寡黙庵 2018年3月の記録        沖縄の地域調査研究(もくじ) 
                  (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村字謝名)   
                            
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やんばる学研究会へ




2018年3月31日(土)

 大宜味村を飛び越えて国頭村へ。西海岸の与那から横断して安波へ。安波から安田へ。伊部・我地、楚州へ。楚州は山手へ。二次林がみられ一度伐られた様子が伺える。楚伊林道を通り伊江にでる。そこから奥へ。奥売店でパンとちぎイカで腹ごしらえ。地頭火神と碇と奥港へ。もうひとがんばりで辺戸まで。伊江の集落内を話を伺おうと木陰で休んでいる方へ伺ってみた。「耳が聞こえないですと」と。数件の家があったので訪ねてみようと。すると左手と右手から二頭の犬が飛びかかってきた。かろうじてかみつかれずすむ。おかげで頭の中で考えていたことが吹き飛んでしまう。(工事中)

【安波】


 安波川の下流部と外洋から河口に入ると所までいく。河口にある等身大の岩がある。訪ねてみると「あの人の形をした岩に明かりでもつくのですか?」と伺うと、「あれは自然の石で、その側にある灯がありでしょう。そこは灯がつきますよ」とのこと。

 昭和60年代まで林業が盛んで、材木や薪などを積み出す「山原船」がさかんに利用されていたという。山で切り出した木材を安波川の下流にあった材木の集積地まで運び、伝馬舟で山原船まで運び積み込んでいたという。年中行われていたという。山原船に積み込んだ材木は与那原、糸満、泊、泡瀬などの港に降ろし売り出していたという。山原船の所有は、ほとんどが安波以外の人であったようだ。


     ▲安波川の下流                ▲外洋から安波川へ入り口

【安田】

 

【楚州】




【伊江】

 伊江集落の全面は国道が通り護岸の役割はたしている。

 

【奥】

 辺戸・宜名真を道筋が出来る前は、奥への交通は「山原船」を使っていたという。辺土名・宜名真線の県道の開通、昭和16年には海岸線の道路、1961年に琉球政府の一周線が開通。それ以前は辺戸へは山道。明治43年まで個人有の「山原船」の三隻を共同店で所有し、すると字民は船賃は無料となったという。

 奥は山原船の西回りと東回りの分岐点となっていた。西回りは奥から本部の度久地港に寄港し、嘉手納の比謝川に立ち寄って泊港へ。東回りは安波、久志の大浦湾、平安座島、勝連、与那原へ。一航海で二十日間。昭和5年に発動汽船を購入。昭和16年には伊平屋より買い入れ(伊福丸は□子丸、その後奥丸(19㌧)、昭栄丸(21㌧)を購入、新造などしているうちに陸上交通の時代となり奥では船舶が必要なくなる。奥の集落を歩いていると「地頭火神」の石碑や国頭按司が奉納したみられる石灯籠、宜名真海岸に坐礁したイギス商船(明治7年)の碇など、歴史の痕跡と出会う。

  

【辺戸】


2018年3月30日(金)

 
「寡黙庵」で夕方まで過ごす。庭にでて深呼吸をなんどもする。まだ、紫外線を避けなければず。庭は手をぬくと雑草が伸びたり、水かけが不十分だとしおれてしまう。植物は主の手抜きに、すぐ反応する。
 庭にはイチゴとトマトが色づいてきた。食するというより、ゆったりと楽しんでいるようなもの。

 国頭村安田は昭和30年代まで林業が盛んで「山原船」が山で切り出された木材や薪などを積み、与那原や糸満、泡瀬などの港に降ろしていたという。安田でも山で切り出された材木や薪炭などを山原船で他の地域に運んでいたという。同様に林業と山原船との関わりのあった楚州、奥まで行ってみるか。

   


2018年3月29日(木)

 『大宜味村史 民俗編』が発刊されました。職員達(藤田元也、新城喜代美、河津多恵子)の原稿打ち、校正、編集、各字の方々からの聞取り、さらには印刷会社とのやり取りを側でながめてきました。「やりました!」 A版で817ページの大宜味村の「歴史・文化」(民俗)を色濃く集約した内容となりました。これから発刊予定の「言語編」「自然編」「歴史編」のベースとなる記録にもなっています。

 コメントする立場にありませんが、資料提供をくださった大宜味村民、そして編纂室の職員とのやり取りで多くのことを学ばせてもらいました。配布、販売に入っているようですのでコマーシャルです。表紙とグラビアの一部を紹介。大宜味村にも息づいた歴史・文化(民俗)ありです。ごくろうさんでした。

 右肩の荷がおりましたので、しばらく休みます?

