沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵:(管理人:仲原)
               今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)0980-56-5767)

                        
 もくじ:トップページ      
 問合せ(メール)         
                   
2019年11月

 2019年「ムラ・シマ講座」
   ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯へ


2017年4月 2017年5月 ・2017年6月  ・2017年7月2017年8月  
2017年9月  ・2017年10月 ・2017年11月 ・2017年12月  2018年1月 2018年2月へ
・2018年3月 2018年4月 ・2018年5月 2018年6月  2018年7月 2018年8月 2018年9月
2018年10月  ・2018年11月 ・2018年12月 ・2019年1月 2019年2月 2019年3月
  2019年4月
・2019年5月 ・2019年6月  ・2019年7月 2019年8月 2019年9月(先月)

仲宗根政善先生寄贈資料展(2013年) 資料目録1 資料目録2

今帰仁村謝名の操獅子(アヤーチ)(今年度は9月14日:豊年祭開催)
古宇利島の年中祭祀(平成21年度調査報告)
伊江島の大折目(シニグ)
http--yannaki.jp-jireisyoada.html(国頭村安田のシニグ)
http--yannaki.jp-20167gatu.html(沖永良部島のシニグ)
yannaki.jp/siniguunngami.html (シニグ/海神祭)
yannaki.jp/siniguunngami.html(湧川のワラビミチ)
http--yannaki.jp-yanbaruminato.html(国頭村与那の海神祭)
http--yannaki.jp-hiji1.html(国頭村比地)
http--yannaki.jp-gusiken.html(本部町具志堅のシニーグ

今帰仁村呉我山開墾地/本部村伊豆味唐又開墾地/本部村並里タナンガ開墾地(大正11年)
京都・奈良・大阪・伊大野城賀(ガラス玉の鋳型など)
中城ノロ嘆願書(明治16年)
ノロ制度の終焉(企画展示)
波照間をゆく(過去メモ) 
大宜味間切の杣山  
今帰仁間切番所と運天
恩納番所と恩納ノロ
沖永良部島の歴史とシニグ
今帰仁阿応理恵按司(アオリヤエ)


2019年11月30日(土)

 あるテレビ局から古宇利島の画像が欲しいとのことで、画像アルバムを広げていると、島の遠見所のメモが見つかったので1664年のところで書き改めてコラムいれることに。

⑳古宇利島の遠見番所(2005年10月1日)メモ
 
 古宇利島の標高107mのところにある「遠見番所」周辺が今年度整備される。整備のため周辺見通しがきくようになっているというので、古宇利区長の案内で訪ねてみた。現在のうるま市(与那城上原)にある「川田崎針崎丑寅間」(下の画像:沖縄県歴史の道調査報告書Ⅴ)と彫られた石碑が報告されている。古宇利島の遠見所付近で、同様な石碑が見つかるのではないかと期待しているのだが(石に文字が彫られた石があったとか)。

 『沖縄旧慣地方制度』(明治26年)の今帰仁間切に地頭代以下の間切役人が記されている。その中に6名の「遠見番」がいる。任期は無期、俸給は米三斗、金五円七十六銭とある。一人当たり米0.5斗、金九十六銭づつである。今帰仁間切に6名の遠見番を配置している。

 北大嶺原(本部町具志堅)のピータティファーイは本部間切の管轄のようだ。本部間切の遠見番は12名である。具志堅の他に瀬底島にも遠見番があるので12名は二ヶ所の人員であろう。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について「古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の位まで授けられる。終身職で頭(地割?)を免ぜられる」と記してある。

 『元禄国絵図』(1702年?)の古宇利島に「異国船遠見番所」と記載されている。遠見番所の設置は1644年に遡る。烽火をあげて首里王府への通報網である。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻時は一炬、二隻時は二炬、その他の異国船の場合は三炬が焚かれたという。先島は沖縄本島とは異なるようだ。

※そのころ、周辺離島、久米島、宮古、八重山の遠見所を訪れている。


 
   ▲古宇利島の「遠見番所」跡          ▲「遠見番所」跡の遠景


▲島のほぼ中央部に異国船遠見番所」がある(橋建設中)

2019年11月29日(金)

 一次原稿(500頁)にスパートをかけないと。コラムで年表風に並べられるか?!

20031211(木)メモコラム ⑲
 
 今帰仁村の役場は現在字仲宗根にある。近世から大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)は今帰仁の東側の運天港にあった。大正5年に運天にあった役場が今帰仁村の中央部の仲宗根に移転する。その後押しは大正2815日の「沖縄毎日新聞」(今帰仁通信)の記事ではなかったかと考えている。

   [役場移転問題](運天から仲宗根へ)

     本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲
     し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里等交通運輸の便
     なきのみか僅にニ三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓
     を負ひ前方屋我地島と相対して其間運天港を擁し極めて寂莫荒
     廖の一寒村に候
     予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要
     あるかを怪しむ者に候 今泊在の吏員に至りては早朝家出しても
     役場到着は十時頃になるべくそれより汗を拭き去り涼を納れて卓
     に向へば時辰は十一を指すべし 一時間にして食事をなし更に
     二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし 然れ
     ば毎日の執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候
     加之人民の納税、諸願届書類の進達等学校に各字の小使派遣
     等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と傷害を受け居る
     かは門外漢の想像し得ざる所に有之候
     曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為に
     遂に沈黙の悲運に逢着したりと 些々たる感情の為めに犠牲とな
     る村民こと不憫の至りに候 

