名城は素通り。改めて立ち寄る。
  ・田嘉里へ
    ・屋嘉比川へ(竹の新芽(グラ)の出具合は?)五月にグラ祭りがあるとのこと(協力依頼あり)。
    ・屋嘉比の神アサギ・山口の拝所、ウタキへ。
    ・屋嘉比ノロ殿内へ(これまでの資料拝見のお礼と神衣装の写真撮影のお願いへ
        (留守で改めて伺うことに) 

 
▲田港の神アサギ(屋根修復中)   ▲六田原展望台から塩屋湾    ▲遭難救助作業(昭和34年)(村史提供

  
   ▲屋嘉比神アサギ          ▲山口の拝所(内部)           ▲ウントーウガミ(イビ) 

2019年3月30日(土)

 第二回目の地域めぐりへ。春休みとなり、お泊まり。「講座へ行く?」「うん、いくよ」

 名護市屋部へ。屋部の古い墓のあるぷーみちゃへ。かつて一帯は湿地帯で小さな森が湿地滞に浮かんでいるように見えたところ。そこから4月に転校するので学んだ幼稚園と小学校へ。頭はすでに転校する学校のことでいっぱいのようだ。

 まだ、字が書けないので報告の練習。三年生の姉が「知っている、見たことあるよ」と言葉をはさまむと黙ってしまうので、しばらく一人講座。「しゃしん、おもしろいね」と。

  
       ▲ぷうみちゃにある古い墓                          ▲拝所 ぶうみちゃ

  
  ▲友達がかよう幼稚園     ▲旧家の久護家へ     ▲屋部の神アサギを見つけて一目散

  
 ▲公民館前の「八月踊りの碑」    ▲「八月踊り」みたいなと      ▲拝所をみつけてパチリ


2019年3月29日(金)

 来週になるとシーミー(清水祭)に入る。伊是名島ではクージシーミーが毎年行われている。尚氏の関係者が伊是名グスクの玉御墓で。運天港からフェリーで島に渡る。明日、運天港まで。バジル・ホールが見た運天港について思い出してみるか。

平成22年7月28日(水)記録より

 1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(197~198頁)(岩波文庫)を手掛かりに、運天(港)や周辺の様子を浮き上がらすことができないか。下にその様子を記した文章を掲げ、200年近くたった今、どのようになっているのか、いくつか拾ってみる作業をしてみた。19世紀初頭、運天(港)周辺の外国人がみた様子を画像でたどってみた。1816年の運天の風景が、今の運天にどれだけ見つけることができるか。そのことをテーマでの編集会議。

バジル・ホールがみた運天(港)【1816年10月11日】

 「この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。

 垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。
 浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。

 この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。

 村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある。全長約四分の一マイル(400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。

 半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8~10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうがって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。

 この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。しんと静まりかえった荘重な雰囲気である。

だが一見したところ、ここは墓地本来の目的である墓碑や碑銘などの役割を示すものが何もないのは意外である。たまたま樹木や灌木の茂みの間に一本の道のようなものがあるのに気がついたわれわれは、その先に何があるのかつきとめようと、藪の間をぬって続いている小道をたどりはじめた。木や草は旺盛な生命力を示し、この日経験したさまざまの興味ある出来事によってわれわれの気分もまた高揚していたのだった。だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。

 この村は運天Oontingという名前である。那覇の首長たちが口にし、われわれがWinchingあるいはOonchingと記録したのと同じ土地であろう。

 われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。
 
※「公共の遊歩場」は運天番所の前の馬場後と見られる。「咸豊七年丁丑『御首尾扣帳』
 (今帰仁間切番所所蔵と宮城真治民俗調査ノートにある)に、「三月三日、五月四日は
 番所の前、アブシバラヒは仲原馬場、八月十一日親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二
 合、七寸重壱次自参、見物仕申候」とあり、三月三日と五月四日に番所の前で馬を揃え
 て重箱を持参して見物している。その様子から運天番所前に馬場があったことがしれる。
 「咸豊七年丁丑」は1857年である。 
 「死者たちの場所」は、明治21年頃に修復する前の百按司墓のことであろう。 
  


            ▲明治末の運天港の様子(『望郷沖縄』所収より)


  ▲昭和35年頃の運天港               ▲崖中腹にある墓


▲「いくつもの四角い穴」はこれか? ▲「公共の遊歩場」は番所前の馬場のこと?


2019年3月28日(木)

北山三王の時代


2019年3月27日(水)


  今帰仁グスクと関わる過去の記録に目を通してみる。書き改めるべきヶ所が目につくが、新城徳祐資料を広げる機会があるので整理しなおすことにする。(過去の記録は当時のまま)


2009年7月25日(土)過去記録

 企画展の準備にはいていく。これから資料の確認にはいるのであるが、2000枚余りの写真に目を通していく。昭和3040年代にかけての写真が中心である。写真だけでなく調査ノートや拓本や文書資料など多岐に及ぶ。一度は目を通しているが、8年もたっているので、もう少し丁寧に見ておきたい。50冊余のアルバムから二枚の写真を取り出してみた。昭和40年頃の様子かと思われる。(新城徳祐資料:歴史文化センター蔵)

 今帰仁グスクや正面から麓にかけての写真は紹介してきたが、裏門(志慶真門)あたりの紹介はほとんどしていない。画像の下左側は今帰仁グスクの航空写真である。大隅(ウーシミ)の石積みの修復の途中かと思われる。グスクの前方は砂糖キビ畑が目立つ。

 下右の画像は志慶真門郭と手前は志慶真村跡地の一部である。中央部を通る道路ができて間もない頃である。手前あたりの一軒の瓦ぶきの家(吉田家)が見える。手前の道路側に杜に家(喜屋武家)がある。昭和30年代に10数件あったという。ウイバルだけでエイサーをしている。

 右の写真の手前は志慶真村の跡地であるが、そこにあった志慶真村の集落は二度、三度と移動し最後は諸喜田村の南側に移動し、明治36年に諸志村、明治41年に字諸志となり、現在に至っている。志慶真村の移動は、今帰仁村(ムラ)の集落移動と時期を同じくしている。1609年の薩摩の琉球侵攻の後である。

 画像に見える家は、志慶真村の人たちと直接つながるものではない。麓の今帰仁や親泊から、一部は寄留してきた人たちである。新しく道路が造られたため志慶真村集落跡地への動線がわかりにくくなっている。明治36年の「国頭郡今帰仁村今泊村図」を見ると、その段階で10軒余の家が確認できる。明治36年図に見える家々が、どの時期に志慶真村跡地に移住してきたは聞き取り調査をしてみる必要がある。明治36年以前であることは間違いない。明治の初期だろうか。

