沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵:(管理人:仲原)
               今帰仁村歴史文化センター(今帰仁村史編集)0980-56-5767)

                        
 もくじ:トップページ      
 問合せ(メール)         
                   
2019年10月

 2019年「ムラ・シマ講座」①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮へ

2017年4月 2017年5月 ・2017年6月  ・2017年7月2017年8月  
2017年9月  ・2017年10月 ・2017年11月 ・2017年12月  2018年1月 2018年2月へ
・2018年3月 2018年4月 ・2018年5月 2018年6月  2018年7月 2018年8月 2018年9月
2018年10月  ・2018年11月 ・2018年12月 ・2019年1月 2019年2月 2019年3月
  2019年4月
・2019年5月 ・2019年6月  ・2019年7月 2019年8月 2019年9月(先月)

仲宗根政善先生寄贈資料展(2013年) 資料目録1 資料目録2

今帰仁村謝名の操獅子(アヤーチ)(今年度は9月14日:豊年祭開催)
古宇利島の年中祭祀(平成21年度調査報告)
伊江島の大折目(シニグ)
http--yannaki.jp-jireisyoada.html(国頭村安田のシニグ)
http--yannaki.jp-20167gatu.html(沖永良部島のシニグ)
yannaki.jp/siniguunngami.html (シニグ/海神祭)
yannaki.jp/siniguunngami.html(湧川のワラビミチ)
http--yannaki.jp-yanbaruminato.html(国頭村与那の海神祭)
http--yannaki.jp-hiji1.html(国頭村比地)
http--yannaki.jp-gusiken.html(本部町具志堅のシニーグ

今帰仁村呉我山開墾地/本部村伊豆味唐又開墾地/本部村並里タナンガ開墾地(大正11年)
京都・奈良・大阪・伊大野城賀(ガラス玉の鋳型など)
中城ノロ嘆願書(明治16年)
ノロ制度の終焉(企画展示)
波照間をゆく(過去メモ) 
大宜味間切の杣山  
今帰仁間切番所と運天
恩納番所と恩納ノロ
沖永良部島の歴史とシニグ


2019年10月31日(木)

 首里城火災中!(午前6時)
 残念無念!
 言葉がありませんね。

一日中、「首里城火災」の件で頭の中は駆け巡る。取材、原稿執筆依頼。

 1609年3月27日の今帰仁城の焼き討ちがありました。その出来事が北山の歴史が大きく左右されました。遺されたのは城壁の石垣、その後継承されつづけられた祭祀、目に見えない歴史・文化・・・ 




2019年10月29日(火)

 沖縄本島の東海岸の踏査が手薄である。かつて「山原船」を追って訪れている。かつて首里・那覇との貿易を担っていた時代があった。今ではどうだろうか。

 2005年4月(東海岸の一部・座間味島など)


 資料をめくっていると、戦後すぐの測量実施ノートを確認(画像掲載予定)。その中に斜面の面積の積算方法がある。それとは別に以下の詳細な要項での調査である。それでも机上では理路整然とまとめているようであるが、現実と錯誤で利害関係が生じてくる。

 「備忘禄」(1947年:仲里氏)
  土地所有委員出席 128日 129
  食糧調製会 125日役場、26日字、27日事務
  128
    図面作製準備品  間縄 60k、30k、15
    ポール 2k 1.5k 1
    図紙台 2×4
    縮尺 1200分の1 51
    巻尺
    鉢ニ三本
    簡易測量
      1.前進法
      2.光線法
      3.オブセット法
    平坦部 内則法 外則法
    製図(図省略)
       凡例 郡界 町村界 字界 小字界 図根点 道路 河川 溝渠
    求積 三角形 梯形 普通面積計算 
  調査員
   一、各大字ハ小字及各地図ノ調査ヲナシ置イテ、各小字ノ境界ヲ明ニ入スル
   一、地主ヲシテ立札ヲセシメル事
   一、境界争ヒノ分ヲ明瞭ナラシメル事

     写
  所有者住所氏名
 一、指名ハ近親者ヨリトシ所有明記シ代理人続柄氏名 印
 一、未青年ハ名記セヌコト
     父母ニ記入スル事無キ場合ハ後見人ト名記スル事
 一、共有地(字有地トシテ)名記村長ニスル事

