沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵:(管理人:仲原)
               今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)0980-56-5767)

                        
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2019年12月

 2019年「ムラ・シマ講座」
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仲宗根政善先生寄贈資料展(2013年) 資料目録1 資料目録2

今帰仁村謝名の操獅子(アヤーチ)(今年度は9月14日:豊年祭開催)
古宇利島の年中祭祀(平成21年度調査報告)
伊江島の大折目(シニグ)
http--yannaki.jp-jireisyoada.html(国頭村安田のシニグ)
http--yannaki.jp-20167gatu.html(沖永良部島のシニグ)
yannaki.jp/siniguunngami.html (シニグ/海神祭)
yannaki.jp/siniguunngami.html(湧川のワラビミチ)
http--yannaki.jp-yanbaruminato.html(国頭村与那の海神祭)
http--yannaki.jp-hiji1.html(国頭村比地)
http--yannaki.jp-gusiken.html(本部町具志堅のシニーグ

今帰仁村呉我山開墾地/本部村伊豆味唐又開墾地/本部村並里タナンガ開墾地(大正11年)
京都・奈良・大阪・伊大野城賀(ガラス玉の鋳型など)
中城ノロ嘆願書(明治16年)
ノロ制度の終焉(企画展示)
波照間をゆく(過去メモ) 
大宜味間切の杣山  
今帰仁間切番所と運天
恩納番所と恩納ノロ
沖永良部島の歴史とシニグ
今帰仁阿応理恵按司(アオリヤエ)
山原の神行事とイノシシ(2019・12・21)



2019年12月31日(火)




山原の神行事とイノシシ(2019・12・21) (講演レジメ)


2019年12月29日(

 1月下旬の講座の下調べ。今日行かないと頭が真っ白になりそう。一人、あるいは二、三人でひっそりと踏査することの面白さ。今日は一人。足腰とノドが病中。

 辺野喜ダムで、予期しない発想が思い浮かぶ。山原の杣山について調べていると、どうも世界の自然遺産に届きそうにな無い。山原の森は原生林ではない、二次林だ、奄美などの森に比べると奥深くないなどの声が聞こえてくる。山原の森の大切さは、そのような物差しではなく、もっと壮大な計り方が必要だと。詳細は1月の講座に向けてまとめる。大宜味村→(国頭村との境)→一名代→根謝銘→城→田嘉里→国頭村浜旧公民跡のガジマルとカー→奥間番所跡(国頭サバクイ・木遣り)→宇良→伊地→与那→謝敷→佐手→辺辺喜→
(辺野喜ダム)→山道→我地→楚州→奥→辺土→宜名真→宇嘉→再び辺野喜(集落)へ。押川へは「杣山」の恩恵を受けた土地である。

 杣山は仕立敷、仕立換山、藪敷、、中山があり、住民に入会権を与えていた。仕立の材は杉・樫・イク・ユシギ・チャーギ(犬槙)・キリ・センダン・楠などがる。大宜味間切の仕立敷には押川の楠敷、杉敷、根路銘の胡桃敷、喜如嘉の樫敷がある.。

 杣山の仕立敷の材は1700年代に管理された木々であること。原生林でないことは明らか。原生林であるかどうかの議論も大切であるが、今、遺る緑の森を保護していくことがもっと大切である。

 沖縄本島が人口の増加と生活の都市化で、山原の森(山)から薪・木材(楠・杉・イク・ユシギ・チャーギ)を中南部へ。18世紀中頃、山原の山が危機に陥り蔡温は林業政策で行った。戦後、再度山林の危機が訪れる。その繰り返しである。緑の山を眺めていると、地球規模の温暖化に無言で役割を果たしているのではないか。沖縄本島の市街化が北部に押し寄せている。自然も押しやられてきた「やんばる文化」と重なってしかたがない。(先日講演で祭祀・イノシシなどもしかり)

 今回の山原踏査は、いつもと異なるキーワードを頭に入れて。(やはり村の人々との関わりへと向く)
 
 
    ▲大宜味村謝名城から眺めた緑地          ▲本島各地へ送水するダム

 
    ▲集落後方の緑の森(辺野喜)         ▲大宜味村押川近くの森(森の中をイノガキが遺る)

2019年12月28日(土)

 熱が下がったので動きます。年末の草刈り、「寡黙庵」の鉢のイチゴが花をさかしている。

  


2019年12月27日(金)

 月曜日から熱をだし、年末の予定が崩壊。年末に北部調査する予定にしていたが体調を崩し行くことができないので2005年1月~6月の記録を再掲載。自然は生き物なので、どう変化している、楽しみ。

山原の歴史散歩

 ここ十数年県内の各地を回ってきた。特に沖縄本島北部(山原)は今なお歩き続けている。今年のスタートは名護市源河からハジウスィビイラを抜け、東村有銘に出る山越えをし、国頭村安波・安田へと北上した。

 ふと「山原の旅や哀れどや至極 見る方や無らん海と山と」のウタが思い浮かぶ。山原の風情をよく表現しているが、さらに中南部と異なる独自の「歴史や文化」があると謡われる山原でありたい。しかし、そう言わしめる視点での研究や蓄積がなされてこなかったのではないか。

 東海岸のムラの朝日が、どの方向から射してくるのだろうか。東の方向に違いないが、面白いことは集落に日が射す時間が異なることである。国頭村安波の斜面の集落は午前九時半頃になって陽射しが見える。後方の山から日が射しているのには驚いてしまった。水平線の日の出は午後七時頃であろうが、集落への元旦の陽射しは集落によって大部異なる。

 安波川沿いの斜曲に人が住みだし、永年の歴史を刻んでいるが、そこに住んでいる人達にとって陽射しが遅いことは当たり前のことかもしれない。そのことが、安波というムラ、さらに村人の個性に大きく影響を及ぼしているに違いない。


 さらに北へし、安田の集落に降り立ってみた。隔年旧暦の七月にシニグやウンガミグヮが行われる。注目したいのは、陸の孤島であった安田に万暦15(1587)の首里王府発給の辞令書があったことである。辞令書にノロ・里主・掟など琉球王国の統治に関わる役職の人物が登場する。安田に立ったとき、古琉球の時代、陸の孤島に住んでいた当時の人たちが、辞令書を通して首甲王府をどう見ていたのか知る手がかりとなる。

 また、乾隆59(1794)に安田村に朝鮮人十人が漂着した出来事があった。当初唐人として扱い、陸路奥間村へ。境地から船で泊村へ廻船させる。その対応は近世の首里王府の中国への顔、そして日本への顔がはっきりと見えてくる。


今婦仁グスクに立つ

 山原は桜の季節である。今帰仁グスクの桜の咲き具合はどうかと登ってみた。まだ二分咲きてあった。冷たい北風に煽られながら今帰仁グスクに立つ。それは山北(北山)の歴史への誘いである。今帰仁グスクは世界遺産や大規模の城壁、さらに出土遺物などの豊富さも含め、歴史の厚みを実感させられる。グスクから見える与論島や伊是名・伊平屋島などは十四世紀から十五世紀にかけての北山王が支配した領域である。

 山北・中山・山南の三つの国(クニ)が鼎立した時代。『明実録』に登場する14~15世紀の伯尼芝・眠・畢安知の山北の三王、そして派遣された家臣など。明国から駱駝渡金銀印や暦、中国の衣服や銭や船などを賜った。グスク内だけでなく、周辺の集落跡地からも大量の陶磁器類が出土する。明国と交易していた時代、渡金銀印や冠帯を賜っていることから山北(山原)は王国の体裁を賜っていた。

 山北滅亡後、中山は山北対策として1422年に尚忠(後に中山王)を今帰仁グスクに派遣し監守制度を敷く。その制度は第二尚氏王統の1665年まで続いた。1429年中山は南山を滅ぼし琉球は統一国家となった時、その後1469年第二尚氏になっても監守制度は廃止しなかった。謀反の恐れや首里から遠い地理的条件、阿応埋屋恵(アオリヤエ)ノロのこともあるが、統治するのに山原人の気質、あるいは習慣や祭祀までも首里化する必要がなかった。

 北山の時代に造り出されたもの、それが古琉球の時代から近世の村々に継承されてきた。山原の村々の御嶽や神アサギ、さらに祭祀や言葉などの響きは、首里文化に同化されることなく今に息づいているのは「北山文化」なのかもしれない。


     今帰仁グスクの大隅の石積          今帰仁グスクの外壁  


島に橋が架かる

 今帰仁村に古宇利島がある。フイジマやクイジマといい、海を越えた島の意である。古宇利島に橋が架かり開通した。開通前に船で、閤通後橋から島に渡ってみた。集落の東側が永年島の玄関口であった港から、すでに集落の東側へと流れが変わっている。

 古宇利島のクイを表記で「こほり」、それに郡の漢字をあて、さらに古宇利へと表記の変遷を辿っている。これから古宇利大橋から島に渡ることになるが、やはりクイジマ(海を越えた島)に違いはない。

 1472年の『海東諸国紀』「琉球国之図」に古宇利島のことを郡島と初登場する。また島に人が住んでいるとある。1609年の薩摩軍の班球侵攻の時、こほり島は今帰仁グスクや首里城など本島攻めの足がかりとなった。集落前方の浜はウブドゥマイ(大泊)といい、運天港の外港として重要な役割を果たした。帆船の時代、運天港から出航すると風向きが艮好ならそのまま外洋ヘ出て行く。逆風や荒波だと大泊で待機し、様子をみて外洋へ出て行く。

 島の標高107メートルの場所に遠見屋(トウーミヤー)跡がある。首里王府は1644年に烽火制度を敷き、異国船や進貢船などの到着を首里王府に早く知らせる役目。1750年頃から今帰仁間切の地頭代(今の村長)に古宇利親雲上の名を賜っている。屋号もメーフイヤー(前古宇利屋)となる。

 古宇利島は地頭代のお抱えムラであった。海上交通と運天番所、入口の離島であったが故に重要であったのであろう。島の重要さは運天に番所がおかれ、外港としての役割を担っていたからである。

 古宇利大橋の開通で多くの車や人が訪れている。開通前から活性化や島興しの名に押し流されることなく「残すべきものは残す」と言い切っていた島の人たち。残さなければならないのはアイデンティティに繋がる島の姿や島に生きてきた人々の声である。

 


名護は「和(ナグ?)

 ナグという地名やナグマサーという名護人の気質は、名護グスクを要(かなめ)とした名護湾岸の地形や風土から産まれたものではないか。そんなことを思い廻らしながら名護グスクから名護湾を眺めてみた。

 名獲は「海東諸国紀」(1471)の「琉球国之図」で「那五」、オモロでは「なこ」と謡われる。1853年のペリー提督一行の地図に名護湾がDeep BayNaguhと表記してある。

 グスクのほとんどが石積みて囲まれ、防御的な機能を持っているが、名護グスクは石積み囲いを持たないグスクである。森の頂上部を平坦にし、後方の山の尾根を掘り切ってある。掘切は防御的な一面を語っているが、堅固な石積みがなくてもグスクの機能を果たし、地域を統治できたのは何故だろうか。

 名獲湾を往来している舟を見ながら、何代か世襲された名護按司の気質は、名護湾の「和む」風土が形成したと夢想してしまった。それが石積みのないグスクをつくり名護湾岸の村々を統治した人物を出したのではないか。

 名護グスクの斜面に茅葺き屋根の家々が散在していた風景が浮かぶ。16世紀に名護按司が首里に移り住むと、それがきっかけでグスク斜面にあった集落は、次第に麓に移動していった。集落があった痕跡としてヌンドゥンチ、根神ヤー、ウチガミヤーなどの旧家跡が今で祠として残されている。

 名護湾を見下ろせる場所から、湾岸の村々に想いを廻らしていると、ナグマサー気質は名護按司が首里に移った後に形成されたかもしれない。ナグ(和む)の響きは、石積みのない名護グスクと結びつくが、名護市の東海岸への基地移設と結びつかないのは、私一人ではなさそうである。

 
  名護グスクから眺めた名護湾と街


山原のムラ・シマ講座

 今年度の「ムラ・シマ講座」が終了した。この講座は12年間継続(年7、8回開催)してきた。ムラ・シマは今で言う字(アザ)のことである。そろそろムラ・シマの言葉が定着してほしいのだが。講座の参加者は、基本的に小学生対象だが、現在は大人の参加者の方が多い。これまでの開催は90回余、訪れた場所は四百余りとなる。それは職員のねばりと頑張りでもある。

 ムラ・シマを見ていくために、どんな言葉(キーワード)があるのだろうか。今年訪れたムラ・シマ(今帰仁村、名護市、本部町)から拾ってみた。ウタキ・神アサギ・グスク・トゥーティンクー(土帝君)・フプガー・焚字炉(フンジロ)・中城ヌルドゥンチ・羽地タープックヮ・改決羽地川碑記・謝名の大島(古島集落)・シカー・トーヌカ・獅子小屋・フルマチ跡・ワタンジ・オミヤ・市場跡などのキーワードを挙げることができる。

 それらの言葉を思い浮べると、ムラ・シマがフツフツと浮かび上がってくる。その場所へ行くのに草木をかきわけ、汗をかき、それだけでなく暑い夏、か()に刺されながら、話を聞きノートをとっている皆の姿が思い出される。その時のノートが今年度の「山原のムラ・シマ」(234)として手作りの冊子となった。特に子供たちにとって、一人ひとりの未来への贈り物となる。

 回を重ねるたびに記録することの重要さと面白さを体験している。現場に行くとムラ・シマで生きた人々が築いた歴史や伝統や文化が奥深く流れていることに気づく。その時揺さぶられる感動はなおいい。

 十二冊目の冊子が、またひとつ山原のムラ・シマの記録として積み上げることができた。一人ひとり限られたページだが、みんなの記録を束にすると大木になる。沈黙していたムラ・シマが、記録をされることで多くのことを語ってくれる。

 


御嶽に築いたグスク

 先日、久米島の伊敷索グスク、具志川グスク、宇江(中城・仲里)グスク、そして登武那覇(トンナハ)グスクを訪ねてみた。伊敷索グスクの成立時期は不明だが、伊敷索按司の居城で『琉球国由来記』(1713年)にイシキナワ御嶽とある。この按司に四名の子息があり、具志川グスク、宇江グスク、登武那覇グスクを築き、それぞれが周辺地域の村々を支配下に治めていたのであろう。