 
  
昭和30年代後半の今帰仁グスクの様子     手前が志慶真村の集落の一部(昭和40年頃)


2009年7月23日(木)記録

 「与論島と琉球(北山)の原稿を書きあげ、次は「今帰仁に残された印部石(原石)(仮題)」の原稿が待っている。これまで確認してきた今帰仁村内の22基の印部石と「平敷村畧図」の原、 さらに現在の小字との関係をまとめている。乾隆7年(1742)に行われた今帰仁城の御支配(測量)の竿本になったのが「フ はんた原」の印部石(原石)である。それをとっかかりとしていく。22基の村内の印部石(原石)にコメントを入れ、「平敷村畧図」の原と平敷の小字の関係を読み取り、印部石の原と現在の小字とのつながり、それらについてまとめることに。今晩でまとめきれるか!(アキサミヨー!あれもこれも悲鳴をあげています)

  「今帰仁旧城図」の「はんた原 フノ印竿本ヨリ戌下小間右小十八間」を引き合いに出したのは、この御支配(元文検地)の時今帰仁城の御支配が行われている。乾隆7年(1742)八月に御支配がなされ、「今帰仁旧城図」の提出は翌年の四月である。

 御支配の時今帰仁城を「間切へ下される」旨承知している。しかし十世宣謨(今帰仁王子)は「城の囲内分を私子孫へ永代御願地として下されたく」願いでて許された経緯がある。その後の乾隆141749)年には「山北今帰仁城監守来歴碑記」を建立している。そのことも含めて、時の御支配は今に大きな影響を及ぼしている。

  元文検地呼ばれている御支配、そこで使われた印部石(原石)を基点として土地測量を行い王府は増収を目的としたのであろう。それだけではなく今帰仁城の竿入図(針図:惣坪五千九百十五坪)は今帰仁間切への払い下げから、急きょ?今帰仁按司家への「永代御願地」として許されたわけである。その時、針図作成のための竿本になったのが「はんた原 フ」の印部石(原石)である。はんた(ハンタ)原は、当時と変わらない小字名である。残念ながら、「フ はんた原」の印部石の現物は確認されていない。

 
                                  「平敷村畧図」       「オ いれ原」(古宇利島)


2019年3月25日(月)

 
2016年7月沖永良部島について集中したことがある。北山滅亡後の歴史をみていく場合、北山王の離散していった、複数の流れをみていく必要がありそう。(北山の系統とする一族、中北山の時代の興亡、沖永良部島、与論島との関わりはどうなのか。(工事中)

2016年7月29日(過去o記録) http--yannaki.jp-20167gatu.html(参照:沖永良部島と北山)

 フバドー(和泊町玉城:たまじろ)から後蘭村の後蘭孫八の居城跡と孫八の墓とヌルバンドーへ。先はまだだが、「おもろ」や「世之主由緒」に出てくる村や場所を踏査していると非常に興味深いことが見えてくる。(与論島での北山三男の島での受け入れとの違いも検討する必要がありそう。以前に与論で講演したことがあるので、その原稿をとりだしてみるか)

 各地の踏査を続けているのだが、心変わりせず静かに待ち続けている。そこに自分の研究の深化だけでなく、おもろで謡われている時代の手ごたえを実感。そこで暮らしている方々の理解しているかとは関係なく伝えている伝承。それを形にしているムラ。もう少し進めていきます。


 第13巻 115 No.860
  一 
ゑらぶ まこはつ
が       永良部 孫八が
    たまのきやく たかへて      玉の客 崇へて 
    ひといちよは             ひといちよは(船名)
    すかまうちに はりやせ      すかま内に(早朝) 走りやせ
  又 はなれまこはつ          離れ孫八

      (離島の永良部孫八が玉の客(女神宮)を崇えて、船を出すのは早朝のうちに)

     
※沖永良部島(和泊町、知名町)フーナーの屋号がある。ひといちよ(船名)と登場、そのような船主の屋号と
       結びつきそう)
。「おもろ」で「ゑらぶ まこはち」と謡われた頃は、まだ村名がなかったの
     のか。後蘭孫八の生誕地の伝承があったので「後蘭村」と漢字があてられたのか。
     そこあ非常に重要なことである。そこは歴史を伝える伝承が先か。「おもろ」などで
     謡われ、活字化されたのが先か。歴史を読み取っていく上で重要なことだと気づか
     される。


 後蘭村え居宅を構へ罷居候後蘭孫八と申すものへ城被仰付三年目に城致成就夫より御居城と相成候

 
   ▲後蘭孫八城跡の説明版             ▲後蘭孫八グスクへの入口

 

2019年3月24(

 午前中、第一回ムラ・シマ講座。名護市の親川・仲尾から。
 ・羽地(親川)グスク
 ・神アサギ
 ・仲尾古村遺跡
 ・仲尾ノロ殿地とオジギソウ
 ・仲尾神アサギ
 ・仲尾トンネル(大正8年開通)
 ・仲尾公民舘(仲尾馬場跡・ブリグラ跡)
その後は古宇利島へ。今日の収穫は大きなシマダコでした。ルビがふらている案内版を見つけて読んで得意げ。帰ってきて編集発表まで。上手にできました。来週も行く? 行く行く!

  デジカメの使い方に慣れるためモデルは?

  (ボーとしているとチコちゃんに怒られるよ!)

  
  ▲羽地(親川)グスク  ▲かなをみつけてパチリ  ▲鳥居をくぐってノロ殿地跡へ

  
▲オジギソウを見つけてパチリ    ▲トンネル名に向けて  ▲馬場跡???

 
  ▲行ったムラの記録           ▲タコの足何本?手は?

