寡黙庵 2018年2月の記録      沖縄の地域調査研究(もくじ) 
                (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名)   
                            
 問い合わせ(メール)  
 
              

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やんばる学研究会へ




2018年2月28日(水)

 今帰仁村字玉城の古島原にあるウチグスクを踏査。古島はプルジマと呼ばれ、玉城村の集落があった場所とみられる。1862年に地理師の見立てで風水が悪いということで村移動が行われる。集落が移動したため、玉城の故地は古島原と呼ばれるようになる。最高部は標高59mあり、グスクのつく村が高い所に位置する例の一つである。野史で登場する湧川のつく一族が関わっているクグスクのようである。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の地頭代は湧川大屋子である。その頃、今帰仁間切に湧川村がなく、1738年に地頭代の湧川をとって湧川村を創設。1735年頃、今帰仁間切の地頭代の湧川大屋子から古宇利親雲上となる。(詳細は略)


  ▲玉城の小字図(色塗り部分がウチグスク)

 
▲ウチグスクの遠景

 




2018年2月27日(火)

 玉城の字誌の補足調査。これから字玉城の内グスク踏査へ。

 公文書舘の移動展が国頭村で開催されるチラシが届けられていました(講演される宮城樹正氏から。やんばる学会員)。かつての山原(やんばる)の風景の写真。それと公文書館には「国頭村長事務引継書(1972年)や土地改良事業などがあるようだ。戦後間もない風景や資料、地域研究には欠かせない資料のようだ。以下の日程で資料展示や講演会があるようで、山原(やんばる)や地域に関心のある方は必見だと思います。ぜひ、「山原(やんばる)の歴史的な空気」を吸いに来られてはいかがでしょうか。

 

2018年2月26日(月)

 さて、与論のことは預けて、次へ。


2018年2月24日(土)

与論島踏査メモへ

 22日23日と与論島へ。フェリーが港(供利港)へ着くと宿のバスが向かえに。宿の手続き済むと車をかりて与論の図書館へ。図書館で調べ。今回の与論島踏査の流れ(ストーリー)を決める。『与論町史』から東家、基家、龍家の屋敷跡の確認がしたくて図書館の職員に伺う。城・朝戸・麦屋あたりにあることを教えてもらう。大字の区分もあやふや。図書館にあった『与論主世鑑』(附瀧野氏等系図並系統伝禄)(昭和11年)をみる。三家の最初の部分を詳細にみる必要がありそう。それらの野史から琉球の時代の与論の正史でも組み立ててみる必要がありそう。与論城へ足を運ぶ。「与論を見る視点」として、メモったノートから。与論島は、琉球時代北山の時代、三山統一首里王府時代、薩摩の時代など、それぞれの時代の名残を数多く残している贅沢な博物である。そんなことを考えながらの与論踏査である。

・琉球の時代
 ・三山時代の北山
 ・三山統一後の時代と与論
 ・城(グスク)と城(グスク)集落、グスクの地名(グスクは高地性集落(50m~)
 ・「おもろさうし」のかゑふた(与論の古称)、親のろ、のろ、島ののろ
 ・ハンタフェーの崖中腹の墓群(風葬)
 ・与論グスク週への集落形態(曲りくねった道筋はグスク時代からのものか?)
     グスク正面付近の低い石積みの屋敷(近年の石囲いの屋敷ではあるが、
     仙台市入来町や知覧の武家屋敷などが設計者の念頭にあったか)
 ・与論のシニグと沖縄本島北部のシニグ
 ・与論に古辞令書が見つかっていない。
 ・明治まで続く針突
 ・地名や言語の共通性

・薩摩支配下の与論
 ・急速に薩摩化する与論
 ・色濃く残しているもの
   土葬になるが、洗骨して納めた葬った厨子甕の蓋部分は埋めず)
 ・崖中腹の墓も利用される。
 ・十五夜祭り(琉球・与論・大和)

・明治の与論

・アメリカ統治の与論(昭和28年に鹿児島県へ)

・復帰後の与論

  (画像が取り込めず。工事中)

2018年2月22日(水)

 今帰仁村玉城のウチグスク踏査へ。集落のあった場所の確認がしたくて。数点の白磁や青磁を確認できたが、二、三の拝所があり大井川へ降りることができると聞かされているが見つけるがことができず。玉城のワクガワ家(旧家)が正月には草刈りなどウガンをしているという。玉城村が現在地移動したの記録は「球陽」にあり、移転120年記念の碑もあるので字(アザ)の方々と行くことに。