 具志川グスクの場所は、グスクが築かれるまで具志川御嶽であった。近くの青名崎に築いている最中、具志川御嶽に行ってみると、いい場所だということになり、そこにグスクを築いたという(『琉球国由来記』1713年)。さらに宇江グスクの築城の場合も、伊敷索グスク城主の次男が大城山に造りかけたが、堂の比屋の下女が中城(宇江)御嶽のある中城岳がいいということで、そこに築城した(同由来記)といい、そこもやはり御嶽であった。

 それらは、まだ伝承の域はでていないが、集落出身者ではない人物と、築城の場所として御嶽を選んでいることに関心が向く。山原のグスクにも同様なことが言えないだろうか。今帰仁グスクや名護グスク、羽地グスク、そして根謝銘グスクは大きな杜をなし、内部に御嶽のイビがある。それは御嶽という杜を石囲いのグスクに取りこんだ痕跡ではないか。

 石積みの技術を持った外の者による築城は、『明実録』の山北王の怕尼芝(パニジ)が羽地(ハニジ)の音に近いことで、羽地グスクの按司だったのではないかと言う所以はそこにある。

 18世紀初頭の久米島のグスク築城過程の歴史認識は、山原のグスクの成り立ちにも、当てはめることができるかもしれない。              

    ▲根謝銘(ウイ)グスクの遠景とウタキのイベ           ▲羽地(親川)グスク(旧羽地村) 


山原の神アサギ

 山原のムラ・シマ(字のこと)に神アサギがある。『琉球国由来記』(1713年)に「神アシアゲ」とある。その神アサギは昭和30年代まで茅葺き屋根の低い壁のない柱だけの建物である。茅葺の神アサギは沖縄本島の恩納村恩納、本部町具志堅、今帰仁村崎山、国頭村比地と安田にある。

 「由来記」に登場する神アサギの分布は沖縄本島に117、その内恩納間切以北に105(山原の村数107)あり、ほとんどが山原である。神アサギは現存し、あるいは痕跡として今でも確認することができる。神アサギの確認はムラ・シマの歴史を読み取ることでもある。

 神アサギの分布する範囲を神アサギ文化圏や北山文化圏と呼んでいる。それは沖縄の歴史の北山・中山・南山の三山が鼎立していた時代の北山の領域と重なっている。「由来記」の伊平屋島(伊是名島含む)に「村々神アシアゲ」とあり、北は奄美大島の加計呂麻島にも分布する。

 神アサギは神を招く場所、それだけでなくムラ・シマの貢租(穀物)を集積する施設として使われたようである。穀物を集積するために牛や馬が首を突っ込ませないために屋根を低くしたという。神アサギは茅葺きの軒の低い建物から赤瓦葺きやコンクリートづくりへと変遷をたどる。他の拝所と統合された所もある。しかし神アサギは遺そうとする姿勢は今も変わりない。

 ウマチーやムシバレーなどの祭祀は琉球国の人々の休息日(公休日)であった。五穀豊穣や村の繁盛、そして航海安全が神人の祈りである。旧暦で行われる祭祀をサイクルとした人々の長い生活がある。その時間の流れは身に染み込んだリズムである。

 神アサギをムラ・シマから消し去ったとき、山原らしさと北山文化の崩壊だと考えている。


今帰仁村与那嶺の神ハサギ  国頭村安田の神アサギ  本部町具志堅の神ハサーギ          

塩屋湾で歴史を思い描

 大宜味村の塩屋湾岸に塩屋・屋古・田港・大保・渡野喜屋(白浜)・宮城などの字(アザ)がある。塩屋湾口の島は宮城島である。戦前・戦後の塩屋や宮城島などの写真を見ると八合目あたりまで段々畑である。

 その風景を見ると、蔡温が林政の七書を著し、林政に関する法律を制定したことがうなずける。蔡温の偉大さもあるが、山の頂上付近まで段々畑だった当時の状況が林政の法を制定させたのではないか。また土地の確認のため、印部土手(原石)を設置して行なった蔡温の元文検地。猫の額ほどの段々畑まで税を課すためだったのかもしれない。

 塩屋湾を抱くようにできた沖積地に塩屋の集落が発達している。塩屋の村名は塩田や塩づくりに因んだ名称である。それを証拠づけるかのように、神アサギ付近に塩炊きに使った赤茶けた焼き石が数個奉られている。

 「花売りの縁」(組踊)の主人公の森川子は塩屋で塩炊きをしていたといい、「宵もあかつきも なれしおもかげ乃 立ゝぬ日や無いさめ 塩屋のけむり」と謡われた碑が見晴らしのいいハーミンゾーの森に立つ。それも塩づくりとムラ名と結びつけた伝承である。

 ハーミンゾーの森から見える塩屋小学校は大宜味間切番所(役場)跡である。そして波静かな奥深い塩屋湾の近世の様子を「大宜味間切の首里王府への貢納物は塩屋村に集積され、塩屋湾から運天に運ばれた。那覇方面に運ぶ薪や炭などを積んだ山原船が帆をあげる掛け声が聞こえた」という。1853年ペリー一行が訪れシャーベイ(Shah Bay)と記すなど、塩屋湾は歴史を思い描ける場所である。

 
 ハーミジョウから眺めた番所があった小学校  ペリーが訪れた塩屋湾(Shah Bay)


伊是名・伊平屋は山原? 

 沖縄本島の北部に伊是名島と伊平屋島がある。地理的には沖縄本島の北部に位置し、昭和十四年までは両島で伊平屋村(ソン)、同年に二つの村に分かれ現在に至る。明治29年に郡区制が敷かれ、両島は島尻郡に編入された。地理的に山原でありながら、島尻郡であることが、伊是名・伊平屋は山原なのかの疑問が聞こえてくる。 

 1500年代首里王府の統治を見ると、尚円王の叔父の真三郎(後の銘刈家)、姉の真世仁金を伊平屋阿母加那志として派遣。伊平屋(伊是名)阿母加那志(御殿家)は娘二人に「二カヤ田」(北・南の二家)に神職を継承させる。首里王府は四家を通して首里化、首里文化を注入したといえそう。伊是名は首里王府の直轄地と捉えることができる。

 1490年頃、山原(北山)に監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵按司(神職)を派遣し、今帰仁グスクに常駐させた。1665年今帰仁按司家の七世従憲の時、首里に引き揚げた。そのため山原は首里化できなかった。ところが伊是名の四家は、首里に引き揚げることなく継承され、近世になると清明祭や亀甲墓を造るなど、首里王府の達や文化の浸透が積極的に図られた。

 さらに言語を見ると「伊是名島の方言の基層は北部方言に通じるが、中南部方言の影響を強く受けている」(『図説琉球方言辞典』中本正智)と述べられている。

 伊是名・伊平屋は尚円王の生誕地であることもあって首里文化が浸透していった島。底流には、ムラノロのレベルの祭祀や神アサギの構造や言葉などから、底流に北山文化が流れていて、その上に首里文化が被さった構造ではないか。首里的な覆いをとり、歴史を紐解くと、その疑問が解けそうである。

  
 伊是名島勢理客の神アサギ   伊是名玉御殿と伊是名城跡    伊是名グスクの遠景


山原の御嶽と祭祀 

 沖縄の村(ムラ)を行くと御嶽(ウタキ)が目にはいる。『琉球国由来記』(1713年)では「嶽」と記される。御嶽はウガンジュやグスク、先島ではオンと呼ばれる。御嶽は集落(家の集まった所)と密接に関わる。森にイビの前やイビ、あるいは内部に住居の痕跡や神アサギや火神の祠などの拝所があれば、そこは御嶽だと判断している。

 琉球の人達は、集落が形成されると御嶽を設ける習性を持っていたのではないか。集落の発生と御嶽は、不可分の関係にある。御嶽を要として発達した集落は、後に行政村(ムラ)となる。御嶽を持った複数の集落を一つの村にしたため、御嶽を複数持つ村がある。集落あるいは村レベルだけでなく国レベルの御嶽も形成されている。

 御嶽を要とした村の祭祀は、「神遊び」と言われるが、村人にとっての休息日であった。王府と間切、さらに村との関係を「上納させる」と「上納を納める」関係で見ると、祭祀は上納を介した首里王府の統治(支配)形態と見てよさそうである。

 私は御嶽を中心とした祭祀を掌る神人は、公務員と位置づけている。ノロや根神などが行なう祭祀の祈りは、基本的に三つあり、どれも租税と関係している。五穀豊穣と村の繁盛、そして航海安全(豊漁)である。それらの祈りは、神人個人のではなく村(公)や村人のための祈りである。

 五穀豊穣は王府への滞りない上納。村の繁盛は近世の土地制度(地割)は土地の配分と上納との関係。人口の増加は王府にとって増収となり財政の安定につながった。航海安全は、島国であること、上納の穀物類は、山原は山原船が主流になって運搬された。航海安全の祈願は当然のことである。

 御嶽は神のおわす聖地や墓や集落跡などの議論も大事だが、御嶽と集落、御嶽と関わる村の祭祀と上納は、首里王府が国を統治する巧みな制度であるとの視点が必要ではないか。

 
 国頭村辺戸の安須杜(クニクラスの御嶽)


山原の津(港)と山原船 

 昨年から津(港)と山原船の調査を続けている。山原の津々浦々を繋いでいたのは、主に山原船であった。沖縄本島北部の東海岸の村々と与那原港。西海岸の村々と泊港と那覇港とを結ぶ航路があった。大正の頃、自動車の登場で山原の道路(郡道)整備が急速になされた。物資の輸送は海運から陸上運送へ徐々に移っていくが、昭和30年代まで山原船の航行が見られる。

 今帰仁グスクと親泊、根謝銘グスクと屋嘉比港、親川(羽地)グスクと勘手納港など、グスクと港が密接に関わった時代もある。グスクから中国製の陶磁器類が出土することがうなずける。山原の主な港に運天・名護・渡久地・塩屋などがある。薩摩への仕上世(しのぼせ)米を集積する四津口(那覇・運天・勘手納・湖辺底)の内三つは山原にあった。

 調査の過程で常識が覆る場面が度々あった。船が接岸できる港や桟橋のある港がほとんどなかった。干潟の場所は船の修理にいい港である。沖に船を碇泊させ、陸地との間は小さな伝馬船で荷物を陸揚げする。源為朝の渡来伝説の運天港は、古くから良港として知られていたが、桟橋ができ船が接岸できるようになったのは戦後であることなど。

 近世には間切船で上納(穀物)の運搬があり、山原の村々からの主な積荷は薪木・木炭、藍・砂糖などである。逆に山原へは焼酎・大豆・味噌・瓦・素麺など日用雑貨が主である。故仲宗根政善先生は「与那嶺長浜(今帰仁村)に山原船が入ると、まるで宝船を迎えるように村人が浜に集まった」と表現される。

 山原の津々浦々を船が往来し、文物の流れは船を介した海上輸送が主で、数百年も続いていたことを忘れていないだろうか。

 
  近世の四津口の一つ(運天港)        明治末頃の運天港(望郷沖縄より)


山原は学問の対象地

この半年、山原を中心に各地(与那国・西表・竹富・小浜・伊江・伊是名・久米島・座間味など)を訪ねてみた。他の地域に足を運ぶことで山原を見るキーワードが増えた。

 与論・沖永良部・徳之島は、三山(北山・中山・南山)時代は、北山の領域であった節がある。島々に北山時代に形成されたもの。三山統一後に首里王府支配下の痕跡、さらに1609年の薩摩軍の琉球侵攻後の薩摩の影響が被さる。首里王府と薩摩軍の琉球侵攻後の被さりを取り覗くと、北山時代に築かれた痕跡を奄美の島々に見出せるにちがいない。

 沖縄本島の最北端の辺戸の安須杜に登ってみた。頂上部にある拝所から琉球国を統治した支配者の先祖は子(北)の方向からやってきた。第一、第二尚氏の初代は伊平屋(伊是名含む)島からやってきた。さらに神は天から降臨するといった認識を持って拝まれている。それらが安須杜を国レベルの御嶽と位置づける所以である。

 谷あいや川筋、古くは杜の斜面に発達した山原の集落、御嶽を背景にした集落の形態、シマの方々が永遠と引き継いできた御嶽や祭祀、グスクや神アサギや方言などの分布や特徴が北山時代(十二~十五世紀初頭)まで遡ることができるのではないか。その時代に築かれたものと確証が持てれば、それを「北山文化」、今帰仁グスクを拠点とした「北山文化圏」と呼ぶ試みである。

 山原学が成り立つのか、北山文化があるのかではなく、山原が歴史や自然など様々な分野の学問の対象地となり得る。そのことを前面に打ち出した調査・研究成果の蓄積が必要だと考えている。


2019年12月24日(火)

 近世になると山原は「国頭方」として首里王府から各間切へ達(たっし)を繋ぐ宿道ができる。国頭方は以下のルートである。

【国頭方】
 東宿  西原⇔宜野湾⇔越来⇔美里⇔金武⇔久志⇔羽地⇔大宜味⇔国頭
 西宿  浦添⇔北谷⇔読谷山⇔恩納⇔名護⇔本部⇔今帰仁
       西宿之時、羽地江者名護ヨリ届、大宜味・久志江者羽地ヨリ届、伊江島江者本部ヨリ
       伊平屋島江者今帰仁ヨリ届
     東宿之時、名護・今帰仁江者羽地ヨリ届、本部江者本部ヨリ届

ついでに、基本史料となる『御当国御高並諸上納里積記』の「国中併諸離里積之事」から山原の番所の里程(主村名)を抜き出しておく。

【恩納間切】御城(首里城)より同(恩納)村番所迄九里七合壱勺九才
      同所より読谷山迄四里二合二勺一才
      同所より名護迄五里壱合八勺壱才
【名護間切】御城より同(名護)村番所迄壱四里九合
      同所より金武迄四里八合六勺一才
      同所より羽地迄壱里六合七勺五才
      同所より今帰仁迄四里
      同所より本部迄三里八合一勺六才
      同所より久志迄四里三合六勺五才
【羽地間切】御城より田井等村番所迄十六里五合七勺五才
      番所より本部迄三里九合一勺七才
      同所より今帰仁迄二里七合二勺二才
      同所より大宜味迄三里五合八勺三才
      同所より恩納迄六里八合五尺六才
      同所より久志迄二里六合九才
【本部間切】御城より渡久地村番所迄十八里七合一勺六才
      番所より今帰仁羽地迄二里七合二勺二才
【今帰仁間切】御城より運天村番所迄十九里四合一勺一才
       番所より羽地迄二里七合二勺二才
       同所より名護迄四里
【大宜味間切】御城より塩屋村番所迄二十里一合五勺九才
       番所より久志迄八里一合四勺九才
       同所より国頭迄二里
【国頭間切】御城より浜村番所迄二十二里九合九勺二才
      番所より辺戸迄六里三合二勺
【久志間切】御城より瀬嵩村番所迄十四里四里四合二才
      番所より羽地迄二里六合九勺
      同所より金武迄五里二合四勺三才
【金武間切】御城より同(金武)村番所迄九里一合五勺九才
      同所より恩納迄三里六才
      同所より美里迄三里一勺七才
      同所より本部迄八里六合七勺七才

