沖縄の地域調査研究
                      
寡黙庵:(管理人:仲原)

                        
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2019年1月31日(水)

 これから、孫達は新家への引っ越し準備、手伝いへ。庭は芝張り私の担当。

 引揚者関係の資料を広げていると「引揚者証明書」「帰還証明書」「復員証明書」「臺灣省囘國日琉僑證明書」がある。昭二二年分、証明書の発行は大阪府知事、堺市長、兵庫県知事」神奈川県知事、横浜駅長、戸畑市長、島根県知事、北海道知事、復員証明書は廣島上陸支局長がある。その理由は「父病気」「本人病気」「出産」「家屋整理」「両親病気・出産」とある。

 軍人の引揚証明書は昭和二一年十二月に発行されている。厚生省佐世保引揚援護局とありマニラからの引揚なので「佐世保港上陸セルコトヲ証明ス」となっている。舞鶴港(満州:ハルピン)、比島マニラ市(名古屋ニ上陸」がある。これらの資料は「戦争編」や「移民編」の資料とする。

  

 


2019年1月30日(水)

 ちょっと、墓のことを記して出発。2月は数本の調査や講座や講演や会議などがある。その準備でもするか。

 2015年に「今帰仁の墓」として企画展を開催したことがある。古墓は海岸や河川沿いに分布しています。その理由は?それと紹介できた墓は、すべて近世になってからの墓です。葬られている人物は古琉球(17世紀以前)の人物である。17世紀なると士族の家譜が編集されるようになると、墓と位牌と銘書が記されるようになる。そこで墓の形態が洞窟や森に葬るガンサ(合葬)から厨子甕に葬られる姿がみられる。その墓の形式をとるようになると、伝承をもつ人物の墓が造られる。未解決のテーマが数多くあるが、山原は中南部とは異なる墓の変遷が見られる。墓から血筋や系統が必ずしも描けないことが知らされる。




2019年1月29日(火)

 今帰仁間切の勤書(口上覚)に目を通す。その中に「立願」で今帰仁城や伊是名城へ出向いて「立願」を行っている。それらの記録から奉公人から間切役人へ。奉公先の按司や殿内などが上国する時、随行人(世話係や踊り係)として随行。その奉公の勤めを終えると間切役人となっていくコースとなっている。間切役人へのエリートコースである:地頭代までなれる)。中には奉公に行かなくても地頭代になった実力者もいる。「勤職書」から間切役人の世界を描いてみる。

http--yannaki.jp-norodonti.html (間切役人(奉公人)と上国に随行と石香炉)

 
「奉寄進 上国之時」と刻まれた石の香炉(薩摩の加治木石)

 
勢理客のウタキ内の香炉の拓本(二基)    スムチナ御嶽のイベ香炉の拓

2019年1月28日(月)

 1956年、57年の「今帰仁村字兼次」の公民舘資料に目を通す。時々、近世の生活習慣など「昭和30年代まで、近世が踏襲している」と述べることがある。

 戦後間もない頃の「公民館資料」の記録を頭に入れてムラ・シマの調査する必要がありそう(以下、一部紹介)。琉球政府時代なので年号は西暦、お金はB円(昭和33年からはドル)、暦は旧暦など。ムラ・シマの実態をしることができる興味深い動きが数多くある。それらを踏まえての調査。それは楽しい!

内 容

19561229  1229日 朝常会  

 評議員選出の件  

売店任人前当務各団長外十名とする。

新評議員 実、秀夫、米助、鎭夫、丹吉、源次郎、林助、昇一、孫信、源弘、哲夫、森猛、常夫

 1957年度    区取締役員 大城金蔵 諸喜田林光、諸喜田源弘、玉城藤七

  1229日 粉□器を買う決定致しました。

 

195715月 15日常会に於いて

 一、暴風災害農協資金について  借入者 災害に極く困って居られる方へ貸付する

 一、パイン園区拂い下げについて  パイン園栽培土地のない方々に優先す 希望者 盛□ 仙幸、豊生、
   米助、丹吉、島トラ、青年団

 一、学校負担金は区費に割当てして 各戸月三円とす

 一、農事奨励会 一月拾壱日にする組合総会□ 遅刻又は欠席者は配当金より各自50円の罰金とす

 一、区予算は60,420円とす内 負担額は50,224円とす

 一、一 二ヶ月分の区費、賦課は従前通り□とす

 

1957111 朝常会に於いて  

 第一期作水稲苗代の件

  村の指示に準じて播種をなす 然し雨が降らなかった場合は順延する様にする

  野ソ駆除の件

  水稲播種前に野ソを徹底的に駆除する。 薬品は区会計より出し日取りは当務に委任する。 
  当務は早目にこれを実践する。

 

19571, 21 朝常会に於いて

 一、水稲苗代の件

   雨降れば決定
 二、竹林清掃出夫 二十三日決定

 三、生年祝の件

  部落民全部事務所で行う。酒肴携帯、会費二〇円持参。会費は記念贈呈に向ける。記念品は十三祝、61以上
  の方に贈呈

 四、焼香

  香典料は持たずに焼香する。親類は重箱を持って焼香する

 五、学校植樹の件

  旧十二月二三日竹林清掃と一緒に行う。 樹名 櫻一六本、□葉木十三本植付

 

1957213 朝常会

 一、溜池当番年報 区予算 五百円也 年報補年報参百亦は苗木所有者が負担す 当番年報 五百円也提供両靴一足
   電燈一ケ

 一、竹林清掃出夫 旧一月弐壱日にする 各人高 一荷づつ持参

 

 一、資力等級査定員選定 39日朝常会

  査定委員左の通りとす 丹吉、実、鎮夫、米助、孫信、林助、林光、□□、和正、保弘、堅光 出席38名 
  得要数 三六票   無効 二票

 一、査定方法 見込み等級で比れを行う 

 一、売店区よりの株配当金の件 (3月23日朝常会) 去年度1956年度配当金は区より増株する。 
   次年の区費負担金の補いにす様

 一、学児奨励会の件 学児奨励会は三月廿五日午後一時開催 敬老会も今日挙行 学校に準じて賞品援興は行う。

 

56日 朝常会

 一、育英会役員再選

 一、右役員選出は前役員及び部落当務で行う

 一、役員当で選出不能の場合は常会にて亘選す

 

710日育英会役員決定報告 (朝常会にて)

  育英会会長 大城丹吉  副会長 諸喜田保弘  会計 玉城光久雄  新農道に於いての潰地は無償提供し
  今後の産業発展に寄興す。

 一、区費未納整理は各班で行う

 

82日 朝常会

 一、水稲二期作播種準備は次の日程で行う。

  糸川原苗代 八月三日 道東 四日 道西上 五日 東後原 六日 苗代の準備作業も上から順に行い節水する様にす。

 一、育英会会費として  物品で会費の足しにする(籾)  班長は四班の籾の徴収に当る

 一、1012日 朝常会

 竹林総出夫の件について  竹林夫は十月十五日に決定致すことにします

 
8
23日 朝常会 出席人員52名

 一、乾燥場北の溜池の件

  区産業発展と衛生面の蚊蝿の源池の為 区煙草組合の乾燥場敷地に切替する

 一、育英会資金徴収の件

  籾各個 五斤以上とす  籾なき家は現斤50、-以上とす 新設農道の潰地は無償提供にす

 

926日 (晝常会) 台風済んで以後

 一、字内の全壊家屋の復旧奉仕作業の件

  奉仕作業は五日間続行する(日程九月28日より) 作業は部落総出夫をなす。晝食携行で罹災者に迷惑いない
  様禁酒する事 

 一、戸籍整備事務の件

  事務執行は当務に委任す  事務雑費は個人負担とす  事務員は月当100,-としす

 一、二タンクより五タンク迄の水道設修について

  金□や西辻より五タンク迄の予約100米  亜鉛パイプに切替える様 議決す 
  各個所の字有潰地は競売して水道設修費にあてる 

 竹林補助金5,300ドル也は全額 亜鉛パイプ購入資材代に当てる 

 

1012日 朝常会 出席員51名

 一、フェイ台風の竹林清掃の日取の件

  竹林清掃は十月十五日になす 清掃当日の竹代は二タンクから五タンク間のパイプ代に当てる

 一、小中運動会に傍々水祭の件

  従来通り常会に計らなくとも水祭は運動会当日施行する

 一、リバック救援物資の件

  配給の方法は各々頭数に割当て配給をなす

 一、台風被害見舞金割当配給方法について 一金 1,120
 一、復旧作業に於いての大工道具又は道具の破損料に当てる  その他の残金は当務に任し作業当時の
   雑費に繰入れる

 一、内間カナ氏の改築茅葺の件

   困窮者であり一人者である故字よりの配夫で復旧作業を決行す

 

1024日 朝常会

 一、新農道工事長 大城丹吉氏  副工事長 諸喜田保弘氏  工事会計 新城保信氏 右三氏を工事責任者に
   承認決定す

 一、新農道潰地有償の件

  有償代金は区長で委員を選定す  地主と確適な代金を考慮す  

 一、伊良波幸明氏轉籍の件

   幸明氏を入籍なす事を承認決定す  字内法に従い誓約書を参考迄に受とる

 一、第二回救援物資処分の件

  ミルク 六缶入 二箱 メリケン 一袋   米 三〇斤 豆 一袋  右援助物資は区当務に任す様承認を得る

 

19571212日 朝常会

 村よりの村民税の算定は区費に五〇%村当局の算定額に五〇%を調定する様 決議す

 

19571226 晝常会

 区長後任選挙の件

  有払者 六八名  投票数 六八名  無効 三票  後任区長に新城保信氏が当選す

 書記後任選挙の件

 有払者 右仝  投票数 右仝  無効 二票    後任書記に大城常夫氏が当選す

 給仕後任選挙の件

 有払者 右仝  投票数 右仝  無効 一票   後任給仕に島袋松重氏が当選す

 一、詮衡委員の件

  詮衡委員は常会の承認を得へ各班より代表者一名を区長が任命す

 一、出納簿検査委員の件

  常会の承認を得先輩の任命を持って左の委員を可決す

  委員 大城丹吉  玉城鎭夫  諸喜田保弘  大山光三朗  諸喜田実  以上五名とす


2019年1月27日(

 北山の歴史と関わる人物の一人上間大親と乾隆年間に造られた赤墓について紹介。
 
http--yannaki.jp-nyagouuematoakhaka.html(具志堅屋号上間と赤墓)


2019年1月26日(土)

 ここで「嘉味田家」の墓調査を紹介するのは、運天の大北墓(按司墓)と類似することが多いためである。第一に北山監守は尚真王の三男で、越来王子は四男である。両家とも家譜を持っていてその素性が明快である。運天の大北墓は十世の今帰仁王子宣謨のとき、今帰仁グスクの麓のウツリタマイから運天へ移される。

 嘉味田家の墓は康熙26年(1688)に東風平間切富盛村の墓地は長年になり、風水や地震で傷んでいるため風水に見てもらい、七世喜屋武按司の時、乾隆15年(1750)頃東風平間切富盛から安里村松尾原に移葬されている。今帰仁王子尚紹威も越来王子龍徳も那覇市首里の玉陵(首里山川の西の玉陵)に葬られている。

 両墓の詳細な比較はまだしていないが、「沖縄県国頭郡志」の明治45年4月27日(旧3月11日)に修理したときの内部の平面図を掲載してみる。(作図調査は島袋源一郎とみられる)


 
http--yannaki.jp-kamidake.html(嘉味田家の墓調査、仲原)

2019年1月25日(金)

 昭和57年(1982)年頃、沖縄の歴史に手を染めはじめていた。角川沖縄地名辞典の今帰仁・羽地(現名護市)の執筆の督促に追われていた頃である。どうしても「村落(字)の変遷」図が必要で、「今帰仁の村落変遷(上・中・下)を公にしたことがある。それに連続して「今帰仁間切諸喜田福保勤職書・辞令書」、「今帰仁間切の内部構造―勤職・辞令書にみる―」、「仲村源正氏辞令書関係資料―調査報告書」(1989年)、「地方間切役人の世界(勤職書・口上覚)」、「今帰仁間切役人の役職と屋号」(1991年)、「沖縄旧慣地方制度」の間切役人の昇級過程を勤職書(口上覚)と辞令書でみた作業であった。

 大正5年まで今帰仁間切の番所(役場)が運天にあったこともあり、「運天の歴史」を津(港)を通して歴史を描いたものである。下の6、7は「大学での講義」のレジメの一部である。

