寡黙庵               トップへ 
     
  住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名                          
 

               2月へ ・3月へ ・4月  ・5月へ

2017年4月30日(

 休日は「寡黙庵」のシャワー室のタイルの張り替えでも。
 二頭の子獅子の毛を親に似せました。成長のあかしにでもしよう。

 


2017年4月29日(土

 大宜味村田嘉里へ。田嘉里の竹のこ(ぐら:釣り竿竹:チンブクダキ)祭り。那覇からのメンバーが屋嘉比ノロドゥンチを訪れるというので、声がかかる。ノロ殿内のノロ関係の遺品を拝見できること、田嘉里の親田村のガナハナ御嶽がどう見えるか。それと玉城さんの方言での屋嘉比周辺の説明の面白さを伺いたくて。

 帰りは「ぐら」と「やんばるくいな」(泡盛)(田嘉里酒造所」を頂きありがとうございました。それと道の駅で無農薬のラッキョウを手にいれ、収穫の多い調査でした。

 ※「ウタキとイベ」は明確に区別して議論すべきだと主張するようになったのは山原地方の
   ウタキ調査がきっかけであった。その森がウタキかどうかは、その森が人為的な拝所で
   あるかどうかにあることに気づかされる。祭祀であるか、香炉が置かれていれば、それは
   ウタキである。ウタキの内部で左縄が巻かれたりに香炉が置かれる場所はイベ。

 
   
 ▲『琉球国由記』(1713年)の根謝銘村と親田村の「ガナハナ嶽」の遠望、頂上部のウタキのイベはテラス状

  
 ▲屋嘉比神アサギでの玉城氏の方言での解説      ▲屋嘉比ノロの遺品    ▲拝所の前にニョキニョキとぐらが

2017年4月26日(

 1673年に国頭間切と羽地間切を分割し田港間切(後に大宜味間切と改称)が創設される。『琉球国由記』(1713年)年当時、大宜味間切内の城・嶽・森・城嶽の呼称、方切(間切境界の変更)があってもノロの管轄する村の変更はない。また、明治36年の土地整理で合併した村があるが、合併以前の祭祀や祭祀場を踏襲している。祭祀そのものの簡略化や祭祀場が記憶から消えつつある。1713年に記録されたウタキやグスク、神アサギ、祭祀などの確認。300年も消えることなく今に伝えているのは歴史の変貌しない部分を祭祀や祭祀場が継承しているのではないか。そのことを念頭にいれながら、踏査をつづけてる。大宜味村のガナハナ御嶽(根謝銘、現謝名城)と、親田村(現田嘉里)のガナハナ御嶽は同一のウタキではないかとの予想を立ててのガナハナ御嶽入りである。

 ガナハナ御嶽を確認したく何度も挑戦してきた。先日も登り道かと予想して登るが、間違っていて途中で断念。村史編纂室のメンバーに日々、ガナハナ御嶽のことが頭をよぎっていると話すとお昼時間、地図を持って前田さんの所へ。「昨日、区長さんたちが草刈りしたようだよ」と。また、案内してくださるということで。前田さんを先頭に、編纂室の河津、区長さんの奥さん。四名での御嶽登り。頂上部分からの「おもろ」で謡われる奥間の赤丸崎、田嘉里川の河口、屋嘉比集落、根謝銘(ウイ)グスク、足下に根謝銘集落などが木々の間から望める。大宜味間切に、近世の火立所がないが、根謝銘(ウイ)グスクとの関わりで見ると遠見所に適した場所である。旅たちで見送りをした場所でもあったという。

 左縄を巡らされたイベに2基の香炉あり。左縄は年二回張っていたという。それはガナハナ御嶽は複数の村の御嶽ということができ、『琉球国由来記』(1713年)でいう麓の親田村と根謝銘村、両村のウタキと見ていい。祭祀や祭祀場が歴史を変わらない(変わりにくい)部分を継承しつづけている。

 
・小城嶽(神名 大ツカサナヌシ) 城村
 ・ガナハナ嶽(神名 シチャラノワカツカサ御イベ) 根謝銘村
 ・キトカサネ森(神名 七嶽ノイベナヌシ) 喜如嘉村
 ・オミカサノ嶽(神名 アカウトリヅカサ) 大宜味村
 ・底森(神名 イベナヌシ) 田湊村
 ・ヨリアゲ嶽(神名 ウブツ大ツカサ)塩屋村
 ・テクフ嶽(神名 スヅモリノ御イベ) 津波村
 ・津波城嶽(神名 イソヅカサ) 津波村
 ・石城嶽(神名 石モリノ御イベ) 津波村
 ・アザカ森(神名 コガネワカツカサ) 平南村
 ・コガネ森(神名 ツカサ) 平良村(後に久志間切へ)
 ・スン森(神名 タケヅカサ) 平良村(後に久志間切へ)
 ・ガナノハナ嶽(神名 チチャラノワカツカサ) 親田村(後に大宜味間切へ)(屋嘉比ノロ)
 ・トドロキノ嶽(神名 イベナノツカサ) 屋嘉比村(後に大宜味間切へ)(屋嘉比ノロ)
 ・中城之嶽(神名 大ツカサ) 見里村(後に大宜味間切へ)(屋嘉比ノロ)
 ・ヨリアゲ森(神名 カナミヤトヤノ御イベ) 浜村(国頭間切のまま)(屋嘉比ノロ)
  

 
 
  ▲大宜味村文化財委員長の前田国男氏の案内でガナハナのウタキのイベへ


 
 ▲ウタキの頂上部は前日に草刈りがなされ、イベ部分は左縄が三重に巡らされる

  
      ▲ウタキのイベ部分に2基の香炉と左縄の外側に遙拝所が置かれている


2017年4月25日(

 これから今帰仁村崎山の古墓の確認調査。ムラ・シマ講座の下見へ。

 崎山の数カ所の墓をいく。アジ墓、アジ墓の番人墓、池城墓、ウフドゥール墓、名護市屋部一門の拝むギギチ墓(サラチ墓)まで。アジ墓とウフドゥール、池城墓、イチャガヤー、タカイヤーヤ墓の内部の調査は故平敷令治先生が1976年に二度の記録をされている。その記録は『崎山誌』に収録されている。平敷先生から「謹呈 仲原弘哲様 平成七年十二月九日 平敷令治」と、それらの墓の調査記録を収録された『沖縄の祖先祭祀』の著書を戴いた。それらの墓調査は新城徳祐氏(当時翁沖縄県文化財保護審議委員)と崎山区の依頼でなされている。

