沖縄の地域調査研究
                      
寡黙庵:(管理人:仲原)

                        
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2019年2月26日(火)

 「勤職書」(口上覚:履歴)から興味深い出来事が読み取れる。その記事から歴史的な出来事を拾うことができる。奉公人のころ、王子の上国や殿内の婚礼や祝い事に雇われ、随行したり、間切役人の頃阿応理屋恵御殿并今帰仁城御火ノ神所の普請、札改や王様(今帰仁按司)が初入のとき、古宇利村の火立所仲原馬場、今帰仁城、親泊馬場四ヶ所のご案内をしたり、中央と地方と密接な関わりが伺える。「立願」が散見できる。それは上国など旅の航海安全を祈願とみられる。それと今帰仁阿応理恵家(アットメー様)へ百果報のウガンがなされ、間切役人がその面倒をみている。そのことが勤職(履歴)として記すことができることと、御内奉公人として推薦することができる。そこに間切役人の世界(動きや働き)が見えてくる。

①今帰仁間切上運天村当歳五拾八前兼次親雲上勤書
    1832(道光12)辰年)~1878(光緒4)年寅8月)
②今帰仁間切志慶真村当歳五拾前湧川親雲上
    1843(道光23)年卯8月~1878(光緒4)年寅8月)
③今帰仁間切上運天村当歳五拾前諸喜田親雲上勤書
    1842(道光22)寅年~1878(光緒4)年寅8月)
④今帰仁間切兼次村当歳四拾四前兼次親雲上勤書
    1840(道光20)年庚子~(1878(光緒4)年寅8月)
⑤今帰仁間切与那嶺村当歳四拾五当志慶真親雲上勤書
    1846(道光26(年丙午~(1878(光緒4)年寅8月)
⑥今帰仁間切諸喜田村当歳四拾九前諸喜田親雲上勤書
    1838(道光18)年戌12月~(1878(光緒4)年寅8月)
⑦今帰仁間切今帰仁村当歳五拾四前湧川親雲上勤書
    1840(道光20)年子9月~1878(光緒4)年寅8月)
⑧今帰仁間切謝名村当歳五拾弐前志慶真親雲上勤書
    1845(道光25)年巳3月~1878(光緒4)年寅8月)
⑨今帰仁間切親泊村当歳参拾九当諸喜田親雲上勤書
    1843(道光23)年癸卯閏7月~1878(光諸4)年寅8月)
⑩今帰仁間切親泊村当歳四拾五前志慶真親雲上勤書
    1841(道光21)年丑年~1878(光緒4)年寅8月) 
⑪今帰仁間切親泊村当歳四拾五前諸喜田親雲上勤書
    1848(道光28)年申8月~1878(光緒4)年寅8月)

⑫勢理客村前兼次親雲上「口上覚」(1815~1857年)
⑬勢理客村湧川親雲上勤書(1851~1868年)
⑭新城徳助「口上覚」(1859~1883年)
⑮諸喜田福保「勤書」(1862~1859年)

以下の①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪は上の「勤書」からの記事である。(琉球大学図書館蔵:筆耕原稿記事金城善氏提供)。⑫~⑮からの記事は追加(工事中)


①道光弐拾五巳年義村王子様江御附添、嫡子今帰仁里之子親雲上御上国之時旅御供被仰付、二月廿日ゟ五月廿六日迄御仕舞方ニ付那覇詰仕同月廿七日出帆、九月卅日帰帆首尾能相勤置申候

