寡黙庵 2018年6月の記録        沖縄の地域調査研究(もくじ) 
                  (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村字謝名)   
                            
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2018年3月)  2018年4月  2018年5月(先月へ)

やんばる学研究会へ


ムラ・シマ講座へ(25期)


2018年6月26日(火)

 今日、喜界島へ出発の予定が飛行機のチケットがとれず明日出発となる。詳細な計画は今晩にでもやることに。

 しばらく、お休みです。


2018年6月25日(月)

 奄美にゆく下調べをしている。喜界島を訪れるのが主な目的であるが、「歴史民俗資料館」の画像が見つからず。2005年の喜界島ゆきと同様となるか。歴史民俗資料館は赤連の公民館の二階にあった記憶がある。神衣装や祭具が数多くあった記憶である。喜界島を回るが、瀬戸内町の加計呂麻島まで渡る時間があるか。

 大宜味村史の言語編の確認調査で南風原町へ。すっかり忘れていた塩屋と宮城の方言調査表と出会う。1980年の調査なので、全く記憶になし。手書きの名前は私の筆跡は間違いない。数年言語調査と関わったが離れる。方言調査を並行していたと思うが民俗へ。民俗と並行しながら歴史へ。その資料館(後に歴史文化センター)づくり。その延長上に今がある。

 それは別にして言語調査に参加する。音の世界に全く能力がないことに気づいている。30数年ぶりに調査に参加。調査ノートに目を通してみたら、聞取りが十分できていないことに反省。30数年前の言語調査の感覚はまだ生きていることはラッキー。先日、方言(言葉)を通して以下のことを見ることができないかと思いをめぐらしていた。語彙や音韻やアクセントなどについては全く自信のない分野である。別の視点で形にしてみるか。果たして形にできるか。まずはデータの整理から。言語編の委員長の新里幸昭氏を中心に塩屋の宮城氏、屋古の真謝氏、喜如嘉の大山氏、平良氏、事務方藤田、新城、河津、仲原が参加。

  ・マク・マキヨの小規模集落の単位
  ・歴史の興亡で人の離散、あるいは集結
  ・近世の「村」の形
  ・土地制度の影響
  ・村移動(村を越えた移動)
  ・合併村
  ・近世の「スクミチ(宿道)
  ・番所の設置(移動)
  ・寄留人の入り込み
  ・明治の教育の影響
  ・個人個人の個性?
  ・祭祀の影響(ノロ管轄)
  ・職業の違い

 

2018年6月22日(金)

 6月の大きなことが終わる。やっと喜界島の調査に向くことができる。島の全村を踏査する予定。各村の琉球と関わる記事を拾っていく。琉球国とかかわるノロや祭祀場のアシャゲ跡やノロを継ぐため琉球j国へ渡海することや複数のノロがおり、祭具がの遺されていることがわかる。伊波普猷の「おなりがみ」所収の「喜界島雑記」)によると氏は昭和4年に喜界島を訪れている。

 2005年に喜界島を訪れているが、途中でストップ。2009年に「沖縄のガラス・玉等製品関係調査」でノロ祭具の調査をしている。今回は「喜界島と琉球」をテーマとしての踏査。,http--yannaki.jp-kikaijima2.html(喜界島参照)




 ▲喜界町残図地図は『喜界島古今物語』所収より(ムラの位置)

①湾
  ・成化2年(1466)に中山国の兵船(尚徳王の軍勢)が湾港に襲来。
  ・1466年琉球王国の尚徳が鬼界島へ二千余騎の兵を率いて攻める(中山世鑑巻三)
  ・「うどん鼻」は全島のノロが集まって盛大なノロ祭りを行う場 
  ・湾の中沢家(旧姓嘉島)にはノロ祭具の曲玉が伝えられる。
  ・慶長18年(1613)頃、与人を努めた金樽の叔母にあたる立浪樽は「湾村上間野呂久米」であった。

②赤連
  ・赤連(アガレー)は太陽がのぼる方向の意か
  ・砂糖樽の用材の帯竹は大島から購入して村に配布。
  
③中里
  ・「正保琉球国絵図」に村名の記載なし。浜方に「はいき崎」がある。
  ・喜界島帳留(元禄5年:1692)に湾間切与人のあつかい村として「中里村」が出てくる。
 
④羽里
  
⑤山田

⑥川嶺
  ・琉球王国のの尚家の末孫と伝えるトノチ(殿地)とナッシュ家などの旧家がある。
  ・墓地(ムヤ)は遠く(赤連)に葬る慣習がある。
  ・安永9年(1780)半嶺の具志頭は山林が少なく薪に不自由な村であった。ぐしょう主山に杉山を仕立てる。
    (蔡温と関係あるか?)