 ここで触れておきたいのは今帰仁村歴史文化センターに所蔵された「新城徳祐資料群」(一部「なきじん研究10号」に収録。新城徳祐資料は、平敷先生へ寄贈される予定が、平敷先生から今帰仁の仲原の方がいいのでは。徳祐先生の故郷でもあるし」とのことを徳祐先生の奥さん(保子先生)から聞かされている。そのこともあって徳祐資料は感謝しつつ活用している。今帰仁村だけでなく宮古・八重山にかけて調査を広げるきっかけになった資料資料である。調査記録として今でも継続しているのは、ノートの整理をしながら調査記録の重要さを気づかれている。

    (工事中)

 本題のそれらの墓については、改めて報告する。

  
     ▲崎山のアジ墓               ▲アジ墓の番人墓?        ▲フドゥール墓(地番は平敷)


2017年4月23日(

 
昨日と違い、最良のフィールドワーク日より。戦前の大宜味村の様子を確認し、その変貌ぶりとの比較で現在の様子を記録していく。

 大宜味村の地勢の確認、平地少ないが田嘉里川、喜如嘉川、饒波川、平南川、大保川流域は土地が肥沃で穀類の栽培に適していたという。田・畑・山林・原野・荒蕪地・宅地などの配分、耕地の利用(稲作・サトウキビ・イモ・大豆など)、それらの穀物栽培と農具類、明治までの交通、共同作業場(製糖工場・製茶兼精米所)、木工所、織物所、公有林の伐採、私有林の造林、木炭(黒炭・鍛冶炭)、保健衛生の件、消費経済の件(現在の知場地消・婚礼・葬式・娯楽)、祭祀などを。消えた習俗もその痕跡をのこす場所や遺物から、当時の様子を描きだしていく。

 その状況を把握していくために、上記したキーワードを手がかりに大宜味村を踏査。


   ▲『大宜味村史』(資料編所収)より

2017年4月22日(土)

 大宜味村のムラ踏査は一通り終了したので、「もくろく」の整理にはいる。そして原稿執筆にはいる。連休明けには大方目途付けできるか。雨のためフィールドワークできず。「寡黙庵」の改修工事。まだまだ。


2017年4月21日(金)

 山手の森からアカショウビンの鳴声が聞こえてくる。アカショウビンが渡来する季節になったか。

田港(大宜味)間切の番所と主村と祭祀
(近世)

 大宜味間切の創設は1673年である。創設当時の村は羽地間切から平南村と津波村、国頭間切から塩屋・田港・屋古・・・などの村を組み入れている。大宜味間切は当初田港間切で、番所は田港村(同村)に置いたと見られる。その後、田港間切から大宜味間切へと間切名の改称があったとき、大宜味村に番所を移動した。

 さらに塩屋に番所を移し、明治44年に再び字大宜味へ役場を移動し、現在に至っている。以前、田港に地頭代火神の拝所があったが、そこは田港間切番所があった場所なのであろう。

 ・城村(分割以前)→田港村(田港間切:1673年)→大宜味村(大宜味間切:1731年)→
  塩屋村(大宜味間切:薩摩藩調製図1737~50年)→字大宜味(明治41年~現在:大宜味村)

 『琉球国由来記』(1713年)で按司と惣地頭が関わる大宜味間切の村は、城村・喜如嘉村・屋古前田村(田港村)である。城村と喜如嘉村での祭祀に関わるのは按司と惣地頭である。それは分割以前の国頭間切の按司との関わりの名残ではないか。まだ結論は出せないが、城村と喜如嘉村での祭祀に関わった按司と惣地頭は間切分割以前の国頭按司と国頭惣地頭の可能性もある。田港(大宜味)間切の屋古・前田(田港)村での祭祀に関わったのは田港(大宜味)按司と見てよさそうであるが、それとも按司は城村・喜如嘉村、さらに屋古・前田(田港)村の祭祀とも関わったのであろうか。因みに間切分割当初、羽地朝秀は羽地間切と田港(大宜味)間切の両間切の惣地頭職を賜っている。

 当初、田港間切番所があった屋古・前田村(田港)には按司のみが関わっている。田港村に番所があったためか、田港の御嶽の祠に20余の香炉が置かれている。後に間切番所が置かれた大宜味村の御嶽にも10余の香炉が置かれている。香炉の多さは間切番所があったことと無縁ではなかろう。

 大宜味村番所は田港村から大宜味村、さらに塩屋村に移動するが『琉球国由来記』(1713年)の惣地頭や按司が関わる祭祀は城・喜如嘉、屋古・前田村での祭祀と関わっている。そこでも間切番所が移動しても、按司や惣地頭が関わる祭祀は、分割当初の番所があった村で行われ、その後「番所が他に移動しても祭祀(按司・惣地頭)は移動しない」という法則を見い出すことができる。

 因みに根謝銘グスクの上り口に「トゥンチニーズ」と「ウドゥンネーズ」の拝所があり、1673年に国頭間切を分割する以前の按司地頭と惣地頭と関わる拝所である。トゥンチニーズは国頭按司家、ウドゥンニーズは国頭惣地頭家と関わる根所と見られる。


 大宜味按司(御殿)と大宜見親方(殿内)は、大宜味村根路銘の集落内にある。


     ▲大宜味按司の屋敷跡             ▲屋敷跡に大きな石と井戸の跡

【御殿:ウドゥン】

   王子や按司家をさす御殿もある。按司地頭家は大宜味御殿。
   大宜味按司家(御殿)には三つの系統あり。羽地家、北谷家、大宜味家
   大宜味按司(御殿)家禄八拾石(物成二十六石)
        作得米 三十石五斗九升三合三勺九才

【殿内:トゥンチ】

  惣地頭の親方家。王子や按司家をさす殿内もある。親方地頭家は大宜見殿内。
  大宜見殿内は間切創設から廃藩置県まで代々大宜見殿内が継承(屋嘉比親雲上)。
  大宜見親方(殿内)家禄 六拾石(物成十九石余)
         作得米 二十九石一斗八升六合五勺八才
          雑      一石七斗三升五合一勺六才


