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            (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名)    
   
                       
  

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2017年8月29日(火) 

 玉城村、岸本村が出てくるのは、「絵図郷村帳」(1649年)からである。それには「今帰仁間切たまくす村」「今帰仁間切岸本村」と「琉球国高究帳」での村名はひらがなである。「琉球国由来記」から「玉城村」「岸本村」、そして「寒水村」の三村が登場してくる。

 村名の変遷を整理してみる。寒水村の初登場、1713年『琉球国由来記』から、ここでは玉城ノロと岸本ノロの管轄村、それぞれの村の祭祀、明治36年の三村の合併、合併の最大の理由は土地制度(物納から土地所有による納税)、合併しても祭祀は一体とならないなど。村名の変遷をたどり、その時代に立ち止まってみることで「村(ムラ)の歴史が描けそうである(工事中)。


◆今帰仁村字玉城(寒水・玉城・岸本)村名の変遷】

 
・「絵図郷村帳」(1649年)
      今帰仁間切 

  ・「琉球国高究帳」(17世紀中頃)
       今帰仁間切

  ・「琉球国由来記」(1713年)
      今帰仁間切 玉城村
               寒水村
               岸本村

  
・「間切村名尽」(附宮殿官衛名)(1719年) (本部間切から天底村が今帰仁間切へ)
      今帰仁間切 玉城村
               岸本村

              寒水村

 ・「琉球国旧記」(1731年)(「由来記」を踏襲)
     今帰仁郡 玉城邑

            岸本邑
            寒水邑

  
・「間切村名尽」(1738年)
      今帰仁間切 玉城村

               岸本村

               寒水村


  ・「乾隆二年帳」(1737年)

       今帰仁間切 玉城村
                 寒水村

                岸本村

  ・「御当国御高並諸上納里積記」(1738 年)
          今帰仁間切  玉城村
              寒水村
                  
岸本村

   ・「間切村名尽」(附宮殿衛名)(1719年)
         今帰仁間切 玉城村
                  寒水村

                 岸本村

  ・「事々抜書」(1738年)
      今帰仁間切 玉城村 
           寒水村
           岸本村

  ・「琉球一件帳」(1738年)
        今帰仁間切 玉城村

             寒水村
             岸本村

  ・「間切名村名尽」(1738年)
      今帰仁間切 玉城村
           寒水村
           岸本村

  ・「琉球藩雑記」(明治6年:1873年)
       今帰仁間切 玉城村 

                寒水村

                岸本村

・「統計概表」(明治13年:1880年)
     今帰仁間切 玉城村
           寒水村
          岸本村

  ・明治36年:1903年) (三村合併) 
    今帰仁間切 玉城村
              寒水村

          岸本村  

  ・明治41年今帰仁間切は今帰仁村(ソン)、各村(ムラ)は字(アザ)
       今帰仁村 字玉城

  ・明治41年(1908年)→平成28) 
       今帰仁村 字玉城


2017年8月27日(日)

 今帰仁村玉城(岸本村)の湧川家の記事である。湧川親雲上は地頭代になる。その記事は1715年である。そのころの今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子である。『琉球国由記』(1713年)でサバクリの一人である。1738年に湧川村が成立すると地頭代の湧川は古宇利親雲上となり、屋号が古宇利(フイヤー)を名乗ることになる。湧家の姓は湧川大屋子から来ているとみられる。屋号も当時の湧川ヌヤーは、そこから来ている可能性がある。同家の位牌に「湧川大屋子)とあったような。「玉城誌」で扱う記事である。詳細については字誌で詳述することに。


【今帰仁間切岸本村の湧川家】

 湧川親雲上(湧川善太郎氏祖先)は書算をたしなみ文書に通じ、番所勤めをし諸役を歴任して地頭代の栄職に進んだ。その家は富裕で貯蓄が多かった。成徳五年(1715)尚敬王三年公庫が欠乏したので湧川家は米を献納して公費にあてた。また宝栄六年(1709)島中穀実らず人民飢饉になった。湧川は惻隠の情で、貯蔵米粟百五十石余を出し間切内与那嶺・仲尾次・崎山・平敷・謝名・仲宗根・運天・上運天・古宇利の九村に貸して人命を救済した(「球陽」1715年条)(「国頭郡志」所収)


大宜味間切饒波の灌漑(1768年と1778年)』


2017年8月25日(金)

 これから会議と字誌の講演あり。大宜味ゆきはお休み。




 資料や兼次村の豊年祭の写真の提供あり。次回「兼次の歴史」と感心のある「屋号」について行いましょう。

 

 


2017年8月24日(木)

 兼次の字誌のレジメを作成中。

 兼次のタンク建設と大宜味村饒波の簡易水道建設についての記事をみる。大宜味村(旧庁舎国指定祝賀会)まで行くので饒波のタンク跡に立ち寄ってみるか。饒波タンク(簡易水道)建設と兼次のタンク建設は同年であり、饒波の記録から兼次では聞き取れなかったタンク建設の経過がよくわかる。

 夕暮れ、大宜味村饒波に立ち寄ってみた。饒波のタンク跡の確認がしたくて。車を降りて、「タンクの跡をさがしているのですが」と尋ねると「ここだよ」と指さしてくれた。「このタンクの側で遊んでいたら、飛行機が飛んできたので、バンザイをしたとのこと。敵機なのかわからなかったからと。タンクやムラのこと、ムラの上の方にあった他ムラの人達の田のことなどなど。話が途切れないので改めて伺うことを約束。名前を伺うと「大嶺というよ。ここには一軒しかないはず。喜如嘉からきた。移民に行っていたからな」など。


▲饒波の大嶺さんからタンク跡を教えてもらう。   ▲タンク跡のコンクリート枠や鉄筋が残っていた


2017年8月22日(水)

 25日(金)の字兼次の講演(レジメ)準備はほぼすます。さて、玉城の字誌原稿の整理へ。字玉城の公民館資料の資料の内容について字誌に収録(目録は収録)はできませんが、一通り目を通すことに。昭和30年代まで旧暦(農耕暦)と祭祀が行われていた時代。近世の生活が生き続けている感がする。玉城の字誌へ移行しないと(画像ありがとうございます)

   


2017年8月22日(火)

 「兼次誌」の「もくじ」づくり。目にみえる資料で説明を。公民資料に目を通す。これから、二ヶ字の資料確認へ。20日(日)兼次踏査の途中大雨で確認できなかった「口碑」の水倉探し。兼次の方々にはよく知られている水倉。「うん、使われているよ」と。下のモノクロの水倉は平成元年撮影である。水倉を確認し、「古島原水稲苗代調表」で「兼次の水田の多くは古島原にと糸川原にある」と説明してある。詳細は字誌で紹介することに。その水倉(1800年代か)と水を引いた水路の跡(大正か)。再度紹介するに当たって確認することができた。そのころ「地域から得たものは地元に還元する」。そのことを思いだす。(平成元年当時までに収集し活用した写真や資料の目録は『なきじん研究 1号』に収録)



                                  
     ▲今も使われている水倉(ミジグラ)
 
▲水倉から引かれた水路(コンクリート)の跡(戦前?)


