寡黙庵  2018年10月の記録(今月)
                        
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(先月)


やんばる学研究会(開催案内

ムラ・シマ講座へ(26期7回は)



2018年10月18日(木)

 今帰仁村で「村制110年の歩み」をテーマに講話を行う。以下の10近いテーマで「村政110年の歩み」を出来事(年表)と画像で報告します。特に「今帰仁村歴文化センター」が所蔵している戦前・戦後の文書(特に公民館資料)や写真をどう活用していくかの報告です。(まだ、骨子がまとまっていません)


                                 ▲昭和35年の新年のつどい(瓦葺き最後の役所)









2018年10月16日(火)

 久しぶりに宜野座村と金武町の空気を吸いにいく。宜野座村はノロにまつわる伝承があること(喜界島のノロかと思ったが久高ノロでした)。ノロの話を宜野座村の方に発表依頼ができました。それと「やんばる学研究会」を宜野座村の博物舘で開催予定なのであいさつへ。

 金武町は厨子甕の銘書の目視で判読困難。エックス線画像を利用する。職員達とアーではないか、コーは読めないかと。数カ所判読してみるが、まだ全体像が見えてこない。宿題。チーズ・田芋パイをいただき、東京から送られてきたお茶を飲みながら判読に困難をきたしている銘書に乾杯。

 ムラ・シマ講座でシニグコースの一部をまわるが、今帰仁村のフプユミ・ワラビミチ、祭祀の名称は異なるが、類似した所作が見られる。それで2008年の湧川での祭祀の様子を流れでみる。

-今帰仁村のフプユミ・ワラビミチの調査記録(2008年学芸員実習)


2018年10月14日(

 奄美について問われることが多々あり、また近々沖永良部島と与論島について触れる機会がある。記憶を整理しておくことに。奄美と琉球をつなぐキーワードに首里王府発給の辞令書とノロ・役人辞令書とノロ関係遺品がある。

2009年10月27日メモ

 2009年10月27日奄美大島の宇検村名柄の「古琉球の辞令書」を所蔵されている吉久家を訪れた。辞令書だけでなく、玉や櫃や扇なども拝見することができた。辞令書を入れる箱に「吉久家 古琉球御朱印状 五通」とあり、五通が以下の辞令書である。

 これらの辞令書は首里王府から発給されたものであること、1609年以前の古琉球の辞令書、そして同家に掟や目差の役職の人物(男方)の辞令書、それと「なからののろ」(名柄ノロ職:女性)の辞令書があることに注目している。それだけではなく、ノロ関係の遺品と見られる玉(勾玉や水晶玉(ガラス)、それを入れる櫃や扇などが遺されていることに注目したい。それだけではなく、①たらつゐはん(人物)→名音、②名音→名柄、名柄→阿木名、→名柄、あくにや→崎原へと、賜る領地?の変更がなされている。奄美の辞令書を見ると大幅な賜る領地の移動がなされている。ノロ(名柄ノロ)はもとののろのめいのつるが賜っている。

 以下の五通の辞令書は名柄の吉久家の所蔵である。嘉靖あるいは萬暦の時代からの伝世品だとすると、同家でノロと掟や目差などの役人を出していることになる(他にも同様な辞令書の所蔵がある。例えば、今帰仁間切の中城ノロ家は9通の辞令書が戦前確認されていて、二通がノロ職補任、7通は掟や目差など男方への発給である)。

 『女官御双紙』(1709年)に、「恵良部さすかさのあんし 馬氏国頭親方原行女揚氏敷名親雲上昌喜室」と出てくる。

「奄美・徳之島の辞令書」参照


①屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年:1554)

   しよりの御ミ事
    やけうちまきりの
    なおんのおきて
    一人たらつゐはんに
    たまわり申候
  しよりよりたらつゐはんの方へまいる
  嘉靖三十三年十二月廿七日

②屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1556)
 
  しよりの御ミ事
   やけうちまきりの
   なからのおきて
   一人なおんのおきてに
   たまわり申候
  しよりよりなおんのおきての方へまいる
  嘉靖三十五年八月十一日