その記事が出て三年後の大正5年今帰仁村役場は運天から中央部の仲宗根に移転する。

     戦後すぐの今帰仁村役場(画像入れる)  


2019年11月28日(木)

⑯今帰仁阿応理屋恵の役割(コラム)
2002.7.3(水)メモ

 今帰仁阿応理屋恵の役割について糸口を見出しているのであるが、まだ腑に落ちないでいる。
 伊波普猷は「古琉球の政治」(伊波普猷全集第一巻)で、
   「・・・・今帰仁にはのろの外に阿応理屋恵といふのがある。土地の
   人は之をヲーレーといつてゐる。今帰仁には伊平屋へのおとおし
   即ち遥拝所があつて、阿応理屋恵はやがて其の神官である。「恩
   納より上のおもろさうし」のあおりやへがふしに、「あかのこが、伊
   是名をて、みれば、今帰仁は、御酒ど、もりよる、ねはのこが、伊
   平屋にをてみれば、みやきぜんは」といふオモロがあるが、これは
   赤犬子といふ預言者が伊平屋の伊是名で遥に今帰仁の方をなが
   めると、今しも阿応理屋恵が御酒をささげて此処を拝んでゐる所
   であるとの義である。又阿応理屋恵按司の神事中に伊平屋への
   御願がある由を私はこの前のあおりやいから聞いたことがある。」
と述べている。伊波は今帰仁阿応理屋恵の役割として伊是名への遥拝をする役目だという。その遥拝場所もあることやオモロや前のあおりやいから聞いたことがあることを根拠にしている。一部伊是名への遥拝をする役目があったのであろうが、それよりもっと大きな役目があったのではないか。というのは、薩摩軍の琉球侵攻のとき今帰仁グスクは焼かれてしまう。監守は五世克祉で今帰仁グスクが焼かれた翌日亡くなっている。

監守の役目も五代になり、この事件で死亡する。監守の役目は形骸化しているにも関わらず、首里に引き揚げることが許されなかった。首里に引き揚げることが許されなかったのは、監守の役目というより阿応理屋恵の祭祀の重要な役目があったのではないか(1665年に首里に引き揚げる)。伊是名への遥拝だけでないのではないか。まだ史料を十分吟味したわけではないが、山原全体の公儀ノロの祭祀を今帰仁グスクで掌る役目があったのではないか。そんなことを仮説として考えている。大北墓の阿応理屋恵のことも含めて考えてみたい。


2019年11月27日(水)

 
羽地のノロドゥンチ

 ノロ管轄村やノロ辞令書などで地域を描こうと試みてきた。北山からみた奄美への視点として二枚のパネルで説明したことがある。先日、首里城が焼け崩れたとき、二枚のパネルが脳裏をよぎった。「沖永良部の世の主伝説と今帰仁(北山)の歴史」として短い文章を書いたことがる(1993年)(
なきじん研究3号91頁)。「北山の時代と沖永良部島」(2016年)として講演をしている。その発想は今も持続して持っている。

 首里城再建に向けて進めらているようだが、「ノロ制度の終焉」をテーマで奄美(喜界島)まで足を運んだことがある。そこにはノロや役人の任命の辞令書、ノロ関係の数遺品が遺り、1609年の薩摩侵攻以前の文化が今に伝えているのである。長崎の隠れキリシタンが世界遺産に登録されました。琉球のノロ制度も世界遺産に値するものだと思っている。その発信元は首里城であったわけで、世界遺産で問われる精神文化は、まさにノロ制度そのものである。首里王府は末端まで統治する手段として巧みに取り入れたものととらえている。神人達の祭祀は、その殆どが国の発展を祈り、年中祭祀は「神遊び」(今の公休日)で貢租と関わっている。山原地域をモデルとしてきたが、奄美、宮古、八重山を視野に入れた歴史・文化の議論がなされることを期待したい。

 

2019年11月26日(火)

 歴史の場として登場する場所が数多くみられる。それらの伝承が後に地名や村名になっている場合が数多く見られる。歴史編(本文)に挿入しにくい。それが史実なのかどうかの議論になるので。コラムで伝わる年代にならべみることに。とりぜず、コラムに入れるために拾ってみることに。どのくらいの数になるか楽しみじゃ。

⑨今帰仁グスクと親泊村 2005.04.07(木)

 今帰仁グスクの麓の親泊(現在今泊)までゆく。それは山原のグスクと津(港)を結びつけて考える必要があるからである。山原のグスクから出土する中国や東南アジアなどの陶磁器類がどのような経路でグスクに搬入されたのか。その疑問を解かなければならないからである。山原の規模の大きいグスクと麓の港と結びつけられるが、その実態も考えてみる必要がありそうである。今日は今帰仁グスクと結びつく親泊をゆく。麓のナガナートゥや津屋口あたりから今帰仁グスクが見える位置にある。
 時代は下るが1609年3月27日の薩摩軍の琉球侵攻のとき、親泊沖で和睦の交渉を行なおうとしたが失敗に終わる。薩摩軍は1500名あるいは3000名とも言われている。親泊から今帰仁グスクまで約1.5km。薩摩軍が一列に並ぶと海岸から今帰仁グスクまでつながってしまう。そのことも触れる必要がある。
 今帰仁グスクは麓に親泊がある。
 名護グスクは名護湾(東江辺りか)
 親川(羽地)グスクは勘手納港(名護市仲尾~仲尾次)
 根謝銘グスクは屋嘉比港