 ▲田港村に間切番所が置かれた       ▲学校地内に塩屋番所が置かれていた
        (御嶽の香炉)


・城のウドゥンニーズとトゥンチニーズ


▲根謝銘(ウイ)グスク登り口のウドゥンニーズとトゥ゙ンチニーズ

2017年4月20日(木)

 急にあれこれと忙しくなってきた。何から手をつけようかとあせり気味。

『玉城誌』用原稿「玉城の大折目」アップ


2017年4月18日(火)

 三度ほど探していた大宜味村大兼久のビジュル。村史編纂室の職員に案内いただく。恋い焦がれていたビジュルに出会ったような。このビジュル石は海から拾ってきた石だとのいわれがある。同様ないわれのあるビジュルは大宜味村喜如嘉、今帰仁村の兼次にもある。各地にビジュル伝承があるようである。ビジュルを祀ったら金持ちになったり、おかげで大漁がつづいたなど。同行した職員は手を合わせていたので願いは叶うでしょう。

 
   ▲大宜味村大兼久のビジュルを祀った祠                   ▲祠内のビジュル石


2017年4月17日(月)

 
大宜味村の17の字を「石敢當」を手がかりに踏査する。今回はこれまでの字調査とは様子が変わっている。大宜味村に受けいられつつあることが伝わってくる。いつものトレイドマークで。数カ所の字で声をかけられ、話を伺うことができ、また資料を出してくださり、拝見。謝名城ではグスクでのウンガミのとき、太鼓(鼓)を打った話。喜如嘉のマンカー一門がシーミーで訪れていたことなど。「石敢當」(厳)を手がかりにした集落内の路地歩きは終了。老いたキジムナーはノロリノロリ。さて、次は・・・(画像をとりこむ時間なし。後ほど)


⑫江洲の石敢當

 戦後の開拓ムラである。区画された部分の門や突き当たりに設置。

⑬押川の石敢當

 寄留人で成り立っているムラで石敢當あり。

⑭喜如嘉の石敢當

 ブナガヤーのムラであるが石敢當の数は少数。

⑮謝名城(一名代・根謝銘・城)の石敢當


 一名代の集落部分は、目立ってある。公民館前にに「泰山石厳當」あり。

⑯田嘉里(見里・親田・屋嘉比)の石敢當

 見里・親田集落部分の通り沿いに設置されているのが目立つ。

 

⑰上原の石敢當の石敢當

 寄留人のムラ。古生(中生)の石灰岩に墨字で「石・・」とかかれたのがある。



2017年4月16日(日)

 大宜味村根路銘でのハンサガ(神さがり)の時、根路銘のビジュルの前でのウガンがある。今ではほとんど見られないが、ビジュル石を手がかりに、その神行事をしることができる。

    儀式の形式は字により多少の相違あり神人になる家は勿論一門全部馳走を準備し
    アサギに新願し後披露宴をはりて大いに祝う。神サガに集った人は一睡もしないで
    夜を徹する。眠ると悪神之に乗り移るという(根路銘)。


 
▲根路銘のビジュルが置かれている祠     ▲祠内のビジュル石

参考文献 「ハンサガ―大宜味字根路銘・謝名城における神人就任儀礼」
        『大宜味村史』(資料編) 

2017年4月15日(土)

 
午前中、積み残しの石敢當やビジュル、グスクの調査で大宜味、大兼久、饒波へ。途中、積み残しの津波の石城嶽?、宮城島の石敢當、根路銘の根路銘御嶽の撮影。饒波のハーバタ(川端)のビジュルを確認、離れの位牌と文書を拝見。文書や位牌などは改めて調査させていただくことに。ありがたいです。


  ▲後方の森が石城嶽か(津波)           ▲石城嶽の合祀された殿(トゥン)中にイベ

 
     ▲根路銘のカニマン嶽               ▲カニマン嶽のイベ

 

 
            ▲大宜味村饒波(川端)の明治以降の文書類一部

⑧【宮城島の石敢當】



⑨【大宜味の石敢當】

  


⑩【大兼久の石敢當】



⑪【饒波の石敢當】




   ▲ビジュル(中央部の石)まつわる話は『大宜味村史シママジマ』所収参照

2017年4月13日(木)

 『琉球由来記』(1713年)の大宜味間切に、以下の城・嶽・森の呼称がある。城嶽とグスクとウタキをまとめる呼ぶ呼称もあり、ウタキであり、またはグスクと呼ばれ、そこには拝所としてのイベがあり、その森を構成する要素をあげてみる必要がありそう。以前グスクなのか、ウタキなのか整理したことがある。グスクともウタキと呼ばれる森がある。共通していることは、その杜が拝所となっていることであった。大宜味村や国頭村のマクや森やグスクと呼ばれる場所を整理してみることで答えがでてきそうである。
  ・小城嶽(城村)
  ・ガナハナ嶽(根謝銘村)
  ・キトカサネ嶽(喜如嘉村)
  ・アザカ嶽(平南村)
  ・テクフ嶽(津波村)
  ・津波城嶽(津波村)
  ・石城嶽(津波村)
  ・オミカサノ嶽(大宜味村)
  ・ヨリアゲ嶽(塩屋村)
  ・底森(田湊村)

  ・ガナノハナ嶽(親田村)
  ・トドロキノ嶽(屋嘉比村)
  ・中城之嶽(見里村)

  


  
▲根謝銘(ウイ)グスク内の大城嶽(イベ) ▲根謝銘(ウイ)グスク内の中城嶽(イベ)   ▲根謝銘(ウイ)グスク遠景

2017年4月12日(水)

 
大宜味村の白浜(渡野喜屋)から塩屋(一部)、屋古、田港、そして大保まで。大きな目的は大宜味村史の「民俗・言語」編の「目次」立てをすることである。それとは別に「石敢當」を手がかりに集落内をくまなく踏査することにある。これまで気づかなかったことの新発見があったり、シマの方に場所を教えてもらったり、話を伺うことができ、キジムナーは大宜味村の村々を駆け巡っている。目次項目に入る、田港のカンジャヤー(鍛冶屋)とビジュル、塩屋のハーミジョウのビジュル、御嶽(ウタキ)などを再度確認することができた。

 集落を踏査しながら、そこから「もくじ」の項目がみえつつある。


③【白浜(渡野喜屋)の石敢當】(一部紹介)

  
  ▲ウイクラニーの石(屋敷への突き当たり)                 ▲屋敷の突き当たり交差点に設置

④【塩屋の石敢當】(一部紹介)

 塩屋大橋沿いの家家は海に向かって石敢當が設置されている。塩屋番所があった集落で路地が多く、そのこともあって路地の突き当たりに「石敢當」が設置されている。

   

⑤【屋古の石敢當(一部紹介)

 集落の三叉路に大字での「石敢當」が目につく。珊瑚石灰岩が積まれた石垣にコンクリートの「石敢當」が、後で、はめこ込まれている。

   

⑥【田港の石敢當(一部紹介)

  

⑦【大保の石敢當】(一部紹介)

 極端に石敢當の設置が少ない集落。

 
       ▲やっと見つけた「石敢當」            ▲門の前に置かれた石(石敢當?)