 間切番所があった村の痕跡は『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」のとき、按司や惣地頭がどの村に参加しているのか。按司や惣地頭が関わる村は番所があった村で、番所が移動しても按司や惣地頭が関わる祭祀を行う村は変わることがなかったと見てよさそうである。但し、間切分割があった間切では番所があった村と按司や惣j地頭との関係が明確でない場合がある。それは何故なのかが、またテーマとなる。

 まずは『琉球国旧記』(1731年)当時の駅(番所)の確認からしてみる。グスクや主村と按司や惣地頭との関わりは、1611年に按司掟から地頭代の制度になったことと無縁ではなさそうである。

  ・恩納駅(恩納邑)
  ・金武駅(金武邑)
  ・名護駅(名護邑)
  ・本部駅(渡具知邑)
  ・今帰仁駅(運天邑)
  ・羽地駅(平良邑)
  ・久志駅(瀬嵩邑)
  ・大宜味駅(大宜味邑)
  ・国頭駅(浜邑)

 間切番所は「薩摩藩調製図」(元文検地頃?173750年)に■記号で記されている。国頭間切は奥間村、大宜味間切は塩屋村、羽地間切は田井等村(後に親川村が新設される)、今帰仁間切は運天村、本部間切は渡具知(渡久地)村、名護間切は名護村、恩納間切は恩納村、久志間切は瀬嵩村、金武間切は金武村である。

 山原の間切と番所と同村、そして『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」まで見ていくと、「山原の間切と番所、主村と按司や惣地頭」との関わりで法則を見出すことができそうである。中頭方、島尻方の「まとめ」は別で報告するが、山原だけでも首里王府と間切、番所、そして按司や惣地頭が関わる主村で行われる祭祀、視点を変えると祭祀を介した首里王府の間切支配、さらには村々までの支配構造がはっきりとしてくる。

 祭祀は村々をまとめる役目もあるが、もう一つは首里王府が祭祀を介して按司や惣地頭、さらには村々の地頭(脇地頭)への作得するだけでなく、王府が村々から税を徴収する仕組みとなっているのではないか。按司、惣地頭、さらには脇地頭クラスの祭祀の関わりを見ると、首里王府の統治が末端まで浸透した姿が見えてくる。明治以降も、祭祀がなかなか崩れることなく、戦後まで形骸化しつつありながら継承し続いている理由が理解できる。

 もう一つは、17世紀中頃間切が分割したとき、番所は主村から移動する場合があるが按司や惣地頭の関わる主村での祭祀は番所のある村に移ることなく、そのまま主村の祭祀と関わる。間切の分割や番所の移動があっても祭祀はこれまで通り、同村(主村)と関わり、村は一つに、あるいは分割しても祭祀は一体化しない、あるいはノロ管轄は変わらないとの法則を見出すことができそうである。 

今帰仁間切の番所と主村と祭祀

 ・今帰仁村(グスク内?)→運天村(1666年か)→字運天→字仲宗根(大正5年)

運天は今帰仁間切の番所があった場所である。運天に番所が置かれたのは1666年以降のことだと見られる。1666年は今帰仁間切(現在の本部町を含む領域)が二つに分割された年である。分割後の今帰仁間切の番所は運天港へ、もう一つの伊野波(本部)間切の番所は伊野波村に設置されたと見られる。分割前の今帰仁間切の番所はどこだったのか、そのことを知るための作業でもある。

 先に結論めいたことを言うと間切分割前の今帰仁間切の番所は今帰仁村(ムラ)にある今帰仁グスク内か、あるいはグスクに接してあったと見ている。グスク内、あるいは外に番所の建物の礎石などの遺構の確認はまだできていない。今帰仁グスクの外側の郭内に古宇利殿内火神(フイドゥンチ火神)があり、それが地頭代火神の可能性がある。であれば、火神の祠付近に今帰仁間切番所の建物があった可能性がある。グス内の北殿と呼ばれている場所の礎石も気になる。グスク内に番所が置かれた例として知念間切の番所(知念グスク内)と中城間切(中城グスク内)があるが、それは近世になってからのようである。
 調査を進めてきた「間切番所と同村と祭祀」から、間切番所と首里に住む按司や惣地頭が関わる祭祀との関係を整理すると、間切分割以前の番所の位置(村)が見えてきそうである。

 運天に番所が置かれた年代は今のところはっきりしていない。間切分割があった1666年だと見られる。もちろん『琉球国旧記』(1731年)の今帰仁間切の今帰仁駅(番所)は運天邑(村)である。「薩摩藩調製図」(1737~1750年)でも運天に番所が記されている。『琉球国由来記』(1713年)の按司と惣地頭が関わる祭祀をみると、それは今帰仁グスクでの祭祀と関わっている。今帰仁里主所火神(今帰仁村)と今帰仁城内神アシアゲ(今帰仁村)での麦稲穂祭・大折目(海神祭)・柴指・芋ナイ折目などの祭祀である。

その頃には番所は運天村に置かれているが、按司と惣地頭が関わる祭祀は運天村に組み替えていない。按司と惣地頭は番所のある運天村での祭祀には関わっていない。それは番所が移っても祭祀は変わらないという法則を、ここでも見い出すことができる。

 番所が移動しても祭祀はそれまで通り同村で行っている。分割した間切は按司や惣地頭が関わる村や場所に番所があったということになる。そこから今帰仁間切が分割する以前の番所のあった村(ムラ)は今帰仁村(ムラ)で、同村にある今帰仁グスクにあったと言えそうである。今帰仁グスクのどの場所にあったかは、隣接してか、それともグスク内にあったのか結論はこれからである。

番所が移動しても按司や惣地頭が関わる祭祀と村の変更はほとんど見られない(国頭と大宜味間切の分割のみ例外か)。今帰仁間切の運天村もそうであるが、間切番所が今帰仁村から運天村に移るが、按司と惣地頭が関わる祭祀は、そのまま今帰仁村で行われている。『琉球国由来記』(1713年)には番所は運天村に移動しているが。運天村の神アシアゲでの祭祀に参加する役人は掟と百姓、巫・掟神である。因みに運天村の祭祀を管轄するノロは勢理客(シマセンコ)ノロである。首里に住む按司と惣地頭は今帰仁グスクでの祭祀と関わり、運天村とは関わっていない。関わるとすれば脇地頭である。

 運天港に大北墓がある。その墓の建立は乾隆26(1761)年である。今帰仁グスクの麓のウツリタマイからの移動である。その墓の移葬は今帰仁グスク(村)にあった番所が運天村に移動したことによるかもしれない。ただし、按司と惣地頭の今帰仁グスクでの祭祀の関わりはそのままである。

今帰仁王子 家禄四百石 物成百三十石余
          領地 今帰仁間切作特二十四石余
 譜久山里主 家禄八十石 物成二十六石余
         領地 今帰仁間切作得二十九石余


▲1666年以降間切の番所が置かれた運天港     

 
 ▲運天にある北山監守一族の墓(大北墓)と石碑


2019年12月23日(月)

 近世初期の「七代官制」は1660年「四代官制」への移行したとあり、また、首里三平等・国頭方・中頭方・島尻方の管区もあり、その制度の成立は興味深いものがありそう。代官制と呼ばれることからすると、後の番所や役場につながるものと見られる。首里代官は首里城が想定されるが、他の代官が置かれたのはどこだったのか。今帰仁代官は今帰仁城?(北山監守・今帰仁按司が今帰仁居住の時代)なのか?1666年に伊野波(翌年本部間切と改称)が分割する以前の今帰仁間切の番所は今帰仁グスク(監守)が、その役割を果たしていたのではないか、そして、山原の間切を統治する役目を担っていたのではないか。

 七代官制の国頭代官に17世紀に創設された間切がある。国頭代官に1666年の伊野波(翌年本部間切りへ改称)、1673年の恩納間切、大宜味間切、久志間切の創設があり、四代官制の管轄に入っている。

 知念城や中城城跡内に番所が置かれたの関係あるか?

㉛【七代官制】

①首里代官……真和志・南風原・西原の三間切を掌る
 ②東代官………大里・佐敷・知念・玉城の間切を掌る
 ③島尻代官……具志頭・東風平・摩文仁・喜屋武・真壁・高嶺・豊見城の間切を掌る
 ④浦添代官……浦添・中城・北谷の三間切を掌る
 ⑤越来代官……越来・読谷山・具志川・勝連の間切を掌る
 ⑥今帰仁代官…金武・名護・羽地・今帰仁・国頭の間切を掌る
 ⑦久米代官……久米・慶良間・粟国・渡名喜など島を掌る

七代官制の起源について定かでないが、四代官制(1660年)になる前の制度である。『南島風土記』(東恩納寛惇)は「代官と言う名目は、鎌倉時代に守護代の事であるから、これに倣ったものであろう。」という。17世紀中ごろ創設された間切がないのは当然である。首里代官の下にある真和志・南風原・西原の三間切に同村がないのは、首里王府直轄地とされると同時に、間切規模の領域をまとめたグスクがあったにしろ、西原と南風原の両間切は首里王府からの位置で名付けられた間切名となっている。 

㉜【四代官制】(順治17~雍正7年:1660~1729年)

①島尻代官……真和志・南風原・大里・知念・玉城・東風平・具志頭・真壁・兼城・喜屋武
           ・高嶺・小禄・豊見城・摩文仁・佐敷など十五間切を管轄する

②中頭代官……西原・浦添・宜野湾・中城・北谷・読谷山・越来・美里・具志川・勝連・
           与那城など十一間切を管轄する

③国頭代官……恩納・名護・本部・今帰仁・羽地・大宜味・国頭・金武・久志・伊江・
           伊平屋など十四間切を管轄する

④久米代官……久米・慶良間・粟国・渡名喜など四島を管轄する

 四代官制にしたのは『琉球国旧記』(1731年)にあり、万治三年(1660)であるが、1731年以前に新設された間切名も記されている。『南島風土記』(東恩納寛惇)は「七代官制を改めて四代官制とし、首里三平等・国頭方・中頭方・中頭方・島尻方の管区名も亦この時に設定されたもののようである」と記してある。


2019年12月22日(

 「山原の神行事とイノシシ
の講演、原稿の整理。緊張で座っていたので。今日は肩や節々が病んでいる。風邪ではないだろうね。



2019年12月21日(土) 

 これから「山原の神行事とイノシシ」の講演。果たしてどうまとまるか。


金装宝刀(千代金丸)と北山の滅亡

                         記念講演(過去原稿) 201581日)



1.主な参考文献
【主な参考文献】

「北山の興亡と其の裔」(『伝説補遺 沖縄の歴史』(昭和7年)島袋源一郎著108頁
 『中山世鑑』
 『琉球国由来記』(1713年)
 『中山伝信録』(1721年)
 『球陽』(読み下し編)昭和49年初版
 「真境名安興全集三巻」(33頁)

『真境名安興全集』(第四巻)(334頁)
 『南島風土記』(東恩納寛惇著)(389頁)昭和25年発行
 『琉球百話』島袋源一郎著(昭和16年)(100頁)
 「伝説を探る」新聞記事(新聞名?)

 『中世南島通交貿易史の研究』小葉田惇著 昭和43年発行

 『明実録』

 その他


『中山世鑑』三巻 40 41

・・・・・・去る程に山北王某を招いてニの丸へ引下り神代より城守護のイベとて崇め奉りし盤石あり其の前にて宣いけるは、今はイベも神も諸共に冥土の旅に赴かんとて腹搔き切り、反す太刀にて盤石イベを切り破り後様へ五町余りの重間河へぞ投げ入れ給う。

【嘉靖14年大明へ謝恩の使者あり】(1537年)

 金靶鞘腰刀二把
 銀靶鞘腰刀二把
 紅漆螺鈿鞘鍍金銅結束袞刀 二十把
 紅漆鞘鍍金銅結束腰刀 二十把
 紅漆螺鈿鍍金結束腰刀 二十把
 紅漆鞘鍍金銅結束腰刀 四十把
 黒漆鞘銅結束腰刀 八十把 

【嘉靖18年慶賀】(1539年)

 金靶鞘腰刀 二把
 銀靶鞘腰刀 二把
 鍍金銅結束紅漆靶鞘袞刀 十六把
 鍍金銅結束紅漆鞘沙魚皮把腰刀 十把
 金結束黒漆鞘沙魚皮把腰刀 二把
 鍍金銅結束漆把鞘袞刀 十二把
 鍍金銅結束漆鞘魚皮靶腰刀 十把 


『琉球国由来記』(1713年)(永楽20年尚巴志即位の条)

「北山の滅亡」と千代金丸
 去る程に山北王、今は是までぞ。今一度、最後の会戦して、心よく自害をもせんとて、赤地の錦の直垂に、火威の鎧を着、龍頭の甲の緒をしめ、千代金丸とて、重代相伝の太刀をはき、三尺五寸(約106cm)の小長刀を腋(ワキ)に挟み、花やかに鎧ふたる、兄弟一族、只十七騎、三千余騎の真中に懸入り、面も振ず、火を散してぞ、もみ合ける。

  (略)

 去程に、山北王、其の兵を招て、サノミ罪を作りても、何かせん、人手に懸んと、末代の耻辱ぞ
かしとて、二の丸へ引上り、神代より、城守護の、イベとて、崇奉りし、盤石あり。其の前にして、宣けるは、今は、イベも、神も諸共に、冥途の旅に赴んとて、腹掻切て、反す太刀にて、盤石のイベを切り破り、後様へ、五町(500m余)余りの、重間河(志慶真川のこと)へぞ、投入給。七騎の者も、思々に自害して、主の尸を、枕にしてぞ、臥せたりける。