 

▲東側から見たナガナートゥ(長い港)      ▲西側から見たナガナートゥ

⑩今帰仁グスクと親泊 

 今帰仁グスクの麓に親泊がある。現在今泊となっているが、今帰仁と親泊が統合して今泊となっている。その親泊は今帰仁グスクが機能していた頃の港(津)だったに違いない。泊はトゥマイのことで舟が碇泊することであろう。親はウェーやエーなどと発音され、「りっぱな」な「大きな」の意がありそう。すると親泊は「りっぱな碇泊地」あるいは「大きな碇泊地」だったと見られる。
 それが村名(ムラメイ)として親泊と名付けられたのではないか。親泊集落の東側にチェーグチ(津屋口)の地名があるが、津口(港)に由来している。そこには今帰仁グスクで監守を勤めて第三世和賢が葬られている津屋口墓がある。

 現在の今泊集落の西側にシバンティーナの浜近くのナートゥ(港)、そして東側にナガナートゥ(長い港)があり、そこも港として使われたのであろう。今帰仁グスクから出土する中国製の陶磁器類がどのような経路で搬入されたのか。この親泊という港と結びつけて考える必要はある。しかし大型の船の出入りは狭いリーフの切れ目のクチから不可能にちかい。ならば、どのような経路で搬入されたのか。考えて見る必要がありそう。あるいは、今の常識を超える搬入の経路や方法があったのか。考えさせられることが多い。

 これらの港地名の着く場所が港として機能したことは間違いなかろう。ただし、小さな舟が発着した程度の津だったのではないか。海上はリーフが広がり、一部にクチが開いているにすぎない。その小さなクチから進貢船や冊封船などのような大型の船の出入りは不可能である。大型の船は運天港や那覇港など他の港に停泊し、そこから小舟で荷物の運搬をし、その発着場(石原:ヒチャラ)としての役割を果たしていたと見られる。

 
 ▲志慶真川の下流域(ミヂパイ)     津屋口付近

2019年11月25日(月)

 地域調査で国頭地域に動きを広げていた頃の記事を拾ってみる。特に今帰仁阿応理屋恵の役割を知るため(クニレベルの祭祀とムラレベルの祭祀)。

2003.6.15日)の調査でシニグ行事は「凌ぐ」、つまり祓いや不浄なものを「ながし」ではないかと気づかされる。 もちろん、祭祀全体の所作には豊作・豊穣・豊漁・ムラの繁盛などもあるが、最後は不浄なものを「ナガシ」の所作が印象づけられた調査であった。(いくつものことをまなばされる)

〔トン・トト・トン(シルガミ)〕(午前9:30のメモ)

 本部町具志堅のトン・トト・トン(シルガミともいうようだ)の祭祀の流れを確認するため、これから足を運んでみる。旧暦7月の中旬から下旬にかけて大きく五つの祭祀が行われる。
  ①ウーニフジ(御船漕ぎ)     (旧暦7月19日)
  ②ウプユミ(大弓)          (旧暦7月21日)
  ③トン・トト・トン(シルガミ)   (旧暦7月23日)
  ④ヰナグヌユバイ(女の夕食)  (旧暦7月24日)
  ⑤ハートンチミチ(早朝の神酒)
     シニグ・タムトゥノーイ     (旧暦7月25日)

 旧暦の7月23日に行われるトン・トト・トン(シルガミ)は一連の祭祀の一つである。まずは、トン・トト・トンが行われる祭祀の流れと祭祀場の確認をしておきたい。
   お宮・大川
   お宮→(拝殿内)→クグンビラ→クランモー(倉の毛)→(家々回り)→
   (太鼓をたたきながら)→大川(フプガーへ)→(大川・ナレミャー・ミハージ)

※トン・トト・トンの呼称は太鼓をたたくトン・トト・トンのリズムからきたものか?
           リズムは異なるようだが、今帰仁村湧川のウプユミとワラビミ
           チのときに小学生が湧川・勢理客・上運天・運天の祭祀場で
           小さい太鼓をたたくのと類似するものか?

・トン・トト・トンの場所確認(午後6:00のメモ)

 旧7月23日のトン・トト・トンが行われるお宮・クランモー・フプガー(大川)・ミハージの場所の確認をしてきた。この祭祀がどのような流れで行われるのか楽しみである。お宮・大川・ミハージの場所はすぐわかったがクランモーはムラの方に教えてもらった。「一年に一回しか使わんから草ボーボーなはずよ」と。その通りであった。

 農作業帰りのおばあさんがフプガーに降りて手足と顔を洗っていた。フプガーの側の畑の手入れをしたいたおばさんも手を休めて一服。そこで以下の会話。
  「フプガーの側の道、謝花に行くのですか?」
  「嘉津宇に行けるよ」
  「フプガー綺麗に掃除してありますね?」
  「この前よ、中の掃除したさ。あの木(棒)も取り換えたさ」
  「トン・トト・トンは太鼓の音ですかね?」
  「うん、そうだよ。こっけいだね」
  「昔は、家々を回っていたのですか?」
  「今は回っていないがよ、新しい家を回っていたさ」
  「クランモーの場所わかりますか?」
  「うん、仲里・・・、ウイヌジュンサ・・・の側の道を降りていくさ。年に一回
   しか使わないから草ボーボーだはずさ」
  「イェー、どこかで見たさ。館長さんでしょう。ほんものが若いさ!」
  「ありがとさん。ヘヘヘヘ・・・。」
  「みなさんも、シニグ踊るのですか?練習もするのですか?」
  「踊るよ。ウタの練習するよ。中学生の女の子たちもね」
  「今度のシニグ、応援に来ますからね」