2019年3月23日(土)

 古宇利島では旧盆明けの最初の亥の日に海神祭(ウンジャミ)がある。アサギマー(神アサギマ庭)で唐船旗を取り付けたヌミ(弓)を持った神人がコの字型に沿って七回往来する所作がある。その次にアサギマーの東側で神人が縦になって東側に向かってのウガンがある。それが終わると、元の場所に戻り、そこでヌミに結わえた餅を突き落とす所作ある。それは古宇利島に伝わる琉球版のアダムとイブの伝承があり、蓄えを知らない間、天から餅が降ってきた。蓄えを覚えると餅が降ってこなくなった。餅が天から降ってきたことに由来するという餅降りの場面。餅は神人たちに配られる。(画像は当時古宇利小中学校教諭提供)
 

 
  ▲ヌミ(弓)に餅を結わえてところ              ▲餅を突き落としたところ         

 
 ▲神人に餅を配っているところ               ▲神アサギで供え物(餅・米・線香・御神酒)
2019年3月22日(金)

 湧川・勢理客・上運天・運天のワラビミチでの「供え物」を確認するため2008年のウプユミ・ワラビミチの調査画像を取りだしてみた。http--yannaki.jp-warabimiti.html(報告済み:参照)


2008年8月27日(旧盆あけの亥の日)調査

湧川のワラビミチ

 今帰仁村湧川のウプユミ(ワラビミチ)の祭祀をみる。「湧川の」というより「湧川及び勢理客ノロ管轄村のウフユミ・ワラビミチ」と呼んだ方がよさそうである。午後一時頃湧川へ。旧盆あけの亥の日に行われる「ウフユミ・ワラビミチ」に参加する。勢理客ノロは勢理客での祭祀を済ませた後、湧川のヒチャヌアサギ(奥間アサギ)にゆき、我部からの来訪者と一緒にウガンを行う。その前に湧川のシンザトヤーと関わる神人が新里ヤーでの弓を射る所作がありウガンを済ませた後、奥間アサギでウガンを行っている(詳細についての報告は別に)。勢理客ノロ管轄の字(アザ)は勢理客・上運天・運天である。湧川の奥間アサギと関わるのは別の理由がある。

 奥間アサギは勢理客ノロの男方の旧家である。村の神アサギではない。旧家の跡というのは奥間アサギには火神が祀られていることから旧家の跡だとわかる。(神アサギには火神は祀られない)
 神人が継承されず消える運命にある中で、勢理客ノロが誕生していることに驚いている。

【今帰仁村湧川】

  ①審里やー ②奥間神アサギ  
  ③湧川ノルドゥンチ(他の神人と合流)  ④ムラー
  ⑤ウイヌアサギ(湧川の神アサギ)でのウガンが終わると、

 勢理客ノロと我部から来た方々をウイヌアサギに歓待する。ウイヌアサギに向かう前に五回鼓を打つ(湧川の小学生二名、上運天の中学生二名)。ウイヌアサギでの湧川と勢理客ノロと我部の方々とのウガンが終わると、鼓を五回打ちならし、そこでのウガンは終わりをつげる。勢理客に向かう前に奥間アサギで五回鼓を打って勢理客へ向かう(車で移動)。

【今帰仁村勢理客】

 ⑥勢理客の神アサギ内
 勢理客の神アサギ内に鼓を打つ4名と湧川と運天の区長、そして勢理客ノロが招かれる。そこで玄米(お神酒)をいただく。カーサーモチと飲み物をお土産にいただく。神アサギに招かる前に鼓を五回打ち、神アサギでのウガンが終わると再び鼓を五回打ち上運天に向かう(車で移動)。(玄米ジュー)

【今帰仁村上運天】

 ⑦上運天のアサギミャー
 上運天のアサギミャーに村人が座っている。勢理客から勢理客ノロと鼓打ちが到着すると上運天の方々が迎える。アサギミャーに入る前に鼓を打つ。鼓打ちは中央部に招かれる。勢理客ノロは上運天の区長と一緒にウガンをする。海向かってと神アサギで。上運天を離れる時に、また鼓を五回打つ(車で移動)。玄米ジュースが出される。

【今帰仁村運天】

 ⑧運天のアサギミャー
 運天に到着すると、アサギミャーに行く前に鼓を打ち、運天の村人に到着を知らせる。アサギミャーに到着すると、そこで五回鼓をうつ。招かれた、招く形態をとっている。勢理客ノロと湧川と上運天からきた鼓打ち、そして区長はそれぞれの区へ戻る。

 
 ▲奥間神アサギ(奥間殿内火神)でのウガン       ▲新里一門のウガン

  
  ▲湧川ノロドゥンチでのウガン           ▲ノロドゥンチでの供え物

   
▲奥間アサギでのウガン(勢理客ノロと我部の方々)   ▲火神の前の供え物

 
    ▲ムラガーでの供え物            ▲ムラガーでのウガン

 ▲湧川の神アサギに神人が参集          ▲神アサギ内でのウガン
 
 ▲奥間アサギ前に待機する鼓打ち(4人)     ▲湧川神アサギ前で鼓を打つ
 
 ▲湧川の神アサギに招かれる勢理客ノロと我部の方々(代表)

 ▲湧川の神アサギをでる時に鼓を打つ   ▲奥間アサギを出るときの鼓打ち(勢理客へ)

 
    ▲勢理客の神アサギ内でのウガン        ▲勢理客を出るときに鼓を打つ

 ▲上運天でのウガン(勢理客ノロも同行)    ▲鼓打ちは招待されている。回りに村人

 ▲終わって次への鼓打ち(運天へ)       ▲実習生達も参加

 ▲運天に到着の鼓打ち              ▲運天の村人がノロと鼓打ちを迎える


2019年3月21日(木)

 「山北今帰仁城監守来歴碑記」(県指定文化財)は北山の歴史を知る貴重な資料である。概略を記したが、詳細に読み取っていく必要がある。移設前、移設中、後の様子を紹介しておくことに。

  
 (工事中)

2002.4.3(水)メモ
 
 「山北今帰仁城監守来歴碑記」(県指定の文化財)
 
昨年12月「山北今帰仁城監守来歴碑記」が県指定の文化財となった。今帰仁城跡の主郭(本丸)の火神の祠の前に立っている石碑。現在立っているのはレプリカで、原物は歴史文化センターのエントランスホールに展示してある。碑はニービヌフニ(微粒砂岩)で高さ約117㎝、幅約41㎝、厚さ9㎝である。石碑は乾隆14年(1749)に建立され、建てたのは今帰仁王子(十世宣謨)ある。火神の祠の前に燈籠があり、その一基に石碑の建立者である「今帰仁王子」の名が刻まれている。
 碑文の内容の概略を記すと以下の通りである。

  昔、琉球の諸郡は四分五裂し、ついに三山が鼎立する情勢となる。佐敷按司
  の巴志が兵を起こし三山を統一する。北山は中山から遠く離れ教化し難く、ま
  た地形が険阻である。そのため変乱を起こす恐れがあり、次子の
  尚忠を派遣して監守させ、永くその制度を置いた。尚徳王に至って
  国政が乱れ禍を招き転覆する。尚円が王に推挙されると、しばらく大
  臣を輪番で派遣して監守させる。弘治年間に尚真王は第三子の尚
  韶威を派遣して監守となる。彼が吾(十世宣謨・今帰仁王子)の元
  祖である。代々今帰仁城を鎮め典法を守ってきた。康煕四年(1665)
  七世従憲の時、住宅を首里に移し今帰仁城の旧跡や典礼などを掌っ
  た。乾隆七年(1742)に城地を郡民に授け、典礼を行わせようとした。
  ところが、宣謨は往時のことを禀明し、元祖以来山北を鎮守し統治す
  る者は吾が子々孫々しかない。宣謨はそのような来歴を記し、石に
  刻み永く伝える
   皇清乾隆十四年巳己秋八月穀旦十世孫宣謨今帰仁王子朝忠謹立   