①豊七年十一月廿一日ゟ同十二月二日迄夫地頭之時上様御婚礼御祝儀并譜久山親方掾紫地五色浮織冠御頂戴御祝儀付首里江罷登首尾能相勤置申

①同治五寅年御冠船ニ付六月三日ゟ同十日迄古宇利遠目番人被仰付首尾能相勤置申候

同治元年壬戌九月十八日ゟ同十九日迄今帰仁城上使御立願ニ付さはくり公事繁多ニ付足被仰付相勤置申候

②同治三年子八月廿五日阿応理屋恵御殿并今帰仁城御火ノ神所御普請ニ付本職掛而構被仰付同九月十三日迄首尾能相勤置申候

②同治七年辰八月七日ゟ同八日迄炬湊潟場針図引出試を以首尾申上候様殿内旦那様ゟ被仰付候付構仰付相勤置申候

②同治十年未三月十五日ゟ同廿五日迄御殿王子様御初地入御下光之時呉我村美御迎所美古宇利
   村火立所仲原馬場今帰仁城親泊馬場四ヶ所目覆構被仰付首尾能相勤置申候

③ 同治三年子十月大和船盛福丸古宇利沖干瀬江走揚致打荷右潜上ニ付同十七日ゟ廿五日迄本職懸而昼夜相勤置申候

③同年同月与論島之者御仮屋江御状宰領ニ而持渡之砌古宇利東表外干瀬ニ而致破舟乗合人数救方并荷物相改潜用ニ小船漕出、同八日ゟ十日迄本職懸而昼夜相勤

③同八年未正月十五日五月十日迄南風掟役之時砂糖上納払方構被仰付首尾能相勤置申候

③同年八月今帰仁城并伊平屋島江御立願ニ付上使大宜味按司様金武按司様被遊御下光候付役々交代御拝ニ首里江罷登候付さはくり足被仰付同廿五日ゟ九月八日迄首尾能相勤置申候事

④咸豊八年戊午正月十五日、森山親方楽御奉行ニ而御上国之時、旅御供被仰付、同十一月廿二日  迄首尾能帰帆仕申候

④同治七年戊辰四月廿五日ゟ五月八日迄帰唐船両艘湖平底津口江御汐懸之時、那覇川迄挽船宰領被仰付相勤置申候

④同年八月七日ゟ同月八日迄炬湊潟場針図引出試を以首尾申上候様殿内旦那様ゟ被仰付候付、構被仰付相勤置申候

④同治十一年八月廿日ゟ同九月二日迄殿内阿つとう前様御百ヶ日之御焼香ニ付罷登相勤置申候

④光諸三年丁丑四月四日ゟ同五日迄東京博覧会御用諸木之品々苗種子荷入枝差一件并右諸木何十年ニ而何□之御用相立候段御首尾一件九ヶ揃ニ付惣山当足被仰付相勤置申候

⑤ 同年八月廿五日ゟ廿六日迄観音寺開御修甫御用御材木九ヶ割府ニ付構被仰付首尾能相勤
   置申候事

⑤同九年庚午九月廿二日御殿王子様御上国ニ付海上御安全の御立願として伊平屋島江さはくり足被仰付同日早速古宇利村江差越くり舟三艘手組させ同廿七日其処ゟ出帆仕申候処、不順風ニ付大宜味間切根路銘村江汐懸、翌日早朝彼之津ゟ出帆、同日八ツ時分伊平屋島下着御立願相済十月十日帰帆仕首尾能相勤置申候事

⑤同年八月廿五日ゟ廿六日迄観音寺開御修甫御用御材木九ヶ割府ニ付構被仰付首尾能相勤置申候事

⑤同治三年二月廿八日去十三年成丑年以来帰唐船異国船御汐掛之節々諸雑費九ヶ統並構被仰付三月三日迄首尾能相勤置申候事

⑥同治元年戌九月廿日玉城岸本寒水三ヶ村□々疲ニ付玉城掟役江繰替被仰付同六年卯九月廿二日迄首尾能相勤置申候

⑥同三年子九月十一日ゟ同十三日迄今帰仁城上使御立願之時さはくり公事繁多ニ付足被仰付相勤置申候事

⑥同年八月玉城掟役之時左之通御褒美被成下候事其方事去ル酉十月平敷掟被仰付置候処、岸本寒水玉城三ヶ村之儀、年来疲入間切
 向頭引并現銭無利借渡等ニ而段々補助仕候得共殊ニ人居茂不致繁栄兎角風水故ニ而も可有之哉与御差図之上去ル酉十一月与儀通
 事親雲上申請風水入御見分ニ候処、段々風水悪敷闕異相補候手筋無之岸本玉城ハ勢理客天底謝名三ヶ村帳内ほかま原与申所江村越
 仕寒水村ハ同所前之宿道明置岸本玉城弐ヶ村百姓地之内江敷替仕候ハハ人居繁栄疲労も可立直段委曲被申聞、・・・

⑥同治九年午五月今帰仁王子様被遊御上国候御時海上御安全之為御立願伊平屋島江罷渡五月廿七日ゟ六月十日迄御火神所并御
  嶽々迄御使相勤置申候事

⑨同治三年八月廿五日阿応理屋恵御殿今帰仁御火之神所御普請ニ付本職掛而構被仰付同九月十三日迄首尾能相勤置申候
⑨光緒三年時譜久山殿内亡親方様御始
阿つとう前様御両人御洗骨御弔ニ付御品々并御仮屋入具御手形入被仰付候処御日柄急ニ相
 成間切ゟ取調差登候間切ニ合不申候付買入上納ニ而御用相弁御焼香抔相勤置申候


     (工事中)


2019年2月25日(月)