2019年11月24日(

 運天のことで頭が回転、。確認したいのがあって、運天へ。どの資料だったか定かでないが、光緒□年に「運天番所の前の馬場」で三月三日の祭祀を行った記録がある。その馬場跡の現在の様子(下の画像)。それと番所(役場)の跡地。土地台帳や間切村全図などで確認したくて(手元にその資料がないので、今日は現場踏査と番所跡地に住む方からの聞取り)。他の資料で下運天にガヂマルの大木があった記録、それと「ザボン木 耐湿用材(墓用材)」の説明文(昭和10年)。それらの確認がしたくて。

 運天村の運天原(ムラウチ)に明治34年の砂糖消費税改正之儀のころ番所のあった運天原(ムラウチ)に20軒近いの民家があったことがわかる。(正確に調べてみよう)
  
      ▲運天(今帰仁)番所があった跡地(水産実習場?)            ▲明治34年頃にはあった石岩当

 
      ▲番所があった頃馬場があった場所(現在は道路)

2019年11月23日(土)

 
「北山の歴史」の近世(間切時代)は運天番所が舞台となってくる。今帰仁グスクは祭祀の場となる。
1666年に本部半島の大半を占めていた今帰仁間切が今帰仁間切と伊野波(本部)間切に分割する。すると今帰仁間切の番所は運天へ、本部間切の番所は当初伊野波村、しばらくして渡久地村へ移動。

 北山監守(今帰仁按司)が今帰仁グスク(今帰仁村)から首里に引揚げる(1665年)と行政の要は間切役人が勤める運天番所(役場)となる(大正5年まで)。近世の今帰仁の歴史は運天から。(今帰仁の歴史研究をスタートさせた頃、西に北山の歴史、東に運天の歴史と提唱してきた)

 運天番所参照

 運天について以下の記事を紹介した。運天の出来事に追加することに。

2019年10月25日(金)メモ

 しばらく足踏み状態。さて、次に進まないと。何から手をつけようか。

 明治から昭和初期の新聞に目を通す。運天に水産学校の実習場があったこと。写真は卒業試験後の
杵写真。源為朝公上陸記念碑のこと、運天隧道(トンネル)開通式のことが記されている。大正7年の「水産実習場決定」とあり、番所(役場)が移転したは大正5年である。その跡地(五百坪)に水産実習場を決定したとみられる。

水産実習場決定(大正7年9月13日)
  水産学校実習地は愈々国頭今帰仁村下運天に決定し実習場五百坪
  買収し不日工事に着手すべしと

古宇利校沿革誌
  七月九日運天ニテ実習生監督ノ水産学校教諭池田文弥氏ハ日本全国無銭旅行家宮大 
  直次氏ヲ案内シテ来訪セイヨリ児童並ニ有志ヲ集メ同氏ノ講演ヲ聴シス事セリ
  其ノ内容ハ日本国民及本県ノ覚悟


 ▲水産学校卒業試験後(昭和15年3月)(N氏提供)

為朝上陸記念碑(大正12年3月15日)
  運天港頭の異彩
   為朝上陸記念碑
     近く序幕式挙行
  島倉検事正の唱導の下国頭教育部会の
    事業として基金を募集し
  運天山上に建碑中なりし舜天王
  父為朝公の上陸記念碑は此程漸く
  竣工し近く序幕式を挙げる運びと
  なってゐる。寄附金応募者の寄附
  思はしく〇らず為めに工費支出 
  に支障を来たし昨今〇業者は此れが
  ため手を焼いてゐるやうであるが
  寄附申込の士で未だ納めざる向は
  那覇在住は北山会員は幹事新里利
  〇久場川牛太郎両氏へ之又至急
  納付されたしと

  

古宇利校沿革誌

  ・十一月廿九日運天隧道開通式挙行ニツキ安慶名校長ハ下運天ヘ赴ク

 ・六月廿三日源為朝公上陸記念碑除幕式挙行スルニツキ児童三学年以上
  職員全部ニテ引率シ運天ノ式場ヘ赴ク
  式ノ主催者ハ国頭郡教育部会ニシテ同会長タル田村浩郡長ハ定刻トナルヤ
  招聘セル波上宮司ヲシテ鎮魂祭ヲ行ハシメ
  天底小学校女子児童(姓名不明)ノ手ニヨリ紀年碑ハ序幕ヲ行ハレタリ


       ▲修復前の「運天隧道」              ▲修復後の「運天トンネル」




2019年11月22日(金)

 北山の山北王怕尼芝(パニヂ)は羽地王ではないか?そんなことを考えたことがある。「羽地域の歴史とムラ」参照

 1.羽地域の概要
 2.
「はねぢ」(ハネヂ:羽地)の語義
 3.「はねち」「はねし」は金地や鐘地ではないか

    山北王ハニヂとオモロに謡われた羽地按司との関係は?
 4.羽地(親川)グスク
 5.羽地大川(大浦川)
 6.近世の羽地域の略年表
 7.羽地間切の按司地頭と親方地頭(近世の羽地間切)
 8.羽地域の村(ムラ)
 10.村移動と集落移動
 11.山原の村(ムラ)と集落
 12.羽地間切と主邑
 13.羽地域の実施調査から

2019年11月22日(金)

 山北王の時代


2019年11月21日(木)