【具志川家家譜の今帰仁旧城図のイベ】


『中山世譜』

 今に至り神石尚ほ存す。而して十字の開の跡あり。剣の名は千代金丸。沈みて重間河に在り後に葉壁の人之を獲。又城門外の一大石上に王の乗る所の馬蹄の跡あり。皆山北の古蹟なり。


『中山伝信録』(1721年)

 流れて水漲渓に至り、光天を挿す。伊平屋島の人之を獲て中山に献上ず、今王府第一の宝剣とす。


 『球 陽』の記事

 『球陽』の記す所によれば、巴志幼年の時、嘗つて与那原に遊び鍛冶屋をして剣を造らしむ。鐡匠農具を造ることに忙しく剣を造ること甚だ遅し、巴志屢々(しばしば)徃いて之を督促す。匠人詐つて巴志の面前に於いて剣を鍛錬して成る。或る日巴志此剣を帯舟遊びをなせるに忽ち大鱶踊上り舟将に沈没せんとす。巴志直剣を握りて突立つ、鱶怖れて逃げ去りしという。
 その頃本土の商船鉄塊を載せて与那原に来り貿易をなす。即ち巴志帯ぶる所の剣を見て瀕りに之を求めんことを欲し、遂に満載せし鉄塊を以て之を購う。巴志多くの鉄を得、兵器を造らず、悉く農民に分与して耕具を造らしむ、百姓感激せざるものなく、為に産業俄に興り民力充実するに至る。云々


「真境名安興全集三巻」(33頁)

【北山王自刃の宝刀】

 故小松下御至愛の北山王自刃の宝刀
 千代金丸
 刀身二尺三寸六分
は、明治42年の夏手入した当時の鑑定の大家今村長賀、関保之助氏が天下の至宝なりと折紙をつけたようである。
 尚家の由来書は史にある通りであるが、麹町の今村長賀、小石川の関保之助氏の折紙にはこう書いてある。
 千代金一口、作者不明拵への年代足利時代に属す。大切羽二枚完備せるは、他に類なき珍品なり。柄は短くして騎兵刀の様式を具へ頭槌形に成り能く握るに適す。柄糸の巻方古式にして頗る珍重すべし。別に柄袋を調整して覆ひ置くべきは勿論取扱すべて鄭重にして糸を損ぜざるよう心得肝要なり。
 ―頭菊紋の毛彫は想うに琉球特有の作ならん。京都の作りとは思われず。刻する所の大世の二字、尚泰久王世代所鋳大世通宝の銘文と字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号代世主にとるか。鐔猪の目の金の中、覆輪最珍也。
 鞘の熨斗付金に継目あるは帯取の跡なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。要之伝家の宝刀たるのみに非ず、以て天下の至宝とすべし。―刀身が二尺三寸六分、刀紋乱れ刃で裏と表にご本の腰樋(こしひ)がある。中心が三寸六分七厘で重さが九十六匁、目貫は金唐花で目釘また金無垢である。
 柄頭は頭槌形で菊紋も彫、ここに折紙で不思議がられている問題の「大世」この二字が彫まれている。・・・・
 千代金丸はただの一度もわれらの眼にふれようとはしなかったが東京で報知新聞社の名宝展に出展され世の宝剣家のすべてへ声をかけようとしている。不思議な機会が開かれたものといってよい。前後一度その手入れの時立合った人々は先代の尚侯爵夫妻と家令家職のもののほか前に来た鑑定者二人、研師の井上行造、杉本次郎、鞘師小堀政治との門人一名であった。
 


 『南島風土記』(東恩納寛惇著)(389頁)に、

 伝に、古へ山北王、中山に滅ぼさるゝに當り、其の佩刀を取りて是れに投ず、後伊平屋島の人これを獲て中山王に献じたり、今侯爵尚氏に蔵する所の千代金丸これである。伝信録重金丸に作る。方音千代チユにひゝくからである。大島筆記をこれを承けて、「重金丸の事を尋しに、それは琉球王第一の宝剣にて王府の中に秘蔵してあり、霊徳あり、前方王府回録のありしにも、どうして出たやら、脇にうつり存て、無恙由なり」

【千代金丸】
 刀身長 二尺三寸六分匁乱刃、表裏五本ノ腰樋有之
 中心長 三寸六分七厘、刀身重量 九十六匁、柄頭 頭槌形、菊紋毛彫大世ノ文字有之、目貫 金唐花、目釘金無垢、鎺(ハバキ) 烏銅、色絵菊紋散文字一字有之、縁 菊紋毛彫、柄糸 鶯茶、巻下地 萠黄金襴、鐔(ツバ) 木瓜形、烏銅色絵菊文散、鯉口 金枝菊高彫鞘 金慰斗付、小尻 鯉口ニ同ジ、帯取 金物無之。

(備 考)(390頁)
 千代金丸一口、作者不明、拵の年代足利初代に属す。大切刃二枚完備せるは他に類なき珍品なり。柄は短くして騎馬兵刀の様式を具へ頭槌形に成り、能く握るに適す。
 柄糸の巻き方古式にして頗る珍重すべし。頭菊文の毛彫は想うに琉球独特の作ならん。京都作とは思われず。刻する所大世の二字尚泰久王世代所鑄大世通貨の銘文ニ字尚泰久王世代所鑄大世通貨の銘文ニ字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号大世主に取るか。

 鐔猪の目の金の中覆輪最珍也。鞘の慰斗付金に継目あるは帯取の迹なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。要之伝家の宝物たるのみあらず。亦以て天下の至宝とすべし(今村長賀・関保之助両氏鑑定)。

 蓋し、この刀は尚巴志(1372から1439年)時代に盛んに支覇に輸出された金結束袞刀の一種であって、山北滅亡の前年に尚巴志の長孫尚泰久が生まれているから、後に尚泰久に伝えられ、泰久時代に多少の改装を加えて今日に至ったものであろう。


※今村長賀
 今村 長賀(いまむら ながよし、1837年(天保8)土佐生まれ。1888年(明治14)宮内庁御用掛、1886年(明治19)、東京九段の遊就館取締りとなり武器甲冑の整頓、鑑別を託された。全国有名寺社旧家の武器を調査、刀剣鑑定家としての名声をあげた。晩年、宮内庁御刀剣係となる。蒐集した刀剣は3000振りと言われている。1910年(明治43)12月27日、東京麹町で死去、享年74。

※関保之助(せき やすのすけ)
 1868-1945年 明治~昭和時代前期の有職(ゆうそく)故実研究家。慶応4年4月10日生まれ。有職故実の資料,古武器の収集・研究家として知られた。明治28年帝室博物館はいり,昭和8年東京帝室博物館芸委員。母校東京美術学校(現東京芸大)や京都帝大でもおしえた。昭和20年5月25日死去。78歳。江戸出身。 


『南島風土記』(東恩納寛淳著:昭和25年版 389頁

 伝に、古へ山北王、中山に滅さるゝに当り、その佩刀を取りて是に投ず、後侯爵尚氏に蔵する所の千代金丸これである。伝信録重金丸に作る。

方音千代チュにひゝくからである。大島筆記これを承けて、「重金丸の事を尋しに、それは琉球王第一の宝刀にて王府の中に秘蔵してあり、霊徳あり、前方王府回録のありしにも、どうして出たやら、脇にうつり在て、無恙由なり」


2.千代金丸・治金丸・北谷菜切の鑑定書(明治42年)
 イ、千代金丸
  刀身長    二尺三寸六分文乳刃、表裏   五本の腰樋有之
  中心長    三寸六分七厘
  刀身重量    九六匁
  柄頭     頭槌形、菊文手彫大世の文字有之
  目貫     金唐花
  目釘     金無垢、
  鎺(はばき) 烏銅、色絵菊文散文字一字有之,
  縁      菊文毛彫
  柄糸     鶯茶
  巻下地    萌黄金襴、
  鐔(つば) 木瓜形、烏銅色絵菊文散
  大切羽    色絵菊文散
  鯉口    金枝菊高彫
  鞘     金慰斗付
  小尻    鯉口に同じ
  帯取    金物無之

【備 考】
 千代金丸一口、作者不明、拵の年代足利初代に属す。大切羽二枚完備せるは他に類例なき珍品成り。柄は短くして騎兵刀の様式を具え頭槌形に成り、能く握るに適す。
 頭菊文の毛彫は想うに琉球特有の作ならん。京都作とは思われず。刻する所大世の二字尚泰久王世代所鑄大世通宝の銘文二字と字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号大世主に取るか。
 鍔猪目の金の中覆輪最も珍也。鞘の慰斗付金に継目あるは帯取りの迹なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。
 要之伝家の宝物たるのみにあらず、亦以て天下の至宝とすべし。(今村長賀・關保之助両氏鑑定)

【東恩納寛淳氏のコメント】
 蓋し、この刀は尚巴志(1429~1439年)時代に盛んに支那に輸出された金結束袞刀の一種であって、山北滅亡の前年に尚巴志の長孫尚泰久が生まれているから、後に尚泰久に伝えられ、泰久時代に多々の改装を加えて今日に至ったものであろう。


ロ、治金丸(今村長賢・関保之助両氏の鑑定) 『南島風土記』(東恩納寛淳著:昭和25年版 110頁)

 刀身長   一尺七寸八分刃紋乳刃刀表裏四本樋
 中心長   四寸一分
 刀身量数   一百七匁
 柄頭    角頭巻懸柄
 目貫    黒ミ銅、桐紋
 目 釘   竹
 鎺(はばき)金着セ
 柄糸    鶯茶
 巻下地   黒塗鮫
 鐔(つば)  木瓜形烏銅色絵菊紋散(千代金丸の鐔(つば)と同形同大、但し緒覆輪剥落)
 大切羽   烏銅色絵菊紋散
 鞘     黒花塗
 小尻    丸小尻
 粟形    黒塗黒塗鴻目金
 反角    黒塗
 小柄    金含烏銅入絵雲形紋様
 小刀    無 之 

【備 考】
 治金丸一口、年代千代金丸に同じ、刀身地金見事也、焼刃亦細、作者は応永頃の信国乎、柄糸の巻方、頭に巻懸け、頭と糸との間に空隙あり、親鮫の位置第二の菱形に当る、但し古式也、今日完存するもの稀也、袋に包み、手を掛けないよう心得肝要也、小柄及び紋様共に名作、珍重すべし。

 おもろさうし八の二十八に

    おもろ ねあがりや 

    いみやけど 世は まさる

    てがねまる しまけねて きより 

同六の三四に、

    きこえ きみがなし

    とよむ きみがなし

    これど だにの まてだやれ

    つくしちゃら はきよわちへ

    てがねまる さしよわちへ

  「てかねまる 宝剣の名也」 


北谷菜切一口 『南島風土記』(東恩納寛淳著:昭和25年版 377頁

 刀身長 七寸六分
 中心長 二寸七分、
 刀身  量数十六匁
 柄頭   金唐草唐花彫
 目貫  無し
 目釘  黒角、
 鎺(はばき) 金着 但し鎺(はばき)は鞘の中へ食い込み無之。
 縁  頭に同じ
 柄   金着
 鐔(つば) なし

鞘     両□青貝摺
 小尻    頭に同じ、
 粟形    同上

 裏瓦    同上

 反角    同上
 小柄    金含、雲に貘の高彫、裏に篆字及び分銅形毛彫
 笄(ケイ・こうが)篆 金着、桃枝の高彫、裏に篆字(てんじ)
 下緒       お納戸色石打

【備 考】
 刀身摩滅、作柄不明、焼刃は鐔(つば)元少し存在、年代四五百年程、地金よし。
 

因みにいう、おもろに、刀の異名として、「つくしちゃら」があり、混効験集に筑紫刀の字を充ててある。海録巻八の三八に、「筑紫長刀、芝愛宕下に河野良意という医師あり、その所蔵に大友家の旧物の由にて薙刀あり、今のものとはやや異なり、その製如此、見ればおぼつかなし、筑紫長刀と云う物は、其の製少し異なるなり」云々とあるを思えば、筑紫の長刀は筑紫長刀ともいうべきものにやあらん。亀山侯の大夫松平帯刀君の所蔵にも右のような長刀これあり、もとは播州の古祠より出し物といへり。随意観必図の中に釣刀とて出せる右信州諏訪所有古刀、長三尺、美成按にこの物も亦筑紫長刀なるべし。


『補遺伝説 沖縄の歴史』115頁 島袋源一郎

 「中山世鑑」に曰く、山北王今は是迄ぞ、今一度最後の合戦して快く自害せんとて・・・・・千代金丸とて重代相伝の太刀を佩き、兄弟一族只十七騎、三千余騎の真中懸入り、面も振らず火を散らしてぞ揉(も)め合いける・・・・・・去る程に山北王某を招いて二の丸へ引下り神代より城守護のイベとて崇め奉りし盤石あり。その前にて宣(のたま)ひけるは、今はイベも神も諸共に冥途の旅に赴かんとて腹掻切り、反す太刀にて盤石のイベを切破り後様へ五町余の志慶真川へ投げ入れ給う。


『琉球百話』島袋源一郎著(昭和16年)(100頁)

 此の千代金丸は現に東京尚侯爵家の所蔵に係り其の宝物写真は大正十四年十二月発行啓明会第十五回講演集の口絵に載せてある。刀身二尺三寸六分、明治三二年小松宮殿下台臨の折、御観賞を蒙り其の後も屢々御噂をせられ給いしといい、又明治42年御手入の時斯道の諸大家より天下の至宝と激賞されたという。其の鑑定に依れば「室町時代の作にて、大功刃二枚完備せるは他に比類なき珍品なり、柄は短くして騎兵刀の様式を具へ、頭槌形に成り能く握るに適す、柄巻の糸方古式にして頗る珍重すべし・・・・・頭菊文の毛彫は想うに琉球特有の作ならん、京都の作とは思われず、・・・・之を要するに伝家の宝刀たるのみならず、以て天下の至宝となすべし」云々。


【尚巴志の名刀】(球陽読み下し)116頁

・・・・・時に城中に一霊石あり。攀安知常に拝して神と為す。此の日智尽き力窮る。其の石を叱して曰く、予今死なん。汝豈独り生きんやと。剣を揮ひて石を劈(サク)り、自ら刎ねて亡ぶ。是れに由りて山北、復、中山に帰す(今に至るも神石を尚存す。而して十字劈開の跡有り。剣は千代金丸と名づけ、沈みて重間河に在り。後、葉壁の人、之れを獲。又城門外の一大石上に、王乗る所の馬の蹄有り。皆山北の古蹟なり)。