2017年8月20日(日)

 2001年12月の記録に 2001.12.16(日)の記録がある。あの頃から、机上で考えるより踏査しながら「まとめ」ている。今週「今帰仁村兼次」について講演することになっているが、ここしばらく兼次を訪れていないので、どんな話をしようか頭の整理ができないでいる。資料の確認ができないので出かけることに。「国頭郡今帰仁間切兼次村全図」(6000分の1)(明治36年:今帰仁村歴史文化センター蔵))を字名を頭に入れて。特に現在地に集落が移動する以前の「古島原」と現在の「北屋敷原」と「南屋敷原」、それと現在ない印部石(二基:加袮寸原」の原名との関係。そんなことをやっていると兼次の古写真や辞令書、口上覚、ビジュル、神ハサーギ、「絵図郷村帳」で兼次村は「兼城村」であったなど。(以下のように兼次内をまわってみることに。途中大雨で・・・・)

 兼次はカニシやハニシと呼ばれ、古くは兼城村とあります。兼次の集落は古島原一帯から現在地に移動してきています。年代は不詳。故地にウタキがあります。兼次のウイヌハーから集内のタンクに水が引かれ、第一、二、三、五タンクは今でも使われています。兼次小学校は、当初兼次地番にあったのが、明治42年に現在地(今泊地番)に移転するが、学校名はそのままです。兼次バンタには兼次出身の島袋源一郎の顕彰碑があります。「兼次泉ぬ水や 山からが湧ちゅら 兼次美童ぬ色き美らさ」と謡われています。

  (もくじ(案)作成中)

   


 まずは、兼次出身の島袋源一郎の顕彰碑(墓)からスタート。兼次のウタキへ、ウタキへの神道と小さな川筋(ヒチョハー:糸川)、旧集落跡への道筋があり、行き着くと旧集落内にあるカー。現在はミカン畠や緑化木が植えられている。そこは盆地になっていて畑の側に置かれている石などに人工的に使われた痕跡がみられる。窪地の上方に金満殿内があり(平成2年建立)、そこは神ハサ^ーギがあった場所だと聞いている。(殿内をたてるとき石柱の礎石があったという)。一帯は兼次古島遺跡になっていて、土器や青磁などが散在している。(遺跡名と古島原と一致していない。集落が散在して場所を古島と呼んでいる)。

 古島にある水倉へ。水倉とウイヌハーとの関係と歴史的な伝承との確認がしたくて。水倉の確認へ。下の画像は30年前の撮影である。現在どうなっているのか。確認できず。印部石を提供いただいた大城氏を訪ね、水倉について伺ってみた。「、まだ、ありますよ。付近の人達は畑に水を使っていますよ」とのこと。

 ウイヌハー、そこから引いている集落内の五つの水タンク(一つは学校内、現在なし:西側にあったとのこと。シマの方々と再確認がしたくて。兼次小学校の変遷(現在字今泊地番)、戦時中の学校(軍隊が利用)など。諸志との境の福地原の製糖工場、神アサギ、旧公民館、りっぱな石垣のある家とビジュルの祠、スクミチ沿いの松並木、海のない兼次、兼次は「絵図郷村帳」(1648年頃)は「兼城村」であった。中城村→仲尾次(ナコウシ)、玉城→タモウシ、兼城→カネシ・ハニーシへ。

 現在の「北・南屋敷原」にあった「ソ 加袮寸原」「ソ 加袮寸原」との関係、古島から屋敷原への集落移動との関係、諸喜田福保資料(辞令書・口上覚・表彰状)、移民、土地台帳、公民館資料(昭和30年代の兼次)、兼次の伝承、集落、小字、学校林、砂糖消費税名簿、屋号などから兼次の字誌の「もくじ」立てをしてみることに。「ムラ内を歩いていると、講演するって案内があったよ」と。(期待に応えないとね・・・・・)

 

島袋源一郎については、ここを参照顕彰碑の時、私は小学生。写真に写っています。

  



2001.12.16(日)
の記録をアップ

 明治14年2代目の上杉茂憲県令が着任6ケ月後の11月8日から12月にかけて廃藩置県後の各間切の状況を巡回視察した『上杉県令沖縄県巡回日誌』を通して120年前の「歴史散歩」を試みてみることにする。まずは、羽地国頭郡役所~運天番所まで。(概略)