 

 


2018年3月27日(火)

 
「寡黙庵」での原稿受け取り、村の図書館での会、役場での調べ物をすませ、名護市の安和へ。

 ・安和と船
 ・農耕と舟
 ・タタナー舟と三タナ舟と石灰石(ペーイシ)
 ・タタナー舟と部間権現
 ・昭和初期まで生きぬいた船大工達

 昭和60年代に故仲村栄正氏が発刊された『安和の語りぐさ』所収の安和での舟についての記録、特にタタナー舟が使われていた安和での風景が知りたくて。安和の海岸まで。当時の風景を連想するに十分である。船を建造した神アサギ庭(安和神社)があり、タタナー舟で神アサギ庭で門川(ジョウガー)から運んだ原石(マーイシや石灰岩)を金槌などで割ってバラシをつくりタタナー舟で部間権現下の海岸まで運び、活躍したという。部間権現は大正14年に起工、翌年に改築、大宜味村旧役場を設計(国指定建造物)された清村勉氏である。
 
 
    ▲名護湾に面した安和海岸           ▲安和海岸から部間方面を眺める

2018年3月26日(月)

 帰り際、試掘をしたとのことで根謝銘(ウイ)グスクまで駆けあがってみた。試掘された場所は埋め戻されているので新年度になって報告がなされるとのこと。伐開されて場所を踏査。崩壊?した石積みが場所をみる。アザナから赤丸崎方面が望める。大城嶽(イベ)と中城嶽(イベ)を中心に石が多くみれる。その外側に囲むように石積みや度盛りが見られる。その報告に期待することに。馬浴びせ場所(凹み)から大城嶽の前に通り(道筋?)が見られ、そこから下るように神アサギへつんがり、さらに中城嶽へとつながる。全体像が浮き上がらせるには、まだ先か。
  
  ▲1952年に改築された根所         ▲中庭(ナハマー)         ▲アザナから鏡地の赤崎丸が望める

  

2018年3月25日(

 三月は今週で終わり。肩の荷を下ろそう「寡黙庵」の片付け。蝶の数を数えたりや小鳥のさえずりを聞きながらポワーンポワーンとしていると、4月以降のお願い電話が二、三軒。ハイハイと約束。まだ、積み残しているのに気づく。業務日誌の提出、屋嘉比ノロ殿内の展示台の材木の調達で国頭村まで。

  
     ▲寡黙庵の整備                ▲新しくイチゴの苗を植える        ▲ボツボツ収穫

 
  ▲鏡地(奥間?)のあか丸崎                 ▲田嘉里(屋嘉比)川の河口


2018年3月23日(金)

昼食時間に国頭村の浜と大宜味村の田嘉里へ。その地域は、数多くの歴史的テーマを提供してくれる。1673年以前の歴史をたどるには、どうしても現在の大宜味村を含む国頭間切を視野に入れた歴史を見て行くには欠かすことのできない地域である。国頭村浜には、うまい「港食堂」があり、食事しながら以下のことを思い浮かべる。

 ・方切 1673年に国頭間切を切って大宜味間切を創設する。
 ・屋嘉比村・親田村・見里村を国頭間切、しばらくして大宜味間切へ。
 ・1673年以前の国頭間切の番所はどこ?
 
・1731年までの国頭間切の番所は浜村
 ・浜村の祭祀は屋嘉比ノロ管轄である。
 ・現在の田嘉里は屋嘉比ノロ管轄村である。
 ・田嘉里(屋嘉比)川の河口は山原船の停泊地であった。
 ・屋嘉比川の上流(屋嘉比集落の麓)あたりまで舟が遡っていた痕跡がいくつかある。
 ・屋嘉比のろは「おもろさうし」で「やかひのろ」や「おやのろ」と謡われる。
 ・根謝銘(ウイ)グスクは国頭按司居住のグスク。(方切でグスクは大宜味間切へ)
 ・屋嘉比のろの遺品が遺る。
 ・明治36年には親田村・屋嘉比村・見里村が合併して田嘉里村となり、明治41年に字田嘉里となる。
 ・田嘉里川の河口には、三村の村墓がある。
 ・屋嘉比ノロの海神祭(ウンガミ)は、根謝銘(ウイ)グスクの大城御嶽(イビ)でのウガンがある。
  (5月6日には屋嘉比ノロ家の遺品の展示予定。於:田嘉里集落センター)
    (展示協力:大宜味村史編纂室)

 

 


2018年3月22日(木)

 午前中、「やんばる船」ほ東海岸の船だまりの様子を確認。東海岸の集落は昭和30年代の様子が変わりすぎています。明治の人口の急増があり、それは首里那覇からの寄留とみられます。「やんばる船」と関わる船だまりや薪集積場(タムンザ)などの面影をみつけることができるか。


2018年3月21日(水)

 平良新助(自称琉球新助)翁の資料の一部を開く(画像)。平良新助翁の手紙類の整理をしている。その中には琉歌が数多くある。翁は即興的に琉歌を紙の端々に記してある。新年には日記を書こうとノ-トを準備されるが、三日坊主で終わっている。手紙類の整理を途中までしているが、ロスに住みながら沖縄への思いだけでなく、物心両面の沖縄への援助をしている。(工事中)









2018年3月20日(火)

 朝から「寡黙庵」へ来客が三名。「寡黙庵」では寡黙に過ごす日が多いが、今日は回りの方の近況を伺う。先週は体調を崩していたのでガラガラ声。イチゴやサクランボや花木を言葉なしで見て回る。体調は回復しているが、まだノドにタンが詰まる。

  
      ▲色づいてきました。               ▲サクランボ、苦い!         ▲次々と実ってきます。

2018年3月18日(

 玉城の字の変遷をたどっていると、どうしても『琉球国由来記』(1713年)と明治15年頃の記録と近年の比較がどうしても必要。「由来記」の内容はムラが外間原(現在地)に移動する前の故地での祭祀である。そのことを踏まえてまとめることに。寒水まで踏査する時間がなかったので画像は改めて。