『伝説を探る』―千代金丸霊石を両断―(新聞記事)

 尚巴志の率いる聨合□□□三昼夜激戦の□□止むなきに至った時に攀安知は城中に鎮護の神として一霊石を祀ってあったが己に力尽きて自刎するに臨み、重代相伝の宝剣千代金丸を持って霊石を□断し、その腹切掻切って刀を志慶真川へ投げ棄てた。伝信録に依ると「其剣流れて水漲渓(親泊の東側今にミヂハイと呼ぶ)に至り、光大を挿す。伊平屋の人之を獲て中山に献ず、今王府第一の宝剣とす」と記してある。
 此の宝剣千代金丸は今東京の尚候爵邸秘蔵の宝物となっているが、刀身ニ尺三寸六分、明治二十三年小松宮殿下台臨の折御感賞を蒙り、又明治四十一年御手入の時斯道諸大家より『天下の至宝』と激賞されたとのことである。

 当時の「鑑定書」によれば足利時代の作りで、切羽二枚完備せるは他に類例なき珍品なり。柄は短くして騎兵刀の様式を具へ、頭槌形に成り能く握るに適す。柄巻の糸□古式にして頗る珍重すべし・・・・頭菊紋の毛彫は想うに琉球特有の作ならん京都の作とは思われず。之を要するに伝家の宝刀たるのみならず以て天下の至宝となすべし云々」此宝刀は右の如く余り他に類例を見ない程のもので、しかも古琉球の作品だということであるが之に大世の文字が刻まれているというのから考えると大世主即ち尚泰久王が愛蔵していたことに相違なく結局北山王の滅亡後尚巴志王家の宝物となり、更に王統改変後第二尚王家に移ったものであろうといはれている。宝物の写真は大正十四年十二月行啓□第十五回講演集口絵参照)

※切羽は鐔(つば)を挟むように装着される薄い板金。
  鐔(つば)は柄の縁を鎺(はばき)に挟まれた部分に付けられた金具。柄を握る手を保護するため、
  また刀の重心を調整するためにある。刀を抜くときは、鞘の上部を握った左手の親指で鐔を押す。 


【受剣石の行方】『古代の沖縄』宮城真治(1972年版:421頁)

 宮城真治が調査(昭和17年)した今帰仁城内の上の岳(ウイヌウタキのイベ:テンチヂアマチヂ)『古代の沖縄』。「受剣石の行方」に、

・石の高さ地上 5尺8寸3分(約1.76m)
・石の周り 16尺4寸3分(約4.97m)
  向かって斜め右上より斜め左下に裂けたる跡  4尺2寸4分(約 1.28m)
  なお、同所より更に裂け目の隠れて現われざる部分 2尺1寸(約 63cm)
  向かって斜左上より斜め右下に裂けたる跡 2尺1寸2分(約64cm)
  なお、同所より更に裂目の隠れて現われざり部分 1尺3寸(約39cm)
  切り落とされたと称する二刀の間の高さ 1尺9寸(約57cm)
  同じく幅  1尺6寸(約48cm)


 上の通りとなっていた。然るに昭和28年5月10日に行って見ると、先年の戦禍によって傷ついたものか(写真?)の如く数個に砕かれていた。

3.尚巴志の動きと北山

 「球陽」で巴志が生まれ体が小さく高さ五尺足らず。小さいため佐敷の小按司と呼んでいる。幼年の頃、かつて与那原に遊び鍛冶屋をして剣を造らせた。鉄匠農具を造ることに忙しく剣をつくること甚だ遅かった。

 巴志しばしば行ってこれを督促したので匠人詐って巴志の面前においては剣を鍛える真似をなし、去れば之を止め、しばらく漸(ようや)三年間鍛錬して出来あがった。ある日巴志は此剣を帯び舟遊をなしていたら、忽(たちまち)大きな鱶が鱶(フカ)が踊り上って舟将に沈没せんとした。豪胆な巴志は直ぐに剣を握って突っ立ったので鱶は恐れて逃げ去ったという。

 その頃本土の商船が鉄隗を積んで与那原に来たり、貿易をなしていたが巴志の帯ぶる所剣を見て頻(しきり)に之を求めんことを欲し、遂に満船載せし鉄塊を以って之を購うた。巴志多くの鉄を得、兵器を造らず悉く之を農民に分け与えて農具を造らした。百姓感激さざるものなく、産業を俄に勃興して民力充実するに至ったという。

 それとは別に尚巴志(中山王)の時代に、尚巴志王から明洪熙帝、暹羅国、明宣徳帝などへ100本近い刀(腰刀・太刀・袞刀)が献上されている(歴代宝案)。その数は尚巴志が北山を滅ぼした後の数字であるが、鉄塊を手に入れ兵器を造らず農具を与えたととあるが、その勢いは島添大里グスクを手中にいれ、佐敷・知念・島添(大里)・玉城の四間切以外の南山に攻め入ることなく1406年巴志は佐敷・島添(大里)・知念・玉城の兵を率いて中山(浦添)を攻め武寧王を討伐し思紹は中山王の座につく。中山へ南山の佐敷から大城、大里グスクを統括し、中山王へと駆け上った勢いが1416年の北山を滅ぼしたことに繋がったといえそうである。 



4.刀を持つ旧家
(これからの刀研究)

①本部村並里(満名) 上の殿内(満名富家)
 並里家は当地方における旧家にして今帰仁本部及び県下各地方より神拝みとし巡礼する者甚だ多し。同家上座敷の左隅に御棚あり、按司位牌三個を祀り霊前古櫃の中には古刀三振(大一本2尺7寸、小二本1尺5寸宛)
 ②久志村川田(根謝銘屋)
 根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金かぶの簪などの遺物を保存せしが、火災の為焼失して、今は類似の品を以って之に代えたり。同家客間の右方に特に神壇を設けて祖霊を祀る。

③国頭村安田屋号川口
 同家には遺物として黄金カブの男挿簪及び一尺一寸五分の古き短刀一振を蔵せり。外に古文書として万暦十五年(1587)二月十二日の辞令書。


④今帰仁按司韶威

今帰仁按司(韶威)が北山に派遣されたとき(弘治年間)、脇指二振(備州長光と相州秋廣)を賜っている。

 『具志川家家譜』

 大宗韶威(弘治年間:1488~1505)弘治年間今帰仁間切総地頭職

  弘治年間奉 命赴山北時蒙 尚真王特賜御脇差二振(一銘備州長光、一銘相州秋廣、

御鎧通一本銘行平)・・・・

⑤伊是名村銘刈家 

 万暦15年(1587年)の辞令書あり。脇差と長刀(現存)


6今帰仁村諸志の内間御殿

⑦久志村(現東村)川田の根謝銘屋
  絹地の衣類、古刀、黄金かぶの簪など(大正以前に焼失)

⑧本部村(現本部町)並里上の満名殿内
  按司位牌、古櫃の中に古刀三振(大一本二勺七寸、小二本一勺五寸宛)(現在戦災にあう)

⑨今帰仁村謝名の神社祠内
   短刀(現存)

⑩大宜味村謝名城
   現存?


おわりに


千代金丸と志慶真川】(水はり:ミヂパイ)(『琉球国由来記』 1713年)

「折節、山北王、本門の向敵、過半討ふせぎ、殿中に入て見れば、妻子悉く、自害せり。依之、城内の鎮所、カナヒヤブと云う盤石あり。夫れに向て申様は、代々守護神と頼しに、今我於敗亡には、汝と共に亡んとて、千代金丸と云う。刀を抜て、彼の鎮所を十文字に切刻、其刀を以て、自腹を切らんとすれば、誠に名刀とかや。主を害するに忍ばず、釖鈍刀と成て、敢彼膚に立たず、然故、志慶間(真)川原と云う所に釖捨、別刀を以て釖自害す。

 その後千代金丸、志慶真川原より流下、親泊村の東、水はりと云川原に流止、夜々光輝天に。伊平屋人、是を見て、不思議に思へ、態々渡来、見るに、水中釖あり。則捕揚げ、持ち帰りければ、従此光止ける。名釖たることを知て、中山王に献上す。干今、王府の宝物、テガネ丸御腰物、是なり。但千代金丸と云つつ、替への由、申也。干今、カナヒヤブと云鎮所者、差渡五尺計の黒石にてありけるを、千代金丸を以て、十文字に切刻たる旧跡、有之也。






2019年12月19日(木)

 新城徳祐氏の遺族から資料提供の連絡、霜田正次氏から「沖縄関係の蔵書・資料の提供の連絡。最近、あれこれと墓のことや、ウタキやグスクなどについての問い合わせがあり、その対応に追われる。ありがたいことです。


2019年12月18日(水)

 なかなか「北山の歴史」に集中できないでいるが、山原のイノシシを追いかけていると、沖縄本島の遺跡からイノシシの骨が見つかっている。近世文書からも沖縄本島ほぼ全域に住んでいたことがわかる。今では沖縄本島北部のみのようである。「山原のイノシシと祭祀」として講演をするのであるが、山原の自然遺産、害獣として捕獲されているイノシシ。作物の被害を受けている人々、自然保護、そこに生活する人々、祭祀では豊作・豊漁・豊獣を神に願い、一方ではシニグ(凌ぐ・祓い・流し)と矛盾を抱える場面である。


山北三王王怕尼芝・珉・攀安知の時代の概要

山北王怕尼芝が進貢を開始した洪武十六年(1383)から攀安知王の最後の進貢永楽十三年(1415)までの三二年間までの三山の交易の回数を『明実録』によると、中山が五二回、山南が二六回、そして山北は十七回である(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』)。山北十七回のうち怕尼芝王が五回、珉王が一回、攀安知王が十一回である。北山だけで渡航した進貢は五回である。山北の多くは中山と同じ年に渡航している。進貢が同時期なのは明国の国情によるのであろうが、山北は十二月から四月にかけてである。当時の状況を『明史』に「北山は最も弱く、これ故朝貢もまた最も稀」だと記してある。北京に遷都したのは永楽十九年(1390)なので、それまでの目的地は南京である。

冊封関係を持つ山北王は怕尼芝・珉・攀安知と続くが、怕尼芝についての出自と珉との関係は全くわからない。『中山世譜』と『球陽』(洪武二九年条)に「山北王珉薨じ、其の子攀安知嗣辰し、封を朝に受け、以て遣使入貢に便す」とあり、珉と攀安知とは親子関係にある。

もちろん山北王は、他の二山同様中国皇帝による王の地位を認めてもらう冊封と貢物を献上し忠誠を示し、それに対して冠帯や衣服、紗・文綺・襲衣などを賜ることを最大の目的としている。それと同時に、各地のグスクから出土している中国製の陶磁器類を輸入する貿易関係の確立でもあった。今帰仁グスクの麓にトーシンダー(唐船田)やトーシングムイ(唐船小堀)などの地名があり、明国と交易した名残りを示すものなのか。

冊封体制の確立は、明国との主従関係もあるが、山北内部での支配関係を明確にするものである。山北王の冊封は山北のクニ的儀礼であり、貢物の硫黄や馬や方物を準備するのに各地の按司(世の主)を統括する必要がある。山北王は冊封や朝貢の名で国頭・羽地・名護・金武などの按司を支配関係に置き、山原全域を統治していく役割を果たしたとみてよい。

具体的な貢物に馬と硫黄鳥島で採掘した硫黄がある。その他に方物がある。その中身について具体的に記されていないが夏布(芭蕉布?)もその一つである。貢物とは別に貿易品の調達もあり、その取引で移入されたのが各グスクから出土する陶磁器類であろう。

今帰仁グスクの基壇と翼廊のある正殿の建物で、山北王が明国から賜った冠服をまとい衣冠制度による身分を示す衣服をまとった各地のグスクの按司達が儀式に参列している風景は、まさにクニの体裁が整い、身分制度による支配形態が髣髴する。

怕尼芝から開始した冊封も、永楽十三年(1416)攀安知王で終わりを告げた。『明実録』で三名の王の出現があり、三名の中では冊封の回数が多いのが攀安知王である。しかし中山や南山と比較すると少ない。そのことが国頭・羽地・名護などの按司が中山に組みした理由の一つであろう。北山王を中心としてクニの形をなしているものの、内部では内紛の兆しがあった。

さて、山原の五つのグスク関係について『明実録』で全く触れられていないし、それと琉球側の『中山世譜』や『球陽』などの文献でもそうである。そのため、グスクの立地や発掘あるいは表採されたグスク系土器や中国製の陶磁器などの遺物や堀切、現在見えるグスク内の祭祀と関わる御嶽やカー、神アサギなどを手がかりにみていく方法しかない。

伝承の域をでることはないが、例えば根謝銘グスクは北山系の人々が根謝銘グスクを頼りに逃げ延びていった。親川グスクは、羽地地域を統括した按司の居城であったが、築城途中でやめて今帰仁グスクへ移った。名護グスクは中北山の時代、今帰仁世の主の次男が派遣され築城。名護按司を名乗るようになり、代々名護按司の居城だと伝えられる。

北山滅亡後に山原各地のグスクが機能を失ったわけではない。今帰仁グスクは首里から派遣された今帰仁按司が代々監守をつとめ1665年まで続く。ところが尚真王が各地の按司を首里に集居させたため按司地頭や火神を残すのみとなった。その名残が『琉球国由来記』(1713 年)のグスクでの祭祀に按司や惣地頭が首里から来て祭祀へ参加する姿である。

 山原の各グスク間の関わりは、文献史料をはじめ発掘された遺構や遺物などの成果を持っても、いい伝えら伝承の域をでていない。グスクとグスクとの関係についての研究を深めていく必要がある。

 『明実録』に山北王が記されるのは洪武十六年(1383)からである。洪武十六年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。

 『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。
 山北王怕尼芝は洪武十六年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。

 それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。

 中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割は担っていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数においても。

 『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度三六年(1385)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。

 (『明実録』の記事を読み込んでいると、北山王の時代が少しではあるが見え隠れしている)

※「北山王の時代」を見ていく場合、一般の人々の生活はどうだったのか。十五世紀末与那国島
  に漂着した朝鮮人の見聞記があり(『たらま島』多良間村誌所収)、北山王の時代より100年後であるが、山原の人々の生活は近いのではないか。