 この碑文から、古い琉球の歴史をどのようにとらえていたか、監守を設置した理由や監守引き揚げ、また今帰仁グスクの管理の移管について、祭祀の状況を知ることができる。北山(今帰仁)の歴史の一端を知ることができる貴重な史料である。当時の歴史観を伺うことができる。十世宣謨(今帰仁王子)の当時の判断が今帰仁グスクの管理や所有権の移管が今に影響を及ぼしている。

http://www.reki.user.tontonme.ne.jp/syasin/kansyurairekihiki.jpg

  ▲移築前の来歴碑記(1987年)       ▲移築された火神の祠と来歴碑記(1987年)

       
▲山北今帰仁旧城監守来歴碑記(拓本)  ▲移設前の様子


2019年3月20日(水)

 夕方から「寡黙庵」の手入れ。葉の陰にイチゴが一粒。それを持って孫の家へ。庭の芝生が気になって。日曜日は孫を連れ出して各地をまわることに(嫁からの依頼)。

 
    ▲寡黙庵の手入れ           ▲実っていたのは一粒のみ       ▲孫達の庭の芝生青々と

2002.1.5(土)メモ

 長崎県は二度目である。4年前(2002年から)だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。今回はハウステンボスと長崎市内が中心。

 ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。

 暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。

 もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろ、自然との折り合いについてもしかりである。

 出島計画。それは1846年6月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。

 ここで長崎の「出島」について述べないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる旅であった。(詳細については『なきじん研究11』の運天港部分で報告)


2019年3月19日(火)

 「山原神アサギ」は近世の村(ムラ)の歴史を辿る重要なキーワードである。神アサギを通して村の形を描くことができる。その頃、気づかなかった村(ムラ)単位で租税を納めていたこと(物納)と地割制であったこと。規模の大きいムラには二人の掟を配置し、規模の小さいムラには掟に複数のムラを担当させたり。『琉球国由記』(1713年)以後に創設されたムラに神アサギが創設しなければならなかった理由、合併した村では神アサギを一つにしないのは? また、大正期以後に創設、分離した字(アザ)に神アサギを必要なくなったのは?など・・・・。全体を通して様々は近世の村(ムラ)の変遷がみえてくる。そろそろ書き改めてみるか。(社会の生き物である)

http--yannaki.jp-nakijinasagi.html(山原の神アサギ)(参照)
http--yannaki.jp-motobukamiasagi.html(本部の神アサギ)
http--yannaki.jp-kuniasagi.html(国頭の神アサギ)
http--yannaki.jp-11oogimiasagi.html(大宜味の神アサギ)
http--yannaki.jp-hanetiasagi.html羽地の神アサギ)
http--yannaki.jp-yagajiasagi.html(屋我地の神アサギ)
http--yannaki.jp-nagoasagi01.html(名護の神アサギ)
http--yannaki.jp-onnnaasagi.html(恩納の神アサギ)
http--yannaki.jp-iheyaasagi2017.html(伊平屋の神アサギ)


・『琉球国由来記』(1713年)に見る神アサギ(アシアゲ)

 1713年頃の山原の村と神アサギを整理したみた。中には神アサギを持っていない村がある。そこは村の歴史を辿ることで見えてくる。その中の大宜味間切の11村の内神アサギがあるのは5である。神アサギがなかったのではなく脱漏なのか、脱漏というより、そこに村(ムラ)の形が隠されている。

・恩納間切(8村中7) 
   ①恩納村 ②真栄田村 ③読谷山村(山田) ④富着村 ⑤瀬良垣村
   ⑥安富祖村 ⑦名嘉真村 ⑧前兼久村

・金武間切(6村のうち6)
   ①金武村 ②漢那村 ③惣慶村 ④宜野座村 ⑤伊芸村 ⑥屋嘉村

・久志間切(11村のうち10)
   ①久志村 ②辺野古村 ③古知屋村 ④瀬嵩村 ⑤汀間村 ⑥嘉陽村
   ⑦天仁屋村 ⑧有銘村 ⑨慶佐次村 ⑩大浦村 ⑪安部村 

・名護間切(11村のうち11)
   ①名護村 ②喜瀬村 ③幸喜村 ④許田村 ⑤数久田村 ⑥世冨慶村
   ⑦宮里村 ⑧屋部村 ⑨宇茂佐村 ⑩安和村 ⑪山入端村 

・本部間切(15村のうち13)
   ①伊野波村 ②具志川村 ③渡久地村 ④伊豆味村 ⑤天底村
   ⑥嘉津宇村 ⑦具志堅村 ⑧備瀬村 ⑨浦崎村 ⑩謝花村
   ⑪辺名地村 ⑫石嘉波  ⑬瀬底村 ⑭崎本部村 ⑮健堅村

・今帰仁間切(18村のうち20)(1はグスク内)
  ①今帰仁村 ②親泊村 ③志慶真村 ④兼次村 ⑤諸喜田村 
  ⑥与那嶺村 ⑦崎山村 ⑧中城村 ⑨平敷(識)村 ⑩謝名村 
  ⑪中(仲)宗根村 ⑫玉城村 ⑬岸本村 ⑭寒水村 ⑮勢理客村 
  ⑯上運天村 ⑰運天村 ⑱郡村

羽地間切(18村のうち18)
  ①瀬洲村 ②源河村 ③真喜屋村 ④中(仲)尾次村 ⑤川上村 
  ⑥中(仲)尾村 ⑦田井等村 ⑧伊指(佐)川村 ⑨我部祖河村 
  ⑩古我知村 ⑪振慶名村 ⑫呉我村 ⑬我部村 ⑭屋我村 
  ⑮饒辺名村 ⑯済井出村 ⑰谷田村 ⑱松田村

・大宜味間切(11村のうち5)
  ①城村 ②根謝銘村 ③喜如嘉村 ④大宜味村 ⑤田湊(港)村 
  ⑥塩屋村 ⑦津波村 ⑧平南村 ⑨平良村 ⑩屋古前田村 ⑪川田村