  
 ▲玉城殿堂建設記念碑(古島から外間原へ移転記念碑)(昭和六年)    ▲玉城ノロドゥンチ

 
▲玉城ノロさん(昭和47年頃)玉石を持ち上げる  ▲ウプユミの時、玉城のアサギマーでのノロの舞い

  
    ▲岸本神アサギ      ▲アサギと岸本ノロ殿内との間に二軒の拝所 ▲昭和54年再建されたノロドゥンチ跡

  
    ▲トウモロコシ            ▲まだ青いミニトマト           ▲時々食べている甘いイチゴ

2018年3月17日(土)

 今帰仁村玉城の表記の変遷をまとめることに。
 昭和60年頃に一度、平成2年に「今帰仁村のムラの変遷」を整理したことがある。あれから30年も経過すると見直す必要があり、気づかなかったことが見えてくる。「玉城の字誌」の執筆・編集で今帰仁村のムラの変遷を整理することに。

■編 玉城・岸本・寒水の村表記変遷  

 今帰仁間切の村の変遷を全体をみていく。1666年以前の今帰仁間切は現在の本部間切領域を含む。一六六五年以前の資料はほとんどないので、「おもろさうし」や『球陽』にでてくる記事などを参考にする。1666年以前の今帰仁間切の領域は、現在の本部町を含む範囲であった。今帰仁村東部では羽地間切内であった呉我、振慶名、我部、松田、桃原が湧川地内から移動させられる。つまり間切境界の変更があった地域である。それらの村が移動した後地は羽地間切になる。

 今帰仁間切全体の間切の変遷と村の変遷を示し、そこから玉城・岸本・寒水の三村の変遷と出来ごとを入れることに。

 玉城の(工事中)


・おもろさうし
  くしけん みやきせん せりかく うむてん  

・辞令書
  へなち  くしかわ うらさき くしけん ちゃはな (みやきせん) しよきた よなみね 中くすく 上間 たまくすく

・『絵図郷村帳』(1649年)

 今帰仁間切1666年以前の今帰仁間切(1666年今帰仁間切は分割し伊野波間切、翌年本部間切と改称)
    ①崎本部 ②へなち ③けんけん ④瀬底島 ⑤上によは村 ⑥下によは村 ⑦具志川村 ⑧浦崎村 
   ⑨ひし村 ⑩具志堅村 ⑪ちゃはな村 ⑫石川(当時無之) ⑬かつお村 ⑭ミつな島 ⑮あめそこ村 
   ⑯今帰仁村 ⑰おや泊村 ⑱兼城村 ⑲しげま村 ⑳しゆきちや村 ㉑よな嶺村 ㉒中城村 ㉓崎山村
   ㉔へしき村 ㉕謝名村 ㉖中そね村 ㉗きし本 ㉗玉城 ㉘せつかく村 
上運天 ㉚下運天 
   ㉛沖ノ郡島 ㉜ごが村 ㉝ふれけな ㉞がふ村

●『琉球国高究帳』(17世紀中頃)

  ①崎本部村 ②へな地村 ③瀬底島 ④によは村 ⑤具志川村 ⑥浦崎村 ⑦ひし村 ⑧具志賢村 
   ⑨あめそこ村 ⑩今帰仁 
⑪しゆきちゃ村 ⑫くしかわ村 ④うらさき村 ⑤くしけん村 ⑥ちゃはな村 
   ⑦(ミやきせん) ⑧(しよきた)
⑨よなみね村 ⑩中くすく村

   1666年に伊野波間切へ)

・1670年 池城墓の石碑に「たまくすくのろくもひ」(玉城ノロ)とある。(内部の厨子甕にもあったような)

『琉球国由来記』(1731年)今帰仁間切の村

  ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥與那嶺村 ⑦中城村(仲尾次) ⑧崎山村 
  ⑨平敷村 ⑨謝名村 
 ⑩中宗根村 ⑪岸本村 ⑫玉城村 ⑬寒水村 ⑭勢理客村 ⑮上運天 ⑯運天村 
  ⑰郡村

 
  ☆天底村の移動は1719年で天底は本部間切である。 
 『琉球国由記』での三村(1862年に三村は移動する。「由来記」の記載は移動前の場所)
   ・コモキナ嶽(神名:コシアテモリノ御イベ)(玉城村)(玉城巫崇)
      玉城巫火神(玉城村)での祭祀
        麦稲四祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ折目、三日崇、山留など
        が行われている。
   玉城巫の管轄村:玉城、中宗根、謝名、平敷の四ヶ村 
  ・神アシアゲ(玉城村)での祭祀(ここでの神アサギは移動前の場所とみるべきか)
   麦稲穂祭、麦稲大祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ
          
   ・オホヰガワ嶽(神名:ヨリアゲマチュウノ御イベ)(岸本村)(岸本巫)
   ・岸本巫火神(岸本村)での祭祀
     麦稲四祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ折目、三日崇、山留(岸本巫)
   ・岸本巫の管轄村は岸本村と寒水村の二ヶ村
   ・岸本神アシャゲでの祭祀
     麦稲穂祭、麦稲大祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ折目、大折目次三日
   ・寒水神アシャゲ
     (岸本神アシャゲと同)

●『中山伝信録』(1721年)

  (天底村:伊豆味から移動) ①今帰仁村 ②親泊村 ③中城村 ④崎山村 ⑤平敷村 ⑥謝名村 ⑦中宗根村
  ⑧岸本村 
⑨玉城村 ⑩寒水村 ⑪上運天村 ⑫運天村 ⑬郡  (記載もれ村もある)