 勘定納港から山原船が運んだ品々の確認。勘手納港は、それを証明するかのようだ。山原船を海岸近くに碇泊させ、船から荷を小舟の伝馬船に積みかえて陸揚げした。明治の勘定納港で陸揚げされた品物は焼酎・瓦・石油・大豆・茶・素麺などである。また、米・薪木・松丸木・炭・藍などが船に積まれ輸出された。

 山原船の建造の検査は伝馬舟とセットである。

 山原船のことで与論島まで。それと「北山の歴史と与論」について補足することに。


2018年2月19日(月)

 
今帰仁村玉城・仲宗根の大井川の流路の変遷と玉城の古島までゆく。大井川の流路は二、三回変わっているようだ。1842年に玉城村と寒水村と岸本村の移動がある。村移動は風水を理由にしているが、大井川の水害があったようである。村移動と同時に大井川の流路の変更があったようだ。大井川の流れがターバル方面へ。その次に大井川御嶽がが大井川で分断されていた時代。分断されるが大井川御嶽がまだ残っていあた時代。、

 現在「オホヰカワ御嶽」は大井川の河川工事で失われている(移動したか未確認)。下の画像は昭和45年頃で、まだ御嶽があった頃の様子。左繩が張られ、ウタキの中にイベの祠があり、玉城ノロとお供でウガンされている。これらの画像は、町田氏(普天間高校の民俗クラブ報告書)の提供。「玉城字誌」で復活させます)

 
 ▲昭和40年頃までオホヰカワ御嶽とイベ)
  

2018年2月18日(

 今帰仁村玉城までいく。しばらく踏査していないので原稿がすすまない。出校終盤になっているが、最後の攻めで足踏みしている。以前、玉城の地名でまとめたことがある、(平成9年)が、『球陽』(尚泰王15年条:1862年)の玉城村・寒水村・岸本村の集落移動の記事があり、20年もたったせいか記憶がおぼろ。その時の解釈に自信がなかったのかもしれない。大井川の流路が変更した伝承が根強くあるので、そのことも含めてみていく必要がありそう。寒水村の御嶽は昭和40年頃には実在していたので、複数回の川筋の変更があったのであろう。はり、『球陽』の記事と「地図」を手に現場まで行ってみないと。





2018年2月17日(土)

 ・国有林の変遷(戦前)
 ・沖縄郡今
 ・戦争による被害状況
 ・戦後の状況

   (詳細な規定や変更などがあり、山管理の変遷の上に、現在の山地がある)(工事中)

 沖縄本島の国有林の変遷(戦前・戦後)を知る必要があり、その概略を示す。
 往時人口の少なかった時代には、森林は極めて豊富であり、その伐採利用にについて何ら制限を加える必要がなかった。尚真王の政策で諸按司を首里にあつめ居住させる中央集権政策をとる。すると首里が都会化し、木材の需要が増加し、ことに当時寺院のなどの大規模の建築があり、後年のそれらの修理や再建などがあり、用材を育成する必要に迫られ、林政の重要さに気づかれる。
 
 蔡温の時代になると人口の増加で、杣山に対する政策や経営のため七つの法令を発布する。元文検地
(1736年)で杣山の境界の調査し面積を測り、①杣山針図帳を調整し、林政上の資料を作成した。②杣山法式帳 ③山奉行所規模帳 ④杣山法式 ⑤仕次山樹木播方法 ⑥就杣山総計条々 ⑦仕次山奉行所の七種の法令を発布して、森林の保護や利用に努める。当時の林政機関は総山奉行、左右奉行(各一名)、座敷奉行二名、筆者三名を配置するが、翌年(1737年)には拡充して地方在勤の杣山奉行を配置し、その下に筆者八名を置いた。

・廃藩置藩(明治12年)

・土地整理法(明治32年)
・明治39年
・明治40年沖縄県に林務課を置く。
・明治41年国有林野を鹿児島大林区署を引き継ぐ。那覇市に沖縄小林区署が新設される。
     これとともに沖縄県国有林野法が施行される。
・県内に林業技手が少ないため、募集者をつのり森林主事を養成、終了後森林主事に任用した。

 最初の森林保護区詰所(国頭国は三カ所、八重山区に二カ所、祖内と古見)
  高江(東村高江区)
  安波(国頭村安波)
  安田(国頭村安田)
  







2018年2月14日(水)