 「勤職書」や「辞令書」を通して「地域の歴史」を紐解いていた。30年前のことなので、記憶から遠のいているので。急遽かき集めてみた。30代頃の「地域史料で歴史を描こう」とした元気さを振り返ってみる。
  



    ▲仲村源正氏の辞令書の一部(明治)      ▲新城徳助・徳幸氏の辞令書(明治)

2019年1月24日(木)

 2009年に「薩摩の琉球侵攻」をテーマでまとめたものの一部であるが、再度検討を加える予定手がかりとするものである。北山監守(今帰仁按司)一族が今帰仁居住から首里(赤田村)へ引揚げるまでの今帰仁の歴史である。

北山監守(今帰仁按司)(一世から七世)

 北山監守とは今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司のことで、第二監守時代の一世尚韶威から七世の従憲までの今帰仁按司をさしている。北山監守を勤めた按司達がどのような痕跡を残しているのか。それらの資料を確認してみる。

一世の尚韶威は尚真王の第三子である。韶威については『具志川家家譜』に記され、今帰仁王子と称し、真武体金(童名)、朝典(名乗)、宗仁(号)で、母の名や生れは伝わっていない。尚韶威は嘉靖年間(1522~66年)に亡くなり西の玉御殿(首里)に葬られている。玉陵の碑に「みやきせんあんしまもたいかね」(今帰仁按司真武体金)は尚韶威のことで、亡くなると玉陵に葬られ石棺がある。

 因みに、尚韶威の次男介明(名乗朝白)は南風は按司とよび、その娘は阿応理屋恵按司だという(『沖縄県国頭郡志』)。南風按司が今帰仁と親泊に村芝居を授けたといい、後に安次嶺の地頭となり、今帰仁を去るに及んで安次嶺アシヤゲという。『琉球国由来記』(1713)にも安次嶺アシアゲとあるのはそれに由来するという。

二世の今帰仁按司(王子)介昭の産まれは不明で隆慶年間(1567~72年)に亡くなっている。『具志川家家譜』に思二郎金(童名)、朝殊(名乗)、宗義(号)である。嘉靖年間に尚韶威を継いで今帰仁間切惣地頭職になっている。四男の和禮が今帰仁間切平敷村平敷親雲上の娘思加那を娶り、介紹の娘が宇志掛按司(童名:松比樽)の神職となり孟氏名今帰仁親方宗春の妻となる。今帰仁に残した痕跡は、大北墓の「宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金」(『沖縄県国頭郡志』)である。それは二世と見られるが「思二郎金」をそう判読したのかもしれない。住居は今帰仁グスク内である。

三世は和賢である。『具志川家家譜』に眞武躰(童名)、朝敦(名乗)、宗眞(号)とある。嘉靖三六年(1557)に産れ万暦一九年(1591)に亡くなっている。三世は運天の大北墓ではなく今泊の津江口墓に葬られている。その理由は津屋口墓の「墳墓記」の碑文に読み取ることができる。

三世は当初から津屋口墓に葬られている。津屋口墓は今帰仁村今泊にあるが、北山監守(三世和賢)の墓である。今帰仁グスク麓のウツリタマイに葬られず、運天の大北墓に入れず、親泊の津屋口原に墓をつくり葬っている。墓の庭に「墳墓記」(1678年)が建立されている。その墳墓記をひも解くことは、今帰仁グスク内に住んでいた北山監守(今帰仁按司)とその一族、そして麓に移った集落、監守一族が移り住んだ集落内の二つのウドゥン(御殿)との関係を知る手掛かりとなりそうである。

 まだ、十分把握していないが、系図座への家譜の提出の際、先祖の業績を整理している過程で、先祖の墓が粗末にされ崩壊したりしており、『家譜』の編集と墓の修復と無縁ではなさそうである。
 三世和賢は万暦十九年(1591)に亡くなっているので、その頃に墓は造られたであろう。「墳墓記」(碑文)から、以下のようなことが読み取れる。
 ・墓は修築された。
 ・監守の引上げ(碑文では康煕丙午(1666年)
 ・尚真王第四(三か)王子宗仁は尚韶威のこと。
 ・高祖今帰仁按司宗真は三世和賢のこと。
 ・殿閣近くに墓を築く。
 ・津屋口に葬るのが便利である。
 ・三世和賢は万暦辛卯(1591年)に亡くなる。
 ・葬った墓の地は津屋口である。
 ・「墳墓記」の建立(墓の修復)は康煕十七年(1678)である。
 ・津屋口墓の修復は七世従憲(1687年)首里で亡くなり、ウツリタマイ(グスクの麓)へ
  葬られた時に修復されたものか。監守首里引揚げを機会にか。
 ・今帰仁に七世の位牌あり。

などである。現在、墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫?仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。
  

四世は今帰仁按司克順である。『具志川家家譜』によると眞満刈(童名)、朝効效(名乗)、宗心(号)である。父は和賢で母は眞牛金である。万暦八年(1580)に産れ同二四年(1596)に十七歳で亡くなっている。万暦十九年(1591)に父和賢を継いで今帰仁間切惣地頭職を継いでいる。在任は数年である。若くしてなくなったため子供もはいなかった。

四世克順の時の「今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書」(1592年)がある。

 しよりの御ミ事

  みやきせんまきりの

  よなみねのさとぬしところ

 一六かりやたに四十九まし

  しよきたばる又もくろちかたばるともに

 一百四十ぬきちはたけ七おほそ

  やたうばる 又ひらのねばる 又はなばる

  又さきばる 又なかさこばる 又おえばるともに

  又よなみねの四十五ぬき

  かないの大おきてともに

  一人たまくすくの大屋こに

  たまわり申候

 しよりよりたまくすくの大やこの方へまゐる

万暦二十年十月三日

「辞令書」の発給は四世克順の時である。今帰仁間切の玉城の大屋子に宛てたものである。そこに今帰仁按司や今帰仁御殿などの言葉は出てこない。大屋子という役人は、首里王府から直接辞令が発給されていて、北山監守(今帰仁按司)を経由するものではなかった。

 今帰仁に残る四世の痕跡は大北墓の「宗仁公四世今帰仁按司ママカル金」のみである。家譜にある四世の童名の「眞満刈」とあるが墓調査では「ママカル金」と読んでいるようで、確認が必要である。

 五世は今帰仁按司克祉である。『具志川家家譜』によると眞市金(童名)、朝容(名乗)、宗清(号)である。万暦十年(1582)に生れ同三七年(1609)に二八歳で亡くなった。四世を継いだ克順が十七歳で亡くなったので、弟の克祉が五世として万暦二四年(1596)に今帰仁間切総地頭職を継いでいる。次男の縄武の室は中根親雲上の娘を娶るが阿応理屋恵(今帰仁)である。

 「今帰仁間切辺名地の目差職叙任辞令書」(1604年)がある。1604年は五世克祉の時で今帰仁グスクに住んでいた時期である。

 しよりの御ミ事

  みやきせんまぎりの

  へなちのめさしハ

  ミやきせんのあんじの御まへ

  一人うしのへばんのあくかへのさちに

  たまわり申候

 しよりよりうしのへはんのあくかへのさちの方へまいる

    

  (首里王府から、今帰仁間切の辺名地の目指を、今帰仁按司の部下である丑の日番の赤頭のサチに賜るよう申し上げる。首里(王府)から丑の日番の赤頭のサチに差し上げる)

    

 今帰仁間切は「ミやきせんまきり」と言われ、「へなち」は辺名地村であるが、まだ「…村」と使われていないことは注目すべきである。村は近世以降の行政単位だということがわかる。「みやきせんあんしの御まへ」(今帰仁按司の御前)ということは今帰仁グスクに住む按司の御前ということになる。「うしのへはんのあくかへ」(丑の日番の赤頭へ)とあるが、今帰仁グスクへ勤める三番制度(三交替制)があり、監守制度と関わる「赤頭」の役職があったことが伺える。

 大北墓の銘に五世が見られないが、その中に「今帰仁按司御一人御名相不知」とあり五世の可能性がある。薩摩軍の琉球侵攻で今帰仁グスクが攻められた時の監守(今帰仁按司)なので尚寧王が玉陵に入らなかった例もあり大北墓に葬られていない可能性もある。葬られたのであれば、グスク麓のウツリタマイ(按司墓)である。そこから十世宣謨の時(1722年)、運天に移葬しているので、そのことも念頭に入れておく必要がある。

 六世は今帰仁按司縄祖である。『具志川家家譜』によると鶴松金(童名)、朝経(名乗)、瑞峯(号)である。万暦二九年(1691)に産れ順治十五年(1658)に五八歳で亡くなる。父克祉の後の惣地頭職を継いだのは1609年で八歳の時である。縄祖の次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の娘を娶り阿応理屋恵按司(童名思武眞金)である。

 六世の時の辞令書は四点ある。その一つが「今帰仁間切謝花掟職叙任辞令書」(1612)である。

  しよりの御ミ事

   ミやきせんまきりの

   ちやはなのおきての

   ミのへはんの□□

   くたされ候

  万暦四十年十二月□日

  (首里からの詔 今帰仁間切の謝花の掟である巳の番の誰それに差し上げなさい)

この「辞令書」が発行された1612年は、薩摩軍の今帰仁グスク侵攻から三年後のことである。北山監守(六世今帰仁按司)はまだグスク内に住んでいたのであろう。五世克祉の時代にあった三番制度が、まだ引き継がれている。謝花の掟が三番制度の巳の日の当番でグスクに出仕していたと見られる。因みに、五世克祉の次男縄武が中宗根親雲上の女阿応理屋恵按司(思乙金)を娶っている。

 六世縄祖(惣地頭職1609~53年)の時の「辞令書」四点の中の一点が、この「今帰仁間切与那嶺の大屋子職叙任辞令書」である。崇貞十六年(1643)十月三日の発給なので六世縄祖の時のものである。

  首里の御ミこと

   今帰仁間切の

   よなみねの大屋こは

   一人今帰仁おどんの

   ももなみの大屋こに

   たまわり申[候か]

  崇禎十六年十月三日

 ここで注目したいのは「今帰仁おどん」である。それからすると今帰仁グスクから城下に移り住み、そこが今帰仁御殿と見られる。いつ城下に移ったのかの年代は不明であるが、ここでいう「今帰仁おどん」(今帰仁御殿)は、今帰仁グスクではなく、今でいうオーレーウドゥンと見られる。

今泊の集落内に二つの御殿跡がある。一つは按司(監守)の御殿、もう一つは今帰仁阿応理屋恵の御殿である。今のオーレーウドゥン跡地が按司(監守)の殿内(今帰仁村地内)で、馬場の東側の角のウドゥン敷地跡(親泊村地内)が今帰仁阿応理屋恵の殿内と想定している。移動した後の阿応理屋恵按司火神は『琉球国由来記』(1713年)を見ると親泊村地内である。それと「今帰仁里主所火神」が按司家の火神で今帰仁村地内にある。そこには六世縄祖の位牌があることから、現在のオーレーウドゥン(阿応理屋恵御殿)は、もともとは按司御殿で、首里から今帰仁按司は今帰仁に戻ることがなく、親泊馬場の東側角のウドゥン跡が処分され、今のオーレウドゥン(元の按司御殿内)に今帰仁阿応理屋恵(アットメー)住むようになりオーレーウドゥンと呼ばれるようになったと見られる。その屋敷にウドゥンガー(井戸)があるが、按司御殿に因んだ名称なのかもしれない。因みに、六世縄祖の次男従宣が孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)女阿応理屋恵按司(思武太金)を娶っている。
 

七世は今帰仁按司従憲である。『具志川家家譜』に思五良(童名)、朝幸(名乗)、北源(号)とある。天啓七年(1627)に産れ康煕二六年(1687)に六一歳で亡くなる。七世のとき、北山監守(今帰仁按司)は康煕四年(一六六六五)に首里赤平村に移り住むことが許された。その翌年(1666)に今帰仁間切を二つ分割し、今帰仁間切と伊野波間切(翌年本部間切と改称)を創設する。今帰仁間切惣地頭職になったのは順治十一年(1653)である。その時の俸禄は五六石、間切分割の時か不明だが知行が減少し四十石となる。

従憲は康煕二六年(1687)に首里で亡くなるが、故郷の運天の大北墓に葬られている。ただし、従憲がなくなった頃の墓は運天の大北墓ではなく今帰仁グスク麓にあったウツリタマヒ(玉御墓)である。十世宣謨の時、雍正十一年(1733)に運天の大北墓に移葬したようである。大北墓に「宗仁公七世今帰仁按司」とある。

七世従憲が首里に引き上げたことで監守としての役目はなくなり、今帰仁按司は他の間切の按司と同様な扱いとなる。首里引き上げ後も今帰仁按司一族は十四世まで継承されていく。八世から後については触れないが、十四世の世忠(朝敕)まで今帰仁按司、十五世の朝昭の時具志川按司を名乗るようになる。これまでの今帰御殿が具志川御殿と名乗るようになったのはそのためである。


 (続く)


2019年1月22日(火)

 今帰仁村今泊の親泊原に津屋口墓(別名アカン墓)がある。1964年の新聞記事があるので紹介。以前「墳墓記」の碑文の解説をしたことがある。葬られている人物は北山監守三世の和賢である。家譜からすると1592年に亡くなっている。墓は壊れていたので1678年に造替えられている。一世は首里の王陵へ。他は今帰仁グスクの麓のウツリタマイへ。十世の宣謨(今帰仁王子)のとき、運天の大北墓(按司墓)へ移葬される。何故三世はウツリタマイに葬られず、津屋口に葬られたのか。その経緯については「墳墓記」の碑文から読み取ることができる。北山の歴史で監守の一人であり、歴史の一齣をつづる人物の一人だと考えている。その結末は?