  ☆その頃本部間切伊豆味村地内から今帰仁間切勢理客村地内へ天底村が移動する。同年に伊豆味村の嘉津宇村
が具志堅地内に移動する。
 

●『琉球国旧記』(1713年)(今帰仁郡の邑)

  (天底邑) ①今帰仁邑 ②親泊邑 ③親泊邑 ④兼次邑 ⑤志慶真邑 ⑥諸喜田邑 ⑦与那嶺邑 ⑧中城邑  ⑨崎山邑 
 ⑨平敷邑 ⑩謝名邑 ⑪仲宗根邑 ⑫岸本邑 ⑬玉城邑 ⑭寒水邑 ⑮勢理客邑 ⑯上運天邑 ⑰運天邑 ⑱古宇理邑

   ☆天底邑は1719年に今帰仁間切に移動しているが旧記ではそのままである。資料を読む機会がなかない。
     村移動についてモデルにしているのが、現在の今帰仁村天底である。1719年に本部間切伊豆味地内から
     今帰仁間切の勢理客地内へ嘉津宇は具志堅村に移動。村移動であることは、天保琉球国図に「あめすく村」
    は伊豆味村地内に描かれている。『球陽』(尚敬7年:1718年)「本部間切天底村を遷して今帰仁間切に入る。」
    とある。その村移動をもって、貢租は免れるものではなかった。
    享保三年戊戌年天底村今帰仁間切へ村越仰付候の如く農民は 土地に付随し貢租の為にその自由を奪われ
    当村疲入候付き具志堅村へ一応加勢は貢祖の割付と土地耕作の強制を示したるものなりと言うべし。
                (田村浩:琉球共産村落の研究)


『間切村名尽』(附宮衛名)(1713年~1719年)

   ①仲宗根村 ②岸本村 ③与那嶺村 ④崎山村 ⑤平識(敷)村 ⑥謝名村 ⑦勢理客村 ⑧親泊村
   ⑨志慶真村 ⑩中城村 ⑪兼次村 ⑫今帰仁村 ⑬玉城村 ⑭運天村 ⑮上運天村 ⑯寒水村 ⑰諸喜田村
  
 1719年に本部間切から今帰仁間切へ移動する天底村が本部間切のまま。

『乾隆二年帳』(1737年)今帰仁間切の村数(20ケ村)

 ①天底村 ②今帰仁村 ③親泊村 ④兼次村 ⑤志慶真村 ⑥諸喜田村 ⑦与那嶺村 ⑧中城村 ⑨上間村
   ⑩崎山村 ⑪平敷村 ⑫謝名村 ⑬仲宗根村 ⑭岸本村 ⑮玉城村 ⑯寒水村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村 
   ⑲運天村 ⑳古宇利村


●『事々抜書』(1742~64年)(21ヶ村)(中城は上間仲尾次二ケ村の事)

   ①天底村 ②今帰仁村 ③親泊村 ④兼次村 ⑤志慶真村 ⑥諸喜田村 ⑦与那嶺村 ⑧中城村 ⑨(上間村) 
   ⑩崎山村 ⑪平敷村 ⑫謝名村 ⑬仲宗根村 ⑭岸本村 ⑮玉城村 ⑯寒水村
 ⑰勢理客村 ⑱上運天村 
   ⑲運天村 ⑳古宇利村 ㉑湧川村

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●『間切村名尽』(1738年以降)今帰仁間切の村(18ヶ村)(20ヶ村)

①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥与那嶺村 ⑦仲尾次村  ⑧崎山村 
     ⑨平敷村 ⑩謝名村 ⑪仲宗根村 ⑫岸本村 ⑬玉城村 ⑭寒水村  ⑮湧川村 ⑯勢理客村
     ⑰上運天村 ⑱運天村 ⑲古宇利村 ⑳天底村

●『琉球一件帳』(1738年以降)今帰仁間切の村数(22ヶ村)

 ①天底村 ②今帰仁村 ③親泊村 ④兼次村 ⑤志慶真村 ⑥諸喜田村 ⑦与那嶺村  ⑧中城村
    ⑨上間村 ⑩崎山村 
⑪平敷村 ⑫平敷村 ⑬謝名村 ⑭仲宗根村 ⑮岸本村 ⑯玉城村 
    ⑰寒水村 ⑱勢理客村 ⑲上運天村 ⑳運天村
 ㉑古理利村 ㉒湧川村  

●『御当国御高並諸上納里積記』(1738年以降)(21村)

   (「此村位ハ慶長御検地之時相定候村立ニて候」とある。しかし、本部間切は1666年、恩納間切、久志間切、
   大宜味間切の成立は1673年であり、村レベルでみると湧川村の成立は1738年であり、村位は慶長検地の時に
   定めたものを踏襲したとしても村の成立は元文検地以降である。


 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥与那嶺村 (⑦中城村 ⑧上間村) ⑨崎山村 
 ⑩平敷村 ⑪謝名村 
⑪仲宗根村 ⑫玉城村 ⑬寒水村 ⑭岸本村 ⑮湧川村 ⑯天底村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村
 ⑲運天村 ⑳古宇利村
 

●尚敬3年(1738年)

 今帰仁郡岸本邑ノ湧川、粟米稲を公庫に奉借す(球陽)。

●尚泰15年(1862年)