2017年4月10日(月)

 北山系統の一族とムラ

 業務の流れの打ち合わせ。ちょっと調査しながら出勤。大宜味村の津波と根路銘を通る。大宜味村17ヶ字があり、「石敢當」の分布図を作成してみる。全字を踏査し、分布図を作成してからコメントすることに。

 市販の「石敢當」を設置、石に彫られた「石敢當」や「泰山石敢當」、無刻字の石敢當など。現代社会でも流布している習俗であり、興味深いものが見えてくる。大宜味村の集落内をキジムナーのごとく、さりげなくスーと通り過ぎることをお許しください。

①【大宜味村津波の石敢當】(一部紹介)

  
▲津波集落入り口の家壁       ▲空き屋敷の門に置かれた石       ▲路地突き当たりに張られた「石敢當」

②【大宜味村根路銘の石敢當】
(一部紹介)


▲門の前の「石敢當」   ▲入り口は路地の突き当たり ▲かつては石、並んで現代版「石敢當」 ▲岩そのものが「石敢當」


2017年4月9日(日)

 今週、来週と二家のシーミ-(清明)がある。


2017年4月8日(土)

 一日中、「寡黙庵」の片付け整理。今日で片付くかな?

 島袋源七は大宜味村謝名グスクのウンガミ調査(1924年発行「山原の土俗」)をされ報告されている。近年三度の調査をしてきたが、戦前に比べると簡略化されている。大正頃の調査報告と近年の調査を比較してみる必要がありそう。その必要性を認めながら、そのままにしてきたので「大宜味村史」のメンバーと一緒に現場踏査をしながら整理することに(昨年、現在の状況の調査(謝名城と田嘉里)は済み)。

・根謝銘(ウイ)グスクと集落と村(ムラ)


 根謝銘グスクは大宜味村謝名城にあるグスクである。別名ウイグスクという。ウイグスクの呼称は城(グスク)があるので、区別するための名称であろう。ここで使っている集落は、古琉球の時代のマキ・マキヨ規模の家々の集まりとして捉えている。100軒余の場合もあれば、30軒そこそこの場合もある。それらの集落が、後に行政村(ムラ)として線引きされたと見ている。ウイグスク内に大城嶽と中城嶽があるが、『琉球国由来記』(1713年)にはウイグスクと祭祀(グスクノロ)と密接に関わる根謝銘村と城村は大宜味間切に属している。城村の小城嶽はウイグスクの中城嶽にあたるか(確認必要)

 【大宜味間切】
   ・城村の小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)
   ・城村に城巫火神(按司・惣地頭が関わる)
   ・根謝銘村のガナハナ嶽(神名:シチャラノワカツカサ御イベ)

ただし、同じくウイグスクでの祭祀(屋嘉比ノロ)と関わる御嶽が記されている。屋嘉比ノロ火神は『琉球国由来記』(1713年)当時、国頭間切に属した見里村にある。ウイグスク内の中城嶽は見里村の中城之嶽を指しているのか、ウイグスクの大城嶽を指していると見られるが(確認必要)

 【国頭間切】(1719年に大宜味間切へ)
   ・親田村のガナノハナ嶽(神名:シチャラノワカツカサ)
   ・屋嘉比村のトドロキノ嶽(神名:イベナノツカサ)
   ・見里村の中城之嶽(神名:大ツカサ)
   ・濱村のヨリアゲ森(神名:カナミユアトヤノ御イベ)

  (浜村は屋嘉比村近くから加名良原へ移転、さらに現在地へ)

 これらの村が明治13年にどのくらいの規模であったのか示してみる。世帯数で20世帯余、多い所で40世帯足らずである。近世、あるいは古琉球の時代になると、もっと小規模(マク・マキヨ)であろう。

  ・根謝銘村・・・・・世帯37戸、人口183人(男92人・女91人)
  ・一名代村・・・・・世帯21戸、人口114人(男64人、女50人)
  ・城  村 ・・・・・・世帯21戸、人口118人(男52人、女66人)
  ・親田村・・・・・・・世帯25戸、人口136人(男65人、女71人)
  ・屋嘉比村・・・・・・世帯28戸、人口161人(男82人、女79人)
  ・見里村・・・・・・・世帯27戸、人口166人(男85人、女81人)

 合併した謝名城は城ノロの管轄、そして田嘉里は屋嘉比ノロの管轄である。城ノロ管轄のムラは根謝銘グスク(ウイグスク)の中城(ナカグスク)御嶽(そこはイビだとイビ考えている)に左縄を巡らし、屋嘉比ノロ管轄のムラは同じく根謝銘グスク(ウイグスク)の大城(ウフグスク)御嶽(イビ)に左縄を張り、イビに向かって拝んでいる。本来ウイグスク全体が御嶽であり、それに寄り添うようにあった集落の御嶽であり、大城御嶽や中城御嶽と呼ばれているところはイベに相当する。そう見ていくと、御嶽その中のイベ、そして集落との関係が見えてくる。さらにグスクと集落や村との関わりも(集落移動など含めてのことは別稿で)。『琉球国由来記』(1713年)の頃、親田村・屋嘉比村・見里村は国頭間切である。三つの村が大宜味間切に組みかえされたのは康煕58年(1719)である。
 グスクの上り口にウドゥンニーズ(御殿根所)とトゥンチニーズ(殿内根所)がある。宮城真治の『宮城真治民俗調査ノート』に御殿と殿
地の場所(屋敷地)が記されているが、昭和2年には御殿敷地に火神が祭られている。大宜味村謝名城のウンガミ】(ノロ管轄を含めた村を考えるべき)