・国頭間切(16村のうち15)
  ①比地村 ②奥間村 ③浜村 ④親田村 ⑤屋嘉比村 ⑥見里村 
  ⑦辺土名村 ⑧与那村 ⑨辺戸村 ⑩安波村 ⑪安田村 ⑫宇良村 
  ⑬伊地村 ⑭謝敷村 ⑮佐手村 ⑯辺野喜村

国頭間切・大宜味間切・羽地間切・今帰仁間切・本部間切・名護間切・久志間切・金武間切・恩納間切の村数106あり、神アサギは106村のうち98村にある。ただし、一つの村に二つの神アサギがある場合もある。羽地間切真喜屋、今帰仁間切今帰仁村はグスク内の神アサギがある。

『琉球国由来記』(1713年)における山原の神アサギ98、現在の神アサギ数は118近くある(ただし、戦前や明治17年頃にあった神アサギ含む)。現在の神アサギ数を確認してみる。

今帰仁村……………………………20(湧川の奥間アサギ1含まず)
  本部町………………………………15
  旧名護町(現在名護市)……………11
  旧久志村……………………………9(間部1含む)
  東 村……………………………… 5(宮城1含む)
  旧羽地村……………………………18(統合した4含む)
  大宜味村……………………………10(統合した3含む)
  国頭村………………………………16(楚洲1含まず)
  恩納村………………………………7(真栄田と山田2含む)
  金武町………………………………3(屋嘉・伊芸・金武以前の含む)
  宜野座村……………………………4                                                      
               (現在の神アサギ合計118)


祀と神人の位置付け

 祭祀を首里王府との関係で租税を納める、租税をとる関係で捕らえることができないか。つまり、祭祀は祭祀に名付けた休息日と。神人は公務員と位置づけて祭祀をみる視点が必要ではないか。

 神人の祈りを聞いていると、五穀豊穣・村の繁盛、そして航海安全である。それを神人の基本的な三つの祈りというようになっている。その三つの祈りは神人のプライベートの祈りではなく、ムラ全体、ムラの人々の祈願でもある。もちろん神人が家庭に戻ると位牌や火神に手を合わせて祈りをする。それはプライベートや一門の祈りである。御嶽や祭祀場における神人の祈りは、公の祈りである。その勤めをする神人を公務員位置づけている。
 神職を務めている間ノロさんはノロ地、他の神役の神人達も畑などの土地の配分を受けていたであろう。掟は掟地と呼ばれる土地がある。掟の役職を務めている間、その土地を授かっていたのであろう。

5.祭祀から見たムラ・シマ

 『琉球国由来記』(1713年)の祭祀のところで、気になったのは百姓やおえか人(間切役人)は地方にいるので、関わる村の祭祀に参加する。もちろんノロや神人は参加する。その中で首里に居住しているはずの按司地頭や惣地頭や地頭(脇地頭)の祭祀への参加がある。

 脇地頭はかかえ村への参加となろう。按司地頭と惣地頭はどこの村に出席するのか。例えば、恩納間切では城内(恩納村)の殿と神アシアゲでの祭祀に両惣地頭が参加している。金武間切では金武ノロ火神(金武村)と金武神アシアゲでの祭祀に両惣地頭が参加。


2019年3月18日(月)

 今年も一つ月後に旧暦の3月27日がやってくる。1609年に薩摩(島津)軍が琉球国を攻め入って400年となる。その出来事は琉球国が大きく変わっていく事件である。ここ北山でもいくつか変っていく出来事があった。北山監守が撤廃(首里への引揚げ、今帰仁阿応理屋恵の首里への引揚げ))、今帰仁間切が分割され、今帰仁間切と伊野波(本部)間切となる。番所が運天と伊野波(渡久地)に置かれた。それまでの今帰仁番所は今帰仁グスク内? 17年経って再度見直してみることに。

2002.4.28(日)メモ

 旧暦の3月27日が近づいてくると「薩摩の琉球侵攻」が思い出される。今帰仁においても大きな出来事であった。「琉球渡海日々記」をベースにするか、あるいは「喜安日記」によるかで記述が異なってくる。攻める側と攻められる側では自ずとその表現や数字は異なってこよう。それは当然である。要は何をどの史料を根拠に論を展開していくかである。まずは、今きじん(今帰仁)に関わる部分について「琉球渡海日々記」と「喜安日記」から、その概略を並べてみた。

「琉球渡海日々記」にみる今帰仁の様子

 ・3月24日午前10時頃徳之島の亀沢(津か)の港を出港した。
        沖永良部の島崎(地名見あたらず)に停泊した。
        先発の船が待ち合わせており、そのまま琉球へ。
        夜通し船を走らせた。
 ・3月25日夕刻6~7時頃(酉の刻頃)琉球のこほり(郡・古宇利)に着
        いた。
 ・3月26日は返報日なので打ちまわりなどもなく錨をいれた(休息日
        か)。
 ・3月27日太郎左衛門と半右衛門の二人は、今きじんと申す所を一覧
        のため五枚帆で出かけた。今きじんの城は開いていた。
        午前10時頃俄かに(急に)打ちまわり、方々に放火した。
        運よく捕り物が沢山あった。
        郡(こほり)の運天舟元より三里程奥に出かけた。田畠が
        多くよい在郷があった。
 ・3月28日は逗留(滞在)した。
 ・3月29日は夜半に船を出し、大わん(大湾)という所に着いた。

「喜安日記」にみる今帰仁の様子

  3月26日は西来院・名護・江洲が先に首里から今帰仁に立ち倉波
        につく。今帰仁から河内と東風平が来て、道は敵が満ち
        満ちているため陸路は通らないようにとのこと。その日倉
        波から小舟で恩納までいく。
  
  3月27日は暁に舟を出し、今帰仁(親泊)につき沖で詮議する。親泊
        の沖に敵舟が一艘きて、それに乗り移り、引かれて今帰仁
        (親泊?)につく。大将軍は今帰仁城へ勤めがあり、会うこ
        とができず、暮れたので帰った。 

 「琉球渡海日々記」と「喜安日記」から「今きじん」(今帰仁)部分を歴史的にどう描けるのか。今帰仁部分の僅かな記録の行間からどこまで読みとっていけるのか(もちろん、全体を通してみる必要があるが…)。「琉球渡海日々記」を記録した人物が薩摩軍を引っ張っていく立場でないため、全体の状況や動きの目的や人数など十分把握していないため、同時代史料であっても充分な記録ではないようだ。
  歴史を描く史料の限界を意識しつつ、他の史料を駆使して歴史を描く作業が必要となってくる。その視点での研究は紙屋敦之氏「薩摩の琉球侵攻」(『新琉球史 近世編(上)』で、すでになされている。「琉球渡海日々記」から、もう一度確認してみると史料の限界も理解されよう。