  今帰仁郡寒水岸本玉城等三村村籍を改遷すことを准す。

●『琉球藩雑記』(明治6年)今帰仁間切の村(21ヶ村)

 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④誌慶真村 ⑤諸喜田村 ⑤与那嶺村 ⑦仲尾次村  ⑧上間村 
 ⑨崎山村 ⑩平敷村 
⑪謝名村 ⑫仲宗根村 ⑬玉城村 ⑭岸本村  ⑮寒水村 ⑯湧川村 ⑰天底村 
 ⑱勢喜客村 ⑲上運天村 ⑳運天村 
古宇利村   

●『統計慨表』(明治13年)今帰仁間切の村(20村)
 
 ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥與那嶺村 ⑦仲尾次村 ⑧崎山村 
  ⑨平敷村 ⑩謝名 ⑪仲宗根村  
⑫岸本村 ⑬寒水村 ⑭玉城村  ⑮湧川村 ⑯天底村 ⑰勢理客村 
  ⑱上運天村 ⑲運天村 ⑳古宇利村
 

●沖縄島諸祭神祝女類別表(明治15年)(20村)(田代安定撰録)

  ①今帰仁村 ②御泊村 ③兼次村 ④諸喜田村 ⑤志慶真村 ⑥与那嶺村 ⑦仲尾次村 ⑧崎山村 
  ⑨平敷村 ⑩謝名村 
⑪仲宗根村 ⑫岸本村 ⑬玉城村 ⑭寒水村 ⑮天底村 ⑯湧川村 ⑰勢理客村
  ⑱上運天 ⑲運天 ⑳古宇利村
 

  ここでの祭祀場は1862年の村移動後の祭祀場(現在の祭祀場)
   ・玉城村ノロ火ノ神 内神火神火ノ神、嶋ノ大屋子ノ火神、神アシャゲ、百喜名嶽
   ・岸本村ノロクモイ火神、神アシアゲ、嶋ノ大屋子火ノ神
   ・寒水村根神火神、神アシャゲ、ウフンジャ嶽(大井川嶽のことか)

●明治36年(土地整理)今帰仁間切の村(16村)

  ①今泊村 ②兼次村 ③諸志村 ④与那嶺村 ⑤仲尾次村 ⑥崎山村 ⑦平敷村  ⑧謝名村 ⑨仲宗根村 
   ⑩玉城村 
⑪湧川村 ⑫天底村 ⑬勢理客村 ⑭上運天村 ⑮運天村 ⑯古宇利村

  ☆同年に玉城村と岸本村と寒水が合併し玉城村となる。

・明治41年今帰仁間切→今帰仁村へ、各村→字となる
 

●昭和21年の今帰仁村の字(アザ)

  ①今泊(明治39年分離、昭和48年に再び合併)して今泊) ②兼次 ③諸志 ④与那嶺 ⑤仲尾次 ⑥崎山
  ⑦平敷 ⑧謝名 ⑨越地(昭和12年) ⑩仲宗根 ⑪玉城 ⑫呉我山(大正9年) ⑬湧川 ⑭天底 ⑮勢理客
  ⑯渡喜仁(昭和15年) ⑰上運天 ⑱運天 ⑲古宇利 

●現 在(平成30年)

 ①今泊 ②兼次 ③諸志 ④与那嶺 ⑤仲尾次 ⑥崎山 ⑦平敷  ⑧謝名 ⑨越地 ⑩仲宗根 ⑪玉城
 ⑫我呉山 ⑬湧川
 ⑭天底 ⑮勢理客 ⑯渡喜仁 ⑰上運天 ⑱運天 ⑲古宇利


2018年3月16日(金)

  休みすぎました。これから迷惑をかけています。顔だけだしてきます。


2018年3月13日(火)

 体調回復せず。薬もらってくるか!
 午後から体調がよくなってきました。

 資料を読む機会がなかない。村移動についてモデルにしているのが、現在の今帰仁村天底である。1719年に本部間切伊豆味地内から今帰仁間切の勢理客地内へ嘉津宇は具志堅村に移動。村移動であることは、天保琉球国図に「あめすく村」は伊豆味村地内に描かれている。『球陽』(尚敬7年:1718年)「本部間切天底村を遷して今帰仁間切に入る。」とある。その村移動をもって、貢租は免れるものではなかった。
   享保三年戊戌年天底村今帰仁間切へ村越仰付候の如く農民は土地に付随し
   貢租の為にその自由を奪われ当村疲入候付き具志堅村へ一応加勢は貢祖の
   割付と土地耕作の強制を示したるものなりと言うべし。
                (田村浩:琉球共産村落の研究)

 「ムラ・シマ」をテーマとするとき、「ムラ移動」と「集落移動」は区別して考えている。ムラ移動はムラそのものが他地域へ移転したムアラ、集落移動は同ムラ内で集落部分が移動」したムラのこと。集落移動のムラで移動理由を示したのが羽地間切仲尾村(現名護市)がある。移動した場合、貢祖は減らないことを理由にあげている。

 ・1835年に仲尾村の集落は故地(半田原)から兼久に移る。
 ・故地の半田原にヌルガー・ヌルドウンチ跡・根神ドゥンチ跡・神アサギ・ペーフドゥンチ跡・
  ニガミガーなどが残る。一帯は仲尾古島遺跡となっている。
 ・兼久地へ集落が移動するが、回りの丘陵地は集落の抱護となっている。
 ・仲尾の田畑は故地あたりに広がっている。