 山に関して生活とかけ離れた分野である。杣山についても膨大な資料と現場なのでどう切り込んでいくべきか躊躇している。まずは手当た次第踏み込んでみることに。
・国頭郡に於ける杣山仕立費の負担
 
・恩納間切は
  各村共に地人、居住人を問わず十五歳以上五十歳以下の男女総人口に現人
  夫を賦課す。但し吏員は其夫役を免除される

・名護間切は
   村に依りて其賦課法二様あり。即ち甲は現人夫を宅時に賦課し乙は之を持地
  (村より配当されたる土地)に賦課す。尤も居住人に対しては其村に依り現人夫
  を課せるして受銭になるものを出さしむるものあり。或は其家の強弱も応じて適
  当の人夫をださしむるものあり。

・今帰仁間切は

・大宜味間切は

・国頭間切の

・久志間切は

・金武間切は


 (工事中)

・御法度の諸木下記の通り候置候間少も無









2018年2月13日(火)

 4年前今帰仁村内の先人達について紹介しています。私自身の言葉で紹介することができず、書かれた文章の一部で紹介しています。その方々の末席で話を伺ったことがあり、途中でストップしたのがいくつもあります。

http--yannaki.jp-20141gatu1.html

 これから、そのひとかたについて話を伺いとのことで来客。おもい出してみるか。


 昨日は山原船のことで大井川下流のトーシングムイとピサチまで。明治の20年代から。戦前、今帰仁村玉城で下宿していた頃、仲宗根の町について、仲松弥秀先生が山原船のことを以下のように書かれている。

  次に岸本村の平良福五郎氏が運送業兼小店を構えた。氏は山原船で那覇へ薪、藍などを積出し日用品と
   取引したのである。然して当時は今の転馬舟着場のピサチ辺に山原船碇泊し、そこより上流大井川橋の少し
  上即ち寒水の手前に転馬舟が着き荷物の積み下ろしが出来たという。第三番目に玉城某氏が小店を開く、氏は
  那覇の人で名護を経て移住して来たという。


 
   ▲大井川下流のピサチ付近           ▲トーシングムイ付近

2018年2月10日(土)

今帰仁村玉城の公民館資料に1948年度の「造林計画実施」と1949年度の「原山勝負」の表彰状」がある。それは戦前から引き継がれた行事である。戦後の「原山勝負」を玉城の事例で紹介しましょう。(工事中)

 今帰仁の原山勝負について紹介したことがある『なきじん研究』11号に再収録。

・国頭間切山勝負審査事項 毎年杣山御仕立敷々諸仕付ノ時科定め条々
  一、□、杉穂しらべ方並差付不行届候方本ニ科松料胴銭百文宛
・恩納間切山勝負審査事項
・金武間切山勝負審査事項




   


2018年2月8日(木)

大宜味村津波の神アサギは、大宜味村内の神アサギで何か他の村の神アサギと異なっている。津波と平南村の合併だあることはすぐにわかる。それは村が合併しても祭祀は一体化しない法則が神アサギに現れている。それで津波の歴史に踏み込んでみると、興味深いことがわかってくる。津波村と平南村は1673年以前は羽地間切の村であったこと。羽地間切は「儀保あむしられ」の管轄村である。1673年まで国頭間切は首里あむしられの管轄である。(津波ノロを除く大宜味間切のノロは首里あむしられ管轄である)。これまで手薄になっていた「津波ノロ」についての明治以前の引き継ぎは儀保?首里?(廃藩置県後は儀保・首里・真壁の三殿内は一つにされたので、そこで行われている。今帰仁村の中城ノロの引き継ぎは、本来儀保殿内であるが一つにされた三殿内で行われている。大正8年に両村の神アサギを統合している。一つ屋根であるが、内部で両村神アサギとして分けてある。移設された平南村神アサギは礎石を運んで置いてある。この神アサギの建立は両村の人々の寄付でなされている。

   
 ▲津波(左側)と平南(右側)の神アサギ  ▲右側の平南神アサギに礎石が   ▲大正8年に神あさぎを統合 

大宜味村津波と平南の神アサギ
(合併村)

【稲大祭・束取折目・柴指・ミヤ種子・芋折目・三日崇拝・穂祭・穂大祭・束取折目・柴指・芋ナイ折目】
(津波巫)(『琉球国由来記』より)