・津屋口墓(アカン墓)(新聞記事) 

壊された開かん墓(沖縄タイムス:1964.12.29)

 三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。

 墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。

 墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。

 新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。

 新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。

 

あかなかった古墳(琉球新報:1964.12.30)

 北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。

 区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。

 この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。

 この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。

 この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。
 

   
   ▲津屋口墓(アカン墓)             ▲墳墓記(1678年)


2019年1月21日(月)

 2015年の恩納村のレジメが見つけたので、来月の講座で利用(ちょうど4年前)。今回は『琉球国旧記』(1731年)の「江と港」を組み込んで話をすることに。





2019年1月19日(土)

 今帰仁村字玉城の字誌の発刊祝賀会に参加。字誌発刊に向けて編集や執筆など最後まで付き合っている。その日が肩の荷を一つ降ろした開放感がある。しばらく(4月まで)、開放感にひたりながら編集・執筆を進めている字誌がある。その間に資料に目を通してみる。一番充実して時間である。



2019年1月17日(水)

 2月に「恩納村のムラ・シマ」で講座の手伝いをする。しばらく、恩納村から離れているので復習でも。名嘉間から安富祖、瀬良垣、恩納までいくが、ここ数年で様変わり。もう一度恩納村の村々を踏査してみなと。

 冬になり、エサが少なくなったのか、庭にでるとメジロやヒヨドリが餌がないかと近くまでやってきて鳴いている。

 
  ▲パパヤやトマトをつついているメジロ。高い枯れ枝でヒヨドリがエサの順番を待っている。

http--yannaki.jp-2011nen8gatu.html

[名嘉真]
 名嘉真の古島にノロドゥンチ跡、神アサギ、地頭火神などの拝所や旧家の屋号をもつ家々がある。現在あるマナツジ御嶽はトマリガシラとカワイシの両ウタキを合祀したという。

 
▲名嘉真川沿いのマナツジウタキ   ▲名嘉真多目施設

[安富祖]
 明治34年頃の安富祖の川沿いに伝馬船や小舟が発着した津口が記されている。ブリグラ(群倉)が、集落内には高倉があり、稲作が盛んに行われていたようだ。

 
 ▲安富祖の神アサギと後方のウタキ   ▲津口やブリグラ(群倉)があったという。

2019年1月15日(火)

 今帰仁村兼次の字誌を本格的にスタート。急遽、「もくじ」を作成。細目は会議で検討後に作成。字の方々と勉強会をスタートさせることに。会議用の「もくじ」(案)が出来たので。体力が続くうちに発刊まで漕ぎ着きたいものだ。

 委員長、副委員長(2名)、会計の承認。その後、編集会議を月一回の割合で開き、資料の準備ができ次第編別に進めていくことに。次回は「第三編 兼次の地名」からはじめる。早速、1953年の写真が数枚の提供あり。学校前にそんなに松があったのか。兼次の山人(ヤマンチュ)の生活の話や学校林などが話題となる。園児を拡大してだれそれだと50年前の話に。シメシメ!


   ▲字誌編集会議(勉強会)       ▲兼次教会の園児、後方は兼次小中学校(1953年)


兼次字誌(案)                             20191月15日作成(仲原)

 

  もくじ 

  グラビア 

  挨拶文 

第一編 兼次の概要 

第一章 兼次の概要

一、位置

二、自然環境 

三、兼次の人口の推移

第二章 字の行政

  一、議決機関

  二、評議委員会

三、歴代区長

四、班

五、字の予算

六、字行政につくした人々

七、議員、役員 

第二編 兼次の歩み
         第一章    兼次内の遺跡
     第二章    文献史料にみる変遷
     第三章    集落の移動(古島から村屋敷原へ)
     第四章    印部石と集落移動(加祢寸原と兼次) 

第三編 兼次の地名
     第一章  兼次の小字(原名)(13ヶ原)
        北屋敷原 ②南屋敷原 ③福地原 ④西後原 ⑤東後原 ⑥山蒲原

   ⑦川原 ⑧糸川原 ⑨前名原 ⑩古島原 ⑪大道原 ⑫猪之平原 ⑬山之堂原
 第二章  兼次の小地名
第三章  今帰仁間切兼次村全図/今帰仁村字兼次全図(土地利用) 

第四編 兼次の屋号 

第五編 年中行事と祭祀

第一章 字の年中祭祀
    第二章 家庭の祭祀
    第三章 豊年祭 

第六編 兼次の方言
      (イリンシマ言葉) 

第七編 兼次の生業(産業)

   第一章 作物
     ①稲作 ②サトウキビ ③イモ ④蔬菜 ⑤観葉植物 ⑦タバコ

   第二章 家畜・農機具

     ①馬 ②牛 ③山羊 ④鶏 ⑤農機具の機会化
   第三章 食べ物 

第八編 教 育(学校教育・社会教育)

   第一章 学校教育(学校の変遷)

   第二章 社会教育(老人会、青年会など)
   第三章 スポーツ     

第九編 生活の変遷 

第十編 人生儀礼

①結婚 ②出産 ③成人 ④葬儀 ⑤墓 ⑥年忌 

第十一編 戦時体験記録
   第一章   兼次学校の兵舎
   第二章  
   第三章     

第十二編 出稼ぎと移民

第一章 出稼ぎ

第二章 移民(北米・南米・東南アジア)(外地引揚名簿) 

第十三編 寄稿文 

第十四編 民話・伝承 

第十五編 人物 

第十六編 公民館資料(戦後)
  公民館資料から見えてくる兼次
 

  兼次の出来事(年表)
  参考文献 

 
▲兼次青年クラブ(公民館)(昭和12年)       ▲兼次側からみた今帰仁城跡

 
▲兼次校の学校林での田植え(1953年)    ▲神ハサギ庭で遊ぶ子供達


2019年1月14日(

 今帰仁グスク内に建立されている「山北今帰仁監守来歴碑記」(複製:現碑は歴史文化センター内に移設。碑文から1700年代の歴史観や監守設置の理由や三山統一前、後、1665年の監守一族の首里引揚げ(赤田村)後の北山の社会状況が記されている。

 往時は球陽(琉球)四分五裂に分かれて治められていたことがあり、それが北山・中山・南山が鼎立するようになるが、「万民不堪塗炭」の状況であったので、佐敷按司の尚巴志が兵をおこし三山を統一。北山の群地(地方:後間切)は険阻で人々は勇猛である、首里より中山より遠く教化しがたく、また変乱の恐れがあるので、巴志の次子の尚忠を監守として派遣し監守制度を「定規」とすることになる。尚徳王の時代になると酒に溺れ色を好み、殺伐とな国政は臣下や民に欺かれる。(概略は以下続く)
   

    山北今帰仁城監守来歴碑記
   昔者球陽郡四分五裂終成三山鼎足之勢万民不堪塗炭之優
   佐敷按司巴志大興義兵匤合三山而致一統之治然山北諸郡地係険阻人亦勇猛
   離中山遠教化離敷恐復恃険阻而生変乱乃遣次子尚忠監守永為定規至
   徳王耽酒色好殺戮国政日壊臣民皆叛遂招覆宗絶祀之禍時
 尚円王為臣民所推戴就位莅政大開万世之基業亦遣大臣輪流監守弘治年間
 尚真王遣第三子韶威監守乃吾元祖也自爾而来世鎮北城永守典法北人愈擢服大
   致雍之休矣既康煕四年七世従憲奉
  命移宅於首里仍掌北城及旧跡典礼等件至干乾隆七年将以城地改授郡民行其典
   礼由是宣謨具疏禀明往事恭蒙兪允永管城地掌典礼如旧伏推元祖以来鎮守山
   北以致純治者是誠宗徳宗功之所塁而吾家孫子亦不可以不重篤者也宣謨謹記
   来歴以勤諸石永伝不朽云

    皇清17己巳秋八月穀且十世孫宣謨今帰仁王子朝忠謹立 

 
▲監修来歴碑記(1749年)▲移設前の火神の祠の前にあり

2019年1月13日(
           
                    研究フォーラム「日本の中の異文化」
          ―琉球孤の文化研究をめぐって―」
    2005.7.24 於:沖縄大学
                                .

琉球国の統治と祭祀
―山原の祭祀から―

はじめに

 これまで山原の祭祀の調査をしてきました。ムラ・シマで行なわれている祭祀は、国の統治との関わりで見ていく必要がありはしないか。そのようなことを考えるようになりました。特にノロをはじめとした神人たちの年中祭祀は、国を統治する制度としてとらえていく視点での研究が必要ではないか。祭祀は国に税を納める、納めさせる関係、つまり国の統治の手段として祭祀をとらえると興味深い姿が見えてきそうです。今日は、そのようなことを報告したいと思います。

1.国の統治と祭祀

祭祀を国の統治とみる視点に至ったのは、山原で行なわれている海神祭(ウンジャミやウンガミ)の調査からでした。海神祭と書かれるので海と関わる祭祀だと思っていいました。どこが海の行事なのか、あるとしても一部ではないか。そんな疑問がずっとあったわけです。ほぼ同じ頃に行なわれる山原各地の祭祀をみると、古宇利島(今帰仁村)や根謝銘グスク(大宜味村)や比地や安田(国頭村)などでは海神祭(ウンジャミやウンガミ)の名称ですが、今帰仁村の中部地域ではウプユミ、隣の本部町具志堅ではシニーグと呼んでいます。そして今帰仁グスクでは一日目がウーニフジ、二日目がウプユミ(大折目)、三日目がシマウイミと呼んでいます。それらをまとめて今帰仁グスクではウンジャミという呼び方もします。

旧盆明けの亥の日を中心とした祭祀は、どうも三つの祭祀が一つにまとめられたのではないか。そんな疑問を持つようになりました。国頭村の安田の祭祀を調査する機会がありました。そこでは今年はシニグ、来年はウンジャミ(グヮー)を交互に隔年行なっています。そのことは『琉球国由来記』(1713年)でも記されています。すでに、その当時から隔年で行なっていたことがわかります。

山・農耕・海の三つの祭祀が一つにまとめられたのではないか。シニグや海神祭は、本来山と農耕、そして海の三つが祭祀は別々に行なわれていたのを、一つにまとめられた痕跡として海神祭でありながら内容は海・山・農耕の場面が扱われています。一つにまとめたのであるが、他の二つの祭祀を捨てるわけにいかず、祭祀の内部で三つ部分が祭祀に色濃く痕跡として残っているのであろう。一つにまとめられた海神祭ではあるが、ヌミ(弓)に象徴されるように獣を射る弓であり、そして穀物を計る物差し、さらに舟を漕ぐ櫂、唐船旗(トーシンケージ)の旗を掲げ航海安全や豊漁を祈願し海など三つの関わりが見えます。

 今帰仁村の古宇利島の海神祭の例で説明しますと、まず神人がウンジャミのとき手にする棒があります。その棒のことヌミ(弓)、そのヌミで舟を漕ぐ所作をします。そしてヌミは穀物を計るものさしでもあります。ヌミ(弓)ではあるが、山・農耕・海の祭祀を象徴するものです。ウンジャミと呼ぶから、海の祭祀だけだとすると祭祀の姿を見誤ってしまいます。特に海神祭と記すからと言って、語義に執着しすぎると、山と農耕の祭祀の場面を見落としてしまうことになります。祭祀の名称が本質を突いて名付けられたのもありますが、海神祭のように一部でしかないこともあります。