③瀬戸内間切の阿木名目差職j任辞令書(隆慶5年:1571)
 
  しよりの御ミ事
    せとうちひかまきりの
    あきにやめさし
    一人なからのおきて
    たまわり申候
  しよりよりなからのおきての方へまいる
  隆慶五年六月十一日

④屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)

  しよりの御ミ事
    やけうちまきりの
    さきはるめさし
      せんとうちひかの
    一人あくにやめさし
    たまわり申候
  しよりよりあくにやめさしの方へまいる
  隆慶六年正月十八日

⑤屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(萬暦11年:1583)

  しよりの御ミ事
    やけうちまきりの
    なからのろ
      もとののろのめい
    一人つるに
    
たまわり申候
  しよりよりつるか方へまいる
  萬暦十一年正月廿七日



宇検村名柄の吉久家の前の辞令書の説明板    吉久家の庭にある高倉

                                
 

                                


     


※『女官御双紙』(上巻)に金丸加那志より阿母嘉那志へ賜わったものは何点もあり。四代先の阿母嘉那志の時(120年前)に不慮の
  火事の時に焼失する。残ったのが、以下のものである。
   ・金の御髪指 一つは31匁に銘あり。惣長7寸1分、かぶの廻り7寸3分、かぶの上に鳳凰二つ飛ぶ。
    台には雲形、かぶの裏はから草、くきも同断。
   ・玉かわら長4寸7分、廻3寸1分、水晶玉数100星、廻3寸7分完

※伊平屋阿母嘉那志が亡くなり、その子からは按司部位の席となるが、それでも三十三君の内である。その引き継ぎの様子が記されている。渡海して首里城内や首里御殿などで引き継ぎが行われている。その時、金丸王加那志より拝領した金の釵(カンザシ)や玉カワラをはかせらる。首里天加那志(王)の前で朝衣を着て、金の釵と玉カワラをはき、王様の前に三参し、御印判(辞令書)を戴く。

  印判(辞令書)は新しく戴くが釵と玉カワラは前任者から引き継がれている様子がうかがえる。それからすると、各地に残っている釵や玉カワラは継承された伝世品とみれそうである。

  また、「那覇の大あむ」について、「御朱印失脚して年月日は知らないが、二代の大あむより五代の大あむまでは御朱印を御賜る也」とあり、二代の大あむの御朱印(辞令書)を掲げてある。そこに明確に記されていないが、釵と玉カワラは前任者から引き継がれ、印判は新しく賜ったのであろう。

     志よ里の御ミ事
      なはの大あむハ
       もとの大あむのめい


 
   ▲徳之島町資料館展示(手々ノロ辞令書)     ▲ノロ遺品(丸櫃)     ▲手々ノロの簪(2本) (資料館提供)


2018年10月13日(土)

 「ムラ・シマ講座」のレジメの作成を急いで。原稿校正(400頁余)に追われ、今日の講座のレジメの準備を急いで。前日の辺戸の遠見所に国頭村伊地の遠見所の画像が見つかったので追加)




2018年10月12日(木)

 2010年に「烽火制と近世の琉球」として講義(沖縄の歴史)をしたことがあります。先島(宮古・八重山)の遠見台(遠見所)を踏査していたので、それらの遠見所をつないでの話でした。その時、まだ確認できなかった遠見所がありました。その一ヶ所が国頭村辺戸の遠見所でした。その頃、以下の情報を得ていました。「辺戸村の火番所」は未確認でした。ずっとひっかっていた辺戸の火番所。

 環境庁の施設を管理されている武田氏の案内で現場まで。ありました。拝所となっていたが、「方位石」があり、「子と午」→が確認できました。立てられてられているが、方位をあわせ寝かせるともとに戻せるでしょう。一ポイントですが、それらを繋ぐと「沖縄の歴史」を面や実態としての描けそうです。(武田氏には現場までご案内いただきありがとうございました)

 

【下の画像は伊地の遠見所】(2009年撮影)