 島袋源七氏の『山原の土俗』(大正14年)から大宜味村謝名城のウンガミの流れを詳細に記録されているので参照することに。今では簡略化されているので、ウンガミの全体の流れを押さえる必要あり。根謝銘グスク周辺の謝名城と田嘉里だけでなく、喜如嘉も含めてみるべきである。

  ・毎年旧七月廿日後の亥の日に行われる。
  ・参加者 田嘉里・謝名城・喜如嘉・饒波・大宜味(神人数10人参加)

 [1日目](ウタカビ、又はウングマイ)
     ・大祝女および若祝女はピラモト神を連れて喜如嘉の根神の家へ(白装束で垂神で祈願)
      ハンサガ(神人になる人の就任式:一夜を過ごす)
     ・他の神人は朝グスクの神アシアゲに集まり祈願(朝ヌブイ) 遊びピラモト神(山の神)は神踊りの練習。
 
[2日目](儀式の当日)
  
    ・朝はグスク及び根謝銘の神人は籠を用意して喜如嘉のウングマイの神人を迎えに行く。
    ・神人は駕籠に乗りグスクの祝女殿内へ。むかしは馬や駕籠で。(当時は徒歩で)
    ・祝女殿内に集まった神人はすべて白衣、マンサギ(鉢巻)を頭に結び六尺の弓と矢を持ち、片手に赤い団扇
     持って、太鼓を打ちながら行列して神アシャギに向う。(昔は駕籠に乗ったらしい)  
    ・途中火の神を祭った祠あり(ウドゥンニーズとトゥンチニーズか) 二ヶ所で祈願をして神アシャゲへ。
    ・神アシャギに到着すると神人は各自定められた場所に着席する。
      (祝女を上座に若祝女・年神・ウチ神・ビラモトゥ・遊ビラモトゥなどの神人が(24人)が順に並ぶ。他の神人は庭に
       坐る)
    ・氏子は各字交じってアシャゲ前のクバが茂った拝所の左右に着席し、各自酒肴を供しして氏神をまつる。
    ・アシャギに向って左端に冬瓜で作った猪を据え、右端に槍と弓を立てておく。
    ・祝女は時刻をみはからって祈願を始める。祈願が終わると全部庭に出て定められた場所に着坐する。
    ・喜如嘉でウングマイした神人を上座に迎え、城及び根謝銘の遊びビラモトゥ神は神人の真中に出て神踊り
     をする。

   ・1回目神踊りは遊びビラモトゥ8名が円陣を作り両手を広げ左回りをしながら両手をあげたり下げたり
     
する。
      「ウンークイ、ウンークイ」を唱えながら三回ほど繰り返す。

   ・2回目はその場に円陣を作り一人は太鼓を打ち七名は弓を持って用意をする。
      太鼓がなると同時に七名は弓を持って用意をする。太鼓がなると同時に右上に弓を捧げ右に一歩進み、
      左に捧げて一歩左に寄り、繰り返す。三回まわって終わる。

   ・3回目 その場で衣装をかえる。赤地の神衣装、白衣装、黄色の衣装を来て各自頭にハーブイ(クロツグ)
          を被る。
      右手に弓、左手に矢を持ち、ウムイを唄うと同時に右に回り両手を上下させて舞う。遊びビラモトゥ神の一人が
      音頭ををとり太鼓を鳴らしてそれに和する。三回回りながら踊って終わる。

   ・4回目 縄遊びを行う。その場所で行うが、まず左方に一間程離して棒を立て両方の棒に縄の両端を結び舟の
      形をつくる。三回目と同じ装束で、その中に楕円をつくり、右端に太鼓を打ち三名オモイの音頭取り一人立ち、
      太鼓の鳴るのと同時にオモイを唄い、それに和して扇を振りながら踊る。
    ・踊りが終わると見物中の神女の一人が蜜柑を踊り手の真ん中に撒く。それが終わると猪を取る真似をして飾っ
      てある冬瓜を槍で突きころがす。
         (神アシャギ庭での行事は以上。縄遊びがすむと他の神人は氏子と帰宅)
         氏子は尾花に石を込めて結んだサンを二つづつ神に捧げ、これを持参して家に帰り火神の前に捧げる
         健康と繁昌を祈る。他人に跨がしたら効き目がないので各自大事に持ち帰る。
    ・祝女・若祝女・海の神はアシビビラモトゥ神と道し、途中ウムイを唱え扇を振りながら帰り、途中火の神の祠でも
         同じ歌を唄いながら祝女殿内に帰る。
    ・祝女殿内で歌を唄い踊りをして、再び神アシアゲで祈願をする。
    ・5回目 神アシアゲに帰り祈願をして猪神、酒樽、鼠とをお供にかつがせ、アソビビラモトゥ・祝女・若祝女は
         海の神をお供して(駕籠に乗る)喜如嘉に行き、そこの根屋に集まって再びオモイを唱えて踊る。
    ・歌を済ませると行列して喜如嘉の浜へ。途中にアミガーがあり、そこでも同様なことをする。
    ・6回目 ナガレ喜如嘉の浜へ行列をつづける。お供に持参させた猪・鼠を捧げ、神酒を供して海を拝し、
       また山を拝し
踊りに使ったハーブイと共に海に流す。これを
「流れ」という。
    ・海辺での行事が終わると喜如嘉の根屋に帰って祈願ををし神人は一夜を明かす。当日の儀式の終わりを告げる。
    ・別れ 祭りの翌日に行う。喜如嘉の神アシアゲに遊びビラムトゥと喜如嘉の神人が集まって神酒を捧げて祭りの
        終わりを告げる。オモイを歌って城から来た神人は駕籠で城神アシアゲに帰る。
    ・神人の行事はこれで終わるが、各字の氏子は各々定めの遊び、臼太鼓踊り・村芝居・エイサーなどをする。

 祭祀がグスク(ウタキ)を維持し続けてきている(首里城は政治と祭祀の両面ある)。沖縄のグスクが世界遺産に登録されていく過程で、精神文化を条件の一つとされたのは、そのためである。今帰仁グスクにおける今帰仁ノロ管轄の村(ムラ)や集落(人々)と今帰仁グスク(城内のウタキ:イベ)での祭祀(ムラレベルの祭祀)を丁寧にみていく必要がある。同時に北山監守を務めた今帰仁按司一族の祭祀(クニレベルの祭祀:今帰仁阿応理屋恵)もである。クニとムラレベルの祭祀を整理して議論がなされるべきである(もちろん、重なっている部分もある)。