 摘要ノ件
 一、現況ヲ書ク事
   軍要地、公用地、道路
     名称ト坪数ヲ書ク事
   保証人
 一、交換ニハ保証人出来ズ
 一、或ル土地ニ対シ立証不可能ノ場合ハ字ノ委員会カラ二人ニスル事
   図 面
 一、千二百分ノ一 五厘一間ノ事
 一、各地目毎ニ等級別
   地積筆数
 一、字委員 委員長ヲ定メル事
 一、地目ガ同人ノ土地多数連続シタル時申請ハ一綴ニシテ申請スル事
     但シ図面ハ一括ニシヨロシイ 
  田畑原野
 一、同一等級ナラバ一筆シテヨロシイ
 一、字境界小字境界ハ変更セヌ事
 一、地番ハ字ヲ単位ニシ地目毎ニ附ス事(通番号)
 一、部落カラスル事
 一、地番ガ漏レタ場合ハ官有地取上ケナルカラ注意スル事
   有祖地、無祖地
 一、有祖地
    田畑、宅地、塩田、池沼、共同井戸、山林、原野、雑種地
  無祖地(公用地、墓地、公共用地、道路)
 一、戦地通ズル新道路ハ何坪、地目、何坪トシ道坪ハ摘要ニ入レル事
 一、保安林ハ別ニ申請スル事
 一、拝所ハ(字有ハ字名ニ入)右管理者村長某
 一、戦前の地目デ変更手続未済ノモノ其地目ハ差ナシ
 一、地目ハ前通リ申請スル事
   地 積
 一、坪ハ六尺四方ノ事
 一、坪未満ハ記入セヌ事 但シ、端ノ事
 一、坪デ単位スルコト
  等 級
 一、等級ハ各人申請セズ委員会決定申請ノ事
 一、等級ハ地価ニシ一筆毎附スル事
  程 度
 一、田畑五等迄デトス 其他二等迄デトス
 一、等級ハ字単位ニスル事


2019年10月28日(月)

 沖永良部島の歴史とシニグをテーマで島を踏査したことがある。

2016年7月3日(日)過去メモより
 
 ムラシマの形をみていく場合、そこに住む人たちが地人、寄留の人達の比率、そのムラの祭祀の中心となるのが地元か、あるいは他からの人々かでムラの個性が見えてくる。『沖縄旧慣地方制度』に「住民」の項目がある。首里、那覇、久米村、泊村、島尻、中頭、国頭、離島(宮古島、八重山島)と詳細な取り決めがある。そのことが、ムラの形や特徴に影響を及ぼしている。

   ・今帰仁間切仲尾次村への転籍願(画像略)
   ・本部間切伊豆味ムラへの転籍願(画像略)
   ・伊江島への転籍願(画像略)

【住 民】

 首里
 住民に二類あり。士及町百姓とす。士に四種あり。王子、按司家(総地頭の領地を有す)、親方家(総地頭または脇地頭あり。その総地頭なるものは特に親方家に非ざれば任せず、品位はは終身に止まるて以て、其の子孫に至り勤功ばじゅ非は親方の品位は帯うなしと雖も知行領地を供給を併給する間は之を親方家と称す)平士これなり。王子、按司、親方は地方吏員を不勤、各村中の頭衆と称し、学事上及び所俗に(冠婚葬祭の礼式喧嘩口論男女の節義道路清掃等を云う)、救助(悪疫流行飢饉災難等の際補助するの類の如し)等に関する事件を監督し、其の他内法執行又は集会協議に関する事採決し、協議調はざるときは多数を以て決す。
 平士は村学校中取、筆者、村地頭を勤むることを得、而して平士以上は他所(首里内は此限にあらず)へ転籍するを許さず、町百姓は筑登之座敷位以上を有する者頭相勤め、中取、筆者の指揮を受け前顕集会等の節町百姓中監督し、而して町百姓は縦令勢頭坐敷、筑登之坐敷、位を有する者と雖とも坐無位の平士に対するときは随従するの義務あり。


 那 覇
 住民に平士、町百姓の二種あり。平士は主取以下吏員となることを得。且物城、総横目、渡清協筆者親見世大筆者等の役職を勤めたる者は年齢六十以上の老人は頭衆と称し、権利義務都て首里頭衆に仝じ。亦平士転籍並町百姓権利義務も首里に仝じ。