 現在の津波は津波村と平南村が合併した村である。その年代については不明。神アサギの建物は一つになっているが、内部で二つに分かれている。津波ノロの管轄でコンクリートの建物で向って左が津波村、右側が平南村の神アサギである。平南村が移動して津波村にくっついてきたためか、神アサギの内部の四隅(四つ)の石が置かれている。故地の神アサギの礎石か石柱の本数を示している。移動してきた村との合併の痕跡が神アサギに見ることができる。神アサギの前方にナー(広場)があり、豊年祭の舞台が設置されている。明治14年『上杉県令日誌』で津波村に入ると『村中二箇の大空屋あり。アサギという』とある。現在の神アサギは平成10年建立、その前は昭和8年である。


「津波の年中行事」表をみると、神アサギ(津波は阿舎慶と記してある)は祭祀場であるが、一年間の祭祀のすべてで神アサギで祈りをするわけではない。行事表を見ると祭祀とウガンをする場所も記してある。津波はノロ殿内(奴呂殿内)からウガンがはじまっている。

・津波部落年中行事
    西暦1948年6月14日改正

 昭和23年  月日ハ旧暦トス

一、正月二日
    奴呂殿内  殿  奴呂川  塩屋ノ前 上原川  根神屋
    御ハイフ屋  某日   種子取
    各戸ニ於テ祈願実施
一、三月   三日
    奴呂川  塩屋ノ前  上原川  波兼久
一、四月   某日   畦拂
    奴呂殿内  殿  阿舎慶  波兼久
    毎年遊び日は学事奨励会(一九六四年第一回)
一、五月  拾五日   御祭(ウマチー)
    奴呂殿内  阿舎慶  オハイフ屋
一、六月  某日   新米
     (二拾五日)奴呂殿内  阿舎慶  オハイフ屋
     二十五日  荒打御願(アラグチヘーヤー)
    奴呂殿内  阿舎慶  オハイフ屋
一、七月   拾五日   御盆
    某日    海神祭
    奴呂殿内  殿  阿舎慶  オハイフ屋  根神屋
一、八月   拾日    踊
    奴呂殿内  殿  阿舎慶  オハイフ屋
一、九月   某日    ミヤダニ(九月九日)
   奴呂殿内  阿舎慶  オハイフ屋  根神屋
   殿  奴呂川  上原川  塩屋前  ハジナ濱  波兼久
  附記 牛馬ノ御願右同日ニ行フコト
   一、十月   某日
      年中字内出生児御願当事務所ニ於テ行フコト 但シ御願料ハ各出生児ノ父兄ヨリ聴衆スルコト
      某日 ウンネー(初土ネー) 阿舎慶
一、十二月   八日   ムーチー 奴呂殿内  阿舎慶  上原川  波兼久
    
  備 考
    御拝所一ヶ所一回分奴呂殿内花米
    参合 酒一合 其他ハ總ベテ花米一合
     五勺 酒一合宛トス

   1948年6月14日、午後9時制定
一、年中行事表改正
  前年中行事表ノ新・旧ノ混合ノ分ヲ
   全部旧行事ニ改正案決定
          代表委員會ニ於テ

   1948年6月24日午後3時制定

一、神人給料(一ヶ年分)但シ當分俸
  若奴呂、根神、オハイフ(二人)
  右給料ニ関シテハ毎年一期作ノ収穫時(旧八月五日徴収)ニ全戸数ヨリ米一合宛


2018年2月6日(火)

 暖かくなると先島の踏査でもしたいものだ。

2005年3月へ(振り返ってみよう)


2018年2月5日(月)
 
 車のカギが行方不明、見つからず仕事はお休み。14年前と5年前のメモでも取り出してみるか。会議の構文がとどいていず確認。(忘れ物が多いこの頃)  あ、カギが見つかった。足下の奥。午後3時、外は寒いし小雨。一日、ずる休み。庭の草木は元気。


 

2004.10.23(土)メモ

 兼次は古島原と糸川原から現在地に集落が移動したムラである。集落のあった元の場所にウタキをはじめ、神ハサギ跡やイビガーなどを残し、祭祀を行っている。神人は僅かである。

 他のウタキと違い、イベへは登っていくのではなく下っていく。棒で草むらを敲きながら下っていくとイベの祠にたどり着く。祠の前方は沢になっている。祠の中に香炉が一基あり、イベはウタキの高い所に向いている。ウタキに行く途中に金満殿内と彫られた祠があるが、シマの人たちは神ハサギ跡だという。ウタキに向けて香炉が置かれている。