  ・沖縄本島のこほり(古宇利)、運天港は郡の舟元にしたこと。
  ・26日は返報日なので「打ちまわり」がなかった。全く動きが
   なかったのか。
  ・27日に太郎左衛門と半右衛門の二人で今きじんを一覧するために
   五枚帆で出かけているが、それは討伐なのか。一方では運天から
   三里奥まで行き在郷があったとの報告。
  ・今きじんの城(今帰仁城)に行って見たら城は「あき城」(抜けの殻)
   だったのは戦わずして逃げ去っていたのか。
  ・28日の逗留は何を意味しているのか。

 「喜安日記」は同時代史料でないことを念頭に入れておく必要がある。それでも「琉球渡海日々記」を補完できる部分が多々ある。26日に西来院や名護、そして江洲が首里から今帰仁へ向っている。逆に、今帰仁から河内と東風平が来て(戻り)、「道は敵が満ち満ちていた」といい、そのため陸路を通らないようにと状況を報告している。河内と東風平が今帰仁から来た(戻ってきた)というのは、薩摩軍との戦いに敗れ逃げのびてきたことを意味するのか。(今帰仁でどのような戦闘があったのか、両史料とも具体的に述べていない)。

 3月28日今帰仁監守を勤めていた五世克祉(今帰仁按司)が死亡している(『具志川家家譜』)。その死は戦闘があっての死か、あるいは今帰仁城の焼き討ちの責任をとっての死か。いずれにしろ、薩摩軍と戦闘があったことを思わせる。死者が何名あったのか二つの史料から見つけ出すことはできない。別の同時代史料に出て来ているのかもしれない。

 それと「琉球渡海日々記」で25日にこほり(郡)の岸に着くとのみあり、運天港まできたか不明。100艘余の船なのでこほりの浜からはみ出て、一部奥の運天港まではいてきた可能性は十分。26日は「返報日で打ちまわりがなかった」とあるが、一部の部隊がこほりから運天港まで来たり、あるいは今帰仁城で戦いをした可能性がある。翌27日太郎左衛門と半右衛門の二人が行ってみたら今帰仁城は開いており(空城)、俄かに放火している。捕り物が多くあったというから、前日の戦闘後に今帰仁城に行ったのかもしれない。このように知りたいことへの解答は「かもしれない」の部分が多いのである。

 このように史料を駆使しながら、他の史料や一連の流れで「今帰仁(間切)における薩摩の琉球侵攻」をもう少し丁寧にみていく必要がある。限られた史料で歴史を描くことはなかなか困難なものがある。書かれたものを鵜呑みにして歴史を描いていやしないか。ときどき、そんな思いにかられる。

  薩摩軍の今帰仁城の放火後、今帰仁では城の前後にあった今帰仁村(ムラ)と志慶真村(ムラ)の麓への集落移動、今帰仁城内に居住していた監守一族が城下に移りすみ、さらに1665年首里に引き揚げ。翌年、今帰仁間切を分割し伊野波(本部)間切を創設する。さらに監守の首里への引き揚げは今帰仁阿応理屋恵の廃止へとつながっていく。このように薩摩軍の今帰仁城の焼き討ちは、「今帰仁の歴史」に大きな影響を及ぼしていった。もちろん、琉球全体が幕藩体制という枠組みに組み込まれていくのであるが。薩摩軍の今帰仁城の攻め入りについて、具体的な描写は困難である。しかし、その出来事がその後の今帰仁の歴史的な動きに大きな影響を及ぼしていることは確かである。

 今日は1609年3月25日から29日まで歴史の舞台となった今帰仁村今泊(親泊)海岸と薩摩の軍隊が逗留した古宇利島を遠方から撮影(干潮時で潮干狩りの人達がリーフに見られた)。そして城下から薩摩軍がかけ上がった(?)ハンタ道を通り今帰仁城まで登ってみた。(2002.4.28)

徳之島(琉球)への侵攻http--yannaki.jp-2007nen2gatukao.html(2007.2.22)参照


2019年3月16日(

 これからスタートする仕事の構想を練っている。全くの白紙からのスタートではない。平成の30年間で大学での講座、講演、地域調査、「なきじん研究」、字誌、企画展などで報告してきたものを、どうまとめていくか。これまで目にしてきた史・資料、先人達の研究に学びながら、地域の歴史が描ければと思案をめぐらしている。さて、どうなることやら。



 


2019年3月15日(土)

 しばらく徳之島は訪れていない。伊仙町の阿権村付近を思い出してみる。徳之島には城(グスク)のつく地名が多いこと(大城・天城・恩納(面繩)城・大和城・宮城など)。沖縄の近世以前の集落の形を彷彿させてくれる(高地性集落:数10mから150mの丘陵)。徳之島町の手々の古琉球の辞令書や簪や古文書(近世)(徳之島郷土資料館蔵)などの再調査を積み残している。体調を整えて行ってみるか。

2009年5月10日(日)メモ(徳之島:http--yannaki.jp-2007nen2gatukao.htmls 参照)


 亀津からスタートし、伊仙町の村々を訪れながら、神社と集落の関わりをみてはどうか。村々の地理感覚が不十分なため、なかなか体に落ちてこない。その中で阿権の集落は、他の村と異なった習俗や文化をもった一族の集団ではないか。村名もそうだし、阿権神社の近くにある墓地をみると、墓塔に「平」姓が数多くみられた。

れと高地性集落である。石積みの屋敷が目立ち、それが阿権村の人々の気風が表れているのではないか。最初にそんな印象をいだいた村である(平一族は琉球王府時代、島津藩の領地時代、さらに明治に至って豪農、大地主であったようである(「村落階層構造の史的展開」『徳之島調査報告書』4 沖国大南島文化研究所。参照)。

 『琉球国郷村帳』(1668年)や『正保国絵図帳』に「あこん村」と登場する。近くの「木之香生活館」でボール遊びをしている子どもたちに声をかけてみた。犬田布の小学生。阿権の子供達ではなかった。阿権神社を中心として、その裾野に集落が展開しているようにみえる。グスク時代の集落形態に近いのではないか。平家文書は手にしていなが、古琉球までは遡れるかもしれないが、グスク時代まではどうか(集落の詳細調査をしてみたいもんだ。すでになされているであろう)

 

  
伊仙町阿権神社     古めかしい石垣がある阿権集落

  
  ▲伊仙町木之香生活館の広場で。犬田布から遊びにきたという。

 

    伊仙町上面縄の高千穂神社        高千穂神社からみた麓の集落

 
 伊仙町面縄の坂元権現       ▲坂元権現からみた麓のムラ

【徳之島】(伊仙町)
(3)

伊仙町

グスク

世之主

ノロ

拝山・ティラ山

地名など

①喜 念

アジマシ(按司の田)・按司屋敷

②佐 弁

グスクダ

佐弁神社

③目手久

八幡神社


④阿


浅間按司城跡

阿三は浅間・カムイ焼窯跡

⑤面 縄
 (上面縄)

ウガングスク(恩納城)・シラハマグスク

 ノ ロ

坂元権現・高千穂神社

ウンノーアジヤシキ・クランシキ・空堀・見張所・曲輪

⑥検 福

トラグスク

ノ ロ

検福穴八幡神社

 中 山

 山岳城跡・中山城(ネーマグスク)

 女王伝説

 

 

 

トゥール墓 

⑧伊 仙

安住寺跡地に八幡宮と高千穂神社を合祀した義名山神社

安住寺は明治6年に廃止、石象はアガレン山へ。像は鄭迥(謝名親方?)