 祭祀が「神遊び」と言われるように税金を取る方(国)からすると、祭祀が多すぎるので少なくしたい。祭祀が多いということは休息日(神遊び)が多すぎるということになります。上納を取る立場からすれば、祭祀は多すぎるので減らす政策をとったと考えられます。別々に三つあったのを二つは捨て一つにしたかったのであろうが、そうはできなかった。それがウンジャミやシニグなどに海・山・農耕の場面が含まれているのでしょう。合作だと言っていいのではないか。三つを一つにまとめた時の名称が、場所によってウンジャミ、シニグ、あるいはウプユミやウイミなどで呼ばれていると考えています。

 税をとられている立場からすれば、神に名付けて休息日をたくさん欲しい、ところが首里王府からすれば神行事を減らし税金を取り立てたい、祭祀を縮小した痕跡としてウンジャミやシニグなどに名称とは合致しない祭祀が含まれているのは、その痕跡なのかもしれない。

2.祭祀と関わる役人

『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」に出てくる按司や総地頭、そして脇地頭と間切役人について触れたいと思います。首里に住む按司や総地頭などが、領地の祭祀に参加する理由をどう見るかです。毎回参加したかどうかはっきりしないが、参加できない場合は代理で人を参加させたのであろう。両者の関係は貢租を納める、貢租を受ける関係にあります。総地頭や按司クラスが参加するのは今帰仁グスクや名護グスクなどです。

 

間切役人の中に首里大屋子がいます。番所で業務を行います。首里大屋子の職務を見ると、蔵当方で、

「仕上米(運天又は鏡地)付届之事、貢租米・首里御殿入れ之事、諸知行・作得米付届之事、諸地頭・遺分銭付届之事。

 

大掟 雑物当方

   諸雑物付届之事、同代銭付届之事、御殿・殿内御用之品付届之事、建築用材・唐船用材届之事

 

  大宜味間切の例でみると、間切を所領する按司地頭と総地頭(親方地頭)がいます。両者をまとめて両総地頭といいます。村を領するのが脇地頭です。按司地頭家が大宜味御殿、親方地頭家を大宜見殿内、脇地頭家は所領する村名をかぶせて・・・殿内といいます。

 これらの地頭は王府から与えられた家禄高を知行米として間切から収得し、同時に地頭地からあがる作得米を取得します。地頭の中には王府から開墾状をもらい、知行仕明請地として農民に強制的に耕作させ小作料として一定の米を取得するのもいます。

  地頭は御殿、殿内の入用な物資を間切から徴収、盆・正月・祝いなどの度に魚・肉・野菜・猪・薪炭などを調達します。

  地頭家の大きな特権は領地の間切からの奉公人を徴用したこと。間切役人層の子弟(15歳以上)が地頭代の推薦で採用されます。奉公が終わると間切役人への登用が保障されます。そのため、間切役人層は子弟を首里奉公にするため種々の手段で地頭家に取り入れられるようにしたわけです。

  そのような関係をみると、『琉球国由来記』の按司・総地頭、そして(脇)地頭、地元オエカ人の祭祀への参加や供え物の提供は、神人との関係だけでなく、百姓からの貢租・家禄の作得を得ることもあるが、百姓からすると奉公人に取りたてられるためのチャンスでもあるわけです。

3.休息日としての祭祀の位置づけ
  ・祭祀は「神遊び」といわれるように村人の休息日といえそうです。

 祭祀がムラ人にとっての休息日だというのは、祭祀は「神遊び」とも言われます。よく旗頭に「神遊」の文字が書かれています。村人は二月ウマチーだ、三月ウマチーだ、タキウウガンだ、ウンジャミだ、アブシバレーだと神に名付けて休息日をとったのです。今の私達は土、日、そして祝祭日など法的に決まっています。

その制度は聞得大君を頂点としたピラミット形の祭祀の制度を作り上げたわけです。祈りの部分が大きいとは思いますが、ちょっと反してみると、神人の制度はクニの租税制度を担っていると見ていいと思います。決まった日の祭祀もありますが、日を選ばなければならない祭祀があります。日を選ぶのは首里王府ということ。ムラで日を選んで不作となった場合の責任を誰がとるか。今年は台風が続き、作物ができなかった。そこで責任はとらず、来年は作物ができますようにとの祈りをしているわけです。
 このように神人に関わる祭祀、そして祈りは御嶽を中心とした神人の祈りは国の貢租に関わるものです。

4.神人の祈りと年中祭祀

 ・村(ムラ)の祭祀を首里王府との関係でみる。
 ・祭祀を司るノロをはじめ神人は公務員である。

時々、わたしは「ノロをはじめ神人は公務員である」という言い方をします。祈りもそうであるが、神人は神職(役)に対して土地の配分をうけます。よく知られているのにノロに与えられるヌル地があります。ノロ地とは別に今帰仁村平敷に「神職並に信仰行事記録帳」(昭和27年)があり、「神職人の耕作地は下記の通りにして神職人更迭の場合は其後継人に引継がねばなりません」とあります。具体的には、以下の8筆です。(ここに記載ある神職は根神とペーフ役:小作料を区に出す)
    ・越 原  1,182番地 畑 342坪
    ・運 田  1,406番地 畑 134坪
    ・戸 茶   580番地 畑 336坪
    ・越 原  1,132番地 畑 216坪
    ・越 原  1,292番地 畑  63坪
    ・前 田   853番地 田  102坪
    ・前 田   862番地 田   92坪
    ・前 田   930番地 田  28坪

・神人の祈りは五穀豊穣・ムラの繁盛・航海安全(豊漁)が主です。

神人の祈りは大きく五穀豊穣とムラの繁盛、そして航海安全です。神人の祈りの言葉に出てくる五穀豊穣とムラの繁盛は租税に関わる祈りだと考えています。五穀豊穣は米や麦や豆が豊作でありますようにとの祈りは、穀物が豊作で税が納められるようにとの祈りです。特に米ですが、今の私達はお米を食べるものと思っていますが、実のところ米は税として納めるものでした。
 ムラの繁盛は土地制度との関わりで人が増えるとその分土地の配分し税を納めさます。増収になったわけで、地域のよってはムラで納める税が決まっていて人口が増えると一人あたりの納税が少なくてすむ計算になります。ムラの繁盛も租税との関りでの祈りとみることができます。 

航海安全は島国であるがゆえ、それと豊漁祈願とみていいと思います。もう一つは米などの上納物は、海上輸送が主でした。当然のごとく航海安全の祈願とつながってきます。ウタキに置かれている香炉をみると、その年号を合わせ見ると、大和や唐旅の安全祈願です。グスク内にある石燈籠もそう見てよさそうです。

例えば今帰仁グスク内の火神の前にある石灯籠は今帰仁按司十世宣謨が薩摩へ渡って帰島してからの設置(です。無事帰国できたことへの感謝だといえます。ムラのウタキの香炉もそのようなものが多いと思います。

このようにノロなど神人を中心とした祭祀を首里王府との関わりでみると税を納める、あるいは取る関係で見ていくと明快です。

5.山原のウタキ(御嶽)と集落と村(ムラ)

 山原のウタキ(御嶽)を集落や村(ムラ)との関係でみていきます。そのために使用する言葉について規定しておくことにします。
  ・村(ムラ)・・・近世から明治41年まで使ってきた行政単位。明治41年に村(ムラ)
           は(アザ)となる。部落や村落と同じ意味で使う。
  ・村(ソン)・・・村(ソン)は明治41年に間切は村(ソン)となる。現在の村(ソン)の
           こと。明治41年に今帰仁間切は今帰仁村(ナキジンソン)となる。
           かつての村(ムラ)は今の字(アザ)のこと。
  ・集落・・・・・・村(ムラ)や字(アザ)や部落の中の、さらに小さい単位の家々の集
          まりに使う。村(ムラ)の中のマクやマキヨなどの単位を集落と呼ぶこ
          とにする。
  ・移動村・・・移動村(ムラ)、あるいは移動村落は行政村や間切を越えて移動した
          村(ムラ)のこと。
  ・集落移動・・・村(ムラ)内部で集落部分が移動している場合をさしている。
          
6.山原のウタキ(御嶽)の様相と呼称

  山原のウタキは杜をなし、その多くが集落の後方に位置します。後方にあり、集落を抱えるようにあります。ウタキを集落との関わりで見ていきますが、ウタキそのものがどのような要件を供えているか。ウタキは外観から見ると杜をなしています。ウタキの基本的な要件は杜の入口あたりに鳥居がたっています。それは本来の姿ではありません。山原における鳥居は、大正から昭和の初期にかけてのものが多いいです(但し、石垣島の鳥居は明治初期にはすでにあります)。杜の内部にイビヌメーやイビがあり、ムラの人たちによって拝まれています。

  ウタキ(その杜)の頂上部にイビがあり、イビは岩であったり、目印に石を置き、線香を立てる香炉が置かれたりします。イビヌメーあたり、あるいはイビを囲むように左縄が廻らされています(今でもウタキでみられる)。
  ウタキ(杜)の中に、イビやイビヌメーばかりでなく神屋(カミヤー)や火神を祭った祠などもあり、集落の痕跡をみせるウタキもあります。また墓があり、グスクになっているウタキ(杜)もあります。 
 
   ・ウタキ(御嶽)   ・タキサン   ・ムイ(杜)   ・ウガンジュ(御願所)
   ・ウガミ(御願)   ・グスク(グシク)   ・オミヤ(お宮)   ・神 社

 御嶽の呼び方を山原ではウタキ・タキ・ウガミ・ウガン・ムイ・グシクなどを見つけることができます。御嶽が何かの議論や語義論ではなく、御嶽が果たした役割をクニ(首里王府)レベル、さらにムラ・シマレベルで明らかにしてみたいです。

 御嶽はクニ、あるいはムラ・シマレベルの祭祀と密接に関わり、祭祀そのものが王府からすれば税をとる、一方ムラ・シマの人々にとっては収める(とられる)という関係が祭祀を介してつくりあげられたと考えています。その頂点にたつのが聞得大君であり、その引継ぎが国家行事として行われました。地方ではノロを中心にムラの神人達が祭祀を担ってきました。

廃藩置県後のウタキを国家神道に組み込もうとする動きやウタキに置ける祈り(信仰)なども触れることになろう。クニ―祭祀(神人・年中祭祀)―ウタキ(拝所)―租税などの枠組みで見ていけたらと思います

1713年の『琉球国由来記』は歴史を読み取っていく貴重な資料だと考えています。というのは、1700年代から現在まで激動の約300年間であったはず。その間に村や神アサギや祭祀がどれだけ変貌をきたしてきたのか。特に神アサギの調査をしていると9割近い神アサギが確認できる。言い換えますと変貌の激しい300年という歳月でも残っているということは、もっと緩やかな時代ですから200年、あるいは300年ひっくり返すことができるのではないか。すると、神アサギは1500年や1400年に持っていくことができそう。少なくとも1500年代には。御嶽はグスクやムラの発生に近づけることができるのではないか。そう考えています。

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 クボウヌウタキ(今帰仁村今泊)    ウタキへの遥拝所(サカンケー)

7.山原のウタキ(御嶽)の分類

ウタキを集落との関わりで見ていくと、ウタキは以下のように分類できます。そこから見えてくるものを御嶽(ウタキ)の神観念や御嶽が何かということより、ウタキや祭祀が首里王府の制度との関りでとらえるとどうなるか。

①集落の発生と関わるウタキ(御嶽)
ウタキの内部、あるいは麓や近くに集落があり、集落(マキやマキヨ規模)の発生と結びついている。ウタキの内部に集落の跡や神アサギなどが残っている。複数のウタキを持つ村(ムラ)の様相。

②複数のウタキ(御嶽)を持つ村と神人
複数のウタキ(御嶽)を持つ村(ムラ)ある。それぞれのウタキを中心として発達した集落が一つの村(ムラ)になった痕跡として複数のウタキと神役の配分が、一門からだす。

③集落移動の村(ムラ)のウタキ(御嶽)
集落の発生と密接につながり、ウタキはその位置に残したまま集落だけが移動している。距離的にウタキを移す必要は必ずしもなかった。

④移動村(ムラ)のウタキ(御嶽)
ムラ全体が他の村(ムラ)を飛び越え、移動先で新しくウタキを作っている。故地にこだわることなく高い所に向けてイビを置いてある。地形的に故地に向いているウタキもあるが、こだわる場合は故地へ遥拝する拝所をつくり、あるいは向きを変えてウガンをする。移動先でウタキをつくり祭祀を行うのは何故か。その必要性。

⑤明治以前に創設された村(ムラ)とウタキ(御嶽)
明治以前に創設された村(ムラ)はウタキをつくり祭祀を行っている。ウタキをつくり祭祀を行う理由は。(祭祀が多く、統合されたのは?)