 久米村
 住民総て士にして総役以下吏員を勤むることを得而して総役、長吏を勤めたる者その他中儀大夫以上の位を有する者は権利義務、都て首里頭衆と仝じ、転籍も又仝じ。


 泊 村
 住民は平士、町百姓とも首里に仝じ。


 島尻、中頭、国頭
 島尻、中頭、国頭、各間切住民に地人居住人の二種あり。地人(本村百姓を云う)は村方に於いて百姓地の分配を受け、之を耕作し貢租負担の義務あり。且つ他村他間切等へ転住を許さず居住人(首里、那覇、泊村、久米村人寄留するを云う)は百姓地を叶掛り(小作を云う)耕転するに付貢租負担の義務なし。然れども民費は人頭割の分は負担す。又間切、村吏員は地人に限り居住人は任用せらるるの権なし。


 離 島


 宮古島・八重山島


2019年10月26日(土)

 土・日は庭木の剪定や芝刈り。孫二人の運動会。引っ越して最初の運動会なので勝手がわからず。


2019年10月25日(金)

 しばらく足踏み状態。さて、次に進まないと。何から手をつけようか。

 明治から昭和初期の新聞に目を通す。運天に水産学校の実習場があったこと。写真は卒業試験後の
杵写真。源為朝公上陸記念碑のこと、運天隧道(トンネル)開通式のことが記されている。 

水産実習場決定(大正7年9月13日)
  水産学校実習地は愈々国頭今帰仁村下運天に決定し実習場五百坪
  買収し不日工事に着手すべしと

古宇利校沿革誌
  七月九日運天ニテ実習生監督ノ水産学校教諭池田文弥氏ハ日本全国無銭旅行家宮大 
  直次氏ヲ案内シテ来訪セイヨリ児童並ニ有志ヲ集メ同氏ノ講演ヲ聴シス事セリ
  其ノ内容ハ日本国民及本県ノ覚悟


 ▲水産学校卒業試験後(昭和15年3月)(N氏提供)

為朝上陸記念碑(大正12年3月15日)
  運天港頭の異彩
   為朝上陸記念碑
     近く序幕式挙行
  島倉検事正の唱導の下国頭教育部会の
    事業として基金を募集し
  運天山上に建碑中なりし舜天王
  父為朝公の上陸記念碑は此程漸く
  竣工し近く序幕式を挙げる運びと
  なってゐる。寄附金応募者の寄附
  思はしく〇らず為めに工費支出 
  に支障を来たし昨今〇業者は此れが
  ため手を焼いてゐるやうであるが
  寄附申込の士で未だ納めざる向は
  那覇在住は北山会員は幹事新里利
  〇久場川牛太郎両氏へ之又至急
  納付されたしと

  

古宇利校沿革誌

  ・十一月廿九日運天隧道開通式挙行ニツキ安慶名校長ハ下運天ヘ赴ク

 ・六月廿三日源為朝公上陸記念碑除幕式挙行スルニツキ児童三学年以上
  職員全部ニテ引率シ運天ノ式場ヘ赴ク
  式ノ主催者ハ国頭郡教育部会ニシテ同会長タル田村浩郡長ハ定刻トナルヤ
  招聘セル波上宮司ヲシテ鎮魂祭ヲ行ハシメ
  天底小学校女子児童(姓名不明)ノ手ニヨリ紀年碑ハ序幕ヲ行ハレタリ


       ▲修復前の「運天隧道」              ▲修復後の「運天トンネル」



●那覇(泊港か)と大井川河口(炬港)とに定期便(大正から昭和の初期)が運航していたことがわかる。

 


2019年10月22日(火)

大宜間切の村のムラ・シマの変遷」として「やんばる学研究会」で報告した。ちょうど『大宜味村史 民俗編』の執筆・編集で書き進めていた最中であった。「おわり」の部分は口頭で報告したままであったので原稿化することに。

おわりに(追加)