2019年12月15日(

 何年ぶりかで図書をかりる。カードは期限が切れで更新。目にした事の無い図書がいっぱい。あれもこれも目を通したくて何時間も図書館に釘付け。すっかり、研究の進歩に取り残されている。自分の調査研究の遅れに今頃気づかされる。この歳では頑張りようがありません。あきらめるか。ハハハ

 目の前のこと一つひとつ片付けていくしかないか。




2019年12月14日(土)

 ちょっと、「北山の興亡の時代」を思い起こすため東村の川田の根謝銘屋の伝承につて振り返る。その時代をみていく社会状況(村人の生活)をみていく手掛かりになるのが」1477年に与那国島に漂着した「朝鮮漂流民」の記録を念頭に入れてみていく必要があると考えている。(工事中) 


    ▲東村有銘の神アサギや拝所、ノロドゥンチ


▲東村平良、平良ノロドゥンチ、根神屋、川田の根謝銘屋のガジマル


2019年12月13日(金)

 大宜味村謝名城での海神祭(大正時代)の様子を紹介(『山原の土俗』:島袋源七より)。明日まで「山原の神行事とイノシシ」のデジメを準備しないと。下の城ノロ管轄の海神祭の「流し」を追加。

・四回目
  縄遊びを行う。その場所で行うが、まず左方に一間程離して棒を立て両方の棒に
  縄の両端を結び舟の形をつくる。三回目と同じ装束で、その中に楕円をつくり、右
  端に太鼓を打ち三名オモイの音頭取り一人立ち、太鼓の鳴るのと同時にオモイを
  唄い、それに和して扇を振りながら踊る。
    
  ・舞いが終わると見物中の神女の一人が蜜柑を踊り手の真ん中に撒く。それが終
   わると猪を取る真似をして飾ってある冬瓜を槍で突きころがす。
    (神アシャギ庭での行事は以上。縄遊びがすむと他の神人は氏子と帰宅)

・氏子は尾花に石を込めて結んだサンを二つづつ神に捧げ、これを持参して家に帰り
 火神の前に捧げる。健康と繁昌を祈る。他人に跨がしたら効き目がないので各自
 大事に持ち帰る。

・祝女・若祝女・海の神はアシビビラモトゥ神と同道し、途中ウムイを唱え扇を振りながら
 帰り、途中火の神の祠でも同じ歌を唄いながら祝女殿内に帰る。

・祝女殿内で歌を唄い踊りをして、再び神アシアゲで祈願をする。

・5回目
  神アシアゲに帰り祈願をして猪神、酒樽、鼠とをお供にかつがせ、アソビビラモトゥ・
  祝女・若祝女は海の神をお供して(駕籠に乗る)喜如嘉に行き、そこの根屋に集まっ
  て再びオモイを唱えて踊る。

・歌を済ませると行列して喜如嘉の浜へ。途中にアミガーがあり、そこでも同様なことをする。

・6回目 
 ナガレ
喜如嘉の浜へ行列をつづける。お供に持参させた猪・鼠を捧げ、神酒を供して
 海を拝し、また山を拝し踊りに使ったハーブイと共に海に流す。これを「流れ」という。

・海辺での行事が終わると喜如嘉の根屋に帰って祈願をし神人は一夜を明かす。当日の
 儀式の終わりを告げる。

・別れ 祭りの翌日に行う。喜如嘉の神アシアゲに遊びビラムトゥと喜如嘉の神人が集まっ
 て神酒を捧げて祭りの終わりを告げる。オモイを歌って城から来た神人は駕籠で城神ア
 シアゲに帰る。

・神人の行事はこれで終わるが、各字の氏子は各々定めの遊び、臼太鼓踊り・村芝居・
 エイサーなどをする。

 ※饒波→大兼久→大宜味へ。城のウンガミに参加した神人をムラ入口で待って、神人と
  合流して、それぞれの字で「流し」をする。

 
  ▲喜如嘉の根神屋   
  ▲根神屋の中の火神など  ▲喜如嘉の浜(流し)

2019年12月12日(木)

 かつて、各地を踏査していたことがある。ここ三年間は大宜味村と国頭村のムラ・シマ(アザ)を集中して動いてきた。学生達に「やんばるが好きなんですね」と講座の後、よく言われていたことが思い出される。今国頭三村(国頭村・大宜味村・東村)で、村の魅力や発見、感動を発掘していこうとする動きがある。それには協力していくつもり。その一部を紹介。二、三日前、祭祀に登場するイノシシシとシニグの「流れ」の所作の場所の確認で、大宜味村の喜如嘉、田嘉里、鏡地、与那、辺戸、奥までゆく。ノロ制度の終焉(参照)








2019年12月11日(水)

 以下の仕明地についてのメモ書きを思い出す。宮里村の仕明地に嫁の実家が土地をもっている(那覇士族)。もらえそうなので、そこに家を建てたいとのこと。湿地滞跡であることと、言ってみればゼロ㍍地帯である。住宅を建てるには反対をし、他の場所を選び建てる。(役立つこともあるものだ!)

【名護湾岸のムラ許田・幸喜・喜瀬】2005.02.26(土)メモ

 名護湾岸の村々の川沿いに関心が向いている。川沿いの湿地帯は仕明地として開拓されていたのではないか。近世の地割から外れた土地として、同村の人民でなくても開拓ができた土地があった。許田・幸喜・喜瀬の直接の史料ではないが、以下のような仕明請地帳(二例)がある(『名護六百年史』所収)。

 一枚目は、名護間切数久田村の平良親雲上が、隣村の許田村にある「ふしにや原」の竿はずれ地を仕明請地とする。もう一例は同じく数久田村の平良親雲上が宮里村の「すみや原」の竿はずれ(迚?)を仕明請地とする内容である。数久田村の平良親雲上は許田村と宮里村に仕明請地を持っていたことがわかる。村超えをして仕明できたということである。

 ここで許田・幸喜・喜瀬の川沿いをあげたのは屋部や宇茂佐あたりのウェーキが、屋部川沿いにも持っていたが、名護湾を舟で横切って許田あたりに仕明地を持っていたことを聞いている(史料確認必要)。

 地割対象外の土地(仕明地など)を他の村に持つことができた。それは川沿いや内海沿いなどの湿地帯に多くみられる。羽地大川沿いなどは、村移動までして開拓させているところもある。


         (表紙)
  
  高 九 升 仕 明 請 地 状
          名護間切数久田村
                  平良親雲上

         (文面)
      
名護間切 許田村
          ふしにや原竿はずれより成る
              仕明人  うし津波
      一、下田 壱畝拾五歩  九升   
    右遂披露候之処為仕明請地永々被下之旨被仰出候定納者百姓地並尤絵図仕付
    置候御模可相守者也
      道光拾五年乙未十二月

        高 所 首里
            之印
       国頭里之子親雲上
                       喜舎場里之子親雲上
                       池原里之子親雲上
                       高嶺里之子親雲上
              名護間切数久田村
                       平良親雲上 

         (表紙)
  
   首里
      之印 
 高四升 仕 明 請 地 帳
               名護間切 数久田村
                         平良親雲上

         (文面)
      
名護間切 宮里村
          すみや原野竿迚より成る
              仕明人  多戸 宮城
      一、下田 拾五歩  四升   
    右御手形被下置候処癸卯十一月白蟻は跡方無之由仰出候付帳面引合相成由
    仕明請地永々被下之旨被仰出候定納者百姓地尤絵図仕付置候御模可相守者也
       道光二十三年癸卯十二月
        高 所           東風平親雲上
                       大宜見親雲上
                       池原親雲上
                       高嶺親方
              名護間切数久田村
                       平良親雲上 


 「仕明請地帳」に出てくる許田村の「ふしにや原」(道光15年:1835)は小字から確認できなかったが、宮里村の「しみや原」(道光23年:1843)は現在の宮里の「志味屋原」(シミヤー)一帯と見られる。どんな場所か立ち寄ってみた。屋部川(ヤブガーラ)の中流に位置する。白銀橋を境にして、その下流域右岸一帯が志味屋原である。仕明地のほとんどが川沿いの湿地帯の開拓とみている。予想通りの場所であった。

 現在はアパートや住宅や畑などになっている。ところどころに葦など湿地帯の植物が見られる。一帯は、かつて深田(ユピタ)だったにちがいない。そんな面影が今でものこっている。

 数久田村の平良親雲上は小舟で屋部川をさかのぼって「すみや原」まで来たのだろうか。昭和12年屋部川下流に水門が設置される。それまで「すみや原」付近まで小舟で往き来できたという。平良親雲上は数久田村のウェーキで宮里村や屋部村あたりの人に小作させていたのかもしれない(水門は撤去されていた)。

      
       (画像入れ)

          現在の屋部川(ヤブガーラ)流域の志味屋原(シミヤー)


2019年12月10日(火)

 国頭村のイノシシに逢いたくて大宜味村から国頭村の奥まで。「寡黙庵」も正月前の大掃除をいつするかを決めるため立ち寄る。天気がよく、青空にチャーギにヒヨドリが羽休みか。しばらく、にらめっこ。

 国頭村の道の駅のイノシシ狩りに使う道具とイノシシについてちょっと知識を。スニグの「流し」をする辺戸と奥の港まで。奥の資料館のイノシシサミットのようすのパネルとイノシシの下顎をみる。話を伺うため訪問したが留守。イノシシの肉を食べることはできなかったが、イノブタソバですます。





 ▲イノシシの剥製(国頭村道の駅展示)         ▲奥の資料館展示(うりぼう)

 
   ▲奥の資料館展示のイノシシの下顎         ▲イノシシを狩るヤイ(槍)国頭村道の駅展示

 
     ▲辺戸の宇佐浜海岸          ▲奥の海岸(護岸がつまれ)満潮時


2019年12月9日(月)

 午前中大宜味村史、午後から国頭村へ。大宜味村史で「謝名城のウンガミ」の動画を拝見。国頭村の辺土名、与那、辺戸、奥まで。シニグ(海神祭)の「流し」場面。奥は資料館のイノシシや顎など。

・大宜味村謝名城・喜如嘉・饒波・大兼久・大宜味
・大宜味村田嘉里
・大宜味村田港
・国頭村比地・奥間・鏡地
・国頭村辺土名
・国頭村与那
・国頭村辺戸
・国頭村奥
・国頭村安田
・国頭村安波


        ▲国頭村比地(鏡地)の海岸

  
     ▲国頭村奥              ▲国頭村辺戸                ▲大宜味村田嘉里

  
▲大宜味村喜如嘉の海岸            ▲今帰仁村今泊(シバンティナの浜)

 
        ▲国頭村与那の海岸


                 ▲国頭村安田のシニグ

2019年12月8日(

 各地のシニグ(海神祭)などの祭祀の流れとシニグ(凌ぐ・祓い)の場面から、祭祀にみられる凌ぐ(祓い)の場面に焦点をあてて、祭祀をみてみる。タイトルは神行事としているが、所作の一つひとつから祭祀のことを考えてみたい。各地のシニグの「流れ」(凌ぐ・祓い)の所作を確認することに(講演の「山原の祭祀とイノシシ)発表準備)。

 祭祀を見ていく場合、まずは祭祀の流れで、各場所での祈りと所作をみていく必要があると考えている。祭祀の名称は、所作全体からすると、その一部である。一つの祭祀にいくつもの所作があるとみていい。複数の所作の一つが、その祭祀の名称になっている場合が多い。それで、一年間通しての祭祀の数多くの所作から、このムラでの祭祀では、数多くある所作から、そのいくつかを行っている。他のムラと共通するもの、あるいは他に行事に含まれているものなど。それぞれのムラで祭祀の形は必ずしも同じではない。
   ここではシヌグ(シニグ)について見ていくことにする。シヌグ(シニグ)は、「凌ぐ」を意味する場面だとみる。伊平屋の田名では海神祭とシヌグは別の祭祀である。

  『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』には恵平屋島(伊平屋島)の村は、のほ(野保)村、島尻(同)村、だな(田那)村、かぎや(かきや:我喜屋)村の四つの行政村が登場。田名の祭祀をみると、行政村となる以前のムラが祭祀に反映している。また、ヒヤー(比屋:本島の根人・男神役)の役割も注目する必要がある。沖縄本島の海神祭、あるいはシヌグに二つの祭祀の所作が含まれている可能性がある。国頭村では今年はシニグ、来年はウンジャミグヮーと交互に行っているのは、『琉球国由来記』(1713年)の編集は、数多くある祭祀を首里王府は整理したのではないか。

 【名護グスクの海神祭】(『琉球の研究』加藤三吾著:大正5年)
 名護のナングスクではウンジャミ祭ということをやる。これは海神祭の義で、毎年旧暦七月亥日に行われるのであるが、近村の神職等はオガン森に集まり、餅と神酒とを神前に供え<U>海の物を山の神に捧げ、山の物を海の神に奉り、一人の神職は凉傘という大傘を持ち他の神職等は縄を大きく輪にし此傘に結びつけ、これを舟に擬して皆々其の輪の中に入り、棹をさすまねをするものであり、丸木弓の弭に月日の小旗を附けて踊るものあり、弓の弦を打ち振って魚釣の態をなすものがあり、オガン森から次第に下って海岸にねり行き、鼠を籠に入れて深く水汀の沙中に埋める式をやる。
  これは昔時に野猪を埋めたのであるが、今は鼠を以て野猪に代えたのである。それから多数群がって小舟を持ち上げ持下ろしながら神歌を合唱することもあり、手を挙げ足を踏み鳴らして海上に向かい一斉にオンコイと叫び続けて恰も高貴の人の舟出を見送る状をなすこともあり、終には海岸を引き上げてオンガンに帰り多人数双方に立別れて丸木弓を扱い、クバという棕梠に似た木の葉を振りかざし、互に戦闘の真似などをして散会するのが例である。