⑨阿 権

ウードゥ(城跡)・ターミグスク

平家に首里之主由緒記


阿権神社(鎮守の森)


八月踊り

高地性集落、石積みの屋敷、姓は平

 馬 根

 稲積城跡

 

 

 

 

 桂家・関家は士族

⑪木之香

アマングスク(天城)


⑫犬田布


ミョウガングスク


ミョウガンの按司


明眼神社

913日の稲作儀礼のアキムチ(ムチタボレ)

源為朝の腰掛け石・線刻文字・犬田布騒動

⑬崎

麦万神社

開拓村・掟

 糸木名

 

 

 いときなのノロ

 

 

 

 小 島

 

 

 

 

 

 シマの創世神話(大洞穴)

 八重竿

 
宿森(グスク)

筑登之が阿権まで水路をひく 

 

 宿森神社(源為朝を神体)

 

 

 


2019年3月14日(金)

 
更新できないで間、『比嘉春潮全集』『東恩納寛惇全集』『仲原善忠全集』を購入し目を通している。特に比嘉春潮先生の書かれている一文一文に注目させられる。明治に生きた先生の「首里」と「西原」(田舎)との温度差を実感されたことが随所にみられる。首里と西原との間にさえ温度差があった時代、今帰仁出身の島袋源一郎が置かれていた研究者・教育者としての立場が手に取るようにわかる。

 そのような事は四月からスタートする『新今帰仁村史』で展開できると考えている。明治までの間切役人のサバクイの大半が御殿(ウドゥン)・殿内(トゥンチ)奉公体験者であった。そのことが中央と地方を繋ぐパイプ役を果たしていたことで、間切や村ムラの個性を築いてきたと考えている(間もなく影も形も消えていくであろうが)。それを記録していける最後のチャンスだとも。ここ30年間(平成)の調査記録をまとめることも。そんなことを頭で描きつつ、地域調査の原点となった「寡黙庵」のある、ムラの形を観ていくモデルなった今帰仁村謝名を踏査。

 これから「寡黙庵」で「大宜味村史」の言語編言語地図の分布の一語一語づつの解説(100語余)を。二、三日で仕上げてみるか。

  
      ▲御嶽(ウタキ)に立てられた「謝名神社」(昭和9年)        「イベ」ある「奉寄進」(同治九年)の香炉

2019年3月9日(土)

 以前の「仲宗根政善寄贈資料」を整理したことがある。その時「久志村汀間のお祭の記録」(松田国昭君)の調査記録を仲宗根先生に送られている。先生からの依頼の調査のようです。大分前、汀間の方に提供したことがありますが(祭具調査)、何ら反応がありませんでしたので、一部紹介します。

 (略)私の部落では、その祭日の事をハーミノホウガイ(haminu-hogai)と呼んで居ります。ハーミは海亀お意味で、ホーガイは捕狩の意ではなかろうかと思います。

 先ず、愈々祭日が近づいて参りますと各戸から白米を二合宛徴集し、当日の御酒(白酒)を造ります。祭日の日は、朝から村の神アサギやノロの殿内綺麗に掃き清められます。祭典は大方夏の陽がすっかり落ちかけた夕暮れ時から始められ、太鼓の合図と共にヌル、根神、若ノロ、その他の神人、根神、根人がノロの殿内に集まり、各自火の神に線香をたき、祭典の時の服に着替えます。
 
 服装は写真で御覧の通り、ノロ、根神、若ノロの三人が頭に紫色のウチクイを結び、白絹の衣を着け、其の他の神々(ワキジキ・サグン神)や神人は頭に白いウチクイ白絹の衣という格好です。古老の話では、ずっと以前には殊球を纒ったり、五色の杖を持って装いを凝した様です。

   (以下略)

  
   ①神アサギ(海岸に建つ)       ②ノロ殿内の前の広場         ③右から根神、ノロ、若ノロ

2019年3月8日(金)

 5日国頭村奥までゆく。奥の島田氏から「大宜味村」へ書籍の寄贈がありました。書籍箱15箱ほど。島田氏から奥の印部石やウガミの石燈籠などについてお世話になり、今回は奥の根神の屋号マチヒチャ(松下)を確認。帰路、辺土の遠見所に立ち寄る。かろうじて二文字の確認(雨後だったので採拓は諦める)。

 天気が悪いので「寡黙庵」で「祭祀料理」の整理。これまで祭祀の調査を数多くやってきたので、祭祀の画像から供え物の調査表の整理。今週中でまとめることができるか。 

  
 ▲「寡黙庵」にイチゴが一粒      ▲ポロンポロンが今年も咲いて?いる     ▲青色の花が咲き出す

 
▲今帰仁村今泊の「ほちゃら」(石原)天馬舟の発着場 ▲フーチウガンの供え物(古宇利島)

2019年3月7日(木)

 兼次の資料調査の後、「今帰仁間切諸喜田村」の仕明知行帳(1863年)の一帯をゆく。「仕明地帳」につては「なきじん研究―今帰仁の地名」(平成9年:1997)紹介したことがある。仕分帳に①諸喜田原 ②下之崎原 ③タケワラ原 ④長港原 ⑤崎原があり、明治36年に決定した小字(原)とは必ずしも一致しない。地域としては与那嶺から諸喜田、兼次から親泊に流れるナハガーラ沿いである。「諸喜田原潟」とあることから湿地滞で満潮時には海水が流れ込んだ場所だったことがわかる(現在でもナハガーラは海水が遡流してくる)。