⑥分字(ブンアザ)とウタキ(御嶽)
大正から昭和初期、戦後にかけて分字(ブンアザ)があるが、新しくウタキをつくらず、祭祀は、出身字(アザ)に参加する。それは制度としてウタキをつくり祭祀を行う必要性がなくなったからである。

⑦グスクの中のウタキ(御嶽)
杜そのものがグスクになっていて、その内部にウタキ(イビ)がある例。今帰仁グスクや名護グスク、親川(羽地)グスク、根謝名グスクなど。小規模のグスクでは中城(今帰仁村)、ナカグスク(旧羽地村)、恩納グスク(恩納村)などがある。

⑧クニ(国)レベルの御嶽(ウタキ)
集落の発生とは関わりないウタキで、今帰仁村のクボウヌウタキやカナイヤブ、国頭村のアスムイなど。

  1526年の各地の按司が首里に集居させられます。それを示す史料がないとかの議論もなされているようです。按司の首里への集居は、それらのグスク近くから集落が移動する引き金になっています。例えば今帰仁グスクの例でいうと、今帰仁グスクに住んでいた按司一族が1665年に首里の赤平村に引き揚げていきます。すると今帰仁グスクの側にあった今帰仁村と志慶真村が麓に移動していきます。それはグスクに住んでいた按司あるいは一族と緊密な結びつきがあったからでしょう。

その結びつきが首里経由の緩やかな関係になると、グスクの側にいる必要性がなくなります。すると志慶真村と今帰仁村が麓に移動していきます。その例を見ると、今帰仁グスクでは1665年頃ですが、他のグスクの按司の首里への移り住みは1526年頃のようです。そのことが集落移動の第一ラウンドと想定することができそうです。

 グスクの中にある御嶽の例です。大宜味村の根謝銘グスクと同様なタイプです。今帰仁グスクの中の二つの御嶽は『琉球国由来記』(1713年)に城内上之嶽(神名:テンツギノカナヒヤブノ御イベ)と同(城内)下之嶽(神名:ソイツギノイシズ御イベ)とある。この御嶽は集落とのかかわりでどう位置づけられるかです。それと第二尚氏の今帰仁按司は初代から七代まで今帰仁グスクと密接にかかわっています。それと今帰仁阿応理屋恵との関わりもあり複雑になっている。

 今帰仁グスク内の二つの御嶽を集落との関係でみると、一つは今帰仁村(ムラ)、もう一つは親泊村(ムラ)の御嶽の可能性がある(志慶真村の御嶽は別にあると聞いている)。二つの御嶽を囲んだ形でグスクが形成されたこと。今帰仁グスクに住む今帰仁按司一族が今帰仁阿応理屋恵を継承している。


 1713年の『琉球国由来記』の頃には今帰仁按司は首里に引き上げ、そして今帰仁阿応理屋恵が廃止されている。そのため今帰仁阿応理屋恵が勤めていた職は今帰仁ノロが肩代わりしている時代である。コボウノ嶽もそうである。クボウノ嶽の祈りを見ると「首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノゝ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、島々浦々ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デゝ 御崇仕也」とあり、今帰仁ノロの崇所となっているが、祈り広がりからみても今帰仁阿応理屋恵の祭祀であったと見たほうがよさそうである。

 城内上之嶽は「此嶽、阿摩美久、作リ玉フトナリ」とあり、今帰仁阿応理屋恵が管轄していたクニレベルの御嶽であったのではないか。そのことは「おもろさうし」で「みやきせんに たつくも こかねくも たちより 大きみに おゑちへこうて はりやせ かなひやふに たつくも」(13912)と謡われている。
 
 本来、今帰仁グスクの御嶽は集落の発生とかかわる御嶽であるが、一帯がグスクとして城壁に囲われると同時に今帰仁監守一族の居住地となり、その一族が三十三君の一つ今帰仁応理屋恵をつかさどります。ところが17世紀中頃に今帰仁按司の一族が首里に引き揚げると、今帰仁応理屋恵の神職も廃止となります。今帰仁グスク内の御嶽とクボウの御嶽は地元今帰仁ノロが肩代わりをします。後に今帰仁今帰仁応理屋恵は復活するが祭祀の主導権をもとに戻すに至りません。
 カナヒヤブやクボウの嶽もクニレベルの御嶽と見ることができるが、上記のような歴史的な複雑な動きがあるため、もう少し資料を踏まえて整理する必要がありそう(改めて)。
  
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生とは関係なく複数村(ムラ)を管轄するノロと関わる
ウタキがある。今帰仁村玉城にあるスムチナウタキ。玉城ノロは玉城・謝名・平敷・仲宗根のムラを管轄するノロである。

8.複数のウタキ(御嶽)を持つ村(ムラ)と神人

・ウタキ(御嶽)の管理と神人
・集落の発生と神人と神役の継承
・ウタキ(御嶽)における神人の祈願(ウガン)
・ウタキ(御嶽)にある「奉寄進」の香炉や石灯籠

古宇利島の七杜七御嶽の事例(略)で説明。

 

まとめにかえて―村移動とノロ管轄―

最後に、1736年に現在の今帰仁村湧川地内に松田・我部・呉我・振慶名・桃原の五つの村(ムラ)がありました。蔡温の山林政策で移動させられた村です。山林政策をメインにしていますが、この村移動は羽地大川と屋我地島の開拓が目的にあったと見ています。羽地大川の改修が1735年でした。その翌年の村移動ですので、特に呉我と振慶名は。そこでのノロ管轄の変更がなされなかったこと。というのは、我部ノロが振慶名・呉我・我部・松田の村を管轄していました。それらの村移動があってもノロ管轄の変更がなさなかったことは、統治と密接につながっていると言えます。

特に振慶名は羽地間切の中央部に移動しています。仲尾ノロの管轄の村を越えた場所です。また伊差川ノロ管轄の古我知や伊差川村に近いところです。我部ノロの我部村は屋我地島です。海を越えた場所であってもノロ管轄の変更がなされなかったことは、ノロの管轄は管轄する村から報酬があったとも起因しているのでしょう。他に譲るということは、給料が減るということでもあると思います。そのために海を越えてでも、危険を冒してでもノロ管轄は死守したということなのでしょう。


2019年1月12日(土)

 西暦1500年頃から1666年にわたって「北山の歴史」の主役を担ってきた人物達がいる。それは監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理恵の一族である。その時代を描く手がかりが『具志川家家譜』や当時の「辞令書」、津屋口墓(墳墓記)、城内の今帰仁監守来歴碑、大北(按司)墓などである。

北山監守と今帰仁阿応理屋恵

一、はじめに

 北山監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵は16世紀初頭から17世紀前半までの「北山の歴史」を動かした人物達である。それらの人物が遺していった、あるいは遺した墓や遺品などから、いくらかでも歴史を綴ってみることにする。ここでの北山監守は尚韶威(一世)から従憲(七世)までの今帰仁按司である。今帰仁阿応理屋恵については、具体的な代や氏名については不明な部分が多いが『具志川家家譜』や残されたオーレーウドゥン跡や阿応理屋恵の遺品、監守の時代の辞令書、集落移動との関わりでみていくことができる。

 今帰仁グスクに監守が住んでいた時代は、1500年頃から1665年の間、一世の尚韶威から七世の従憲までである。一世の尚韶威は尚真王の三子で首里から派遣されているので首里生まれで、亡くなると玉陵(西の室)に葬られている。七世の従憲は今帰仁生まれ、首里に引き上げ、首里で亡くなるが今帰仁間切の運天の大北(按司)墓に葬られている。大北墓は1733年に今帰仁グスクの麓のウツリタマイ(玉御墓)から運天に移葬したようなので、七世は当初はウツリタマイに葬られていたことになる。

それから一世から七世まで、北山監守を勤めた一族がどのような痕跡を残していったのであろうか。その痕跡から歴史をひも解いていくことを目的とする。

 もう一方、北山監守の一族とみていい今帰仁阿応理屋恵、三十三君の一人なので首里王府の重要な祭祀をつかさどった神人である。今帰仁阿応理屋恵の動きから、集落移動や阿応理屋恵の祭祀と今帰仁ノロの祭祀が重なっている部分とそうでない部分も読み取ることができどうである。

二、北山監守(今帰仁按司)

 北山監守とは今帰仁グスクで監守を勤めた按司のことで、第二監守時代の尚韶威から七世の従憲までの按司をさしている。北山監守を勤めた按司達がどのような痕跡を残しているのか。それらの資料を確認してみる。

 一世の尚韶威は尚真王の第三子である。韶威については『具志川家家譜』に記され、今帰仁王子と称し、真武体金(童名)、朝典(名乗)、宗仁(号)で、母の名や生れは伝わっていない。韶威は嘉靖年間(1522~66年)に亡くなり西の玉御殿に葬られている。玉陵の碑に「みやきせんあんしまもたいかね」(今帰仁按司真武体金)とあり、玉陵に葬られている石棺がある。

 
▲「おどん」がでてくる辞令書(15年)

二世の今帰仁按司(王子)介昭は隆慶年間(1567~72年)に亡くなっている。『具志川家家譜』に思二郎金(童名)、朝殊(名乗)、宗義(号)である。嘉靖年間に尚韶威を継いで今帰仁間切惣地頭職になっている。四男の和禮が今帰る仁間切平敷村平敷親雲上の娘思加那を娶り、介紹の娘が宇志掛按司(童名:松比樽)の神職となり孟氏名今帰仁親方宗春の妻となる。今帰仁に残した痕跡は、大北墓の「宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金」は二世と見られるが「思二郎金」をそう判読したのかもしれない。住居は今帰仁グスク内である。 

三世は和賢である。『具志川家家譜』に眞武躰(童名)、朝敦(名乗)、宗眞(号)とある。嘉靖三六年(一五五七)に産まれ万暦19年(1591)に亡くなっている。三世は運天の大北墓ではなく今泊の津江口墓に葬られている。その理由は津屋口墓の「墳墓記」の碑文に読み取ることができそうである。

和賢は当初から津屋口墓に葬られている。津屋口墓は今帰仁村今泊にあるが、北山監守(三世和賢)の墓である。運天の大北墓に入れず、親泊の津屋口原に墓をつくり葬っている。墓の庭に「墳墓記」(一六七八年)が建立されている。その墓を扱うのは今帰仁グスクに住んでいた北山監守(今帰仁按司)一族と麓に移った集落、それと監守一族が移りすんだ集落内の二つのウドゥン(御殿)跡との関係を知る手掛かりとなりそうである。

 まだ、十分把握しているわけではないが、系図座への家譜の提出の際、先祖の履歴を整理していると、先祖の墓が粗末にされていたり崩壊したりしており、家譜の編集と墓の修復と無縁ではなさそうである。
 三世和賢は万暦十九年(1591)に亡くなっているので、その頃に墓は造られたであろう。「墳墓記」(碑文)から、以下のようなことが読み取れる。
 ・墓は修築された
 ・監守の引上げ(碑文では康煕丙午(1666年)
 ・尚真王第四(三か)王子宗仁は尚韶威のこと
 ・高祖今帰仁按司宗真は三世和賢のこと
 ・殿閣(ウドゥンのことか)近くに墓を築く
 ・津屋口に葬るのは便利である
 ・三世和賢は万暦辛卯(1591)に亡くなる
 ・葬った墓の地は津屋口(地名)である
 ・「墳墓記」の建立は康煕17年(1678)である
などである。

 現在墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫? 仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。

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▲碑の拓本 ▲三世和賢が葬られた津口墓と「墳墓記」(1678年建立)

 四世は今帰仁按司克順である。『具志川家家譜』によると眞満刈(童名)、朝効●(名乗)、宗心(号)である。父は和賢で母は眞牛金である。万暦八年(1580)に産れ同24年(1596)に十七歳で亡くなっている。万暦19年(1591)に父和賢を継いで今帰仁間切惣地頭職を継いでいる。在任は数年である。若くしてなくなったため子供もはいなかった。