 時は明治14年11月28日のこと。午前9時に羽地間切にある
国頭郡役所(明治15年名護に移る)を出発することに始まる。
  勘定納港(羽地間切仲尾村)
   ↓  勘定納に瓦葺の倉庫あり。
   ↓  役人などが送る。
   ↓  舟を集めて待つ。
   ↓  緑竹を半月に撓(タワメ)め舷(フナバタ)を結わえ
   ↓  羽(羽地間切)の字が染め抜かれている。
   ↓  青幕を蔽い、楼船に擬したり。
   ↓  県令・高尾・村田・内川・秋永・左近司・三俣・村吏員が
   ↓    乗る。
  奥 島(羽地内海に浮かぶ島)       
   ↓  陸前の松島に匹敵する。岩礁が10余あり。
  屋我地島(島に四つの村あり。周辺約9km、戸数300余)
   ↓  舟をおき、薯圃の中を行く。
   ↓  塩田が数ヶ所あり。潮を焼く(年に凡そ700石)
   ↓  米は240石産出する。
  屋我村(左)・饒平名村(右)
   ↓  水田あり。水は水倉(ミヂグラ)から引く。
   ↓  地頭代・吏員に纈袖をするよう命ず。
  饒平名村
   ↓  農家を巡視する。
   ↓  道路の修繕が行き届いている。
   ↓  清掃してあり綺麗なり。
  松島孫助(農夫)の家で休憩。(午前10時20分)
   ↓  門南向き・笹の生垣あり。
   ↓  床に孝の字、板壁に宜野湾朝保の「福禄寿」など。
   ↓  士族渡久地喜意の母ウシ(90年)が召される。    
   ↓  白衣の外衣、児孫併せて40人あり。
   ↓  目録を戴き拝謝する。 
   ↓  ノロクモイ二名が拝謁(ハイエツ)する。40年と11年。
   ↓  二人とも白衣をきて東京団扇を携え、神歌を唱え、
   ↓  豊年及び人民の長寿を祈るという。
   ↓  ニガン(根神?)という属官あり。祭典を助けるという。
   ↓  上代の遺風なるべし。
  孫助の家を辞す。
   ↓  丘山あり、古木森あり、井戸あり(清い泉)
   ↓  松樹の間をいく。十二、三丁にして一村あり。
  済井出村
   ↓  近傍に水田や薯圃が多い。
   ↓  村中溶樹(ガジマル)が多い。髭を垂れる。長い。
  宮城熊助の家に小憩(午前11時40分)
   ↓  門西に向く。細木で籬(カキ)を編めリ。
   ↓  床に球陽正史尚健の真蹟の書の軸を掲げてある。
   ↓  ご飯を喫す。  
  途(道)に登る(午後零時15分)
   ↓  薯圃蘇鉄の間をいく。松林に沿っていく。
   ↓  右手に山原の茅落端(カヤウチバンタ)を望む。
   ↓  近くに接して古宇利島あり。
   ↓  坂をつきて海辺に至る。
   ↓  村吏袖を纈って拝迎する。
  舟に上がる。
   ↓  幕及び油紙で上を蔽う。
   ↓  今帰仁の岬と古宇利島の岬との海峡より、遥かに
   ↓  伊平屋島を望む。
   ↓  左側は羽地の湾に通じる。
  舟、今帰仁番所・首里警察分署の前岸に達す(午後1時40分)。   
           (続)

2017年8月18日(金)

2002年4月の記録
をアップ。1609年の薩摩(島津)の琉球侵攻の一場面である。研究は大分進んでいるでしょうが、さしあたり記憶をよみがえらせるに留めておくことに。

「琉球渡海日々記」にみる今帰仁の状況

 ・3月24日午前10時頃徳之島の亀沢(津か)の港を出港した。
        沖永良部の島崎(地名見あたらず)に停泊した。
        先発の船が待ち合わせており、そのまま琉球へ。
        夜通し船を走らせた。
 ・3月25日夕刻6~7時頃(酉の刻頃)琉球のこほり(郡・古宇利)に着
        いた。
 ・3月26日は返報日なので打ちまわりなどもなく錨をいれた(休息日
        か)。
 ・3月27日太郎左衛門と半右衛門の二人は、今きじんと申す所を一覧
        のため五枚帆で出かけた。今きじんの城は開いていた。
        午前10時頃俄かに(急に)打ちまわり、方々に放火した。
        運よく捕り物が沢山あった。
        郡(こほり)の運天舟元より三里程奥に出かけた。田畠が
        多くよい在郷があった。
 ・3月28日は逗留(滞在)した。
 ・3月29日は夜半に船を出し、大わん(大湾)という所に着いた。


■「喜安日記」にみる今帰仁の様子

  3月26日は西来院・名護・江洲が先に首里から今帰仁に立ち倉波
        につく。今帰仁から河内と東風平が来て、道は敵が満ち
        満ちているため陸路は通らないようにとのこと。その日倉
        波から小舟で恩納までいく。

  
  
3月27日は暁に舟を出し、今帰仁(親泊)につき沖で詮議する。親泊
        の沖に敵舟が一艘きて、それに乗り移り、引かれて今帰仁
        (親泊?)につく。大将軍は今帰仁城へ勤めがあり、会うこ
        とができず、暮れたので帰った。
 


 「琉球渡海日々記」と「喜安日記」から「今きじん」(今帰仁)部分を歴史的にどう描けるのか。今帰仁部分の僅かな記録の行間からどこまで読みとっていけるのか(もちろん、全体を通してみる必要があるが)。「琉球渡海日々記」を記録した人物が薩摩軍を引っ張っていく立場でないため、全体の状況や動きの目的や人数など十分把握していないため、同時代史料であっても充分な記録ではないようだ。
  歴史を描く史料の限界を意識しつつ、他の史料を駆使して歴史を描く作業が必要となってくる。その視点での研究は紙屋敦之氏「薩摩の琉球侵攻」(『新琉球史 近世編(上)』ですでになされている。「琉球渡海日々記」から、もう一度確認してみると史料の限界も理解されよう。

  ・沖縄本島のこほり(古宇利)、運天港は郡の舟元にしたこと。
  ・26日は返報日なので「打ちまわり」がなかった。全く動きが
   なかったのか。
  ・27日に太郎左衛門と半右衛門の二人で今きじんを一覧するために
   五枚帆で出かけているが、それは討伐なのか。一方では運天から
   三里奥まで行き在郷があったとの報告。
  ・今きじんの城(今帰仁城)に行って見たら城は「あき城」(抜けの殻)
   だったのは戦わずして逃げ去っていたのか。
  ・28日の逗留は何を意味しているのか。

  「喜安日記」は同時代史料でないことを念頭に入れておく必要がある。それでも「琉球渡海日々記」を補完できる部分が多々ある。26日に西来院や名護、そして江洲が首里から今帰仁へ向っている。逆に、今帰仁から河内と東風平が来て(戻り)、「道は敵が満ち満ちていた」といい、そのため陸路を通らないようにと状況を報告している。河内と東風平が今帰仁から来た(戻ってきた)というのは、薩摩軍との戦いに敗れ逃げのびてきたことを意味するのか。(今帰仁でどのような戦闘があったのか、両史料とも具体的に述べていない)。

 3月28日今帰仁監守を勤めていた五世克祉(今帰仁按司)が死亡している(『具志川家家譜』)。その死は戦闘があっての死か、あるいは今帰仁城の焼き討ちの責任をとっての死か。いずれにしろ、薩摩軍と戦闘があったことを思わせる。死者が何名あったのか二つの史料から見つけ出すことはできない。別の同時代史料に出て来ているのかもしれない。

 それと「琉球渡海日々記」で25日にこほり(郡)の岸に着くとのみあり、運天港まできたか不明。100艘余の船なのでこほりの浜からはみ出て、一部奥の運天港まではいてきた可能性は十分。26日は「返報日で打ちまわりがなかった」とあるが、一部の部隊がこほりから運天港まで来たり、あるいは今帰仁城で戦いをした可能性がある。翌27日太郎左衛門と半右衛門の二人が行ってみたら今帰仁城は開いており(空城)、俄かに放火している。捕り物が多くあったというから、前日の戦闘後に今帰仁城に行ったのかもしれない。このように知りたいことへの解答は「かもしれない」の部分が多いのである。