主な参考文献
 ・『大宜味村史』
 ・『角川地名辞典(沖縄県)』角川書店
 ・『沖縄県の地名』平凡社
 ・『国頭村史』
 ・『国頭村の今昔』
 ・『なきじん研究』(1~16号)
 ・『南島風土記』東恩納寛惇
 ・『沖縄県国頭郡志』
 ・『沖縄の歴史 補遺伝説』
 ・『沖縄の城跡』
 ・『山原の土俗』

 ・宮城真治調査ノート(名護市編さん室)
 ・大宜味村史 



2017年4月7日(金)

 山原で茅葺き屋根をもつ神アサギ(ハサーギ)は、国頭村比地、安田、本部町の具志堅、恩納村恩納、そして今帰仁村崎山の五ヶ所である。『琉球国由来記』(1713年)に、崎山村の御嶽はギネンサ嶽御イベとある。崎山の神アシアゲでの年中祭祀に、以下の祭祀がある。先日、ジニンサウタキのイベを確認。
 ・麦稲穂祭り
 ・麦稲大祭り
 ・年浴
 ・大折目
 ・柴指
 ・柴指次日
 ・芋ナイ折目
 ・大折目次日
それらの祭祀にオエカ人、百姓、掟神、中城巫が参加する。神酒・肴・赤飯、米、蕃署神酒、コバ餅、魚、芋神酒などが供えられる。崎山村の祭祀は中城ノロの管轄である。
 
 崎山は複数の系統の一族で形成され、お宮の中に複数の系統の一族の拝所が合祀されている。



  ▲崎山の茅葺きの神アサギ     ▲諸田殿内・崎山殿内・火の神・掟神殿内が合祀



    ▲名護市屋部の大一門との関わりを示す銘のはいた香炉

2017年4月5日(木)

 以前「山原の御嶽(ウタキ)と村と集落」について以下の章立てで「まとめ」をしたことがあります。、大宜味村については手薄でした。根謝銘(ウイ)のみの報告でした。山原の御嶽と村と集落 今回大宜味村の御嶽の悉皆調査をしてみます。

1.はじめに

 2.山原の御嶽と集落と村

   村(ムラ)・・・近世から明治41年まで使ってきた行政単位。明治41年以降は字(アザ)となる。
           部落や村落と同意味。
   村(ソン)・・・村(ソン)は明治41年に間切から村(ソン)となる。現在の明治41年に今帰仁間切
          から今帰仁村(ナキジンソン)となる。村(ムラ)は今の字(アザ)のこと。
   ムラ・・・・・・・近世以前の村について使っている。行政的な村よりマクやマキヨなどの単位の
          集落の呼び方として使ったり、明治41年以前の村(ムラ)に使う。
   移動村・・・・あるいは村移動や村落移動は近世の行政村を飛び越えて移動した村のこと。
   集落移動・・・同じ行政村の内部で集落部分が移動や分離したりしている場合をさしている。
           (同村内での移動のこと)村(ムラ)成立前のマクやマキヨの単位に相当する。

 3.山原の御嶽の呼称
   ・ウタキ(御嶽)
   ・タキサン(タキヤマ)
   ・ムイ
   ・ウガンジュ
   ・ウガミ
   ・グスク(グシク)
   ・オミヤ(お宮)
   ・神社

 4.山原の御嶽の集落との関係
 5.ウタキ(杜)内に置かれている神アサギ
   ・比地(小玉森)
   ・上運天
   ・平敷など
 6.ウタキ(杜)内に置かれている神アサギ

 7.複数の御嶽(イベ)を持つ村と神人

 8.グスク内に置かれた神アサギ・殿(トゥン)

 9.間切の編成とノロ管轄

 10.御嶽を中心とした村の祭祀
 
 11.グスク内に置かれた神アサギ・殿(トゥン)
   ・根謝銘(ウイ)グスク
   ・羽地(親川)グスク
   ・今帰仁グスク(神アサギ跡)
   ・名護グスク
   ・恩納グスク(城内の殿)
   ・嘉陽グスク(移動)
   ・屋我グスク(移動)



2017年4月5日(水)

 4月に入り、曜日や日にちの感覚を失いつつある。

 先月、崎山の方々とジニンサ川沿いにあるジニンサ御嶽のイビの確認踏査。御嶽のイビとみていい場所を確認。香炉や目印になるのがあればよかったが。ジンニンサ川沿いからウタキへ入るコースをとると、画像の岩場に突き当たる。数多くの御嶽のイベを見てきたが、謝名や諸志、平敷など、御嶽(ウタキ)のイビの原型である。4月の下旬に勉強会をする約束をしてある。山原の数多くの御嶽(ウタキ)のイビの紹介することに。時間をみて、その準備で崎山まで。

 大工しごとは今週いっぱいかかりそうだ。時間をみて下見で崎山まで。レクチャー用の画像でも。



2017年4月1日(土)

 新しい拠点(寡黙庵)からの地域調査の情報を提供。これまで使ってきた資料は箱詰め状態。これまで調査記録として公にしてきたものの整理から。室内の整理がまだ。4月からこれまで対外的にやってきた調査研究の時間を大幅に減らしていくことに。調査と語ることを仕事にしてきたが、これからは寡黙に。 

 さっそく「寡黙庵」の工事へ。
 
 ・伊是名島へ

 ・金武・宜野座の神アサギ

2017年4月2日(日)

 暖かくなり寡黙庵の庭も草木が伸びだしました。百合も大きくなってきました。寡黙に庭の手入れでもしてみますか。そして寡黙庵の改造も。内部の改造まで行き届かず。

  


2017年4月3日(月)

 大工仕事(棚づくり)で足腰が・・・・

 2005年(平成17)4月30日から30日、12年前に喜界島を訪れている。その後、祭祀関係の調査でも訪れている。二度の喜界島であるが、消化不良のまま。10年前の記録を振り返ってみる。再度、訪れてみないと。


喜界島をゆく(平成17年4月30日~5月2日)                  