四世克順の時の「今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書」(1592年)がある。

  しよりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   よなみねのさとぬしところ
 一六かりやたに四十九まし
   しよきたばる又もくろちかたばるともに
 一百四十ぬきちはたけ七おほそ
   やたうばる 又ひらのねばる 又はなばる
  又さきばる 又なかさこばる 又おえばるともに
  又よなみねの四十五ぬき
   かないの大おきてともに
  一人たまくすくの大屋こに
   たまわり申候
 しよりよりたまくすくの大やこの方へまゐる
万暦二十年十月三日

辞令書の発給の時期は四世克順の頃である。今帰仁間切の玉城の大屋子に宛てたものである。今帰仁按司や今帰仁御殿などの言葉は出てこない。大屋子という役人は、朱里王府から直接辞令を発給されていて、北山監守を経由するものではなかった。

 今帰仁に残る四世の痕跡は大北墓の「宗仁公四世今帰仁按司ママカル金」のみである。家譜にある四世の童名の「眞満刈」とあるが墓調査では「ママカル金」と読んでいる。確認が必要である。 

 五世は今帰仁按司克祉である。『具志川家家譜』による眞市金(童名)、朝容(名乗)、宗清(号)である。万暦十年(1582)に産れ同三七年(1609)に二八歳で亡くなっている。克順の弟で、兄の克順が十七歳で亡くなったので、その後を万暦二四年(1596)に今帰仁間切総地頭職を継いでいる。次男の縄武は中宗根親雲上の娘で阿応理屋恵(今帰仁)である。

 「今帰仁間切辺名地の目差職叙任辞令書」(1604年)がある。五世和賢の時代である。和賢が今帰仁グスクに居住していた頃である。

 しよりの御ミ事
   みやきせんまぎりの
   へなちのめさしハ
   ミやきせんのあんじの御まへ
  一人うしのへばんのあくかへのさちに
   たまわり申候
 しよりよりうしのへはんのあくかへのさちの方へまいる
  (首里王府から、今帰仁間切の辺名地の目指を、今帰仁按司の部下である丑の日番の
   赤頭のサチに賜るよう申し上げる。首里(王府)から丑の日番の赤頭のサチに差し上げる)

  

 今帰仁間切は「ミやきせんまきり」と言われ、「へなち」は辺名地であるが、まだ村が使われていないことに注意すべきである。村は近世以降の行政単位だということがわかる。「みやきせんあんしの御まへ」(今帰仁按司の御前)ということは今帰仁グスクに住む按司の御前ということになる。「うしのへはんのあくかへ」(丑の日番の赤頭へ)であるが、今帰仁グスクへ勤める三番制度(三交替制)があり赤頭の役職があったことが伺える。

 大北墓の銘に五世が見られないが、「今帰仁按司御一人御名相不知」があり、五世の可能性がある。ただし、薩摩の琉球侵攻で今帰仁グスクが攻められた時の監守なので尚寧王が玉陵に入らなかった例もあるので、大北墓に葬られていない可能性もある。大北墓はグスクの麓のウツリタマイ(按司墓)から十世宣謨の時、運天に移葬しているので、そのことも念頭に入れておく必要がある。 

 六世は今帰仁按司縄祖である。『具志川家家譜』によると鶴松金(童名)、朝経(名乗)、瑞峯(号)である。万暦二九年(一六〇一)に産れ順治十五年(1658)に五八歳で亡くなる。父克祉の後の惣地頭職を継いだのは一六〇九年で八歳の時である。縄祖の次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の娘を娶り阿応理屋恵按司(童名思武眞金)である。

 「今帰仁間切謝花掟職叙任辞令書」(1612年)がある。

 しよりの御ミ事
  ミやきせんまきりの
  ちやはなのおきての
  ミのへはんの□□
  くたされ候
 万暦四十年十二月□日
  (首里からの詔 今帰仁間切の謝花の掟である巳の番の誰それに差し上げなさい)

 この辞令書が発行された1612年は、薩摩軍の今帰仁城侵攻から三年後のことである。北山監守(六世の今帰仁按司)はまだグスク内に住んでいたのであろう。五世克祉の時代にあった三番制度が、まだ引き継がれている。謝花の掟が三番制度の巳の当番でグスクに出仕していた様子が伺える。

 六世縄祖(惣地頭職1609~53年)の時の辞令書がもう一点ある。七世と惣地頭職を引き継いだのは順治十三年の二月である。辞令書は同年正月二十日なので六世縄祖の時の「今帰仁間切与那嶺の大屋子職叙任辞令書」(1643年)の辞令書である。

  首里の御ミこと
    今帰仁間切の
    よなみねの大屋こは
  一人今帰仁おどんの
    ももなみの大屋こに
    たまわり申[候か]
  崇禎十六年十月三日

 ここで注目するのは「今帰仁おどん」である。それからすると今帰仁グスクから城下に移り住み、そこが今帰仁御殿と見られる。いつ城下に移ったのかの年代は不明であるが、ここでいう「今帰仁おどん」(今帰仁御殿)は、今でいうオーレーウドゥンと見られる。

今泊の集落内に二つの御殿跡がある。一つは按司(監守)の御殿、もう一つは今帰仁阿応理屋恵の御殿である。今のオーレーウドゥン跡地が按司(監守)の殿内(今帰仁村地内)で、馬場の東側の角のウドゥン敷地跡(親泊村地内)が今帰仁阿応理屋恵の殿内と想定している。移動した後の阿応理屋恵按司火神は『琉球国由来記』(1713年)によると親泊村地内にある。それと「今帰仁里主所火神」が按司家の火神で今帰仁村地内にある。そこには六世縄祖の位牌がある。現在のオーレーウドゥン(阿応理屋恵御殿)は、もともと按司御殿で、後に親泊馬場の東側角のウドゥン跡がオーレウドゥンで、阿応理屋恵が按司御殿内に嫁いだので、そこに統合されたのではないか。

   

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七世は今帰仁按司従憲である。『具志川家家譜』に思五良(童名)、朝幸(名乗)、北源(号)とある。天啓七年(1627)に産れ康煕二六年(1687)に六一歳で亡くなる。七世のとき、北山監守(今帰仁按司)は康煕四年(1665)に首里赤平村に移り住むことが許された。その年は1665年である。その翌年(1666)に今帰仁間切を二つ分割し、今帰仁間切と伊野波間切(翌年本部間切と改称)。今帰仁間切惣地頭職になったのは順治十一年(1653)である。その時の俸禄は五六石、間切分割の時か不明だが知行減少の時四十石となる。

従憲は康煕二六年(1687)に首里で亡くなるが、故郷の運天の大北墓に葬られている。ただし、従憲がなくなった頃の墓は運天の大北墓ではなく今帰仁グスク麓にあったウツリタマヒ(玉御墓)である。十世宣謨の時、雍正十一年(1733)に運天の大北墓に移葬したようである。大北墓に「宗仁公七世今帰仁按司」とある。 

七世従憲が首里に引き上げたことで監守としての役目はなくなり、今帰仁按司は他の按司と同様な扱いとなる。首里引き上げ後も今帰仁按司は十四世まで継承されていく。八世から後については触れないが、十四世の世忠(朝□)まで今帰仁按司、十五世の朝昭の時具志川按司を名乗り、琉球処分となる。明治五年の琉球処分の時は具志川按司である。これまでの今帰御殿は具志川御殿を名乗り現在に至る。


 全文は右へhttp--yannaki.jp-kansyu.html


2019年1月11日(金)

 大宜味村の言語編の編集作業に入っているが、言語地図を作成するにあたり以下の仮説を立てて大宜味村内の16の言語地図(100語余)の作成を進めている。作業途中であるが、最初に掲げた以下の仮説とは別のとらえ方をすること度々。まったく先が見えないが、言語地図を作成してみる(説明のつかないことが多くみられ、それが面白い。線引きできない微妙な領域があることに気づかれる)。

大宜味村言語編


                  (現在16の字)

①田嘉里 ②謝名城 ③喜如嘉 ④饒波 ⑤大兼久 ⑥大宜味 ⑦根路銘 ⑧上原 ⑨塩屋
⑩屋古 ⑪田港 ⑫押川 ⑬大保 ⑭白浜(渡野喜野) ⑮宮城 ⑯津波

(言語調査表から言語地図作成作業) 

 大宜味村には現在17の字からなる。歴史を辿ると大宜味間切(村)が創設されたのは1673年である。大宜味村の田嘉里・謝名城・喜如嘉・饒波・大兼久・大宜味・根路銘(上原)・塩屋(上原)・屋古・田港(大保)・押川・白浜(渡野喜屋)は国頭間切から、津波(宮城)は同年羽地間切(現名護市)から大宜味間切の村となり、明治41年以降村は字となる。言語地図(分布)を通してどのような言語の変容がみられるのか、そして根強く継承されている言葉の意義を問うことができるか。

【行政区画】(方切)(1673年に大宜味間切が成立) (間切・村の歩み:合併・分離・新設))

 羽地間切から大宜味間切に組み込まれた津波(宮城)との間に言語の境界線が見られる。カ行子音のハ行化が顕著に見られる。木(キ)がキ、毛(ケ)がキー、他の字では木はヒー、毛はキーと発音される。

 津波(宮城除く)ではP音が濃く残っている。

 ハ行子音のパ行、ファ行、ハ行化の津波では、葉はパー、歯はパー、花はパナ、羽はパニ、骨はプニ、坂は津波ではピャー、他ではヒラ、フィラ、サカやパーが見られる。

 口蓋化現象が少ない地域(大宜味村全域)で、商売は津波はじめアキネーである。息もイキ、イーキである。

(行政区画による言語境界線)(方切の影響) 

【ノロ管轄】の影響は】

大宜味村には屋嘉比ノロ、城ノロ、田港ノロ、津波ノロがいる。それぞれノロ管轄で言葉の差異が見れるかどうか。

・屋嘉比ノロ管轄の村(字)
   ①屋嘉比村 ②親田村 ③見里村 ④浜村

 三つの村の統合(明治36年)で、言語的に特徴を見いだすまでに至っていない。今回の言語調査は合併以前の村に分けての調査はなされていないので言語の差異は不明である。田嘉里で坂についてサカとパー、父はウフジとチャーチャー、兄・姉はシザとシーザ、うるさいはユンガシマハン、ハマラシーなどがある。すべては掲げないけど、複数の呼称がある。複数の村の統合に起因している可能性がある。 

・城ノロ管轄の村(字)

  ①城村 ②根謝銘村 ③一名代村 ④喜如嘉村 ⑤饒波村 ⑥大宜味村

 城ノロの管轄は三つの村(城・根謝銘・一名代)と喜如嘉村、饒波村、大宜味村(大兼久)に及ぶ。城・根謝銘・一名代の調査も謝名城として調査しているので、その差異については不明である。謝名城で複数の呼称があるのは、田嘉里と同様な理由があるかもしれない。田嘉里でも出たが、坂はサカとパー、父はウフジとチャーチャーなど。 

・田港ノロ管轄の村(字)
  ①田港村 ②塩屋村 ③屋古前田村 ④渡野喜野村 ⑤根路銘村

 田港ノロ管轄の村は、そのほとんどが塩野湾に面している。

 葉(は)を取り上げてみると、白浜・大保・田港・屋古がハー、塩屋がファーである。塩屋はパーからファーへの移行、まだハーに移行していない段階であろう。塩屋でハーリーをファリーと唱えていることからP音からF音へ移行している過程と見てよさそうである。田嘉里・謝名城・喜如嘉・饒波・大兼久・大宜味・根路銘・上原・塩屋までファーである。ハー寄留人の影響があるかもしれない。 

・津波ノロ管轄の村(字)

  ①津波村(字) ・宮城(字) ②平南村

 (平良ノロ管轄の村)(1695年頃久志間切へ)

   ①平良村 ②川田村

・大宜味間切内法による影響

 城ノロ管轄の喜如嘉・饒波・大兼久・大宜味ではどうか。かつて喜如嘉は喜如嘉で村墓を持っていた。饒波と大兼久・大宜味・根路銘の村墓は根路名にあった。それはノロ管轄村とは別の理由とみられる。土地制度(地割)で饒波・大兼久・大宜味は土地が少なく、根路銘に村墓を置いたのであろう。饒波の集落の上の方に大宜味や大兼久・根路銘の人々が村を越えたところに土地を持っていたことがわかる。明治36年まで租税はムラに課していたので女性の方々は村から他村への婚姻は困難であった。

 大宜味間切内法(明治19年12月11日)の第四十五条に「寄留人又ハ他間切ノ者ヨリ当村婦女ヲ妻ニセントスルモノハ公役手間米トシテ夫ノ方ヨリ米五俵或ハ六七俵村所へ相納サセ或ハ妻持頭ノ方ヘ頭越シ候上妻ニ差免可申若妻暇ヲ貰ヒ帰家スル時ハ右手間米ハ夫の損ナリ且又妻勝手ニ帰家シタルモノハ速ニ請取ヘシ若シ延引スル時ハ親兄弟ノ財産蓄類売却シ延引スル時ハ親兄弟ノ財産蓄類売却シ当高ノ分ハ受取候事」とある。内法の規定が同じ村同志の婚姻が村毎の言語のまとまりをなしている最大の要因に違いない。

・校区による言語の違い 

・海岸沿いと山手の言葉(生業) 

・田港番所・大宜味番所・塩屋番所の影響(気質の違い) 

【寄留人の字と言語】(寄留前の地からの移入。寄留してからの変容というより前の地の言語を踏襲か)

 大宜味村で寄留人で形成され、あるいは分離した字(アザ)がある。

・校区による言葉の違い?