  
    ▲中央部にあるサークル       ▲人口的な丸玉は方位に置いたもの   ▲一番奥のサークル(ガジマル根部分)

伊平屋島からのテイ火(たいまつ)は国頭間切辺戸村の火番所で受け、今帰仁間切の古宇利島でもうける。
②辺戸村の火立は国頭間切伊地村火番所でうける。
伊地村火立は今帰仁間切古宇利村で受けて、本部と今帰仁間切の境の大嶺(具志堅との境)で受ける。
④古宇利村立所は本部・今帰仁境の大嶺原の火立番所で受け継ぐ。
⑤大嶺火立は伊江島火番所で受け継ぐ。
⑥伊江島火立は本部間切瀬底島火番所で受け継ぐ。又、読谷山間切でも受け継ぐ。
⑥瀬底村火立は読谷山間切番所へ受け継ぐ。
⑦読谷山間切火立は弁ガ嶽火番所で受け継ぐ。
 ⑧弁ガ嶽火番所から首里王府へ伝達される。

20101229日(水)メモより

一年間の動き(調査記録)を振り返ってみることにしましょうか。

 「正保国絵図」(1646年)に「異国船遠見番所」と与論島と古宇利島の二ヶ所に記されている。烽火台が置かれたのは、それより二年前の1644年のことである。烽火台が設けられたのは久米島、慶良間島、渡名喜島、粟国島、伊江島、伊平屋島、それと古宇利島と与論島にも「異国船遠見番所」がある。これまで訪れた遠見番所、火立所、火番所、火番台、火立森(ピータティファイ)と呼ばれる場所を手掛りに、各地の出来事を拾いあげてみる。まずは、目の前にあるアルバム(宮古多良間島)から。「烽火制と近世の琉球」として講義(「沖縄の歴史」)をしましょう(かき集めてみます)

 【沖縄本島】
  ・御冠船や帰唐船の場合は一隻の時は一炬、二隻の時は二炬を焚く。
  ・その他の異国船の場合は三炬を焚く。

 【両先島】
  ・地船と唐船は立火二つ
  ・大和船が三つ
  ・異国船は四つ
    (昼間は立煙のみで合図) 

 『球陽』(1644年)に「始めて烽火を各処に設く」
  本国、烽火有ること無し。或いは貢船、或いは異国の船隻、外島に来到すれば、只、使を遣はして、以て其の事を稟報
   するを為すこと有り。今番、始めて烽火を中山の各処並びに諸外島に建つ。而して貢船二隻、久米・慶良間・渡名喜・粟
   国・伊江・葉壁等の島に回至すれば、即ち烽火二炬を焼き、一隻なれば即ち烽火一炬を焼く。若し異国船隻有れば、即
   ち烽火三炬を焼き、転次伝へ焼きて、以て早く中山に知らしむるを為す。


沖縄本島北部西海岸の遠見台】(2009.7.77.13
粟国島の遠見台跡と番屋2007.11.11
【宮古の遠見台】(報告済み)
【伊是名の遠見台】(報告済み)
【波照間島の遠見台】
【黒島の遠見台】(報告済み)
【竹富島の遠見台】(報告済み)
【渡名喜島の遠見台】(報告済み)
座間味島の番所山(20071125.
【古宇利島の遠見台】(報告済み)
【伊江島の遠見台】(報告済み)
【与論島の異国船遠見所】(報告済み)
【宮古多良間島の遠見台】(報告済み)