 このように史料を駆使しながら、他の史料や一連の流れで「今帰仁(間切)における薩摩の琉球侵攻」をもう少し丁寧にみていく必要がある。限られた史料で歴史を描くことはなかなか困難なものがある。書かれたものを鵜呑みにして歴史を描いていやしないか。ときどき、そんな思いにかられる。

  薩摩軍の今帰仁城の放火後、今帰仁では城の前後にあった今帰仁村(ムラ)と志慶真村(ムラ)の麓への集落移動、今帰仁城内に居住していた監守一族が城下に移りすみ、さらに1665年首里に引き揚げ。翌年、今帰仁間切を分割し伊野波(本部)間切を創設する。さらに監守の首里への引き揚げは今帰仁阿応理屋恵の廃止へとつながっていく。このように薩摩軍の今帰仁城の焼き討ちは、「今帰仁の歴史」に大きな影響を及ぼしていった。もちろん、琉球全体が幕藩体制という枠組みに組み込まれていくのであるが。薩摩軍の今帰仁城の攻め入りについて、具体的な描写は困難である。しかし、その出来事がその後の今帰仁の歴史的な動きに大きな影響を及ぼしていることは確かである。


2017年8月18日(金)

 過去の記録を興してみる。懐かしいこともあるが、記憶を鮮明にしてくれる。当時から、各地をまわり、撮影し、自分の目で確かめ、そこで気づいたことや発見(自分自身の)を公してきている。その方針と動きは現役のようである。体力的に命を縮めているようなものであるが楽しみでもある。ハハハ

・2002年1月の記録
2002年2月の記録
2002年3月の記録


2017年8月17 日(木)

 今帰仁村玉城の字誌原稿の執筆・校正に集中。すべての原稿を集合させることに。玉城は明治32年に玉城村・岸本村・寒水村が合併して玉城村となり、明治41年に字(アザ)玉城となり現在に至っている。明治36年以前は三つの村をたどることになるが・・・・・・


玉城の寒水原(2010年3月3日 メモ)

 今帰仁村玉城の寒水原をゆく。玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三つの村が合併した字(アザ(である。寒水原は寒水村の集落の跡地と見られる。玉城・岸本・寒水の三ヶ村の集落は移動し、また故地に戻るという変遷をたどっている。それと『琉球国由来記』(1713年)の頃から、岸本ノロが岸本村と寒水村の祭祀をつかさどり、また玉城ノロは玉城・謝名・平敷・仲宗根の四つの村の祭祀をつかさどり、それは今に継承されている(但し、祭祀の多くがうしなわれつつある)。玉城の字(アザ)は三つの村の統合なので、以下のことを念頭に入れてみていく必要がある。
  ・三つの村
  ・村の統合
  ・村(ムラ)移動と集落移動と祭祀場
  ・二人のノロと管轄村と祭祀
  ・三つの村の祭祀場

 玉城は①寒水原 ②ソーリ川原 ③岸本原 ④ウチ原 ⑤古島原 ⑥外間原 ⑦東アザナ原 ⑧西アザナ原の八つの小字からなる。小字名に三つの村の故地が伺える。寒水原は寒水村の集落、岸本原は岸本村の集落、古島原は玉城村の集落の故地と見られる。

 寒水村跡地(寒水原)を訪ねてみた。寒水村の集落の跡地に何を遺しているのか。ミナジガーというカー(湧泉)があるのは、地図上以前から知っていたが、現場を確認するのは初めて。そこには「一九五三年建設」の碑があった。碑の前にカー(湧泉:今は枯れている)があり、旧正月にお参りした跡があり、線香が置かれていた。集落の範囲は確認できていないが、確かに集落(家々)があった痕跡がみられる。ミナジガーは大井川の傍にある。明治13年の寒水村の世帯数は13戸、人口68人(男42、女26)の小規模の村である。小規模の村であったことが、明治36年の統合につながったと見られる。



▲寒水原にあるヤナジガーの碑(右写真のハウスの後方) ▲左側は大井川、ハウスから右手に集落があったか?


   ▲国頭郡今帰仁間切玉城村全図(明治36年:三つの村の合併直後)

 
           ▲現在の玉城の字図 
               ▲上空からみた玉城域(平成5年の撮影)

【玉城の公民館資料】(2010年3月19日)メモ

 午後から今帰仁村玉城の旧公民内にあった資料の搬出をする。玉城区は字誌の編集をスタートしており、また旧公民館を近々に取り壊す予定。これまで数件の公民館の取り壊しに立ち会ってきた。その度に戦後資料を収集することができた。今回も玉城公民舘資料を確認することができた。字誌に反映させることができそうである(詳細の目録は改めて報告する)。

 50年前に画かれた小学生の絵が印象的である。名前があるので、それぞれの50年の人生をたどることができそうだ。公民館に50年前の絵を張り出してみましょうかね(40年前の写真は数枚提供した)。

【仮目録】
 ・公文書綴り(5冊)
 ・戦後の戸籍簿(1冊)
 ・家族しらべ
 ・徴収簿(各班)
 ・諸賦出席簿(1956年)
 ・貯金台帳(1955年)
 ・公民館日誌(1955年以降)
 ・賞状(原山勝負)(1949年)
 ・賞状(原山勝負)(1950年)
 ・賞状(排球大会)
 ・賞状(盆踊りコンクール)(1955年)
 ・学児成績簿(今帰仁初等学校及大井中等部)(1949年度現在)頭部
 ・その他


城内の寒水集落(2010年3月4日 メモ)

 今帰仁村字玉城内の寒水集落跡地をウタキ(イビ)と拝所(神アサギ・根神殿内など)とカー(ミナジガー)を手掛かりに見る。これまでパーマ(寒水)のウタキと言われていた大井川沿いのウタキ(現在はなし)は『琉球国由来記』(1713年)でいう岸本村の「オホヰガワ嶽」と見られる。1700年代当時、1862年に三つの村が移動するが、移動する前の記録である。すると、大井川沿いのオホヰガワ嶽は岸本村のウタキで岸本村が付近にあったことになる。岸本村の集落が岸本原あたりに移動するが、そのウタキは岸本村の人達がウガンをしている。寒水村と岸本村は岸本ノロ管轄の祭祀なので両方の神人がそのウタキの祭祀を行っている。