 現在の集落は旧集落やウタキの北側の斜面に碁盤目状に形成されている。神ハサギも集落とともに移動したようで、集落の中央部(ムラヤー跡付近)にある。現神ハサギの香炉は故地に向けて置かれている。
 集落が1km程度の移動がなされた場合、ウタキはどうしたのか。神アサギはどうしたのかの例となる。イベに下っていくのであるが、拝む方向は振り返って高いところにむけて拝むのは、ウタキにおける神の降臨を示唆している。兼次の金満殿内(神ハサギ跡)や現神ハサギはウタキに向けて祈りをする。私がウタキと神アサギを結ぶ集落の軸線というのはそれである。


 .  
     ▲旧集落があった場所と後方がウタキ           ▲金満殿内は神ハサギ跡

   
   ▲ウタキの中のイビへの道               ▲ウタキの中のイベの祠 

 
   ▲旧集落付近から現集落をみる                 ▲現在の兼次の神ハサギ

【兼次の原石と集落移動2009年5月9日(土)メモ

 兼次は『絵図郷村帳』(1648年頃)で「兼城村」と出てくる。方言でハニシやハニーシと呼ぶ。玉城がタモーシ、中城がノーシと呼ぶのと同じで、「…シ」に表記上「城」を充てた見られる。兼次村は移動集落である。兼次の現在の集落は国道沿いにあるが、古島原と前名原から麓に移動している。古島原が故地であるとの認識はムラ人にある。そのために故地を古島原と名付けている。

 古島島原と前名原から兼次村の集落が現在地にいつ頃移動してきたのか。兼次の二つの原石は、その手掛かりを与えれてくれるのではないか。つまり、「加祢寸原」(カネシバル)は村名と同様の原名である。すると、アタイ原と同様、その村の中心となる集落部に付けられる名称である。元文検地(1737~1752年)の頃、今帰仁間切は1742年に検地がなされている。その頃、兼次村の集落は古島原にあったのではないか。仮説を立てるなら、今の古島原に兼次村の集落があったため「加祢寸原」(カネシバル)と原石に刻んだのではないか。

 1609年の後、今帰仁グスク周辺にあった志慶真村と今帰仁村が麓へ移動している。兼次村の集落移動も、隣接しているのでその可能性もあろう。村名と同様の原名をつけられるのは中心となる場所だと考えると、兼次村の集落は移動していず、今の古島原にあったとみた方がよさそう。

 兼次村の集落の移動は、元文検地後に現在地の麓に移動したとみることが可能である。すると、故地を古島原とし、現在の集落地を加祢寸(カネシ)原ではなく、屋敷原(北・南)と名付けたことはうなづける。二基の「加祢寸原」の原石は移動してしまっているが、故地(今の古島原)にあったとみてよさそうである。つまり、今の古島原に元文検地の頃、兼次村の集落があり、そこに立てた原石に「加祢寸原」とつけたのではないか。つまり、元文検地の後に、大幅な原名の組み換えがなされているということ。その為、原石の原名と現在の原名(小字)が6割しか一致しないのはそのためである(仮説をたててみたが覆してみよう)。

【今帰仁村兼次の原石】

 午前中、10ヵ字(アザ)の公民館の画像を必要としたので撮影にまわる。途中、原石を持っている方の家(大城氏)に立ち寄る。20年前に見たままなので、どうなっているのか訪ねてみた。ありました。お願いして実測と採拓をする。お礼を述べて帰ろうとすると「持っていかないの?」「?!、いいですか。ありがとうございます」ということで歴史文化センターへ寄贈。

 「字誌、進めましょう」と約束。「ソ 加祢寸原」(49×31×12cm)と彫られた原石は、「どこからが、持ってきて置いてあるんですよ」と。元あった場所は不明。現在、兼次に「加祢寸原」は見当たらない。「加祢寸原」のカネシは字名の兼次なので、北屋敷原と南屋敷原の一部だったとみられる。兼次には、もう一基の原石があり、「フ 加祢寸原」(54×26×10cm)である。記号は異なるが、同じ原名である。一つの原に一基ということではないことがわかる。いずれも、もとあった場所から移動している。

http://yannaki.jp/image/505ha3.jpg http://yannaki.jp/image/505ha4.jpg
         ▲兼次の「ソ 加祢寸原」の原石         ▲兼次の「フ 加祢寸原」の原 
2018年2月2日(金)