今帰仁間切のノロドゥンチ


2019年11月20日(水)

 今帰仁村字兼次の字誌を進めているが、過去に調査メモウンサヤーの①仏像と②の印部石と金満殿内・ウタキの紹介でもしましょう。

①平成22422日(木)メモ
 今帰仁村兼次のウンサヤーまでいく。「ウンサ屋の仏像」という伝承で知られた家である。「ウンサヤーのおばあが、海に貝や魚を獲りに行ったら仏像が流れてきて、何度も寄ってきたので、とうとう家に持ってきて、松の木の下に置いて拝んでいた。そしたら作物がたくさんできウェーキ(富豪)になったという。そういう伝承である。

 その仏像が祭ってあると聞いて、早速訪ねてみた。ありました。りっぱな石積みの屋敷に祠をつくり仏像が祭ってある。仏像と海石(珊瑚礁)なども祭ってある。かつて屋敷に大きな松の木があり、切り倒すことになり、村中の人達が手伝って家に大木が倒れないように引っ張ったという。大木を切った人が寄付したのが祠の仏像だという。家主の諸喜田ナヘさんから、仏像の経緯を聞かせてもらった(あやかりましょうかね)

 
 ▲ウンサヤーの仏像    ▲仏像が祭ってある祠    ▲ウンサヤーの屋敷の見事な石積み


②平成22年4月21日(水)メモ

 今帰仁村兼次の古島原までゆく。古島は兼次の旧集落跡地である(今の古島原と糸川原)。そこに「金満殿内」(平成11年)に建立された祠がある。祠を建てるにあたって、何本かの石柱がでてきたという。そこは集落が移動する前の神ハサギがあった場所であろうとのこと。神アサギが集落とともに移動するのは、いくつも例があるのでその通りであろう。その西側に兼次のウタキ(糸川原)がある。『琉球国由来記』(1713年)にある「兼次之嶽御イベ」の「兼次之嶽」とみられる。郡巫管轄の祭祀のように記されているが、兼次村の祭祀は中城巫の管轄である。

 『琉球国由来記』(1713年)に「神アシアゲ」が出てくるが、その場所は「金満殿内」(平成11年)が建立されている場所とみられる。つまり、兼次の集落が古島原から現在の村屋敷原に移動している。兼次の古島からの集落移動はいつ頃なのか。古島原の呼称は、集落が移動後に付けられた原名と見られる。古島域(古島原から糸川原)は集落が移動する前は「加祢寸原」(兼次原)と見てよさそうである。と言うのは、村名と同様な原名は集落の中心に名づけられる場合が多い。例えば、今帰仁村は今帰仁原、親泊村は親泊原、村によってはアタイ原(当原・當江原)、村内原などである。

 それからすると兼次村の古島からの集落移動(北・南屋敷原への移動)は印部石(原石)が設置された元文検地(今帰仁間切は1742年)以後のことと見られる。因みに、兼次は同村から同村内への移動なので「集落移動」である。明治36年の「国頭郡今帰仁間切兼次村全図」(明治36年)では、古島原と糸川原に家が一軒も記されていない。ただし、山手には寄留の方々の家が数件見られる。

 現在の古島(糸川原)に神アサギ跡地に「金満殿内」が建立されていて、ウタキの方向に向けて香炉が置かれている。また、この祠は神アサギを意識して作られている。神アサギは集落と共に移動する傾向にあるが、集落移動はそう遠い場所ではないので、また同村内での移動なのでウタキは以前からの場所である。ウタキ内にはイビの祠が設けられている。イビへの道筋が今でもあり、祭祀が行われている。古島原から糸川原にかけて、兼次の人々の苗代であった。


▲「ソ 加祢寸原」の印部石(今の古島原にあったか) ▲「フ 加祢寸原」の印部石(今の古島原にあったか)


 ▲神ハサギ跡の「金満殿内」     ▲兼次御嶽のイビへの神道          ▲御嶽のイベ


2019年11月19日(火)

 原稿の校正整理に入る。まだ、当りばったり。頁はB5版原稿枚数 12月で500頁、資料編はまだ頁の把握は? あせっていますが、やっと楽しい仕事へ入ります。

・北山の歴史(51頁)
・北山興亡の時代(20頁)
・今帰仁グスクと山原の主なグスク(20頁)
・山原に見られるマク・マキヨ
・山北王の時代(16頁)
・山北王ハニジと羽地(13頁)
・「明実録」にみる山北
・北山系統の伝承を持つ村(ムラ)
・琉球国の統治と祭祀
・山北滅亡と千代金丸(16頁)
・オモロに謡われた「みやきせん」(25頁)
・山原のウタキと村と集落(26頁)
・今帰仁按司と北山
・北山と与論(16頁)
・北山と沖永良部(18頁)
・今帰仁にある歴史的な墓(百按司墓・赤墓・津屋口墓・大北墓など)(15頁)
・今帰仁按司と今帰仁阿応理屋恵(18頁)
・写真にみる今帰仁(50頁)
・山原船の交易(30頁)
・今帰仁にのこる古琉球の辞令書(20頁)

などなど

2019年11月18日(月)

 さて、切替えて次へ。締め切り過ぎのが二本あり。忘れず、頑張ってみるか。


2019年11月16日(土)