  【シヌグ祭】(伊平屋)『続南方文化の探求』河村只雄著(昭和17年版)
  伊平屋方面では「シヌグ」は「凌ぐ」を意味するもので子供がよく「凌いで」丈夫に大きくなったという一種の健康祝いであって、シヌグ野原(モー)で子供を中心にたのしく遊ぶお祭りとなっている。シヌグ・海神(ウンザミ)といつも並べて言われており、シヌグは海祭にひきつづき旧七月の中旬、いわゆるお盆の期節に行われている。
  併しながら、中頭の離島ではシヌグは全く海祭と同一になり、而かもそれは秘密行事的神事としての形態をもって行われている。シヌグの時は昔は海岸に見張りを立てて外来者は一歩も島に入れなかったということである。男は浜で見張をし、女はシヌグ野原(毛:モー)で厳かな神事をしたという。
   (略)昔アマミキヨ族が国頭地方での戦いに敗れて、この島にのがれたという。そのときアマミキヨ族の勇者が浜で防戦につとめ神人はシヌグ洞にかくれてひたすら神様の御助けを祈ったが不思議なる哉、大嵐が起こって敵軍は惨々にみだれ、あやうくも難を凌ぐことが出来たという。今日のシヌグ祭はそのありし日を記念するためのお祭りだと言われている。


 【伊平屋田名の海神祭】(宮城真治著 昭和2年調査)
  田名の海神祭(旧7月16日)(1日目)
   ・午後九時頃アシャギ庭に男女の神職が集まる。
   ・ワイ(長餅)の分配
   ・各戸より、サニン葉包みの八寸の長餅を一斤宛献上。これをワイという。
   ・ワイ(長餅)をアシャギ庭の仮家の中に飾る
   ・仮の陰屋の中に飾る。
   ・仮の陰屋の中に杙(くい)を立て縄を引いて舟に擬し、舟は東向き(海神はみな弓を持つ。
    舟には弓を置いてから乗る。
   ・四人の海神が乗る。その外にワチ神より四、五人乗る。
   ・ユムイが傘で招く(海神を招く?)
   ・舟に乗る。
   ・舟に乗っていて「イメーヌカーヂ」もしくは「ギッセイ」などのかけ声をなす。
   ・夜十時頃ウムイを謡う。
   ・四人の神職は弓を以ってアシャギ庭に出で、字の東、海の近くにあるクンジャガーで顔や手足を洗う
    それより字の周囲を七度巡る。弓を杖について行く(その時は二度巡る)。
   ・最終の時、ダナヌ屋がその殿の前で御迎えをする。海神は八巻をとってダナヌ比屋の殿で休む。
   ・それより海神は二人宛、二方に分かれる(組合せ及び受持つ方向は一定せず)。字を東部・西部に
    分かちて各戸を巡る。
   ・各戸を巡る時はナレクが御供をする(ナレク=ナルコ・テルコ)。
     (ナレクというのは、字の女子の九歳のものより、のろがサーを当てて任命す。その勤めは
      三年間である。ナレクは各組に三人、都合六人である。ナレクは髪を後ろに垂れて、御下げ
      の様に根元を結ぶ。白胴衣を着ける)
   ・ナレクは各家の門で「ヘーヘー、イキガニンジュ、カサギンチュ、フカンカイ、イジュンソウリ」と調子
    よく唱える。男子と妊婦は屋敷外に出る。
   ・庭にはオームーチー(長餅)二つとオーザキ(酒)一合、庭に出しておく。海神がとって、長餅をナレ
    クに渡す。女主人と酌をなす。オー(藘の杖)を家の中にいれる。女主人はそれを竈の後ろに飾る。
    斯して、暁までに字内の各戸は二組によって巡られる。
   ・暁、各自の家に帰る。 

  田名の海神祭(旧7月17日)(2日目)
   ・朝八時頃、二十人の女神は白衣をつけ、クンジャガーで顔、手足を洗う。田名屋(田名の比屋の殿)
    に集まる。
   ・ユニシンサーは「マー、ハナシチケー、ウカザイシヘヘリヨーイ」(馬の鼻崎に用意せよ)と謡う。馬は
    各神職のマガラから出している。クチヒチも各マガラより□□が出ている。
   ・朝九時頃、大シドゥの馬は黒色(オーギー)馬と定まっている。
   ・出かける順序は、伊平屋のろ(俗に田名のろともいう)
     はみし→なでしぬ→あさとぅぬる→てぃんぬる
    の順序に全部で二十人の神職が馬に乗る。
   ・ハナサチ(鼻崎)は字の東の崎で、東に向かって手招きをする(海神を送る意か。手招きをするの
    はイナトンチビではないか?
   ・イナトゥチビに馬で行き、馬より下りてナリクよりオーをとり、オーを持ってウムイを謡う。
   ・オー(あし)を海に捨てて帰る。
   ・そこからアサギに集まる。アサギの前に座する。
   ・むかし(昭和2年より)は字の掟やその他の当局がテルクグチを謡っていた。今は字の区長や世話役が
    謡う。一人は鼓を打って音頭をとり、二人のものはそれを繰りかえして唱う。
   ・神人にはウンサク、酒、肴を供す。ダナヌ比屋殿内にてする。神人は殿に座す。
   ・ユンシンサー殿内にてなす。田名ノロドゥンチにてなす。
   ・田名殿内(脇地頭火神所)にてなす。神人はそこまで同行、そこにて神人は解散。
   ・青年が九組に別れてテルクグチ(ナルコ、テルコのくち)をなす。青年に酒肴を供す。
   ・村の中央、上ヌハンタにて手踊りをなす。 

 旧7月18日 シヌグの準備(田名) (宮城真治ノートより)
   ・旧暦7月18日 シヌグの準備
   ・字内を19組に分け、各組の頭を地がしらという。各地がしらがその組の各戸より神酒四合5勺宛
    徴収して田名屋(比屋の内)集める。これにて口がみの神酒を造る。
   ・娘17、8才のもの(美しく清潔のものより選定)四人を選定し、白米二升をかませる。これをアーレーという。
   ・ほかに一斗一升四合は臼に割り、粥にてきて冷やす。クサホという。
   ・クサホにアーレーを入れておくと、午後四時頃に入れると明晩には飲める。
   ・醗酵すると臼にひいて神酒にするのである。 

  旧7月19日 シヌグ(田名)
   ・字内19組からそれぞれ一人宛青年が出て祭にたずさはる。これをトーガミという。
   ・元は9年宛勤続させた後、三年づつ務めた。今(昭和2年)は一年宛で交代する。
   ・トーガミは胴衣、袴をつけ、白サージをなし、棒や弓を持つ。
   ・午後、東西二組</B>に分かれる。東組は<B>クシ嶽の御前に、ぬる、はみし、だなぬ比屋も共にいく。
   ・西組はクシ嶽のチナヌウチヌ御前に、ナデシヌ、アサトヌル、ユヌシンヒヤ、区長と共に言う
    (海神は関係せず)。
   ・東西二組共、各御嶽を掃除する。
   ・シバ木の枝を折って持つ。東組はニシナヂャリ、トーガメーイと呼ぶ。それを三度繰り返して呼び合う。
   ・ヒヤと掛声して共に立つ。ヒヤ、ヒヤーと物を追う様をして村に下る。
   ・東組は字の東、西組は字の西を通る。
   ・道の辻に来ては東はイリヌウフグロイ、弓ムチャイイモリ、ヤイムチャイイモリと云って、
  道の辻で所彼所、叩いたりする。
   ・西組はアガリヌ大グロイ、弓ムチャイイモリ、ヤイムチャイイモリと云う。
   ・トーガミは字の南方の入口なるウジャナ森(今はナシ)に集まる。神職もそこに待っている。 

  ・トーガミは東西合併して、前泊なるヌーガミの嶽(マヂャヌ御嶽ともいう)にいく。 
  ・トーガミがその所に出発して見えなくなると、ウヂャナ森の神職は、女は手を合わせ、男はウニヘー
     をする。
   ・ヌーガミ御嶽に行っては、東西各組は東のシヌグ松、西のシヌグ松のところにシバ木の枝を置く。
   ・アガリナヂャリ、トオガメーイ、イリナヂャリ、トーガメーイと呼んで連れ立ってくる。
   ・字のシヌグナーに南北に分かれて集まる。
   ・南ナザリー、トーガメーイ、ニシナザリ、トーガメーイと呼び合い合併して座す。
   ・男神もシヌグナーに集まっている。
   ・昨年のシヌグ以後、男子生まれた内より、一升五合の赤豆入りの強飯を出す。
   ・ユヌシンヒャー、ダナヌヒャー、区長三人が並ぶ。
   ・父親が子供を連れてユヌシンサーに子を抱かす。
   ・ドーカンジューク、ウタシキテウタビンショウレと云って、箸にてカシチーを三度食す。
   ・子供の口にも少し入れてやる。
   ・トーガメにウサンデーさせる。
   ・女神は、ダナヌ殿内(ダナ屋)に集まる。田名ぬ比屋より七合かしちー出す。
   ・女神四人にて食す。
   ・午後十時頃、サーシムイがある。それをするのをサーシムイサーという。
   ・特に字内の男子中より選んで任ずる。三人である。
   ・サーシムイとは、ダナヌ比屋、ユヌシンサー、区長に神酒を上げる儀式である。
   ・その時、、サーシウムイというを謡う。
      (サーシウムイ)(唄は略)

※各地の祭祀を紹介(追加)


▲国頭村比地の海神祭(猪狩と海での流し場面)(奥間ノロ管轄の祭祀)
 
▲国頭村の与那の海神祭の猪狩の場面と海での「流し」(凌ぐ・祓い)の場面(1998年調査)(与那ノロ管轄の祭祀)


2019年12月7日(土)

 今帰仁阿応理屋恵御殿(オーレーウドゥン)は三十三君の一人。尚真王の第三子尚韶威が北山監守に派遣され、その一族が今帰仁阿応理屋恵を継承している。1665年に一族は首里赤平村へ移り住む。ところが、今帰仁按司は今帰仁間切に戻ることはなく、今帰仁阿応理屋恵は今帰仁間切に戻る(戻される)ことになる。ところが、元の今帰仁阿応理屋恵御殿に戻らず、今帰仁按司(ウドゥン屋敷:監守の位牌のある)に移り住む。そこが今のオーレウドゥンである。明治以前の20点余の「口上覚」に立願で今帰仁グスクやオーレーウドゥンを訪れている。
 




▲今帰仁阿応理屋恵御殿(火神の祠)   ▲首里から引揚後の今帰仁阿応理屋恵御殿

2019年12月6日(金)

 さて、原稿整理に突入するか。


  【日本遺産 琉球王国のグスク】朝日新聞社発刊より(説明文:各郭の配置図仲原)

 



 
▲ウーミャ(大庭)への旧道          ▲三・五・七の参拝道(現在)


2019年12月5日(木)

 『琉球国由来記』(1713年)の城内の拝所の記述は今帰仁グスクの歴史の一端を彷彿させる。火神の祠は1665年に北山監守(今帰仁按司)の一族が首里赤平村へ移り住んだ事の証である。永く住んだ地から離れたとき、故地に火神を遺していく慣習があること。旧城図にウタキとイベを明確に区別している。グスクで行われていた祭祀はクニレベルと村(ムラ)レベルの祭祀があったこと。山原で呼ぶ神アサギは王府はトノ(殿)呼んでいたことがわかる。中央の文化と山原の文化の違いを見せていること。『琉球国由来記』(1713年)の祭祀の流れがグスク周辺にあった村(集落)が移動する前の流れを示している。



2019年12月4日(水)

 2.山原の五つのグスク
①根謝銘グスク(国頭グスク)
②羽地グスク(親川グスク)
③名護グスク
④金武グスク
⑤今帰仁グスク


・北山(山原)の歴史(仮案)

1.北山(山原)の主なグスク

2.山原の5つのグスク

3.「明実録」にみる山北(北山)

4.「明実録」にみる怕尼芝・珉

5.「明実録」にみる山北王攀安知
オモロに謡われた今帰仁

6.第一監守時代

7.百按司墓と貴族(画像)

8.百按司墓と貴族(北山系統?監守一族?)
運天の古墓群

9.「海東諸国紀」の伊麻奇利城と国頭城

10.赤墓(上間大親と一族)

11.古琉球の辞令書の「みゃきせん」(今帰仁)

12.古琉球の今帰仁間切の村ムラ

13.古琉球の辞令書を持つ中城ノロ家の遺品

14.第二監守時代(1470~1609年)

15.今帰仁阿応理屋恵と監守一族

16.今帰仁阿応理屋恵(『女官御双紙』)

17.今帰仁阿応屋恵の役割


18.第二監守時代(1610~1665年)

19.薩摩軍の琉球侵攻(1609年)

20.烽火制(1644年) (山原の遠見所)

21.北山監守の首里引揚
22.今帰仁間切の分割.
23.国頭方の間切分割

24.運天に間切番所
25.池城墓(1670年)

26.『琉球国由来記』(1713年)のクバウノ嶽

27.『琉球国由来記』に見る今帰仁グスク(1713年)
28.今帰仁城内の神アシアゲ(1713年)


29.今帰仁グスクでの大折目(海神祭)

30.『今帰仁旧城図』(乾隆8年:1743年)

31.今帰仁間切の原石(乾隆8年:1743年)

32.羽地按司様御初地入日記(同治9年)

33.山原の三津口(運天・勘定納・湖辺底)

34.今帰仁グスクでの大折目(海神祭)

35.『今帰仁旧城図』(乾隆8年:1743年)
  大北墓の運天への移転

36.今帰仁間切の原石(乾隆8年:1743年)

37.山北今帰仁城監守来歴碑記(乾隆14年)

38.羽地按司様御初地入日記(同治9年)

39.羽地大川の改修と村移動(1736年)

40.山原の三津口

41.運天原のオランダ墓(1846年)

42.運天港が果たした役割
  「口上覚」(間切役人と運天番所)
43.廃藩置県と今帰仁


山原の主なグスク

・田名グスク(伊平屋島)

・ヤヘーグスク(伊平屋島)

・伊是名グスク(伊是名島)

・アマグスク(伊是名島)

・伊江グスク(伊江島)

・アマングスク(国頭地方)

・奥間グスク(国頭地方)

・根謝銘(ウイ)グスク(国頭地方)

・喜如嘉グスク(国頭地方)

・津波グスク(羽地地方)

・石グスク(羽地地方)

・源河グスク(羽地地方)

・屋我グスク(羽地地方)

・アマグスク(羽地地方)

・ウチグスク(羽地地方)

・真喜屋グスク(羽地地方)

・羽地(親川)グスク(羽地地方)


 【山北王攀安知】(12)

①洪武29年(1396)正月己巳(10日)
  琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に錠を賜う。