⑦城久
  ・グスクがあるか?
  ・丘陵高台にあり。(高性性集落か?)確認こと。

⑧荒木
  ・荒木泊は琉球との交通の拠点
  ・泊の広場にノロの霊木のクバが立ち並んでいる。
  ・琉球王国から喜界郡守を任じられた勝連親方は荒木を拠点として勤める。その子は任期を勤めあげ帰国し按司となったという。
  ・墓地の墓碑に「荒木野呂」と刻まれる。
  ・1841年(天保12)に長崎に向かう蘇州船一艘が中里村と荒木村との境の裏に漂着(101人のうち62人を救助)。
   琉球に送り届ける。

(以下工事中)



2018年6月20日(水)

 二日ばかり古い資料に目を通す。同時にムラ・シマの形を追いかけている。各ムラ・シマは異なった個性を持っているのだとの頭、しかし、そこに何か共通して流れているのがあるとの頭がある。特に言語(方言)ではその姿が見えてこない。これまで、
  ・マク・マキヨの小規模集落の単位
  ・歴史の興亡で人の離散、あるいは集結
  ・近世の「村」の形
  ・土地制度の影響
  ・村移動(村を越えた移動)
  ・合併村
  ・近世の「スクミチ(宿道)
  ・番所の設置(移動)
  ・寄留人の入り込み
  ・明治の教育の影響
  ・個人個人の個性?
  ・祭祀の影響(ノロ管轄)
  ・職業の違い
など、など。いろいろ視野に入れているが、もう少し資料の整理をしてみる必要がありそう。方言(言葉)は寄留人の入込みの影響、旧間切域の村、交通の要所、言葉一つ一つを目で見える形で示してみる必要がありそう。ことばは意志の伝達の重要なものである。形がないので、見て一目でわかる方法が必要。その難題をやってみるしかないか。

    (出勤前のメモ書き)


2018年6月19日(火)

 台風後の寡黙庵の片付けに。


2018年6月18日(月)

 過去の記録の一つを拾ってみる。ノロについて、ムラ移動や集落、そして人々の歴史に関心を持っての地域を歩いていたのだなと。ちっとも成長していないということか。久米島はグスクや地割(人頭税)、久米島のムラ、シマ、遠見所などで何度か訪れている。ハハハ

2001.11.27(火)メモ

 2001年11月23~25日まで久米島を訪ねる。「久米のきみはゑ五○○年」の展示会はどうしても自分の目で見ておきたかった。久米島をめざして空港についた。まだ飛んでいたのかと思うようなプロペラ機に乗るはめになった。その緊張もあって上空から久米島を眺める余裕など全くない。それにかこつけてしっかりと寝てしまった。いつの間にか久米島空港に到着。天気はまあまあ。お昼にはまだ早いのであるが、まずは腹ごしらえ。食事をしながら三日間の研究会やシンポジウムや展示会など予定、それと宿泊地の確認。
一日目、研究会の開催まで島を回る時間がないので、空港から自然文化センターまでタクシーに乗る。

 途中、運転手さんに「鳥島の方々の気質はどうでしょうか?」と声をかけてみた。「う~ん、むかしは喧嘩していたが」と言葉を濁した。「喧嘩っ早いのですか?」と聞いてみたが返事がなかった。別の方にも同じような質問を投げかけてみた。どうも、私が問いかけた方々は鳥島の人の性格や気質をつかんでいないような返事。「気性は激しいですか?」と訪ねてみたのであるが「そうだね」とそっけない返答。もしからしたら、久米島の方々が鳥島の方々の性格を言いあてる言葉を持っていないのかもしれないと勝手に考えたりもした。鳥島が久米島と明らかに生活や言葉が違うということは充分認識している。久米島の方々は物事の良し悪しをはっきりと言わない性格なのかもしれない。

 「久米きみはゑ」の企画展は見事。職員の苦労がにじみ出ている感じ。資料の借り出しの苦労を知っているが故に、そんな思いにかられた。展示を観ながら「今帰仁あおりやえ」(今帰仁阿応理屋恵)の展示会のイメージを膨らませていた。君南風や今帰仁阿応理屋恵の継承を追いかけていくことは、まさにその地の歴史をたどることでもあることに気付かれた。久米島の二つの間切(具志川・中城)のノロ全体を統括する君南風、そして山原全体の祭祀を掌ったといわれる「今帰仁阿応理屋恵」。両者とも三十三君の一人である。もう一人「伊是名のおおあむ」を含めて考えると祭祀を掌ったノロの役割がはっきり見えてくる。