 多良間村は宮古島と八重山島の中間当りに位置する島である。島に渡ったのは21年前のことである。島には八重山遠見台と宮古遠見台がある。多良間島近海への遭難を掲げる(一部)が、遠見番も関わったであろう。
 ・福建省泉州府の人達21人が多良間島に漂着。翌年2月宮古島へ送られる(乾隆32年:1740
  ・乾隆21年(1756)異国の小舟(3人)が漂着し、7月5日に宮古へ送り届ける。
  ・乾隆32年(1767)沖縄本島から宮古、八重山での御仕置のためやってきた役人が
     暴風にあい行方不明。
  ・乾隆51年(1786)1月7日水納島へ唐船が漂着破船する。乗組員25人で同月4日宮古島へ。
  ・嘉慶17年(1812)八重山島定番船が下島の際多良間島で破船し、乗組員は宮古島を
     経て八重山へ。
  ・嘉慶18年(1813)八重山御米槽船が多良間島で破船し、御物穀(穀税)は潜って引き揚げて
      宮古島から沖縄島へ送り届けられた。
  ・嘉慶19年(1814)八重山の飛船、久高丸が多良間島で破損、御物穀は潜って引き揚げ宮古島を
      へて王府へ届けられる。
  ・嘉慶19年(1814)朝鮮人5人が多良間島に漂着。
  ・多良間に異国船一隻、漂着す(1840年)
  ・多良間に異国船一隻漂着す(1844年)
  ・多良間にオランダ船来航す(1857年)(高田浜の顕彰碑)
  ・日本奥州の人、多良間に漂着する(1859年)
  ・多良間よりの上納運搬船漂流する(1873年)


【多良間往復文書控】(『多良間村史』第2巻 資料編「王国時代の記録」所収)がある。その中に「遠見番の報告」(明治16年正月18日~7月13日、明治20年3月~19年)がある。同書の解説されているように遠見番がどのような報告をしていたのか非常に興味深い。遠見番の報告(明治16年正月27日~26日)の例。
  明治16年正月27日 己酉曇天風寅之丑之方時々小雨降
          同28日 庚戌曇天風子丑之間
          同29日 辛亥曇天風子丑之間
        二月朔日 壬子曇天風寅卯之間
          同 2日 癸丑晴天風辰己之間
  一 火輪船壱艘四ツ自分申酉之間より走出前之沖より宮古島之様走通候事
          同 3日 甲寅曇天風子丑之方時々小雨ふり
          同 4日 乙卯曇天風丑之方時々小雨降
          同 5日 丙辰曇天風寅之方
          同 6日 丁巳曇天風丑寅之間七ツ時分より雨ふり    


2018年10月11日(水)

 2014年に国頭村比地の遠見所を訪れている。一度目は「伊地誌」をスタートさせるので、遠見所を見てもらいたいとのことで(郷友会)。遠見所は伐開してあるのでと。

 三度目だと思うが、遠見所の三ヶ所の石囲いのあることを確認。その時、真ん中の石囲いに大蛇(アカマター?)が。それ以来行っていない。大まかな実測もしたような。ノートと画像を探してみるか。

 台風で草木がなぎ倒され、遠見所まで行くことができ、果たしていた風景が見れるのではないか。比地の遠見所は来週あたりに。今日は、国頭村辺戸の遠見所へ。確認できるか?

【伊地の古墳と遠見所】

 伊地の古墳がどれなのか特定することはできなかった。現在の墓地にある、あるはあったのであろうが。『沖縄県国頭郡志』にはないが、『国頭村史』(303頁)に伊地の銅山について「伊地の屋取には明治初年のころ安谷屋・渡名喜などの居住人が住みついて藍を造り、その中から後に尚家の鉱山経営の事務をとるものが現れたが、鉱山経営の不振で大部分が那覇に帰っていった」とあり、他に資料がないか、あるいは当時の様子を確認してみたいものだ。

 笹森儀助は明治26年6月18日に伊地の「鉱山事務所」を訪れている。『南島探験』に「当銅山は、去る24年5月借区許可を得、坪4万4117坪となす。創業より本年5月迄、総入費金8116円71銭8厘と云う。
  工夫 一人一日の給金32銭以下12銭に至る
  昨25年6月より12月に至る諸調以下に、
  諸入費 1931円
  鉱業工夫数 2559円
  此出鉱高 1552貫目
  製銅高 3557斤
  此対価 533円55銭
  役員 4名 小使 Ⅰ名
  売先地は大阪とす
 上概計は、該事務所より請い得たるものとす
 坑内状況一班「レール」を以て、礦石を運搬せる

 
   ▲伊地の遠見台に大蛇           ▲尚家の銅山の跡?