 4月30日の午後4時半頃、喜界島に入る。天気は曇、時々小雨である。那覇空港から奄美空港経由での喜界島入りである。奄美空港から喜界島へは、乗り継ぎのため三時間ばかり待ち時間がある。奄美の(笠利町:現大島市)を回ろうかと、一瞬よぎったのだが、今回は喜界島に集中することに決める。少し時間があるので、空港近くの奄美パークと田中一村美術館で奄美の感覚をつかむことにした。

 喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。

 琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。

 それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。


【喜界島の野呂(ノロ)】

 『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。

  一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
     ただし村々みき造り候義さしとめ候
   一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
   一 右湾方え野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
     向後差とめ候
   一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候

※ノロの弾圧
  喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシも隠れて、明治に至る。
  赤連の「新山家系図は明治になって不明。

【喜界島の主な出来事】

 ・1441年 大島は琉球に従う。
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
      尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
 ・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
      (間切・大城大屋子の役職)
 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
 ・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
    五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
    (間切のもとに村々がある)

 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
     (豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)


       【喜界島の集落】


 喜界島には源為朝は伊豆大島に流され、1165年に琉球に渡ろうとしたが喜界島の沖合いに流され、船上から島に向かって放った矢がささった所から水が湧きでた場所が「雁股の泉」だという源氏に関わる伝承。そして平家の武将が射場跡だという矢通場がある。また長嶺村には平家森、志戸桶の沖名泊に平家の上陸地などがあり、平家・源氏に関わる伝承を根強く伝えている。それと琉球と関わる伝承も。

 喜界島には「嶺」のつく村名に川嶺・坂嶺・長嶺がある。今帰仁村で大嶺原の小字がある。呼び方としてはプンニである。プンニは大きな骨(嶺)のことである。喜界島の嶺のつく村名は字の通り「嶺」からきた村名であろう。、

 喜界島の歴史を見ていく場合、間切(まきり)である。喜界島には五つの間切があり、間切の村がどうなっているのか。

  ①湾間切・・・・・・・湾・赤連・中里・羽里・山田・城久・川嶺
  ②荒木間切・・・・・荒木・手久津久・上嘉鉄・蒲原・花良治
  ③西目間切・・・・・西目・大朝戸・坂嶺・中熊・先内・中間・伊砂・島中・滝川
  ④東間切・・・・・・・早町・白水・嘉鈍・阿伝・塩道・長嶺
  ⑤志戸桶間切・・・志戸桶・佐手久・小野津・伊実久


1.喜界島(4月30日)(1日目)

 一日目、中里(ナカザト)→荒木(アラキ)→手久津久(テクツク)→上嘉鉄(カミカテツ)→先山(サキヤマ)→蒲原(ウラハラ)→花良治(ケラジ)→蒲生(カモー)→阿伝(アデン)までゆく。まずは、各村々の情報を整理することから。一気に整理しないと、どこのことか混乱を起こしてしまう。


1.中 里(なかざと)(湾間切)

 ナートゥやナーツともいうようで、ナートゥは港のこと。今の集落の西側(西原)に集落があったのが、現在地に移動してきたようである。西原に対して中里の村名になったというが、港近くに移動したことによるナートゥ(港)とも考えられる。明治9年にイギリス船がリーフで座礁し中里村の人達が救助する出来事があった。


       ▲中里公民館                    ▲中里地区公民館


2.荒 木(あらき)(荒木間切)

 1854年8月3日異国船の件の書付を持った久高島の人々で船頭内間ら15人が、くり舟五艘を組んだ飛船で那覇から薩摩藩へ向けて出発。風波が強いため、8月9日から10月10日まで大島で避難し、翌11日喜界島の平木村(荒木村か)に乗り入れ、成り行きを伝え、喜界島から拝借米で飯料や船具などを仕立てて11月2日に出発する(評定所文書9巻)。荒木は琉球と関わる伝承をいくつも持つ村である。

  ・荒木間切の内。間切役所が置かれた
  ・荒木泊は琉球との交通の拠点だった
  ・港の広場のクバは天女が天と地を上り下りした木だという
  ・琉球国から派遣された勝連親方は荒木を拠点として島を統治したという
  ・1466年琉球国王の尚徳王の軍勢が上陸した地
  ・1754年の墓碑に「荒木野呂・・・・俗名泊野呂」がある
  ・1841年蘇州船一艘が中里村と荒木村の境に漂着(琉球に送り届ける)


 集落内に「保食神社」があり、境内に再興の経緯が石碑に記されている。
 
      保食神社の由来
  一六九七年永道嘉(先内の人)が先内 坂嶺 荒木 上嘉鉄に馬頭観音を建立し祀った。これは
  豊作物の神様である 豊受姫命を祭神として毎年の豊作を祈った 明治維新に仏教廃止運動に
  よってその名称を保食神社と改めた 当初はめしぬく(小学校の庭)の地にあったが昭和十九年
  学校敷地拡張のため和早池の地に移転した 神社老朽化のため平成元年九月集落民は勿論
  島外の荒木出身者等から多額の浄財が託され この地に造営し再興したものである
 


       ▲荒木公民館                 ▲保食神社の由来の碑

 
          ▲荒木漁港                       ▲保食神社(荒木)


3.手久津久(てくつく)(荒木間切)
 
 集落の山手に湧泉があり、付近では小規模ながら田芋が栽培されている。かつて稲作が行われていたのであろう。


       ▲手久津久公民館                ▲公民館の前は広場になっている


 ▲手久津久集落の山手で田芋栽培           ▲集落の山手に湧泉がある


4.上嘉鉄(かみかてつ)(荒木間切)

 
    ▲上嘉鉄中地区公民館               ▲プナンデー石


         ▲上嘉鉄の集落          ▲上嘉鉄地区復興センターの前庭




    ▲上嘉鉄地区復興センター


5.先 山(さきやま)(荒木間切)


     ▲先山地区公民館                  ▲先山漁港(現在の様子)


▲先山集落と港


6.浦 原(うらはら)(荒木間切)

 

 


7.花良治(けらじ)(荒木間切)


8.蒲 生(かもう)(荒木間切)


9.阿 伝(あでん)(東間切)