 展示されているのは、櫃・君南風の勾玉・ミチブイ(頭冠)・系図・君南風之始祖伝記・胴衣などノロの祭祀道具など。遺された神衣装の数の多さと、祭祀を延々と引き継いできた神人とムラ人、そして首里王府との関わりを歴史の重さとして実感させられた。展示されたものと翌日のシンポジウムから久米島が果たしてきた役割や君南風の継承などから、山原における今帰仁阿応理屋恵が果たした役割について研究を深める手がかりをいくつも得ることができた。

 二日目、時間的にゆとりがあり久米島の村々を何度も回ることができた。特に仲地と山里は君南風の祭祀(六月ウマチー)が行われる君南風殿内・仲地蔵下・玉那覇蔵下・君南風カーなどの確認。そしてウマチーと密接に関わる水田を訪ねることができた。ウマチー(稲作)を通して、琉球という国の姿を投射することができるに違いない。そんな大それた仮説を思い描きながら久米島の水田のあぜ道を踏みしめていた。
 三日目、具志川グスク、宇江城グスク、蔵元跡、天后宮、太陽石、島尻のタカ墓などを訪ねた。具志川間切(村)は1757年に今帰仁按司(王子)が今帰仁間切に加えて久米具志川間切の総地頭職を授かったことがある。そういうことや君南風、さらにムラ移動など、久米島は今帰仁の歴史を紐解く上で様々な手がかりを得ることのできる重要な島である。鳥島の人の顔、そして久米島の人々の顔を見つけたいい旅でした。
 

      ▲久米島仲地の水田の写真(略)

http--yannaki.jp-2005nen2gatu.html

http--yannaki.jp-2005nen4gatu.html
http--yannaki.jp-2005nen5gatu.html
http--yannaki.jp-2005nen6gatu.html
http--yannaki.jp-2005nen8sai.html
      の過去記録をアップ。


2018年6月17日(

 
大宜味村田港での話題を確認してから。北山の歴史と密接に関わっている村(ムラ)であること。1673年に間切を創設した時に、何故田港間切(1690年頃大宜味間切と改称)とし番所を田港村に創設したのか。間切番所を田港→大宜味→塩屋→大宜味へと移動過程などを中心に話すことに。公儀ノロの一人を田港ノロにした理由は? 北山の歴史の興亡と密接に関わっていそう。
 忘れ物せず、出発!

 午後二時から大宜味村「たんな誌」の運営委員会。会の前に「田港の歴史」(北山の興亡と田港(根謝屋)一族)、1673年田港に番所を置いたことなど。父の日で、田港の父親方がヤギをつぶし、料理をしていました。「若者にヤギをつぶす方法を伝授しなければ」と。しばらく、そばで拝見。帰りにはバス停側の公園でヤギ刺身とお汁を満腹頂きました。講演の前に、定水和尚が隠遁した滝川、田港のウタキの香炉と鍛冶屋跡、ウフェーヤー、根謝銘ヤ、神アサギ、根神家、ノロドンゥチ跡などの確認。



  
  ▲水が勢いよく流れ落ちる滝川         ▲ウタキの祠の香炉            ▲田港の神アサギ

2018年6月16日(土)

 台風通過中!明日の大宜味村田港のレジメでもつくるか。できるかできないか?台風の影響がどうかはっきりせず気分がのらないですね。


2018年6月15日(金)

 幸地新政氏の「わが足跡」を見つける。そのもくじはまえがきから六七までの項目が綴られている。以下の出来事は大正時代の移民と関わる事件である。少し紹介するが、六四は「移民哀話」(犠牲者の霊にささぐ)である。その中の「海外渡航の動機」部分を紹介しよう。

 大正初期といえば、沖縄では専制王奈良原知事の再来としての大味知事の暴政時代であった。中央では政治的には憲政擁護運動、思想的には新理想主義即ち「霊的合致」の運動が茅原崋山を主幹とした「第三帝国」によって天下の青年を風靡していた。

 海南の孤島、北山の一角に新理想主義にもえ、読書会を組織し、そして中央茅原崋山と呼応した十余名の青年グループがあった。

 「沖縄公論」主幹として一世の反逆児たる郷党の先輩宮里喜一をアドバイザーに、与那嶺善太郎、島袋源一郎、嘉手納善五郎、仲本吉正、上間常三郎、仲村源元、兼本嘉信、幸地新政の面々であった。

 「君たちが第三帝国」の読者であることは、其の筋でちゃんと調べてしっているんだ。注意人物として渡久地警察署の黒票にのっているんだ。注意したまえ」。

 巡回の序によく幸地の家に遊びにきた我謝巡査が好意の注意をした。
 幸地がそのことを次の読書会に報告すると、「これはわれわれ新人たるものの誇りである」と、益々読書に身をいれただけでなく、実際運動にまで進出するようになった。