2018年10月8日(月)

 どれから進めようか。数件のデジメや参考文献の整理に追われている。「村政110年の歩み」の講演ももあるな。台風の後片付けでパソコンの前に座れず、また節々が痛く、目がかすれ、目の前のことから・・・・。逃亡中! 国頭村の遠見所の確認調査もあるな。


2018年10月4日(木)

 大正11年4月「土地利用及開墾事業参考資料 開墾地移住経営委事例」(農商務省食糧局)として「今帰仁村呉我山開墾地」が揚げられている。字呉我山の成立(大正9年)の直後の史料なので掲げる。

[呉我山開墾地](大正11年)

 開墾地所在 沖縄県国頭郡今帰仁村字玉城西アザナ原、字天底古拝古呉我
 経営者    伊波興延 外二名

甲、開墾地概況
 (一)開墾の沿革並其ノ成績
    開墾地ニ於ケル同所ハ雑木雑草ノミニシテ林木仕立替培養スルモ優良ナル材木ヲ得ルハ数十年後ニアラザ
     ルハ不可能ノ状況ニアリタリ然レトモ該林地ハ土質地勢良ク農作物ノ栽培ニ適シ之ヲ開拓シテ甘蔗、甘藷、山
     藍ノ栽培ヲナスニ於テハ少カラサル収益アルヲ認メ以テ開墾ニ着手スルニ至シリ而シテ村内ニ於ケル三小学校
     ハ設備不完全ニシテ生徒ハ毎年増加シ為ニ増築其ノ他ノ経費少カラサル開墾ノ許可ヲ得テ小作人ヲ移住セシメ
     其レヨリ生スル小作料ヲ以テ小学校経費ニ充当シ以テ村費ノ負担ノ減少ヲ計ラントシタリ
     甘蔗、甘藷、藍ノ栽培盛ニシテ成績良好且其ノ目的ヲ達シツツアリ

 (二)土地利用ノ概況
  (イ)開墾前ニ於ケル土地目別面積及利用方法
     地目 山林
     面積 二一〇町歩
  (ロ)開墾前ニ於ケル土地ノ地目別面積及地価、価格、作物ノ種類、収穫量、肥料ノ種類及用量
     開墾前ハ主ニ樫木ノ仕立テヲナシ御殿ノ御用木ニ充テ叉ハ村ノ甘蔗圧搾車用材ニ充用シ来リタルモ其ノ数
     微々タルモノナリ

   土地ノ地目別面積及地価、価格
      田   
      畑
     山林
     宅地
     雑種値
   作物ノ種類及収穫量
     甘蔗 甘藷 山藍

   肥料ノ種類及用量
     大豆粕 厩肥 大豆 

 (三)副業ノ状況
   副業主トシテ養豚業盛ニシテ周囲ハ凡テ山林原野ニシテ雑草繁茂スルヲ以テ牛ノ飼育叉盛ナリ


 (一)移住ノ沿革並其ノ成績
   地質地勢良ク甘蔗、甘藷其ノ他ノ作物ノ栽培ニ適スルカ故ニ之レカ開拓ヲナシ農産物ノ増収ヲ期セシカタメ開墾ノ許
   可ヲ得テ移住ヲナサシメタル」モノナリ諸作物ノ収穫高他ニ比較シ頗ル良好ナルヲ以テ漸次移住者現住者現在ノ如キ
   多数ヲ見ルニ至レリ

 (二)移住者戸数及人口
    戸数 六七戸  人口 三三七人
    前住地別村内 戸数 五〇戸  人口 三三七人
      ・本部村  一五戸   六八人    
      ・首里     二戸   一二人

 (三)移住者招致ノ方法
    招致ニ付特ニ方法ヲ設ケサルモ一坪ニ付壱銭以内ノ小作料ヲ徴収シ移住セシメタリ

 (四)移住者の待遇
  (イ)土地の割当方法並其ノ成績
    開墾地ヲ各字ニ割当村ハ各字ヲ持テ割当ニ対スル小作料ヲ納付セシメ其ノ字ニ於テ小作人ノ所要ニ応ジ
    開墾ヲセシメタリ其ノ成績ハ土地ノ割当方法ノ取扱煩雑ナラサルカ故比較的良好ナリ