 大宜味村には田嘉里・謝名城・喜如嘉・鐃波・大兼久・大宜味・根路銘・上原・塩屋・押川・屋古・田港・大保・江洲・白浜・宮城・津波の17の行政区(字)がある。大宜味村には字(村落・村(ムラ)以前のマク・マキヨ呼称(大宜味村のマク図参照)が残っている。それは近世の以前の村(ムラ)の形態を今に伝えている。現在の大宜味村(ソン)は1673年より古くは国頭間切であった。田港間切になった時、大半は国頭間切から、津波村と平南村は羽地間切から統合される。分割当初は田港間切、1690年頃大宜味村を創設し、そこに番所を置き、田港間切は大宜味間切と改称される。

 1673年の間切分割当初、北側の浜・屋嘉比・親田・見里の村々(屋嘉比ノロ管轄村)は国頭間切に入っていた。ところが屋嘉比ノロの拝所が城(ウイグスク)内にあったことにより境界線(方切)の変更がなさ、1719年に大宜味間切側へ組み入れた。そのころ、国頭間切番所が浜村に置かれていたため浜村は、そのまま国頭間切となる。国頭間切番所は浜村から奥間村へ移ったのは1732大宜味間切の番所が大宜味村に移ったころに、東海岸の川田村と平良村が大宜味間切から久志間切の管轄となる。「方切」という間切境界の変更が幾度かあり、それがムラがどの間切も含まれるかで、間切やムラの歴史の節目として扱われる。

 大正10年の『沖縄県琉球国国頭郡大宜味村内註記調書』の大宜味村の大字、大字ニ属スル部落名、戸数、人口から、大正以後に独立した字の様子が読み取れる。田嘉里は屋嘉比・屋嘉比・(見里)の合併、謝名城は一名代・根謝銘・城の合併、大兼久は大宜味から分区、上原は根謝銘から分区、押川は塩屋、大保は田港、屋古も田港から、宮城は津波から分区している。分区した字が山手や海岸沿いに見られ、寄留人で土地制度(地割)との関係で土地の配分がなされなかったため村内から離れて山手や海岸沿いに集落を形成したことによる。このように間切、村の変遷を辿ることで間切や村(アザ)の生活習慣や祭祀や言葉の違いなど、字の特徴が見える。


2019年10月21日(月)

 2010年に恩納村の番所や恩納ノロなどについて触れている。恩納番所と恩納ノロ 恩納村の恩納ノロの祭祀で「ころばした臼を猪にみたてて弓で射る」 所作がみられる。その所作は、豊漁、五穀豊穣などと同様豊猪である。

2019年10月20日(

 1998年(平成10)に「国頭村比地の海神祭」の調査をしたことがる。そこで気づかされたことは、比地の海神祭はシニグが一つになっていること。『琉球国由来記』(1713年)の祭祀は、「神遊び」が多いので整理されたのではないか。それは安田や奥や辺戸では海神祭とシニグが隔年に行われていること。一つにできず隔年に行っている。海神祭やウプユミの祭祀にシニグの祭祀が含まれている。例えば、湧川はウプユミとワラビミチは別々の日に行われていたが、戦後一つにしている。

 比地の小玉杜(ウタキ内)に神アサギがあり、海神祭のとき山の物、川の物、農作物(餅や米やお神酒など)が供えられ、猪狩りの所作がある。比地でのウガンが済むと、奥間のノロドゥンチへ。そこから鏡地の浜へ。比地から鏡地の海岸へパパヤに閉じ込められたネズミを持ち運び海へ流す所作がある。(アブシバレーの虫流しと類似) 比地のウタキから奥間のノロドゥンチを通り、鏡地の浜までの所作が「流し」とみている。安田での三つの山から下りて、合流し、神アサギから集落内を通り浜での「流し」。そこまでがシニグの名称の本質をついていると見ている。「流し」部分の所作は、不浄のものを海に流す所作。

 山の物や海の物、農作物、それと猪は豊作・豊漁・豊狩猪を願うこと、もちろんムラの繁栄・健康祈願があると見ている。


             ▲小玉杜(ウタキ)での供え物

 
    ▲アサギマーで猪を射る      ▲鏡地の浜で不浄の物やネズミを流す      

 海神祭やシニグで見られる「流し」は祭祀の流れをみると、「神送り」というよりは、ウタキ(山手)から集落に入り、家々などの病や不浄などを「流し」しまう所作とみている。