 仲本が上京して葦原崋山に会って連絡をとったり、他のわれわれは選挙費をあつめて葦原の理想選挙を助けたり、朝日新聞社長当山嗣合をかついで解放打破運動に参加したりした。

 村では汚職の噂高い石嶺林野監守と無能の仲西校長排斥の火の手をあげた。

 これにたいする郡当局と警察の思いきった弾圧は、最初に読書会員の教職にあるものを捕らえて、各離れ島への追放左遷となって現れた。

 宮里は遠く宮古島に、岸本は伊平屋島に、嘉手納と兼村は津堅島に、山城は金武村にそれぞれ流された。過敏症な宮里は、烈火のように怒って辞令をたたきつけて言った。「断然外国渡航だ!海外雄飛!」と。

 結果的には幸地、宮里の海外移民は「海外追放、棄民政策」であった。その流れは平良新助、当山久三、謝花昇へ遡る時代の流れの渦中の出来事である。(詳細は今帰仁の移民と戦争編で扱うことに)

 先日、上間常三郎について訪ねてきた弁護士がいた。大正時代の農学校学校でのストライキとの関わった上間常三郎のことか。突っ込んだ質問はなかったので。名護に三中ができるのは昭和3年なので、その前の農学校でのこと。「ストライキと拙論」があり、いきさつについて書かれている。その時の校長が黒岩恒である。

※「新理想主義」の読書会に関わったメンバーが左遷された中で、島袋源一郎のみが左遷されず、教育会に残ることが
 できたのか。ずっと疑 問に思っていることである。幸地新政氏は大正6年9月2日に大義丸で那覇の桟橋を離れている。
 その頃源一郎は学校現場(訓導:校長)にい たので、それと沖縄県国頭郡志(大正8年発刊)の編集に関わっていたため
 かのか。

島袋源一郎経歴
  ・明治18年(1885)10月8日 今帰仁村字兼次に生れる。
  ・明治36年(1903)4月 沖縄師範学校入学
  ・明治39年(1906) 師範学校3年時、運天の百按司墓をスケッチ(東恩納寛惇氏へ提供)
  ・明治40年(1905)3月 師範学校卒業、名護小学校訓導拝命
  ・謝花小学校訓導
  ・沖縄師範学校訓導
  ・安和小学校校長
  ・屋部小学校学長
  ・謝花小学校校長(在任五ヶ年)
  ・大正9年(1910)8月、沖縄県社会教育主事(初代主事)抜擢
  ・大正12年(1923)4月島尻郡視学任命
  ・大正13年(1924)4月沖縄県視学任命
  ・昭和2年(1927)3月、国頭郡名護小学校校長任命
  ・昭和2年沖縄県教育会主事
  ・昭和17年(1942)3月卒

    東恩納寛惇資料(旧県立図書館)提供
(この図に島袋源一郎師範学校三年の時作図とあり。明治39年)

 
台風が接近し、パッションフルーツが小さなバケツ一杯落下。イチゴも何粒か。

  

2018年6月14日(木)

 さて、今日から次へスタート。ときどき、気合いを入れないとダメだ。喜界島のことで記憶を呼び起こしている。阿伝ノロの辞令書や勾玉や遺品や文書など。「ノロ制度の終焉」をまとめていた時に「公民館」の二階の資料を拝見させてもらったことがある。小型の喜界島馬の剥製が置かれていた。平家の伝承が根強く残ったいる島である。

 さて、これから車の車検、午後から大宜味村、夕方から「今帰仁と戦争」か「文化財」の話にするか、これから考える。時間がないので、これまで。(忘れる事が多いので出発前に確認!)

 「やんばる学研究会」で山原の人物について話題となる。今帰仁の人物を取り上げていると幸地新政氏の「わが足あと」に三中でのストライキ事件(一週間ほどでおさまる)の件、それと今帰仁の数名の教員や若者の動きがあり、遠地へ異動させられる出来事がある。幸地氏と宮里氏の移民と関係しているか。(手元に「わが足跡」がないので詳細はあらためて)。

http--yannaki.jp-20141gatu1.html「なきじんの人物」へ


2018年6月13日(水)