 これまでウスクガジマルの大木のある森は、何かという議論がなされている。そこには香炉が三つばかりあり、ウタキのイベの可能性が高い。そこは寒水村の人々のウタキと見てよさそうである。1862年現在地に移動する寒水村の集落がウスクガジマルのある付近から大井川沿いにあるミナジガーあたりにあったと見られる(寒水原)。この杜の香炉は寒水村の複数の一門のよりどころ(イベ)と見ることができる。

 一帯を寒水村と岸本村、そして1862年の村移動、それとウタキや祭祀場や二つの神人の出自などの関係、拝所は移動前にもどして整理してみると、村の成り立ちが見えてくる。



  ▲ウスクガジマルの杜は寒水村のウタキ(イビ)と見られ、香炉は複数の一門のイビと見られる。



 ▲この杜の広場はサンケモーと呼ばれ、拝所がある。石が一基置かれ、遥拝所となっている。


       ▲寒水原にあるキジキナガー(寒水村の人々がハーウガミを今で行っている)

2017年8月16 日(水)

 さて、今日は!

根謝銘(ウイ)グスクと川田と田港の根謝銘屋(大宜味の歴史へ)

 2003年2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証 装飾具勾玉を公表した記事がでた。問い合わせがあったので紹介。北山城主末裔についての伝承は久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもある。大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
    口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
品を
   以て之に代へたり。・・・・

   とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行
   われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹
   地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてあ
   る。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の
   写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているよう
   に消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争を
   くぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものと
   するには、慎重を期する必要があろう。

 この伝承の北山城主は北山の滅亡(ハニジ)以後のことのようである(ここでいう北山王は監守を勤めた尚忠、具志頭王子を指している。このことの詳細は改めて紹介する)。ハニジ王が滅亡後に離散した一族のようである。その一族が北山から根謝銘(ウイ)グスク、国頭間切浜村、伊地、川田へ逃れている。根謝銘屋の屋号は根謝銘(ウイ)グスクからの移動してきたことの痕跡をみせる。同系統の一族に田港村へ流れた一族も根謝銘屋の屋号を持ち、川田の根謝銘屋同様勾玉や髪差しなどの遺品を所蔵している。


 ▲現在の東村川田の根謝銘屋の屋敷の石垣とガジマル

2017年8月14 日(月)

 土曜日のムラ・シマ講座で、伊豆味で以下のことを話している。伊豆味と湧川と密接な関わりがあったことがわかる。

  ・戦前まで伊豆味の経済を潤していたのは山藍と建設用材、薪炭材
   ・我屋地・湧川の製塩の葉薪(ハーダムン)・荷馬車(湧川の津口や名護のマチヤーは伊豆味の車屋で繁盛)
   ・大正の頃、湧川にマチが発達したことがある。

 平成4年4月に「羽地内海、ムラ移動や塩作りの歴史」(湧川)として記したことを思いだす。湧川のマチは伊豆味車屋がの藍玉や葉薪(ハーダムン)、建設用材、薪炭材料のl運搬、湧川から塩の運搬などで湧川にマチが発達したことがわかる。

22.羽地内海、ムラ移動や塩作りの歴史が(湧川)(平成4年4月) 

 嵐山から見るこの風景。内海に浮かぶ島がヤガンナ島、そして中央部の海峡がワルミ海峡(運天水道ともいう)、その右手が屋我地島(名護市)、左手が湧川から天底・上運天・運天に至る。その向こうに見えるのが古宇利島である。遠くには、伊是名や伊平屋島がかすかに見える。ヤガンナ島は、今帰仁村字湧川の佐我屋原に属する。嵐山の展望台から眺めるヤガンナ島周辺の美しさとは別に、墓の島や塩づくりの島としての歴史をもつ。

 181610月バジル・ホールは、ライフ号を運天港の入口付近に投錨し、三隻のボートで羽地内海や内海に面した周辺の村々、そして屋我地島や湧川の塩田などを確認し図面に記してある。羽地内海を湖と表現し、「長さ数マイルにおよび、たくさんの小島が点在している」と概況を述べている。

 1854年にはフランスの艦船が、その後の1856年にはペリーの一行も運天港から羽地内海まで足を伸ばし、図面を作成している。このように近世期末に外国船が琉球を訪れたとき、探険が試みられた場所でもあった。

 写真の左手に見える集落は湧川であるが、蔡温の林業政策で1738年に新設されたムラである。現在の湧川地内には、1736年まで振慶名や松田、我部・桃原などの村があり、移動させられ湧川村を新設した地域である。首里王府の政策によってムラ移動がなされ、湧川という新しいムラの創設がなされた。言ってみれば、政策的ムラ移動のあった歴史的な場所である。

 ヤガンナ島とその対岸(手々原)には塩田跡の石積みが今でも残り(写真参照)、昭和35 6年頃まで塩づくりがなされ、手前の船のある場所にも塩田があった。地籍図には、地目塩田として今でもある。

 羽地内海に面した我部村と塩にまつわる伝説や記録がいくつかみられる。例えば、1713年の『琉球国由来記』に、琉球国の塩は羽地県(間切)の我部村に始まるとか、『沖縄県国頭郡志』にはワルミの洞窟に一人の僧が来て住み、はじめて製塩の方法を人民に授けたなどの言い伝えを紹介している。湧川の下我部には、塩づくりと関わる塩屋の御嶽があり祠を建て祭っている。塩づくりの方法は別にして、1713年の『琉球国由来記』や1813年のバジル・ホールの図にも塩田があり、塩づくりがなされていたことがしれる。一帯は、山原の塩の歴史と深く関わる場所である。                      

 運天港が自然の良港として使われ、その奥にある羽地内海は船の避難場所として利用されている。嵐山の展望台に立つ時、眼下に見える島がヤガンナ島、別名墓の島。島と対岸に見える塩田跡が塩づくりの歴史や伝説をよみがらせ、そして蔡温の時代に政策的なムラ移動がなされた歴史などを思いめぐらしながら眺めるのもよい。塩田跡はそこに住み、塩づくりを営んでいた人々の辛苦をなめた塩辛い歴史的な遺産として今でも残っている。現在みることのできるあたりまえの風景であるが、そこに秘められた歴史をひもとく手がかりを与えてくれる場所であり、写真である。

 

 27.ヤガンナ島とマリーの塩田(湧川)(平成4年9月)参照(写真にみる今帰仁 3
 30.かつて賑いをみせた湧川のマチ(湧川)(平成4年12月)参照(写真にみる今帰仁 3)