▲今帰仁グスクウイミの時の「流し」 ▲海神祭のグスクウイミの「流し」(シバンティヌ浜)

2019年10月19日(土)

 過去にシニグと神アサギの分布、あるいは北山の歴史から、北山のその痕跡として沖縄本島北部から与論・沖永良部島・徳之島に及ぶ文化圏をなしていたとの仮説をたてたことがある。その時に、神アサギとシニグについて、そして山原でのシニグの祭祀でヤマシシ(猪)を狩る所作がでていくる。
 「シニグと海神祭1」 「シニグと海神祭2

 
 ▲猪狩をする弓と猪の模造するバーキ      ▲猪狩りをする子供達(国頭村安田)

   
▲名護市嘉陽で飼われていた猪(イノブタ(?)(現在はいません)(2007.11撮影)▲大宜味村押川(2013)

2019年10月17日(木)

 数個のテーマを抱え整理中である。
 ①沖永良部島から見た琉球(北山)
 ②与論島から見た琉球(北山)
 ③北山から見た与論・沖之永部島
 ④北山文化圏(神アサギ・シニグ・言語など)(それらの分布を押さえてみる)
 ⑤山原の祭祀と猪(ヤマシシ)
   シニグ・海神祭の「流し」の場面にシニグ(凌ぐ・浄める)の本質があるのでは?
    (猪狩りの場面は祭祀全体の一所作ととらえてみる)
    『琉球国由来記』(1713年)編成の狙いは「神遊び」の省略化。

 さて、どうまとまるか。


2019年10月16日(水)

 
「今帰仁村字兼次」の編集会議。今回は戦後の区長、議員などの確認。平成元年からの人口・世帯のデータの整理。先日掲げた資料目録から項目をあげ、税金の徴収、兼次の水の大変さ、移民調査、旧正のトサツするブタの報告、出生・死亡などの報告。今では考えられないほどの集まり、朝の常会、取り決めなど。「時代が変わりましたな」「そのような時代を語れるのは我々が、最後か」と嘆きのつぶやきが聞こえてくる。

 

  
   ▲諸税金徴収簿(班別)(1960年度)   ▲徴収状況(ほぼ100%)


2019年10月13日(

 「北山の歴史」の柱の一本となる「間切番所と運天」の原稿をまとめてみる。


2004.4.3(土)メモ

 各地のムラへの寄留人の入り具合(比率)は、そのムラの言葉や生活習慣、さらにはムラの特徴や個性にもつながってくる(それはムラの個性を変貌させたことでもある)。 「久志間切内法」と「久志間切各村内法」(明治25年)に寄留人についての条文があるので、七カ条掲げておく。

  (第134条)各村ノ人民並寄留人共ニ至ル迄番所ノ論示ヲ不汲受我儘ナル者ハ五拾貫文以上
       百貫文以下科銭申付候事

  (第151条)間切各村山野余地又ハ本地畠ヨリ寄留人共 叶掛仕候時左ノ通リ相定置候事               但し
         一 上地壱坪ニ弐合宛
         一 中地壱坪ニ壱合五勺宛
         一 下地壱坪ニ壱合宛
  (第152条)従前ヨリ仕来リ頭加勢又ハ月銭田畑叶米中馬口米等未納イ
        タシ候寄留人共ニ高家財畜類ヨリ高取揚候上所払ノ事
  (第153条)寄留人月銭ノ義上男十五貫文中男拾弐貫文下男拾貫文宛村
        方ヘ納サセ候事但上女五貫文中女参貫文下女弐貫文右同断
  (第155条)寄留人ヘ叶掛イタシ限リ村限リ村限リ村限リ村限リ村限リ
        村限リ何年村候田畑余地山野畑方ヘ相渡候段年限立ヲ以テ
        叶掛イタシ自然年限通リ村方ヘ差帰シ方口能仕候方ハ諸作
       毛ノ儘現地取揚候事
  (第156条)寄留人共村役場ノ指揮ヲ不汲受我ガ儘ナル者ハ仮令村方ヘ
       月銭叶米皆納イタシ居候トモ地方引揚所払ノ事
 (第157条)村々人民並寄留人共山野杣山ヨリ法外イタシ候時ハ科銭ハ勿論右事件ニ
       相入費法外人相弁サセ可申事 附右者ヨリ納方不行届時ハ本人ノ家財類引
       揚売払ヲ以テ相納サセ可申候自然不行届ハバ人民ハ親類ヨリ寄留人ハ引受
       人ヨリ当高徴収候事