 二校目の出校(400頁余)を。一息いれる。すがすがしいものです。「字誌」が一段落したら「喜界島」へ渡ろうと、気持ちが飛んでいる。雲隠れしていた「喜界島」の記録を見つけ出す。途中で終わっています。私の関心事は、グスクと海運である。与論島から喜界島までの城(グスク)のつく集落は高地にあり、石垣のめぐらされたのは少ない。どれも高地性集落である。高地といっても100mから200mの丘陵地である。与論島、沖永良部島、徳之島については踏査してきた。喜界島の城久(グスク)集落や七城(志戸桶)やハンタ遺跡(西目)、大城久遺跡(伊沙)など、グスクのつく場所を踏査してみたい。沖永良部島の大城(オオジロ)、内城(ウチジロ)、上城(ウエジロ)など城のつく集落は高地(丘陵地)にあり、今帰仁村玉城の故地(古島)も同様丘陵地にある。その関心からhttp--yannaki.jp-kikaijima2.html(喜界島)へ。

 つかの間の気分転換の休息。


2018年6月12日(火)

 さて、よそ見せず、二校目の校正原稿渡し。原稿渡しの日は徹夜状態なので気が荒立っていいます。自分でもよくわかります。老眼鏡の3.5を購入して使ってみたらはかどっています。もう一息。


2018年6月11日(月)

 今週行う二つのテーマの準備オッケー、大きなテーマが一つ残っている。今週で片付けないと。


2018年6月10日(

 今帰仁村字玉城はムラの形として以下のような歴史の変遷をもつ。(一部まとめ)
 ・玉城村と岸本村は玉城村、きし本村は17世紀初頭にはあった村
 ・寒水村は1713年(琉球国由来記』から登場から登場
 ・玉城村・岸本村・寒水村は1862年に三村は移動する
 ・玉城村は玉城ノロ、岸本と寒水村は岸本ノロ管轄、祭祀は由来記以来現在まで継承
 ・スムチナ御嶽はコモケナ嶽とあり、クボウのウタキでのタキヌウガンと類似。
 ・玉城ノロ管轄の四村(玉城・謝名・平敷・仲宗根)がスムチナウタキで祭祀を一緒に行う。
 ・今回紹介しなかったウプユミ(大折目)がある(他地域では海神祭)。その時玉城ノロは
  玉城から平敷、もどる形で謝名、仲宗根、玉城へと馬に乗っての行事がある。ノロが管轄
  する村々を巡る例は中城ノロも行っている。
 ・玉城・岸本・寒水の三村の移動は羽地間切の仲尾の集落移動と類似。
   玉城村の移動は、1835年の羽地間切の仲尾村の移動と類似している。
   移動理由を風水とされるが、玉城村跡はウタキ部分を除いて造成され畑地に
   なっている。仲尾村の事例からあすると、集落を移動して田畑にすると税収が
   今以上に増えることを理由にしている。
 ・明治36年に三つの村が合併。他の村の合併は旧村の一字をとって村名とするが、玉城村
  を村(明治41年字)名とした。 
 ・行政は一つとなったが、祭祀は一体化しない。神アサギが三ヶ所に現在でもある。
 ・先日のタキヌウガンは玉城ノロ管轄の四村(アザ)で行っている。岸本と寒水は同日
  岸本・寒水地ナイでタキヌウガンを行っている。

【玉城ノロのウプユミ(大折目)のコース】(今では断片的にしか通れません)
    (海神祭と同日:旧盆明けの最初の亥の日)(タクヌウガンとは別)

  『じゃな誌』所収(仲原調査作成)(昭和60年頃

2018年6月9日(土)

 ムラ・シマ講座も25年目(200回余)になり、「ムラ・シマ」と名付けたことを振り返る。平成元年今帰仁村教育委員会(歴史資料館建設準備室)に職を移したころ聴かれたのは「生まれはどこのシマ?」「シマはどこ?」でした。同様「ムラ」がありました。当時の大先輩方が当たり前に使っている言葉でした。当時よく聴かれたことばに「スクミチやアサギ」がありました。それらの言葉に応えるために調査を進めたことがありました。最初に発刊したのが、「なきじん研究Ⅰ」が「今帰仁のムラ・シマ」(平成2年)でした。同時に準備室の機関誌が「すくみち」でした。それに続くのが、「今帰仁村歴史文化センターの調査記録」(一部「なきじん研究に収録)でした。どのようなテーマであっても歴史が軸(バック)にしていくことを無意識にある。その方針は沖縄の地域研究をしていく上で、何度か揺れたことは何度かあった。スムチナウタキについても昭和60年頃から片隅にひっかっていたテーマの一つである。

 クボウのウタキでの祭祀が1665年に北山監守と今帰仁アオリヤエが首里に引揚げたことで今帰仁ノロが肩代りしたことがわかる。『琉球国由来記』(1713年)頃には今帰仁ノロが行っている。昔はアオリヤエが司っていたことが記されている。