  


2017年8月13日(日)

 珍しく外出することなく家で過ごす。「体調でもわるいですか?」の声が聞こえてきそう。平成2年からほぼ10年間、シリーズでつづった「写真にみる今帰仁」(100回)の50回分をアップできました。それがブログへつながっていることは確か。提供いただいた写真を手がかりに現場や現場の話を伺うなど。多くの方々との出会いがあり、他界された先輩方が多いが、今でも思い出される。調査や動きなどを記録していく習慣になっている。今ではデジカメの画像がノートの役目を果たしている。

 1.今帰仁村のある風景(平成2年6月)
 2. 仲尾次のハサギと公民館(仲尾次)(平成2年7月) 
 3.今帰仁(北山)城跡の正門付近(今泊)(平成2年8月)
 4.運天港と運天のムラウチ集落(平成2年9月)
 5. 大正・昭和(戦前)の謝名の湧川家(平成2年10月)
 6.仲原馬場(ナカバルババ)と松並木(越地)(平成2年11月)
 7.平敷公民館の棟上げ式(平成2年12月)
 8. 謝名・平敷のサーターヤー(謝名・平敷)(平成3年2月)
 9. 一軍人の仲原馬場での村葬と墓 (平成3年3月号)
 10.渡喜仁から上運天にかけての風景(渡喜仁・上運天)(平成3年4月)
 11.変貌していく古宇利島(古宇利)(平成3年5月)
 12. 古宇利島の港付近(古宇利)(平成3年6月)
 13.今泊の道ジュネー(今泊)(平成3年8月)
 14. 仲宗根(プンジャー)のマチ(仲宗根)(平成3年8月)
 15. 玉城での嶽の御願(タキヌウガン)(玉城)(平成3年9月)
 16.渡喜仁の伊是名家(渡喜仁)(平成3年10月)
 17.勢理客の公民館と豊年祭(勢理客)(平成3年11月)
 18.仲宗根のアサギ付近(仲宗根)(平成3年12月)
 19.今帰仁の風景・人々・生活(平成4年1月)
 20.戦後、間もない頃の生活(平成4年2月)
 21.大井川と寒水(パーマ)村付近(玉城)(平成4年3月)
 22.羽地内海、ムラ移動や塩作りの歴史が(湧川)(平成4年4月) 
 23.琉球の歴史を秘めた運天港(平成4年5月)
 24.志慶真製糖場(シジマサーターヤー)(諸志)(平成4年6月)
 25.ありし日の今帰仁の風景(今泊)(平成4年7月)
 26.ムラの歴史を彷彿させるコバテイシ(今泊)(平成4年8月) 
 27.ヤガンナ島とマリーの塩田(湧川)(平成4年9月)
 28.大井川渓谷を通る道( 玉城・呉我山)(平成4年10月)
 29.シマの茅葺き家・子供達・水くみ(平成4年11月号)
 30.かつて賑いをみせた湧川のマチ(湧川)(平成4年12月)
 31.阿応理屋恵按司ノロと今帰仁ノロの遺品
 32.平敷の掟田原での「献穀田御田植式」(平敷)
 33.明治34年の今帰仁校と兼次校
 34.明治34年頃の天底校と古宇利校
 35.与那嶺の旧公民館
 36.昭和十二年頃の仲尾次の人々
 37.運天港付近の古い墓(昭和十年頃) 
 38.今泊のハサギングヮー 
 39.運天のトンネル
 40.兼次校の学校林と開墾 
 41.今泊(ムラ・シマ)(平成5年11月号)
 42.越地のウヘーでの式典(昭和17年)
 43.茅葺き校舎の「今帰仁中学校」(昭和25~27年頃)(平成6年1月)
 44.今泊のアジマー(交差点)付近(平成6年2月)
 45.天底尋常高等小学校の実習農園(昭和9年)(平成6年3月)
 46.戦前・戦後をつなぐシマの人々(諸志) (平成6年4月)
 47.諸志の志慶真神ハサギ付近(昭和十五年頃)(平成6年5月)
 48.戦争で崩壊、そして復興(天底校)(平成6年6月号)
 49.北山高等学校の設立(昭和23年)(平成6年7月)
 50.与那嶺の豊年祭での人々(昭和31年)(平成6年8月) 


・写真にみる今帰仁 1(1~10)
写真にみる今帰仁 2(11~20)
写真にみる今帰仁 3(21~30)
写真にみる今帰仁 4(31~40)
写真にみる今帰仁 5(41~50)
写真にみる今帰仁 6(51~60)
(以下続く)


2017年8月10日(木)

 資料をいただくため読谷村史編集室へ。久しぶりに訪れる。二、三名の古株も。寡黙に仕事をしている姿は美しい。その雰囲気から「寡黙庵」とブログ名をつけたのかもしれない。ハハハ

 資料をいただいて、行き当たりばったりに瀬名波と渡慶次、長浜へ。目的があって集落内を踏査しているわけではないが、不思議とかつてのムラの形が彷彿してくる。ムラの形を彷彿させてくれるのはムラヤー跡やノロドゥンチ跡や神アサギ、地頭火神の祠、池跡、馬場跡などの表示があるからであろう。長浜は北山滅亡後、離散した一族が屋部経由で行き着いた場という。もちろん座喜味城との関わりなど、あの時代にもどしてみるとどのような場所だったのか気になる。

 時間がなく恩納村に移動。山田から南の方の字(アザ)はなかなか訪れることがないので、様変わりしている宇加地、与久田、塩屋、真栄田、山田まで。ほとんど踏査することのない南の字(アザ)へ。恩納村の変貌していく字(アザ)の様子を頭に刻むことに。真栄田、塩屋の記憶はすぐに思い起こすことができた。今進めている編集作業を片付けたら恩納村の南側と読谷村へ軸を移してみるか。(それまで体力がづづくか?)