 山原の祭祀をイノシシ狩を手掛かりに海神祭やシニグなどを祭祀の流れで見てみた(詳細は報告で)。

 今帰仁グスクで毎年行われる祭祀がある。大折目や海神祭と呼ばれ、作毛(豊作)の祈りである。巫(ノロ)をはじめ二十名余が、城内のヨウスイ(タモト木があるので城内のアサギ)で両惣地頭から出された花(お米)や五水(お神酒)を備えて祈願して、アワシ川(アーシジャ)で浴び(浄め)、アザナ(城内)を七度まわり、庭(アサギ庭)でお神酒でウガンをし、繩を張り船漕ぎの真似をする。城門を出て、惣様(両惣地頭か)は海に乗り、弓箭をもって、ナガレ庭(シバンティナの浜:シバの港意か)に行き潮撫でをし、親川(ウェーガー)に行き、水撫でをする。さらに城内のヨウスイ(城内神アサギ)に行き、祭祀をする。

 この祭祀の流れは近年も行われているが、親泊・志慶真・今帰仁の三つの集落がグスク周辺にあった頃の流れを『琉球国由来記』(1713年)には記していると見られる。今では集落が麓に降りた所からスタートする流れとなっているが、古い時代の祭祀の流れ痕跡を追うことができる。

 場所場所での所作をみると、豊年・豊作、航海安全、豊漁、弓箭で山獣狩などが見られる。そしてシバンティナの浜へゆき、「ナガシ」をする(潮なで)。さらに親川にゆき水浴び(浄め)、城内の神アサギで祭祀をする。その祭祀の流れがシニグ(凌ぐ)と呼ばれる所以ではないか。その視点で山原のシニグや海神祭やウプユミを調査してみた。イノシシ狩の所作は豊漁・豊作、同様豊獣ということができそう。(詳細は報告で)

『琉球国由来記』(1713]今帰仁グスクでの大折目(海神祭)

毎年七月、大折目トテ、海神祭、且作毛之為ニ、巫・大根神・居神、都合弐拾人余、城内、ヨウオスイト云所ニ、タモトヲ居ヘ、花・五水(両惣地頭ヨリ出ル)祭祀シテ、アワシ川ノ水トリ、巫・大根神、浴テ、七度アザナ廻リイタシ、於庭酒祭ル也。(自按司出ル)ソレヨリ繩ヲ引張る、舡漕真似ヲ仕リ、城門外ヨリ、惣様馬ニ乗、弓箭ヲ持ナカレ庭ト云所ニ参リ、塩撫親川ニイタリテ水撫デ、又城内、ヨウオスイニテ、祭祀也


【現在の海神祭(ウイミ)の流れ図】(仲原作図)(グスク内からシバンテナ浜、プイヌモーまで)

 
▲今帰仁グスクでの海神祭(ウイミ)の時、シバンティナの浜での「流し」(平成3、20年)

【大宜味間切】
  (大宜味間切はイノシシの肉は王府への貢ぎ物であった)

歳暮上物例
     公義へ        間切ヨリ
  一 干猪肉拾八斤   一 蒕壱斗八升

   聞得大君殿へ         間切ツヽ
  一 干猪肉壱斤    一 蒕四斤四合五勺

   佐敷殿へ           間切ヨリ
  一 干猪肉壱斤     一 蒕四斤四合五勺
•両惣地頭へ          間切より
   一 蒕壱斗弐升ツヽ    一 代々九年母弐拾粒ツヽ
   一 焼酎八合ツヽ     一 猪し拾八斤ツヽ
   一 銭弐百五拾文ツヽ

  右同嫡子嫡孫元服次第
   一 蒕弐升ツヽ  一 肴五斤ツヽ
• 脇地頭へ               村ヨリ
   一 蒕五升ツヽ         一 焼酎弐合ツヽ
   一 代々九年母七拾粒ツヽ  一 肴七斤ツヽ
•下知役検者並ニ首里宿へ   間切ヨリ
   一 蒕弐升ツヽ       一 肴五斤ツヽ
•下知役検者詰所へ
   一 九年母五拾粒ツヽ
•筆者在番下知役筆者並に那覇宿へ
  一 蒕壱升ツヽ  一 肴弐斤ツヽ

【国頭間切】

国頭間切公事帳】(断片)那覇市史琉球資料(上)
  (国頭間切はイノシシの肉は王府への貢ぎ物であった)

一 歳暮御(ささげ)猪之儀狩出来次第於番所ニ干(こしらえ)格護仕置、はしかミ之儀前日
  より相調申候事

一 壱匹長三勺 但四枝手籠弐ツ入薑手

一 (はじかみ)弐手寵 但入実壱手寵ニ壱斗八升□匁め四拾斤

一 歳暮御捧物之内薑取納座ヨリ(みつぎ)次第聞大君御嶽殿江持参仕、取納奉行ニ而
  大規御取次差上御嶽
  規式相済候得者、さはくり併持夫迄御酒被下候事


2019年11月14日(木)

 「やんばる学研究会」での報告準備にやっとかかれる。これからパワーポイントで準備。楽しみましょう。


山原の祭祀とイノシシ

はじめに
1、北山の領域
2、神アサギの分布
3、シニグの分布
4、祭祀の「流し」―流し―が意味するもの
5、祭祀に見られる凌ぐ(シニグ)「流し」
6、祭祀での猪狩―豊漁・豊作・豊猪―
   「流し」はアブシ払いの害虫を流す所作と類似