   (工事中)
   


2019年10月12日(土)

 「琉球国(藩)」の物産 を大宜味間切の杣山の記事(2016年3月12日、 2016年33日)から。イノシシと猪垣についてあるので。明治以前の山原のムラ・シマの人々の生活や様子を頭に描きながら見ていくために。農耕暦が生活のベースにあることに気づきたくて。


2019年10月10日(木)

 「寡黙庵」に立ち寄るとヒカン桜が咲いていた。台風で落ち葉し、新芽と同時に花が咲きました。

 

 1950~58年の「公民館資料」の目録を通して「字兼次」の動きの具体的な聞取りを行うことに。聞取りをしたい項目を揚げてみる。http--yannaki.jp-kanesiazasi.html(兼次字誌の様子)

 字の方でも死亡届けや出生届けが行われている。海外在留同胞調査、家督相続、繩の購入、家畜や甘藷、水稲二期作の共進会への出品、海外引揚者調査、牛籍調査報告、戸籍および人口調査、新入学者調査、造林報告、旧正月用豚自家用屠殺許可申請、満州開拓の件、満州開拓及義勇隊調査の件など。

 それらの項目を紹介しながら、当時の様子を「編集委員会」で語ってもらうことに(資料目録のみでB5版二段組で40頁余)。(16日(水)編集会議用資料)(昭和63年~平成30年までの世帯・人口調査作成終了)

【1950から1958年の資料目録】

・民有林野造林実行書提出について
・堆肥舎世知事業完了届提出について
・堆肥舎設置補助起因交付申請書提出について
・事業完了届
・死亡届
・海外在留同胞数調査について
・出生届
・農業会員名簿の件
・家督相続
・荒蕪地解消対策補助金交付申請書の件
・種籾交換申込の件
・離婚届・被扶助世帯準扶助世帯巣報告について
・普通製縄機購入補助金交付申請書
・普通製縄機購入申込について
・甘蔗夏植共進会申込の件
・家畜共進会申込の件
・甘蔗共進会出品申込の件
・水稲第二期作共進会出品の件
・荒蕪地解消対策補助金交付申請書
・事業計画書(七件)
・海外引揚者調査の件
・堆肥舎設置補助金交付申請書
・パイン申請報告の件
・満州開拓及義勇隊調査の件
・苗木申込の件
・甘蔗夏植中間苗圃自家苗圃切出し報告の件
・牛籍調査報告の件
・造林報告の件
・種籾申込交換の件
・環境実態調査報告の件
・民有林野造林実行報告書
・松種子申込の件・民有林野造林地調査の件
・戸数及び人口調査の件
・新入学令児童数調査の件
・甘蔗共進会出品申込の件
・種籾交換の件
・段便所並調査の件
・個人有林部落有林並びに可動者調査の件
・身体障害者調査の件
・1954年夏植甘蔗植付面積報告
・1954、1955年度製糖 作面積報告
・旧正月用豚自家用屠殺許可申請の件
・貸借調査に関する件
・関係労務者の災害補償の処理について
・一期作種籾申込について
・水稲坪刈審査について
・被扶助者以外の困窮者数調査報告の件
次区一般未亡人名簿控
家族調査及家畜調査について
牝牛調査報告について


2019年10月8日(火)