 集落移動のことなど、当初のことなどを思い浮かべながらの講座でした。

【今帰仁村玉城のスムチナウタキでのタキヌウガン】

 旧暦4月15日に行われるタキヌウガン。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字(アザ)合同の祭祀である。(玉城は寒水村と岸本村が合併した村(ムラ)でタキヌウガンに参加するのは現玉城の内の玉城のみ)

 コモケナ(スムチナ)嶽そこでの祭祀や唱えについては、なんら記されていない。しかし、四ヶ村合同の祭祀となると重要な祭祀であったと見られる。今帰仁グスク近くにある「コバウノ嶽」がある。そこでの祭祀は国(クニ)レベルの祭祀だと言い続けている。北山監守と今帰仁アオリヤエ一族が首里に引揚げる(1666年)までは今帰仁アオリヤエの崇所であったとみている。『琉球国由来記』(1713年)の頃はクボウノ嶽は今帰仁ノロが肩代わりしておこなっていた。

 
謝名村に、アフリノハナト、云う所アリ。、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立つ時ハ、コバウノ嶽ニ、赤冷傘立、
 又コボウノ嶽ニ、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立と、申伝也。
 
 また、コボウノ嶽での唱えは、以下の通りである。
  
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、
   島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。

 スムチナ御嶽もクボウヌ御嶽と同様タキヌウガンの名称でウランサン伝説があり、国(クニ)レベルの祭祀ではなかったか。

  
        ▲出発前にパワポイントでレクチャー         ▲移動前の玉城ムラのウタキのイベへ

 台風の近づいたくるためか、まで未熟のパッションフルーツが20個近くが落下。普通ぶら下がるバナナが房が上になっている。熟するまで持つか。夕暮れよく見るとイチゴがひとつ。

  

2018年6月8日(金)

 今週から来週にかけて、数個のテーマが頭の中を駆け巡っている。早く片付けないと、行くことができない島がある。
  ・ムラ・シマ講座(玉城の旧集落と移動、スムチナ御嶽のタキヌウガンとウランサンについて)
  ・大宜味村田港(1673年の大宜味間切の創設と北山の興亡)
  ・やんばる学研究会(運営委員会)(何をテーマにしようか?)
  ・今帰仁村の文化財(紹介)
  ・今帰仁村玉城の字誌(校正と画像の割り付け)
  ・大宜味村史の言語編の骨格分の検討(私案)

 そんなこと考えているところではありません。レジメを作らないと。レッツゴー!!

2018年6月5日(火)

 数日前からパッションフルールの実の落下がある。青い実が落下しているので黄色なのか開いてみた。オオー酸っぱい、苦みあり。まだまだ塾していない。立ち寄っていく方々は、パッションフルーツを取り払ってチャーギを盆栽に活かしたらの声。これから三ヶ月は実を拾って家に届ける日がつづく。一気に熟するのではないので慌てて収穫する必要なし。実ったトマトやイチゴやパッションフルーツなどを持ち帰ると、「寡黙庵」でおとなしく、日射しを浴びずに過ごしているとみてニコッとする方がいる。(ハハハ!)

  
    ▲まだまだ、未熟のパッションフルーツ      ▲数多く実っている。ある程度塾すると落下

 午後から来客があり、「寡黙庵」の名を返上しないと。インクとコピー用紙が切れ購入忘れないれないように!

2018年6月4日(月)

 2007年8月28日北山系統の一族とする伝承をもつ村についてマップにしたことがある。北山は少なくとも三度の興亡があったように見られる。そのこともあって山原の村々に北山系統の一族がどのように居住しているのか。その調査は中断しているが、一歩二歩進めてみる必要がありそう。

 山原の祭祀を眺めていると、北山系統の一族が、その村(ムラ:集団)の中心になっているムラは、山原の祭祀が神アサギを祭祀場として北山の根強く行われている。

 
北山の流れをくむという伝承を持った村(ムラ)をマップにしてみた。北山系統の一族だとする伝承が史実をどれだけ反映しているのか。一族が北山系統だとする伝承が史実かどうかの議論は別の機会にする。まずは、北山系統の一族の村(ムラ)であるとする分布がどのようになっているのか。まずは分布の状況を把握することから。
 
 それらからすると、北山が滅亡し離散していくが、そこには北山とは別の人々がすみ、次第に合流していく様子が伺える。近世になると寄留の人々が住みつき集団をなしていく。そのことが言語にどう影響しているのか。それは沖縄の方言に手を染めた頃からのテーマであった。それらのことがムラの言語にどう影響しているか。大宜味村の言語調査から、いくつか答えが得られるかかも、興味深い。