 やっと、シンポジウムのレジメ原稿のまとめにはいる。どう「まとめ」ていくか思案中。十数の「勤職書」(口上覚)の紹介はできそうにないので、五項目ほどにするか。その一つは「勤職書(履歴)」に書かれた出来事を見ていくことに。新城徳助の「口上覚」は、奉公人・文子・古宇掟・戸籍取調係・平敷村掟・今帰仁小学校学務員までの職務である。「南風掟」への昇級願いの「口上覚」である。氏はその後の辞令書から惣耕作当まで昇級している。間切役人が勤めた興味深い記事があるので、いくつか紹介する。

[新城徳助の「口上覚」(明治十六年六月十日)今帰仁村歴史文化センター所蔵

      口上覚

 乍恐申上候私事

[奉公人]
 ・咸豊九年未九月譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里主様屋嘉被付光緒元年亥八月二八日迄難
  御奉公相勤置申候

【文子】
 ・光緒元年亥八月二九日間切文子被仰付明治三年辰十一月十二日迄首尾能相勤置申候

【古宇利掟】
 ・光緒元年九月二四日ヨリ古宇利掟間切諸上納物払方ニ付那覇江罷登候付代理被付彼ノ村江差越同十二月二十日迄相勤置申候
 ・光緒三年丑正月十五日より貢糖払方ニ付那覇江罷登同五月十日迄首尾能相勤置申候
 ・同四年寅七月九日ヨリ同八月十八日迄本職掛テ間切船新造ニ付積被仰付首尾能相勤置申候 

【戸籍取調係】
 ・明治十三年辰八月十日より戸籍取調係り被仰付村之戸籍取調させ於国頭御役所ニ勘定等相遂明治十五年二月廿六日迄相勤置申候 

【平敷村掟】
 ・明治十三年十一月十三日平敷村掟役仰付当分相勤居申候
 ・同十四年十二月二四日ヨリ同二六日迄地頭代以下作得帳租税課石井師道殿ヨリ御調査方ニ付国頭御役所ヘ持参遺以テ
  御用ニ付差越相済置申候

 ・同十五年一月二五日ヨリ二月九日迄右同一件御同人ヨリ那覇ヘ御用被仰付罷登相済置申候
 ・同年三月廿六日ヨリ今帰仁小学校新築ニ付取調部係リ被仰付同六月丗日迄普請成就させ首尾能相勤置申候
 ・同年二月廿七日ヨリ今帰仁小学校学務委員被仰付当分相勤置申候
 
右通御奉公相勤置申候依之奉願候儀御都合之程茂如何敷恐入奉存候得共今般交代之西掟役相勤申度存候間成合申儀御座候ハバ何卒被仰付下度奉願候此旨宜様御取成被仰上可致下儀奉願候也

明治十六年六月十日               平敷村掟親泊村
                               新城徳助(当四十壱年)

 新城徳助は「口上覚」(明治十六年)の外にそれ以降の「辞令書」がある。新城徳助は文子から、大文子→村掟→西掟→南風掟→大掟→首里大屋子→夫地頭(兼下知人)→惣耕作当へと昇級している。明治二十八年に「惣耕作当」となり、次は地頭代であるが、明治三十年に「沖縄縣間切島吏員規程」があり、地頭代職なくなり地頭代となることはなかった。明治二十八年に地頭代になったのが、諸喜田福保である。

 ・今帰仁間切文子新城徳助
     戸籍取調掛申付候子事
        明治十三年八月十日
 ・大文子新城徳助
     今帰仁間切平敷村掟申付候事
        明治十三年十一月十三日
             沖縄縣廳
 ・平敷村掟新城徳助  
     今帰仁間切西掟申付候事
        明治十八年十二月二五日  
              沖縄縣
 ・西掟新城徳助
     今帰仁間切南風掟ヲ命ス
        明治十九年十一月十日
               沖縄縣廳 
 ・南風掟新城徳助
      今帰仁間切大掟ヲ命ス
         明治二十年十一月十五日
                沖縄縣廳
 ・南風掟新城徳助
      今帰仁間切湧川村下知人兼務ヲ命ス
         明治二十年十二月二十一日
               沖縄縣廳
 ・大掟新城徳助
      今帰仁間切首里大屋子ヲ命ス
         明治二十一年二月二十九日
               沖縄縣廳  
 ・首里大屋子新城徳助
      今帰仁間切兼次夫地頭ヲ命ス
          明治二十一年十一月十二日
                沖縄縣廳
 ・新城徳助
      今帰仁間切惣耕作当ヲ命ス
          明治二十八年十月四日
                 沖縄縣廳