  (ロ)土地ノ貸与叉ハ譲渡ニ関スル既定並其ノ成績
    小作人他ニ転居スル場合ハ相互ニ其ノ作物ノ価格ヲ買償シ権利譲渡ヲ為シ之カ管理ハ各字ニ於テ為シ居レリ随テ
    小作料ノ欠損等ヲナス事ナク滞納ノ居キ支障ヲ生セス


     
          ▲今帰仁村呉我山の地形図

 ※現在の呉我山は天底村の古拝原と古呉我原、玉城村から西アザナ原を分割 

2018年10月3日(水)

 台風の片付けに追われている。片付けが終わないまま、台風25号が追いかけてくる。「寡黙庵」のヒンプンや芭蕉が倒れる。屋敷の木々が強風で吹き飛ばされ、それと葉が塩害で落下。二、三日追われます。

 

2002.6.4(火)メモ

 
今泊の五年回りの豊年祭のとき、今帰仁ノロ家(ヌンドゥルチ)の庭と集落のオーレーウドゥン(阿応理屋恵御殿)の祠の前で奉術と踊りの奉納演舞が行われる。オーレーウドゥンの火神(ヒヌカン)の祠の中に古い位牌が二基ある。形式としてはガーナーイーヘー(「冠部の飾りが前傾していて側面から見ると首の細長い鳥を連想させる」『沖縄の祖先祭祀』平敷令治著)である。一基の表に「帰一瑞峯□祥大禅定門霊位」、裏面に「順治十五年戊戌六月二拾九日去」と彫られている。順治十五年は西暦1658年で「禅定門」とあることから男性である。

 年代としては、北山監守一族が今帰仁グスクから城下に移り住んでいる頃である。七世の従憲のときに首里に引き揚げる(1665年)ことから六世の頃の人物かと思われる。『具志川家家譜』に六世縄祖「今帰仁按司童名鶴松金名乗朝徑号瑞峯行一万暦二十九年辛丑生順治十五年戊戌六月二十九日卒享年五十八」とあることから、この位牌は六世縄祖のものとみて間違いなさそうだ。

 また、運天にある大北墓(ウーニシバカ:按司墓)に葬られている石棺陶棺の一つに「宗仁公六世曽孫今帰仁按司童名松鶴金…」の銘書がある。それは六世の縄祖である。するとオーレーウドゥンの位牌・具志川家の家譜・大北墓(石棺陶棺)とつながってくる。そして縄祖は今帰仁按司で今帰仁グスクから城下に降りていった人物である。位牌に書かれた文字の判読から、今帰仁按司を勤めた人物の一人六世縄祖、人物の墓と位牌へとつなぐ事ができた。今でもオーレーウドゥンの火神の祠であるが、アオリヤエだけでなく、今帰仁按司との関わりも見えてくる。もう一基の位牌は文字の判読ができていないが、今帰仁按司クラスの人物と見てよさそうである。

 位牌の紐解きから一人の人物へとつながった。さらに今帰仁グスクのハタイ原にある今帰仁阿応理屋恵火神の祠へと連動させることができる。今帰仁の歴史の展開に重要な役割を果たす位牌になりそうである。


今帰仁阿応理屋恵と北山監守で紹介。

2018年10月2日(火)
 
 台風の混乱の中、帰郷する。夜中に帰ってきたので外の様子がわからず。停電が続いていたようで、やっとお湯が使えるようになったと苦言。「寡黙庵」もどうなっているか。後片付けから。いくつかの宿題を持ち帰る。ホテルから会場まで地図で近い距離だと思っていたが、二度も尋ねる。交番で「近いがきつい坂ですよ」と。足を引きづっている初老の姿をみかねたのでしょう。近々に「脳」の検査をしてこないと。

 10月がスタート。