はじめに

 「北山文化圏」という大きな歴史的な大きなテーマを掲げている。その主張のベースになったのは「北山の歴史」と神アサギとシニグの分布である。シニグや海神祭などの祭祀にイノシシが登場する。害獣と目されることがあるが、海神祭やウプユミなどの祭祀の所作を通してみるとシニグ(凌ぐ・浄め)(流し)の所作に気づかされる。イノシシ狩が豊漁・豊作と同様豊猪(豊獣)である。もちろん害獣の一面があるが、そこはアブシバレーの害虫を海に流す所作と類似している。そのようなことでも報告することに。(詳細は別に報告することに)

1、北山の領域
    (図入れ)

2、神アサギの分布(188字 ○118 ×54)(由来記の村数□ 神アサギ□)
       現在の字(アザ)と神アサギ(一覧表作成中) 

【琉球国由来記】(1713年】―【祝女】―【現在】

   神アサギのある(〇)、無しの一覧作成中、明治以前にムラが分立、移動しても
   (ノロ管轄村)が維持されれ、祭祀を行う必要があった。そこから祭祀は王府が
   指示した、認めた「神遊び」(今の公休日)であることがわかる。祭祀は公務である
   と位置づける(神頼みはせず)

3、シニグの分布

   
 (分布図入れ)

4、祭祀の「流し」―流し―が意味するもの
  「北山文化圏」という大きな歴史的な大きなテーマがある。その主張のベースになったのが神アサギとシニグの分布である。祭祀にイノシシが登場。害獣と目されることがあるが、海神祭やウプユミなどの祭祀の所作を通してみるとシニグ(凌ぐ・浄め)(流し)の所作に気づかされる。イノシシ狩が豊漁・豊作と同様豊猪である。もちろん害獣の一面があるが、そこはアブシバレーの害虫を海に流す所作と類似している。そのようなことでも報告することに。(詳細は別に報告することに)

5、祭祀に見られる凌ぐ(シニグ)流し
  祭祀にみる「流れ」場面、画像で紹介

6、祭祀での猪狩は豊漁・豊作・豊獣と同様

おわりに


2019年11月13日(水)

 今帰仁村字兼次の字誌。今日は「シマンチュの語り」編。32頁の原稿校正。大方の原稿の打ち込みを済ませ、原稿校正は持ち帰りの宿題。どうなることやら。心配。2月まで編集会議は休息。そうは言っても私の仕事は続く。

 

2019年11月12日(火)

 2005年に今帰仁村で確認した印部石(原石)を整理した。その後「ケ しゆや原」と「□ しけま原」二基の
印部石を確認した。これまでの調査(2009年)に追加してまとめることに。これで25基か。


                                ▲湧川の前田原にあった印部石


2019年11月9日(土)

 首里城火災で落ちつかず。山原の集落やグスクやウタキなどについて、ドイツ・オーストリアで何点か学ぶことがあった。そのことを思い出している。(ドイツ・オーストリアを行く

 (まだ、あれこれ多忙中)


2019年11月7日(木)

 2016年1月30日国頭村与那で「与那のムラ」をテーマに講演をしたことがある。公民館が新しく建設され、その活用の一例だったように記憶。講演用にまとめたものである。その前に与那の海神祭や与那ノロの勾玉や玉ガーラ、神アサギやウタキなどの調査などの調査をしている。「祭祀とイノシシ」として報告予定。沖縄本島北部(やんばる)から与論島・沖永良部島に遺るシニグの分布。沖縄本島の神アサギ。『琉球国由来記』(1713年)に記録されて300年余経った今に継承されている。

 「北山文化圏」という大きな歴史的な大きなテーマがある。その主張のベースになったのが神アサギとシニグの分布である。祭祀にイノシシが登場。害獣と目されることがあるが、海神祭やウプユミなどの祭祀の所作を通してみるとシニグ(凌ぐ・浄め)(流し)の所作に気づかされる。イノシシ狩が豊漁・豊作と同様豊猪である。もちろん害獣の一面があるが、そこはアブシバレーの害虫を海に流す所作と類似している。そのようなことでも報告することに。(詳細は別に報告することに)

「国頭村与那のムラ」講演のレジメより(2016.1.30)

 猪を狩る場面、猪を摸して海へ流す。猪を捕獲する(豊獣)、摸した猪(害獣)を「流し」てしまう。(シシ肉は食し、害を与える部分は祓う)豊漁・豊作・豊獣(猪)を祈願すると同時に不浄・不利益をもたらすものは払う・シニグ(祓う・凌ぐ)、そこには二面性
があることに気づかされる場面である。(報告の骨子はできたか!)




  ▲与那ノロの遺品である(首里王府から叙任で給わる)(鳳凰の簪)

2019年11月4日(

 頭休めで宿道(すくみち)へ、寡黙庵の鉢の追肥、草刈りと正月休みには竹垣の修復計画(五年たったのかな?)。手入れをしないのに花が咲いている。涼しくなったせいか。宿道を通る森はザフンの確認。それらの大木がザフンかどうか。頭の休息にはなったが節々が痛い。今日もやすむか!