 阿伝には琉球国(首里王府)から発給された「辞令書」がある。この辞令書は伊波普猷の『をなり神の島』(全集五巻:鬼界雑記)で紹介されている。喜界島の東間切の阿伝ノロと首里王府との関わりを示す史料である。そこで伊波は、奄美と琉球国との関わりを以下のようなことを掲げている。
  ・大島が琉球王国の範囲に入ったのは1266年である。
   ・喜界島は二回ほど氾濫を起こし征伐される。
   ・1609年の島津氏の琉球入りで大島諸島は薩摩の直轄となる。
   ・寛永元年島津氏は役人や神職の冠簪衣服階品を琉球から受けることを禁止する。
   ・寛文三年に島津氏は統治上、大島諸島の家譜及び旧記類を取り上げて焼き捨てる。
   ・享保17年役人の金笄朝衣広帯などを着ける琉球風を厳禁する。
   ・琉球的なものを厳禁した中で辞令書は秘蔵している。

【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)

  しよりの御ミ事           首里之御ミ事
   ききやのひかまきりの       喜界の東間切の
   あてんのろは             阿田のろは
      
もとののろのおとゝ             元ののろの妹
   一人ゑくかたるに          一人ゑくか樽に
   たまわり申候            給わり申候
  しよりよりゑくかたるか      首里よりゑくか樽
           方へまいる          方へまいる
  隆慶三年正月五日         隆慶三年正月五日(1569年)

 この辞令書は「喜界島の早町村の阿伝の勇という旧のろくもいの家でもこれを一枚秘蔵している」(伊波普猷全集第五巻)と。太平洋戦争で焼失してしまったという(『喜界町誌』)。阿伝のノロ家は、早町村にあったのか、それとも阿伝村の勇家(現:山野家)なのか。阿伝ノロ家が早町村にあるなら、古琉球の時代の喜界島におけるノロは、複数の村を管轄していたことがわかる。

 

 

 
    ▲日本復帰記念碑(昭和28年)        ▲末吉神社

 

2.喜界島(5月1日)(2日目)

 二日目は、湾・川嶺・城久・嘉鈍・白水・・・の順で回る。丘陵地にある川嶺・城久・島中・大朝戸・西目・滝川などの集落が気になる。沖縄のグスクと近接した集落があるが、喜界島の山手にある集落はグスクとつながるのか。

 

10.湾(わん)(湾間切)

 1765年御用船の出入りを早町のみから湾港も認められる。1767年湾に白嶺神社を創建する。

・坊主前の墓
・仮屋の跡
・御殿の鼻




11 .川 嶺(かわみね)(湾間切)




12.城 久(ぐすく)(湾間切)

 グスクは村名の示す通り、グスクがあった集落の印象がある。現在の集落のあるところは、標高■mの高台にあり、祭りをするハンジャーがある。ハンジャーは崖にあるジャー(湧泉)に因んだ名称か。

 1697年 代官城久村に八幡宮建立する。

 


13.嘉 鈍(かどん)(東間切)

 

 



14.白 水(しらみず)(東間切)

 


15.早 町(そうまち)(東間切)

 明治5年(1872)7月25日、明治政府に対する初の琉球の使者、維新慶賀使節の正使伊江王子らが那覇を出発し7月25日に鹿児島に、9月3日東京に到着する。帰りは10月25日鹿児島に到着するが、那覇に着いたのは翌年の2月5日であった(『那覇市史』)。鹿児島からの帰途、嵐に会い喜界島へ漂着する。早町の東尾昌宅に一ヶ月余逗留する。

・涙石


16.塩 道(しおみち)(東間切)

 1826年塩道村に唐船が漂着する。14人全員生存。翌年、14人を琉球へ送致する。


17.佐手久(さでく)(志戸桶間切)



18.志戸桶(しとおけ)(志戸桶間切)

 1646年に「琉球王の使者として、薩摩へ上る途中、嵐の為乗船が遭難し志戸桶に漂着、そのまま土着して一家をした(319)。1843年5月志戸桶沖(沖名泊)に異国船、29人ほどが上陸する。牛を煮て食べたい様子であったが許可せず、お粥を食べさせた。国はイギリスのようであった(『喜界町誌』310頁)。

【喜界の志戸桶間切の大城大屋子職補任辞令書】
 しよりの御ミ事                 首里の御詔
  きゝやのしとおけまきりの           喜界の志戸桶間切の
  大くすくの大やこは              大城の大屋子は
  ちやくにとみかひきの             謝国富がひきの
  一人さわのおきてに              一人さわの掟に
  たまわり申候                  給わり申候
 しよりよりさわのおきての方へまいる   首里よりさわの掟の方へまいる
 嘉靖三十三年八月二十九日       嘉靖三十三年八月二十九日(1554年)

 1746年志戸桶の喜美治、藩主宗信より褒賞として馬を拝領した。

・沖名泊(ウチニャートマイ)
・七城跡
・平家森
・平家上陸の跡

 



19.小野津(おのつ)(志戸桶間切)

・ムチャ加那
・ウラトミの墓
・雁股の泉






20.神 宮(かみや)(志戸桶間切)




    ▲神宮地区公民館                       ▲神宮漁港


21.前金久(まえがねく)(志戸桶間切)


        ▲前金久公民館

22.伊実久(いさねく)(志戸桶間切)






23 .伊 砂(いさご)(西目間切)

 



24.坂嶺(さかみね)(西目間切)

・うちむすく(グスク? ノロが集まって祭りをした場所(神山)


      ▲ウリガーへの降り道           ▲ウリガーは水が枯れている



25.先 内(さきない)(西目間切)




26.中 間(なかま)(西目間切)


27 .西 目(にしめ)(西目間切)




・西間のろくもめ?

28.大朝戸(おおあさと)(西目間切)

 
・丘陵地にある集落である
 ・西目と隣接してある集落である
 ・公民館の側に豊富な湧泉がある
 ・新山家にノロの祭具が残されている。
 ・琉球国からのノロ叙任辞令書が与えられる。


     ▲大朝戸地区公民館




29.島 中(しまなか)(西目間切)




30 .滝 川(たきがわ)(西目間切)


31.池 治(いけじ)


        ▲住吉神社


32.赤 連(あがれん)(湾間切)

 弘化年間(1844~48年)に北方から異国船の数名が赤連海岸の一里鼻に来たので、牛と水を与えて立ち去らせたという(『喜界町誌』310)。

 赤連の「新山家系図」からノロの任命?
 初代の新山思三郎は東間切塩道村半田に住み、嘉靖14年(1535)に西目の大屋子となり、長峰大屋子となる。


33.山田(やまだ)(湾間切)





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