 
1609年の薩摩軍の琉球侵攻と今きじん(今帰仁)に目を通す。その出来事が今帰仁の歴史が大きく変わってくる。その概略を示す。

 ・今きじん城が焼き討ちにあう。
 ・城内あるいは周辺に住んでいた今帰仁按司や今帰仁阿応理屋恵一族が城下(麓)に移居
 ・今帰仁村と志慶真村の移動
 ・1665年今帰仁按司(監守)一族が首里赤平村へ移り住む
 ・その時、これまでの今帰仁間切は今帰仁間切と伊野波(本部)間切とに分割される
 ・今帰仁按司(北山監守)が今帰仁間切番所の役割を果たしていた
 ・間切が分割後は今帰仁間切番所は運天、本部間切番所は渡久地に置かれる。
   (それぞれの地に番所が置かれる)
 ・首里に引揚げた今帰仁阿応理恵(オーレーウドゥン)は再び今帰仁村(ムラ)に戻る
  (1769年)。(今帰仁での祭祀の役割を担う。「勤職書」で立願で首里から訪れている)
 ・阿応理屋恵のクボウのウタキでのクニレベルの祭祀が復活。 その間、今帰仁ノロが肩
   代り))
 ・戻った場所は、監守屋敷へ居住。(監守はもどることなく首里に居住)
 ・十世宣謨(今帰仁王子)の時、ウツリタマイの墓が1771年に運天の大北(ウーニシ)墓
  へ移葬


2019年10月7日(月)

 ここしばらく波照間に行っていない。周末からまた台風のようだ。波照間を(過去メモ)思い出して見る事に。

さて、今週は業務の山場をクリアしないと。波照間行きは業務(頭)の切替え。


2019年10月6日(

 「イノシシと山原の祭祀」をテーマに報告予定。それで孫二人引き連れて名護市の東海岸のムラから大宜味村まで。老人とウリボー二人での山原のムラ・シマ踏査である。東村の山と水の生活舘まで。そこにはイノシシのごんすけくん(9歳とか)がいる。イノシシシとブタの違い?ごんすけ君に腕を噛まれたとのこと。孫達には歯をしっかり磨かないとキバが出てくるぞと。いろいろ興味深く説明を伺った。メダカが水草に卵を産み付けているらしい。その仕分けをしているとのこと。いろいろ話を聞くことができた。⑮参照

  「イノシシと山原の祭祀」の報告の骨子がまとまったようだ。シニグや海神祭の祭祀のイノシシ狩の所作との関わりを見ていくか。イノシシは作物を荒らし回る害獣部分もあるが、食したり公儀として首里王府へ献上する、しなければならない義務があった地域があった。そのこともあってシニグや海神祭の所作で田植えや魚漁や航海安全、そしてイノシシ狩の場面の所作があるのであろう。祭祀の流れと所作と通してみると、特に「流し」部分にシニグ(凌ぐ・清める)や海神祭の本質部分がそこにあるのではないか。


                   ▲こどもの国のイノシシ


 ▲海神祭のときイノシシに見立てるバーキ(国頭村比地)

2019年10月4日(金)

2009年5月16日(土)メモより

 今帰仁村仲尾次の調査へ。仲尾次はいくつも歴史を読み取っていくキーワードを提示してくれる。仲尾次の集落とウタキの関係を見ていくと「移動村である」こと。仲尾次は1600年代まで仲城村であったこと。それと中城ノロを排出した村であり、『琉球国由来記』(1713年)の頃には、中城と仲尾次が登場する。中城ノロは中城村がでたが、継承者がなく中城村→与那嶺村、さらに諸喜田村(現在の諸志)へ移動している。しかし、名称は中城ノロを今に伝えている。

 中城ノロ家(現在諸志)には戦前9枚の辞令書があった。戦争で失っているが、幸いにして記録や写真(2枚)に残されている。写真で残されたのは「中城ノロ」の辞令書である。一枚は1605年の発給なので北山監守(今帰仁按司)五世克祉、もう一枚は六世縄祖の時代のものである。中城村が仲尾次になるのは、寛文8年(1668)の布令「中城と申名字衆中百姓下々迄も、御法度にて候間、別名に替申様可被申渡候」に沿ったのであれば、中城村を名乗ることが禁止されたので仲尾次村に改称したということになる。しかし、その後も中城ノロはそのまま使うし、村名も『琉球国由来記』(1713年)では両方が出てくる。下の二枚の辞令書は1668年以前なので布令の前である。

 ここではノロ叙任辞令の二枚をあげるが、中城ノロ家には、他に以下9枚のノロ以外の辞令書があったことを添えておきたい。監守(今帰仁按司)が城内、1609年以降城下、1665年首里赤平村へ引揚る。首里引揚まで、今帰仁間切は本部間切域も含む。監守(今帰仁按司)が首里に引揚げるまで、今帰仁間切(伊野波、本部と改称)間切を含む時代、監守(今帰仁按司)が番所(城内・城下)の役割を果たしていたとみられる。今帰仁間切と伊野波(本部)間切が分割されると今帰仁間切番所は運天へ、本部番所は渡久地に置かれる。⑤の辞令書から「ミやきせんあんし」(今帰仁按司)、⑦の辞令書から「今帰仁おどん」(城麓)が記されている。