 
          ▲今帰仁村諸志の森を通る宿道(スクミチ)

  
           ▲「寡黙庵」に花を咲かしている花木

 

2019年11月3日(

 首里城火災の様子はまだ夢の中。本殿の柱が崩れ落ちる場面、南殿の様子が見えない、北殿に火が回っている。その場面までテレビで見ながら「まさか、まさか」と呟いていた。出勤しなければならなかったので、職場へ。その後の様子を知ったのは夕方。火災が鎮火されることも知らない間に取材、問い合わせなど。

 ここ二、三日「首里城火災」についての原稿書き。首里城建設には全く関わっていないので、触れることはできない。それで山原にいて、これまで首里城(首里王府)から出された「首里之印」のある家譜や辞令書、あるいは城内にあった役所、ノロの引継ぎ、島々にある遠見所から首里王府への伝達、首里王府から間切番所や島々への伝達、間切公事帳、首里城で君臨した代々の王墓(玉陵・伊是名王陵)などを通して首里城と同時に「沖縄の歴史」を素描してきた。つまり一地方から首里城をみてきたように思う。

 下の「家譜」に「首里之印」が朱肉で押印されている。首里士族のみでなく、那覇・泊・久米、久米島・宮古・八重山の家譜に「首里之印」がある。それと首里王府からの辞令書は、八重山・宮古・奄美・喜界島まで発給されている。それは首里王府が統治していた琉球国の支配地域を示すものである。それらを視野に入れて「沖縄の歴史」を眺めていると、首里王府(首里城)を頂点とした歴史象であり、麓に八重山・宮古、奄美・喜界島まで、広がりがあったことに気づかされる。以下の辞令書は「辞令書調査報告書」(沖縄県教育委員会)より。
 
 首里城が果たしている役割に美の世界(琉球文化・歴史)が要にあるが、それを支えた底辺まで知らしめる役割も果たしていることに気づかされる。

  (
ボツボツまとめないと)
     
▲「首里之印」のある家譜(那覇市史家踏資料より)   ▲「首里之印」ある名瀬間切西の里主職辞令書

 
  
▲八重山間切目差職叙任辞令書         ▲大宮古間切の多良間首里大屋子辞令

2019年11月2日(土)

 今帰仁阿応理恵按司(アオリヤエ)の引継ぎをみると、国王(首里天加那志)へ拝謁ができ城内で儀式が行われていたことがわかる。他の地域もそうであろうが、首里王府と北山(今帰仁)との関わりが密接であったことがわかる。手の届かない首里城であったが、歴史を辿ることで首里城が果たした役割が身近なものであり、文化遺産としての価値あるものだと実感させられている。

康煕四〇年(1701)に「あふりやゑあんじ」(向氏与那嶺按司朝隣室)の引継ぎの行事が行われている。国王(首里天加那志)の拝謁(面会)が許され、首里城へ参上し国王へ就任の挨拶をし国王から御酒を賜り、「御朱印」(辞令書)は首里殿内で首里大あむしられから授かっている。その儀式は四日間に及び、そこでいろいろな品々が出され、また提供を受けている。その中に御玉貫一對・玉珈玻羅一連・錫一對・御茶之子・籠飯・御服・金劔などがある。今帰仁阿応理屋恵の遺品のいくつかは残っている。残念ながら阿応理屋恵の「辞令書」は残っていない。『女官御双紙』(中巻)に、以下のようにある。

 一、今帰仁あふりやい代合の時、言上は御自分より御済めしょわちへ、御拝日撰は三日前に
  今帰仁あふりやいより御様子有之候得者、首里大あむしられより大勢頭部御取次にて、
  みおみのけ申、御拝の日は首里大あむしられ為御案内、赤田御門よりよしろて、按司下
  庫理
に控居、大勢頭部御取次にてみおみのけ申、今帰仁ふりやいよりみはな一ツ御玉貫
  一対、作事あむしられ御取次にておしあげ申、按司御座敷御呼めしょわれば、よしろて
  美待拝申、天かなし美御前おすゑんみきょちゃにおがまれめしょわれば、御持参の御玉貫、
  真壁按司かなしよりおしあげしょわる。相飾済、みはい御仮乞、大勢頭御取次にてみおみの
  けて帰るなり。一、同時御印判はせど親雲上より、みはいの日早朝、首里殿内へ持来らる。
  首里大あむしられより今帰仁あふりやいへ上申。


2019年11月1日(金)

 さて、11月か。もう後がない。

 下の画象は戦前の首里城の北殿に沖縄郷土博物館(昭和14年開館)が開設され、展示会も開催されている。そのときに展覧会を開催したとき、撮影された遺品と見られる。(『沖縄国頭郡志』、東恩納寛惇『南島風土記』など所収)。北殿の延焼が耳にはいると以下の新聞記事を思い出していた。(博舘の史料収集に全力を傾けたのが今帰仁出身の島袋源一郎、当時の館長)。

【新聞記事】より
  濱田博士絶讃
    本県最高の宝玉
      明日より郷土博物館に陳列

 首里城内沖縄郷土博物館では来る二十日挙行される本県唯一の秋祭り沖縄神社祭を好機に明十五日より十一月十四日(昭和14年か)まで一ヶ月の予定で今帰仁村今泊向姓糸洲氏阿応理屋恵按司(□涼傘をさす神職)所蔵の勾玉一聯(大形一、小形二十一、水晶玉一聯百十六個)の他左記数点を特別陳列することになっている。
 一、玉の□草履一組、冠玉、玉の旨当等一式
 二、今帰仁村今泊。今帰仁のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金の簪一個。
 三、名護屋部のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金のかみさし一個
 四、永良部阿応理屋恵按司佩用勾玉一連(勾玉大形二個、水晶白□個)
 五、地方のろくもい勾玉一連、今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵、勾玉は今から四百五十年以前尚真王時代のもので京都帝大濱田常□博士が同種勾玉として全国に類例なく本県最高の宝玉であると絶讃した逸品である。