 さて、土曜日は「ムラ・シマ講座」、本部町伊豆味であるが、移動した天底、そこまで訪れることは出来ないが、過去の調査記録をひもといておさらいでも。(移動先でウタキをつくり祭祀を行うことの理由、天底ノロ祭祀が大正で行われていたこと。その名残が天底から伊豆味の豊年祭のときウシ肉(豚肉?)の献上が近年まである。ウシをつぶす場所が今でも残っている)

天底のアブシバレー調査メモ】


2017年8月9日(水)

 昨日、ちょっと中部までドライブ。西原町の尚円王の居宅へ。もう一つは中城村の新垣グスクまで。

 すっかり忘れていたが、尚円生誕600年の事業で伊是名村で講演?や国頭村の奥間や与那覇岳まで同行している。その様子が掲載されていた報告書をいただく。

 新垣グスクは歴史の道が整備(歴史の道)された頃だと記憶。いつも中城のインターからペリーの「旗立て岩」があれかとつぶやいたいる。今日は意を決してあがることに。新垣グスクは学生が新垣のグスクと集落の境界をはどこかと一生懸命。グスク(ウタキ)の内部の構成要素をとりあげることが先決だと、アドバイスしたことがある。石積みの少ない新垣グスクの整備は、大宜味村の根謝銘(ウイ)グスクの整備にも非常に参考になる。その前に、新垣グスクについて報告したことがあるので、さがしてみることに。「旗立て岩」のことは、大宜味村にペリーの塩屋湾と岸辺の図が何点かある。

 新垣グスクと新垣グスクについて、興味深いことが見えてくる。新垣グスクと呼ばれているが『琉球国由記』(1713年)には中城間切の「新垣ノ嶽」とあり、また殿はウチバラノ殿あり、城内の殿とは記されていないが、ウチバラノ殿あり御嶽(グスク)内の殿と見られる。新垣のグスク内に新垣ノ嶽が中央部(高所)にある。踏査してみると大宜味村の根謝銘(ウイ)グスクと類似する場面が多々あり、参考となる。

 
根謝銘(ウイ)グスクと呼ばれるグスクは『琉球国由来記』では城村の小城嶽、見里村の中城之嶽とあり、城の嶽である。

 二つの事例から現在グスクと呼ばれる杜は、ウタキともグスクとも呼ばれていたことが知れる(表記上)。

 先週、担当と根謝銘(ウイ)グスクを踏査する。そこでグスク内、あるいは周辺の構成要素をとりあげてみた(業務日誌)。すでにその案内図は作成されているので根所(ウドゥンニーズ、トゥンチニーズ)、按司墓、神アサギなどを歴史の流れで整理してみる。石積みが見栄えしないグスク?なので歴史や祭祀、周辺の六つの村、眺望などで浮き上がらせる必要がありそう。(工事中)


  
   ▲根謝銘(ウイ)グスクの案内図(謝名城の城)   ▲ウドゥンニーズとトゥチニーズ     ▲グスク内の神アサギ

  
▲新垣グスク内の」ウチバラの殿▲新垣グスク内の根所(ニードゥクル)    ▲ペリーの旗立て岩(1853年)


2017年8月8日(火)

 山原のムラ・シマの準備。

・天底の語義(移動前の場所で・・・)

・1719年に移動した二つのムラ(天底村・嘉津宇村)

・移動した村があった場所は山あいの盆地である。

・移動地でウタキをつくり神アサギをつくり祭祀を行う

・伊豆味・嘉津宇・天底は天底ノロ管轄の祭祀の村

・伊豆味は二つの村が移動すると古島から内原付近へ移動

・伊豆味の祭祀は根神が取り仕切っていた。ノロは玉城のろ、大正の頃まで伊豆味まできて行っていた。
豆味の拝む所
 ①伊豆味神社 ②サータマタの宮 ③陣城 ④上ヌウタキ ⑤村墓 ⑥デイゴのカー ⑦下のハー(古嘉津宇の拝所) 
 ⑧黒グムイ(古嘉津宇の水源地)

・伊豆味の水田は盆地
・戦前まで伊豆味の経済を潤していたのは山藍と建設用材、薪炭材
・我屋地・湧川の製塩の葉薪(ハーダムン)・荷馬車(湧川の津口や名護のマチヤーは伊豆味の車屋で繁盛)
・大正の頃、湧川にマチが発達したことがある。

 先日、書き記したような!


  ▲「琉球国絵図史料集所収「元禄国絵図」より(沖縄県教育委員会)

   ▲伊豆味から天底と嘉津宇が村移動(1719年)






2017年8月7日(月)

 台風が接近するのかどうかに迷わされブログに向かう余裕なし状態。切り餅を二切れ、焼いて塩をつけてパクリ。さて、出勤。


2017年8月4日(木)

 これから根謝銘(ウイ)グスク踏査へ。大宜味・国頭の歴史的な情報を頭に入れながら踏査することに。文献記録が少ない時代をどう描けるか。それが史実かどうかということもあるが、それらの出来事が伝えれてきたことを主とすることに。それらのことを頭にいれるために、以下に羅列してみた。さてどんな踏査になるか。

・長浜氏系図(『沖縄県国頭郡志』)
 ・大宜味村田港と東村川田の根謝銘屋と関わる史話『通俗琉球北山由来記』

そのたぐいの先祖由来記や系統図がいくつもあるが、特に大宜味と関わる二点について整理してみる必要がありそう。それは大宜味側(国頭)の歴史を考えるにうえで、欠くことのできない資料であろう。

国頭・大宜味の時代区分の案づくり


この系統図は、北山のハンアンヂが亡び、その後の久志村川田の根謝銘屋と大宜味村田港の屋号根謝銘屋の系統図である。北山の歴史の第一尚氏の頃である。北山には尚忠と具志頭王子の時代である。北山監守の滅亡で川田、田港の根謝銘屋の時代は継承で混迷きたした時代である。

 ・北山の領域の時代の国頭地方(大宜味を含む)
 ・北山滅亡後(1416年~1469年)(北山から離散した一族の一経路)
 ・根謝銘(ウイ)グスクが機能していた時代今帰仁グスクから離散して根謝銘グスクへ
   川田の根謝銘屋と田港の根謝銘屋
 ・第一北山監守の時代の国頭・大宜味
 ・第二監守の時代(1609年まで)
   1471年の「海東諸紀」(琉球国之図) 国頭城は?
 ・各地の按司を首里へ集居
   国頭按司の配置と首里への移居
  山原関係の辞令書(1500年代)
  「くにかみあんし」が登場する金石文
 ・「のろくもい」の配置(任命)
 ・おもろさうし「やかひのろくもい」(遺品)/赤丸崎
 ・1609年の薩摩の琉球侵攻   

 1673年大宜味間切創設のとき川田村と平良村が大宜味間切の内(方切)
  川田の根謝銘屋と田港の根謝銘屋と関係ありや
   平南村と津波村は羽地間切の内(津波ノロは儀保あむしら首里あむしられになるか?)
 ・絵図郷村帳の「国頭間切」(大宜味含む)(平南・津波は羽地間切)

・1673年 国頭間切・羽地間切を分割し田港間切を創設、田港間切田港に番所
  を設置したことは1665年頃、監守一族が首里に引揚げることに反対した寒水
  和尚が田港に隠遁したことと関係ありや。

・1692年 大宜味間切を創設し大宜味村を設け大宜味村に番所を置く。

    以後、国頭間切と大宜味間切が別れる(一部方切がある)。

・大宜味村から塩屋へ番所が移転する。
 ・1713年川田村と平良村は田港(大宜味)間切の内

 ・羽地間切の村であった津波ノロの位置づけ。(引き継ぎは大宜味間切は
  里殿内、羽地間切は儀保殿内へ?)