 昨日、仲松弥秀先生の「大井川の町の地理的研究」(昭和8年)を紹介した。その中の以下の部分が「山原船と交易」の一例として紹介することに。
   「山手の方に当時、岸本、玉城、寒水の三村があった。今は三村を合して字玉城となっている。その中の寒水が大井川
   町の前身である。一名浜と言うを考えれば、往時は海岸だったかも知れぬ。前述の如く現大井川町地帯は水田をなし
   ていた。従っ
   て道路は山岳より寒水を経て仲宗根に円弧を描いて通されている。又大井川河谷を利用して伊豆味、呉我山盆地方面
   より今帰仁へ達する道路あり、丁度その交差点に寒水が位置していた。斯く好位置にあった寒水へ、明治17、8年頃外
   間政得という人が初めて小店を構えたのが此の地方中心的地になった種子であるらしい。氏は那覇の人で最初屋我地
   へ移住してきたという。

   次に岸本村の平良福五郎氏が運送業兼小店を構えた。氏は山原船で那覇へ薪、藍などを積出し日用品と取引した
  である。然して当時は今の転馬舟着場のピサチ辺に山原船碇泊し、そこより上流大井川橋の少し上即ち寒水の手前に転
  馬舟が着き荷物の積み下ろしが出来たという。第三番目に玉城某氏が小店を開く、氏は那覇の人で名護を経て移住して
  来たという。


 それと大宜味村史の『民俗編』(近刊)で喜如嘉の民俗所収に以下の文章がある。山原船の模型を学校に寄贈されたのは平良豊秀氏(喜如嘉)(現在村史編纂室蔵)である。模型の舟底に以下の説明文が置かれている。山原船をつくる道具がいくつもある。

 「喜如嘉は昔から大工の多い所とされている。大正時代には十九才、二十才頃の青年は大工になるものが多く、
 部落全体では二〇名位おり、その内六割位が半農半大工で、四割位が専属大工であった。喜如嘉の大工逢は東村、
 金武村、国頭村、その他沖縄本島各地までも船大工、或いは家屋の建築大工として出稼ぎに出ていたといわれる。
 字の浜辺でも他字、他村より依頼されて造船していた。山原船(沖縄本島北部と南部を往復していた船の名称)
 所有者の多かった平安座島へも、しばしば出かけていたという。専属大工でないものは、農繁期には帰ってきたり
 する。大工道具にはタイビキー(二人引きのこと)、バンジョーガニ(Lの金尺のこと)、ノミ、チョーナ(手斧)、
 トーイリー(戸の溝を彫るカンナ)、カナジチャ(叉はゲンノウと呼び、金槌のこと)、炭壺(シミチブ)等がある。

 



2018年2月1日(木)

 2月スタートとは言っても1月からの延長がいくつか。「寡黙庵」の庭は桜の見頃。今日は根謝銘(ウイ)グスクの整備委員会で、現場の踏査。考古の専門家を中心に、これからの進めていく発掘調査の場所の確認。私はグスクを中心にした歴史・民俗の分野。根謝銘(ウイ)グスクを中心にした歴史、周辺の村々、大宜味村のノロ管轄の村と祭祀、大宜村の神アサギなどの概要は半年でほぼまとめる。

 
              ▲「寡黙庵の桜は満開中                    ▲セイロンベンケイソウ

 根謝銘(ウイ)グスクを構成している要素を拾っていく。グスクの中央部への道筋(現在の神アサギまでの道筋とは別にナハマー(中庭)あたりから現参拝道に沿って土手上を通る道筋(現在獣道)。今回は以下の確認。試掘場所の確認。

 ・ウドゥンニーズ(御殿ね所)とトゥンチニーズ(殿内根所)があった場所(宮城真治資料図)
 ・中庭(ナハマー)
 ・ビジル
 ・神アサギ
 ・大城御嶽(イベ)
 ・中城御嶽(イベ)
 ・按司火の神の祠(中城御嶽から現在地へ移動)(宮城真治資料)
 ・アサギマー
  「大宜味の歴史」を頭で描きながら。現場踏査をすると頭の整理ができ元気ハツラツ。


  ▲中央部の神アサギへの道筋             ▲神アサギ               ▲大城嶽(イベ)前の広場


  ▲第城御嶽(イベ)の前 クバ        ▲移動された「按司火神」の祠    ▲中城御嶽(イベ)(左繩が巡らされる













  
  

▲平南神アサギの礎石



神アサギの礎石

 寒い
    
  

米地類