 仲尾の「移動集落と御嶽」を参照http--yannaki.jp-nakao2013.html


2018年3月12日(月)

 
体調を崩し一日仕事をやすむ。日射しの強い昨日、庭の手入れで紫外線に当たりすぎか。色づいたイチゴをパクリと食べたら回復しただろうに。まだ早いと収穫せず。小鳥につつかれているかも。


 
 ▲大つぶのイチゴ、あまい!        ▲中つぶのイチゴ、それもあまい

 


2018年3月11日(

 
国頭村の各字の「船だまり」(津・港)の様子を確かめるために国頭村をゆく。平成11年に「山原の港」を『なきじん研究 9』に収録したことがある。港(津)を通して歴史をみていこうとした時、大きなショックを受けたことが思い出される。今回は「山原船による交易」が与えられたテーマである。国頭村では、大正の頃、ムラにあった町屋(マチヤグヮー、店)は山原船を所有し、その船で商品や人を乗せ運航していたという。山原船の名称もそうであるが、船をつくる材料や薪や炭などを首里・那覇へ輸出しているが、それは主として山原にある杣山と切り離すことができない。そんなことを考えながら、まずは国頭村の村々と津(港)をみていくことに。


国頭をゆく(1)
国頭をゆく(2)
国頭をゆく(3)


2018年3月10日(土)

 『国頭村史』に以下の記事をみる。国頭村の町屋と山原船の数を確認してみる。町屋のほとんどが山原船をもち、それは王府時代から共有船を持ち、これは貢租物を運送する目的で造られていた。商品の運送や旅などの往来に利用されていた。詳細は後に紹介するが、これから国頭村へ。西海岸の村を通りながら、かつて「山原船」が積み下ろした港(津)を気にしながら北上してみる。町屋(マチヤー)は店のこと。
(下の表は大正の頃である。)

字名  創立年    創立当時あった  当時出入り
              町屋数      していた山原船      備 考
 浜     1920年頃  2          1
 半地    1928年   1          0       奥間の小字として経営
 比地    ?      2           3 
 奥間    1923年    3          0       産業組合から出発
 鏡地    1927年    0          7       比地兼久分店から出発
 桃原    1922年    4          2
 辺土名  1920年    7          不明      1906年」に設立」した産業組合から出発
 宇良   1930年   1
 伊地    不明     2          1 
 与那   不明     2           3        1907年頃組合店より出発
 謝敷   1919年   3          3
 佐手   1921年   3          3
 辺野喜 1916年    4          4
 宇嘉   1918年   5          4
 宜名真 1919年   3          5        組合より出発
 辺戸   1916年頃
 奥    1906年   2          4        町屋数2は伊江
 楚洲   1914年   4          2     
 安田   1921年   7          3        伊部含む
 安波   1921年   7          3        組合から出発  
 
 国頭村浜の海岸へ。浜は大宜味間切が分割した頃から国頭間切の番所があった場所である。その後、1732年に番所を奥間村へ移転。上のデータは大正の頃である。村の町屋の数は10以内である。町屋のほとんどが山原船をもち、品々の運搬の主力をなしていた。町屋は産業組合から出発しているのを見ると町屋は売店へ呼ばれるようになっているのか。(組合の規約をみること)

 そこでの「山原船」の衰頽と陸上交通の整備、売店が集落を結びつける役割を果たしている。


      ▲国頭村浜の海岸                   ▲浜から赤丸崎(鏡地)

2018年3月9日(金)

 最近は今帰仁の先人達の問い合わせが続いている。島袋源一郎、島袋源七、湧川清栄、平良新助、それと幸地新政氏など。湧川清栄先生と平良新助翁の二方はお会いしたことがある。私が関わった先人方について整理してみることに。

 平良新助翁は小学校の卒業式の挨拶やシェパード?をつれて乙羽山に登る姿を何度か。平成元年、大学せの仕事を手放して今帰仁村の教育委員会に就職。そのとき、いきさつはよくわからないが平良新助氏の資料が歴史資料館準備室(平成7年に今帰仁村歴史文化センター改称)に転がってきた。ロサンゼルスから送られた木箱である。私が木箱の中身に関心をもったのは母(仲原照子)が沖縄タイムスの唐獅子で「平良新助翁」として紹介する原稿の校正をしたことであった。(母の原稿は長すぎて削る役目をしたことがある)。詳細は後に整理するが、企画展と手紙類など目録づくりをしてきた。

 平成三年頃に湧川清栄先生が準備室に訪ねてこられたことがあり、いろいろ話を伺ったことがある。中央公民館で講演をお願いしたことがある。その後、200冊余の出版物とパンフレットなど。昭和10年頃の沖縄人名録などが琉大を経由で寄贈をうけた。先生が力説されておられたのは「植民地大学を造ったらダメだ」「大学を呉我山に造りたい」と。

  (工事中)

2018年3月7日(水)

 これから今帰仁村の公民舘資料を手がかりにシマの人々のつながりと絆となる風景や生活について話をすることに。午後から、国頭村から。

 与論嶋の異国船遠見所について触れてみた。与論のノロと琉球と関わる人物、与論城の崖面の墓や国頭墓、安波墓などを手がかりに与論嶋と琉球の歴史が描くことができそうである。http--yannaki.jp-yoron2019nen.html(参照)