2017年8月2日(水)

 本部町伊豆味をゆく。伊豆味公民館のある内原に集落が発達している。30近い班があり、それが近世期の寄留人が形成した散在集落である。そこには、大当原に伊豆味村、内原に天底村、そして古嘉津宇に嘉津宇村の三つの村があり、祭祀は天底ノロ管轄であった(『琉球国由来記』1713年)。1719年に天底村と嘉津宇村の二つが移動、その地に伊豆味村(大当原)が残り、地割で土地の配当にありつけなかった寄留の人々は山あいに寄留。特に廃藩置県直後に首里・那覇からの寄留が山地で藍づくりが盛んになる。その藍壺が散見できる。

 二つの村の移動、伊豆味内での集落移動、寄留人の多い村、二年おきの豊年祭、組踊り、アヤーチ(操り獅子)など。大正頃まで移転した天底に居住していた天底ノロが伊豆味まできて祭祀を行っていた。ノロ管轄村の変更はなし。移動地でウタキ、神アサギをつくり祭祀は行う理由は?

 内原にあった伊豆味集落も古島へ移動。そこからウタキや祭祀場のある大当原(大内原)に移動した伝承をもつ。祭祀場にはアサギマー、神アサギ、伊豆味神社(昭和4年:お宮)があり、学校の後方はウタキになっていて、そこのイベがある。伺うと今年は豊年祭はないとのこと。

 伊豆味は藍づくり発祥の伝承、明治30年頃になるとパインや果樹栽培が根付いていく。昭和2年頃沖縄県が台湾から導入。加工工場がなかったため、保存のきかない販売だったため飛躍的な発展にはならなかった。旧盆の供え物でアダンの実からパインに変わって供えられるがパイン収入が経済を潤すまでにはならなかった。

 1955(昭和30)年頃にパインブームがおきる。パイン工場が新設され、パインムラとなり、同時に柑橘類や柿、ナシ、ブドウ、栗などの栽培が行われるようになる。ミカン類は王府時代から上納として納められていたようである。「クヌブン木敷」の地名があるようでミカン木を植え管理する山があったようだ(未調査)。ほとんどの屋敷にミカンが植えられている。種類は、オートー、カーブチ(皮厚)、シクヮーサー、羽地ミカン、文丹など。

 ジングスク(陣城)までいく。岩山の下を大井川が流れる。かつては一帯にあった村人の風葬地(ガンサ:合葬)か。戦前は人骨が散在していたという。
 
 
  ▲アサギマーの舞台前に拝所が並ぶ       ▲旧盆にアダンの実が供えられた(今はパイン)

  
▲左側の拝所(古島への遙拝所?)    ▲伊豆味神社(お宮)       ▲神アサギ(豊年祭の用具入れに活用)

  
 ▲ウタキのイベへの神道          ▲ウタキの頂上部にあるイベ            ▲ジングスク(陣城)墓

2017年8月1日(火) 

 8月か。今月のムラ・シマ講座はどこにしようか。現場踏査はこれから。以下のことを頭に入れて踏査することに。本部半島の中央部に位置していること。そこに天底村と嘉津宇村があり、1719年に飢饉があり、納税することができず村移動を願いでて許可されている。村が移動した地で神アサギをつくり祭祀を行う、そしてウタキを移転先でつくっている。何故なのか。二つの村の故地を訪ねる。天底村の語義も理解してもらえるかも。

 二つの村があった故地が伊豆味である。伊豆味村は1666年以前は今帰仁間切の内、今帰仁間切を分割し伊野波間切(翌年本部間切)となる。1719年まで伊豆味・天底・嘉津宇は本部間切の村である。伊豆味はアヤーチ(操り獅子)が豊年祭で行われる(伝統芸能:名護市川上・今帰仁村謝名・本部町伊豆味の三ヶ所のみで行われる)。寄留士族が多い村で、藍の生産が盛んに行われた時期がある。今ではミカンやパイン栽培が盛ん。

 三か村の歴史もおもしろい。詳細は踏査してから。二つの移動村は画像で説明。下の「元禄国絵図」(元禄10年:1697)に「今帰仁間切之内あめそこ村」(琉球国絵図史料第二集:沖縄教育委員会発行)とある。




 ▲「元禄国絵図」に伊豆味村地内に「今帰仁間切之内あめそこ村」とある。

 伊豆味の古嘉津宇から入る。そこは盆地となり1719年まで嘉津宇村があった場所である。今では小字名の古嘉津に名残を残しているにすぎない。ただし、光緒十五年(明治15)の「仕明知行田方畠方譲渡証」に「古かつう原ノ大城筑登之」が田と畠を譲渡している。古嘉津宇原に居住する人がおり、田畑が営まれていたことがわかる。現在は散在した家々がミカン栽培を行っている。盆地になった古嘉津宇内に村移動の痕跡が遺っているかの踏査はしたことがないので不明。

 1729年に移動した嘉津宇まで。そこには神アサギがありウタキを造り祭祀を行っている。故地との関係を伺ってみたが話が聞けず。ただし、移動後、具志堅の地に移転したことが明治17年の祭祀記録に見え、具志堅から行政区として独立したと聞く。本部町嘉津宇lへ

 
▲嘉津宇の神アサギ        ▲嘉津宇のウタキのイベ

 天底村も嘉津宇村同様1719年に今帰仁間切勢理客地内に村移動を行っている。現在の天底は旧大井川沿いに細長く入り組み、湿地帯の開拓があったのではないか。天底村の故地は伊豆味の内原だという。そこは盆地なっていて、「あめそこ」の語義はそこから来ていると見ている。本部半島の中央部の高いところの盆地、天に近い盆地からきた地名天底。現在の地に移転する前からあった伊豆味地内にあった天底の故地。


  ▲伊豆味の盆地になったいる内原

ちょと、時間がなく中心となる伊豆味については工事中。