 仕明知帳に高所の役人(・・・親雲上)、三司官(・・・親方)の連署があり、国家事業として行われている。「勤職書」(口上覚)は道光年以降のことが主なので確認できていない。仕明地場所の痕跡は原と、明治34年の「土地整理関係等級申告控え」(諸喜田村・志慶真村:村頭嶋袋吉徳外地主惣代拾名)見ることができる。一帯の地主名をみると、諸喜田村のみでなく周辺の兼次村・親泊村・今帰仁村・与那嶺村・仲尾次村・崎山村・本部間切満名村・本部間切並里村でその多くが地目が田である。

 




▲仕明が行われたナハガーラ沿い(現在の様子:平成5年)   
  ▲仕明がなされたナハガーラ沿い(昭和18年)

2019年3月6日(水)

 
今帰仁村兼次で文書の提供があり受けとる。「元祖之流之次第」「先祖伝来」の書、「先祖之事項」、島袋筑之親雲上からはじまる系図、「記」(位牌)、「渡航許可証」「南米伯刺西西而国」(ブラジル渡航許可証)(大正七年八月二十日)、夫婦の写真(上原虎雄、上原ウタ)などである(詳細は目録は作成予定)。位牌は嶋袋であるが、現世帯主は上原である。上原虎男氏が奥さんの島袋家に入ったため。島袋一門が拝んでいた場所の一覧表(戦後仕立)もある。




2019年3月5日(火)

 先日(3月26日)委員会の目に恩納村の墓地をみる。恩納間切村は山原の歴史の背景を見ていく場合、海上交通を見逃すことはできない。それで『琉球国旧記』(1731年)の恩納間切の「江・港」の跡を確認したく恩納村恩納の海岸線を廻る。墓地を回っていると、途中「石原(ひちゃら)」の屋号を持つ家の墓碑が目にはいる。それは蔡温の独物語の浦々にひちゃら(石原)を整備して伝馬舟が接岸できる場所を造ることが必要であるとの記事がある。恩納村の海岸にある墓地に「石原家 ひちゃらや」と結びつくのか。その家の屋号とひちゃらが結びつくのか。

 恩納間切番所から墓地のある海岸線のひちゃらへ租税を運ぶルートがあったのではないか。山原舟の往来、避難港、漂流や漂着船等の記事が10軒余あり、丁寧にみていくことにするか(工事中)

  今日はこれから古文書やブラジルへの渡航証明書などの確認。

 
     ▲恩納村の海岸                     ▲ひちゃら(石原)さがし

2019年3月4日(月)

 
地域調査でノロ殿内については調査の対象にしてきた。山原の屋号をみていると、どうも根神を継承してきた旧家の屋号がある。それと、地割制の上納を集める役割を担った家(組:現在の班規模)の屋号とみられる家がある。根神について大正15年の調査(「琉球共産村落之研究」田村 浩著所収)があり参考になる。
 奥の根神の屋号の確認ができました(マチヒチャー)

    (工事中、本部町・今帰仁村はなし)

[国頭郡]

東村
 ・有銘      新屋門中      屋号 新山
 ・慶佐次     大殿内門中     屋号 大殿内
 ・平良       大屋門中      屋号 大屋
 ・川田       大屋門中      屋号 大屋
 ・宮城       伊元門中      屋号 伊元小

国頭村
 
・浜         金城         屋号 仲ケ
 ・浜        金城         屋号 上門
 ・比地       司馬         屋号 安佐慶
 ・比地       根屋         屋号 根屋
 ・奥間       新地門中      屋号 新地
 ・桃原       山城         屋号 前
 ・辺土名     玉城         屋号 四番
 ・宇良       島袋         屋号 八
 ・伊地       宮城         屋号 新屋
 ・与那       道越        屋号 新門
 ・謝敷       宮城        屋号 上原 
 ・佐手       新里         屋号 前  
 ・辺野喜      シバ        屋号 シバ
 ・宇嘉      大屋         屋号 大屋
 ・辺土      平良        屋号 大里
 ・辺土      佐久真       屋号 佐久真 
 ・奥       松下        屋号 松下
 ・楚州      新城         屋号 仲間
 ・安田      比嘉         屋号 杉屋
 ・安田      比嘉        屋号 楚井
 ・安波       新屋         屋号 新屋

恩納村
 ・瀬良垣      當山門中      屋号 根神屋
 ・谷茶       山城門中      屋号 根人屋
 ・富着       富着門中      屋号 根神屋
 ・前兼久     川ノ根一門     屋号 東川根
 ・仲泊      下庫理一門     屋号 下倉理

大宜味村
 ・田港
 ・饒波
 ・塩屋      クチャ引一門   屋号 クチャヤ屋
 ・謝名城     大城一門      屋号 大城屋 
 ・根路銘     下桃原九門    屋号 下桃原

羽地村
 ・源河      宮城門中      屋号 ヤガマテー
 ・仲尾次    クニガー門中    屋号 大親役屋
 ・仲尾次     ヒヤガイ門中     屋号 呉我屋
 ・川上     平良門中       屋号 マビ
 ・田井等    ミズイ門中      屋号 ミズイ
 ・親川     クビリ門中       屋号 徳田
 ・仲尾      玉城門中      屋号 佐海山
 ・振慶名    前川門中      屋号 前川屋
 ・我部祖河   仲ノ門中      屋号 セリ河    
 ・呉我     玉城門中       屋号 根神屋
 ・我部     松田門中       屋号 ミザシ屋 
 ・屋我     クカニヤ門中    屋号 ナカンダカリ

2019年3月2日(土)

 3月に入りました。2月は体がついて行かない程の忙しさ。今月は次へ向けてスタート。早速の資料の確認へ。どんな資料なのかは拝見してから。

 所有者と来週預かる約束。ブラジルへの渡航証明書と家の文書、元祖メモなど。画像に納める余裕もなかったです。

 午後から昨日のシンポジウムの頭を切り換えるため原野にしてある畑の草刈り。通りすがりの大先輩方が「昔(父の頃)はよく作物ができよったよ」と。暮れに草花の種を蒔いたのだが、一本も目がでていず。種まきを見ていた方が「花が咲くときれいのにね」と。

 「寡黙庵」にいきカーネーションが咲いている。イチゴに実がついている。孫にイチゴ狩りを口実に連れ出すか。孫達の家の芝生がどうなっているか立ち寄る。「小さな畑が欲しい!」と嫁さんの希望。パセリのみ成長している。時々廻らんといけませんね。

 
             ▲暮れに刈り取った草が成長、刈り取ってすっきり

 
   ▲「寡黙庵」の鉢のカーネーション、間もなくユリが咲き出す。ハイピスカスも


 
  ▲「デングリかえりがしたい」と芝の希望。明日は小さな畑に野菜植えにいくか。