 以下の字玉城の公民館資料目録(項目のみ)を通して戦後のムラの人々の結び(共同体)について話すことに(東大の医師や医学部の大学院生のメンバー)。(玉城の資料もくじ作成:玉城ナミジ)

1.「家族しらべ」
   玉城 1970年5月現在 (26,1×19,3) 記入枚数:107枚
 主な内容:フィラリヤ検診により家族受付記入用紙綴り(氏名、年令、生年月日)
  

2.「議事録」
  玉城煙草耕作組合 1957年 (25×18,5) 記入枚数:2枚
  主な内容:品名、数量、単価、金額、摘要(一覧)
  

3.「學児成績簿」
  1950年4月8日 今帰仁初等學校及大井中等部 1949度現在[新入学生も含む] (26,1×20,3)
 記入枚数:8枚 主な内容:学年、氏名(一覧)
   

4.「弔 辞」
  1958年旧1月16日 玉城区長 座間味栄穏
 主な内容:1958年度の慰霊祭にあたりの弔辞。
 

5.「英霊名」
  1958年度 山城幸五郎以下 56 (24×17,8)
  記入枚数:2枚
  

6.「第九班」 (20,9×33,5)
  記入枚数:15枚
  主な内容:字費徴集簿(氏名、金額、等の一覧)
  

7.(表紙なし)
 自1971.7月1日 至1972年6月30日 (33×20,7) 記入枚数:4枚つづり×48部
 主な内容:字一般会計決算(支出の部)、収入の部、等の内訳
 

8.(ばら用紙、記入はされておらず) (32,9×20,1)
  記入枚数:138枚
  主な内容:戸主との続柄(本籍)、戸主、氏名、出生、父母(記入用紙)


 (以下略)


2018年3月5日(月)

 先日与論島を訪れた。「与論島と北山(中山)」の歴史について積み残してある。島を踏査しいる過程で、与論島で城(グスク)やグスク集落、それと輩出した人物や墓や旧家(ノロ・大ノロ)など存在が気になる。
北山王の怕尼芝の二男とされる王シャン、尚真王の二男の尚朝栄(大里王子)(花城真三郎、同又吉按)、琉球から渡来したというサービヌ・マートゥイ、大道那太の伝承、二人は国頭と関わる伝承をもつ。おもろさうしでノロと与論の大ノロ、根のしまののろのろと謡われ、ノロ制度が敷かれた1500年代の琉球との関わりが彷彿してくる。それらの資料を通して整理してみる必要がありそう。

 今回、知識不足でした。旧家の遺品を拝見することができず、シニグやノロ、島にあった遠見番所などは次回へ。
  
  ▲岸本池の近くにある岸本墓      ▲按司根津栄の説明版   ▲花城真三郎、殿内与論主、田畠首里主の墓


  ▲根津栄の舟蔵             ▲与論城の国頭と対峙した崖に墓が数多くある。
2018年3月4日(

 
ちょっと気分転換に寡黙庵の庭や畑の植物と戯れる。土変えをしようと牛糞を頂いたのですが、大雨で牛糞にカバーかぶせる。紫の花に一日中ミツバチが蜜を吸っている。近くにミツバチの巣がないか見ていますが、どこから飛んでくるのかわからず。紫の色が好きか。時々、イチゴが色づく。数が少なく、味みをするだけの独り占め。

 さて、今日は天気がよくなったので牛糞まきでもするか。自然とのつきあいが性格にあっているか。

  
  ▲イチゴの実が少し色づく     ▲大雨で牛糞にカバーかけ       ▲紫の花にミツバチが集まる

2018年3月3日(土)

 昨日屋嘉比ノロ殿内の大城夫妻と田嘉里の金城さんが打ち合わせに来室。5月6日(9:00~15:00)に開催される「田嘉里のグラ祭り」での田嘉里公民館(集落センター)内でノロ殿内の遺品の展示紹介をする予定。展示紹介に向けての打ち合わせを行う。ノロ殿内の希望と村史編纂室の展示案を提示し、その狙いを説明。ノロ殿内の希望は村民に見てもらいたい、永年ノロが果たしてきた役割を知ってもらいたいとの願いあります。村史編纂室では、遺品、文書、衣装などを含め、大切に保存されてこられた事への感謝。展示作業を進める過程で数多くのことを学ぶことができそうです。そこで学んだことを持ち主の誇りと自信につながればと考えています。(大宜味村の重要な文化財の一式となります)

【大宜味村田嘉里の勾玉・簪・脇差(刀)】

 大宜味村田嘉里の屋嘉比ノロ殿内の遺品調査。竹筒二本。大きい竹筒の勾玉と水晶玉(ガラス玉)。大きい竹筒に「屋嘉比のろくもい代合之時日誌」と墨で書かれている。竹筒の蓋の内側にも墨字がある。大の竹筒の中に勾玉と水晶玉(ガラス玉)が納めれていた。
  ・緑色かかった勾玉一個
  ・水晶玉(ガラス玉) 二つの輪になっている。(勾玉側□個)
 小さい竹筒に、
  ・簪(かんざし)
  ・小玉の勾玉(青・乳白色・半透明)
  ・外れた勾玉一個(青)

【脇差】
  ・刀剣(柄部分なし、棟区(むねまち)・刃区(はまち)・目釘穴・鎺(はばき)・反りあり・
   全長□㎝・刃長(□㎝)
  ・鞘(下緒がついている・栗・子尻)・鍔や切羽は失っている)