  ①与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42年:1563年)   監守二世介紹(今帰仁城在駐)
  ②浦崎の目差宛辞令書(萬暦14年:1586年)      監守三世和賢(今帰仁城在駐)
  ③玉城の大屋子宛辞令書(萬暦20年:1592年)     監守四世克順(今帰仁城在駐)
  ④中城ノロ職叙任辞令書(萬暦33年:1605年)   監守五世克祉(今帰仁城在駐)
  ⑤与那嶺の大屋子叙任辞令書(萬暦40年:1612年) 監守六世繩祖(城麓ウドゥン在駐)
  ⑥謝花の掟叙任辞令書(萬暦40年:1612年)      監守六世繩祖(城麓ウドゥン在駐)
  ⑦与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇貞16年:1643年) 監守六世繩祖(城麓ウドゥン在駐) 
  ⑧中城ノロ叙任辞令書(隆武8年:1652年)      監守六世繩祖(城麓ウドゥン在駐)
  ⑨本部目差叙任辞令書(順治13年:1654年)      監守六世か七世)(城麓ウドゥン在駐)
  ⑩西目差し叙任辞令書(康煕3年:1664年)      監守七世従憲(城麓ウドゥン在駐)
  ⑪上間大屋子叙任辞令書(寛文7年:1667年)    今帰仁按司七正従憲(首里赤平村)

 崎山にヌルドゥンチ跡がある。中城ノロが関わる祭祀の時、必ず拝む場所である。下の辞令書が発給された頃は、そこに居住していたことが想定される(今帰仁ノロ火神やアオリヤエノロ火神の例からしても)。中城村の集落も崎山にあるノロドゥンチ跡地から中尾次之嶽に至る地域にあったと見られる。それは中城巫火神(現在崎山地内にある)は中城村にあり、現在地への集落の移動は、『琉球国由来記』(1713年)より後のこととみられる。同書にある「ギネンサ嶽御イベ」を中尾次村とあるが、崎山村ではないか。崎山のウタキはジンニンサガーラの後方にあるウタキである。詳細に触れないが、『琉球国由来記』(1713年)の村の並び、そして中城之嶽(スガーウタキ)の地番が平敷地番であることなど。さらに、戦後の土地改良で平敷と崎山との間で地番の変更がなされている。

 仲尾次の村移動や集落移動、村の境界線の変更、消えた上間村、さらに崎山を含めて検討を必要とし、その手掛かりがつかめそうである。

 ④今帰仁間切中城ノロ職j叙任辞令書(万暦33年:1605)
    しよりの御ミ事
      ミやきせんまきりの
      中くすくのろハ
        もとののろのくわ
     一人まうしに
     たまわり申候
    しよりよりまうしが方へまいゐる
  万暦三十三年九月十八日

 ⑩今帰仁間切中城ノロ職j叙任辞令書(隆武8年:1652)
   首里乃御美事
     今帰仁間切之
     中城のろハ
     一人かなに
     たまわり申候
  隆武八年二月五日    
  
 
  ▲「中城ノロ辞令書」(1605年)          ▲「中城ノロ辞令書」(1652年)


2019年10月3日(木)
 
 石川県(金沢)富山県(富山市内・高岡)を寡黙に踏査。体力的に一日一、二ヶ所が精一杯。丁度、消費税の引き上げで、カードの使い方がわからず、すべて現金で。電車やバスでの会話は、消費税のことで弾んでいる。私には何のことやら? カードは20枚余持っているが、図書館や病院、銀行などでは使っているが買い物はしたことがない。そこでは、そのカードとそのカードがつかえます。でも、どの講座から引き落とされるのか不安。そのカードはチャージすれば使えますと。有り金の紙幣をチャージしたら持ち金は小銭のみ。駅でもキップを買うのは少数派。時代の流れについていけません。

 さて、時代について行けるよう!