[
国頭間切]
北山系統 中山系統 南山系統 その他)
 ・安 波 (  
 ・安 田 ( 
 ・楚 洲 (新設村)(
 ・奥    ( 
 ・辺 戸 (
  
 ・宜名真 (寄留士族)
 ・宇 嘉 (
 
 ・辺野喜 (
  
 ・佐 手 (
 
 ・謝 敷 ( ? )
 ・与 那 (  
 ・伊 地 (  :多くが他地からの寄留)
 ・宇 良 (
 
 ・辺土名 ( 
 ・桃 原  (奥間から分離)
 ・奥 間 ( :寄留)
 ・比 地 (
 
 ・鏡 地  (比地と奥間から独立)
 ・半 地 (:奥間から分離:士族)
 ・浜    ( 

[
大宜味間切]北山系統 中山系統 南山系統 寄留 その他)(確認途中なり)
 ・田嘉里 
 ・謝名城 
 ・喜如嘉 
 ・饒波  
 ・大兼久(大宜味からの分離)
 ・大宜味 
 ・根路銘 
 ・(上原)
 ・塩屋  その他
 ・屋古 
 ・田港 
 ・(押川) 
 ・(大保)
 ・白浜(渡野喜屋) 
 ・(宮城)
 ・津波 
 ・(江洲)

[
久志間切]
北山系統 中山系統 南山系統 寄留 その他)
 ・川 田 (  
 ・宮 城 (川田から分離)
 ・平 良 (川田の根謝銘屋:
系統)
 ・慶佐次 (
 
 ・有 銘 (?  
 ・高 江 (廃藩置県頃、中南部から寄留)
 ・瀬 嵩
 ・辺野古
 ・久 志
 ・汀 間
 ・安 部
 ・嘉 陽
 ・三 原
 ・天仁屋
 ・底仁屋
 ・大 浦
 ・大 川

【本部間切】北山系統 中山系統 南山系統 寄留 その他)
 ・安和  
 崎本部  ■ 
 健堅    ● 
 
瀬底  ● 
 
 (以下工事中)
 


2018年2日(土)

 近々、大宜味村田港で田港について話をする。2003年に塩屋湾岸のムラ・シマと田港の歴史について触れているので、今回は「北山の歴史」と国頭(大宜味)、1673年に大宜味間切の創設、田港間切とした。それは北山の興亡と無縁ではなさそうである。そして北山監守一族が首里(赤平)に引揚げたとき、監守引揚げは早すぎだとした人物がいた。その人物(定水和尚)を国頭間切へ隠居させた。北山への監守の派遣は北山の地を首里化することがねらい。まだ首里化が完全になされる前に監守の引揚がなされた。田港に隠居した人物が住んだ滝川に番所を置いたことと、国頭(根謝銘)から田港と川田(現東村)に移住してきた根謝銘屋と無縁ではなさそう。そのことは北山が滅んだ後のことを記した「野史」にある。

 北山王の攀安知が中山の中山軍(巴志)に攻められたとき、北山の興亡(ハニジ王)の時、国頭地方へ逃げ延びた一族(今帰仁を除いた国頭・名護・羽地)が、中山へ組したこともあり、国頭按司として首里王府から王家以外からの按司として明治まで残った一族(馬姓国頭家)のようである。大宜味按司(羽地按司:羽地朝秀)は1673年以降である。

http--yannaki.jp-oogimiwanmua.html(田港について)
http--yannaki.jp-hokuzanitizoku.html(北山滅亡後の国頭(大宜味)の歴史)

 田港間切が大宜味間切と改称する。1690年頃、田港間切から大宜味間切と改称される。それまでは大宜味間切、大宜味村はない。間切番所を大宜味村に置き、田港間切を大宜味間切と改称した事と符号する。大宜味間切番所(役場)は、塩屋に移す。さらに塩屋から大宜味に、役場を移転。

 下の写真は15年前に田港の図像調査で訪れた時に撮影したものである。左側の祠に「地頭代拝所」とあり、地頭代火神(番所火神)である。そこに田港番所があったみられる。現在はウフェーにあるのは左が残されているが、ウフェーとある。


 ▲田港のウフェーにあった地頭代拝所(火神)