【竹筒にのろ代合の年号?】
 「屋嘉比のろくもい代合之日記入箱」の墨字がある。また蓋の内側に同墨書きがる。それとは別に「□□四拾二年□□」の線堀がある。琉球で使われてきた中国年号で「四拾一年」以上あるのは、嘉靖(1562年)と万暦(1613年)と康熙(1702年)、そして乾隆(1776年)の四時代である。その年代が特定できると勾玉、簪、脇差などの遺品が、首里王府から就任、あるいはノロの交代時期がわかる。それと竹筒に「代合之時日誌」とあるのは、それ認証の辞令書が複数枚あった可能性がある。

 注目されるのは、それらの遺品(10枚近いのろ衣装)と「おもろ」で謡われた「やかひ杜」と屋嘉比ノロの存在である。やかひ杜はういグスク(根謝銘グスク)の大城(『琉球国由来記』の見里村の中城之嶽」をさしている可能性がある)、屋嘉比巫火神は見里村にあるからである(ノロ家は麓から現在地に移動という)。

 
 ▲二つの竹筒と簪と勾玉と水晶玉など                ▲脇差(刀剣と鞘と鎺(はばき)

 
    ▲簪のかぶ部分                      ▲勾玉や簪などをいれた竹筒

2018年3月2日(金)

 自分の畑の土堤にノビル(野蒜)を見つける。咸豊3(1853)年に塩屋湾を訪れたペリー一行は塩屋湾岸で島民とノビルのやり取りをしている。新聞紙や雑誌の切れ端に塩をつつみ、ノビルを見つけ塩もみにして食べた記憶がよみがえる。帰り際、空に十五夜の月が。

 足下の草木、空に月。牛糞が軽トラックで運ばれており、土、日は鉢物の土かえでもするか。ユリが60cmほどに伸びてきた。

 さて、頭を切り換え、字誌の歴史年表の作成をしないと。

  
   ▲ノビルの塩もみでも               ▲カスミソウとベンケイソウ?の向こうに十四日の月 

2018年3月1日(木)

 今帰仁村字玉城の古島原にあるウチグスクを踏査。古島はプルジマと呼ばれ、玉城村の集落があった場所とみられる。1862年に地理師の見立てで風水が悪いということで村移動が行われる。集落が移動したため、玉城の故地は古島原と呼ばれるようになる。最高部は標高59mあり、グスクのつく村が高い所に位置する例の一つである。野史で登場する湧川のつく一族が関わっているクグスクのようである。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子である。その頃、今帰仁間切に湧川村がなく、1738年に地頭代の湧川をとって湧川村を創設。1735年頃、今帰仁間切の地頭代の湧川大屋子から古宇利親雲上となる。地頭代をだした家の屋号がワクガヌヤ(湧川家)、1750年以降に今帰仁間切になると古宇利親雲上を名乗り、屋号はフイヤー、前フイヤーを名乗る。ヤクガヌヤーは、1750年以前に今帰仁間切の地頭代湧川大屋子を名乗ったことになる。

 グスク内に三カ所にイベがある。そこは火神ではない。


  ▲玉城の小字図(色塗り部分がウチグスク)

 
      ▲ウチグスクの遠景       
      ▲グスク内のイベ(第一)

 
    ▲グスク内のイベ(第二)             ▲グスク内のイベ(第三)

 この玉城は辞令書で「たまくすく」と登場し、近世になると「玉城」の漢字があてられる。読みとしてはタモーシである。中城(仲尾次)、兼次(兼城)は、ナコウシ、タモウシと呼ばれる。玉城に村名がつけられた頃の玉城は古島原にあるウチグスクがムラの中心部であったとみられる。玉城集落が古島原から外間原に移動したのは1862年である『球陽』尚泰王15年条)である。その頃まで、玉城の祭祀場は古島にあったとみられる。集落移転とともに外間原に移転してある。そこにはムラ移転の碑が建立されている。

 そこには神アサギ、神役を務めた神人の祠、玉城ノロ殿内などがまとめられている。以下の玉城ノロが外間原に移動後の資料である。


今帰仁村 玉城ノロ

 今帰仁村玉城のろは□取祭や大折目などにうちがみや根神等にかしぐかれてその管轄なる玉城・平敷・謝名・仲宗根の四ヶ字の御嶽に巡礼する例としている。

 ところが御嶽に来ても別に線香を上げたり花米を供へたりするのでも神に祈るのでもない。各神職はそれぞれのおたもと(神座)に着いて字民から神酒や餅や肴などの供饗を受けるだけである。初めて其れを見た時に私は何か祈願があるべき筈だと物足りなく思った。ところが後でよく研究して見るとそれが本式だった。妙何となれば各神職は御嶽には別に神が座しますのではのではなく、神々は祭の三日前おたかべ編して其の火の神を通じて祭の日には現に各神職に乗移って居られるのであるから神々は字民が歓待をすればよいわけで、□に神職が御嶽まで祈□等をするのは却って其の本旨に合はないのである。おもろはこんな時に神の「ことほぎ」として現つ神によって謡はれたものである。

 陰暦八月十日には神拝みと称して祖先の住居のあった部落を訪ねて神を礼拝する風習があるが、その時は神座ん□ける神職を礼拝するのであって、神職を成して別にいびとかあしやげとの神を拝するのではない。

 神職の所為は□の所為である。

 (大工事中)