・大宜味間切内法による影響(土地制度:租税制度:地割の影響)

 城ノロ管轄の喜如嘉・饒波・大兼久・大宜味ではどうか。かつて喜如嘉は喜如嘉で村墓を持っていた。饒波と大兼久・大宜味・根路銘の村墓は根路名にあった。それはノロ管轄村とは別の理由とみられる。土地制度(地割)で饒波・大兼久・大宜味は土地が少なく、根路銘に村墓を置いたのであろう。饒波の集落の上の方に大宜味や大兼久・根路銘の人々が村を越えたところに土地を持っていたことがわかる。明治36年まで租税はムラに課していたので女性の方々は村から他村への婚姻は困難であった。

 大宜味間切内法(明治19年12月11日)の第四十五条に「寄留人又ハ他間切ノ者ヨリ当村婦女ヲ妻ニセントスルモノハ公役手間米トシテ夫ノ方ヨリ米五俵或ハ六七俵村所へ相納サセ或ハ妻持頭ノ方ヘ頭越シ候上妻ニ差免可申若妻暇ヲ貰ヒ帰家スル時ハ右手間米ハ夫の損ナリ且又妻勝手ニ帰家シタルモノハ速ニ請取ヘシ若シ延引スル時ハ親兄弟ノ財産蓄類売却シ延引スル時ハ親兄弟ノ財産蓄類売却シ当高ノ分ハ受取候事」とある。内法の規定が同じ村同志の婚姻が村毎の言語のまとまりをなしている最大の要因かもしれない。

 どれだけ 上に掲げた仮説で説明できるか、別の説明を必要とすることが語がすでに出てきている。それが楽しみです。



以下言語地図(一例のみ)(100語余)

【歯(歯)031】

 ・ファー  ・フヮーア  ・フヮー ・ファー ・ハー ・ハァー ・パー

 大宜味村で歯の語形は六つ拾うことができた。パー→フヮー→ハーと変化していくとみられる。パーは大宜味村の南側の津波・宮城・白浜・大保・押川・田港・屋古である。津波にパーが残る理由は1673年まで羽地間切の村であったこと。でも田港にパーが残っている。宮城・白浜・大保・押川・屋古はハーである。これらの村は寄留人の多い村であり、その影響とみられる。フヮーは北から田嘉里・謝名城・喜如嘉・根路銘・上原・塩屋である。フヮーア、ファーがあるが、[p]→[f]へ移行していると見られる。大宜味に寄留してからの変容というより寄留前の地の方音を踏襲していると見るべきか。




2019年1月10日(木)

 「琉球・沖縄の地図」は三年前の報告にデジメである。他の資料さがしていたらデジメ原稿が出てきたので不明になるのでここで紹介。

琉球・沖縄の地図
           ―土地整理前後の地図・土地台帳など― 
もくじ

1.「今帰仁間切平敷村略図」から
 ・作図の年代・方法
 ・平敷村畧図と印部石 
 ・平敷村図の原と小字
2.国頭郡今帰仁間切平敷村小字図(7枚)
3.土地整理と合併村
4.土地整理と今帰仁間切の平敷村小字前田原図一帯
5.土地整理字図・小字図
 ・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控)(明治34年)
 ・今帰仁間切兼次村土地整理台帳
6.今帰仁間切村全図と今帰仁村村字全図(画像で紹介)
7.戦後の測量  

 ・「今帰仁間切平敷村略図」から
 ・「平敷村略図」の年代
 ・「平敷村略図」と周辺の原と印部石
 ・「平敷村略図」の原と現在の小字

  
     ▲平敷村略図              ▲今帰仁旧城図(乾隆7年癸亥)

・平敷村略図の作成年代は?
・元文検地図は「南が上、北が下」とあり、平敷村略図も北が下、南が上。(タイトルに合わせる)
・「今帰仁旧城図」もタイトルに合わせると北が下、南が上
・平敷村略図周辺の原と印部石

 ・ミナト原 ・スガ原 ・渡川原 ・前田原 ・掟田原 ・山田原 ・ゴミ原 ・上原 
 ・上原 ・上サナ原 ・上謝名原 ・山出原 ・トチャ原 ・小浜原 
 
   
     ▲大こふ原        ▲うへてな原            ▲ヰ ふかさく原 

・印部石の原と「平敷村略図」と現在の小字

 「平敷村略図」がいつ頃の図面なのか、年号が記載されていないためはっきりしないが、明治32年以前の図面とみられるタイトルには「平敷村略図」とのみある。図面の紙は楮紙で本土産だとのご教示を受けている)。

 「平敷村略図」は平敷村と周辺村との境界を測量し、その内側に小字の線引きをした図面である。西側の崎山村との境から竿入(測量)(竿入)が始まり、海岸のミナト原(崎山)を起点に南下し、さらに上原から東側の謝名村境へと北上し海岸で終了している。「平敷村略図」から情報を読み取ると、東西南北、謝名村境、崎山村境が記され、凡例には赤色の道路、黒の破線の原境、赤い丸印の村境などが測量うされている他、小字名や道路、それに家、松などの記載がある。境界線の部分に出てくる小字名は、ミナト原、・スガ原・渡川原・前田原・掟田原・山田原・ギミ原・上原・上サナ(上ザナ・上謝名)原・山出原・トチャ原・小浜原である。ミナト原が崎山、ゴミ原は崎山か仲尾次(グミの小地名がある)。上ザナは謝名、平敷にもウヘテナ(上ザナ)原がある。平敷村の周辺は不明な四地点を除いた距離は2,288間5合(約4.6km)である。

「平敷村略図」と名の示す通り、平敷村の周辺と小字の境界などを概略的に作成した図面である。略図面ではあるが、旧原域や原名や村境や印部石との関わりもあり、今帰仁村内で確認されている印部石の整理をしてみる。数個の増あり。 

2.国頭郡今帰仁間切平敷村小字図(7枚)

  ①   国頭郡今帰仁間切平敷村字戸茶原 筆数百三十九筆
②   国頭郡今帰仁間切平敷村字前田原
③   国頭郡今帰仁間切平敷村字運田原
④   国頭郡今帰仁間切平敷村字山出原
⑤   国頭郡今帰仁間切平敷村字越原
⑥   国頭頭郡今帰仁間切平敷村字沢原
⑦   国頭郡今帰仁間切小浜原

   
  (字図は修復前の状態)

3.土地整理と合併村

明治36年の土地整理で地割制度は終りつげる。下の図は土地整理直前の地割の最後の様子を示すものである。「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者について報告したことがある。土地保有者がバラバラである。それは地割の実態を示すものである。平敷村は貧富割タイプ。

 ①貧富割(12村)
   今帰仁・親泊・志慶真・兼次・諸喜田・與那嶺・崎山・平敷

   ・勢理客・天底・湧川・古宇利
 ②貧富および耕耘力割(5ヶ村)
   仲尾次・謝名・仲宗根・運天・古宇利?
 ③貧富および人頭割(3ヶ村)
   玉城・岸本・寒水
 ④人頭割・年齢に関せず(1ヶ村)
   上運天

 
 
   ▲山原の地割基準                ▲今帰仁間切の地割基準のタイプ

   

▲国頭郡今帰仁間切崎山村全図            ▲今帰仁間切天底村字和呂目全図 

4.平敷と崎山の前田原一帯

 今帰仁村の今泊・与那嶺・崎山・平敷・謝名・仲宗根・湧川の字に「前田原」と呼ばれる小字がある。名の示す通り、水田のあった場所に付けられた地名である。昭和30年代まであった今帰仁村内の水田跡は、前田原や安田原、掟田原などの小字名にその名残を留めている。

 昭和22年から24年にかけて、崎山のハーラマイアジマー(川回辻)付近から山手の方に向かって崎山と平敷の前田原一帯を撮影したものである(Okinawa lsle of Smiles,William E.Jenkis)。

 後方の山は、一番右手の山がハサマ山(標高約252メートル、崎山地番)さらに左側が乙羽岳(標高約275メートル)である。左右に走る直線道路がスクミチ(現在の国道五◯五号)で、中央部を斜めにいくのがジニンサガーラである。台風や大雨の時に氾濫を起こすことがあった。

 ジニンサガーラを挟んで手前が崎山の前田原で、向こう側が平敷の前田原である。因みに国道の向こう側は、平敷の掟田原。平敷掟を勤めた間接役人の役地があったことに因んだ地名であろう。

 ジニンサガーラの両側に広がる水田は水が張られ、田植えはこれからだろうか。土地改良が、まだなされておらず、戦前からの曲がった畦道は不便ではあるが風情がある。

 昭和48年に平敷土地改良事業が着手され、水田から畑地に切り替わり、現在に至る。中央部を「~」字形に流れているのがジニンサガーラである。川の水をモーターで汲み上げ、現在、キク畑、ビニールハウス(ニガウリ、キュウリなど)、緑化木、砂糖キビなどの潅漑用水として利用されている。国道沿いにガソリンスタンドや民家ができた。

 戦後、今帰仁村の土地利用が大きく変わった要因の一つに昭和30年代後半から40年代にかけて、稲作が消えたことがある。水田跡の水はけのいい土地は畑地に切り替わったが、湿地帯はそのまま放置された。昭和40年代になると土地改良事業が進められ、一筆一筆の形が直線的に区画された。土地改良の目的は小規模農地が雑然としている、一筆ごとの面積が少ない、低湿地帯の土地改良をし、生産高を向上させることにあった。

5.土地整理字図・小字図

・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控)(明治34年)
 ・今帰仁間切兼次村土地整理台帳 

 

6.今帰仁間切村(ムラ)全図と今帰仁村(ソン)村字全図

   

7.戦後の土地測量(昭和22年)

 戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただいた(今帰仁村仲尾次:昭和22年)。

 
▲昭和22年の土地測量をした面々(今帰仁村)         ▲戦後すぐの土地測量図

参考文献

・『なきじん研究 7号』所収

今帰仁村内の小字の変遷―平敷村畧図」にみる(仲原)(平成9年)  
  1.「平敷村略図」
  2.平敷村の小字図
  3.「平敷村略図」と現在の小字の比較
  4.村内の原石(印部石)と小字(原名)
  5.平敷の現在の小字の現況
  6.今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者 
・『じゃな誌』(所収)(昭和62年)(仲原)今帰仁間切の地割と平敷村 
・「今帰仁村の印部石」(所収:仲原) 沖縄県地域史協議会発行


2019年1月7日(月)

 「寡黙庵」のヒカン桜が開花。台風の後にも開花したが、疲れでどうかなと気にしていたが、例年通りさきそうだ。年末「寡黙庵」の部屋の片付けたが、ボツボツ資料が山積みになりかけてきている。小雨の庭の草花が生き生きとしている。


     ▲庭先のヒカン桜が咲き出しいる。        ▲小雨のなか、ポロンポロンが


    ▲乙羽山に小雨でもやっている。         ▲年末に行った大宜味村の饒波の炭焼き小屋


2019年1月7日(月)

 今帰仁城内に1700年代の歴史の動きをしることができる監守来歴碑記、石燈籠、具志川家譜の図などが遺されている。その頃は今帰仁按司(王子)十世宣謨である。大北(按司)墓を今帰仁城の親川の近くのウツリタマイから運天へ移葬。大北墓の墓碑に具志川家譜の文面が刻まれている(但し、現在の碑は大正に再建)。裏面に再建の理由が記されている(国頭郡志にも)。