②洪武29年(1396)十一月戊寅(24日)
  琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。
  是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

③洪武30年(1397)二月丙戌(3日)
  琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。

④洪武30年(1397)十二月癸巳(15日)
  琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び硫黄を貢す。

⑤洪武31年(1398)正月(8日)
  琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

⑥永楽元年(1403)三月丙戌(9日)
  琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯・衣服を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び臣に冠帯を賜う。

朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。王其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん」。山南王承察度・山北王怕尼芝に論して曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。
  邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察度も亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近ごろ使者、海中より帰りて言わく、琉球の三王互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。
  
  朕之を聞き?憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体し、兵を息め民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん」。

山北王珉(1)

①洪武28年(1395)正月丙申(1日)
  是の日、朝鮮国李旦・琉球国
山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・
   馬匹を進む。




2019年12月2日(月)

唐人の漂着と運天港(1741年)

 1741年12月大島に唐船が漂着した。その船は運天津(湊)に回送されてきた。運天港で修理して運天港を出港している。唐船には五三人の中国人が乗っていた。出身地は蘇州と福州で商人が乗っていた。長崎で貿易をし、日本の海産物や銅器・漆器などを乗せて帰る途中、洋上で暴風にあい大島の大和浜に漂着したのである。

 大島に漂着した唐船は、唐人四七人と奄美大島人七人を乗せた本船と唐人六人と荷物を乗せた大和船の二手に分かれて、沖永良部島・与論島を経由して運天港に向かった。大和船は名護間切許田村に着く。本船は伊江屋島の具志川島の干瀬に乗り上げて破船してしまう。

 名護間切の許田(湖辺底)に着いた唐人と荷物は名護間切に収容された。天気がよくなったので名護間切船二艘、恩納間切船一艘、数久田村に来ていた那覇の馬濫船一艘、計四艘で名護から運天港へ回送した。運天港に着くと、唐人と荷物は番所に引き渡され、大和横目と在番検見が綿密な船の改めをした。馬濫船は遅れて翌日に到着した。番人ならびに諸事取締り方に次のようなことが申し渡された。

   覚

 一唐人囲所近く地下人不立寄様、堅く可申渡事。
 一同所近辺より女性通仕間敷事。
 一大和年号又は大和人名・斗舛・京銭(寛永通宝)、唐人江
   見せ申し間敷事。
  附、御当地通用之銭相尋候はば、鳩目銭相用候段可申答候
 一村中に而大和哥仕間敷事。
 一唐人滞在中、御高札掛申間敷事。 
 一勤番家并村中、火用心別而別而可入念事。
 右のような達しが出された。また唐人を収容するための小屋がつくられた。

   覚

 一番所屋敷内に長拾間づつ横弐間づつ、之小屋弐軒、長三間横弐間之台所壱軒、
  雪隠所等相調候事。

 一門左右、後表両角四ヵ所に勤番家相調候事。
附、小屋は奥弐間はいのまん床仕合、前三尺者土地に仕候。台所は床無に、かま大小五つ相調居候。

一小屋外囲之儀、高すすき・いのまん取交、内外見通り無之様に堅箇固相調候事。
唐人が運天村に収容している間、国頭間切の七カ間切に割り当て、

     運天村に四日づつ詰めさせた。伊部屋島から四七人が到着する間、唐
人六人のために食糧が尽きると米や味噌など、入用な品々を提供し
ている。

     伊平屋島で唐船は破損してしまったので荷物は泊馬濫船二艘に乗り、通事・評定所筆者宰領などが伊平屋島船に乗り三艘立てで運天港へ向かった。破船した船は厳重に焼き捨てた。その間、大和船が運天港沖に停泊してはならず、天候によっては古宇利島の前に停泊するようにと指示がだされる。その時、蔡温も訪れている。


大和人墓(ヤマトゥンチュバカ)(1768年・1858年)

 大和人墓は今帰仁村運天の港近くにある。近くには大北(ウーニシ)墓がある。墓の形からして琉球の墓ではないことがすぐわかる。墓塔が二つあり、二つの墓をまとめて大和人(ヤマトゥンチュ)墓と呼んでいる。墓塔の二基に年号が刻まれている。一基は「明和五年戌子八月」(1768)で正面に「妙法□定信士」、裏面に「屋久島宮之浦 父立也新七敬白」とある。もう一つには「安政二年卯十月十日」(1858)とあり、正面に「即心帰郷信士」とあるが、出身地は不明である。

 一基目の人物は「屋久島の宮之浦」出身とみられる。宮之浦には「手形所」や「船改番所」や「異国船遠見番所」が置かれ、船の出入りを取り締まる役所(津口番所)が置かれていた。琉球と往来する船もあったのであろう。宮之浦奉行所は「鹿児島の藩庁と連絡をとり、藩庁は長崎奉行へ伺いをたて、異国人を長崎に移送する」ことになっていたようである。島の中央に宮之浦岳(一九三五・三m)がそびえ、南九州と琉球を結ぶ航路の指標になっている。屋久島の宮之浦の船が、琉球と薩摩を往来していたのであろう。その一人が運天港で亡くなったのであろう。

 もう一基の人物の出身地は不明だが、「即心帰郷信士」とあるので、故郷に帰りたい望郷の念から、そのような戒名にしたのであろう。

 運天港は近世になると、奄美大島や沖永良部島、与論島などとの往来があり、近世末になると外国船の往来がみられる。バジル・ホール、ペリーの一行、唐船、フランス艦船などの来航がある。大和人の墓は二基だが、家譜や評定所記録などで、運天港と関わる記事が結構見られる。運天港での出来事を一つひとつ拾っていくと、運天港が果たした役割が、もっと見えてくるであろう。

 
  


㉓【「沖縄関係各省公文書」にみる今帰仁】『沖縄県史十二・十三』(明治13年)(コメント入)

1880年(明治13)本県下各間切各島夫地頭以下役俸調書 沖縄県史12
  沖縄県下各間切各島夫地頭以雑下役俸調
今帰仁間切
        地頭代
一 雑石七斗八斗五升壱合九勺四才               古宇利親雲上
                             夫地頭
一 米壱石三斗三升五合八勺四才                  湧川筑登之上
                     夫地頭
一 米弐石九升三勺四才                        諸喜田親雲上
一 雑石五石三斗弐升七合八勺弐才                夫地頭
一 米三石六升壱合八勺三才                    志慶真親雲上
一 雑石三石四斗六升四合三勺七寸七才             夫地頭
一 米弐斗壱升壱合五勺三才                    兼次筑登之
一 雑石七石三斗壱升四勺弐才             首里大屋子
一 米四石三斗弐升五合七勺七才                 上原筑登之
一 雑石拾七石壱斗七升三合六勺九才         大 掟
一 米弐石壱斗八升九勺四才         玉城にや
一 雑石拾石壱斗九升四合壱勺四才       南風掟
一 米五石六升弐合九勺壱才          大嶺にや
一 雑石四石弐斗七升弐合四勺五才      西 掟
一 米弐石九斗壱升五合勺五才        喜志本にや
一 雑石八石九斗四升九合四勺壱才       玉城掟
一 米四石弐斗七升三合弐勺         仲宗根にや
一 雑石三石弐斗八升弐合五勺八才      今帰仁掟
一 米三石七斗弐合勺七才          宮里にや
一 雑石六石六斗八升壱合三勺壱才      﨑山掟
一 米弐石壱斗四升壱合八勺四才       上間にや
一 雑石七石三斗壱升弐合弐升        仲尾次掟
一 米壱石五斗六合四勺           松本にや
一 雑石七石七斗壱斗七合七勺四才      平敷掟
一 米四石七斗弐合六勺七才         奥間にや
一 雑石三石七斗五升四合六勺弐才       謝花(名)掟
一 米弐石八斗三升弐合三勺四才       大城にや
一 雑石六石七斗八升弐合三合三勺四才     仲宗根掟
一 米壱石七斗六升壱合弐勺六才        与那嶺にや
一 雑石拾石弐斗壱勺六才           天底掟
一 米三石五斗弐升五勺            仲里にや
一 雑石九石壱斗四升壱合七勺四才      上運天掟
一 米壱石五斗五升五合弐勺五才       仲村にや
一 雑穀九石壱斗四升壱合七勺四合四才    運天掟
一 米弐石四斗壱升三合九勺三才       比嘉にや
一 雑穀九穀五斗弐升九合三勺六才       古宇利掟
一 雑穀拾四石九斗弐升五合六勺五才     仲里にや
  米四拾九石五斗八升四合九勺七才

合 雑石五拾九石八斗四升九合三才 


2019年12月1日(

 12月、今年は一年を振りかえる年ではありませんね。30年余の調査や記録メモを振り返る月になりそう。進めている本編でコラムとして扱う予定の項目である。最終的には年代順に並べる予定。

㉑運天の隧道(トンネル)(コラム) (大正13年)

今帰仁村の東部に字運天があり、そこに運天港がある。運天港は自然の良港で、源朝為公の上陸伝説、あるいは百按司墓や大北墓など歴史的な墓、近世から明治・大正時代にかけての番所(役場)などがあり、いろいろなことで知られた港である。その運天港の出入り口は、トンネルになっている。

一枚目の写真に見えるようにトンネル出入り口の上には、「運天隧道 大正十三年十一月竣工」と彫られ、トンネル開通のスタートが明記されている。トンネルが掘られる以前は、丘陵地のきつい坂道を上り下りし、物の運搬をしていたという。当時、沖縄本島には運天隧道の他に国頭村の座津武隧道と大国隧道が開通していた。運天のトンネルの長さは、約八間(約14.4m)、幅が約三間(約5.4m)である。トンネルの出入り口部分の壁は、崩れ落ちないようにコンクリートで固めてあり、崩壊した部分もあるが当時のコンクリートが現在でも残っている。今帰仁村でコンクリートが使われ出して間もない頃だった。トンネルを開鑿するのに、まだ機械が使える時代ではなかったため、ツルハシや荷車など人力で工事がなされたという。

 これまで丘陵地の急な坂道を運搬していたのが、トンネルの開通で馬車や車が運天港のムラウチ集落まで行けるようになり、物の運搬が大変便利になったという。運天港には大正五年まで役場(番所)があり、今帰仁村(間切)の行政の中心地で、米や砂糖などの租税の集積地であった。

 これだけではなく、二枚目の写真に見るように、トンネルはムラ人たちの田畑などに行く生活道路でもあった。ムンジュル笠をかぶりバーキを背負い、畑仕事でもしてきたのであろうか。トンネルのことを「隧道」と漢字で記したり、ムラウチに向かっている婦人の姿などに、イモを主食にした時代、あるいは裸足の時代が浮かんでくる。

運天のトンネルの開鑿は、郡(朝武士勧干城郡長時代)によって大正四年度から十年計画で進められた郡道整備の延長にあったとみられる。山原での車が走り出した時代で、それまでの荷車や馬車が通る狭い道から車が通れるように道路が広げられ整備されていった。車が今帰仁へおも往来するようになると、役場のあった運天港への道を整備する必要性に迫られたのであろう。そのことが、隧道の開鑿につながったとみられる。郡道の整備事業は、これまでの海上交通から陸上交通へ転換期であった。そのことは、運天にあった今帰仁村役場が中央の仲宗根へ移転する大きな要因となった。昭和55年に運天港から上運天の浮田港(運天新港)をつなぐ臨海道路が開通した。その後、これまで使われていたトンネルを通るバス路線は変更され、臨海道路を通るようになった。

 トンネルを通る道は、かつて役場への主要道路であったが、主にムラウチ集落や港をつなぐ道路として利用された。さらに、臨海道路の開通やバス路線の変更で、トンネルを通る道は産業道路としての機能は低下したがムラの生活道路として使われている。運天のトンネルの写真をみていると、今帰仁村の小さな港をもつ運天であるが、トンネルの開通や臨海道路、海上交通から陸上交通へと波のごとく移り変わっていく。その中にあって、ムラ・シマに生きる一人ひとりを記録していく作業の必要性を痛感する。

運天港付近の古い墓(昭和10年頃)(コラム)

 運天港の周辺には大北(ウーニシ)墓や百按司墓など、歴史的によく知られた墓がある。それとは別に、崖の下や中腹に無名の古い墓が群れをなしている。それたの墓にどのような人達がいつ葬られたのか、素姓は今だ定かではない。

 これまで運天港付近の無名の古墓として扱ってきたのであるが、これら古墓はいくつかのタイプに分けることができるが、ここでは大きく二つに分ける。一つは崖を掘り抜き、そこに家型の建物をつくり、その中に木棺や甕を納めるタイプである。

紹介するの三枚の写真は『琉球建築大観』所収で、昭和9年から10年にかけての運天の墓の状況である。一枚目の写真は、崖の中腹にある写真である。右側の墓は前面に材木で枠をつくり、それにザフンと呼ばれる板でふさいでいる。その中に、木棺が入っている。木棺からこぼれた人骨は、墓室内に散在したままである。現在、この墓は新たに板でふさいである。左側の墓も崖の中腹に作られ、崖に横穴を掘り、そこにザフンを使って家型の建物を作ってある。さらに、その中に人骨が入った木棺や甕などが納められている。また、墓室の中には竹籠を編んだような入れ物があり(現在押しつぶされている)、それに人骨が納められた形跡がある。家型の墓の正面の中央部に墓口があり開くようになっている。この墓の特色は、崖の中腹に横穴を掘り、そこに家型の建物をつくり、その中に甕や木棺を入れる形である。

 二枚目の写真も、上の写真同様崖の中腹を掘り込んで作られた墓である。中央部の墓口は丸太を使い板戸にでもなっていたのか、開いたままになっている。墓口に香炉が置かれ、左右は竹で編んだチニブでふさぎ、墓室内に甕が置かれている。

三枚目は、崖の中腹にある四つの墓である。写真の右側からチニブでふさいだ墓、木の板でふさいだ墓、三番目は石積み。そして、一番左側の墓はチニブかカヤでふさがれているように見える。

運天港付近の崖中腹の墓の外観を見たのであるが、当時の死者をどのように葬ったのか定かではない。しかし、洗骨をし、木棺あるいは甕などに人骨を納め、木の板やチニブでふさいだ墓、あるいは家型の墓の中の木棺、あるいは甕に葬っている。

これらの墓を調査をし、解明していくべきであるが、その多くが未調査のままコンクリートで閉じられている。(その後、何度か調査しているので追加することに)