 まだ、合わせ見ていないが今帰仁間切役人の「口上覚」に大宜味按司の「立神」(旅立ち前、帰国後のウガン)がある。各地にある「奉納寄進」は「立神」と関わる香炉か。

大宜味間切と両惣地頭家】

 ・新設された田港間切は摂政羽地王子朝秀(向象賢)と国頭殿内の当主屋嘉比親雲上朝隆朝茲に与えられる。
 ・羽地王子朝秀が亡くなると羽地家は田港間切の地頭職をめしあげられる。
 ・1682年に北谷按司朝隆が按司地頭職を賜る。その時に田港間切大宜味間切へ?(番所も)
 ・1695年に屋嘉比村が国頭間切へ。
 ・1719年に国頭間切だった屋嘉比村と親田村と見里村が大宜味間切へ。
 ・1796年(嘉慶1) 大宜見王子朝規 謝恩使(尚温襲封)で江戸り。
 ・按司地頭家は大宜味御殿、親方地頭家は大宜見殿内。
 ・地頭は王府から家禄が与えられる(知行米)と間切の地頭地からの作得米を取得する。
 ・中には知行仕明請地として強制的に耕作させて一定の米を取得するのもいた。
 ・御殿や殿内は盆や正月や祝いのときなど、魚・肉・猪・薪・墨などを間切から調達した。
 ・領地の間切から奉公人(悴者)がおくられた。
 ・奉公人は地頭代の推薦で行われ間切役人層やノロ家の子弟。(御殿奉公・殿内奉公)
 ・殿内や御殿奉公は間切から見ると誇りであり、間切役人へのエリートコースである。
 ・役人層は競って子弟を首里奉公させた。
 ・羽地朝秀の頃、按司家13人、総地頭家12人、脇地頭家5人と制限する(実際は守られていないという)。
 ・明治12年頃の大宜見御殿、殿内の奉公人は総勢60人に達していた。
 ・奉公人は御殿・殿内で間切役人となる筆算や読書などを学び、また首里・那覇での見聞や文物を間切へ
  伝える役割を果たしている。
 ・1736年頃の大宜味間切の地頭作得地は田地の計1,167反の内405反(約35%)、畑地の計327反の
  内地頭作得地は94反(約29%)である。
 ・大宜味按司と惣地頭は城村の城巫火神、喜如嘉村の神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・大宜味按司は屋古前田村の田湊巫火神での祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・喜如嘉脇地頭は城巫火神・喜如嘉神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・根路銘脇地頭は田港巫火神の祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・津波脇地頭は津波村神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・根謝銘(上)グスクへの登り口にあるトゥンチニーズ(殿内根所火神)とウドゥンニーズ(御殿根所火神)は
  大宜味按司の御殿、惣地頭の殿地か。それとも田港間切創設以前の国頭按司と惣地頭のものか。

【大宜味按司家】(御殿)

 田港間切(後に大宜味間切)の按司地頭職であった羽地朝秀(向象賢)が亡くなると、羽地家は田港間切は削減され、羽地間切のみの領地を世襲する。羽地家を継いだのが北谷家の系統。1679年から四代按司地頭職を継承した。その一族は北谷や大宜味姓を名乗っているようである。御殿は羽地家北谷家大宜見家と引き継がれていく。

 北谷家の後を継いだのは大宜見御殿の一族で七代にわたって世襲したという。

【大宜見殿内】

 大宜味間切の総地頭職を継いだのは間切創設当時から明治12年の廃藩置県まで、代々大宜見殿内の一族が世襲する。初代の屋嘉比親雲上朝茲は国頭間切は総j地頭職であったが、田港(大宜味)間切の創設で大宜味間切の総地頭職となる。

【脇地頭家】

 脇j地頭は村を領有する。大宜味間切の脇地頭は津波脇地頭・田港脇地頭・根路銘(慶世村)脇地頭・喜如嘉脇地頭の四名である。脇地頭は首里に住むが、中には村に住み地頭作得地を耕すのもいる。



2018年6月1日(金)

 6月は何からスタートするか。すぐに準備しなけらばならないのが四講座あり。ムラ・シマ講座が先か。14日は「うちなー紀聞」でちょっと案内するので「湧川の塩造り」の頭で湧川の歴史でもするか。17日には大宜味村田港がある。村史から田港の字の出来事(年表)いただいたので、それで話ができそう。ムラ・シマ講座は先日「スムチナウタキ」でのタキヌウガンからいろいろ見えてきたものがあった。
http--yannaki.jp-25kikou2.htmlムラシマ講座今帰仁村の玉城)や5月29日30日参照。

 そこでは触れていないがスムチナウタキが玉城の小字のアザナにあることも触れること。そこにある香炉と大宜味村田港のウタキにある10基ほどの香炉と結びつけての話。恩納村史は、またまた待たれ!

 時々、雨があったので「寡黙庵」の庭の草が一気にののびている。除草してみるとミニトマトが実っている。大分落下しているが、摘んで家に持ち帰り。スイカも二個実っている。まだ、ソフトボールほどの大きさ。収穫まで育つか? 騒がしい世間を遠ざけて。