【今帰仁グスク火神の祠前の石燈籠】

 今帰仁グスク城内にある火神の祠の前に四基の石燈炉がある。石燈炉の他に「山北今帰仁城監守来歴碑記」(乾隆14年:1749)がある。それらは火神の整備と同時期に建立されたものとみられる。元文検地の時、今帰仁城も竿入れがなされている。「今帰仁城之儀」の「覚」書きがあり、乾隆7年(1742年)に今帰仁按司の名で提出されている。「今帰仁旧城図」は翌年の乾隆8年(1748)に差し出されている。その旧城図に火神・トノ敷・上イヘ・下イヘが描かれ、当時にもあったことが知れる。それ以前の『琉球国由来記』(1713年)には、城内上之嶽・同下之嶽・今帰仁里主所火神・今帰仁城内神アシアゲがあった。

 「山北今帰仁城監守来歴碑記」と「石燈籠」の建立は乾隆14年(1749)である。それは『琉球国由来記』と「旧城図」の差出より後のことである。石碑と石燈籠の建立は何を記念してのことなのか。どのような意味あったのかということになる。大和めきものは隠していた時代にである。

 碑と石燈炉に乾隆14年(1749)と今帰仁王子、奉寄進とある。1749年の今帰仁按司は十世の宣謨である。十世宣謨は乾隆12年(1747)に王子の位を賜り使者として乾隆13年6月薩摩に赴き、翌年14年3月に帰国している。「石燈籠」の一つに「乾隆十四年己巳仲秋吉日」とあり、帰国した年の秋(8月)に石碑と石燈籠の建立がなされている。その時、火神の祠の改修も行われたのであろう。

 これまで各地の石燈籠や銘のある香炉を見てきた。その多くが薩州(薩摩)や上国(江戸)の年号と合致する。石燈籠や香炉の「奉寄進」は薩摩や江戸上りから無事帰国できたことへのお礼と、その記念としての奉納の意味合いが強い。

 帰国は麑府(鹿児島)を出て山川港から出港している。石燈籠、あるいは石香炉に使われている石は山川産の石(凝灰岩)か。

 ①の石燈炉「乾隆十四年己巳 仲秋吉旦(日?)」「奉寄進石燈炉」 「今帰仁王子朝忠」
 ②の石燈炉「奉寄進□□年」(他の文字は判読できず)
 ③の石燈炉(文字判読できず)
 ④の石燈炉「奉寄進」(他の文字は判読できず)


▲今帰仁城内の移設前火神の祠と監守来歴碑記と石燈籠(昭和40年頃)


2019年1月5日(土)

 数年前伊江島で「伊江島の大折目」を復活したいということで講演したことがある。参与観察記録をベースに「伊江島の大折目」(シニグ)を解説。


【伊江島の祭祀】(『のろ調査資料』中山盛茂・富村真演・宮城栄昌共著

※の祭祀はノロが関わる
※・旧正月 二十日吉日御折目
    神人は各自担当の拝所(十二ヶ所)にえんどう豆二つ、ニンニク二つ、芋二つ、大根二本を備え、
    各作物の豊作を祈願する。
 ・旧二月 麦穂祭(男折目)現在なし。
※・旧三月 麦大祭
       唐豆、えん豆、麦入れの飯を供える。各家庭でも。
※・旧三月三日 ノロだけ、千人ガマ、宮てやがまを拝む。
 ・旧四月    畦払い、虫を海に流す。
※・旧五月  二十日後折目競馬
 ・旧六月 年浴 粟ご飯を供える。綱引き(現在なし)
・旧七月 大折目(海神祭) 二十日以後の吉日
    第一日 神人たちは白装束にホールンチャゴイ(かづらを頭にまとう)し、斉戒淋浴して
         大船頭がなしの家に集まり祈願、二手に分かれて各所に祈願して、グスクの
         御嶽に集まり、東江上御嶽である富里(ヒサト)御嶽へ遥拝。次にメーシカン
         庭に移り粟神酒を供える。
    第二日 神人たち、昼間飯(ヒルマムン)を持参してメーシカン庭に集まり、弓引きの行事
         をする。
    第三日 神人たちはフサト御嶽に集まる。
          フサト根神(山城氏)が神人達の接待にあたる。フサトで七つの行事を行い門中の
         若者の 牽く馬でグスク御嶽に駆け上がり、グスクの神に祈り、さらに東の方のフサト、
         今帰仁神を遥拝浜下りをなし、そこで行事を行う(舟の回りを七回まわる。ユー(魚)
         取りの所作をする。
          以前はノロの五人だけが馬に乗った。全神人が参加する。
         住民は第一日目各門中ごとに祈願、三日目はノロたちの祭祀をみる。
  ・旧八月 柴差し
※・旧九月 初種子(ハチダニ)、小麦、大麦、唐豆、えん豆などを選ぶことから、豊作を祈る。各家庭
        でも節日を祝う。
※・旧十二月二十四日 星の御願い、かまどを塗りか火神をまつる。 解御願
     正月元旦 降天  立御願 

【伊江島のシヌグ

 伊江島のシヌグは『琉球国由来記』(1713年)で「大折目」(七月日撰三日間)の後に、それも日を撰ぶが「シノゴ折目」として行われる。
   日撰を以、シノゴ折目トテ、御タカベ仕ル。様子ハ、色々作物ノ品品ニ、虫不付タメノ願ニ、高
   一石ニ付キ、雑石二合完取合、御花・御五水・線香ニ仕替シ、城ノ頂ノ御イベ、同所伊江セ
   イノ御イベ、荒ノ浜御イベ・根所火神ヘ居テ、ノロ・掟神、御タカベ仕リ、万ズノ蟲取集、海ニ
   捨テ、島中男女惣様、一日中遊申。昔ヨリ伝来テ仕ル也。

  城の頂の御イベ→伊江セイの御イベ→荒の浜→集落内の根所火神へいき、ノロ・掟神が御タカベを唱えながら、全ての虫を取り集め、海の方へ捨てる。その流れはシヌグ(凌ぐ)である。

 その様子を宮城真治氏は「宮城信治調査ノート」(昭和3年6月)でシニグは凌ぐであるとの認識で記録
 してある。

【シニグ祭】

   大ゆみの三日目後に行った。
   ウヒャーという男の神職が行う。
   東リンミャ(東りのろ殿内の庭)といりんミャー(中んノロ殿内の庭)とに集まり、シバといって、
   ヤブニッケイやアクチ(ムクタチバナ)の枝を持って悪鬼を追い払う。イッサンネービとて、東西
   各三人宛赤鉢巻をしたものが逃げてあるく。それは鬼であろう。
     ウヒャーは「エートーホー
            エートホー
            ウニジレー(鬼は出よ)
            トゥクワトドゥマリ(鬼は留まり)
            ウニジレー(鬼は出よ)
            エートーホー」
と唱える。ウシャパドモーまで追う。そこでもエートーホーをする。のろ等は、モーで見物する。
  ウシャパドモーの南なるヤイナギ屋敷という空き家敷に竹槍を投げる。
  東のミヤー人々はアラヌ浜に、イリヌミャーの人々はグシヌハマに行く。そこでかぶりもシバも捨てる。



2019年1月4日(金)
 
 年末からパソコンが動かず、今年一年の構想をねることに終止。リズムを壊してしまう。しばらく過去の記録を振り返ることに。

山北王の時代

沖縄本島北部を山原(やんばる)と呼ばれている。山原と呼ばれるようになるのは近世になってからである。その地域は山北(北山)と記される。山北(北山)・中山・山南(南山)が鼎立していた時代を三山鼎立の時代と呼んでいる。北山の領域が山原である。

北山の時代は十一、二世紀から十五世紀初頭にかけてを言う。その北山の時代は、各地のグスク(城の字をあてグスクやグシクと呼ぶ)に按司が居住し、小規模のグスクが山原では五つにまとまり、さらに五つが今帰仁グスクに統一される。『明実録』に山北王が登場する頃には今帰仁グスク(北山城址・今帰仁城)に山北(北山)王が居住し、山原全域(奄美域の一部含む)を統括しクニとしての体裁を持った時代である。

山北というクニはどのような支配形態を持っていたのか。後に五つの行政区(間切)へまとまっていく。その過程とその時代に築かれた文化、支配形態については『明実録』を通してみることにする。

1、五つのグスクの頂点

 まず、現在想定している山原の歴史の流れを素描してみる。沖縄本島北部に後に五つの間切へとつながる根謝銘(ウイ)グスク(現在の大宜味村謝名城)、親川グスク(別名羽地グスク、旧羽地村で現在名護市)、金武グスク(金武町)、今帰仁グスク(今帰仁村)がある。その他に四十近い小規模のグスクがある。グスクと呼ばれていないが、御嶽(ウタキ)というのが、村(ムラ、今の字)クラスにある。御嶽(ウタキ)は集落(マキ・マキヨ)の発生と密接にかかわる信仰の対象となる重要な聖地である。グスクはある規模の権力を持った有力者と関わる場所だと考えている。

 十一、二世紀頃から各地の御嶽(ウタキ)を腰当(クサティ)とした集落の発達と、それらベースにした支配者のグスクが地域をまとめていく(支配)していく流れが被さっている。そして山原の各地の小規模のグスクが五つの中規模のグスクへとまとまっていく。そのまとまりが前にあげた一つのグスクである。さらに、五つのグスクを統括したのが今帰仁グスクである。山原の五つのグスクに住む按司達は、それぞれのグスクに居住しつつも今帰仁グスクに君臨する北山王のもとに統治された。今帰仁グスクを拠点に君臨した山北王が北山というクニをつくりあげた、そのような姿が想定できる。

 そこで羽地間切の「はねち」(羽地)について触れておきたい。「羽地」は方言でハニジやパニジである。羽地は旧羽地村川上から田井等・親川・振慶名・伊差川・我部祖河・古我知から呉我へ流れ出る大浦川(後の羽地大川)に由来していると見られている。しかし、「羽地大川」の呼び方は一七三五年の「羽地大川修補日記」以降のことである。羽地間切の羽地はそれ以前からある。同日記に「大浦川の儀羽地間切に有之候処大浦川と唱候儀不可然候故向後羽地大川と唱へ、さばくりへ申渡候也」と、大浦川から羽地大川に改称したことがわかる。すると羽地間切の羽地は羽地大川に由来するものではないことがわかる。

 ならば「羽地」は何に由来するのだろうか。ハニジやパニジに「羽地」の漢字を充てたと見られる。『おもろさうし』では「まはねじ まはねじや」(真羽地 真羽地や)と謡われている。十七世紀の『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』に「羽地間切」とある。多くの間切に同村があるが、羽地間切には同村が存在していない。羽地はハニジやパニジにその由来を求めるべきであろう。するとハニジはハニ+ジと見ると、ハニは金、ジは土地の地と捉えることができる。旧羽地村の伊差川に金川がある。かつて銅が発掘された金川銅山がある。そこから流れる川は金川である。金川はハニガーで、伊差川から田井等(山田)から現在の振慶名から我部祖河・古我知から、現在の呉我へ流れ出る。ハニジは銅(金)が産出する地に由来している。それと金川の銅で首里の円覚寺の大鐘を鋳造したという。円覚寺と言えば一五〇〇年代のことである。金(銅)の産出する地、つまり金地に羽地の漢字を充てたとみてよさそうである。

2.怕尼芝は羽地按司

3.近世・現在の行政区分へ

4.北山の支配形態
 イ、印・衣冠で地位強化
 ロ、硫黄はどこから?
 ハ、物流は今帰仁経由?

5.『明実録』に見る山北王

6.根強く残る伝承

【参考資料】


2019年1月1日(火)

 今年は今帰仁村運天からスタート。北山の歴史と関わる部分を踏査。それらの一件一件を歴史に位置づけていく作業(資料編)にはいる。

①おもろの「うむてん つけて こみなとつけて」
②源為朝上陸伝承
③百按司墓
④「海東諸国紀」(琉球国之図)要津雲天
⑤大北墓(墓碑)
⑥今帰仁間切番所(運天番所)
⑦大和人墓(二基)
⑧運天の鍛冶屋跡
⑨運天トンネル
⑩運天の過去の海岸
⑪対岸のオレンダ墓
⑫クンジャー集落から村屋へのスガイバンタの道
    
 ▲大北(按司)墓                 ▲大北墓の再建された碑(大北墓の移葬)(表) 裏は大正11年再建のこと) 

  
▲集落から公民舘へ近道(シガイバンタ)▲かつての砂浜に道路         ▲源為朝公上陸之趾地碑(大正11年)

 
     ▲百按司墓の第一から第三墓所                ▲第三墓所からの眺める